2.護衛騎士の苦労
俺の目の前を名前のない子供が歩いている。
彼女は国主様に拾われた子供で、名前は彼がつけると息巻いていた。
そして、いまだに決まっていない。
まるで初めて子ができた父親のように悩むのは結構だが、呼びにくいので早くしてほしい。
城の全員が思っているのだが。
こっそり影ではおちびちゃんとかにゃんことか呼んでいるが、いい加減本人や国主様の前で言いそうだ。
あれからこんなに時間がかかるとは、俺の教え方も悪いのかと一瞬考えた。
ある日、国主様に子供の報告をしていた俺は不幸にも机の上の一枚に目を留めてしまった。
それは国主様が乱雑に書き殴った子供の名前の候補だった。
余りの多さに引きつつ、目に入った一つの候補にうっかり口を開いてしまったのだ。
「ハイリって語感は良いですが、こそ泥ちびすけともとれますし、止めた方が良いかと」
その瞬間、勢い良く掴みかかってきた国主様に、あ、やべぇ怒らせた、俺死んだと思った。
実際は俺が勘違いしたように国主様は怒って掴みかかってきたでは無かった。
どうやら国主様は古語についてあまり詳しくないらしい。
確かに、今では神話や地名・人名くらいしか使っていない。
俺の故郷のような山奥に、じいさんばあさん世代に話せる人が数人残っている程度だ。
大きな町なら専門家か知識人しか知らないだろう。
国主様の名前も灰の強い狼で古語ですよねと言ったら、初耳だという。
まぁ、由来なんてあまり気にしないよなぁ。
もしかして、宰相が私的な場で国主様を呼ぶ時のギオも、ただ縮めただけではなく灰狼だと知らないのでは。
そもそも、今は名前も古語じゃなくて、語感で付ける人が多いのだし仕方ないと言えばそうだが。
ちなみに、宰相は明らかに知っている。
俺の名前を聞いた時に、黒馬の名前の通りに馬の如くこき使ってやると宣言された。
そして宣言通りに実行された。
そこまで考えて、国主様は元々生まれが良いのだなと気付いた。
堅苦しくて長い名前なんて、貴族くらいしかつけないだろう。
戦争の功績でこの地を得たという話だったが、やっぱりそう言う待遇をしてもらえるのは血が良いからか。
国主様の気さくさは貴族らしくない気がするが。
そう、国主様が気さくすぎるせいで、何故か古語の教師を頼まれた。
子供の時も思ったが、どうして俺に頼むんだ。
もっと専門的な人とか宰相とか居るだろうが。
俺の知識なんて祖母譲りの適当なものだ。
やんわりとそう言ってみたが、専門家は話がつまらないし、宰相に借りを作るのは恐ろしいと言われた。
どちらももっともだったので、思わず了承してしまった。
それから、報告の後に古語の授業が行われる事になったのだった。
教えている間は順調だったと思うのだが、何か問題があったのか。
まさか、古語に熱中しすぎて忘れているってのはないよな。
「騎士さん?」
いつの間にか足が止まっていたらしい。
子供に声をかけられて気が付いた。
一言謝って、再び子供の後を追う。
これから何処に行くのかと問えば、国主様に持ってもらうと答えが返ってきた。
そろそろ重くなったでしょと言って笑ってみせる。
軍事演習での約束を覚えているらしい。
確かに当初よりは大分血色が良くなり、肉が付いたので同意しておく。
もっとも、国主様が持ち上げられないなんて日が来る事はないだろう。
もしあるとしたら、どんな姿になっているのか。
子供が今の倍の身長で筋骨隆々に育っている姿を想像してしまい、思わず吹き出す。
不思議そうな顔をしている子供に、何でもないと誤魔化した。
日の高さを確認して、執務室に行っても良い時間なのを確かめる。
本来は「行っても良い時間」自体あるのがおかしいのだが、此処では気にするだけ無駄だろう。
いつものように、衛兵に軽く挨拶する。
今は急ぎの用件も入っていないらしく、すみやかに執務室にはいる事ができた。
国主様はこちらに気付いた途端に、眉根を寄せた顔から一転、嬉しそうな顔になる。
一国の主ってのはもっと仏頂面していると思っていたが、この国主様はくるくると表情が変わる。
子供も笑顔で国主様に駆け寄ると、「国主様、抱っこして!」とせがんだ。
そろそろ敬語も教えるべきだろうかと考える。
子供が国主様相手に敬語で話しただしたら、国主様に嘆かれそうなんだがなぁ。
国主様は当然、子供を軽々と抱え上げた。
子供は残念そうな顔をする。
そんな子供に、国主様は特大の一言を放った。
「ようやく、お前の名前が決まったよ」
よく見れば執務室の机の上にあるのは書類ではなく、命名辞典に古語辞典、神話集に貴族名鑑。
仕事しろよ。
寸前まで出かけた言葉をどうにか呑み込んだ。
今は先日までの多忙が一段落ついた状況だ。
偶然書類が片付いた時に、偶然本が手元にあって、偶然名前が決まった時に、偶然子供が訪ねてきた可能性もなくはない。
…いや、明らかにないだろ。
そう思ったが、この場合はどう考えても沈黙は金だった。
子供は「名前?」と首をかしげてフリーズした。
が、すぐに満面の笑みを浮かべる。
あれはどうみても、国主様が名前を考えてくれるという事すら忘れていたな。
本当は凄く楽しみにしていたんだよ、と言いたげな顔をしてみせるのが健気だ。
国主様はそんな子供の態度に気付いたのか気付いていないのか。
とにかく、「お前の名前はサウルエーレだ」と言った。
青い優しい猫。
何とも貴族らしい長い名前だ。
国主様は机の上の神話の本をめくる。
そこには灰色の狼と、狼にくわえられている青い猫が描かれていた。
どうやら、国主様の地元の神話のようだ。
灰氷狼の息子の灰狼が、迷い込んだ青水猫の子の青猫を拾い育てたという話らしい。
国主様は、最後が二匹はいつまでも仲良く暮らしました、となっているのがいたくお気に召したようだ。
よく、こんな話を探し出してきたな。
国主様もそうだが、本を用意した宰相にも感心する。
長々と話したせいか子供が理解しきれていないようなのが哀れだが。
子供は「…僕の名前なんだっけ?」と困ったように呟いた。
そりゃ、沢山聞き慣れない言葉が出ればそうなるよな。
国主様は動じずに、覚えるまでは青猫を使えば良いと返した。
国主様も小さい頃は皆にそう呼ばれたし、今も仲の良い人にはそう呼んでもらっているらしい。
そして、覚えるまでは城の皆にもそう呼んでもらうようにお願いしておくと言った。
言った後に俺の方に目配せをしたので、周知させるのは俺の役目らしい。
神妙そうな顔をしてうなずいておいた。
それにしても、国主様と宰相は仲の良い括りだったのか。
二人の出会いとかは知らないし興味もないが、普段を見ている限りではあれで友情が存在出来るのかと不思議に思う。
世の中には俺が理解できない事が沢山あるんだな。
国主様はその後、自分の名前と子供、サエの名前の本名とあだ名を書いてサエに渡していた。
サエは今日のこれからは城の皆に名前を書いてもらいに行くらしい。
ついでに執務室から出て行く前にペンを借りて、俺の名前も書いてやった。
行く先々でサエは名前をねだっていく。
皆の笑顔の幾分かはようやく名前が決まったという安堵が含まれているに違いない。
途中で余白が足りなくなってきたと思ったら、宰相が新しい紙を持ってやってきた。
何処かで見ていたんじゃないのかと思う周到さだ。
宰相は自分の名前を書くと、サエの頭を撫でてさっさと行ってしまった。
相変わらず、忙しそうだ。
かなり集まった所で日も暮れ始めたので、「サエ、そろそろ帰ろう」と声をかける。
すると、サエは辺りを見回した。
しばらく経ってからサエは自分の名前だと気付いたらしい。
ばつの悪そうな顔をしてからうなずいた。
帰り道をサエと歩きながら、どうやらこれで国主様の教師役からは解放されたらしいと俺は安堵した。




