2.国主様の無駄に長く思う事には
その日の私は、行き詰まっていた。
周囲の国々との軋轢、貴族院共の腐敗、干魃の救済。
国主様と呼ばれて持ち上げられてはいるものの、やっている事は無理無茶無謀な雑用ばかりだ。
こんな面倒な職を誰かに押し付けて逃げたいが、折角一国の主となったのだ。
流石に欲の皮の突っ張った豚共に好きにさせてやるのも腹立たしい。
誰かに聞かれたら贅沢な悩みだと言われる考えを押しのけ、ついでに書類も押しのけて、私は脱走することにした。
良い案が思い浮かばない時は気分転換をするに限る。
簡単な置き手紙をすると、いつものように着飾った服を脱ぎ捨てて、簡素な衣服に着替えた。
手紙を見付けた宰相がまた苦い顔をしそうだとは思ったが、いつもの事だ。
町に降りた私は民の暮らしを確認していく。
治安は今の所維持できているようだが、先日よりも食料品の高騰は著しい。
早急に対策を打たなければならないが、貴族共との舌戦が待っている事を考えると気が重い。
馴染みの酒場でも聞いてみたが、状況は私の感じたものとそう変わらないらしい。
私の正体を知らない民からの「国主様が何とかしてくれるさ」という純粋な信頼の言葉が突き刺さった。
慕われるのは嬉しいが、なかなか生活を改善することができない身としては重くもある。
いや、だからこそあの魔物の巣窟で奮闘する気力も湧くというものだ。
城へ戻り次第、優先的に進めなければいけない事案を纏めていく。
貴族共の弱みでも握れたら楽に進むのだが。
その内、ストレスで穴が開きそうな胃を宥めつつ、私は大通りを離れて路地裏へ回った。
路地裏は奥に行けば行く程、貧困にあえぐ者と犯罪者達の溜まり場となっている。
警備隊は置いているのだが、カバーしきれていないようだ。
私自身の無力を心に刻む為にも、町に出た時には必ず寄るようにしている。
賑やかな道から一歩脇道へ逸れると、粗末な服に身を包んだ民が目に付く。
物陰からは、こちらの身ぐるみを剥げないかと虎視眈々と狙う視線も感じる。
貧富の差は大きな問題だ。
私の治世の内に改善するのが、大きな目標の一つとなっている。
そんな事を考えていた時、私の目に黒い塊が飛び込んできた。
ぼろぼろの布きれを纏った小さな塊だ。
上下に緩く動いている所を見ると、生き物であるらしい。
さらには、くるるる…と微かな音が聞こえてくる所から、空腹であるらしい。
私が近付くと、塊はびくりと震えた。
どうやら、隙を見て一目散に逃げる気であるらしい。
「ほぅ、面白い」
興味が湧いた。
逃げる隙すら与えずに布きれを摘み上げてみると、痩せ衰えた子供である事が分かった。
手入れをする術もないのだろうか。
傍若無人に伸びた髪から青白い顔が見える。
先程までは逃げる意志があったのに、摘み上げてみると大人しい。
首根っこを摘まれた猫のようだ。
「猫、拾ってやろう」
そう声をかけてやると、子供はにゃーと鳴いた。
本当に猫の真似をするとは。
思わずくすりと笑いが漏れた。
そのまま子供を連れ帰った私は、宰相に脱走と未成年拉致でこっぴどく叱られる羽目になった。
結局、帰宅直後に書類を片付ける事になったが、子供は城で育てる事を了解させた。
子供が孤児である事が宰相を納得させる原因になったようだ。
この男は有能で私には厳しいが、子供好きだ。
了解を貰った所で仕事に取りかかる前に、子供を風呂に放り込んだ。
あまりに暴れるので、最終的には使用人に任せて退散することにした。
本当に猫のような奴だ。
書類の山が一段落する頃に使用人に磨かれた子供がやってきた。
ぼさぼさの髪にはハサミが入れられ、ぼろぼろの衣服は清潔なものへと変わっている。
痩せぎすではあるが、黒い塊だった当初から見ると見違えるようだ。
「綺麗になったな」
そう言って頭を一撫ですると、子供は嬉しそうに笑った。
それから、子供と暮らす日々が始まった。
子供は礼儀作法はなっていないものの、そこまで大騒ぎして困らせるような事はなかった。
むしろ、あの鳴き声以来ほとんど言葉を聞いていない。
追々しっかりと意思疎通を図りたいと考えていたが、その時はあまり気にもしていなかった。
税の免除についての大バトルが始まってしまったので、余裕がなかったのだ。
不在の間に少しでも教養をと思って家庭教師をつけてみたが、子供は座学は苦手のようだった。
子供はいつも授業を逃げ出して、泥だらけになりながら城を探検しているらしい。
教師達は青くなったり赤くなったりしながら探すが、見つからないようだ。
私は諦めて、子供の好きにさせるように命じておいた。
机に縛り付けておこうとするよりはずっと有意義だろう。
しかし、偶に暇が出来た時に絵本でも読んでやれば、その間は大人しく聞いている。
勉強も絵本もそう変わらないと思うのだが、子供の感性はさっぱり分からない。
本ばかり読むというのも飽きるので、時には外で遊んでやる事もした。
鞠の様に跳ねる子供は、ようやく肉が付き始めて可愛らしくなってきた。
子供が増えて面倒も増えたはずだが、いつの間にか日々のストレスを実感する事もなくなっていた。
私と子供の関係は実に良好であった。
そこそこに忙しくも満ち足りた日々を過ごしていたが、ある日不穏な情報が届いた。
先日、ついに税の免除の了承を貴族達からもぎ取る事に成功したのだが、当然それが気に入らない者達がいる。
其奴等の一部が意趣返しに子供を害そうと計画しているらしい。
確かに子供は生まれの身分も低く、仕事もしておらず、私が可愛がっている。
私に嫌がらせをする為だけ、という点においてはこれほど適当な存在もいない。
だが、そう簡単にやらせてやる私ではない。
徹底的に計画に荷担した者達を追いつめる事にした。
あらゆる手を尽くして証拠を集め、人を揃え、罠を仕掛ける。
それからは子供に会う暇もなく、計画の実行に全力を注いだ。
そして、これが天職かと輝かんばかりに暗躍する宰相の力を借り、ついに不埒な輩を一網打尽にする事に成功した。
これも氷山の一角なのだろうが、私と宰相の本気を見せられただけでも良しとする。
今後の悪事への牽制にはなるだろう。
その日は仕事もそこそこに切り上げる事を宰相に許してもらった。
同じ城に暮らしているのに、起きている子供に会うのは久しぶりだ。
最近は子供が起きる前に起き、子供が寝た後に眠りについていたからなおの事。
ひとしきり子供と遊び、共に寝た夜、私は子供がにゃーと鳴くのを夢うつつに聞いた気がした。
起きて現状を把握した時の私の絶望が誰に分かるだろうか?
自らの手で守り抜いたはずなのに、一夜にして子供が消え失せていたのだ。
置き手紙もさらわれた痕跡も何もない。
ただ、子供だけが忽然と消えてしまった。
宰相の怒声もその日ばかりは耳に入らなかった。
捕まえ損ねた者達によって連れ去られたのだろうか。
それとも、元々私が勝手に連れてきたのだから、愛想を尽かして出ていったのだろうか。
幾ら考えても分からなかった。
宰相も捕らえた者達に自ら尋問をしたようだが、何も得られなかったらしい。
最初は気紛れで拾ってきたというのに、随分と気に入ってしまったものだ。
普段は氷の心を持つ宰相も私兵を動かして探しているようだった。
それからの私は、しばらく仕事をするのも辛かった。
もっと時間を取って子供と話をすれば良かった。
よく考えれば、私は子供の名前すら知らない。
後悔先に立たずと言うが、その通りだ。
鬱々と政務を片付ける事、数日。
子供は消えた時と同様に唐突に戻ってきた。
ただし、今度は宰相の私兵に首根っこを掴まれて。
つくづく猫のようなやつだ。
国境を越えようとして追い返されたところで捕まえたらしい。
子供に話を聞いてみると、陰謀を聞いてしまったので逃げ出したとのことだった。
対象に漏らすとは、つくづく面倒事しか増やさない罪人共だ。
もう大丈夫だという事を伝えて、ついでに今度から出ていく前に一言告げるように念押しをする。
子供は分かっているのか、分かっていないのか、よく分からない顔でうなずいた。
非常に不安だが、とりあえず信用しておく事にする。
今後は誰か適当な兵でも付けておこう。
子供の遊び相手も増えるし、次に何かあっても安心だ。
そう頭の隅で考えつつ、腕の中にある子供の体温に安心する。
そして、癒されついでに子供に名前を聞いてみた。
返ってきた答えは「ねこ」。
それは私が面白がって呼んだ呼び名だろう・・・。
どうやら、それ以外の名で呼ばれた事が無いらしい。
今更ながら子供に名前が無い事が判明したのだが、何か良い案は無いだろうか。
折角なら良い名を付けてやりたいと、もう一月は頭を悩ませている。
今日も宰相の怒声が響くが、どうにもこの問題を片付けない事には仕事をする気が起きないのだ。