亜麻色の髪の乙女2 クメール・ルージュ
亜麻色の髪の乙女第3弾です。
1949年12月。
雪の舞うパリの街を一人の小柄なアジア系の青年が歩いていた。
彼はコートの襟を立て、とても寒そうに歩いていた。
パリの街はクリスマスムード一色だったが、彼はそんなものには目もくれず少し、しかめっ面で歩いていた。
その風貌は決して美男子とは言えなかったが、その目付きの鋭さが彼の意思の強さと頭脳の明晰ぶりを示していた。
「よう、サロット。パリの街は冷えるな」
そんな彼に、一組のカップルが声をかけた。
「まったくだ。カンボジアとはえらい違いだ」
サロットと呼ばれた青年は、声をかけて来たカップルに向かって肩をすくめた。
彼の名はサロット・サル。
カンボジアからパリ大学に留学をしている、いわゆるエリートである。
彼に声をかけて来たのは同じくカンボジアから留学している、イエン・サリと後にその妻となるイエン・シリトである。
彼らはクメール人で、その人口はカンボジアの人口の90%を占めていた。
サロットはイエンを見上げて、相変わらず背が高いなと思った。
イエンは飛び抜けて背が高いという程では無い。
サロットの身長が低すぎたのである。
背が低い。
これは彼の中ではコンプレックスになっていた。
「今日はお前が演説するんだろ?頑張れよ」
そう言うイエンにサロットは、しかめっ面のまま「ああ」と答えた。
サロットは仏領インドシナの農村に、9人兄妹の8番目の息子として生まれた。
彼の両親は9ヘクタールの水田と3ヘクタールの農園、それに6頭の水牛を所有していた。
これはカンボジア全体のレベルから見ると、十分富裕な自作農だった。
幼い頃から利発だった彼はノロドム・シハヌーク高校でその優秀さを認められ、奨学金でパリ大学に留学しているのである。
「お前の演説はなかなかのもんだからな。何かこう人を惹き付ける力を持っている」
イエンは、そう言って笑った。
「よせよ」
サロットはイエンに照れたように答えた。
「今日の演説のお題目はなんだ?」
「原始共産制について話してみようと思ってる」
「そうか。まあ、期待してるぜ」
イエンはサロットの肩を叩いて笑った。
そして、三人は雪の舞うパリの街を足早にパリ大学に向かった。
三人はパリ大学の構内を歩いていた。
クリスマス休暇の為、構内にいる学生の数は少ない。
彼らは小さな教室の前に来ると、そのドアを開けた。
中には彼らと同じようにカンボジアから留学して来た十数名の若者がいた。
彼らはクメール共産主義グループとして、フランス共産党内に作られたクメール語セクションに形成されていた。
サロット達はパリ大学で共産主義に触れ、その理念に深い感銘を受け心酔していた。
イエンは、このグループのリーダー格存在だった。
「こんにちは、サロット。今日は冷えるわね」
教室に入った彼に、亜麻色の髪の少女が話しかけて来た。
「あぁ、ターニャ。僕らには堪えるよ」
サロットがそう言うと、ターニャと呼ばれた亜麻色の髪の少女は微笑んだ。
「そうね。あなた達には大変かもね」
ターニャはパリ大学の学生で、このグループでは唯一のクメール人では無い学生だった。
彼女がこのグループに入りたいと言って来た時には、グループの連中は難色を示した。
クメール人以外の人間は入れたくなかったからである。
しかし、彼女がとても美しい少女であった為、しぶしぶそれを許した。
男などしょせんは単純な生き物なのである。
実際、ターニャは美しい少女だった。
亜麻色の長い髪は、いつも輝くような光沢を放っていた。
顔だちはとても愛くるしかったが、その瞳は理知的な輝きに満ちていた。
サロットは初めてターニャと出会った時の事を今でも忘れられなかった。
初対面の彼に、いきなり話しかけて来たのである。
「あなたがサロット・サルね?私はターニャ。あなたに会いたかったわ」
今まで見た事も無い美しい少女に話しかけられて面食らっているとターニャは続けて言った。
「あなた、自分の背が低い事を気にしてるでしょ?」
初対面の少女に、いきなり自分のコンプレックスの事を言われたサロットは何も言えずに固まってしまった。
「そんな事、気にする事ないわ。あなたはステキよ」
目の前の少女は微笑んだ。
「私、あなたに会えて嬉しいわ。仲良くしましょ?」
その日からサロットにとってターニャは特別な存在になった。
「今日は、サロットの講義から始める」
イエンがそう言うと、その場にいた若者達は椅子に座った。
サロットは少し緊張した面持ちで教壇に立った。
ターニャは「頑張って」と目で合図をしていた。
「えー、それでは今日は原始共産制について話させていただきます。これには中国の毛沢東の思想も加えられています」
原始共産制。
これがサロットが理想としている共産主義の形態である。
マルクスとエンゲルスによって用いられた用語で、私有制が普及する以前の人類の社会体制だ。
そのモデルは人類の初期の狩猟採集社会に見られ、そこには階級支配は無く、富の余剰も作成されない。食料や衣服などの全てが共有される平等主義社会である。
「…以上で原始共産制についての僕の話を終わらせていただきます」
話し終えたサロットに、皆は拍手をした。
やはりサロットの演説には人を惹き付ける何かがある。
ターニャも嬉しそうに拍手していた。
そして隣の席に座ったサロットに話しかけた。
「良かったわよ。やっぱりあなたのお話ってステキね」
「そ、そんな事ないよ」
サロットは未だにターニャと話す時はドキドキしてしまう。
「ね、これが終わったらカフェに行きましょ?」
そう言われてサロットは自分の心臓の鼓動が早くなるのを感じた。
数時間後。
サロットとターニャは大学近くのカフェに来ていた。
ここのカフェオレがターニャのお気に入りで、サロットも何度か彼女とこの店に来ていた。
「するとあなたは毛沢東の文化大革命を全面的に肯定するわけじゃないのね?」
「ああ、思想的には共感できるけどね」
最初は緊張していたサロットも、話が共産主義制の内容になるとしだいに饒舌になっていった。
「どこが共感できないの?」
ターニャはお気に入りのカフェオレを飲みながら言った。
「毛沢東は学者や知識人を監禁して、その多くを処刑した。僕はそのような暴力的行為は好きじゃない」
「ふーん」
ターニャはカフェオレのカップを持ちながら、しばし考え込んでから言った。
「でも、体制を根本から変えるにはある程度の犠牲は仕方ないんじゃないかしら?」
「だからと言って、人を殺していいって事にはならないよ」
サロットはブラックコーヒーをすすりながら言った。
本当は彼もカフェオレを飲みたかったが、カッコつけでブラックを飲んでいた。
それからターニャはまたもしばらく考え込んでから言った。
「あなたは優しいのね。でも全く犠牲を出さずに体制を変えるのは無理だと思うわ。ここのフランス革命だって、レーニン達のロシア革命だっておびただしい血を流して成立したんだから」
「いや、しかし」
サロットの言葉を遮るようにターニャは続けた。
「本当に共産主義国家を作りたいなら犠牲を恐れちゃだめよ。あなたが言ってるのは思想論に過ぎないわ。それじゃ、いつまでたっても改革なんて出来ないわよ」
そう言ってターニャはサロットを見つめた。
その瞳は妖しい光りを放っていた。
その瞳を見つめていたサロットはうつむきながら言った。
「…そうか。そうだな。理想の国家を作るためには、ある程度の犠牲は仕方がない…」
そう呟く彼の目は、わずかながらも狂気を含んでいるかのようだった。
サロットは自分の中に突如として湧いてきた狂気のようなものに面食らっていた。
しばらくの間、二人に沈黙が訪れた。
サロットは我にかえってターニャを見た。
彼女は頬杖をついて窓の外の雪を見ていた。
どこか遥か遠くを見つめるような表情だった。
こんな表情の彼女は初めて見た、そしてやはり美しいと思った。
カフェの客達もターニャの事をひそひそ声で話していた。
「あの亜麻色の髪の娘、よく見かけるけどパリ大学の学生さんかなぁ?」
「いつ見てもキレイだよなぁ」
「ホント、同性のあたしでも見とれちゃうもん」
「あの男、よく一緒にいるけど彼氏?」
「そりゃ、ないっしょ〜。全然釣り合わないじゃん」
そう言って彼らは笑っていた。
最後の一言はサロットを少し傷つけたが、一緒にいる少女が誉められるのは悪い気がしなかった。
大学内でもターニャはよく噂になっていた。
その容姿はもちろん、学業でも極めて優秀な成績を納めていたからである。
教授達も彼女の将来を嘱望していた。
そんな彼女ではあったが、人づきあいが苦手なのか彼氏どころか親しい友人もあまりいないようだった。
そんなターニャが自分にはいつも明るく話しかけてくれる事が、サロットは嬉しかった。
彼女が自分に好意を持ってくれているのは間違いない。
しかし、それが愛情なのかはサロットには判らなかった。
サロットは懇親の勇気を振り絞ってターニャに訪ねた。
「え、ええっと。ターニャ?」
「なに?」
ターニャは窓から自分へと視線を移した。
サロットは顔が赤くなるのを感じながら言葉を続けた。
「そ、そ、その。ク、クリスマスイブは何か予定があるの?」
「クリスマスイブ?」
ターニャは怪訝そうな表情をした。
「教会には行くけれど。特にこれといった予定はないわ」
サロットはもはや顔を真っ赤にして言った。
「き、君さえ良ければ僕と…」
「ごめんなさい」
即答だった。
「あなたには確かに好意は持ってるわ。でもそれは恋愛感情じゃないの。ごめんなさい」
サロットは崩れ落ちるように椅子に座った。
立ち上がっていた事に気づかなかった。
そうか。そうだよな。
自分みたいな背の低い男を女性が好きになる訳がない。
サロットの目に涙が滲んだ。
「勘違いしないで!」
ターニャは身を乗り出してサロットの手を握った。
「あなたはとてもステキな男性よ!ただ私は誰にも恋愛感情は持てないの。ごめんなさい。それでも、あなたの側にいちゃダメかしら?あなたの事を見守っていたいの」
サロットはゆっくりと顔を上げた。
ターニャは涙目だった。
嘘とも慰めとも取れなかった。
それが彼女の本心だと判った。
「…本当に?ずっと僕の側にいて僕の事を見守ってくれるの?」
「ええ!ええ!」
ターニャの目からは涙が溢れていた。
とても嘘をついているようには見えなかった。
「ありがとう!ありがとう、ターニャ!」
サロットもターニャの手を握り返した。
恋愛感情なんか無くてもかまわない。
この少女がいてくれたら自分はなんだって出来る。
サロットは、そう確信していた。
「えへへ」
ターニャは照れたように涙をぬぐった。
「それじゃ、これからもよろしくね?サロット」
「うん、ターニャ」
二人はしっかりと手を握りしめて見つめあった。
窓の外の雪は、いつの間にかやんでいた。
それから2年の月日が流れた。
サロット達の留学期限も終り、帰国の日が近づいていた。
クメール共産主義グループの面々は帰国を前に異常な盛り上りをみせていた。
それは、熱気というより殺気だっていた。
自分達の手で、富裕の格差の無い皆が平等な理想の共産主義国家を作り上げてみせる、という使命感に燃えていた。
その為には武力闘争も辞さず、というのが大多数の意見だった。
サロットは始めはそれに難色を示していたが、今では彼らの意見に同調していた。
あれからターニャとは何回も議論を重ねた。
真の理想国家を作るためには犠牲を恐れてはいけない、と彼女は熱っぽく語った。
そんな彼女の瞳を見ているうちにサロットの考え方も変わっていった。
ターニャの言う通り、大きな改革を成す時にはたくさんの血が流される。
それは過去の歴史が証明している。
ならば、自分の手を血で汚してもやらねばならないのではないか?
最近のサロットは、そんな風に考えていた。
帰国を数日後に控えたある日、サロットはターニャをいつものカフェに誘った。
別れの言葉を言う為に。
「珍しいわね。あなたがカフェオレを頼むなんて」
ターニャはいつものようにカフェオレを飲みながらサロットに尋ねた。
「まぁ、最後くらいはね。君のお気に入りのカフェオレを飲みたかった」
そう言ってサロットはカフェオレを口に運んだ。
それは、とても美味しかった。
「最後って?」
ターニャは不思議そうに言った。
「君も知ってると思うけど僕達の留学期限は終った。僕達は帰国しなければならない。君とは、もう会う事もないと思うけど」
「それなら大丈夫よ」
ターニャは、あっけらかんと言った。
「私も一緒に行くから」
「ええっ!」
サロットはびっくりして立ち上がった。
「君も僕達の国に来るって言うのか!何故?」
明らかに狼狽しているサロットを見上げてターニャは明るく言った。
「言ったでしょ?ずっとあなたの側にいて、あなたを見守るって」
そう言ってカフェオレをすすった。
サロットは混乱していた。
この日の為に考えたカッコイイ別れの言葉がぶっ飛んでいった。
ターニャが僕の国に来る?僕達と一緒に?
まるで予想もしていなかった展開に思考回路が止まり、ただ自分の目の前でニコニコと笑う少女を見つめていた。
しばしの時間が流れた。
サロットはようやく自分の頭の中を整理するとターニャに喋り始めた。
「あのね、ターニャ。僕達の国はまだまだ発展途上でインフラだってろくに整備されていない地域が殆んどだ。とても、このパリのような快適な暮らしは出来ない。大体、まだフランスに支配されている状況で独立国にはなってない」
「それなら大丈夫よ。フランスは近い内にインドシナから手を引くわ。あなただって知ってるでしょ?フランスの影響力は今では殆んど無いに等しいわ。国際世論の風当たりも強くなってるし」
ターニャは涼しげに言った。
「し、しかしそうなったら完全に無秩序状態だ。恐らく内戦が起きる。そんな危険な所に君を連れていけない」
「ご心配なく」
ターニャは事もなげに言った。
「そう思って、かなり前から銃火器の訓練を受けてるのよ?闇のルートで機関銃も手に入れたわ。いざという時には、あなたを守らなくちゃいけないから」
サロットは唖然とした。
機関銃?こんな可憐な少女が?
しかも僕を守るだって?
話しの展開に付いていけなかった。
立ちすくんでいるサロットにターニャは微笑みながら言った。
「とにかく私はもう決めちゃったの。あなたが嫌だって言っても付いて行くわ。もうイエン達とも話をして、クメール共産主義グループに正式に入る事を許可してもらったわ」
「…本当かい?」
「本当よ。これで私はあなた達の同志、仲間よ。」
そう言ってターニャはサロットに手を伸ばして握手を求めてきた。
サロットは少しためらったが、その手を握った。
「きっと後悔するよ。僕達はまだ、ただの学生で何の力も持っていない。理想の国家を作ると言っても、それが実現できるかどうか」
「なんとかなるわよ」
ターニャは明るく言った。
「フランス革命のロベスピエールだって、ロシア革命のレーニンだって、最初から力を持ってた訳じゃないわ。それに私達が志半ばで倒れたとしても、共産主義の芽ぐらいは残せるでしょう。そしたら誰かがその志を継いで、あなたの理想の共産主義国家を作ってくれるかも知れないじゃない」
サロットは苦笑した。
そして、彼女の考え方に感銘を覚えた。
自分は心配ばかりしていた。
国に帰っても何が出来るか判らない。
政情不安で、すぐに殺されてしまうかも知れない。
しかし、今それを考えても仕方が無い。
とにかく行動しなければ。
行動しなければ何も始まらない。
サロットは改めて、ターニャの手を強く握り返した。
「よろしく。同志ターニャ」
そして二人は穏やかに笑った。
3日後、サロット達は船着き場に来ていた。
帰国の船に乗る為である。
船着き場ではターニャが大きな木箱を持ち込んで、載せろ載せないで船の関係者と一悶着おこしていた。
「彼女は何を載せようとしてるんだ?」
仲間の一人がサロットに話しかけて来た。
「機関銃だろう」
サロットがあっさりと答えると仲間はびっくりしたように言った。
「き、機関銃?なんでそんなものを?」
サロットはイエンの姿を見つけたので、その男の問いには答えずイエンの元へ向かった。
「ターニャが僕達のメンバーになる事を許可したんだってな?」
「あ、ああ」
イエンはバツが悪そうに言った。
「いきなり乗り込んで来て自分をメンバーに入れろって言うんだ。もちろん皆は反対したさ。でも彼女の瞳を見たら何も言えなくなってしまって。それで半ば強引にメンバーになってしまったのさ」
「そうか」
サロットはターニャらしいなと、可笑しくなった。
「お前に言わなかったのは、彼女に固く口止めされたからだ」
「わかった、わかった」
サロットは甲板の方に移動した。
船は汽笛を鳴らし出航しようとしていた。
ターニャの機関銃は無事に載せられたようだった。
サロットは自分の運命を変えたフランスの地を感慨深けに眺めていた。
一月後にサロット達は祖国の土を踏んだ。
ターニャの言う通りフランスの影響力はかなり薄れていたが、フランスの統治下である事は間違いなかった。
彼らはメンバーの一人であるラット・サムオンの家を拠点とする事にした。
ラットもイエンと並ぶリーダー格の人物であった。
「えー、それでは我々の名称はカンボジア共産党で良いですか?」
ラットの声に皆は拍手をした。
いよいよ、自分達の理想の共産主義国家を作る第一歩が始まるのだ。
サロットは気分が高揚するのを感じていた。
「あのー、ちょっと良いですか?」
皆の拍手の中でターニャが手を上げた。
「どうぞ」
ターニャが立ち上がった。
「正式名称はそれで良いとして、もう一つ別の愛称のようなものを付けたらどうでしょう?」
愛称?
そんなものを付けて、どうしようと言うのだ?
皆が疑問に思った。
ターニャは続けた。
「ここの国の人達は共産主義についてあまり詳しく知らないと思います。そこで共産党と名乗ってもインパクトに欠けると言うか」
なるほど。
ターニャの言う事も最もだと思った。
この国の人々の大多数は農民で、共産主義を本当に理解しているかどうかは甚だ疑問であった。
しかし、別の愛称と言われても。
皆がざわつき始めたので、ラットは声を張り上げた。
「静粛に!確かに彼女の意見は最もだと思います。誰か良い愛称を思い付いた人はいますか?」
皆は考え込んでしまった。サロットも唸った。
そんな愛称など何も考えつかなった。
沈黙の中、再びターニャが手を上げた。
「よろしいですか?」
「はい。何か良い愛称を思い付きましたか?」
ターニャは軽く咳払いをしながら言った。
「クメール・ルージュというのはどうでしょう?」
また皆がざわついた。
「えっと、ク、クメール・ルージュですか?」
「はい。クメールはこの国の人々。ルージュはフランス語で赤です。共産主義のシンボルカラーは赤色ですから」
しばしの沈黙の中、声が上がった。
「良いんじゃないですか」
「僕もそう思います」
「クメール・ルージュかぁ。ちょっとカッコいいかも」
それからも賛同の声が、あちこちから響いた。
「せ、静粛に!」
ラットが再び声を張り上げた。
「それでは正式名称をカンボジア共産党。愛称クメール・ルージュで決定します」
今度は拍手と歓声が起こった。
クメール・ルージュと連呼している者もいた。
サロットはターニャを振り返って笑顔を見せた。
ターニャも嬉しそうに笑顔を見せた。
実質的に、これからの彼らは主にクメール・ルージュと呼ばれ、公の場以外ではカンボジア共産党という名はあまり用いられなかった。
この日、クメール・ルージュは正式にカンボジアの歴史にその名を記した。
その後、しばらくは地道な活動が続いた。
彼らは村を回り、共産主義の普及に務めた。
それはなかなか困難な作業であったが、彼らの熱心な活動によりクメール・ルージュの名は徐々に浸透して行った。
特にサロットの演説は素晴らしく、普及の大きな力となっていた。
しかし、そんな状況を一変させる出来事が起こった。
1953年にノロドム・シハヌーク国王によってカンボジアが正式に独立国家となったのである。
フランスは完全に撤退した。
シハヌーク政権は共産主義を危険思想とみなし弾圧を始めた。
もちろんクメール・ルージュも例外ではなかった。
彼らは命の危険に晒される事となった。
ある日の夕刻、サロットが演説から帰って来ると仲間達がざわめいていた。
「どうした?何かあったのか?」
「シハヌークの兵隊を見たんだ」
「なんだって?本当か?」
「あぁ、奴らここを包囲してるらしい」
サロットは舌打ちをした。
ついに、この時が来たか。
「イエンとラットはどうした?」
「今、中で協議してる」
サロットは、はっとして言った。
「ターニャは?ターニャは何処にいる?」
「武器の調達に行くと言って、出て行ったままだ」
サロットは歯ぎしりした。
とにかく、イエンとラットと話し合わなければならない。
サロットは重い足取りで家の中に入った。
中では、イエンとラットが沈痛な面持ちで黙り込んでいた。
その周りでは仲間達が浮き足だっていた。
「とにかく早く逃げよう!」
仲間の一人が喚いた。
「そうだ!奴らが攻めて来る前に」
逃げるだと?
いったい何処に逃げると言うんだ?
「シハヌーク兵を見たっていうのは本当か?」
「あぁ、それは確かだ」
イエンが答えた。
「奴らがここを包囲してるっていうのは?」
「それは判らん」
今度はラットが答えた。
「何をしてるんだ!早く逃げよう!」
その男は半狂乱になっていた。
「落ち着け」
サロットは言った。
そして、イエンとラットに向き直った。
「どう思う?」
「ううん。シハヌーク兵を見たのは確からしいが」
イエンが苦い口調で言った。
「しかし、奴らがここを包囲してると言う確証は無い。ここに攻め込むっていうのもな」
ラットがこれも苦い口調で言った。
深い沈黙が辺りを覆った。
「僕はターニャを待つべきだと思う」
サロットが沈黙を破った。
「え?」
「彼女は武器を調達して来ると言ったんだろ?彼女を待つべきだ」
「あんな小娘に何が出来るって言うんだ!」
さっきから半狂乱になっている男チオン・ムンが叫んだ。
「あいつはクメール人じゃない!逃げ出したに決まってる!」
やれやれ。
サロットはチオンに向かって言った。
「お前はパリで真っ先に武装蜂起を提案したじゃないか。これしきでうろたえてどうする?」
「あれはあくまでも思想論だ!今は現実に殺されようとしてるんだぞ!」
サロットは呆れたようにチオンを見た。
しょせんエリートとはこんなものか。
口では偉そうな事を言いながら、実際に自分の身に危険が及べば逃げる事しか考えていない。
「とにかく俺は逃げる!付いて来たいヤツは来い!」
そう言ってチオンは出て行った。
様子を伺っていた二人が後に続いた。
「いいのか?」
サロットはイエンに尋ねた。
「ほおっておけ。まだ正確な状況が判らないうちに逃げ出すような奴はこの先も戦力にはならん」
ラットも頷いていた。
外は夕焼けで赤く染まっていた。
チオン達三人はジャングルの中をさ迷っていた。
何処に行くという当てはなかったが、少しでもアジトから離れなければと思っていた。
「なぁ、ホントにこれで良かったのか?」
一緒に付いて来た男が小声で言った。
「やっばり皆と一緒にいた方が」
「バカ!あそこにいたら確実に殺されるんだぞ」
チオンは苛立って言い返した。
そういうチオンも不安になっていた。
逃げると言っても何処に行けばいいのか判らない。
アジトにしていたラットの家は近くの村からかなり離れた所にあった。
だからこそ、アジトにしたのであったのだが。
チオンは後悔し始めていた。
さっきは恐怖心で冷静な判断力を失っていた。
仮に今を生き延びても三人だけで、これからどうしたら良いのか?
やっばり帰ろうとした時、鋭い声がした。
「止まれ」
シハヌーク兵だった。
「見つけたぞ。クメール・ルージュの連中だ」
その兵の声に答えるように十人ほどのシハヌーク兵が現れた。
最初の兵がチオンの喉元に銃口を押し付けた。
「ひっ!」
「三人だけか?他の連中は何処にいる?」
チオンは何も喋れなかった。
「もしアジトを教えたら」
兵の目が鋭く光った。
「お前らだけは助けてやる」
「ほ、本当ですか?」
「嘘は言わん。助けてやる」
チオン達がアジトに向かって歩き出そうとした時、少女の声が響いた。
「伏せろ!」
ターニャの声だった。
チオン達は咄嗟にその場に伏せた。
ダダダダダッ!
シハヌーク兵三人が血しぶきを上げて倒れた。
ターニャが機関銃を乱射したのだ。
「タ、ターニャ」
起き上がろうとしたチオン達にターニャが再び叫んだ。
「動くな!第二射行く!」
そして機関銃を乱射した。
今度は五人のシハヌーク兵が倒れた。
チオン達は逃げ出そうとした。
「動くなと言っているっ!ここにいる兵は全て掃討する!」
そう叫んだターニャは機関銃を乱射し続けた。
「こいつら人間のクズよ」
夜のアジトにターニャの声が響いた。
その後ろには彼女が調達して来た銃器が山のように積まれていた。
「勝手に逃げ出しておきながら仲間を売ろうだなんて。粛清すべきよ。兵達と一緒に撃ち殺してやれば良かったわ」
たまらずサロットが間に入った。
「まぁ、ターニャ。彼らも冷静な判断力を失っていたんだし」
そう言ったサロットをターニャは睨み付けた。
「何を寝ぼけた事を言ってるの。私の帰りがあと少し遅かったら、ここにいる全員が殺されていたのよ。戦闘は始まったばかりでこれからますます激化するわ。そんな甘い考えで、あなたの理想の国家が本当に作れるの?」
ターニャにそう言われるとサロットは返す言葉がなかった。
「ターニャの言いたい事は判る。しかし、ここは僕の顔に免じて許してやってくれないか」
イエンが口を開いた。
そして、三人に向かって強い口調で言った。
「今回の事は目をつむってやる。しかし、次は無いと思え」
そう告げられた三人はうなだれて部屋を出て行った。
「あんなんで良いの?」
ターニャの問いにラットが答えた。
「我々はまだ弱小勢力だ。頭数だけでもメンバーは欲しい」
ラットの答えにターニャは「ふん」と言って髪をかきあげた。
亜麻色の髪が揺れた。
そしてターニャはじろりと周りを見渡した。
「この中で実際に銃を扱った人は何人いるの?」
手を上げたのはイエンとラットの二人だけだった。
サロットも銃を撃った事はなかった。
ターニャは、やれやれと言った感じでため息をついた。
「理想の国家を作るなんて言っておきながら実戦の事は何も考えてなかったのね。さすがエリートさん達だわ」
すると一人が反論した。
「わ、我々は暴力に訴えるのでは無く、あくまでも平和的に」
「それはきちんと法によって整備された国家でしか通用しないわ」
ターニャはぴしゃりと言った。
「自分の国の現状が判ってるの?まさかカンボジアがパリと一緒だなんて思っていたんじゃないでしょうね?」
反論しようとした男は下を向いてしまった。
ターニャは自分が調達して来た銃器の山から一丁の拳銃を掴むとサロットに握らせた。
「明日から3日間、私が皆さんに銃器の取り扱いの初歩的な事を教えます。その間にここの地理に詳しい方を斥候に出して新しいアジトになりそうな場所を探して下さい。もし、その方が敵に捕らえられたらその場で自決して下さい」
そう言い残すとターニャは部屋を出て行った。
残された一同は、しばらく口が開けなかった。
「ひゅう」
ラットが口笛を吹いた。
「すごいお嬢さんだ。ありゃあ、相当の場数を踏んでるな。それもかなりの修羅場だ」
「ああ、パリにいた時はただの女子学生だと思っていたが。なぁ、サロット。あの娘はいったい何者なんだ?」
サロットはそれには答えず自分の手の中の拳銃を見つめていた。
その拳銃はとても重く感じられた。
3日後の朝、サロットは一人で拳銃を撃っていた。
パンッ!
乾いた音を発した銃弾は的の中央を撃ち抜いた。
パチパチパチ
いきなり拍手の音がして少女の声が聞こえた。
「お見事。さすがね。やっばりあなたはステキだわ。でも、もう実弾は使わないでね」
振り返るとターニャが微笑んでいた。
それは3日前の夜に見た彼女では無く、パリのカフェで一緒にカフェオレを飲んだターニャだった。
「実弾は使うなって?」
サロットの問いにターニャは頷いた。
「ええ。今の腕前ならもう訓練は必要ないわ。実弾は貴重なのよ?手に入れるのはけっこう大変なんだから」
そう言ってターニャは悪戯っぽく笑った。
「問題は実戦ね。あなたに人が撃てるかしら?あなたは優しいから」
「う、撃てるさ」
サロットはちょっと強がって言った。
「それが僕の理想国家の実現の為ならば」
そう言ってサロットは肩をすくめた。
「もっとも今は、生き延びたいという気持ちの方が強いけどね」
そう言ってターニャのまねをして悪戯っぽく笑った。
「ふふっ。そうね」
ターニャは心底おかしいというように笑った。
朝陽が眩しかった。
今日も暑くなりそうだった。
「でも」
ターニャは朝陽を見つめながら言った。
「皆、飲み込みが早くて助かったわ。さすがエリートさん達ね」
「皮肉かい?」
「そうじゃないわ。本当に感心してるのよ。やっばり基本的に賢いのね。私が教えた事をすぐに理解してそれを実践できるんだもの。これで実戦を積めば私達は少数だけどかなり強くなるわよ」
サロットはそんなターニャを見つめながら言った。
「君の教え方がうまいのさ。要点のみを的確に教えてくれる。それに、皆は死にたくないという思いで必死なのさ。この間の夜の君の演説がかなり堪えたみたいだよ」
「いやだ、思い出させないでよ」
そう言ってターニャは恥ずかしそうに舌を出して、アカンベーをした。
サロットは一瞬、自分がパリの街にいるような錯覚にとらわれた。
カフェの待ち合わせ時間に遅れた自分をふざけながら怒っているようなターニャの態度。
あの夜の機関銃を乱射したターニャとはまるで違っている。
ひょっとしたら別人ではないのか?
そんな事を本気で考えてしまう程、今のターニャはごく普通の可憐な少女だった。
「どうしたの?黙りこんじゃって」
ターニャが自分の顔を覗き込んで来た。
サロットは思わず、後ずさってしまった。
危険。
この少女は危険。
サロットの中の動物としての本能が、そう告げていた。
「なーによ?人をオバケみたいに」
ターニャは、膨れっ面をした。
しかし、サロットはターニャに対する警戒心を解くことが出来なかった。
「き、君はいったい何者なんだ?何の目的で」
そう言いかけて、サロットは目を見開いた。
目的。
この少女は何か目的があって、自分に近づいて来たのではないか?
パリに留学していた時から。
そう考えると不自然な事が多すぎた。
何故、ターニャは初対面で自分のコンプレックスを見抜いたのか?
何故、人付き合いをしない彼女が自分だけに明るく話しかけて来たのか?
考える程に疑問が沸き上がって来た。
目の前で微笑んでいる亜麻色の髪の少女が、とてつもなく恐ろしいものに感じられた。
「目的?そうね」
ターニャは微笑みながら近づいて来た。
サロットは動く事が出来なかった。
「それはね」
ターニャはサロットのすぐ目の前まで来ていた。
「あなたが歴史に名を残す人物になるからよ」
そう言ってターニャはサロットに優しく口づけをした。
ターニャの唇は甘くやわらかだった。
「でも、これだけは信じて。これは私の意志じゃない」
サロットは自分の意識が遠くなるのを感じた。
「出来る事なら、あなたが不幸になるのは見たくない。あなたはあなたの意思で自分の未来を変えて」
ターニャの最後の言葉はサロットの耳には届いていなかった。
サロットは気を失っていた。
「サロット!しっかりしてサロット!」
サロットは自分を呼ぶ声で目を覚ました。
ターニャが心配そうな顔で自分を覗き込んでいた。
「タ、ターニャ?」
「大丈夫?自分が誰だか判る?」
なおも心配そうに見つめるターニャを安心させるようにサロットは言った。
「僕は大丈夫だよ。でもいったい何があったんだ?」
「覚えてないの?私と話してて急に倒れたのよ」
あぁ、そうだ。
射撃訓練をしている途中でターニャと話し始めたのだった。
しかし、話し始めてからの記憶が無い。
何かとても重大な事に気づいたような気がするが覚えていない。
「きっと2日間の射撃訓練で疲れていたのね。大丈夫?立てる?」
「ああ、大丈夫だ」
サロットは立ち上がった。自分の唇に何か甘いものを感じたが、それが何かは判らない。
「おおーい!」
そんな二人にイエンが大きな声で駆け寄って来た。
「斥候が帰って来た。新しいアジトになりそうな場所を見つけたそうだ」
「本当か?」
「ああ、今日にでも移動したい。ターニャはすぐに来てくれ。僕達が安全に移動出来るように君の意見が聞きたい。サロットは他の皆に伝えて出発の準備をしてくれ」
「判った」
「判ったわ」
ターニャはイエンと共にアジトに走り出した。
サロットはそんなターニャを見ながら、さっき感じた重大な何かを思い出そうとしたが思い出せなかった。
ただ、唇に残る得体の知れない甘い感触を感じるだけだった。
弾圧下にありながらも、クメール・ルージュはその勢力を拡大して行った。
これには、ターニャの力が大きかった。
新しくクメール・ルージュに加わった人々に適切な戦闘訓練を行い、戦力にして行った。
イエンやラットらと毎日のように作戦会議をして、次々と新しい戦略を提案して行った。
今や、ターニャが戦闘部門の実質的リーダーとなっていた。
彼らは同じく独立国となったベトナムのクメール人民革命党とも連絡を取り、緊密な関係を築いて行った。
それらの外交関係は主にサロットが担当した。
彼の話術と駆け引きの巧みさはクメール・ルージュの勢力拡大に欠かせないものとなっていた。
彼は頻繁にサイゴンを訪れ協議を重ねて行った。
戦闘の中で彼らに捕虜として捕まった敵兵もいた。
敵兵から情報を聞き出すとターニャはその処刑を人を殺した事のない仲間に命じた。
クメール・ルージュはゲリラ活動であったから捕虜を生かしておく余裕はなかったし、人を殺した事のない人々を前線に送り込む事は出来なかったからである。
サロットは初めて人を殺した時の事を未だに忘れる事が出来なかった。
その捕虜は猿ぐつわを嵌められていたが、その目は必死に助けを求めていた。
サロットはどうしても引き金を引く事が出来なかった。
そんなサロットにターニャが囁いた。
「撃ちなさい」
サロットは動けなかった。
「理想の国家を作るんでしょう?殺らなければ殺られるわ。もう後戻りは出来ないのよ」
サロットは震える手で引き金を引いた。
運ばれていく兵士の死体を見ながらターニャが言った。
「あの兵士は死んだんじゃないわ。あなたの国家の礎になったのよ」
サロットの身体の震えは止まらなかった。
「内戦状態の国に理想の国家を作るとは、こういう事よ。覚悟を決めなさい」
「き、君の言った多少の犠牲とはこういう事か?」
「そうよ」
「これが多少の犠牲だって?今まで何人の人間を殺して来たんだ?」
「多少よ」
ターニャの声は冷たかった。
「まだまだこの程度じゃ済まないわ。大体、あなたがこうして生きていられるのも外交活動をしていられるのも誰のおかげだと思ってるの?」
「……」
「私達、戦闘部隊が敵を殺してるからでしょ?それが嫌なら、今すぐ逃げ出しなさい。最も逃げる途中で殺されるでしょうけど」
サロットは何も言えなかった。
「じゃ、私は次の戦闘の指揮をとらなくちゃいけないから」
そう言ってターニャは去って行った。
サロットはその後ろ姿を見つめる事しか出来なかった。
その日の夕刻、サロットはアジトの中で座り込んでいた。
ぼんやりと沈む夕陽を眺めていた。
「どうした、サロット?何をぼけっとしている?」
書類の山を抱えたイエンが通りかかった。
「なぁ」
通り過ぎようとするイエンに話しかけた。
「僕達のやってる事は正しいのかな?」
「何だって?」
イエンは驚いたように立ち止まった。
「いや、だから僕達のやってる事は」
「何を言っている?」
イエンはサロットの隣に座った。
「まぁ、完全に順調とは言えないが我らクメール・ルージュは着実に勢力を拡大している。」
イエンは機嫌良さそうに言った。
「少なくとも10年後にはシハヌーク政権を倒して、僕らクメール・ルージュが政権を握りたいな。そうすれば、僕らの理想国家の実現だ」
イエンは興奮したように言った。
「…理想の国家」
「そうとも!」
イエンはサロットの肩を掴んだ。
「貧富の格差が無い、皆が平等で自由な平和国家。お前の言ってる原始共産制の国家だよ!」
サロットは呟いた。
「今、僕達がやってる殺人は、その為の犠牲か?」
「お前、何を言ってるんだ?」
イエンは驚いたように言った。
「弾圧をしてるのはシハヌークなんだぞ?僕らには自分の身を守る権利がある」
イエンはきっぱりと言った。
「判ってるさ」
サロットは呟いた。
「ターニャにも同じような事を言われたよ」
「ターニャか!あの娘はすばらしい!」
イエンはサロットの肩に置いた手に力を込めた。
「しかし、いつも思うんだが毎回あれだけの武器や弾薬を何処から仕入れて来るんだろうな?」
それはサロットも疑問に思っていた。
「ベトナムか中国かソビエトか。ひょっとしてアメリカか」
しばし考えていたイエンは首を大きく振った。
「いや、そんな事はどうでも良い。武器の調達はターニャに一任してある。へたに詮索しない方が良い。おっと」
イエンは慌てて立ち上がった。
「僕は忙がしいんだ。お前も余計な事は考えずに外交に専念してくれ。これからも僕らの指示通りによろしく頼むぜ」
そう言って足早に走り去って行った。
「…理想の国家か」
一人残されたサロットは、うわごとのように呟いた。
それから数年の月日が流れた。
クメール・ルージュは弾圧を受けながらも着実にその勢力を増していた。
サロットは中国や北朝鮮にも足を運ぶようになっていた。
ターニャも戦闘部門のリーダーとして奔走していた。
カンボジアに来てから10年は経とうとしているのにターニャはパリで会った時とまるで変わっていなかった。
あいかわらず可憐な少女のままだった。
しかし、その事を指摘する者はいなかった。
ターニャは普通の人間ではないと皆、思っていた。
しかし、今、ターニャがいなくなったらクメール・ルージュが崩壊するのは火を見るより明らかだった。
皆は暗黙のうちにターニャに対する詮索をやめていた。
サロットもターニャと話す機会はほとんどなかった。
組織が大きくなった為、二人とも互いの業務で忙がしく一年以上も顔を合わせない事もあった。
それでも、稀に顔を合わせた時にはターニャはとびきりの笑顔でサロットに手を振ってくれた。
サロットは、それだけで満足だった。
しかし、また情勢を一変させる出来事が起こった。
アメリカがカンボジアに介入して来たのである。
すでにベトナム戦争を始めていたアメリカは隣国であるカンボジアが敵対勢力となるのを恐れていた。
1970年。アメリカはロン・ノル将軍を支援してクーデターを起こさせた。
その結果、シハヌークは追放されロン・ノルによる軍事政権が誕生した。
北京に亡命したシハヌークはサロットと接触した。
シハヌークは仇敵であったが、サロットは元国王の支持を取り付ける事でクメール・ルージュの正統性を主張できると考え本部へ連絡をした。
本部では激しい議論が交わされたがターニャの「共闘すべし」の一言で共闘が実現した。
同年、アメリカ大頭領ニクソンはカンボジアへの攻撃を許可しカンボジアへの激しい空爆が始まった。
この空爆によってカンボジア国内では200万人が国内難民となった。
ロン・ノル政権は汚職が蔓延し都市部しか配下に出来なかった為、元国王のシハヌークの人気もあってクメール・ルージュへの加入者は激増した。
ターニャの読み通りだった。
1973年にアメリカがベトナムから撤退すると共にロン・ノル政権は崩壊した。
その結果、カンボジア国民の大多数の支持を得ていたクメール・ルージュの政権掌握は時間の問題となっていた。
そんな、ある日の夜。
サロットは膨大な書類と格闘していた。
満月のきれいな夜だった。
サロットは興奮していた。
本当にクメール・ルージュが政権を掌握しようとしている。
とても信じられなかった。
夢でも見ているような気分だった。
パリ大学でクメール共産主義グループの皆と語り合った理想の共産主義国家がついに自分達の手で実現するのだ。
サロットは書類から目を放すと外の景色を眺めた。
満月に照らされてその景色はとても幻想的に見えた。
サロットは目を閉じた。
これまでの様々な事が脳裏に浮かんで来た。
しかし、真っ先に浮かんで来たのはパリのカフェでターニャと見た雪だった。
自分の中では、あの日からすべてが始まったように思えた。
しばしの静寂があった。
その静寂の中を誰かが近付いて来る気配がした。
イエンか?
サロットがそう思った時、その人影は月の光の中に現れた。
亜麻色の長い髪が月の光に照らされて美しく輝いていた。
「…ターニャ」
ターニャはやさしい微笑みを浮かべていた。
パリのカフェでお気に入りのカフェオレを飲んでいたターニャだった。
「おめでとう。サロット」
とても穏やかな口調だった。
「ついにあなたの夢が実現するのね」
「ありがとう、ターニャ。すべては君のおかげだ」
サロットはターニャに駆け寄ろうとしたが動けなかった。
今のターニャには何者をも近寄らせない力が働いているようだった。
「近いうちにクメール・ルージュが正式に政権党となるでしょう。そして、あなたがそのリーダーとなるのよ」
「え?何を言ってるんだ?イエンかラットがなるのが妥当だろう」
「大丈夫」
ターニャは微笑みながら言った。
「そうなるように私がしたから」
サロットは唖然とした。
僕がリーダー?
それはこの国の最高権力者を意味する。
「…僕が最高権力者?」
「そうよ。あなたは覚えていないはずだけど私は言ったわ。あなたは歴史に名を残す人物になるって」
そう言うとターニャは哀しげな顔になった。
「僕が歴史に名を残す?」
「お願い!歴史を変えて!」
ターニャは叫ぶように言った。
その目には涙が浮かんでいた。
「…歴史を変える?」
サロットには訳が判らなかった。
「判らない。君が何を言っているのか」
ターニャはうつむいていた。
「わかってる。歴史は変えられない。決して」
ターニャはゆっくりとサロットを見つめた。
「でも、あなたは。あなただけは…」
ターニャはふっと小さなため息をついた。
「ごめんなさい。私、ばかな事を言ってるわ。とにかく私がいなくなっても道を踏み外さないで。お願いよ」
「いなくなる?どういう事だ!」
サロットは混乱した。
ターニャがいなくなる?
そんな事は考えた事もなかった。
「どういう意味なんだ?僕の事が嫌いになったのか」
「私には使命がある」
ターニャは静かに言った。
「その使命は終わったわ。そして私は去らねばならない」
「使命ってなんだ!もっと判りやすく説明してくれ」
サロットは焦っていた。
ターニャがいなくなったら自分はどうなってしまうのだろう?
サロットは自分が立っている地面が崩れ落ちる感覚に襲われた。
それほどまでにターニャはサロットにとって絶体不可欠な存在だった。
「風が命じるの」
そして、意を決したようにサロットを見つめた。
「さようなら。あなたに会えて私は幸せだった。これだけは覚えておいてね」
そう言うとターニャは月明かりの中で消えようとしていた。
亜麻色の髪が月明かりに輝き、この世のものとは思えないほど美しかった。
「待ってくれ、ターニャ!君がいなくなったら僕はどうしたらいいんだ!」
ターニャはゆっくりと微笑んだ。
そして、月明かりの中で消えていった。
1975年4月17日。
クメール・ルージュがプノンペンを占領。
国名を民主カンプチアに変更。
サロット・サル、名前をポル・ポトに改名。
1976年5月13日。
ポル・ポトが首相に就任。
ターニャが去った後のポル・ポトは明らかに人格が変わっていた。
ギラギラとしたその目は常に狂気に満ちていた。
彼はまず、大都市の住民、資本家、技術者などから一切の財産と身分を剥奪し、農村に強制移住させ農業に従事させた。
学校、病院も閉鎖した。
銀行も閉鎖し、貨幣制度を廃止した。
それらに従事していた人々も、すべて農村に送り込んだ。
ポル・ポトはこれを「原始共産主義の実現」と称した。
カンボジアの経済は破綻した。
農村に送り込まれた人々は強制労働と飢餓で、そのほとんどが死滅した。
その残虐さから、人々はいつしかクメール・ルージュとは呼ばず、ポル・ポト派と呼ぶようになっていた。
ポル・ポトは自らの政治体制の矛盾を見抜きうる知識階級を恐れて弾圧して処刑した。
眼鏡をかけている者、文字を読もうとした者も、それだけの理由で処刑された。
ポル・ポト派は「腐ったリンゴは箱ごと捨てなくてはならない」をスローガンとしていた。
ポル・ポトは自分に少しでも敵対心をもつ疑いのある者はすべて処刑した。
それはクメール・ルージュ内の人物でも例外ではなかった。
ポル・ポト派はすべての国交を断絶していたので、この大量虐殺は他国に知られる事はなかった。
後の調査でポル・ポト政権下での死者数は300万人と発表された。
1979年。
ベトナム軍の協力を得たカンプチア救国民族統一戦線によってポル・ポト派は失脚した。
ポル・ポトはジャングルに逃れクメール・ルージュの残党らと共に、19年の長きに渡って抵抗活動を続けた。
しかし、1998年に捕らえられ収容所に送られた。
収容所の中でポル・ポトはぼんやりと宙を見つめていた。
自分が処刑されるのは判っていた。
あれだけの罪を犯した自分が処刑されるのは当たり前だと思った。
彼はある人物を待っていた。
かならず来るという確信があった。
彼は待ち続けた。
真夜中すぎにその人物はやって来た。
鉄格子の向こう側に亜麻色の髪の少女が立っていた。
パリで初めて会った時の姿だった。
「おひさしぶりね。サロット」
彼の愛した少女が言った。
「まだ僕の事をサロットと呼んでくれるのかい?ターニャ」
「だって今のあなたはポル・ポトじゃないもの」
ターニャは微笑んだ。
サロットの愛した微笑みだった。
「君はこうなる事が判っていたのかい?パリで初めて会った時から」
「ええ」
ターニャは哀しげな顔になった。
「第二次大戦の後、多数の共産主義国家が誕生したけれどそのほとんどが独裁国家になってしまったわ。産業革命後の人類に真の共産主義国家を作る事はできないのよ。その理念は否定しないけど」
「君は大量虐殺をやらせる為に僕に近づいたのかい?」
ターニャは無言だった。
「…いや。違うな」
サロットは首を振った。
「虐殺を行ったのは僕自身だ。君のせいじゃない」
ターニャは静かにサロットを見つめていた。
「誰も歴史を変える事はできないのよ。あなただけは、って思ったけど」
そう言って、またサロットを見つめた。
「信じてもらえないかも知れないけれど」
サロットは続けた。
「今の僕にはポル・ポトだった頃の記憶がほとんど無いんだ。言い訳に聞こえると思うけど」
「それは今のあなたがサロット・サルだからよ」
ターニャの顔に微笑みが戻っていた。
「自分の理想を信じていたサロットよ」
サロットの顔に笑みが浮かんだ。
「ありがとう、ターニャ。最後に君に会えて良かった。これで思い残す事はない」
そう言ってサロットは目を閉じた。
ずいぶん長い時間がたったように思われた。
「目を開けて、サロット」
ターニャの言葉でサロットは目を開いた。
雪。
雪が降っていた。
二人はパリのカフェにいた。
カフェの中は大勢の客で溢れていた。
「メリークリスマス、サロット。今夜はクリスマスイブよ」
目の前の席に座ったターニャがカフェオレのカップを持ちながら楽しそうに笑った。
クリスマスイブ?
じゃあ、ターニャは自分の誘いを受けてくれたんだ。
サロットはとても幸せな気持ちになった。
「メリークリスマス、ターニャ」
サロットもカフェオレのカップを持った。
そして二人はカフェオレで乾杯した。
「ふふふ」
ターニャも幸せそうだった。
「愛しているよ。ターニャ」
「私も。背の低いあなたが大好きよ」
そう言ってターニャはこれまでで一番美しい微笑みを見せた。
二人はいつまでも見つめあっていた。
パリの街に雪が降り続いていた。
翌日、見廻りの兵士がポル・ポトが死亡しているのを確認した。
それはとても安らかな顔だった。
この作品は小説として書いたものであり、史実と異なる所が多数あります。
この作品はフリー百科事典ウィキペディアを資料として使用させて頂きました。
この作品で僕が書きたかったのは2点です。第1はポルポトは最初から大量虐殺を考えていた殺人鬼では無いと言う事です。彼は人々が平和な暮らしが出来る理想の国家を目指していました。しかし、結果として大量虐殺者になってしまいました。作品内でターニャに語らせているように、今の人類に真の共産主義国家を作る事は不可能なのかもしれません。2点目はポルポトが1998年まで生きていたと言う事実とポルポト派の大量虐殺を知らない人に、この事を知って貰いたいと言う事です。17年前と言えば僕の感覚では遠い過去ではありません。アジアで大量虐殺をした人物が21世紀になる直前まで生きていたのです。ごく普通の青年が大量虐殺者になってしまう。これは本当に恐ろしい事だと思います。この作品を読んでポルポト派に興味を持った方は自分で調べてみて下さい。そして何かを感じてもらえたら作者として、これほど嬉しい事はありません。
読んで頂いて本当にありがとうございました。