9-3 魔王
シルベニアは諦めたように指を下ろしていた。
「……」
広場を一望できるこの屋根の上は、イサギを撃ち抜くのは恰好の位置であるはずなのに。
シルベニアはそうしなかった。
ただ最初に威嚇のような一発を放ち、それで終わりだ。
ピリル族の若者たちを巻き込むことを、躊躇していたのかもしれない。
あるいはシルベニアがそんな殊勝な娘なはずがなく、ただ単に間接的にレ・ヴァリスが殺してしまおうと思っていたのかもしれない。
「……」
目深に魔女帽をかぶり、光ない瞳で戦いを見下ろすシルベニアは、まるで魔王城にいた頃のようで。
彼女が今、なにを考えているのかは本当のところ――彼女自身も含めて――誰にもわからなかったのだ。
◇ ◆ ◇ ◆ ◇
イサギとレ・ヴァリス、ふたりの戦いはついに佳境を迎える。
何度も何度も繰り返しカラドボルグを打ち付けられた右腕のオハンには、わずかなヒビが入っていた。
左腕もだらりと下がっている。重なったダメージにより、満足には動かせないだろう。
レ・ヴァリスの魔力はもう枯れそうなほどに衰弱している。『魂縛』の使用過多だ。
イサギもまた、レ・ヴァリスとの激烈なる打ち合いの結果、握力が遥かに落ち込んでいた。
海水をかぶった身体は熱を持って、毎秒ごとにイサギの体力を奪うようだ。
たかが17才に過ぎない――元の世界では高校2,3年生相当の――イサギが魔力の補助なく戦い続けられるのは、自らのパフォーマンスが100%発揮できなくなってしまったときのために、常に様々な戦術を用意をしているからだ。
まるでRPGのように自分の体力を管理し、使う技ごとに消費コストとその費用対効果を見極める。
それは長い三年間にも及ぶ戦いを、たった四人で勝ち進むために獲得したスキルであった。
ふたりの一騎打ちを間近で眺め続けていたピリル族の兵のひとりは、この勝敗の行方をどう考えていただろう。
レ・ヴァリスの動きはあるときを境に精彩を欠きつつある。片腕を使えなくなったことが特に大きく響いていた。
対するイサギはまるで大樹のように地面に根を張り、静と動のはっきりとした斬撃のタイミングの切り替えについて、一転して変化がない。
無論、自分たちの主人であるレ・ヴァリスが負けるはずがないと、彼は信じているけれども。
仮面をつけ、ポーカーフェイスを保ち続けているイサギの不気味さは、見ているこちら側が精神をやられてしまいそうだ。
外套と仮面を取り去った中身が亡者のように死人が動いているものだとしても、納得できるだろう。
あんなものと一歩も引かずに拳を交えるレ・ヴァリスの精神力を褒め称える以外にはない。
辺りが闇に包まれてからどれほどの時が経っただろう。
レ・ヴァリスは三合打ち合ったのち、後ろへと大きく飛び退き、あえぐように告げる。
「……ハァ、ハァ……このままやったら、日が昇るぜ、魔王」
「構いはしないがな、勇者。日に当たって肌が焼け落ちるということもない。
ま、お前を斬り捨ててこの街を脱出するために、都合が良いのは夜か」
イサギが剣を水平に立て、その切っ先をレ・ヴァリスへと向ける。
これまでに一度も見せたことがない構えであった。
「……まだ技の引き出しがあるのかよ、貴様は」
「一度誰かに見られた技は、もう使えなくなっちまうからな。
目撃者は必ず殺すのが俺の流儀なんだが、それができない状況もあってな。
情報が出回れば対策される。一度の油断は死に繋がる。
そんなことを続けていけば、レパートリーも増えるさ」
「用心深いこったな……!」
「レ・ヴァリス」
そのとき初めてイサギは彼の名を呼んだ。
レ・ヴァリスはあからさまに顔を歪めた。
「なんだ、貴様……。
この期に及んで」
「この剣を、お前はかわせない。
防御するのも不可能だ」
「……ッ」
ぴたりと剣の先をレ・ヴァリスの首元に向けながら、イサギは絶対的な死を宣告する。
「これまでの打ち合いの中、お前の癖、欠点、
それにその身体に蓄積したダメージからなる些細なズレ。
そういったものを今、ようやく見極めさせてもらった。
次の一撃でお前の首は飛ぶことになるだろう」
「貴様――」
レ・ヴァリスは無意識に首を押さえ、イサギを睨みつける。
「またハッタリか……!
そのような技があるのなら、わざわざ相手に教える必要はない!」
「レ・ヴァリス。もう一度だけ言おう。
『今すぐこの戦いをとめろ。そうすれば、命だけは助けてやろう』。
どうだ、レ・ヴァリス。国ではお前の帰りを待つものたちもいるのだろう?
ここで逃げても誰もお前を咎めたりはしない。
レ・ヴァリス、相手が悪かったのだ」
レ・ヴァリスは思わず身震いした。
冥闇から迫る手のように、その言葉はレ・ヴァリスの四肢にまとわりつく。
まるで地獄に引きずり込まれてしまうようだ。
その言葉に従えば、レ・ヴァリスの心は楽になれるだろう。
安寧の地に五体満足で帰れるのだ。
「……くたばれ」
「……」
だがレ・ヴァリス、屈しはしない。
顔をあげ、拳を握り、大地を踏みしめ、怒鳴る。
「俺様の名は、ヴァリス!
ダリスの七男にして、ピリル族の族長。
――そして三界の覇王、レ・ヴァリスだ!
貴様ごときに下げる頭などはない!
この俺様の両肩には家族、仲間、友の命がかかっている!
魂の名にかけて俺様はお前を殴り潰す!
来るがいいさ! 魔王イサギ!」
「……そうか」
誇り高き彼の言葉に、もはや語る言葉なし。
イサギはうなずき、地を蹴る――。
「ならば後の世に伝えよう。
ピリル族のレ・ヴァリスは、『勇持つ者』――勇者であったとな」
レ・ヴァリスの瞳孔が開いてゆく中。
イサギが突き出した稲妻の剣はまっすぐにレ・ヴァリスに伸びてゆき――。
――その瞬間。
イサギの背を不可視の衝撃波が打った。
「――!」
「魔王ッ!」
レ・ヴァリスに接触するその直前、イサギの態勢が大きく崩れた。迎え撃とうとしていたレ・ヴァリスもまた、止まれない。
魂鎧オハンによる推進力の乗った拳は、イサギの右胸を打った。骨が砕ける音が響く。
元々体重の軽いイサギは放物線を描いて吹き飛んでゆく。それでも空中で姿勢を制御し、地を滑るように着地をしてみせたのは、凄まじいほどの体幹がなしうる技だ。
足をつくと同時に、血を吐くイサギ。
ついにもらってしまった。致命打を。
だがそんなことより――。
顔をあげるイサギは見た。
こちらに向かって飛来する、空を覆う満天の星のような爆炎。
――火の雨を。
レ・ヴァリスの射程外に吹き飛ばされたからか、全身に魔力は戻っている。
イサギはバロールの魔眼越しに渾身の破術を放つ。
それでも、消しきれないほどの量。
次々と襲いかかる魔力の砲弾。渦。炎の嵐。
イサギは蹂躙された――。
「ゴールドマァアアアアアアアアアアアン!」
それは炎を裂くようなレ・ヴァリスの咆哮だった。
金髪の魔法師は、ピリル族の若者の中に紛れ込んでいた。
魔族国連邦魔術団団長もとい――真・魔族帝国軍団長、ゴールドマン。
彼はイサギがレ・ヴァリスに決死の一撃を放つその瞬間まで、息を潜めていたのだ。
確実にイサギを仕留めるため。
深いフードをかぶったゴールドマンが姿を現すと、その背後からも次々と術師たちがやってくる。
皆、ゴールドマンの子飼いであり、精鋭揃いの部隊である。
「レ・ヴァリス殿、あなたは手こずりすぎですよ」
「言いたいことはそれだけか……!?
貴様、よくも手を出したな……!」
拳に紫色の光をまといながらうなるレ・ヴァリス。
ゴールドマンは嘲るように目を細め。
「あなたに死んでもらっては困るのですよ、レ・ヴァリス殿。
2000名のピリル族はあなたのために戦っているのも同然だ。
我々魔族との同盟が決裂してしまいかねない。
この先の未来の為にも、あなたはまだまだ必要な人だ。
その程度のことがわからないあなたではないしょう?」
「俺様は負けぬ!」
「可能性の問題です」
憤怒するレ・ヴァリス相手に一歩も引かず言い切るゴールドマン。
燃え盛る魔術の火とは裏腹に、広場から戦いの熱が失われてゆく。
あるいはそれは、レ・ヴァリスの怒りとなって濃縮していっただけなのかもしれない。
「あの男は、俺様の『最強』への道のために、
紛れも無く乗り越えなければならない男だった!
ゴールドマン! 貴様のしたことは許されぬぞ!」
「命を救って恨まれてしまうとは。腑に落ちませんね」
口元に笑みを浮かべるゴールドマン。
その一触即発の雰囲気に、辺りがわずかにざわめいていくけれど。
――刹那、稲妻が走る。
ゴールドマンが頬を裂かれて仰け反る。続く二射はレ・ヴァリスの破術によってかき消された。
目を凝らす。すれば、紅蓮の炎の中から歩み出てくる男がひとり。
「……まさか」
ゴールドマンが幽鬼を見たような声をあげた。
どよめきの中、その男がゆっくりと姿を見せる。
半分に砕けた仮面。ところどころが焼け落ちた外套。片腕は明らかに折れている。黒ずんだ肌が見え、満身創痍であることは間違いないはずなのに、しっかりとした足取りでこちらに向かってくる男。
――魔王イサギ。
「生きていやがるじゃねえか、魔王……!」
「……」
なぜか安堵したような声を漏らし、獰猛な表情を浮かべるレ・ヴァリスに対し、イサギは無言。
許せなかったのかもしれない。これしきのことを予期できなかった自分が。
服の火の粉を払いもせず歩み寄ってくるその姿は、人とは思えない。
ゴールドマンにいたっては、理解が追いつかなかった。
「……化物め」
手のひらから次々と魔法を撃ち出すゴールドマン。
その正体は相手の位置に炸裂する振動波である。
再び打たれたイサギは大きく右に体を傾げると踏みとどまった。
振動波はイサギの闘気のガードに阻まれ、芯に届かない。
金色の燐光をまとうイサギの目がゴールドマンを突き刺す。
視線を受け止め、ゴールドマンは不敵。
「……ふ、ふ、この程度は効かないか。
ならば、思い知らせてくれよう」
ゴールドマンの手の中に魔力が膨れ上がる。
シルベニア同様、チャージすることによってその威力は爆発的に向上するのだ。
その様子を見たイサギは一転、弾かれたように駆け出す。
煌気による踏み込みは、残像が残るほどに早い。
だがその体はすぐに、ゴールドマンが作り出した障壁に阻まれた。
「――ラストリゾート・ミニマイズ」
ドアを蹴破るかのように法術を削り取るイサギ。
彼の前に現れたのは、レ・ヴァリス。
「ゴールドマン! もう手を出すんじゃねえ!
なあ魔王、まだ戦えるんだろ! 続きをやるぞ!」
「……」
片腕一本でカラドボルグを振り回すイサギ。刃筋が立っているのかもわからないようなデタラメな一撃だ。
軽くさばいて、今度はその腹を突き破る。そんなことを思っていたレ・ヴァリスだが――。
その一刀で、ついにレ・ヴァリスの右腕のオハンが破砕した。
オハンのかけらがガラス片のように散る。
「――な!」
「……」
さらに翻る二撃目。それはレ・ヴァリスの胴を狙っており――。
膝をあげてガードするレ・ヴァリス。イサギは力任せに剣を振る。
――そこでゴールドマンの魔法が着弾した。
空間が震え、イサギは高々と舞い上げられた。脳まで響くかのような衝撃に、彼は受け身を取ることすらできず、無様に地面に叩きつけられる。
レ・ヴァリスもその余波を受けたが、彼は空中でオハンを制御し、踏みとどまる。
「ゴールドマン!」
「……さすがに今のを受けては、終わりでしょう」
レ・ヴァリスの疾呼にも構わず、つぶやくゴールドマン。
だがふたりの見ている前、やはりむくりとイサギは起き上がる。
「……どうすれば死ぬんだ、この男は」
小さくつぶやいたのは、ゴールドマンの後ろにいた魔術師のひとりだった。
ゴールドマンもまた、歯噛みする。
「仮面の男よ! 僕はおまえのことを覚えているぞ!」
「……」
とっさに放った言葉によって、イサギの動きが止まる。
ハッとして気づいたような顔をするゴールドマン。
イサギの弱みを見つけることができたと思い込む彼は、頭脳を回転させながら言葉を紡ぐ。
「おまえは五魔将会議、あの場にいたな?
ダゴンを制圧しただろう。僕は覚えている。
召喚陣によって呼び出された男よ、懐かしいな」
「……それがどうかしたか?」
イサギは仮面を抑えようとして、気づく。それが半分に割れてしまっていることに。
正体がバレたのはそのせいか。
イサギの視線を浴びながら、ゴールドマンは薄笑いを浮かべている。
「おまえはいずれここにやってくるだろうと思っていた。
召喚陣によって呼び出された仲間である以上、
必ず魔王ヨシノブを救いに来ると、な」
「……」
イサギは剣を見下ろし、小さく首を傾ぐ。
――なにを言っているのだこいつは。
「魔王ヨシノブの命は我々、真・魔族帝国軍が預かっている。
――抵抗をやめろ。さもなくばやつは殺す」
「……なるほどな」
「だがおまえ自身は、人間族を憎んでもいるのだろう?
その旅の噂はあちこちで耳にしていたよ。
どうだ、おまえもデュテュさまの元に来る気はないか。
共にこの国を支配しようではないか」
「……」
「ゴールドマン、てめえ!」
その勝手な言い草にレ・ヴァリスが怒鳴るけれど、ゴールドマンは意に介さない。
そしてイサギはほんの少しだけ口元をほころばせた。
「……お前の手を取れば、世界の半分を俺にくれるのか」
「なんだって?」
聞き返すゴールドマンに、イサギは剣を放り投げた。
「な」
「ほらよ」
カラドボルグはふわりと舞い、ゴールドマンの手前で落ち――。
それを追いかけて、イサギはもう走っていた。地面に衝突するその瞬間、足で蹴り上げる。
空中で手に取り、凍りつくゴールドマンの心臓に突きを仕掛け――。
だが、全身の傷が一気に悲鳴をあげて開く。
速度がわずかに鈍った。割り込まれたレ・ヴァリスによって防がれてしまう。
ゴールドマンは距離を取りながらイサギを叱責するかのように。
「……なんだ、なぜやめない!」
「俺はなんとも言っていないだろ?」
平然と言い返すイサギに、ゴールドマンは気圧される。
「魔王ヨシノブを殺すと言っているのだぞ。
その仲間もだ。限りなく惨たらしくその体をバラバラに引き裂いて」
「――だからどうした?」
「……は?」
呆気にとられるゴールドマンの前、イサギは目を細める。
何事にも交渉のセオリーというものがある。
ゴールドマンの言葉はそれに値しない。イサギはそう判断した。
もちろん慶喜の噂は聞いている。
彼がここに囚われたというのも本当のことだろう。
有用に使われたら、イサギでも惑わざるをえないカードだが。
彼がこの場にいない以上、その駆け引きは無意味だ。
限りなく感情を排除し、冷徹に告げる。
「レ・ヴァリス、ゴールドマン、お前たちをここで殺せばいいんだろ?
ならば交渉の余地はない。
そのヨシノブとか言う男は知らぬが、それが一番早いはずだ」
「……な、なんだと」
まるで戯言のようには思えなかったはずだ。
間違いなく彼はやる。それだけの覚悟を持ってここに立っている。
ゴールドマンはうめき、怒鳴る。
「シルベニア! この男を撃て! 十字砲火を仕掛ける!」
その言葉は間違いなくシルベニアに届いているはずだ。
けれど、広場を見下ろす屋根の上に立つシルベニアは、 動き出しはしない。
やはりシルベニアは迷っているのだ。
レ・ヴァリスは『魂波』と『魂滅』を連発し、もはや後先構わぬ火力を吐き出しながらイサギを近づけまいとしている。
間合いに入られたその時が自らの最期だとわかっているからだ。
ゴールドマンによる魔法。魔術兵団の魔術。さらにレ・ヴァリスの激烈な猛攻。
それらすべてがたったひとりに降り注ぐ。
けれどイサギはまだ沈まない。執拗にレ・ヴァリスだけを狙い続ける。
凌ぎきるレ・ヴァリスだが、それがいつまで続くものか。
ゴールドマンは再び怒鳴る。
「シルベニア!」
「……っ」
「このままではたったひとりの男に、真・魔族帝国が壊滅させられてしまうぞ!
シルベニア、やれえ!」
その叫びが発射の合図であったかのように。
――火線が伸びた。
極限まで凝縮され、貫通力の高まったシルベニアの一射。
それはあらゆる魔術と魔法をすり抜け、自らとイサギを直線で結び――。
閃熱。
それは次の瞬間、イサギの腹部を貫いていた。
「……良い腕だな、やはり……」
煌気を突き破るほどの貫通力。目標を正確無比に仕留める技量。
破術の発動すらも間に合わないほどの速射能力。
――やはりシルベニアだったか。
イサギはうめき、よろめきながら血の塊を吐いた。
炎の線が消え去るとともに、意識が遠ざかってゆく。
どうやらここまでのようだ。
イサギはそれでも弱々しい足取りで、レ・ヴァリスに向かって走ってゆき――。
「――ッ」
レ・ヴァリスは唇の端を噛みちぎるほどに、悔しそうな表情を浮かべていて。
シルベニアもまた、無表情の中になにか必死に感情を押しとどめているようだったが。
「やれ! シルベニア!」
ゴールドマンの最後の号令によって、まるで機械仕掛けの人形のように、シルベニアは手のひらから放つ。
彼女自身すらも見たことがないほどの魔法――その極大威力を。
通常の魔法や魔術は、己の体が傷つかないように制御されているものだ。
けれど今シルベニアが放つ炎熱波は、もはやその域を遥かに超越していた。
レ・ヴァリスの使う魂波よりも二回りも巨大な魔法を、なんの魔具もなくたったひとりで発動してみせたのだ。
埠頭を粉々に破壊しつくしながら伸びる炎は、イサギだけではなく――ピリル族や魔族を巻き込みながら、あらゆるものを灰燼に帰すような勢いで突き進む。
辺り一面は灼熱地獄と化し、それもまた一瞬にして掻き消えた。
通り過ぎ去ったあとには、もはやなにも残らず。
レ・ヴァリスもゴールドマンも、改めてその魔法の威力に愕然として、シルベニアを見上げた。
陽炎のように暖められたような空気が揺らぐ広場。
そこにはもう、先ほどまで場を支配していたあの黒衣の男は、影も形もなくなっていた。
半日に渡り、たったひとりでハウリングポートを蹂躙した男――。
――魔王イサギは、ついに勇者たちの手によって打ち倒されたのだ。
シルベニアは全身から魔力を絞り出して放った魔法の出来栄えに満足することもなく膝を折り。
そのわずかに進行が進んだ指先の魔晶化を見やると、意識を遠ざからせながら、ぽつりとつぶやく。
「……イサ」
反作用に身を焼かれながら、シルベニアはその場に倒れこんだのだった。
◇ ◆ ◇ ◆ ◇
轟音に顔をあげるものが、ここにもひとり。
「……」
デュテュはある貴族の屋敷の地下牢から、ゆっくりと歩み出てくる。
その彼女のそばに、魔族の兵が駆け寄った。
「デュテュさま、もう警戒態勢は解けました」
「よろしいのですか?」
「はい、侵入者は無事、レ・ヴァリスさまとゴールドマンさまが撃退されましたので!」
「……そうですか」
階段を登り、屋敷を出たデュテュは、思わず言葉を失った。
先ほどまでとはまるで違う光景に、足が立ち止まる。ハウリングポートのその半分が廃墟と化していたのだ。
まるで、未曾有の天変地異が襲いかかってきた跡のようで。
「……これは?」
「はっ、侵入者とレ・ヴァリスさまの激闘の余波のようでして……」
「……」
人と人が戦って、これほどの被害が出るものなのだろうか。
デュテュは崩れた民家の焼け焦げた瓦礫を指で撫でる。
それはまだくすぶっていたのか、わずかに暖かい。
デュテュはそばにいてくれる兵士に問う。
「侵入者の……その、お名前は、わかりますか?」
「え? いや、私は……確か、黒衣をまとっていた仮面の男と聞いておりますが……」
「……仮面」
心当たりはない。ないけれど。
どうしてだろう。揺れる髪を押さえながら、デュテュは空を仰ぎ見る。
海の向こうから昇りつつある日に照らされた街は、なにもかもが美しく。
それなのに、心はまるで泣いているように悲しくて。
「……」
デュテュは手のひらを胸に抱いて、目を瞑る。
暁闇の中、一体彼女は誰になにを、願うのだろうか。
魔帝の娘は祈り続ける。
それが決して誰に届くはずのないことだと知りながらも。
――勇者イサギの魔王譚。
この物語は今、彼の初めての敗北から始まりを告げる。
Episode:9 意志断つ剣は、誰が為に beginning...