パラフィンの融点は約60度です。
スランプに陥った物書きは奇行が多いらしい。以前テレビで見かけた著名な脚本家は、締切前になるとベッドと壁の間の狭い空間に自ら嵌り込んで貝のように黙り込んでいるといっていた。特に理由はないという。追い詰められた心持ちがそうさせたのだという。
そういう例を聞いていたから、周は今目の前で冷蔵庫に抱きついている芦屋(親戚・小説家)を見てもそれほど動揺しなかった。ただ対処に困ったのだ。
自分より頭一つ小さい冷蔵庫を抱え込むように腕を回し、天板に顎を載せて虚空を見るともなく見ている。心ここにあらずといった表情は物心のつかない子供のようだった。
いつも通り寝室兼仕事部屋に籠っているものだと思い込んで気持ち静かに訪れ、まずはと向かった台所でこの光景を目にした周は何と声をかけていいかわからない。このまま踵を返して帰るべきかと真剣に悩んでいたところ、見かねたように、けれど全く姿勢を変えない芦屋から声がかかる。
「周、いいよ気にしないで。俺は今こういう時期なんだ、うまく言えないけど。まあ率直にいえばスランプなんだけど。とにかく俺にかまわずのんびりしていきたまえよ」
姿勢の所為で張りのない声と聞いたことのない口調に、周は「はあ」と「はい」の中間ぐらいの奇妙な発音で返事を返した。
「先生、あの」
余談ながら周は芦屋を「先生」と呼ぶ。親戚だが遠縁で、友人とも親とも違う世代の相手を何と呼んだか迷った挙句、作家だからこう呼んだ。閑話休題。
「つ、つまらないものですがケーキを買って参りました」
「へえ、ありがとう。どうしたの」
「いえあの、私が食べたかっただけなんですけど先生も甘いものは好きだって言ってたので」
「それはどうもご丁寧に。じゃあ折角だし炬燵で食べようか」
食器だの何だのは持っていくからどうぞそちらに、とリビングを指し示されて、ぺこりとお辞儀してケーキの箱を手に引き返した。
芦屋の様子を気にしながら踏み入れたリビングは、奇妙だった。暗くはないが電灯の明るさではない。橙色にほの明るい。
炬燵の天板に陶器のキャンドルポットが鎮座し、中で炎が揺れているのが陶器にぽつぽつ空けられた穴から見えた。昼日中に、カーテンも閉めきった部屋でキャンドルに灯火。何の儀式だろうか、とまたも周は立ち尽くし悩んだ。
部屋の入口に立ち、すぐ横手にある電気のスイッチを入れてよいものかさえ躊躇う。 結局、蝋燭による照明の雰囲気に気圧されて、周はケーキの箱を天板に置いてそのまま炬燵布団に滑りこんだ。熱源は赤々としており、暖かい。けれど寒がりの周がそれで頬を緩ませることはなかった。陶器のポットの中、背の低くなった円柱のキャンドルのてっぺんで揺れる炎に魅入られる。
くり抜いたような蝋燭の窪みに、融けた蝋がてらてらしている。
小さな炎に見惚れて十分も平気で過ごしたろうか。ようやく二組の食器を携えて芦屋がやってきた。蝋燭一つで一変する部屋の空気を憚るように静かに食器を置いてから、
「電気つけたい?」
と抑揚のない声で周に問う。周は素直に首を横に振った。芦屋はその応えをわかりきっていたようにもう一度台所へ引き返して行った。
ドリップコーヒーと電気ポットを抱えて戻ってきた芦屋も炬燵に足を入れる。周が皿に移し替えていたケーキを吟味して、じゃあこれと苺のショートケーキを選ぶ。周は残されたクラシックショコラを引き寄せて、目を細めて頂きますと手を合わせた。
ドリップコーヒーに、蒸らしたり回数を分けたりと面倒にお湯を注ぎながら、芦屋は無邪気な心理テストでも出すように聞く。
「周はどんな時に世界が滅んでも構わないと思う?」
コーヒーを待ち切れずにクラシックショコラを口に運んでいた周はフォークを銜えたまま静止した。明るい昼日中のリビングで問われたら間違いなく引くか白けるかとしてしまいそうな質問に、周はようやくこの火が灯された意味を理解した。しばし炎を見つめ、その間に芦屋は周の前にカップを置く。
「……二つ思いつきます」
「一つは?」
「カカオの木が地球から全てなくなってしまったら、そんな世界はもういい、かも」
芦屋は「なるほどね」と真摯に頷いた。チョコレート中毒の女性は案外多い。これがなくて何が楽しみかと世を儚む者が出てもおかしくはない、かもしれない。
「……雑誌の企画でね、そういうテーマが持ち上がったの。世界が滅ぶとか滅ぼしたいとかじゃなくて、滅んでも『構わない』っていうのがミソでしょう。でもこれが不思議なほど思いつかない。面白いと思って受けた仕事なのに」
だからあえてこういうシチュエーションを作るんだけどね。配膳を終えた芦屋の目はほんやりと炎に釘付けされて、周とは一度も視線が合わない。
「……もう一つは?」
二つあると言ったのだからそう問われるのは当然だった。けれど周は目を細めて、弱弱しく微笑むより仕方なかった。カカオより真っ先に思いついたのはそれだったのに。けれど吐露するまでには、まだ言葉にならない。
芦屋には救われたことがある。
周の不登校が始まったのは二年ほど前で、芦屋との再会がなかったら未だに陰湿に不貞腐れていたかもしれない。部屋に閉じこもって、電気をつけることすら後ろめたいから暗い中で膝を抱える。わけのわからない悲しみが体中に満ち満ちて、けれど泣いて訴えることもできない。周は今だから冷静に振り返ることのできる部分があるし、今でも我がことながら理解のできないこともある。
ただ取り巻く世界が恐ろしかった。変わるものなら変わって欲しかった。けれど思い通りにならないから、そう、滅んで『構わない』と思った瞬間も確かにある。神のような視点に立った思い上がりはすぐに掻き消えて、しにたい、にすり替わる。その時の感情に対し、口にして耐えるほど癒えていない傷口がある。だから言えなかった。
出口のない世界から、ゆっくりと誘導して別の場所を与えてくれたのが芦屋だ。泣いて喚きながらの聞き苦しい話も聞いてくれた。そんな単純なことが、そうして心を安らげたことが、立ち直るためにどれほど力になったのか。だから芦屋には救われた。
そのために、そこから感謝や思慕が生まれても不思議ではない。もしか、恋が生まれたとしても。そんなことは、大したことではない。
「……どうして冷蔵庫に抱きついてたんですか?」
ここ最近見た中で最も奇天烈な光景を指して問うと、芦屋はコーヒーを含んで何ということもなさそうに答えた。
「何だろうね。蝋燭つけても大して閃くものがないと、不安で寂しくなるのかも。あれは古くて振動するから、抱けば伝わってくるんだ」
そういう時だったからね。芦屋はショートケーキを口にして呟く。これは有難かった。ありがとうね、と。
いいえ、と平坦な声で返して周は俯く。橙の光に紛れて、やけに顔色の良いことなど悟られまい。胸のあたりにせり上がる淡いものを、控え目に嘆息して逃がす。それでも、疼いている。
もしか恋が生まれたとしても、それより重要なのは芦屋への感謝だった。恩があると言っても過言でない。だから零れるように落ちてきた恋などおまけのようなものだ。それが一番厄介だとしても。