6-10 勇者イサギの魔王譚
イサギもセルデルも知るところではなかったが、
その杖は神エネルギーを持つものにしか使うことのできない兵器であった。
無論、本来人間が使用することは不可能だ。
だが、長年の研究において神化しつつあるセルデルには、神エネルギーが発生していた。
それゆえに、セルデルは極術の封印を解き放つことができたのだ。
セルデルの放った光は、イサギの背後にあった街をえぐり取り、
それでも止まらず――北方山脈タイタニアの三つの山を消し飛ばし、
ひとつの鉱山都市を丸々消失させて、海へと抜けた。
かつて人間族の歴史上にも類を見ない規模の大破壊であった。
この極術による死者は万を越えたという。
ダイナスシティでカリブルヌスが引き起こした事件とは、
まるで格が違っていた。
たった一度の極術は、
アルバリススに凄まじい悲劇を生み出した。
後に人々は語り、震え上がることとなる。
これが神の裁きなのだ、と。
極術。
それは世界の在り方を変える力だった。
まるで巨人が大地を掘り起こした後のようだ。
セルデルの視界に入るなにもかもが、消滅している。
辺りには熱が立ちこめており、
そこはまるで砂漠のような暑さであった。
「ハッ……ハッ……
は、ハハハハ……! これが、私の……!」
汗をかきながら、力に酔いしれているセルデル。
発動のトリガーとなった彼はまだ気づいてはいない。
その金髪は真っ白になり、その顔はまるで老人のように老いてしまっていることに。
たった一度の極術は、無限とも思えたセルデルの魔力を吸い尽くし、
それだけでもまだ足りず、彼の魂をも搾り取ったのだ。
魔術を使うことがほとんどできないセルデルは、狂喜した。
自らの手で引き起こした大災害は、まさに神の奇跡であった。
「なんだ、こんなものがあるのなら……!
もっと早く、なにもかも、奪い尽くせば良かった!
私は神だ! 私が神の現身だったのだ!」
セルデルはのろのろと歩む。
地面にしゃがみ込み、消滅したその焼け跡に触れる。
どろどろとしたその砂のようなものは、セルデルの手の中をこぼれ落ちた。
土を構成する物質が完全分解させられて、
その存在を許されていないのだ。
こんなものが遙か遠く、どこまでも続いていた。
恐らくは復旧も復興もままならないだろう。
もしセルデルがこの極術を大陸南方に向けて放っていたならば、
スラオシャ大陸は真っ二つに分断されていた可能性すらある。
セルデルはしかし、手放しで賞賛していた。
素晴らしい。これこそが、力なのだ、と。
イサギもきっと、この土のようなものと一体化したのだ。
彼が光に包まれる姿を、セルデルは確かに目撃していたのだから。
「ふふふふ、ははははははは!」
たった一発の極術と引き替えに壊れてしまったセルデルは、しばらく笑い続けていた。
力以外なにも――いや、力すらもなにも残らなかったとも知らずに。
彼は幻想を抱く。
ここからまた始まるのだ。
セルデルの野望が、また新たに――
だが。
「……今の極術で、
一体何人が死んだんだろうな」
「――」
その声を聞いて、セルデルは絶句した。
生きていられるはずがない。
「なぜお前は……」
「初めて使うのだろう。
ならば、制御もできないのは当たり前だな。
お前は目測を誤ったんだ」
立ち上がり、振り返る。
セルデルは見た。
そう語るイサギには、左腕がなかった。
少年の腕は、付け根から吹き飛んでいる。
あと半歩、避け切れなかったのだ。
心臓に近い腕が吹き飛んだということで、覚悟をしていたが、
極術に傷口を焼き塞がれているのか、血は今は流れていなかった。
不思議と痛みもない。
きっと、なにもかもが麻痺しているのだろう。
仮面の奥のイサギの顔色には、死相が浮き出ていた。
かすれた声で告げる。
「セルデル。この距離は俺の距離だ」
「どうですかね……
あなたも虫の息と見えますが」
「お前を殺すぐらいのことはできるさ」
「強がりはよしたほうがいい」
「それはお前だろ」
イサギは一歩足を進める。
ただそれだけのことが、今の彼には難しかった。
片腕を失ったために体のバランスがおかしい。
これでは今までのような立ち回りは無理だ。
耳も削れたのか、歩くのも難儀した。
だが、セルデルに一太刀を浴びせれば全ては終わる。
そのためにイサギは右手でバリーズドの剣を構える。
いつもよりも、ずっと重い。
地面をこそぐように、歩き出す。
「セルデル。最後にひとつだけ聞かせてくれ」
「……なんですかね」
「プレハの行方を、知っているか」
「……」
老いた彼は杖をこちらに向けたまま、うめく。
「プレハさんは、死にました」
「……」
「あなたを探しにいくと言い残し、
それ以来もう二度と戻ってくることはありませんでした。
死んだとしか、考えられません」
「……そうか」
体で機能を保っているのは、もう脳以外ないのではないかと思った。
手も足もなにもかもがバラバラになったようだ。
イサギは目を伏せて、告げる。
「お前が言うんだ。
本当に、そうなのかもしれないな、セルデル」
「そうでしょう。イサギさん」
それが決別の言葉だった。
セルデルは杖を構えた。
イサギもまた、剣を振りかぶる。
「さようなら」
「ああ」
かつて仲間同士であった男たちの、
最期の戦いが始まる。
セルデルが防壁を張り、イサギの進軍を止める。
イサギは破術を放ち、その壁を破潰した。
力の入らない腕を鞭のように振るう。
遠心力を乗せて、カラドボルグをセルデルに叩きつける。
殺った、と思った。
これで全てが終わる。
だが、壁に阻まれた。
先ほど破潰したはずの、だ。
剣と法術が衝突し、火花が散る。
どうして、と頭のどこかで叫ぶ。
破術の入りが浅かったのだ。
もはやイサギの体は反作用にすら耐えきれなくなっている。
反動でふらつく。
セルデルの笑みが見えた。
セルデルは勝利を確信する。
彼はすでに極術の詠出を開始していた。
杖を向け、標準を絞り込む。
イサギはもう、避けられない。
そんな体力は残っていない。
赤いコードが世界を埋め尽くす。
魔世界革命の証は、魂髄と魔髄を経由し、
神世界のエネルギーをこの地上に注ぎ込む。
セルデルの杖に神の力が溢れる。
凝縮しきれなかったエネルギーは光となり、
地上に第二の太陽を描いた。
神の奇跡が顕現しようとしている――。
そしてそこで、烈日は破裂した。
セルデルの額が割れ、血が噴き出る。
極術を、セルデルはもう支えることができなかったのだ。
傾いた発射台は、光を維持できない。
極術は暴発する。
天へと向かい。
空に放たれた極術は、空中で爆散した。
降り注ぐ赤い光は死の雨であった。
それはエディーラ神国首都に甚大な被害をもたらす。
ありとあらゆるものを溶かし尽くす、神の涙だ。
雨はイサギの体にも降り注いだ。
その一滴一滴が、彼の魂をえぐる。
イサギは剣を振るう。
もはやその意識は、ほとんど失われていたのに。
魔力も尽きたはずのセルデルは、術式を唱えている。
目がかすんで、そのコードの内容すら読み取れない。
いや、
もう、なんだって構わない、か。
ここで死ぬのだ。彼も、自分も。
セルデルが術を放った。
「――!」
音も聞こえない。
無音の暗闇だ。
世界が閉じてゆく。
自分の剣はセルデルを砕いただろうか。
もはやその結果すら、見届けることはできない。
イサギは死の淵にいた。
ただ孤独の中、
虚無と激しい怒りが渦巻いている。
ここに光はない。
闇の中、イサギはさまよう。
遠くに瞬くものがあった。
あれはなんだろう。
近寄って気づく。
思い出だ。
まるで夜行列車の窓のように輝いている。
光景が流れてゆく。
これまでの旅の記憶が、
イサギの脳裏を過ぎ去ってゆく。
浮かぶのは、殺戮の記憶ばかりだ。
何の変哲もない中学生だった自分が、
突然異世界に呼び出されて、人を殺すことになった。
神剣クラウソラスを持たせられて、
朝から晩まで、人殺しの技術を叩き込まれたのだ。
休む暇はなく、眠る時間すら満足に与えられなかった。
血を吐くような鍛錬の結果、イサギは旅に出た。
都市から都市へ。
戦地から戦地へ。
その道中、数え切れないほどの人をころした。
何人も何人もこの手で斬り殺してきた。
これでどうやって正気を保てるというのか。
かつての仲間も、もういない。
戦う意味など、もうどこにもない。
イサギの前には、川が広がっていた。
血の色をした川だ。
川の対岸に、若きバリーズドがいた。
彼はこちらを悲しそうな目で見つめている。
どうしてそんな顔をするんだよ。
バリーズド、俺は精一杯やったよ。
アンリマンユを倒して、カリブルヌスを倒して。
セルデルを倒して、世界の破滅を三度も救ったじゃないか。
セルデルを殺した後は、俺はどうすればいいんだ。
今度は廉造や慶喜、愁を殺すことになるんじゃないか。
だから、もういいだろう。
セルデルを連れてさ、俺もそっちに行くよ。
なあ、もういいだろう。
戦っても戦っても、終わらないんだ。
だから。
もう。
いいだろ?
なあ。
イサギは歩き出す。
ゆっくりと、川へと。
その足が、ふいに止まった。
手を引かれて。
なにものかに引き留められた。
失ったはずの左手に、柔らかい感触が伝わる。
振り返る。
その姿は見えない。
光で縁取られたそれは、
女性の姿をしていた。
イサギの暗闇を照らす光だ。
暖かくて、まぶしくて。
とてもきれいで。
誰だろう。
彼女はイサギの手を引く。
その名前が、思い出せない。
彼女は一体。
光は、必死に首を振る。
だがその力はあまりにも弱く。
すぐにもふりほどけそうなほどだったが、
イサギは彼女をじっと見つめていた。
思い出せない。
彼女は、彼女は一体。
なにか、
とても大事なものを失ってしまったような気がした。
これ以上、
捨てるものなどなかったと思っていたのに。
『それ』を失い、
自分はまた現世に戻るのか。
『それ』が彼女の望みだというのか?
それは、
あまりにも、残酷で。
それが、
イサギの定めだというのなら。
それに、
抱かれながらイサギは。
――イサギは覚醒した。
剣は根本までセルデルの体に突き刺さっていた。
事象を把握することなく、イサギは本能に突き動かされる。
それからの行動は、無意識だった。
イサギは『左拳』を固めて、
セルデルの心臓に破術を叩き込んだ。
カリブルヌスを破潰した破術。
ラストリゾート・フィナーレ。
か細いその一撃は、セルデルの魂を砕く。
「かっ」とセルデルは血を吐いた。
彼の血を浴び、遅れて、気づく。
そういえば彼は何の術を唱えて。
いたの、か。
腕が――。
左腕が、生えている。
いくつもの枝が折り重なるようにして、
根本から伸び、骨となり、肉を作っていた。
痛みはなく、むしろ心地が良い。
脳から溢れた快楽物質は、イサギに絶叫を促した。
「ああああああああああああああああああ」
回復術だ。
セルデルは最期の力で、回復術を使ったのだ。
なんてことを。
なんてことをしたのだ。
これだけは使っていけない術だったのに。
緑色の光に包まれたイサギは、叫ぶ。
「なぜだ!
なぜ! セルデル!」
膝を折るセルデルの胸ぐらを掴む。
彼は笑みをこぼす。
「……あなたが、これから……
このせかいを……どうするか……
私はせいぜい、みまもって、あげますよ……」
「人体の欠損を回復するような真似をしたら、
俺は、俺は、あの冒険者たちのように……!」
「……ふふふ、はははは……」
セルデルの笑い声にゾッとした。
イサギは彼を離し、顔を押さえながらよろめく。
「お前はそうまでして、
俺に生きろというのか……!」
冒険者たちの末路が脳内をよぎり、
イサギは吐き気を押さえながら後ずさりをした。
「俺は、どうなってしまうんだ……
一体、俺は……いつまで俺で、いられるんだ……」
セルデルはイサギの体に呪いを刻みつけた。
それはあまりにも深く、イサギの心を侵す。
神化病。
その名は今、イサギの身に降りかかった。
自分が自分でなくなってしまったような気がした。
左腕はもはや完全に修復されてしまっている。
全身の血が逆流してゆくような気分だった。
痛みがないのが、さらに恐怖を煽る。
イサギは両手で自分の頭を掴む。
なにが変わったのだ。
わからない。
思い出せないのだ。
魂が欠けてしまったから?
そんな、そんなことが。
思考には変化はない。
だが、一体なにを失ってしまったのだ。
それは恐らく、
自分の根源とも呼べるほどに大切なものではないのか。
セルデルの死体を見下ろしながら、イサギはうめく。
「誰かが、俺を、暗闇から引き出してくれたんだ……
彼女は、この世界で俺を待っている……
だが、一体、誰が……誰だったんだ、あれは……!」
たった一度の回復術が、
どこまで魂に作用するのかわからない。
セルデルは自分の術は完璧だと言っていた。
リヴァイブストーンよりは、よっぽど自我を保っていられるだろう。
もしかしたら、神化病などは無縁の術だったのかもしれない。
けれど、間違いなく喪失感がこの胸に渦巻いていた。
それはイサギの想像力によって増幅される。
自分もいつか、カリブルヌスのようになってしまうのだろうか。
不治の病を申告されてしまったかのように、イサギは震撼した。
その場にひざまずく。
祈るべき神は、もういない。
崩れかけた女神の塔は、
少年を嘲笑っているかのようだ。
セルデルの亡骸のそばで慟哭するイサギに、
しかし、休息などは与えられなかった。
「貴様か……!」
いつの間にそこにいたのか。
あるいはずっと前から潜んでいたのか。
イサギの回りには神殿騎士の一軍がいた。
災害に駆けつけてきたものたちだ。
謎の仮面の男のそばには、セルデルの亡骸。
潰れた女神の塔。
そしてえぐれた大地。
イサギは多くの人々に取り囲まれていた。
誰もが表情に恐怖を浮かべながら、イサギを見つめている。
「セルデルさまを、よくも……!」
「貴様、何者だ!」
「この被害は、一体なんだというのだ……!」
イサギは忘我の底から引き戻される。
自分は、何者だ。
何者なんだ。
「俺は……」
彼はゆっくりと立ち上がる。
「俺は」
その瞳には意志があった。
イサギは右手にバリーズドの剣を、
そして左手に、女神の聖杖を掴む。
死ぬ時だと覚悟した。
だが、誰かに救い出された。
セルデルによって呪いを与えられたけれど。
けれど、イサギは立ち上がる。
生きろと、言われたのだ。
彼女は確かに、自分にそう言ったのだ。
「そうだ、俺は……」
この世界にまだできることが、あるのか。
それは一体、なんだというのか。
そんなことは、決まっているか。
そうだ。イサギにできることなど、ひとつしかない。
殺戮だ。
イサギは大きく息を吸う。
頭の中は澄み切っていた。
回復術は凄まじい効果だ。
疲労も怪我も、なにも残っていない。
だから、大丈夫。
まだ、歩き出せる。
イサギは群衆に向けて告げる。
「我が名は神殺しのラストリゾート。
世界を破壊し、変革する者の名だ。
きょうこの時、ひとつの世界は終わりを告げた。
今より、新たなる物語が始まるのだ」
歩き出すイサギを止めるものは、
もはやどこにもいなかった。
皆が皆、彼の凄まじい殺気の前、
動くことができず、ただ震えていた。
イサギは、人垣を斬り開く。
「俺は征くぞ、セルデル」
全ての神を滅ぼすために。
神化病を撲滅し、
そして、血の海の底に沈むために。
イサギは雪を踏み締め、
歩き出す。
Episode:6 たとえ此の先、全てを失おうとも End
そして半年後――
新たな物語は、ハウリングポートから始まる。