3.国主様の不幸せな一日
前々から覚悟はしていたが、怒竜期がやってきた。
予想以上に強い風が、国全土を四六時中吹き抜けていく。
確かに怒れる竜の名の通り、こんな時期に外の作業を進めるは無謀の一言に尽きる。
だからこそ、室内で進めなければならない作業、確認しなければならない事があるのだが。
正直、目の前の書類の山に逃げ出したくなる。
とは言っても、今は抜け出す事が出来ない程切羽詰まっているのは理解している。
…してはいるのだが、ろくに子供と居る時間も取れないのが苛立たしい。
今日も期待に満ち溢れた子供を前に、すまないと云わなければならなかった。
更に危ないから外に出ないように言うと、不機嫌な子供の顔がますます不機嫌になる。
「外に出られなくたって、国主様が忙しくたって、楽しい事はいっぱいあるから平気だもん」
なんて強がりを言っていたが、本当は寂しい思いをしているのは良く分かる。
いつにも増して強い目線で、護衛騎士にしっかり相手をするように厳命しておく。
聡い護衛騎士にはきちんと伝わったらしく、生温い目で頷かれた。
私だって政務がなかったら子供に構ってやっている。
とぼとぼと去っていく子供の背を見送る立場にもなってほしい。
今日の始まりからこれとはやる気も減退するのだが、そもそもの原因を片付けなければ現状は改善されない。
諦めて手を動かす事にする。
それもこれも、この地に長らく住んでいるくせにまともな仕事を何一つしてこなかった馬鹿共の所為だ。
地下水脈図を作っているだけましだと考えるべきなのか。
いや、作っておきながら何もしていないのはただの阿呆だ。
工事費用を見て計画を中止したのだろう事は想像に難くないが。
計画書だって明らかに自分達の息がかかった所に任せて、利益を自分達の懐に入れる事しか考えていない。
皇都の最先端の技術を取り入れるべきなのは門外漢の私でも分かるというのに。
彼奴等の所為で貴重な子供との時間ががりがりと削られているのだ。
いずれこの落とし前はつけてもらわねばなるまい。
納税の時期も近付いているので、まずは不正など出来ないようにしてやろう。
そんな純粋な黒い考えを纏めていると、目の下に隈がある宰相が現れた。
今日は多すぎる書類を運ぶ部下も数人引き連れている。
宰相は普段から人の倍は働いているのだが、今回は三面六臂どころか八面六臂の活躍を繰り広げている。
これが終われば休暇でも取らせてやれないかと頭の片隅で思っておく。
多分、思うだけで終わるだろう。
すまないとは思うが、お互い納得の上での事だ。
宰相が急ぎで持ってきたのは冬厳式と春迎祭の予定だった。
どちらも本来は気候の安定と豊穣を願う儀式だ。
だが、此処では形骸化し、貴族共のどんちゃん騒ぎの口実と化しているようだ。
どちらも大幅に予算を削減し、民の不安を煽らない程度の小規模開催にするように命じておく。
この多忙期が終わり次第、すぐに計画書を作るように関係部署への書面を作り、手渡した。
すぐさま部下の一人が走ったのを尻目に次の報告を受ける。
こまごまと幾つかの検案を片付けた後にどうでも良い報告も聞く。
その中で皇都から皇王主催の茶会への招待状も来ていたので、適当に断っておくように言った。
此処で断って心証を悪くするような陛下では無いし、そんな暇など微塵も無い。
隣国からの見合いの話はそのまま投げ捨てておいた。
一通り片付けた所で、新たに増えたものを確認すると、確認とサイン待ちの書類の山が片付けた倍になって積まれていた。
ちょっと待て、おかしい。
そうは思いつつもざっと確認すると全部必要なものだった。
諦めて再び書類の山に向き合う。
疲れ切った顔で宰相が出ていこうとした所で、呼び止める。
今後の貴族への釘差しの一環と鈍りきった軍を叩き直す為に、軍事演習を行う予定だったがまだ計画書が来ていない。
そう告げると宰相が舌打ちして出ていった。
あわよくば中止させようとしていたな。
反対はしないが、やりたくない場合に宰相がよく使う手だ。
示威にも使えるが、此方の手の内を見せすぎるのもどうかと思っているのだろう。
だが、この辺りの貴族共に手の内を見せた所で、どうにかする才があるとも思えない。
どうにかした所で叩き潰す楽しみが増えるだけだ。
未然に防ぎたい宰相としては、私のその考えに賛同出来ないのだ。
しばらく待つと、嫌々出ていった宰相が完璧な計画書を叩き付けに戻ってきた。
手一杯なのに良く此処まで仕事が出来るなと改めて感心する。
午後からは書類を片付ける合間に治水業者との打ち合わせが入る。
治水担当だけでは信用ならないので、仕方がない。
そう思っていたのに、工事の責任者が来ない。
私の顔が徐々に無表情になるのを見て、工事の補佐が蒼白の表情で飛んでいった。
やがて連れてこられた責任者はやけにむさい男だった。
豪快で普段なら好もしく思えるのだろうが、残念な事に今日の私にそんな余裕は無かった。
「国主様は女みたいに綺麗な顔だなぁ」
と豪放磊落に笑う男、青褪める補佐、苛立つ私、疲労の色濃い宰相、使えない治水担当。
何という言うか最悪の面子だった。
無事に何事もなく纏まったのが不思議でならない。
それに追い打ちをかけたのが護衛騎士の報告だった。
あの熊親父、よりにもよってうちの子供に手を出していただと。
確かに今日の打ち合わせが終われば、後は怒竜期が終わるまでは時間があるだろう。
資材の準備なり計画の確認なりはこの時期一杯までかかる事では無い。
だが、あの遅刻熊と子供が。
すんでの所で薙ぎ払えと言うのを思い留まった。
確かに珍しい来客だし、忙しい私にかわって良く子供と遊んでくれるだろう。
不審者まっしぐらの外見だが、不安な事に子供も懐いていると聞く。
此処で二人を離すのは、子供の私への好感度が下がるだけだ。
嫌々認めてやるしかないが、この苛立ちを護衛騎士にぶつける位、構わないだろう?