第3話
夜の闇が満ちている空。そこから雨が相変わらず降り続いている中、それは突然動き出した。
マステイア第一学園。それに隣接する女子寮。
アルテナが使用している部屋の中。
それは雪のような白い毛皮を纏っていた。
それは緑宝石と見違えるような翡翠の瞳を持っていた。
それは小さく四足歩行で、尻尾が生えていた。
それはアルテナが中庭で保護した白猫だった。
「……」
その白猫は部屋中を見渡した。それを他の人が見れば、暗闇の中で二つの緑の球体が並んで浮かんでいると錯覚するような光景に見えるだろう。
机の上にはいくつかの本が立てられている。
窓にはカーテンが掛かっているせいで外の景色は見えないが、外から聞こえる音から未だに雨が降っていると悟った。
白猫はまず意識を失う前の状況を確認することにした。
体は雨に濡れ、泥にまみれ、体もかなり冷えていたはずだ。それが今はなく綺麗な状態を保っている。
次に考えるのは、誰がこれをやったのか。
そう思考を巡らせたとき、部屋の入り口が開いたことで急に部屋の光加減が変わった。
猫がドアの方を見ると、そこには寝巻きと思わしき服装に着替え、水色の短髪で背の低い少女がそこに立っていた。
「あ!よかった。目が覚めたんだね」
少女は猫に向かって安堵の表情をし、部屋に入ってきた。
そのまま猫の前で視線を合わせるように姿勢を落とす。
「驚いたよ。野良猫が学園の中庭で倒れてたんだもの。意識もなかったし、本当に心配したんだからね」
そういいながら少女は白猫の毛を、貴重なものを扱うように丁寧に撫でる。
肌の体温はお湯にでも浸かっていたのか暖かかった。
白猫は思う。少女は優しいのだろうと。
自分が意識を戻したと分かったらこうも安心した表情をし、撫で方も自分を気遣うような、どこか恐れるような、そんな思いが読み取れた。
少女は少々背が小さい、至って普通の人間だった。
ただひとつ、両目で色が違うことを除けばだが。
右目は髪の色と同じ水色だが、左目は紫水晶のような色をしていた。
「でもこれからどうしよっか?この部屋でこっそり飼うっていうのも難しいだろうし、かといって見ないふりして捨てるっていうのも気が引けるしなぁ。明日から二日間は休日だしそこで飼ってくれる人を探してみようかな?」
少女はずっと猫の白毛を撫で続けながら首をかしげ、猫のこれからについて思考を広げていると、
「ちょっとー?少し撫ですぎなんじゃないのー?」
猫は人間と同じ言葉を使った。
「?」
部屋に急に声が響いた。気のせいかな?だって部屋には私しかいないし。そう考えていたとき、
「いやこっちだって。なんでこういう時人間って辺りを見渡すもんかね?君が探してる声の主はこっちだよこっち」
目の前の白猫が今も猫の毛を撫でている私の手を払いのけ、声の主は自分だと主張するように手招きしている。
「……?」
一瞬その事実を理解することが出来なかった。
いやいや、だって私の記憶では猫は喋る生物ではないし、まぁ私もさっきから話しかけてたけれど。これって何?私の夢?夢だったらベッドに寝込むだけで解決するんだからこんなに頭を痛めなくてすむんだけれど。
「異常事態に困惑してるようだね。喋る猫は初めてかい?でも簡単さ。これだけ理解すればいい。猫が、しゃべる。OK?」
あー、うん。もういいや、深く考えないようにしよう。この目の前の異常な現象を納得するのもどうかと思うけど。
私は溜め息をつきながら目の前の猫さんに質問した。
「……あなたは何者?どうして人の言葉を話せるんですか?」
「さあね?元々が人間だからじゃない?」
……さらっと凄いことを言ったよねこの猫さん。いや、ついさっき人間って答えたから「この人」って思った方がいいのかな?分からないけれど。
「えーと?じゃあ、あなたは人間から猫に変わったのはどうしてですか?」
「いやー聞いてくださいよお嬢さん!これには聞くも語るも涙なお話がございましてね!」
そう言って猫さんは二足で立ち上がり、男泣きの真似をしながら身の上話を語り始めた。
長かったから省略するけれど、どうやら悪い魔法使いに呪いをかけられてしまい、人の言葉を話せるようになった猫、の姿をした人間が誕生したらしい。
ちなみに話を聞いても同情心は沸き上がったけど泣くことは出来なかった。だってさっきから不幸話をしているのにどこか明るいというか、おちゃらけてる風に振る舞っているから。
「それにしても自分の体感的に数年間、この国の中をさ迷ってたけれど、こうして暖かい部屋に入ることができて僕は感激だよ!ありがとうお嬢さん!」
「は、はあ」
ぺらぺらと喋り続ける猫さんに私はさっきから圧倒されっぱなしだった。
でもこれからどうすればいいんだろう?
「あなたは……これからどうしたいんですか?」
「すぐに呪いを解きたいって言いたいんだけど、この呪いって術者をぶっ飛ばさないと解けないんだよ。だけどこの状態ってろくに魔力も使えないし、それに術者もそれなりに強いし狡猾だからねえ。……認めたくはないけどさ」
最後の言葉は苦々しい顔で呟いたあと、溜め息をついた。
私は、本当はこの人を助けてあげたいけれど、出来るのかな?こんな矮小な私が。ろくに魔法も使いこなせない私が。
……無理だ。何も出来そうにない。
「ところでさー、僕のことも話したんだからお嬢さんのことも聞かせてほしいなー」
「……私の、ですか?」
「そうだよー。さっきから僕ばっかりしゃべってて不公平じゃん!なんかないの?ズバリ、好きな異性のことで悩んでいるとか!?」
「……何でいきなり恋愛話に変わるんですか?」
「まあ冗談はさておいて。……ずっとショボくれてるから少し、ほんの少ーし気になってね。君さえいいなら話してみてよ」
真剣な表情になったあと、猫さんは笑いかけた。
自然とその優しさに引き寄せられるように私は悩みを打ち明けていた。普段ならこんな、出会って間もない人物に話そうとはしないのに、この人になら話してもいいような気がした。
「私……魔法学園の生徒で」
「うん」
「座学は問題ないんですけど、実技が全然駄目で」
「うんうん」
「この左目の魔眼も、他の人にいい印象を与えられていなくて」
「ふーん」
「あまり、才能がないんじゃないかって。ある人に大丈夫とは言われたんですけど、あまり、その……」
「自信がないとか?」
猫さんの問いに私は頷いた。
確かに学園長は私の才能を保証してくれた。
あの人の言うことは信じられる。
でも、私に関することは、やっぱり信じられそうにない。
「だから、私は……ここにいていいのかなって……」
少し、不安だった。辞めた方がいいなんて返されたらきっと立ち直れなくなってしまうから。
考えている素振りをしている猫さんの言葉を待っていると、
「魔法が上手くなればいいわけでしょ?だったら僕が教えてあげるよ」
返ってきたのはそんな言葉だった。
「……何を?」
「いやさっき君が言ってた、君の悩みの種である魔法をだよ。どう解釈したら別のやつを教えることになるのさ」
私は首をかしげる。
そんな私に猫さんは頬を膨らませた。
「ちょいちょい。僕だってこんなになる前は魔法使いだったんだぞ。その左目が魔眼ってのは見た瞬間察してたし、自分で言うのもなんだけど、それなりに腕には自信があるさ」
「……そうなんですか?」
「ああ!」
猫さんはポンと胸を叩いた。
こんなに胸を張るのだったら、信じていいのかもしれない。
「では、その……、よろしくお願いします」
「うむ任された。僕はレノンだよ。よろしく」
私はベッドの上に立っている猫さん、じゃなくてレノンさんに頭を下げた。
……よく考えたら人が猫に頭を下げるっておかしな状況だと思うのは気のせい?そんな疑問を胸に抱えたまま、私は猫さんに弟子入りすることになりました。
「さてと、君に魔法を教えることになった訳だけどさ。ルールを決めとかない?」
「ルール……ですか?」
「うん。君だって僕が変な魔法の教え方したら嫌でしょ?」
師弟関係が成立したあと、唐突にレノンさんが切り出した。
「別に、そんな事は考えてませんけど」
「おいおい。簡単に人のこと信じてたらいずれ騙されるよ。世の中には腹のなかで悪どいことを考えてる奴なんていっぱいいるんだからさ」
「あなたは、そうなんですか?」
「さあね?まあ誰も信じすぎるなってことを言いたいのだよ僕は」
「は、はぁ」
分かったような分からないような……。
でも、もしリーンさんや学園長先生にいきなり酷いことされたら、ショックということは想像に難くない。
「そこで、契約書を作りたいんだけど」
「契約書、ですか?」
契約書。授業ではまだ習ってはいないのだけれど、確か呪いの魔法の一種だって本で見たことがある。
互いの血を混ぜたもので文字を裏表に書き、両者が契約の内容を確認し、合意の上で紙を破ることで契約が成立する。
でも少し本格的過ぎるというか、大袈裟な気もするんだけど……。
「僕らは出会ったばかりだからね。しっかりしたものを決めといた方がいいかなーって思ったんだけど、どうかな?」
「……分かりました。やりましょう」
「話が早いのは有り難いけどやっぱり君、ちょっと信じやす過ぎるよ?」
「同意しなきゃギクシャクしてしまうじゃないですか……」
文句をいいながら準備を始める。
私は針でお互いの血液を出し、魔道具であるペンに取り込ませた。
この魔道具は取り入れた液体の性質を再現し、インクに変換するという、この国の誰もが使用している優れものだ。用意する液体を少量取り込むことで何分間も使い続けることが可能。
昔はこの魔道具が無かったから、契約の儀式をするのは今よりずっと大変だったんだろうなあ。
「そう言えばさ、君はなんで魔法使いの道を選んだの?」
猫の体ではペンを扱うのが難しいので私が契約書を作っていると、急にレノンさんが私に質問した。
「やっぱりさ、遺跡の探求者になりたいとか?それとも特別な魔道具や魔法薬とか生み出してみたいとか?」
「……そんな大層なものじゃないですよ」
「えー?今時の人たちは魔法の深淵を極めたいーとかっていう人ばかりだと思ってたけど、君は違うの?」
「……旅をしたいんですよ」
私が答えると猫さんはポカンとしていた。
「旅?なんでまた」
「……えっと」
「大丈夫大丈夫。絶対笑わないから」
「その、この『魔女の旅』っていう絵本の魔女みたいになりたいから、です……」
「……っぷ。あははははははははははは!」
「早速笑っているじゃないですか……!」
確かにこの人は正しかった!こんな人を信じた私が馬鹿だった!
「ああっ!ごめん悪かったから、君の夢を侮辱する意味で笑ったんじゃないから!マジで謝るから紙破くのは止しなさい!」
「……どんな意味で言ったんですか?」
「いやーこの国の人たちってみんな頭のお堅いやつばっかりだからさ。君の子供っぽ――ゲフンゲフン、個性的な夢が面白――ゲフンゲフン、意外だったんだよ」
「……」
「ごめんなさい。そんな極寒の眼差しを向けないでください。それよりその『魔女の旅』ってどんなお話なのか教えてほしいなー、なんて……」
ずっと彼に無言の威圧を送っていてもしょうがないので断念し、契約書作りを再開しながらレノンさんにあらすじを説明した。
『魔女の旅』。魔女と呼ばれるようになった女の子の魔法使いが旅を通じて様々な出会いや経験をしていくお伽噺。妖精が魔女に真っ赤な林檎をあげるシーンが私のお気に入りだ。
魔女は世界を旅しながら様々なことを体験していく。
時に騙され、時に人を助けて、人に助けられ、自分の見たことのない景色を見て、自分の知らない常識を知っていく。
最後に魔女はとある地で出会った男性と恋に落ちて、定番の「いつまでも幸せに暮らしました」という締め括りの言葉で物語は幕を下ろす。
「つまり、君は旅を通じて素敵な男性に出会いたいの?」
「……どうしてそっちにいくんですか?」
「だってさ、定番じゃん。この絵本以外にも最終的に二人の男女が結ばれて幸せになるってパターンはよくあるし」
確かに他のお話でもそのようなオチはよくあると思う。けれど……。
「一時期、そういう展開に憧れたことは否定できません。ですが、私の夢の本質は魔法で困ってる人を助けながらいろんなものを見たいってことですよ」
「へえー、いいんじゃない?」
「……笑ってたじゃないですか」
「だから悪かったって。許してよ」
まあ自分も十三歳という年頃になって、そんなお伽噺に影響されているなんて知られたら恥ずかしいとは思っているし、笑うなって強制するのは酷だったかもしれない。もういいや、忘れよう。
「だけど僕は本当にいいと思うよ。夢なんて必ずしも、難しいことを成し遂げるっていうものとは限らないしね」
「……ありがとう、ございます」
レノンさんが夢を応援してくれたことに対しては嬉しさを感じながらも、契約書は完成した。
アルテナ=ルーツ 女
・一ヶ月にひとつ、契約者の言うことを聞くこと。 (ただし無理難題を課すことは出来ない)
・契約者に直接、間接的に危害を加えることを禁ずる。
・嘘をつくことを禁ずる。
・上記に違反した場合、自身の左目を潰すこととする。
レノン 男
・契約者に誠心誠意を持って魔法の指導を行うこと
・契約者に直接、間接的に危害を加えることを禁ずる。
・嘘をつくことを禁ずる。
・上記に違反した場合、永続的に自身の肉体の所有権を契約者に譲渡することとする。
契約書の内容の大部分はレノンさんに決めてもらった。
「いくつか質問したいのですけど、いいですか?」
「なんなりと」
「私の方の、この『一ヶ月にひとつ言うことを聞く』というのは一体何なのでしょうか?」
「ああ、これは僕からの試験みたいなものだよ。何かしら壁にぶつからせることも必要だと思ってね」
「……レノンさんの肉体の所有権を〜というのは?」
「まあ簡単にいうと奴隷だね。契約を反故にした場合、一生君の奴隷になるのさ」
「奴隷って……いいんですか?私のとはリスクが違いすぎるような気がするんですが」
「その辺りは互いが納得してればね。……まあ賭けるものの価値が違いすぎっていうのも契約が失敗するんだけとさ。魔眼ってのは」
質問を終え、ようやく契約を結ぶ段階に移す。
私たちは契約書を私の内容が書かれた面を表にし、挟むようにして座りこんだ。
「汝、アルテナはこの契約に異議はあるか?」
「……ありません」
私は合意の言葉を発す。
すると、私の守る内容が書かれた文字が淡い光を灯す。
次に契約書をひっくり返し、レノンさんの内容が書かれた面を露にした。
「汝、レノンはこの契約に異議はありますか?」
「ないよ」
レノンさんが合意の言葉を示すと、先程と同じように文字が輝きだし、契約書が浮き上がった。
「両者の合意は成された。汝らが法に背かぬことを」
レノンさんがそう言うと同時、私が契約書を裂いた。
契約書は光粒となって私たちの中に吸い込まれて消えた。
「これで契約は完了したよ。もしも契約に背こうとしたら頭痛が起こるから注意してね。質問はある?」
「いえ、今は特に」
「そう。……ところで僕から一つ相談が」
「……何でしょうか」
「しばらくこの部屋に居させて下さらないでしょうか!?」
急に頭を下げてくるレノンさんに驚いた。えっと、何これ?
「いや男が女子寮に住むとかどんなラブコメだよって話なんだけどってそうじゃなくて、問題あるとは分かってるけど外は寒いし寝心地は慣れたけど悪いし、どうか!どうかお慈悲を!」
「それくらい、いいですけど」
「……え?いいの?本当に?」
「はい」
「……君って人は、契約はあるけども……、まあその方が此方としても都合いいけどね。うん、ありがとう」
許可したら何故か溜め息をつかれた。私何か変なこと言った? まあこの寮は動物飼うことは禁止されてるけど、一応人だし致し方ないってことでいいと思ったんだけど……。
「話は終わったし今日はもう遅いから練習は明日からね。それじゃお休みー」
「はい。お休みなさい」
レノンさんは床で丸まって寝息をたてはじめた。今度町へ行って布でも買ってこよう。
私ももう眠い。明日から二日間休日だし、上達出来ればいいんだけど。
考えても仕方ないし、今はもう体を休めよう。
ベッドへ入り、意識を闇に落としていく。
眠る直前に気づいた。窓からは、雨の音はすっかり聞こえなくなっていることを。