6-5 朝がまた来る
その日、下宿先のリビングで、イサギと愁は契約を結んだ。
愁側からの申し出は、廉造への打診と、
クラスソラスの提供、そして破術の情報だった。
そして、イサギ側からの要望はふたつ。
「ひとつは、魔族国連邦と冒険者ギルドの和解だね」
「……ああ」
「今の僕にどれだけのことができるのかわからない。
けれど、確約しよう。
敵がいるからこそ、
冒険者はリヴァイブストーンを使わなければならないんだ。
だったら、世界が平和になれば、そんなものは必要なくなるからね。
それは僕の目的とも合致する」
「……そうか」
「ああ、約束しよう」
愁は含みを抱いたような顔で笑う。
それが一体どういう意味を持っているのかは、わからなかったが。
「そして、もうひとつのキミの願いだ」
「……」
「20年前にキミとパーティーを組んでいた、
プレハという女性を探せばいいのだろう」
そうだ。
結局イサギだけでは、プレハを見つけることはできなかった。
冒険者ギルドからの情報も、
一体どれが真実なのかを見極めるためには、人手と時間が足りなさすぎる。
組織の力が、どうしても必要だった。
愁は今度の件については、自信があるようだ。
「バリーズドの葬儀に関し、などという名目を立てて、
冒険者ギルドのネットワークを使い、
破格の懸賞金を餌に、緊急で募集しよう。
遠からず、その行方はわかるはずだ」
「助かる。愁」
「感謝されても困るよ。ギブアンドテイクだからね。
それよりも、今は体を早く治しておくれ」
「……ああ、そうだな」
手を振りながら、愁は寝室へと戻ってゆく。
イサギはソファーに寝転がって、天井を仰いだ。
発作的に起きていた左目と胸の痛みは、このところ収まりつつある。
そろそろ動くこともできそうだ。
結局負傷中は、家事も食事の用意も買い物も、
資金集めや情報収集に至るまで、なにもかも愁に任せきりだったが、
ダイナスシティを出る前に、ひとつだけ自分がやらなければならないことがあった。
「……仮面……また彫らねえとな……」
戦いの中で死んだ仲間――
バリーズドの弔いだ。
自分にはその資格は、ないかもしれないけれど。
◆◆
バリーズドの葬儀は、国をあげて執り行われた。
かつての勇者イサギと同じように、だ。
皆に愛されたギルドマスターを見送ろうと、ギルド本部には大陸中の冒険者が詰めかけた。
ハノーファとアマーリエ、そしてフランツはそんな彼らと言葉を交わし、
父の偉大さを改めて気付かされることとなった。
黒のドレスを着たアマーリエは、終始、顔を伏せていた。
結局あれから、イサギと再会することはできなかった。
シュウと名乗る少年――初めは女にしか見えなかった――は笑ってはぐらかすばかりで、
なにも教えてくれようとはしなかった。
腹いせに殴り倒そうとしても、悠々と避けられる。
たかがひとりの冒険者ギルド職員にすらかなわないとは、
さすがにショックだった。
慰めて来るのもそのシュウだから、より惨めさが際立ってしまう。
いつまでも落ち込んでいるわけには、いかないけれど。
自分の未熟さを嫌というほど思い知り、
もっと父のためになにかできたのではないかと、後悔をした。
結局父にはまるで、まるで及ばなかった。
剣技も、覚悟も、なにもかも。
いちから……
いや、ゼロから鍛え直さなければならない。
死に物狂いで、だ。
そうしなければならないことはわかっている。
なのに、アマーリエはいまだ前に進むことができなかった。
カリブルヌスが倒れて、父が死んだ。
それでもまだ、自分の心には決着がついていなかったのだ。
と、その時。
献花の列に紛れて、ひとりの男の姿が見えた。
黒衣の――仮面をつけた、少年だ。
アマーリエはその変装を看破する。
間違いない。あれは――
「あ、ごめん、
お兄ちゃん、フラちゃん、あとよろしくっ」
彼らの制止の声も聞かず、
アマーリエは飛び出した。
人の列をかき分けながら歩む。
仮面の少年はこちらに気づいたのか、花を捧げた後に、すぐにきびすを返した。
逃がすものか。
アマーリエは猟犬のような顔で追いかける。
外は強い雨が降り注いでいた。
アマーリエは大通りに出て、辺りを見回す。
あっという間に彼の姿は見えなくなっていた。
「……くっ」
体を濡らしながらアマーリエは街路を駆ける。
本気で逃げられたらきっと追いつけないということはわかっていた。
だけど、それでも探しに走った。
ここで逃したら、もう二度と会えないような気がして。
全身ずぶ濡れになっても、アマーリエは駆け回る。
ドレスの裾がボロボロになって、ヒールが折れても構わず裸足で走った。
もうなにも諦めたくはなかった。
彼が、そう言ったのだから。
どれくらい走り回っただろう。
路地を曲がったところで、不意に声をかけられた。
「いつまで探すつもりだよ、お前は。
……風邪引くぞ」
塀に寄りかかっている少年が、そこにいた。
探して、求めて、話したかった人の姿があった。
ハァ、ハァ、と息を切らしながら、
アマーリエは彼を見据えた。
「……イサくん……」
仮面をつけたその人は腕組みをしたまま、
小さく首を振る。
「俺のことは忘れろ、アマーリエ」
「……やっぱり、イサくんじゃないの」
濡れてはりついた髪を指で分けて、
アマーリエは彼を睨む。
「……あたし、死んだと思ってたんだからね。
人のことを心配させて、どういうつもりなのよ」
「頼んだ覚えはないな」
「まったくもう、まったくもう……!」
変わらぬ調子のイサギを見て、アマーリエは腹に力を込めた。
違う。そうではない。
少女は両手で自分の頬を張る。
「……違うの!
別に、そんなことを言うために追いかけてきたんじゃないのよ!」
アマーリエは小さくくしゃみをした。
ずぶ濡れになり、鼻をすすりながら、彼を見据える。
「イサくん、あたしはイサくんに命を救われたのよ」
「……大げさだ」
「あたしは死ぬつもりだった。
けど、助けてもらった」
イサギは腕を組んだまま塀に背中を預けている。
今にもいなくなってしまいそうな彼に、アマーリエは想いを伝える。
ずっと、ずっと言いたかったのだ。
「イサくん、あたし、イサくんに、
どんなに感謝をしたところでも、感謝し足りないわ」
「……」
「イサくん、聞いて」
アマーリエは彼の腕を掴んだ。
まるですがりつくように、だ。
「あたしを絶望から引き出してくれたのは、イサくんよ。
……だから、イサくんには、あたしの人生を捧げたいの」
その意味は正しく伝わらなかったのかもしれない。
彼は小さく首を振った。
「俺は、バリーズドを助けられなかった」
心苦しそうに彼は言った。
一体なにを言っているのか、とアマーリエは思う。
彼が気に病むことなど、ひとつもないのに。
「でも助けようとはしてくれた!」
アマーリエはまっすぐに、イサギの黒く澄んだ瞳を見つめる。
仮面の奥の彼の表情はわからない。
「イサくんは、あたしたちのために、カリブルヌスに挑んで、
そして、あたしを、助けて、くれた!」
悲鳴のように訴える。
けれども、届かない。
「……俺はなにもしていない。
カリブルヌスを倒したのは、バリーズドと愁だ」
「なんでそんなこと、いうのよ!」
アマーリエは彼の肩を掴む。
こんなに感謝しているのに。
「イサくん……ホントのことを言ってよ。
……ホントは、ホントはさ、
20年前の勇者の、イサギさま、なんでしょう?」
「……」
「あたしだってバカじゃないんだから、それくらい気づくもの。
ねえ、イサギさま、あたしも連れてってよ。
父さんみたいに、この世界を救う旅に、ねえ、イサギさま!
そうじゃないとあたし、父さんに胸を張れないよ!」
「人違いだよ、アマーリエ」
彼はアマーリエを押し退け、歩き出す。
まだ話はなにも、終わっていないのに。
「俺はただの旅人さ」
「うそだよ、イサくん!」
「アマーリエ」
彼は振り返り、静かに告げてくる。
「フランツもだ。
冒険者は続けても構わない。
それがお前たちの生きる道ならな。
……だが、リヴァイブストーンだけは使わないでくれ。
俺はお前を、殺したくはない」
「イサくん……」
アマーリエは手を伸ばす。
が、仮面の男はもう立ち止まらない。
彼はそのまま、歩いてゆく。
雨が地面を叩き、
アマーリエはその場に崩れ落ちた。
「……どうして、殺すって、なんなのよ……
イサくん……そんな、どうして……」
頬を撫でる雨は、まるで涙のようだった。
◆◆
やるべきことは全て済んだ。
家についたイサギは仮面を外し、旅の準備を整える。
最後にアマーリエとフランツの無事な姿を見て、少しホッとした。
……彼らの父親の命を助けてやることはできなかったが。
自責の念と罪悪感は消えないけれども、それは仕方ない。
イサギはこの想いと恐らく、一生付き合ってゆくのだろうから。
せっかくだから、何通かの手紙を書くことにした。
廉造だけではなく、慶喜やリミノ、デュテュにもだ。
冒険者ギルド間の遠隔筆記でハウリングポートまではすぐ届く。
そこから先は、愁のツテでメッセンジャーに頼み、暗黒大陸にまで送ってもらうのだ。
本当に、愁は有能な男である。
新たに旅の準備を終え、
デュテュからの手紙を大事そうに鞄の一番奥にしまった。
この街でやるべきことはもう、なにもない。
あとは雨音を聞き、手紙を書きながら過ごすとしよう。
エディーラ神国は、パラベリウ中央国家のすぐ隣だ。
今度の旅は、そう長くはかからない。
セルデルに会って、
リヴァイブストーンの流通も停止させたら、どうしようか。
一度暗黒大陸に帰るのもいいけれど。
やっぱり、プレハを探そう。
愁のおかげで、光明を見い出すことができたのだ。
何年かけてでもプレハを探し出そう。
プレハに会いたい。会いたかった。
募る慕情に胸を締め付けられながら、イサギは羽ペンを動かすのだった。
◆◆
夜明けのダイナスシティは薄暗かった。
分厚い雲が日差しを遮る曇天の下だ。
ここはダイナスシティの馬車の待合場所。
見送りに来たのは、ギルド職員の制服を着た愁だけだ。
トッキュー馬車の切符を取ってくれたのも彼である。
早朝、トッキュー馬車の発着場は人の姿がほとんどない。
けぶる朝もやの中、出勤前の愁はさすがに笑顔がくたびれていた。
「キミも忙しいね。もうしばらく休んでいればいいのに」
「そういうわけにもいかないさ。
勇者ヒマなし、だ」
「キミはまるで死に急いでいるように感じるよ」
愁は皮肉げに笑う。
それはどっちだか。
ギルドマスター・ハノーファに取り入り、
ギルド職員としての仕事をこなしながら冒険者とコネを作り、
クラウソラス修復のための鍛冶師を秘密裏に探し、
さらに戦闘訓練まで行ない、
そしてイサギの頼みまで引き受けてくれた愁だ。
寝ている暇すらないだろうに、こうして見送りにも来てくれる。
イサギも彼につられて笑う。
「魔王城にいたときの爽やかなお前は好きだったけどさ、
今のお前のそういう笑顔のほうが似合って見えるのはなぜだろうな」
「キミが僕に対する印象が変わったんじゃないかな」
「かもな」
イサギはいつものように眼帯をしていたが、その衣装は黒衣ではない。
愁が冒険者に相応しいであろう『目立たない格好』を用意してくれたのだ。
なぜその言葉を強調していたのか、イサギにはよくわからなかったが。
「あとこれもね。キミの旅の役に立つだろう」
彼が差し出してきたのは、一本の幅広剣だった。
今イサギが腰に差しているのは、何の変哲もない鉄の剣である。
「晶剣だよ。クラウソラスの代わりにはならないかもしれないけれど、良い剣だ」
「……それは、素直に助かるな」
イサギは愁の好意に甘えようと、剣を受け取る。
少しだけ心許なかったのも確かだ。
長剣を鞘から抜くと、黄金色の刀身が輝いて見えた。
イサギは思いっきり苦い顔をした。
「おい、これ……」
「晶剣カラドボルグ。
別名、雷鳴剣。非常に鋭い切れ味を持つ剣だよ。
ダイナスシティの国宝のひとつだね」
「お前……」
そんなのは百も承知だ。
イサギはこの剣の隣で、三年間戦っていたのだ。
思わずうめく。
「バリーズドの剣だろうが……」
「クラウソラスの代わりとなると、これぐらいしか思いつかなかったんだよ。
これはキミが持つのが相応しいように思えるのだけど、どうだろうね」
「ふざけんな、ハノーファたちに返して来いよ」
ギルドマスターの遺品をかっぱらってきたのだ、この男は。
彼の家族が悲しむとは思わなかったのだろうか。
もちろん言うまでもなく、大罪である。
見つかったら極刑は免れないだろう。
愁はそれがどうしたと言わんばかりだ。
「安心してくれ。バレないように鞘は変えたし、
柄にだって布材を巻きつけておいたよ」
「そういうことを言っているんじゃねえよ……」
「なら感情的なものかい?
でもそれなら、飾っておくよりは使った方がよっぽどいいと思うな。
世界を救うことこそが、キミに託された遺志なのだろう?」
「ぐぐぐ……」
「クラウソラスが折れかけている今、
キミは自分の身は自分で守らなければならない。
そのために、この剣は必ずキミの助けになるだろう。
バリーズドの魂だと思って、受け取ってほしいな」
口の減らない男だ。
「耳触りの良いことばかり言いやがって……」
「ちなみに、キミが受け取らなかった場合、
僕はこの剣を帰りに川に放り投げるからね。
返しに行って捕まるなんて滑稽な目には合いたくない」
「最後は脅しかよ!
お前いっつもそうだな!?
くそう、わかったよ! ありがとうよ愁!」
やけくそに怒鳴りながら、ベルトを腰に巻きつける。
ブロードソードの重さがずっしりと感じられた。
普段振り回している剣よりも、ずっと重い。
しかし今は、その重みがなんだか心地良かった。
仏頂面で首の後ろをかく。
素直にお礼を言えるような気分ではなかったが。
「……ったく……
……ありがたく使わせてもらうよ。バリーズド」
そばにいつでも彼がついていてくれると思えば、
今度の一人旅も心強いものだろう。
愁の贈り物はそれだけではなかった。
「他にも、セルデルに会う際に役立つであろう書状を用意しておいた。
冒険者ギルド本部から直々に謁見の伺いを立てるものさ。
あとひとつ、
キミの旅を手助けするためのカードだ」
封蝋に冒険者ギルド本部の紋章判が押された手紙と、そして封筒を受け取る。
手紙を鞄にしまい、包みを開くイサギ。
見やる。それは冒険者カードだった。
>冒険者登録名:イサ・アサウラ
>冒険者ランク:A
>*所属ギルド:<冒険者ギルド本部>
>ギルドランク:-
>ジョブレベル:剣40 魔40 法40
>ジョブネーム:エージェント
裏面には、行なったこともないようなクエストが列挙されていた。
「こりゃあ……」
「キミの身分を証明するものだよ」
「これもまた、清々しいほどの不正っぷりだなオイ。
どうやったんだよ……」
「別に難しいことじゃないよ。
僕の言うことをなんでも聞いてくれる女の子が、
何人かいるからね」
「お、お前……」
イサギはのけぞった。
愁は薄笑いを浮かべている。
呆れるような犯罪者っぷりだ。
「この分だと、手紙も本物かどうかわかりゃしないな」
「失礼な。僕を見くびってもらっちゃ困る」
「いや、別にお前を疑っているわけじゃないんだけどさ」
「れっきとした偽物に決まっているじゃないか」
「お前ー!」
思わず愁の胸ぐらを掴む。
彼はニコニコと笑っている。
「どうかしたかい?」
「なんだよお前。お前は超人か?
不正の国の王様か? ひとりでなんでもできるのか?
ああ?」
「まさか。僕にできるのは人に“お願い”することだけだよ。
ほらよく言うじゃないか。
僕ができることが僕ができること。
キミができることも、僕ができること、って」
「言わねーよ。
つか一応聞いとくけど、お前、16才だよな。
どっかのロリババアみたいに、若作りしているわけじゃねーよな」
「それは間違いないよ。
でもこないだ誕生日が来たから、17才になったかな」
「……そういえば」
言われて急に思い出した。
イサギは愁を開放し、省みる。
自分もひとつ年を取ったのだった。
ついにこの世界に来てから、四年目に突入か。
ということは、プレハも36才になったのだろうか。
いよいよ四十路の大台が見えてきた……ような気もする。
やばい。プレハもアラフォー突入だ。
そんなイサギの思いを知ってか知らずか。
愁は胸元を整えながら、アドバイスをくれる。
「イサくんも、なにかと便利な女の子を、
何人か用意しておくといいと思うよ」
「無茶を言うなよな……」
「キミ……まさか、その年で童貞ってことはないよね?」
愁は半笑いだ。
どうていちゃうわ、とでも返そうかと思ったが。
首を振る。多少悔しかったものの、自分に嘘をつきたくはない。
「……いいんだ、俺は。
そういうものは、最愛の人に捧げると決めている」
「あはは、あははははははははは」
愁は爆笑していた。
珍しい姿である。
なにがそんなに面白かったのだろう。
ひとしきり笑い転げる彼に、半眼を向ける。
「……っつーかお前も、決まった相手がいたんじゃなかったのかよ」
「あー……はー、面白かった……死ぬかと思った。
急におかしなことを言わないでくれよイサくん、死んでしまうよ。
って、ええ?
400年前に死んだ女の子のために義理を立てておけっていうのかい。
僕はそこまで古風な男じゃないよ」
「どうだかな」
憮然と言い放つ。
愁は肩を竦めた。
「さ、そろそろ出発の時間のようだよ」
「ああ」
愁に促されて、イサギは馬車に乗る。
ここからはまた一人旅だ。
結局、待ち構えていたのに、
彼はバリーズドの葬儀にも現れなかった。
プレハと最後まで行動を共にしていたのはセルデルだ。
きっと彼ならば、より詳しいことについても知っているはずだ。
イサギはそう思い、
リヴァイブストーンと回復禁術についての詳しい話を聞くためにも、
セルデルに会いに行くことにしたのだ。
魔族との戦いを止めるためにも、
愁だけの力では心もとない。
エディーラ神国、天主教の口添えがあれば、
よりたやすくことは進むだろう。
窓から顔を出し、愁に手を振る。
「じゃあまたな、愁。死ぬなよ」
「ああ、そっちこそ。
セルデルはなにかと黒い噂のある男だ。
旅の無事を祈るよ、イサくん」
「サンキュー」
愁の言葉に親指を立てて返答する。
今度は貸切の馬車だ。
背もたれに背中を預けると、否が応にも斜め向かいの席が目に入る。
空耳が聞こえてきたような気がした。
そういえばこの二ヶ月で、治癒術はだいぶ上手くなったな、と思う。
イサギは目を閉じた。
走り出しますよ、と御者のギルド員が声をかけてくる。
イサギは「ああ、行ってくれ」と告げた。
その時だった。
「その馬車、ちょっと待った――!!」
少女の怒号が、馬たちの足を止めた。
イサギは慌てて馬車から降りる。
そこにいたのは、冒険者スタイルに身を包んだ赤髪の少女。
アマーリエだった。
「お前……なんでここが」
ハッとして愁を見やる。
彼はなにも言わずに肩を竦めた。
アマーリエはブロードソードを抜き放つ。
その顔には闘志がにじんでいた。
「イサくん! あたしと勝負しなさい!」
「は?」
「あたしが勝ったら……
あたしも、その旅に、連れて行ってよ!」
「そのことなら、前に……」
言いかけて、口をつぐむ。
そうだ、あのときのイサギは新たな仮面をつけていた。
あれは自分ではない――ということになっているのだ。
「お願い、イサくん。
だから本気で、全力で、あたしと戦って」
「……アマーリエ」
アマーリエの強い視線がイサギを刺す。
彼女はなにかを覚悟して、ここに立っているのだと知れた。
その痛いほどに真剣な態度に、イサギは息を呑んだ。
だが、すぐに首を振る。
「……アマーリエ。
お前とは一緒にいけない。
悪いが、ハッキリと言う。
お前は……まだまだ弱い」
イサギの雰囲気が一変する。
肌を刺すような雰囲気の中、アマーリエは一歩も引かなかった。
「だったらそれを、剣に、証明してよ。
あたしの誇りはこの剣よ」
イサギは受け取ったばかりのカラドボルグに手を伸ばす。
その剣を振るうのは初めてなのだ。
なにが起きてしまうかわからない。
酷薄な声で告げる。
「斬り殺してしまうかもしれねえぞ」
愁が眉根を寄せるのが見えた。
けれども、アマーリエは少しも動じなかった。
「いいよ。
イサくんに殺されるなら、それでもいい」
「……」
イサギはゆっくりと剣を抜いた。
その黄金の刃を見たアマーリエは、怪訝そうにつぶやく。
「カラドボルグ……父さんの……?」
「ああ。この剣は俺が使わせてもらう」
「……うん、わかった。
たぶん、父さんも喜ぶと思う」
切っ先をアマーリエを向けて、イサギは半身に構えた。
対するアマーリエはいつか見た時と同様。
腰を落として、低い態勢だ。
「ありがとう、イサくん」
「……」
「あたしのワガママに付き合ってくれて、
ありがとうございます」
今にも泣き出してしまいそうな空の下。
ふたりの間の空気が張りつめてゆく。
彼女は視線をイサギに固定したままつぶやいた。
「……シュウくん、合図して」
いつの間に知り合ったのかわからないが、ふたりは顔見知りのようだ。
愁もまた、うなずく。
「この光が弾けたときが、決闘開始の合図だよ」
彼はイサギとアマーリエの間に、淡い光球を浮かべる。
イサギは深く息を吸う。
アマーリエのまとう闘気もまた、純度を増してゆく。
彼女の集中力は極限にまで高まっていた。
揺らぎは空間に作用し、肩越しに覗く景色が陽炎のように歪む。
その姿がバリーズドのような戦士の形を取り、イサギは目を疑った。
光球は一瞬輝いた後、
シャボン玉のように弾けて消える。
アマーリエが地面を蹴り出すのは、ほぼ同時――
バリーズドの幻影に目を奪われて、イサギの反応が遅れた。
「ああああああああああああああ!」
獣のような雄叫びをあげて、彼女はイサギに迫る。
踏み込みの一歩一歩が土をえぐるように叩き、土埃が舞い上がった。
斜め下から繰り出される剣撃。
それは彼女の本来の実力を遙かに上回る。
正真正銘、渾身の一撃だ。
イサギは迎え撃った。
風に火の粉が散るように、
その体からは金色の燐光が放たれる。
限界まで圧縮された、闘気の中の闘気。
傭兵王バリーズドですら開眼することのできなかった奥義。
煌気――。
イサギは剣を降り下ろす。
斬っ、と音がした。
アマーリエの刀身は宙を舞った。
イサギはカラドボルグで、アマーリエのブロードソードを根本から断ち切った。
それだけにとどまらない。
剣の重量と晶剣の切れ味、それにイサギの闘気の乗った一太刀は、大地を割り、
さらにアマーリエの額を薄く斬り裂いていた。
あとコンマ数秒でもタイミングがずれていたら、
アマーリエは間違いなく死んでいただろう。
いつかと同じ、全力の殺気だった。
イサギは手加減など、まったくしなかった。
あのとき彼女は半日、目を覚まさなかった。
恐らくは今度も――
ぽたり、ぽたり、と。
水音がする。
ああやはり、やってしまったか、と思う。
あとのことは愁に任せてここを去ろう、とイサギは剣を納めて。
気づく。
「……また、あたしの、負け……っ!」
アマーリエは放心などしていない。
彼女の瞳には意志があった。
イサギは、驚きに目を見張る。
「アマーリエ……」
彼女は涙を浮かべながらも、
必死に唇を噛んで耐えていた。
「でも、見てなさいよ、イサくん……
あたしは、あたしは絶対、絶対に、強くなるんだから……
今度こそ、守りたい人を、この手で、守れるように……
なるんだから……! だから、絶対……いつか……っ!」
しゃくりあげるように叫びながら、
彼女は必死に気を張っていた。
イサギの殺気をまともに浴びて耐えられるはずがないのに。
それでも、立ち続けていたのだ。
「……そうか、アマーリエ」
かつてバリーズドは言った。
彼は守るために戦うのだ、と。
妻を、仲間を、友人を、守るためにバリーズドは強くなったと。
その後に傭兵王と言われるようになっても、
彼の本質はまったく変わらなかった。
誰かを守るための力。
それこそがバリーズドの強さの源だった。
アマーリエは間違いなくバリーズドの娘だ。
彼の魂を受け継いだ、戦士だった。
「何年経っても、あたしは……!
イサくんのところに……ぜったい、だからっ……!」
「……」
イサギは彼女の頭を軽く叩き、その横を通り過ぎる。
ここまで想ってもらえるなんて、本当に幸せなことだ。
けれど、違う。
自分はもう、20年前の勇者ではない。
何の罪もない人間を、世界のために殺す魔王なのだ。
正義と夢を信じ続けるアマーリエの姿は、
とても美しく、眩しかった。
もしプレハに会っていなければ、
惹かれてしまっていたかもしれないと感じるほどに。
だからこそ、自分のそばにいてはならないと思った。
彼女のような人が、こちら側に来てはならないのだ。
それゆえに想いを殺し、イサギはささやく。
拒絶の言葉を。
「お前の戦うべき場所は、俺の隣じゃない。
アマーリエ、お前には、お前の守るものがあるだろう。
だから、アマーリエ。
……これで、さよならだ」
ふぐっ、と、後ろから、
まるで嗚咽のような声が聞こえてきたけれども。
「改めて、旅の無事を祈るよ、イサくん」
愁からの言葉に片手を挙げて応じて。
……イサギはもう、振り返らなかった。
◆◆
「行っちゃったね」
「……うぐっ……」
「タオル、使うかい? アマーリエちゃん」
「……ひっく……」
「大丈夫、換えの下着も用意してあるよ」
「……あ、あんた……ヘンタイ、なの……?」
「そういうつもりはないよ。
ただ、キミに彼の出発の日取りを聞かれたときにさ、
なんとなくこうなるような気がしていたんだよ」
「……あんた、きもちわるい」
「ははは。
女の子にそんなことを言われるのは、初めてだな。
じゃあ結婚するかい?」
「……なんでよ、嫌よ。絶対に嫌よ。
こないだからずっと付きまとって、なんなのよ。
……シュウくんは別にあたしのことなんて興味なくて、
ただギルドマスターになりたいだけなんでしょ」
「まあ正直。ていうか、さっきまではね」
「……」
「でも、イサくんに立ち向かっていったときのキミは、
うん。本当にね、魅力的だと思ったんだ
これは嘘じゃない。本当のことだ」
「……みっともないところ、見せちゃったのに……」
「綺麗だったよ」
ひっく、とアマーリエはすすり泣く。
「……あたしだって、知っていたわよ。
父さんから何度も聞いたんだもの。
勇者イサギは、極魔法師プレハと恋仲だって。
旅が終わったら結婚するんだって、約束していたって。
そんなの、ずるいよ。
いなくなった人になんて、勝てるわけがないよ」
アマーリエはこの想いに名前をつけたくはなかった。
それを『恋』と呼んだその瞬間に、
なにもかもが陳腐になってしまうような気がしたのだ。
「……だったらさ、あたしの入り込む隙なんて、
最初っから、どこにもなかったじゃない……」
「傷心なら、声をかけてね。
いつでもどこでも付き合うよ」
「……うるさい」
「泣き顔も可愛いよ」
「ほんとうるさい。しんじゃえ」
「……やれやれ」
ため息をつくと愁は、彼女の頭に手を置いた。
俯くアマーリエに、少しだけ真剣な顔で、ささやく。
「僕たちは、強くならないとね。
彼の横に並び立てるように、
そして、彼を独りにさせないために。
……もっと強く、さ」
裾を握り、涙でくしゃくしゃにした顔を決して誰にも見せず、
アマーリエは子供のように拳を握ったまま、うなずいた。
「うん」
走り出した馬車の後に残る轍を見つめて。
アマーリエは涙を拭い、もう一度うなずいた。
「……うん!」
風が彼女の髪を撫でる。
しばらくこのまま、見送ろうと思った。
長く続いた雨雲の切れ間からは、
一筋の陽光が、射し込んでいた。
朝がまた来る。
新しい、アマーリエの朝が。