7-10 You are (not) Hero
この一週間近く、慶喜はひと通りの努力をしてみた。
問題が精神的なものだと聞いてから、様々な対処法を試してもみた。
相手を視界に捉えないようにしたり、
かかしに向かって魔術を放っているのだと思いこんでみる案は失敗した。
大体、あれほど巨大なドラゴンを見ないようにすることなど不可能だ。
ならばと、藁を掴むような気分で、薬草に手を出してもみた。
気分を高揚させるものも、ほとんど効き目はないようだ。
極めつけは、ドラゴン族の秘薬だ。
「じゃあこれはー?」とやってきたのは、マールとローラ。
彼女たちが持ってきた粉薬は、一族に伝わる、非常に強力な興奮剤だという。
なんでも、三日三晩寝ずに戦い続けるための麻薬だと言うが……
さすがにそれはその、バーサーカーモードになっちゃうのはどうなんでしょう、と抗弁してみたけれど。
イサギは両手を合わせて目を閉じる。
「治癒術は俺に任せろ」
ロリシアはコップと粉末を差し出しながら、うなずく。
「もうつべこべ言わずに飲んでください」
廉造は腕組みをしながら冷ややかな目。
「早くしろや」
三対一である。
敵うはずがない。
というかもう、慶喜が勝てる相手は多分アルバリススにひとりもいないのではないだろうか。
「……いただきます」
とか言いながら、包み紙に乗った薬を飲み込むフリをして、襟の中に捨てようとたくらむ慶喜。
さすがに廃人になるのだけは避けたかったのだ。
けれど、ロリシアは見抜いていた。
「イサさま! レンゾウさま!」
「よしきた」
「しゃらくせェ」
「ふがっ!?」
両腕を後ろに回して拘束する廉造。
イサギが上顎と下顎を掴み、無理矢理口を開けさせる。
そこに笑顔のロリシアが薬を手に、近づいてくる。
「はい、ヨシノブさま、あーんしましょうね、あーん」
「ふががががが」
「えいっ」
薬と水を一気に流し込む。
口の端からも水がこぼれ、鼻水が飛び出てきている。
盛大にむせそうになったところで、ロリシアが慶喜の腹を打つ。
「いいから飲んでください! もったいないんですから!」
「あがががが」
そのまま前傾に倒れて、慶喜はぴくりとも動かなくなった。
見守る一同。
さて、どんなモンスター慶喜が生まれるのだろうか、と。
がばっと慶喜は起きあがった。
ロリシアをかばうイサギと廉造だったが。
当の慶喜はけろりとした顔だ。
「え、えと……ぼく、なんともないみたいなんだけど」
ええー! とドラゴン族の娘たちの悲鳴。
やっぱりか、とつぶやいたのは廉造だった。
慶喜が問い返す。
「え、どういうことっすか?」
「封術の力だな。オレたちはどれだけ毒を飲んでも効きやしねェんだ。
魔族と浴びるほど酒を飲んだが、ほとんど酔わなかったぜ」
「そうなんすか……」
ホッとしたような残念そうな、複雑な表情を浮かべる慶喜。
なるほど、とイサギは思い出す。
以前、愁と酒を酌み交わしたことがあったが、
自分だけが酔い潰れてしまったのはそういうわけだったのだろう。
彼の正気を捧げようとしてなんだが、
どっちみちイサギと廉造は、あまり期待をしていなかった。
慶喜は術師だ。理性が失われれば恐らく単純な術しか使えなくなるだろう。
その場合、闘争本能が高められても、勝算があがるわけではない。
慶喜改造作戦はこうして頓挫した。
「……」
その中、ロリシアがひとりだけ、唇を噛んでいた。
◆◆
できて当然のことができなくなって。
反復練習なども、まったく効果はなく。
どうやって解決すればいいのか、まったくわからなかった。
アルバリススにカウンセラーなど、存在していないのだから。
とりあえずがむしゃらに戦ってみるけれど、ただひたすらに無力感が増すばかりであった。
次第に、慶喜は打ちのめされていった。
「はぁ……イサ先輩も、廉造先輩も、無茶がすぎるっす……」
深夜、くたくたになるまで特訓を続けて、部屋に戻ってきて。
慶喜はベッドに潜り込み、ぐずる。
「人にはできることとできないことがあるんす……」
体は傷だらけで、治癒術を使ってもあちこちが熱を持っていた。
決闘の日まで完治するかどうかも怪しいものだった。
「こんな付け焼き刃でどうにかなるとは、とても思えないっす……」
唯一できるようになったことと言えば……
慶喜は部屋にコードを描く。
それは障壁だった。
芸もなにもない、塗り潰すだけで作り出すことができる、ただの真っ黒な壁。
相手を拒絶するだけの法術。
これだけだ。
何の戦闘能力もないが、ブレスを防ぐのには役に立った。
小さくため息をつく。
この数日で、ため息も枯れそうだ。
部屋にはイサギはいない。
彼はしばらく廉造のところに寝泊まりをしていた。
自分とロリシアを二人きりにしたいのだと言って。
今更気を使われても、と思うが、どうやら廉造のところも居心地が悪いようだ。
「ここには俺の居場所はないんだな……」とかなんとか言っていた。
寂しい人だと思う。
イサギのことはいいとして。
濡れた布を持ってきたロリシアに促されて、慶喜は下着姿になりベッドに寝転んだ。
「はー……生き返るっす……」
「……」
背中から腰。腰からふともも。足の裏。指の間。
マッサージをしながら、ロリシアは丹念に奉仕する。
旅の間以外はほぼ欠かさず毎日行なっていた、ロリシアの日課だ。
慶喜の背中は細かな傷だらけである。
彼はブラザハスにいた間も、剣術の修行を欠かしていなかった。
努力は続けているのだ。
剣術も、術式も、政治や外交、学問に演説だって。
けれど、なにひとつ結果には結びついていない。
所詮はその辺りが、自分の限界なのだろう。
大体、この世界のものたちは何十年も前から同じように鍛錬しているのだ。
それを自分のようなパッと出の少年が、追い抜いていけるはずがない。
現実とはそういうものだ。
「ヨシノブさま、ついに、明日ですね」
「そーっすねー……」
「自信はやっぱり、ない、ですか?」
「そーっすねー」
様々な手段はイサギと廉造が考えてくれた。
けれど、なんというか。
無茶なものは無茶なのだ、と思う。
そこらへんの雑魚が相手ならばまだしも。
敵は竜だ。それも、ドラゴン族を束ねる最強の王だ。
ファンタジー的に言えば、ラスボスではないか。
レベル1でラスボスと戦うなど、不可能だ。
「そりゃー、デュテュさんの代わりはやるって言いましたけど、
ガッツリ戦うのはノーセンキューっていうか……
そんなの事前に聞いてなかったし……
流されるだけ流されたけど、最後の一線は死守したいっていうか……」
慶喜は首を振る。
「大体、なんていうか、
ぼくのいた世界ではこんな荒事なんてなかったんすからね……
日がな一日アニメ見て、ゲームして、ネットして……」
ぶつくさつぶやくヨシノブ。
そこに感情が排斥されたロリシアの声が届く。
「……ヨシノブさま」
少しドキッとした。その声色はいつもの彼女とは違う。
「う、うん?」
「ヨシノブさまは今でも、元の世界に帰りたいって、思っていますか?」
「あ、いや……えっと……」
失言だったことに気づく。
彼女に背を向けたまま、慶喜は鼻の頭をかく。
「……ごめん、ちょっと、変なこと言っちゃって。
別に戻りたいってわけじゃないんだ。
でも、たまに懐かしいなって思うときもあって」
「……」
「その、すみません……
あ、で、でもこの世界で暮らそうと決意したのはホントだから!」
「……そう、ですか」
ロリシアは手を止めた。
慶喜は起き上がり、ゆっくりと振り返る。
「えと……どうかした? ロリシアちゃん」
「……」
いつもと違う彼女の様子に心配になり、
慶喜はおっかなびっくり声をかける。
あなたがあたしの心配なんて百年早いです、とかなんとか、
怒られてしまいそうな気もしたけれど。
ロリシアはそうはしなかった。
「わたしですね、本当は今でも信じられないんです。
どうしてこんなところにいるんだろう、って思うんです」
「え?」
「家を焼かれて、パパもママもいなくなって、
それから魔王城に引き取られて、そこでお仕事を覚えて、
あっという間にヨシノブさまと一緒にブラザハスに行って……
それがもう、今ではこんなところにいます。
本当はびっくりなんです、わたしも。
できれば今すぐに帰って、リミノお姉さまと一緒に、
魔王城の窓拭きでもしていたいな、って思うんです」
「ロリシアちゃん……」
「ふふ、同じですね……ヨシノブさまと」
彼女は顔をくしゃっと歪めて、微笑んでいた。
「わたし、自分がどうなっちゃうのかとか、ぜんぜんわからなかったんです。
ただ、それでも頑張ってこられたのは、多分……
ひとりじゃなかったから、だったからだと、思うんです」
「ロリシアちゃん、それって……」
慶喜は小さな少女に手を伸ばす。
ロリシアはその手を弱々しく握った。
「ヨシノブさまは、弱虫だし、泣き虫だし、頼りないし。
笑顔がきもちわるいし……」
「うっ……」
「それに、ミーンティスさまと……
その、えっちなことも、しちゃったし……」
「す、すみません……」
「でも、時々、その、すごく時々ですけど、
……多分、優しい、って思うんです」
彼女は目を逸らしながら、ぽつりと告げた。
その頬は、わずかに赤く染まっていた
「だって、ヨシノブさまは、
わたしを、守ろうとしてくれたじゃないですか」
「……え」
「リミノお姉さまが襲われたときに、
わたしが飛び出したときに、ちゃんと、
出てきてくれましたよね、ちゃんと……」
「それは、でも……」
イサ先輩が、と口に出そうとして。
その思いに首を振り、ロリシアが言葉を続ける。
「ヨシノブさまは、わたしたちを助けようとしてくれました。
だから、信じています。わたし、信じています」
「……」
「わたし、応援していますからヨシノブさまのことを……」
彼女の只ならぬ態度に気圧されながら。
「う、うん」
慶喜は意味もよく分からず、うなずいたのだった。
◆◆
「結局、仕上がらなかったな」
「……そうだな」
「どうすンだ? みすみすヨシ公を死なせるか?」
「……」
「イサ」
「……あ、いや、すまない」
「テメェ、様子がおかしいぜ。
なに隠してやがンだよ」
「……ロリシアにな、頼まれて」
「あァ?」
「ちょっと、大変なことになって、な……」
「……ふむ。イサが参るとは、よっぽどのことだな」
「まぁな……
なあ、廉造。
目的を達成するためには、どれほどの犠牲が必要なんだろうな」
「藪から棒になんだ」
「人間族とドラゴン族の仲を取り持てば、魔族の平和も築かれる。
それがたったひとりの命で叶うのなら、これは正義の行ないなのだろうか」
「よくわかンねェな。
だが、自分で納得できねェことはやめたほうがいいぜ」
「……そうだな、ありがとう廉造。
俺は俺の弱さにケリをつけたんだ。
もう、迷ってはいられないな」
「……おう」
「時間だな」
「ああ。オレたちも行くか」
「慶喜が勝てばいいけどな」
「……どうだかな」
◆◆
迎えの使者がやってきて、慶喜はそこに連れられた。
彼は腰に二本の剣を帯びていた。
魔術が使えなかったときのための、保険だ。
竜決の間には一応観客席もあるが、見せ物ではないのだから、そこに座るものたちはまばらだった。
大多数はベヒムサリデと、彼の率いる竜騎兵たちだ。
竜将軍のそばには廉造。それに特訓に付き合ってくれたマールとローラが立っている。
反対側、慶喜側の席には応援はひとりもいない。
イサギとロリシアは「なにか準備がある」と言っていたけれど。
魔王の従者がゼロとは、寂しいものである。
闘技場の舞台、下手から慶喜が姿を現す。
魔王が見えた途端、ベヒムサリデが罵声を飛ばした。
「小僧が、出しゃばりやがって!
目玉も骨も残さず燃やし尽くしてやれよ、兄者!」
それだけで慶喜の身が堅くなる。
「うう……ガラ悪いっすよぉ……」
竦みあがった慶喜は、のたのたと歩み出る。
その正面に立つのは、竜王バハムルギュス。
彼はすでに準備を整えていた。
「ふふふ、血がたぎるわ」
黒い甲冑をまとう彼は、手に槍を持っていた。
紫色の輝きを帯びる、晶槍だ。
竜王と魔王の決闘は、イサギと廉造のように素手で、というわけではない。
互いの全身全霊をぶつけ合うのだ。
それこそが、真の武勇の証である。
バハムルギュスは槍を掲げて振り回し、地面に突き刺す。
20年前の戦いを思い、彼は血をたぎらせていた。
「アンリマンユの再来よ。
儂を楽しませてくれよ」
戦いに飢えた猛王の目に、慶喜は檻のように囚われる。
ドラゴン族は生まれながらの闘気使いである。
彼らは強度の高い鱗に覆われた手足を持って誕生し、
さらに魂の内圧を高めることによって物理攻撃に優れた耐性を誇る。
禁術『獣術』が引き継がれてゆくのは、遺伝によってだ。
その効果は絶大である。
圧倒的な質量を持つ体躯。凄まじい防御力。巨大な翼による機動性。
さらに周囲の魔力を取り込み、ブレスに変換するための火炎炉と呼ばれる器官を作り出すことができる。
しかし、禁術の名の通り。
それは使い続けることにより、理性を失う獣と変貌してしまう危険な術だった。
果たしてバハムルギュスが獣術を使うかどうか、
20年前にスラオシャルドと戦い、傷が癒えたばかりの彼が竜化に耐えられるかどうか。
それが慶喜にとっても勝敗を左右する分水嶺だ。
(戦いが始まったら、まずは全力で距離を取るっす……!)
思い出しながら、慶喜はそのときを待つ。
今の自分にできることはそう多くはない。
けれど。
(あのふたりと、肩を並べるって……
そう、誓ったんすから……!)
心臓は痛いほどに脈を打っている。
普段の半分も物事を考えられない。
慶喜にとってはこれが初めての実戦のようなものだ。
場数を踏んでいない上に、相手の圧力が凄まじい。
本番は苦手だ。
作文の発表会だって、一度も上手にできた覚えはない。
それでも。
それでも、だ。
できる限りはやるのだ。
そのためにここに立っているのだから。
「では始めるとしよう」
バハムルギュスの言葉とともに、
開始の合図の銅鑼が、打ち鳴らされた。
音の余韻が残る中、すかさず慶喜は後ろにステップした。
(障壁しか使えませんけれど……!)
壁だって叩きつければ武器になるのだ。
自分の魔力なら、それはそうそう砕かれるようなものではない。
それは皆も、保証してくれているのだから。
バハムルギュスはその場で槍をこちらに向けてきて。
「いくぞ、魔王ヨシノブよ!」
吠え、その槍を放ってきた。
いきなりだ。
「え、ええええ! ぼ、防御っす!」
密度の高い壁が具現化し、ふたりの間の空間を隔てる。
良かった。とりあえずは上手くいった。
これができなければ、戦いにすらならないのだ。
強度だけはマールとローラのお墨付きである。彼女たちの炎を壁は微塵も通さなかった。
だが、慶喜の目の前、砕けた魔力が散って光が乱反射する。
竜王の放った晶槍は、魔力障壁をいともたやすく突き破ったのだ。
「ええあっ!?」
慶喜は無様に転がりながら避ける。
顔のすぐ横を槍はかすめていった。
あと数センチズレていたら、頭を丸ごと持っていかれていた。
恐怖が背筋を這い回る。
確かに今の自分は大した硬度の壁を作り出すことはできないけれど、それにしてもあっけなさすぎる。
だが、まだだ。まだ慌てるような時間ではない。
竜王は早くも槍を投げたのだ。
ならば、あとは素手ではないか――
と、顔をあげて。
慶喜は乾いた笑い声をあげた。
「は、はは……なんで、まだ持っているんすか……?」
確かに投擲したはずの槍を、竜王は握り締めていた。
バハムルギュスは慶喜との距離を縮めながら、その石突きで地面を叩く。
「我が槍、断槍ブリューナクに貫けぬものなし!」
竜王バハムルギュスは槍の名手だ。
ならば決闘にも槍を用いるのだろう、というのは簡単に予想がついていた。
だからこそ慶喜はイサギに、
ドラゴン族の国宝槍はふたつだと教えられていたのだ。
天槍ロンゴ。そして地槍マルテ。
どちらも将軍たちに与えられる優れた晶槍である。
その効力と対策を事細かに練り上げ、慶喜はここにいる。
だが、バハムルギュスの持っている槍は今はそのどちらでもない。
あれは一体――
断槍ブリューナク。
それは行方不明とされていた、ドラゴン族の秘宝である。
その投擲槍の特殊能力はふたつ。
ひとつは無限に投げ続けることができること。
それだけならば幻影剣ミラージュとあまり代わりはない。
二番目の能力こそが、断槍の真骨頂である。
その槍は、障壁を突き破ることができるのだ。
破術と違い、極めて限定的な力だが、今の慶喜にとっては脅威以外の何者でもなかった。
廉造が部下の娘たちに小声で問う。
「……チビども、あの槍のことをなにか知っているか?」
赤竜のローラとマールは首を傾げて。
「聞いたことないぜー?」
「あ、ただ前に、竜王さまが火山からなにかを見つけ出したって聞いたことがぁ」
「言っていたぜ!」
手を打つローラ。恐らくはそれだろう。
廉造は顔を歪めた。
「だとしたらやべェな……。
術式が砕かれたら、ヨシ公なんざ……」
廉造のそばに立つベヒムサリデは笑みを浮かべていた。
「当然だ。竜王に敵うものなど、もはやこの大陸にはいない……!」
バハムルギュスから投げつけられる槍は、どんなに障壁を重ねても防ぐことができなかった。
距離を取る作戦は、完全に裏目に出た。
このままでは手も足も出ない。
(やるしか、ないのか……!?)
腰に下げたふたつの剣。晶剣。
これを抜いて、接近戦に持ち込むしかないというのか。
「いつまで逃げ続けているつもりだ! 魔王ぉ!」
再びブリューナクが放たれる。青い光線が飛来してきた。
障壁の角度を変えて弾き飛ばそうとしたけれど、無駄だった。
そんな小細工をあざ笑うかのように、槍は直進し、慶喜の左肩の肉をえぐった。
「ああああああ!」
慶喜は叫ぶ。
目の前が真っ赤に染まる。
痛い、どうしようもないほどに、痛い。
子供の頃に、誤って自分の手のひらをカッターで切ってしまったことがあったけれど。
そんなのとは比べものにならないほどの痛みだ。
「う、うう……ううっ」
これが戦いなのだ。そうだ、これが。
もう無理だ。もう戦えない。
こんな状態で腕を動かしたら、きっともう二度と腕が動かなくなるに違いない。
もはや斬りかかる気など、失われていた。
なんだよ嘘じゃないか、と思う。
魔族のみんなが自分のことを一生懸命褒めてくれたのに。
竜王バハムルギュスにはまったく通じないじゃないか。
自分はまるでおだてられた木に登った豚のようだ。
けれど、竜王は容赦なく慶喜を責め立てる。
「魔王! 儂はこの時を20年待ったのだ!
術師たるアンリマンユに敗北してから、20年だ!
そのために断槍ブリューナクをも見つけ出したのだ!
戦え魔王! 儂に抗ってみせよ!
そして、むごたらしく死ぬがいい!」
「そ、そんな……」
慶喜は後ずさりする。
彼は自分を殺す気なのだ。
その視線に貫かれ、心の臓も息の根が止まりそうだ。
どうして。
どうして自分がこんな目に遭わなければ。
もうだめだ。
ここらが潮時だ。
力の差が圧倒的すぎる。
そうだ、魔族のみんなだって直接バハムルギュスを見たことはないのだ。
イサギだって廉造だってそうだ。彼と戦ったことなどないだろう。
それなのに自分が勝てる道理などどこにもない。
頼みの綱の障壁すら役に立たないのなら、戦いにすらならない。
ただのなぶり殺しだ。
と、そこに――
神聖なる闘技場を汚すかのように、降り立った男がひとり。
黒衣に身を包み、目を覆う仮面をつけた男だった。
彼は無遠慮に、なんと慶喜と竜王の間に着地したのだ。
突然の闖入者に、その場を見守っていたドラゴン族たちもざわめき出す。
「なんだ貴様は……」
バハムルギュスの苛立った声に空間までが震えるようだった。
竜王は晶槍を一閃する。青い光が黒衣の男の立っていた場所を断つ、が。
ほんのわずかに体を動かしただけで、男はその斬撃を避けていた。
そこで竜王もようやくその男の異質さに気づく。
「え……?」
一方、慶喜はその人物の正体に思い当たる。
ドラゴン族は誰も気づいていないようだが――彼はイサギだ。
準備とやらを整えて、ようやくやってきてくれたのだ。
しかしなぜこんな派手な登場を……
「な、なにやってんすか……?」
「……」
仮面の男は黙して語らず。
慶喜に背を向けて、竜王に向き直る。
「非礼は詫びよう、バハムルギュスよ。
こいつは魔王だ。だが、あまりにも弱い」
「……何者だ。ただの男ではあるまい」
竜王の眼光が仮面の男を突き刺す。
しかし男は揺るがない。
「お前が相手にするのには、ふさわしくはない。
“今のままでは”な。そう思うだろう」
そこで慶喜は気づいた。
彼はきっと自分を助けに来てくれたのだ。
負傷した自分に代わって、戦ってくれるのだ。
心の底から安堵し、慶喜は彼にすがりつこうとする。
「せ、先輩……!」
しかし男は慶喜の腕を払いのける。
「どうだ、竜王バハムルギュス。
このままではお前も物足りないだろう。
20年の渇きはこの程度では潤わないだろう?
俺が力を貸してやる」
「ならばこの儂の前で名乗ることを許そう。
貴様は一体何者であるか」
仮面の男は言い放つ。
「俺はパズズ。人に絶望を与えるために生み出されたもうひとりの魔王だ」
「……ほう。貴様が、あの」
その名はドラゴン族にも届いていた。
人間族の街を滅ぼした魔王であり、極術の使い手。
バハムルギュスもまたその男を、一度見てみたいと思っていたものだ。
「良かろう。儂の愉悦のために尽力するが良い」
「協力を感謝する」
バハムルギュスは彼の行ないを見守る。
仮面の男は腕を掲げた。
その指先で、コードを描いてゆく。
そして、呆気に取られていた慶喜に問う。
「魔王慶喜よ。
お前は何のために戦う?」
「え?」
思わず慶喜は聞き返した。彼は本当にイサギなのだろうか。
「地位か? 名誉か? 女か? 金か?
お前は何のために戦う?」
「ぼ、ぼくは……」
肩の痛みに脂汗を流しながら、慶喜は返す。
「ぼくはただ、暮らしていければ、それだけで。
でも、みんなが戦えっていうから、だから……」
「それだけ、だと?」
「何事もなく、穏やかに……現状維持で……
って、な、なんなんすかこれ! 先輩!」
「暗愚なり」
仮面の男は慶喜の回答を切って捨てる。
「今の平和が、どれほどの犠牲の上に成り立ち、
それを守り続けることは、計り知れないほどの力が必要だと、お前は知らぬのだ」
「そ、そんなこと……!」
「お前は力を持たぬ。守るだけの力を持たぬものは、奪われる。
お前は奪われ続けるのだ。今も、未来も、そして過去もな」
「ぼ、ぼくは魔王なんすよ!
誰がそんなことをするって言うんすか!」
慶喜の怒声に。
男は切り返す。
「俺さ」
彼が空中に描く魔術のコードが、慶喜には判別できた。
それは直進するレーザーのような、一点を貫く火術だ。
目標は――
振り返る。
「ロリシア、ちゃん……?」
慶喜は唖然とした。
彼女は闘技場上の慶喜側の観客席にいて、微笑んでいた。
それは、慶喜が戦いの直前に会話したときと、同じ表情で。
全てを諦めたような、あるいは虚無を信じているような。
まるで彼女らしくない、穏やかな顔をしていて。
これか。
これだったのか。
彼女の変化は、これだったのだ。
彼女の覚悟は、これだったのだ。
慶喜は気づいた。
気づいたけれど。
気づいたのに、
しかしそれは――あまりにも、遅すぎたのだ。