第十九話 警備犬 2
次の日。勤務時間が始まるよりもかなり早く、艦の前についてしまった。
「なんだよ波多野、出てくるのめちゃくちゃ早くないか?」
桟橋前に立ち尽くしている俺に、舷門当番に立っていた先輩二曹が、笑いながら声をかけてきた。
「そうなんですけどね……なんかゲームもイマイチ盛り上がらなくて。さっさと寝たら早く目が覚めて、グタグタしているのもアレなんで、出てきたんですよ」
「そりゃ珍しいこともあったもんだな。せっかく、のんびりゲームを楽しめる日だったのに」
「ですよねえ……」
ゲームが盛り上がらなかったのもあるが、実のところ、艦内の自分の寝床が気になってしかたがなかったのだ。相波大尉がいてくれるから心配する必要はないとはいえ、相手はあの猫大佐だ。なんとなく毛だらけにされている気がしてならない。
―― 紀野先輩、クシャミ連発してなければ良いんだけどな ――
そして、その猫大佐は先輩二曹の横に座っていた。どうやら〝厄介なモノ〟をつけて帰ってくる隊員がいないかどうか、見張っているらしい。もちろん俺もその監視対象のようだ。
『思っていたより早く戻ってきたな……!!』
―― ん? ――
桟橋の階段をあがろうとしたところで、いきなり大佐の毛が逆立った。よく見れば、尻尾がいつもの倍ぐらいにふくらんでいる。大佐は目を見開いて、俺ではない場所を見つめていた。
―― なんだ? またなにか、厄介なモノでもやってきたのか? ――
猫大佐の視線の先に目を向けた。
「あ……」
そこにいたのは、昨日の夕方に俺に体当たりしてきた警備犬だ。今日は、おとなしくあの三曹とならんで歩いている。だが俺に気がついたのか、いきなり尻尾をブンブンと振りはじめた。
「あ、またかよーー」
壬生三曹があわてた様子でハーネスを引っ張り、ゴローになにか言い聞かせているのがここからでもわかった。
「あいつ、あんな調子で警備犬として大丈夫なのかな……」
『まったく犬ときたら!! おい、犬のにおいをプンプンさせて乗艦することは、吾輩が許さないぞ』
「なに勝手なこと言ってるんだよ。そんなことを言ったら、自宅で犬を飼ってる隊員はどうするんだよ……」
大佐の言い分に小声で反論しながら、乗艦するのはいったんやめて、三曹とゴローがやってくるのを待つことにした。なぜかって? あの様子だと、俺が乗艦してしまったら艦の前で大騒ぎになりそうだからだ。
「お疲れさまです、壬生海曹」
「こんにちは。……えーと、名前、お聞きしていましたっけ?」
いまさらだったが、自分が相手に名乗っていなかったことに気がついた。
「海士長の波多野です」
「ああ、そうでした。こんにちは、波多野さん。今日はちゃんと、ゴローがとびかかる前に我慢させましたよ」
「みたいですね。でも尻尾がすごいことになってますよ」
ゴローを指さす。ゴローは尻尾をちぎれんばかりに振り回していた。
「あれからしばらく基地内を回りましたけど、波多野さんにだけですよ、ゴローがここまで反応するのは」
「そうなんですか? 俺、そんなにうまそうなにおいがしてるのかな……」
猫ならマタタビと言われているが、犬はなんだろう? やはり肉? 自分で自分のにおいをかいでみる。シャワーを浴びた時に使ったボディソープのにおいしかしない。
「犬に好かれる体質ってあるらしいので、それかもしれませんね」
「そうなんですか? 今までこんな反応をした犬なんて、見たことないけど……」
ゴローは俺の顔を見あげ、尻尾を振りながらなにか言いたげな顔をしている。
―― まだ時間あるよな ――
腕時計を見て時間を確認する。あと一時間ぐらいは、ここでうだうだしていても問題なさそうだ。
「あの、今はパトロール中なんですか?」
「いえ。今日は基地内の人達に慣れさせるために、見回りをするコースを連れて歩いているんです」
「なるほど。じゃあ、しばらくここにいても問題ないですか?」
「ええ、まあ」
壬生三曹は俺の質問に首をかしげつつ、うなづいた。俺は三曹の横にいるゴローに視線を向ける。
「……ゴロー海曹、ちょっと運動するか?」
「ワン!!」
ゴローがうれしそうに吠えた。
「え、あの、波多野さん?」
「ゴロー海曹、遊びたそうな顔して俺を見ているので」
「ワン!!」
三曹は少しだけ考えこむ。
「でも、良いんですか? これからが勤務時間ですよね?」
「今日はいつもより早く来てしまっていて、あと一時間ぐらいは乗艦しなくても大丈夫です。こいつ、このままだと艦の前で居座りそうじゃないですか。時間がある今なら、思いっ切り相手をしてやれますし、そうすれば、こいつも気がすむでしょう?」
ゴローは尻尾ふり全開でその気満々といった感じだ。
「でもそんなことをしたら、波多野さんを見るたびに遊んでもらえると、覚えてしまいますから……」
「あー……そっちの危険性もあるのかあ……」
その可能性のことをすっかり失念していた。単純に、遊んでやれば満足するだろうと考えたが、よくよく考えたらまずいことかもしれない。
「ワンッ、ワンワン!!」
いまさら遊ばないなんて認めないぞとばかりに、ゴローが吠えた。
『やかましい、馬鹿犬め』
後ろで大佐の苛立たしげな声がする。
「ゴローもすっかりその気になっていますし、ま、その時はその時ってことで。ここまで広い場所での訓練はしないんですが、お願いできますか?」
ここは護衛艦の係留所。イベントがあれば人でごった返す場所も、平日は俺達以外にうろつく人間はいない。俺とゴローが思いっ切り走っても問題なさそうだ。
「よーし、ゴロー、俺と競争するか? これでも自転車できたえたから、脚力だけは自信があるんだぞ?」
荷物を桟橋にあがる階段に置くと、ゴローの前で膝をついて、その顔をのぞきこんだ。
「ワンッ」
「じゃあ行くぞ。まずは軽くウォーミングアップからな」
「じゃあ、いつもゴローに出している指示で、主だったものを教えておきますね。その指示を出さないと、従わないこともあるので」
「了解です」
三曹から「止まれ」「待て」などの簡単な指示を教わると、俺はゴローと係留所内を走ることにした。
「じゃあ、ゴローはここで待てだぞ。いいか、待てだからな」
軽く並んで走ったところでゴローに指示を出す。ゴローは俺の顔を見てワンッと吠えた。かなり離れた場所に移動すると、ゴローに見えるように指示を出す。
「ゴロー、来い!」
とたんに鉄砲玉のようにダッシュして走ってくる。ものすごい勢いだ。
―― やばい、あのスピードで体当たりされたら俺、引っ繰り返るどころじゃないかもしれないぞ…… ――
昨日の体当たりを思い出し、みがまえた。
だがそこはさすが賢い警備犬、俺に体当たりはせず、近くに来るとスピードを落としグルグルと俺の周りを回り始める。
「遊んでいてもかなりの迫力だよな。不審人物を見つけたらお前、一体どんな感じになるんだ?」
「ワンッ、ワンッ」
まだ走り足りないらしい。
「なあ、壬生海曹とも走り回ってるんだろ? なんでそんなに元気なんだよ、お前」
「ワンッ」
「これでも脚力には自信あるんだけどな!」
ダッシュしてその場を離れる。だがゴローは足が早い。本気を出した警備犬と人間が並んで走るなんて、どう考えても無理な話だった。途中で追い抜かれ、目標にしていた自販機の前でゴローが俺を待つ状態になってしまった。
「俺に勝って鼻高々って顔してるぞ?」
「ワンッ」
「じゃあ、もう一本!」
俺とゴローが係留所で走り回っていると、いつのまにか、艦から俺とゴローの競争を見物するギャラリーが増えていた。相波大尉もニコニコしながら、猫大佐の横で俺達をながめている。猫大佐は……完全に俺達のことを馬鹿にしている顔だ。
「おい、波多野」
しばらくして艦の前に戻ってくると声をかけられた。声がしたほうを見上げると、山部一尉がニタニタしながら甲板に立っている。
「なんでしょうか」
「これ、受け取れ。落とすなよ」
そう言うと、一尉はペットボトルとなぜかドンブリを投げてよこした。いきなり妙なものを投げつけられて、あわてて受け取る。
「なんでドンブリ?」
「その水、お前にじゃないぞ。そこの二等海曹様にだ」
「ああ、ゴローにですか」
たしかにこれだけ走り回ったら、人間でなくても水分補給が必要だ。
「お前は乗艦してから自腹で買え」
「あつかいが警備犬より下になってる……」
ブツブツいいながら、水をドンブリに入れてゴローに持っていく。
「お疲れ様です、ゴロー海曹。うちの航海長からのおごりです」
「ありがとうございます。……ごちそうになります!」
三曹が一尉に向かって頭を下げた。
「ああ、いいのいいの、気にしないで。うちのが遊んでもらった礼だから」
「俺が遊んでもらった……」
やはりどう考えても、俺のほうが格下あつかいされている……。
+++
「今日はありがとうございました。ゴローがこんなに楽しそうにしているの、初めてかもしれません」
「いえいえ、お気になさらず。また連れてきてください。次はもう少し足をきたえておきます」
犬に勝てないのはわかっていても、もう少しいい勝負ができるようになりたい。こうなったら、立検隊の伊勢曹長に弟子入りするしかないかもしれない。
「でも、ちょっと妬けちゃいますね」
「なにがですか?」
「だってゴローってば、ハンドラーの私との訓練より楽しそうなんですから」
「それは、今のがゴローにとって、訓練ではなく遊びだったからですよ」
「こうなったら私も、波多野さんとゴローの追いかけっこに参加できるように、脚力アップのトレーニングをしなきゃですね!」
「えええ?」
三曹は〝よし、がんばるぞ〟という顔をしてみせた。
「そのうち三人で勝負しましょう! 約束ですからね?」
「……わかりました。じゃあ自分も、ゴローに負けないようにトレーニングにはげみます」
そんなわけで、なぜかまたゴローと走り回る約束をしてしまった。
「では私達はこれで!」
「お疲れさまでした」
俺は一人と一匹に敬礼をして見送った。そして階段をあがって桟橋を渡る。先輩二曹がニタニタしながら待っていた。
「波多野海士長、ただいま戻りました。って、あの、なんか変な顔をしてますよ?」」
「なんだよー、カノジョなんていない、ゲーム三昧の日々だって言いながら、いるじゃないかよー、カノジョ」
「カノジョじゃありませんよ。警備隊の三曹で、昨日、知り合ったばかりです。しかも今見たとおりの犬がらみ。副長も知ってることですよ」
航海長の山部一尉については、余計なことを言いそうなので、あえて証人からはずれてもらった。
「そういうことにしておいてやるよ」
「そういうことなんですよ」
着替えるために部屋に向かうと、猫大佐がついてきた。俺の足元で鼻をひくひくさせている。
『お前、におうぞ』
「なんだよ。夏なんだ、汗をかいてもしかたないだろ」
『そうではない。犬のにおいがついている』
「そんなわけないだろ? さわったのは手だけで、今日は昨日みたいに押したおされていないんだから」
『いや、におう』
「においません。大佐が気にしすぎなだけだよ」
部屋に入った。そしてベッドに目をむける。
「あーーーー、やっぱり毛だらけじゃないか!」
『すみません、コロコロペタペタをしてもこの通りでして……』
俺と一緒に部屋にやってきた相波大尉が、申し訳なさそうに笑う。
「これはもうガムテープを手に入れてもらうしかないです、大尉」
『わかりました。次の物資補給の時に、強力粘着のガムテープを買ってきてもらうようにします』
「お願いします」
まったく。油断も隙もないんだからな、うちの猫神様は!!