猫は場所に懐く
この頃、うら若い少女(女子高生)が部屋に通ってきている。
その部屋の主が三十路手前の男、しかも引きこもり気味の自由業(小説家)となると、世間様の見方は下世話なものになるかもしれない。けれど芦屋という小説家はもう開き直っている。むしろそれで肩を竦めているのは少女の方だ。
後ろめたく思うだけむしろ冷静だと男は思っている。若さゆえの無分別は身に覚えがあっても、他人のそれを許容できるかはまた別の話だ。そういう意味ではまこと控え目で謙虚な娘で、それが芦屋には好ましかった。
現状が維持されるなら、そう、このまま何事も変わらずに流れていくなら、誰にも弁解する機会はないのだ。けれど芦屋は胸中で誰にともなく繰り返さずにいられなかった。――少女は一回りも年下の遠い親戚である。指一本触れていないからやましいことは何もない。
少女は周といった。彼女が十四の時、芦屋の母の葬儀で初めて会っている。
芦屋の部屋には週二ぐらいの頻度で通ってくる。一年ほどになる。
一年経っても、周が芦屋の部屋ですることは少ない。芦屋の物書きというやくざな職業に気を遣うつもりで、部屋の隅に座り込んでひたすら静けさに努めている。始めは、
「のんびりしてていいよ」
と再三言ってようやく足を崩したくらいなので、借りてきたねこを慣らす気分で見るともなく見守っていた。
夏はお互い冷房を嫌うからやりやすかった。周はフローリングの上で少しでもひんやりとしたところを探した。冬は芦屋の敷いた電気カーペットの上で丸まっていた。ときおり罪のないことにそのまま眠りこんでしまって、目が覚めるとひたすら恐縮している。そんなところが、芦屋の中で周の印象をねこと人間にどうにか二分していた。
そんなことを何度も繰り返したが、周は部屋に馴染んでも、我がものにふるまうことはない。くそがつくほど真面目な少女だった。
雪国の冬の寒さはまさに骨身に染みる。胸のあたりが締めつけられるほど冷え込む日に、それでも周は芦屋の部屋を訪れた。
芦屋は周の来訪に関して、一番始めに「好きな時においで」と言っただけで、迷惑と思うこともなければ取り立てて歓迎することもなかった。ねこは構いすぎたらよくないと、どこかで思っている。
この時期、周はきまって敷かれた電気カーペットの上に座り込み、芦屋が電気を入れるのを待っている。なるべくさりげなくスイッチを入れたあと、じわじわと温まるカーペットの表面を撫でながら、なんともいえず嬉しそうに微笑む周の表情を盗み見るのが習慣になっていた。
「明日は炬燵を出します」
学校の先生口調でそう宣言(何となく仁王立ちで)すると、周は軽く目を見開いて芦屋を見上げる。
「炬燵、あるんですか?」
「実はあるんです、長らく出してなかったけど。あるとどうしても寝てしまうから。でも今年のこの寒さじゃ俺はもうだめだ」
だから炬燵を出しますとなるべく大真面目に言ったら、気を遣われたと思いつつもおかしかったのか、周があいまいに微笑んだ。
初対面は母の葬儀だったが、周が芦屋の部屋に通うきっかけになったのは、学校に行かない周を芦屋が外で見つけたことに始まる。
その時中学生だった周は不登校児だった。教室にいられず授業にも出られないのに、親は娘に欠席などさせたくないから無理やりに朝家を追い出される。それでも学校には行けないからうろうろと彷徨う。日々そうしていたらしい。
芦屋が見つけた時はひどい有様だった。母親の妹の旦那のそのまた兄だか弟だかの娘というくらい馴染みの薄い縁だったが、母の葬儀に来ていたから周の顔は覚えていた。そうでなければ声はかけなかった。
葬式に来てくれたでしょう。その時の喪主です。簡単な自己紹介を済ませて、真っ青な顔を覗き込む。食が細っているのかやつれて見えた。学校に行かない彼女のことを、周囲は理解せず放っときもしないのだろう。その上いやというほど自分を責めているのが見て取れた。自傷の方向へむしろひたむきなのが、それらしい年ごろに思えた。
だから「どうしたの」とも「学校行かないの」とも言えない。どれほど優しく問いかけても、とたんに潰れてしまいそうな気がした。その時の芦屋の判断が、今に続いている。――「うちにおいで」といった。「死んだ両親に誓って何もしないからおいで」と。学校か家かという狭い世界しかないなら、いっそ与えようと。
初めて芦屋の部屋を訪れた周は二時間泣き抜いた。その間にせき込むように芦屋に訴えた。彼女なりに辛かったことや苦しみ。それなのにずっとうまく泣けなかったこと。親ともお互い焦ってしまって何も上手に言葉にできなかったこと。
その内なにもかもおそろしくなってまともに向き合えなくなったこと――理解や相槌を求めない思いの丈をぶちまけたあと、彼女はぐったりと眠った。乾かない傷口から膿を抜くように涙を流して眠るさまは、負傷した傷口をひたすら舐めて、執念深く眠ることで傷を癒すねこのようだった。
芦屋は救おうと思ったわけではない。場所を与えたに過ぎない。けれどその些細なきっかけは、周をいくらか癒したらしい。追い詰められながら思うさま泣くこともできなかったのかと思うと、未だ芦屋の胸にこみあげるものがある。
とにかくそれも何かの縁と思い、「好きな時においで」と言い含めて今に至る。
次の日は運よく晴れたので、数年ぶりに引っ張り出した炬燵布団を日に干した。その間にこたつやぐらを軽く掃除して、熱源が正常かチェックする。とりこんだ布団をやぐらにかぶせて放っておくと、午後には珍しく連日で周が訪れた。
彼女は前日の気兼ねした様子が嘘のように早速足を入れると、日の光をたっぷり蓄えてふくらんだ炬燵布団に顔を埋めながらうっとりと目を細めた。
「あったかい……」
ため息のような声に、ぼんやりと周の様子を眺めていた芦屋は、ふいに視線を逸らせて宙を仰いだ。
……ねこは追えば逃げてゆくから、好きなものを用意しておけばそのうち場所に懐いてくれる。ねこはあくまで場所に懐くのであって人には一向なびかない。けれどそんな事実を後目に、ねこの好きな人々はとろけた顔で盛んに猫なで声を出している。芦屋はそういう人々のことを冷静に眺めていたつもりでいて、実はそうでなかったかもしれないと心中で肝を冷やしていた。周はねこではない、ねこではないが。
(……指一本も触れてません、よ)
また胸中で誰にともなく弁解する。その弁解が、むしろ芦屋の見えざる本音を裏打ちしていることを後ろめたくも自覚していた。いつの日からか。
遠縁であっても親戚である。十二も年下の、未だ女になりきらないただの娘だ。
周は半身をやぐらの下に埋めんばかりに炬燵の虜になっている。彼女の傷はほとんど癒えているが芦屋にはまだ、周はねこも同然なままでかまわない。