5-7 神に至る病
しばらく見ない間に綺麗になった、などと言うつもりはないが、
大人に近づいた愁の美貌は、この数ヶ月でますます高まったようだ。
髪を伸ばしているのは、頬の封術の後を隠すためだろう。
彼の見た目は美女とほぼ変わらないほどに洗練されていた。
イサギは愁と少し距離を取る。
警戒レベルは最初から敵対モードだ。
冒険者ギルドの制服を着た愁は、こちらに手を伸ばしてくる。
「やあ、イサくん。
どうだい、元気していたかい」
「なんで、お前がここに……」
思い出し、首を振る。
「いや、そうだったな。
冒険者の側として立つにも、
元の世界に戻るにも、このダイナスシティは要所だ。
お前がいてもおかしくはない。
……だが、なぜ俺がここにいるってわかったんだ」
イサギが問うと、彼は懐から一通の手紙を取り出した。
「……それは」
「うん、キミが昨日冒険者ギルド本部に持ってきたものだね。
僕は今、ギルド職員として働いていてね、それで気づいたんだ」
差出人の名前はイサ。
まさか中身を検閲したのが彼だとは。
「キミの手紙を読ませてもらった。
やはりキミはこの時代の人間ではなかったんだね」
胸がズキリと傷んだ。
どうせ開封されるであろうことはわかっていたのだ。
他人が読んだところで、
自分の正体がバレるような文章の書き方はしなかったつもりだ。
愁は恐らく、手紙を読む前からイサギのことに気づいていたのだ。
誰かにそれを看破されるのは、デュテュと、
そして恐らく五魔将議長――メドレサと、そして、愁が三人目だ。
カリブルヌスが去った大通りは、ゆったりと人が流れてゆく。
死体はいつの間にか片付けられていた。
その中で、愁は声をひそめた。
「勇者イサギ。20年前に魔帝アンリマンユを倒してこの世界を去る。
公式には彼はアンリマンユの呪いによって死亡したということになっていた。
だけど真実は違う。彼はこの世界に召喚されたんだ」
「……」
「皮肉な話だね。もしかしたら、キミが生きていたら、
この世界はもう少し暖かいものだったのかもしれないのに」
「そんなことは、俺が一番良く知っている。
愁にですら、言われたくはないな」
愁はイサギの目を覗き込んでくる。
それはまるで、生物学者に観察されているような気分だった。
「……結構、どうやらまだキミは大丈夫のようだ」
一旦何の話か。
彼は笑いながら裏路地を指さす。
「行きつけの店があるんだ。
とても静かで落ち着くところだよ」
「お前と今さら話すことなんて」
「でも、興味はあるだろう。“彼”の正体だ」
本性を表したからだろうか。
愁は持つべきものが持つ傲慢さを身にまとっていた。
自信を超えた先にあるものだ。
「僕はキミに許しを請いに来たわけじゃない。
けれど、キミには僕の情報と手引きが必要だ。
僕にも、キミの力が必要だ。
これは“取引”だよ」
「そんなものは、
互いに信用がなければ成り立たないぜ」
「僕はそうは思わない。
人を動かすものは利でしかないよ」
「……」
わかっている。
彼の誘いに乗ればただでは済まないだろう。
だが……
「……わかった、行こう」
「あはは、ありがとう、イサくん」
「感謝される覚えはないぜ。
お前を信用しているわけじゃないからな」
「はは、僕だってそんな気持ちでお礼を言ったわけじゃないよ。
ギルドの窓口だって、見ず知らずの冒険者が利用してくれたら、
ありがとうございます、って言うだろう?」
「……お前」
言いかけて、やめる。
必要以上に慣れ合うのは良くない兆候だ。
イサギは愁の後を歩く。
虎穴に入らずんば虎児を得ず、というのもあるが、それだけではない。
カリブルヌスの圧倒的な存在感に比べれば、
愁などまるで子供のようだったからだ。
そこは日の差し込まない酒場だった。
利用客はどことなく、非合法の匂いが漂う輩たちだ。
そんなところに、ギルド職員の真っ白な制服をまとった愁の姿は目立った。
「意外だな。お前がこういう店が好みだったなんて」
「そうかな。落ち着くよ」
「お前に似合うのは、洒落ているオープンカフェだろ」
「いいね、懐かしいよ。すごく、ね」
愁は嬉しそうに目を細めた。
敵として別れたはずなのに、彼のその気安さはなんだろう。
……調子が狂う。
「今まで、なにをしていたんだ」
「そうだね。それほど複雑な話じゃないよ。
冒険者に紛れて大陸を渡って、そこからダイナスシティまで馬車で来たんだ。
この街についたのは二ヶ月ほど前だったかな。
それで、今は冒険者ギルドに雇ってもらっている」
「……そこで、魔族を潰すための手伝いをしているのか」
「別に。まだ大したことはしていないよ。
クエストを受ける冒険者たちに、ちょっとした助言などをね。
あとは上司に取り入ろうと、あれこれ画策しているよ。
本部の長が女性だったら良かったのだけど」
ふたりの席にカップが運ばれてきた。
いつの間にか頼んだのだろうか、芳しい香りが鼻孔をくすぐる。
紅茶だ。
常連らしい愁は給仕の女性に、にこやかに手を振る。
彼女は顔を赤くして足早に去っていったように見えた。
「どうぞ」
「……」
勧められて口をつける。旨い。
上質な葉を使っているようだ。
「いいでしょう?」
「……まあな」
少し乱暴にカップを置いた。
仮に毒が入っていたとしても、イサギには通用しない。
「俺はお前と茶を飲みに来たわけじゃないんだ。
取引を始めるぞ」
「急かすね。女の子にモテなくなっちゃうよ」
愁ののんびりとした声に、イサギは付き合わない。
「あいつだ。
カリブルヌスだ」
「ああ」
「あいつはなんなんだ。
人間……なのか?」
「そうだと言えるし、そうではないとも言えるね」
愁は優雅にカップに口をつける。
意図的に間を取っているのだろう。
彼はイサギを見やる。
その瞳には別れた時と同じく、鋭利な光が宿っている。
「イサくん。
神とはなんだろうね」
「……あ?」
「概念としての神。神話に登場するような人間臭い神。
あるいは全ての物に宿る神。僕たちのいた世界には、実に様々な神がいた」
「おい、愁」
「このアルバリススにおいて、神は存在している。
そう、黄金時代にこの世界を去った『神族』さ」
愁は決して冗談を言っているようではない。
「彼らはどうしてこの世界を見限ったのだろうね。
けれどそれはもしかして、僕たちの思い違いだったのだろうか。
彼らは去ってなどいなくて、
あるいはその存在を変えて常に僕たちのそばにいるとしたら、どうだろう」
「おい、質問に答えろ、愁」
イサギの声に、愁は薄く笑う。
「そうだね、別にもったいぶる気はなかったんだけど、
順序を追って説明をしようとすると、どうしても長くなってしまう。
キミにもわかるように説明するのは、大変だな」
「……なんかお前、魔王城を出て変わったな」
「そうかい?」
「ああ。かなりウザくなった」
「ふふ」
愁は軽く噴き出した。
その笑顔は、なぜか嬉しそうだ。
「色々欲求が溜まっているのさ。
冒険者ギルドのサラリーマンは辛いね」
「グチを言うために俺を居酒屋に誘ったんだったら、もう帰るぜ」
「それで、先ほどの続きだね」
愁は途端に口調を切り替えた。
きっと、ここからが本題だ。
「シルベニアちゃんから聞いた話を覚えているかい?
この世界は、肉世界、魔世界、魂世界、神世界の四つの世界でできている、って」
「ああ。術式を操るための基礎の話だろ」
「神世界についてはどうだい」
「理論上のことだ、ってシルベニアは言っていたな。
確か……昔の仲間に聞いた限りでは……」
言っていたのはプレハかセルデルだったか。
「消滅した魂が行き着く、輪廻転生の世界、だったかね。
どっちみち観測できない以上、俺たちには関わりがないだとか」
「……ふむ」
愁は視線を逸らし、つぶやく。
「そうか、所詮そこまでか……
……やはり、この時代の人々は神族についての認識が足りなさすぎるな」
愁は口元に手を当てて首を振った。
イサギは眉根を寄せる。
「……なんなんだよ」
「神世界というのは、その名の通り、神族の棲む世界だ」
「は?」
「一般的に言う、人格を持つ多神教の神や、
唯一神のような創造神とも違う。
この世界にいる『神族』とは、ただのエネルギーに過ぎない。
難しいことはなにもない。
覚えているだろう。僕たちの身に仕掛けられた封術は、
神の力のみを宿すことができるって。
違うんだ。神族とは、力そのものなんだよ。
さらに言えばその神世界が魂世界、魔世界、肉世界のシステムを構築し、
魔法則や物理法則を『神エネルギー』によって担っているのだけれど……
まあ、ここから先は少し難しい話になる。キミにはまだ早いだろう」
イサギはこめかみを押さえながら、愁を促す。
「……それで?」
「ああ。ここまでのことは理解してもらったと思って話を進めよう。
僕たちのいた時代には、ひとつの流行病があった。
それは『神化病』と呼ばれていた。
人が神のエネルギーに染まることにより、
その人格を破壊し尽くされてしまうという病だ。
これの正体を突き止めるのに、僕は3年を注いだよ。
けれど、僕は神化のメカニズムを突き止めたんだ――」
「ちょっと待てよ、愁」
イサギは彼の話に割り込む。
奇想天外な話を始めたかと思えば、
時系列もめちゃくちゃなことを言う。
「3年って……お前、何の話をしているんだよ」
彼は少しだけ視線を逸らし、うなずく。
「……そうだね、イサくん。
キミには伝えておこうと思っていたんだ」
愁は軽く髪を払って、それから告げる。
「先ほどキミには、
イレギュラーはキミと僕らと彼、と告げた。
けれども、正確に言えば、キミと僕と彼だ。
この三人に比べれば、廉造くんや慶喜くんなど、
ただの禁術師のひとりでしかない。
僕はキミよりも早く、400年前にこの世界に呼び出され、
そして、かつて英雄マシュウと呼ばれていたものさ」
イサギは目を見開いた。
「マジか……」
英雄マシュウ。
それはかつてイサギが魔王城の図書館で読んだ、英雄の名前だ。
400年前のこの世界を救うために、あちこちを旅していたという。
まさか、本当にそうだったというのか。
400年の時を越えて、今ここに?
信じがたい。
だが、それが実際に起こりえるだろうということは、
イサギが一番良く知っている。
長い間、彼の目を見つめていたような気がする。
かろうじて、口から漏れた言葉は……
「……緋山愁でマシュウとか、
お前も、まんまじゃねえかよ」
「認めざるをえないね」
愁は苦笑いを浮かべていた。
彼は400年前にこの世界に呼び出された現代日本人で、
3年間、使命を帯びてアルバリススを旅し、
さらにその後、この世界に召喚されたのだと言う。
何から何まで、イサギと同じだ。
愁は言う。
「別に信じなくてもいいよ。
大事なのは僕の正体じゃない。ここからなんだ」
「……ああ」
その通りだ。
愁が400年前を経由して今にやってきたところで、それは話の核心ではない。
彼が廉造たちを襲い、魔族を裏切ったことには変わりがない。
「400年前の人間は、今のような堅固な魂を持ってはいなかった。
だからたびたび起こったんだ。神化病がね。
本来魂というものは、絶対不可侵のものだ。
人間は魂があるからこそ暴走せず、
魂があるからこそ、その形を保っていられる。
肉、魔、魂。三位一体と言うけれど、どれが欠けても人間は生きてゆけない。
体が失われれば死ぬし、魔力がなくなれば枯死してしまう。
そして魂が壊れてしまえば、人間は人間としていられない。
誰かが定めた完璧な法則なんだ。
けれど、この時代の人間は、
その魂を信じられないほどに軽く扱っている……」
「……つまり?」
「魂で制御しきれなくなった魔力は肉に宿り、魔晶となる。
人間の魔晶化は、神に対する魂の防御システムだ。
それが満足に働かなくなった時、
つまり、痩せた魂におびただしい魔力が宿った場合、
人は神エネルギーに破壊される。
理性を失い、力だけが肥大化してゆく。
それが神化病の症状だ」
どこかで見た話だとイサギは思った。
そのなにかが思い出せない。
愁は自らの頬の刺青を撫でる。
「神化病にかかった人間は、一見普通の人間と変わらない。
ただ、すでに魂――心がないんだ。
『哲学的ゾンビ』という言葉があるけれど、イサくんは知っているかい?」
うなずく。
「外部からの刺激に対して、なにひとつ反応をしないデク人間だろ。
容姿は俺たちと同じで、演技も完璧。
笑ったり泣いたりもする。だが、心ではなにも感じていない。
思考実験で使われる机上のサンプルだ」
「驚いたね。少しは学があったみたいだ」
睨む。すると彼は小さく首を振る。
「うん、そうだ。神化した人間は、哲学的ゾンビになるんだよ。
感情がない。心がない。けれど一見は普通の人間だ。
肉体に刻まれていた欲望のままに行動し、
なにも学ばない。なにも成長しない。
だけれど――
恐ろしく、強い。エネルギーの塊だ」
そうだ。
イサギはカリブルヌスを極大魔晶と見紛った。
それほどまでに、彼の力は異常だった。
「じゃあ、カリブルヌスは……その、
神化病にかかったことによって、あんな禍々しい力を得たっていうのか」
「その通り」
愁は首肯すると、両手を広げた。
「彼こそが、冒険者の王にして、この世界腐敗の原因だ。
カリブルヌスを放置することにより、アルバリススは崩壊するだろう。
肥大し続ける彼の魔力はやがて全ての敵対種族を滅ぼし、
最終的には人間族をも破滅させてしまうだろう。
そうなる前に、僕たちは彼を斃さなければならない」
イサギは眉をひそめた。
彼の言うことに全て納得したわけではない。
けれど、詰問をやめられなかった。
「僕たち……って、
誰のことを言っているんだよ、それは」
「全ての種族の英雄たちが力を合わせて、
と言いたいところだけどね、それは実際は無理だろう。
だから、そうだね。
僕と、キミと、廉造くんと慶喜くんが成長すれば……
あるいは、この四人ならば、勝てるかもしれない」
しばらくの間、イサギは黙り込んでいた。
腕組みをし、目を開ける。
「……つまり、カリブルヌスを倒さなければ、
今の他種族排斥運動は止まらず、
冒険者の象徴たる彼を討伐できなければ、
魔族と冒険者の戦争も止められない。
そういうことか?」
「そうだね」
「バリーズドはなぜカリブルヌスを止めないんだ」
「もはや彼に逆らえるものは、どこにもいない。
カリブルヌスは単純に強すぎるんだ。
諌めようとした重臣や冒険者は次々と殺された。
今ではその彼を利用するべきだという勢力が、
パラベリウ国内を占めている。
バリーズドはどうか知らないけれどね。
神化カリブルヌスは、他種族を殺すことしかできない怪物だ。
エルフはまだ助かっているようだけれど、そのうち彼らも殺される」
「……暗殺するしかない、と?」
「端的に言えば、そうだ。
神化病患者に完治の道はない。殺すしかない」
「なぜだ」
「え?」
イサギは愁を見やる。
「お前は、誰のためにカリブルヌスを倒そうとしているんだ。
魔族のためではないだろう。
神化病患者とお前の関係はなんだ」
「……僕は」
再会して、初めてのことだ。
愁の顔に暗い影が落ちた。
「僕はかつて400年前、あらゆる神化病患者を狩った。
人間の形をした器を魔法で殺したんだ。
神化病患者で溢れたアルバリススは、崩壊の危機にあり、
それを救ったのが僕だよ。
そんな僕が神化病患者を再び全滅させようとするのは、
さほど、不自然な話ではないと思うけれど?」
「廉造やシルベニアを刺して、ひとりで旅立ったのに、か?
どうしてそんなに切迫していたんだよ」
「……言わないね」
「あ?」
「言えないんじゃなくて、言わない。
これ以上のことは、取引には関わりがない。
僕は、言うつもりはないよ」
「お前な……」
この期に及んで黙秘とは。
イサギも言葉を失ってしまう。
「リヴァイブストーンにより、冒険者の魂は削られていった。
魂なき強者は神化病に陥る。
それが全ての元凶だ。
この世界の歪みと、カリブルヌスを生み出した原因なんだ。
僕は全てのリヴァイブストーンを処分しようとして、
そしてこの街であの怪物を見た。
すでに冒険者は至ってしまっていたんだ。
だから僕は、自分の力だけでは手遅れだと知り、
冒険者ギルドに勤めながら、目的を果たすための仲間を探していた。
そこにキミがやってきてくれた。
20年前にこの世界を救った勇者ならば、実力としては十分だ。
これが、キミを誘った理由の全てだ」
「……」
「望むなら、バリーズドとの会談の機会も作ろうじゃないか。
僕は今、王宮内にも少しツテがあってね。
どうだい、神化病を撲滅させるためにも、協力してくれないか」
愁の態度は、変わらず不遜だ。
しかしその瞳の奥には、憎しみにも似た色が宿っているように思えた。
確かにカリブルヌスを倒すのは、イサギの目的と合致するだろう。
神化病も本当のことならば、捨て置くわけにはいかない。
さらに、アマーリエを頼れない今、
愁が付け加えてきた条件は破格だ。
イサギはバリーズドに会うためにここまでやってきたのだから。
だが――
「お前の話が全て真実だと、
容易に受け入れることはできない」
イサギはそう告げた。
当然のことだ。
愁は肩を竦める。
「そう、だろうね。
キミの心を掴むためには、言葉では足りないな」
「……言ってくれれば良かったんだ。
魔王城で、あの日、あの時に」
「やめてくれよ、イサくん。
僕は誰も信頼しない。
もちろんキミもだ。
今回のことはキミにも利があると思ったから持ちかけた。
そのことだけは勘違いしないでほしいな」
「……お前は器用なのか不器用なのか、どっちなんだよ」
「そんなのは、自分でもわからないよ。
とりあえず、どうすればキミが首を縦に振ってくれるか考えてさ。
色々シミュレーションしてみたのだけど、思い浮かばなくてね」
「コミュ力の化身のお前でも無理か」
愁は立ち上がると、右手から光の鎖を出現させた。
彼の魔法だ。
「だからね、僕は決意を示そう」
同時に、左手を伸ばす。
「お前」
「本当ならば、命を差し出すのが筋かもしれないけれどね。
まだ僕には、やらなければならないことがあるし、
キミにだって、冒険者ギルド職員の協力者がいたほうが、
有事の際には助かるはずだから」
「なにしようとして――」
イサギは腰を浮かせる。
鋭利なその魔法を、掲げて、
愁はイサギに見えるように。
「この左腕。キミに捧げよう」
振り下ろした。
鎖は左手首を絶ち、イサギに血の盟約を捧げるだろう。
愁はきつく目を閉じて、奥歯を噛んだ。
血が舞う。
だが、決意をしていた痛みはなかった。
愁は目を開ける。
イサギが素手でその鎖を掴んでいた。
彼の手のひらが焼け焦げる臭いが辺りに漂う。
慌てて魔法を解除すると、愁は呆然と問う。
「……イサくん、どうして」
「歯を食いしばってろ」
「え?」
「早く!」
言う通りにしたところで、彼の拳が飛んできた。
頬を殴られて、愁はその場を転がった。
店の壁に叩きつけられて、背中を打ちつける。
店内が少しざわついたが、すぐに落ち着きを取り戻したようだ。
荒事も日常茶飯事なのかもしれない。
しかし、あまりの激痛に、愁の目元に涙が滲む。
左腕を失っていたほうがまだマシだったと思うほどだ。
愁は見上げる。
イサギは手を差し伸べてきた。
「ケジメの付け方が古いんだよ、お前は。
400年前の人間だからか?
俺とお前の仲なら、パンチ一発で十分だろ」
呆気に取られた。
自分は彼を殺す気で襲ったのに。
思わず、笑ってしまった。
「は、ははは……」
彼の手を取る。
立ち上がると、イサギは小さく笑う。
「ただ、シルベニアからも一発、廉造からも一発だぜ。
それまで全部許したりはしないからな」
「そっか……
廉造くんのは、痛そうだな……」
頬を押さえながら、つぶやく。
イサギはきっと、まだ自分を信じてくれたわけではないだろう。
「いつつ……まったく、乱暴なことをするね」
「どっちがだよ。左腕を斬り落とすとか、
リヴァイブストーンを使う気だったのか?
「見くびらないでくれ。僕があんなものを使うわけがない。
これからキミと手を組む価値と、左腕を天秤にかけただけだ」
「呆れちまうぜ……」
イサギはため息をつく。
椅子を戻して座り直した愁は、カップを持ち上げる。
「バリーズドとの会談は、都合をつけておくよ。
あとで宿を教えておくれ」
「……ああ」
彼が信じてくれなくても、手を組んでくれるというのなら、それでいい。
それ以上望むことなど、愁にはない。
愁は顔をさすり、薄く笑う。
「ありがとう、イサくん。
共にカリブルヌスを打倒せしめようじゃないか。
僕たちの戦いに栄光あらんことを」