第三話 航海中 2
「どうした、波多野。浮かない顔をしてるな」
通路を歩いていると声をかけられた。そこにいたのは伊勢海曹長。普段は砲雷科の一員として任務についているが、みむろ付の立入検査隊をたばねる責任者でもあった。
「あの、お尋ねしますが、こんな場所で、なにをなさっているのでしょうか」
伊勢曹長は、なぜかそこで懸垂をしていた。念のために言っておくが、ここはトレーニングルームではなく艦内の通路だ。曹長がぶら下がっているのは、上の区画に通じている階段の下。そこのむき出しのパイプにぶら下がって、曹長は懸垂をしている。
「見てのとおり、筋トレだ。知っているか? ここ最近、海自隊員の体力低下が問題になっているそうだ」
「自分が聞きたいのはそこではなくて、どうしてそんな場所で、懸垂をしているのかということですが」
みむろには、狭いながらも隊員のためのトレーニングルームが確保されていた。この手のことをするのであれば、あの部屋が適しているはずなのだ。こんな場所で筋トレだなんて、どう考えてもおかしい。
「今、あそこは部下達が使っている。頭の俺がいたら、リラックスしてトレーニングができないだろ?」
この場合の〝部下〟とは砲雷科に所属している隊員のことではなく、立検隊のメンバーのことだ。たしかに、上官がいると勤務時間外でも雑談がしにくい空気になりがちだ。伊勢曹長がトレーニングルームに行かないのは、そんな目下の者たちの気持ちを汲んでのことらしい。
だからと言って、階段下で筋トレをするのはどうなんだって話だが。
「だからって筋トレをそこでしますか、普通。それと曹長は今、夜時間で就寝しているはずの時間では?」
「勤務時間中に、こんなところでこんなことをしていたら、それこそ大問題だろ」
少なくとも〝こんなところで〟〝こんなこと〟は曹長も自覚しているらしい。
「場所については甲板に出たいんだがな。今夜は波が高いから、暗いうちは甲板に出ないでくれと言われた。だからここで筋トレ中というわけだ。艦内あっちこっちで試してみたが、ここの階段の高さがちょうどいいんだ」
「いろんな場所で試したんですか」
「ああ、試してみた。艦長からは、往来の邪魔にならない限り、問題ないと言われているから心配無用だ」
そう言うとニヤリと笑う。
「まさかの艦長公認……」
あの艦長のことだ、伊勢曹長の言い分を聞いて、笑いながら許可を出したんだろうなと想像がついた。本当にここは、あきれるぐらい自由度の高い艦だ。
「それで? 俺のことはともかく、お前が浮かない顔をしているのはどうしてなんだ? もしかして、艦橋でなにかやらかしたのか?」
「いえ、別になにもやらかしていないですよ。……今のところは」
指導教官の山部一尉は、あれこれ細かい指導はせず「技術は俺から盗んで覚えろ」という職人気質な考えを持つ人だった。今は一尉の横でその技術を必死に盗んでいる最中だが、そのうち「お前の目は節穴か」と、怒鳴られる日がくるのではないかと戦々恐々としている。
「だったら、どうしてそんな顔をしている?」
「そんな顔とはどんな顔でしょうか」
「そうだな、しいて言えば……海にいきなり放り込まれた溺者人形みたいな顔」
「どんな顔ですか、それ……」
伊勢曹長は俺の言葉に笑った。だが、ここまで言われるということは、よっぽど俺はひどい顔をしているらしい。
「悩みを解決してやれるかどうかはわからんが、話ぐらいなら筋トレしながらでも聞いてやれるぞ?」
「筋トレをやめて聞くという選択肢は……」
「ない」
キッパリと即答されてしまった。
「ないんですか」
「ああ、ない」
「……」
話をしたら、熱でもあるんじゃないかって笑われるかもしれないな。
だが、一人でずっと抱えこんでいるのも考えものだ。ここは誰かに話して、スッキリしておくべきなのかもしれない。たとえ頭がおかしくなったのかと笑われたとしても。
「……あの、伊勢曹長は海自生活、長いんですよね?」
懸垂で上へ下へと動く伊勢曹長を目で追いながら、思い切って話をすることにした。
「長いと言ってもまだ十年ぐらいだぞ。海自の歴史を知りたいなら、俺より清原先任のほうが詳しいんじゃないか?」
「自分に比べたら、十年だってじゅうぶんに長いですよ」
「それで? 聞きたいことというのは? 俺の隊歴を知りたいわけじゃないんだよな?」
「ああ、そうでした。護衛艦にですね、猫をこっそり飼っていたという話を、聞いたことありますか?」
「は? なにを飼ってるって?」
「猫です」
伊勢曹長は俺の顔を見て、懸垂の手を止める。そして鉄パイプから手を離し、床に飛びおりた。そして少しだけ考える素振りをする。
「昔の船乗りは、航海の守り神として猫を乗せていたという話は聞いたことがある。始まりは、船倉の荷物を食い荒らすネズミ対策だったらしいが」
「それは俺も聞いたことがあります」
「あとは、南極観測船に猫を乗せたとかな。民間の商船がどうかは知らんが、少なくとも今の護衛艦で、そんな話は聞いたことがないな」
「ですよねえ……」
艦内への私物の持ち込みは、厳しく制限されている。そんな状態で猫をつれこめるはずがない。万が一そんなことがあったとして、今の今まで誰も気がつかないわけがないのだ。
「まさか、誰かが猫をつれこんでいるのか?」
「いえ、そうじゃなくて……その、猫を見たような気がしたんですよ」
「誰が?」
「俺が、です。最初は艦橋で足を踏まれて、今日は食堂で朝飯を食ってる時に足を踏まれました。それと、灰色のトラジマの尻尾が見えたような気が……」
あと、人間の靴先も見えたような気がしたが、それは言わないほうが良いような気がしてやめておく。
「つまり、誰かが猫をつれこんだ可能性があるということなんだろ?」
「いえ、その、ちょっと違うんですよ……だいたい艦橋に猫がいたら大騒ぎじゃないですか」
「まあ、たしかに。じゃあなんなんだ」
「ですから、なんて言うか……現われたり消えたりできる猫なんですよ。えっと、透明人間ならぬ透明猫?」
伊勢曹長の手が俺のおでこにあてられた。
「熱なんてないですよ」
「本人が気がつかないまま、高熱を出しているということもある。そのせいで幻覚でも見た可能性を考えた」
当然のことながら、今の俺は熱なんて出していないし、健康体そのものだ。
「俺は健康そのものですよ」
「だが幻覚が見えたんだろ? かなりはっきり」
「それだけじゃないんですよ。足になにかがまとわりつくのを感じたり、ズボンの裾を引っ張られたり。どちらかと言うと、これは俺の幻覚というより怪談のたぐいです。そのカイダンじゃなくて」
曹長が頭の上の階段を見あげたので、思わずツッコミを入れる。
「人の五感は、不可解なことが起きることも多いらしい。たとえば、失くしたはずの腕や足に痛みやかゆみを感じたりな」
「幻肢痛ってやつですよね。でも、それに幻覚も含まれているんでしょうか。俺は、猫なんて今まで飼ったことないですから、見ようがないんですが」
「つまり、この艦に乗りこんでいる誰かに猫が憑いていると?」
「というより艦自体に憑いているんじゃないかと」
あの靴のことを考えると、憑いているのは猫だけではなさそうだが。俺の言葉に、曹長はなんともいえない顔をした。
「自衛隊がらみの怪談はよく耳にするが、艦にとりつく猫の幽霊の話なんて聞いたことないぞ……」
「俺だって初耳ですよ」
曹長はもう一度、俺のおでこに手をあてる。
「ですから熱なんてありませんて」
「だよなあ……」
うなづきながら、今度は自分のおでこに手をあてた。
「俺は曹長の幻覚じゃありませんよ」
「だよなあ……」
+++++
笑われることはなかったが、結局その猫の正体はわからずじまいで、モヤモヤが晴れることはなかった。
モヤモヤを抱えたままその日の業務を終え部屋に戻ると、同室の紀野三曹が部屋から出てきたところだった。三曹はこれから艦橋で航海当直につくことになっている。
「ワッチ、お疲れ様です、先輩」
「おう。波多野もお疲れ。今夜は勉強会は良いのか?」
「さっき終わったところです。何人かが当直に入るので、今日は早めに店じまいしました」
みむろには、俺と同じように訓練中の海士長が何名かいた。部署はそれぞれ違うのだが、一日の終わりに可能な限り集まって、その日のことを全員で話し合い、教官に言われたことなどの情報を共有しているのだ。
今日は早く終わって正直ホッとしていた。というのも、足を踏まれる感覚が頻繁にあって、まったく落ち着けなかったからだ。出航時にくらべると、その踏みかたに遠慮がなくなってきたような気がする。朝飯の時と違って姿は見えなかったが、そのうち引っ掻かれるんじゃないだろうかと半ば本気で心配になっていた。
「お前は早朝からなんだよな、うっかり寝すごすなよ?」
「先輩が帰ってきたら、ベッドを蹴って起こしてくれるんですよね?」
「俺をあてにしてどうするんだよ。さっさと寝てさっさと起きろ。じゃあ行ってくる」
「行ってらっしゃい」
艦橋に向かう三曹を見送ってから部屋に入った。今夜は、少なくとも数時間は一人でゆっくり寝られる日だ。紀野三曹が苦手というわけではなかったが、寝るだけでも、一人ですごす時間ができたのはありがたかった。
「?!」
部屋に入ってから目の前の光景を見て、慌てて外に出る。ドアを閉めてから、自分に落ち着けと言い聞かせた。
「……いま、なにかいたよな」
どう考えても、部屋にいるはずのないものがいた。しかも俺のベッドの上に。
「まさか俺、もう部屋で寝ているとか?」
自分の頬を思いっ切りはたいてみる。もちろん痛い。当然だ、俺は寝てなんていないんだから。念のためにおでこに手をあててみる。もちろん平熱だった。
「ってことは見えたものは現実ってことだ。落ち着け、俺。もしかしたら、枕を見間違えたのかもしれないじゃないか」
……灰色のトラジマ枕なんて一度も見たことないけどな。
深呼吸をすると、覚悟を決めてドアを開けて部屋に入る。
「……いる」
あれはどう考えても枕じゃない。俺が寝るはずの場所に、灰色のトラジマ模様の猫がちんまりとすわり、こっちをジッと見詰めていた。