6-8 天国旅行
セルデルと会う、約束の日が来た。
しんしんと雪の降る中、イサギは外套を被り、女神の塔へと向かう。
一応の準備として、正体を隠すために仮面を身につけていた。
バリーズドの葬儀に出席する際にかぶっていたものだ。
すれ違う町の人達はぎょっとした顔で振り返ってくるが、イサギは気にしていなかった。
恐らくはただものではない雰囲気が漏れ出てしまっているのだろう、と思う。
気配を殺すのはすでに癖になっていたが、
これだけはもう隠し通せるものではないな、と諦めたようにイサギは胸の中で自嘲する。
雪の足跡を残しながら塔へと急ぐ。
足取りは軽かった。
女神の塔の前にも神殿騎士がいた。
いや、力量から察するに、セルデル配下の四八使徒だろうか。
彼らもなぜかイサギに対し面妖なものを見るような目つきをしていたが、
手紙を渡すとたちまち態度を変えた。
「し、失礼しました。
それでは中へどうぞ。
剣だけ、お預かりいたします」
「ああ、頼んだ」
バリーズドの剣を渡して、
仮面を懐にしまうと、イサギは中に足を踏み入れた。
流れる空気の味が変わった……ような気がした。
女神教の聖地、女神の塔。
そこは神社や寺に雰囲気が似ているな、とイサギは思った。
それとも宗教上の施設はみんなこんなものなのだろうか。
薄暗い塔の内部には、あちこちに女神を模したレリーフが刻まれていた。
それとともに、塔全体を支える柱が三本立ち並んでいる。
長椅子の間をすり抜けながら、目的地へと急ぐ。
セルデルが待つのは、端の小部屋だ。
ゆるしの樹洞。
女神教徒にはそう呼ばれている。
棺桶のように狭い部屋がふたつあり、間には仕切りがあって、
お互いの正体はわからないように隠されている。
現代日本で言うなら、懺悔室そのものである。
開きっぱなしになっていた片方の部屋に入ると、隣にはうっすらと人の気配がした。
扉を閉めると、完全に周囲の様子がわからなくなる。
この部屋全体になにか術式が張り巡らされているように感じた。
どこか奇妙な居心地だ。
それなのに安らぐのは、どうしてだろう。
椅子に座って待っていると、言葉がささやかれた。
『女神は全てをゆるします』
それは、間違いなくセルデルの声だった。
どことなく遠いような、くぐもったような感じがした。
特殊な作りをすることにより、信者に異界感を与え、
懺悔を促しやすくするようにできているのだろうか。
しかしなるほど。
ここならきっと、外に会話が漏れることはないだろう。
彼に習い、イサギも言葉を返す。
「20年前の世界から、戻ってきたよ」
カーテンの向こうから沈黙の気配が漂う。
続ける。
「20年前から戻ってきたら、この世界はおかしなことになっていた。
バリーズドは死ぬ前に、俺にアルバリススの未来を託すと言ったんだ。
だから俺は、この世界の間違いを正してみせる。
今、人間族と他種族は非常に危うい関係にあるんだ。
その関係を修復するためにも、どうか協力してくれないか、セル」
彼から返事はない。
それでも、続ける。
「リヴァイブストーンを作ったのはお前だと聞いたよ。
きっとそれは、冒険者を救うためのものだったんだと思う。
だけど……あれは本当は、使ってはいけないものだったんだ。
回復禁術を利用した人間は、魂がすり減ってしまい、
いずれは神化病という不治の病に侵される。
カリブルヌスがダイナスシティ王城を破壊した話は聞いただろう。
あれが成れの果てなんだ。
だからセル、冒険者たちがそうなる前に、お前が皆に説得を……」
そのイサギの言葉を遮るように――
セルデルは告げてきた。
『イサギさん、あなたはあの時のままなんですね。
呆れるぐらいの、正義バカです』
「……まあ、そうかもな」
『昔も聞きましたね。
自分の体を投げ出しながら誰かのために戦うあなたに。
異界人のあなたが一生懸命、血を流すのが、私は不思議でした。
どうして自分の世界のことでもないのに、そんなことができるのか、と』
「そんなこともあったな」
『そうしたら、あなたはなんと言ったか覚えていますか?』
「覚えているよ、セル」
イサギは鼻の頭をかく。
少し照れ混じりに、伝える。
「『この世界には好きな人がいるから』。
……確か、そんなことを言ったかな」
『ええ、そうです。
疑うつもりではありませんでしたが、
本当に、イサギさんなんですね』
「なんだよ今さら」
ため息が聞こえてきて、イサギは少し笑う。
『一年近く前、魔族の召喚陣フォールダウンが起動されたという情報を耳にしました。
それによって、この世界に帰ってきたんですか?』
「まあ、そうなるかな。
魔王を倒した直後に、さ。
だからお前たちと旅をしたことは、昨日のことのように覚えている」
『なんだか不思議ですね。
私には20年の時が流れているのに』
「そう、だな」
『この20年は、過ぎ去ってしまえばあっという間の出来事でした。
魔帝戦争の後片付けに5年。そして新たな世界を基礎を作り5年。
私の野望を叶えるために、さらに10年の時が経った』
「野望……?」
奇妙な単語だ。
思わず聞き返したが、セルデルは取り合わなかった。
『イサギさん、リヴァイブストーンなんて、大したものではないんですよ』
「いや、あれは神化病を引き起こすトリガーで……」
『それが一体なんだというのですか。
世界が滅びるといっても、私の力があればどうにでもなります』
「お前……?」
一体、どうしたのだろう。
彼の口調がわずかに揺らめく。
『魔帝アンリマンユを倒し、私は英雄となった。
バリーズドさんは冒険者ギルドを起こし、プレハさんはどこかに去りました。
私の邪魔をするものはどこにもいなかったのですよ。
今この瞬間まではね』
「……どういうことなんだセルデル」
彼がなにを言っているのか、わからない。
二日前に会ったときは、あんなに穏やかだったというのに。
『もはやこの世界にイサギさん、あなたは不必要だということです』
わからない。
なぜそんなことを言うのか。
自分たちは友ではなかったのか。
「しかし、魔族との戦争を止めるために俺がここまでやってきたんだ。
……不必要ってことはないだろ。ひどいな」
『それなんですよ、イサギさん』
「え?」
『この世界の人族にとって、あなたは強大すぎる。
あなたは完全に過ぎた力なんです。
召喚者にとって、あらゆる願いを叶えてしまう。
それを善悪に関わらずに、ね。
この世界はあなたがいなくても上手く回っていた。
いや、あなたがいないからこそ、私がここまで必要とされたのです』
「ちょっと待てよ、お前……」
本当にセルデルなのか、と問いかけそうになる。
「じゃあなにか。
このまま戦が起きて、
リヴァイブストーンによって世界が滅びても、
それがこの世界の本来のあるべき姿ということか?」
『すぐにそれだ。
なにが正しいか間違っているかを判断するのは、
この世界に住む私たちであって、異世界からやってきたあなたではないんですよ。
あなたは私にとって、異物を排除するためにやってきた抗体のようだ』
「俺は請われてこの世界にやってきたんだ。
託された願いは、その人たちの希望そのものだ。
今さら、他人事だと思ったことは一度もない!
それにお前が作ったリヴァイブストーンはあまりにも危険過ぎるんだ」
『ええ、“次”はもっとうまくやりますよ』
「セルデル――」
怒鳴りながら、敷居を開く。
だが、そこには彼の姿はなかった。
「え」
代わりに、少女がいた。
尖った耳をしたエルフの少女が縛られて口を塞がれて、
まるで助けを求めるように、こちらを見つめていた。
彼女は先日見かけた、あの身よりのないエルフ族の少女だ。
腕を後ろに回されて、薄い下着を身につけていた。
目に光のない彼女は、何度も小さく首を振る。
気づく。
彼女の脇に伝声管が伸びていた。
セルデルの声はそこから聞こえている――。
『相変わらず、仲間には甘すぎる。
それがあなたの弱点ですよ』
なんだこれ。
一体なんでこんなことが起きているんだ。
身の毛がよだつ。
頭は真っ白だった。
無意識に、イサギは手を伸ばす。
少女を助けようと。
指先が窓に触れた瞬間、痛みが走った。
障壁によって防がれたのだ。
伝声管から聞こえてきた声は、
まるで氷のように冷たかった。
『さようなら』
次の瞬間、
樹洞は術式によって押し潰された。
杖を持つセルデルは離れたところから、その様子を眺めていた。
その周囲には、いつの間にか騎士たちがいた。
完全武装の鎧の上から法衣をまとった、剣を持つ精鋭たち。
その数48名。四八使徒である。
あのイサギがこれだけの人数が女神の塔に入っているのに気づかないとは、
さすがはこの日のために作った魔具『ゆるしの樹洞』である。
ゆるしとは赦し。
この世界からの、女神の愛からの解放に他ならない。
セルデルは伝声管の受話口を放り投げると、
さらに念を入れて、瓦礫と化した樹洞をもう一度法術で潰す。
しばらく待ち、
なにも音がしなくなったのを確認すると、彼は高笑いをした。
「ハハハ、ハハハハハ」
目的を遂げた彼は、
もはやその本性を隠そうとすらしていなかった。
「愚かな人です。
20年の時の意味も知らずにこんなところにのこのこと。
その正義感は、死んでも治ることはないでしょうね」
潰れてしまった小屋の下からは、赤い血が広がっていた。
念には念を入れたが、さてどうか。
何人かの騎士に指示をして、死体を掘り起こすように命じる。
長剣と騎士盾を構えた騎士が、慎重な足取りで潰れた小屋に近づく。
その瞬間――
まるで噴火するように、残骸が吹き飛んだ。
砕いた床から、ゆらりと這い上がってくる少年。
土埃に汚れてはいるが、彼はまったくの無傷だった。
見たところ魔具も身に着けていないというのに。
騎士たちが慌てて飛び退き、剣を構える。
だがイサギの表情は、うつろだ。
彼の瞳には生気がなかった。
「……あの子は……?」
彼は自らの手のひらを見つめていた。
呆然とつぶやく。
「……助けられなかった……
一体あの子は、なんだったんだ……?」
イサギは自らの顔を両手で覆う。
これがこの大陸で最も強いと言われた勇者の姿であるとは、
恐らく誰にも思えないだろう。
彼は一時的な心神喪失状態に陥ってしまっていた。
使徒にフォーメーションを指揮しながら、セルデルは告げる。
「特にどうということはありませんよ。
ただ、ああしたほうがあなたの気を引けるかと思ったのです」
彼を取り巻く絶望の色が、さらに濃くなった、
イサギは両手で顔を押さえる。
「……ただ、それだけのために……?」
イサギは震えていた。
「しかし、これでも死にませんでしたね。
あなたの生き残るための能力は、やはり凄まじい」
セルデルは眉を歪める。
イサギはあの一瞬で床を壊し、地面に逃れたのだ。
それで上からの衝撃をかわしたのだろう。
20年の時を越えてなお、戦闘にかけては天才的なひらめきを持つ男だ。
「しかし、心の弱さはまだ、克服できていないようですね。
共倒れになってくれればありがたかったのですが、
ひとりの少女をたやすく見捨てて自分だけが助かるとは、
かつてのあなたを知る私にとって、その点だけは少しだけ意外でした」
「違う、俺は……」
セルデルの言葉をイサギは拒絶する。
そして、あくまでもひとつの命に固執する。
彼ほどの男が。
「なぜだ!
あの子が一体なにをしたと言うんだ!」
「私が私の奴隷をどうしようと、私の勝手でしょう?」
「セルデル!」
「あなたは本当に、愚かな人だ」
ため息をつくセルデル。
その男は嘲るような視線でイサギを見た。
無手のイサギは取り囲まれていた。
まぶたの裏には、ひとりの少女が潰れる映像が焼きついていた。
瓦礫を眺めると、その辺りに赤い血が飛び散っているのが見えた。
思わず息が詰まり、叫び出してしまいそうになる。
なぜ彼がこんなことをしたのか、
イサギはまだ、理解ができなかった。
戸惑う少年に、セルデルは告げる。
「イサギさん。
あなたは確かに素晴らしい剣士だった。
けれども武器もなしに、この状況を切り抜けられますか」
「……」
イサギは俯いたまま拳を握る。
そんなことは今、どうでもいい。
震えはまだ止まらない。
「……セルデル、お前はどうしてしまったんだ。
まさか、何者かに洗脳でもされていたのか……?
昔のお前ならこんなことはとても、考えられない……」
その言葉を、天主教は鼻で笑い飛ばした。
「冗談でこんなことはしませんよ。
相変わらず理解が遅い方だ」
「……」
「まだ事情が飲み込めないようなので、説明して差し上げましょう。
私たちはあなたが邪魔なのです。
せっかく人間族だけの世界ができあがろうとしているのに、
なぜ今さら蒸し返すようなことをするのですか」
「それは、多くの犠牲の上に成り立った世界だろう!」
「せっかくドワーフ族を皆殺しにさせて、
エディーラ神国で私は地位を築いたのですよ。
あなたが来ては何もかもが水の泡となりますよ」
イサギは自分の耳を疑った。
「……お前、今、なんて」
セルデルはイサギを見下す。
「あの魔晶鉱山を得るために、ドワーフは邪魔な存在でしたからね。
誤算だったのは、ドワーフの死体を集めても極大魔晶ができあがらなかったことです。
彼らの所有魔力があれほどまでに低かったとは」
イサギは片手で目を覆う。
あのダイナスシティの王城で話したことを思い出す。
無骨な傭兵王に刻まれた、苦悩のシワの数を。
「……バリーズドは、ずっと悔いていたぞ……
自分のせいで、ドワーフ族が滅亡した、と……」
その声はかすれていた。
「ええ、バリーズドさんにはそう思わせていたほうが都合が良かったのですよ。
冒険者ギルドの弱みを握れる上に、カリブルヌスも私につきましたからね。
タイタニア大山脈を開拓するに当たって、一石三鳥でした。
もちろん、あなたの提唱した冒険者ギルドにはとても感謝していますよ。
あれはとても便利な組織だ。
リヴァイブストーンさえ与えれば、なにもかもを滅ぼしてくれる。
ドラゴン族やピリル族、それに魔族を殺し尽くすのも時間の問題でしょうね」
イサギはよろめきながら、後ずさりをした。
「……そうか。
お前だったのか……セルデル。
お前が……」
バリーズドの無念は、セルデルによって仕掛けられたものだったのだ。
48人の騎士たちは、微動だにしない。
どの男たちの顔にも、もはや表情らしい表情は浮かんでいなかった。
以前会ったときは普通の男だと思ったのに、あれは演技だったのだろうか。
セルデルによって、“改造”されてしまったのかもしれない。
「どうしてなんだ……
どうして、こんなことに……」
「あなたがそのまま戦意を喪失してくれていたほうが、私は楽ですけれどね。
なにもかもが私の思い通りでは、“張り合い”がない。
あなたを倒せたのなら、名実ともに私の軍団は大陸最強だと証明できるのですが」
剣を先に取り上げて、だまし討ちまで仕掛けておいて、よく言うものだが。
それら奸計も含めて、セルデルの力、ということなのだろう。
イサギはただ、震えていた。
「しかし、セルデル……
お前だって、この世界のために……
リヴァイブストーンを作ったのだって……」
「ええ、私の都合の良い世界のために、ね」
3年間ともに戦った仲間の豹変を、イサギは信じたくなかったのだ。
バリーズドがあの頃のままだったから、なまじ余計に。
人は20年もあれば変わってしまえるということが、
まだ17才のイサギにはわからない。
友情は永遠に続き、
愛はなによりも強いのだと信じている少年には、わからなかった。
それが夢物語であり、
人と人の結びつきはとても儚いものであるということが。
「はは……なんだよ、これ……
魔族を弾圧していたのも、リヴァイブストーンを作ったのも、
冒険者を苦しめていたのも、全部、全部、お前の仕業だって……?
なんだよ、それ……
俺はお前を殺すために旅に出たっていうのか……?」
イサギは顔を押さえながら、笑う。
もはや理性は彼の感情をも統制することができなくなっていた。
「なんだよ、これ……
俺は、ただ、お前に会いに来て……
それで、あの頃のくだらない話とかしながら、さ……
お前は俺をたしなめて、バリーズドと笑い合って、
それを、プレハが呆れながらも、見守っていてくれて……
俺はそんなことがまた、できると信じていたのに……
やめてくれよ、セルデル……
俺とお前は、命を支えあった仲間だったじゃないか……」
「お互い、目的のためにはアンリマンユが邪魔でしたからね。
それを仲間だというのなら、
確かにあなたと私は仲間と呼んでも差支えはありませんでしたがね」
引きつった笑いがこぼれた。
「……はは……
くだらねえ……
これが、今のこの世界が、
本当のアルバリススだってのか……」
イサギは自分のなにかが失われてゆくのを感じる。
空っぽだと思っていた自分にも、愛が生まれたと思っていた。
仲間を守ることが彼らの夢に繋がるのだと、信じていたかった。
けれど、そんなものは無意味だったのだ。
すがるようなものは、もうなにも。
デュテュによって召喚陣で呼び出されたのも、
暗黒大陸で人間族のために友達たちを鍛えたのも、
廉造や愁が己の舞台で戦い続けていたのも、
スラオシャ大陸を旅をしたのも、
バリーズドが無念のうちに死んだのも、
すべて、すべて、セルデルの仕業だったというのか。
どこまでも堕ちてゆきそうになる。
必死で掴んだのは、わらのような光だった。
「そ、そうだ……
あ、あ、あの、エルフたちは……!」
「はあ?」
「お前が、助けたと、言っていた!
ミストランドのエルフたちを、エディーラ神国が保護したと!」
「ああ」
エウレがそう言っていたのだ。
イサギはくしゃくしゃの顔でセルデルを見やる。
彼は面白そうに笑っていた。
心臓を掴まれたような悪寒がする。
「その通りです。
私はそう思われるように行動をして来ましたからね」
「……どういうことだ」
これ以上聞きたくはない。
けれど、セルデルは答える。
「エルフのように綺麗なものを汚すのは、たまらなく心地良いとは思いませんか。
私がカリブルヌスを仕掛けたこととも知らずに、あの方々は私を頼るのですよ。
あれほど理知的で思慮深く、誇り高い一族が。
ゾクゾクしませんか。
これに優る快感は、そうありませんよ。
私の屋敷には今、6人の美しいエルフ族が仕えてくれていましてね。
フフフ、皆、私に心酔してくれておりますよ」
「……セルデル」
もうだめだ。
イサギの知っているセルデルは、死んでしまったのか。
もうここにはいないのか。
それとも初めからいなかったのか。
目の前に立つ男は、一体何者だ。
醜悪な心を持つ、腐り切った男なのか。
その邪悪は口を開く。
「しかし、それも最近では面白くなくなりましてね。
ひとりかふたり、躾がいのあるエルフ族がほしいと思っていたのですよ」
「……」
「暗黒大陸に召喚されたあなたなら、ご存知ではありませんか?
私たちとも懇意にしていた、あのリミノ第三王女のことを。
後一歩のところで、ミストランドから取り逃がしてしまいましてね。
そうだ、彼女を捕まえてきてくれたのなら、あなたをここで見逃しても構いませんよ。
あの可愛らしい顔が歪む姿を想像すると、楽しみでなりませんからね」
「……」
くだらない。
本当に、くだらない。
怒りで視界が歪む。
憎しみで耳鳴りが止まらない。
そうだ。
彼は人間ではないのだ。
魔物だ。
きっと最初から、魔物だったのだ。
魔物は殺すべきだ。
人間を襲うのだから、殺すしかない。
彼は人間を襲う魔物だ。
アルバリススに巣食う悪意だ。
だから殺すのだ。
殺そう。
今すぐに。
さあ。
殺そう。
――迷うことは何一つない。
彼は、魔物なのだから。
イサギは足を一歩踏み出し、床を踏み砕く。
間髪入れず、セルデルは飛び退いた。
「かかりなさい! お前たち!」
48人の騎士たちが一斉に動き出す。
イサギは素手で彼らを迎え撃った。
四八使徒の練度は高く、その連携はA級冒険者をも遥かに凌いでいた。
やがて近接攻撃だけでは対応しきれなくなり、
イサギはポケットから遊戯札を取り出した。
今この場では、唯一の武器だ。
「……セルデル……」
イサギは、襲いかかる男の顔に次々と札を投げつける。
わずかな闘気をまとったカードは、騎士たちの兜を割ってゆく。
統制の取れた連携に、たったひとりで応戦するイサギ。
そのカードは人間ひとりぐらいなら間違い無く殺傷するほどの威力があったが、
しかし騎士たちはその程度の傷はすぐに癒えてしまう。
回復術だ。
さらにセルデルが障壁を張り巡らせている。
その男は、48人をたったひとりで守り続けているのだ。
セルデルはまるで人形遣いのようだった。
カードは壁に弾かれて焼き尽くされる。
「得意の破術を使ってみたらどうですか? イサギさん!」
セルデルは笑みを浮かべてイサギを挑発する。
そんなことをしたら、次の瞬間に騎士たちから串刺しにされるとわかっていて、だ。
「……」
セルデルは破術の仕組みを理解している、初めての敵だった。
相手はイサギの攻撃を完全に防御し続けている。
たとえ一撃を加えたとしても、セルデルの唱える回復術は一瞬で騎士を完治させた。
そもそも今までに戦ってきた相手とは回復術の質が違う。
怒りに目が眩んでいるイサギでも、その程度のことはわかる。
もはや戦闘についての洞察は、体に染み付いていたことだった。
なんとか武器を奪おうと試みるが、騎士たちは腕を折られても剣を手放さない。
「これが“本物の回復術”ですよ。
かつて禁術として世界を恐れさせていた回復術とはまるで別物です。
わかりますか。これさえあれば人間族は誰にも負けません。
私はこの力でスラオシャ大陸を統べたのですよ!」
イサギはやはりカードを投げ続ける。
急激に神化しつつある騎士たちに、まともな攻撃など加えられない上に、
その狙いも乱れ始めていた。
放った札は命中することなく、壁や柱に突き刺さる。
彼の残弾が切れつつある中、
絶対的優勢に、セルデルは勝利を確信した。
「勇者イサギにすら、私は勝てる……
やはり私は間違っていなかった……!
フフフ、ハハハハ! 禁術は素晴らしい! 最高の力だ!」
イサギはついに壁際に追いつめられる。
彼の瞳は虚無に満ちていた。
「――セルデル」
イサギは、外套の中から仮面を取り出した。
それをゆっくりと装着し、セルデルを見つめる。
不快な目だ、とセルデルは思っていた。
驕り高ぶった彼は認めようとはしなかった。
まさか自分が、イサギを前に“恐怖”しているなどと。
「俺は、お前を友達だと思っていた。
友達を手に掛けることなんて、とてもじゃないが、できない」
「この期に及んで――」
「――だから、俺は俺であることを止める。
お前が邪悪なら、俺も邪悪になろう。
お前をひとりでは行かせない。
地獄には、俺も付き合ってやろう」
仮面の奥の目は、深淵のようだった。
セルデルはその脅しを一笑に付す。
「あなたは昔からそういう悪ふざけが大好きでしたね。
私はそんなところも嫌いでした」
「今のうちに好きなだけ嫌悪するがいい。
すぐにそれもできなくなる」
「フッ」
鼻で笑い、セルデルはイサギを囲む格子状の障壁を張った。
ここから脱出するためには、破術を放たなければならない。
しかし、破術を使った直後に、
イサギの体を取り巻く闘気は完全に消滅する。
一定時間、イサギは常人に戻ってしまうのだ。
障壁で囲ったその間に、騎士たちはもはやイサギの間合いに踏み込んでいる。
破術を放った次の瞬間に、イサギは使徒に刺されるだろう。
セルデルはイサギに詰めの一手を放ったのだ。
勝利を確信し、告げる。
「終わりですね」
「ああ」
彼の体から金色の気が舞った。
わずかな動作で、イサギは肘を壁に叩きつけた。
鉄を鉄で打ったような音が響き渡る。
たったその一撃で女神の塔の壁面にはヒビが入り、
外から冷えた空気がなだれ込んできた。
そこから脱出するのかと思ったセルデルはさらに後ろにも結界を張り、
――そして、震動に気づいた。
女神の塔が揺れている。
「……これは?」
「決まっている。破滅の音さ」
「まさか……」
近くからも、岩が割れるような音が聞こえてきて、
セルデルはそちらに目を向けた。
そこでセルデルは気づいた。
女神の塔を支える三本の柱に、いくつもカードが突き刺さっている。
イサギはむやみやたらと札を投げていたわけではなかったのだ。
石に楔が打ち付けられるように、カードは柱の急所を貫いていた。
壁を砕いたその衝撃に女神の塔がわずかに揺れ、主柱にはたちどころに亀裂が広がってゆく。
理解し、唖然とした。
彼がこれから行おうとしている所行。
それは――
「女神の塔を倒すですって……?
そんな、女神の罰が下りますよ……!」
仮面の男は告げる。
「構わない。俺はもはや神を殺した男だ」
ついに柱のうちの一本が割れた。
――天井が落ちてくる。
「女神の壁よ!」
セルデルは杖を掲げ、瞬時に障壁を張り巡らせた。
その法術は女神の塔の上層を支えるほどの堅牢さで、顕現した。
彼がその気になれば、雪崩をもせき止めることができるだろうというほどの規模だ。
セルデルの額に脂汗が浮かぶ。
今のうちに補強工事を施せば、女神の塔はその形を保たれるだろう。
だが――
セルデルは、イサギを見た。
その表情には、驚愕が張りついている。
「……まさか、イサギ、さん……」
イサギは仮面に手を当てた。
その左目は、赤く輝いている。
「うそでしょう。
……そんなことをしたら、あなたを守る闘気すら消えてしまうのですよ。
自殺行為は……やめなさい!」
イサギは口の端を吊り上げる。
悪魔のような笑みを浮かべた。
「言っただろう。
地獄には、俺も付き合ってやるよ。
……セルデル」
騎士たちはセルデルを守ろうとこちらに駆け寄ってきた。
そして、セルデルは絶叫する。
「イサギさん! やめなさい!」
光が瞬く。
セルデルの障壁をかき消し、
世界を正すための、極光だ。
「ラストリゾート――」
次の瞬間、
――女神の塔は崩壊した。