4-10 <デュテュ>・ズ・レター/No.2
廉造との別れは、簡素なものだった。
分かれ道に到達した彼は、気安く手をあげる。
「じゃあな、イサ。
死ぬんじゃねェぞ」
イサギも手をあげた。
「お前もな、廉造。
つっても、お前は殺しても死なないか」
「人を冒険者みてェに言うンじゃねえよ。
バカ野郎」
笑いながらハイタッチを交わす。
ただ、それだけ。
シルベニアも、小さく手を振ってくれただけだ。
さあ。
ここからイサギは歩き出す。
――たったひとりの旅だ。
レリクスから港町ブラックラウンドまでは、どう頑張っても数週間はかかる。
冒険者の使う乗り合いヒ車はあちこちに走っているが、なるべくなら利用したくはない。
イサギは街道から少し逸れた平原を進むことにした。
とにかく東だ。
海岸線に出れば、あとは北を目指せばいい。
自分の脚力なら、森でもなんでも突っ切ったほうが速い。
むしろ人に見られる場所を通るほうが、危険性が高いと感じていた。
「さて……じゃあ、行くか」
ひとりきりになり、少しだけ心細さを感じた。
この半年に出会った人たちが脳裏に浮かんでは消えてゆく。
皆、気のいい奴らだった。
思えば、このアルバリススに召喚されて以来、
長い間ひとりで旅をするのは初めてだ。
王都から出発するときも、そばにはプレハがいた。
イサギは歩きながら、天を仰ぐ。
「……そうだな、プレハ。
同じ空の下にいるんだったら、お前と旅しているみたいなもんかな」
少し考えを変えてみて、イサギは笑う。
荷物は一本の銀鋼の剣と、大きなバッグだけ。
少し不安だけれど、行こう。
これが自分の選んだ道だ。
太陽が登っているうちは力尽きるまで走り、
夜になったらキャンプ地点を定めてひたすら体力の回復に努める。
魔王城からもらった携帯食料は、十分な量がある。
飲水だって魔術があればいくらでも出せる。
あと警戒するのは盗賊や野生動物の襲撃ぐらいだ。
それだって、イサギも野営慣れしている身。
どんなに深く眠っていたところで、敵意を向けられたら瞬時に目覚めることができる。
一人旅の最中、イサギは自分の感覚が研ぎ澄まされてゆくのを感じた。
昼は走り、夜は眠る。
そんな暮らしをひたすらに繰り返した。
人間族の手が伸びていない魔族の村々もいくつか見たが、
イサギはそれら全てを素通りした。
どうせ人間族の自分が向かったところでパニックを起こすだけだろう。
柔らかいベッドも温かいスープも今はいらない。
土だって魔術を使って柔らかくすれば快適に眠れるし、
金属容器に殺菌消毒したものを詰め込んだこの世界の携帯食料は、
味はともかく栄養価だけならば、まったく問題ない。
昼は走り、夜は眠る。
そんな暮らしをひたすらに繰り返した。
イサギが港町ブラックラウンドにたどり着いたのは、しばらく後の昼過ぎだった。
強行軍によってボロボロになった外套は町の外に捨ててきた。
なるべく一番丈夫なマントをもらったつもりだったが、
さすがに耐えられなかったようだ。
ブラックラウンドに侵入をするのは大したことではなかった。
イサギは人間族だ。
この大陸にいる人間族は、基本的に警戒をされないらしい。
門番とのやり取りも、簡素なものだった。
どうやら今は、暗黒大陸に住む人間族が、
こぞってブラックラウンドに避難してきているらしい。
新たなる魔王の誕生と、魔帝の娘デュテュによるミンフェス攻めの噂だ。
暗黒大陸は戦火に包まれる。
今は、次々とスラオシャ大陸に向かう船が出ているのだという。
聞き込みをするまでもなく、それらは知れた。
酒場にも冒険者ギルドにも向かわず、イサギは真っ先に船着場に足を進める。
ブラックラウンドの印象は、一言で言うならば粗雑だった。
元々商売によって活気があった町なのだろうが、
今は人間族が支配していることから、その経済も滞りがちなようだ。
ほとんどが人間族の駐屯基地と化している上に、
今では帰りの便を求めた人間族が押し寄せている。
これでは船に乗るのも容易ではないかもしれない。
――正当な手続きを踏むならば、だ。
イサギは人でごった返している船着場を進む。
肩をぶつけながら、なんとかたどり着いた。
「船に乗りたい」
船着場の窓口。イサギは係員に話しかける。
若い男はイサギの姿を上から下まで観察する。
簡素なシャツと大きなバッグ。それに腰に下げた剣。
中肉中背の身体に、あまり特徴のない顔。
物腰は落ち着いているが、若い。
「はい、次の空いている便は……ええと、
そうですね、三週間後の出発になりますが。
あ、お名前をお願いします」
「イサギだ」
「はいはい、イサギさま、と……
えと、冒険者の方ですか?
それでしたらカードを出してくださったら、様々な特典がありますが」
「ああ、よろしく頼むよ」
イサギは懐からカードを取り出した。
それを受け取った係員は、目の色を変えた。
「あ……は、はい、これは失礼しました。
そ、その、すぐ審査させていただいてもよろしいですか?
隣室へお願いします」
「ああ」
カードを返してもらい、イサギは隣の部屋に向かう。
その冒険者カードには、こう書いてある。
>冒険者登録名:イサギ・ブリュッセル
>冒険者ランク:A-
イサギがカードの持ち主かどうかを確認するその審査は、すぐに終わった。
冒険者カードの中に埋め込まれていた魔力による記憶が、全てクラッシュしていたからだ。
本来ならばありえないことだった。
その人の魔力波形をしっかりとインプットされているはずなのに。
冒険者カードを紛失した際には、ギルドにその旨を申し出てもらう。
ギルド本部の冒険者データベースから折り返しの返信をもらうまで、
しばらくは待機してもらうのが通例だ。
だがイサギ・ブリュッセルの名は、紛失者届けは出されていない。
ということは彼は本物のイサギか、
あるいはイサギを殺してそのカードを奪ったということになるが……
イサギを名乗る少年はこう語った。
「魔王候補とやりあって、そうして帰ってきたらこうなっていたんだ。
一刻も早く国に帰らなければならない。
こちらの事情を推し量ってくれると、助かる」
確かに<ワルキューレ>は魔王城討伐の任を受けていた。
身長も年格好も、イサギはデータの内容と一致する。
職員たちは困惑していた。
何百年でも持つはずのカードのデータが消滅してしまった事例など、前例がない。
いや、ひとつだけ残っていたものがあった。
魔力波形とは異なる方法で保存されている、本人確認用の質問だ。
本人しか知り得ない質問をあらかじめカード内部に焼き付けておき、
もしものときのためにその答えと合わせて、カードに保存しておいたものだ。
このカードを作った人物は、魔力が失われてしまうこともあると、
事前に予想していたのかもしれない。
約8年に及ぶ職員生活だが、この機能を使うのは初めてだった。
「わかりました、えと、イサギさん。
ひとつだけ、確認させていただきたいことがあるんですが」
「ああ」
イサギを名乗る人物の態度には変わった様子はない。
再生用魔具に表示された一文とその答えを確認しつつ、職員はその問いを書き写す。
「では、こちらです」
誰にも聞かれないように、小さな紙を差し出す。
そこに描かれていた一文。
『いつまでも一緒だよ』
本人以外にはまるでわからない言葉だ。
職員自身、とんと見当がつかない。
だが、目の前の彼は迷いなく書き綴った。
受け取り、照合する。
うなずいた。
「はい、間違いありません。
イサギさん、どうか良い旅を」
「ありがとう」
カードを受け取り、少年は立ち上がった。
「あ、よろしければ冒険者ギルドで魔力の再登録をお願いします」
「今は急ぎなんだ、自分の国でするよ」
「そうですか」
イサギを見送り、職員はメモ紙を見やる。
走り書きのように、一言。
『プレハ』
正解はプレハ・クリューゼルだが、まあ同じようなものだろう。
一体なんだろうか。首を傾げる。
「……女の子の名前かな。ロマンチックな人だ」
A級冒険者ともなれば、心の支えも必要なのだろう。
職員は小さな魔術の火でその紙を燃やすと、再び業務に戻った。
船を待つまでの少しの間、
イサギは港で人から隠れるように佇んでいた。
スラオシャ大陸、ハウリングポートからの船が入港してくる。
そこから下船してきた人物を眺めていると、急に心がざわついた。
先頭に立つひとりの人物。
灰色の外套を身につけた、壮年の剣士だ。
間違いなく腕が立つ。
周りにいる人物とは格が違う。
黒髪黒目の冒険者だ。
だが、それだけではない。
イサギは彼から禍々しさを感じ取った。
あの地下室で剣を持ち暴れていたプレハと同様のものだ。
普通の人間ではない。
彼は間違いなくこの暗黒大陸に災厄を振りまくだろう。
左目が疼く。
イサギは立ち上がった。
彼の後を追う。
その冒険者は細まった路地に向かう。
イサギもまた、誘い込まれるようにその道へ。
ブラックラウンドの外れ。まるで寝静まったような裏路地だ。
誰ひとり歩いていないこの場所で、剣士は足を止めた。
彼はこちらを振り向いてきた。
鋭い目をした鷹のような男だった。
「名を聞こうじゃないか」
「イサギだ」
「ありふれた名前だな」
こちらの意図にもとっくに気づいているようだ。
剣士は剣を抜く。
緑色の刃だった。
晶剣の類か。
「この大陸には何をしにきた」
イサギが問うと、彼は隙なくこちらを見返しに来る。
「魔王候補を倒すために、
冒険者ギルドの密命を受けてやってきた。
ドレグ・ドラゴネイだ」
「悪いが、知らないな」
「そうか。お前のように絡んでくるやつが多い中、
いい獣避けになる名前なんだがな。
ならば言い換えよう。
S級冒険者……と言えば引いてくれるか?」
確か、地下室でやりあったプレハがS-級だったか。
彼はそれ以上の使い手のようだ。
だが、そんなことは問題ではない。
彼をこの先に行かせるわけにはいかない。
「冒険者の男よ。
お前は命が惜しくないか?」
「なんだと」
イサギもまた、ゆっくりと剣を抜く。
ドレグが眉を歪めた。
「この大陸には、俺の仲間がいるんだ。
とても大切なやつらだ。
お前は間違いなく強い。
シルベニアですら、きっと勝てないだろう。
だから、まだあいつらに会わせるわけにはいかない。
ここから引くのなら、命までは奪わない」
「ふふふ、はははは」
ドレグは笑う。
彼は剣を突き出しながら半身に構えた。
「面白いことを言うな、小僧。
どうやら本気のようだ。
魔族の手先か、愚かなやつだ。
この世界は冒険者によって変革しようとしている。
だというのに、魔族をかばうのか。
貴様もそれなりの力を持っているようだがな。
愚かとしか言えん」
「……はぁ」
イサギは小さくため息をついた。
嫌な気分だ。
首を振る。
「……愚か、か。
かもしれないな。
愁も廉造も慶喜も、自分の道を歩き出した。
俺だけが迷いながら進んでいる。
正解なのかどうかもわからない。
正直、不安でいっぱいだ」
「なんだ貴様」
「過度な期待は身に余る。
俺にできることなんてたかが知れているよ。
できるに決まっているだろ? だなんて、
自分で自分を追い込むのは疲れるさ。
俺にはずっと願いなんてなかったんだ。
この世界に呼び出されてからずっと、ずっとさ。
死のうと思ったことも、一度や二度じゃない。
人を殺せば殺すだけ、俺は心を喪った。
俺の中身は、カラッポさ」
「なにを言っている……?」
イサギは暗い顔を上げる。
しかしその目には、光。
「だがな、願いがなくたって、希望がなくたって、
誰かの願いを叶えることはできる。
誰かの希望を守ることはできると知ったんだ。
だったら俺は戦ってやるよ。
あいつらはいつでも、大切なもののために戦っている。
なら俺は今、あいつらのために戦おうじゃねえか。
あいつらが悪だとか、魔王だとか言われるのなら、
そうさ、俺だって魔王さ。
お前のような正義を踏みにじるんだ。
魔王と呼ばれても構わない」
「狂人の類か」
話が通じないことに飽き飽きし、ドレグは剣を構えた。
イサギはゆっくりと眼帯を外す。
「俺はひとりではなにも成し遂げられない。
俺は剣のようなものだ。
誰かを傷つけることしかできやしない。
でも、必要なんだ。
この世界で人々が手を取り合っていくためには、まだ剣が、な。
この瞬間、俺は剣に戻ろう。
俺は一振りの、魔族の剣だ」
「自己犠牲か?
だがな、魔族の剣は折らねばならぬぞ!」
ドレグは踏み込んできた。
イサギは術式を放とうとする――が、間に合わない。
彼の速度は今のイサギにも迫る。
生半可な付け焼刃は通用しないな、と確信する。
彼は強い。
正攻法では手こずるだろう。
魔帝アンリマンユを倒したのと、同じ手段を使うとしよう。
ただ、使うのならば、確実に殺さなければならない。
一撃で決めるしかない。
地面を蹴って跳ぶ。
下からドレグが剣閃を飛ばしてきた。
「死ねぇ! 魔族の剣!」
範囲が広い。
剣で受け止めるわけにはいかないだろう。
さらに五本。
どこにも逃げ場はない。
ギリギリまで引きつける。
ドレグは勝利を確信したか。
ならば良い。
盤面をひっくり返すとしよう。
イサギは左目を見開いた。
「ラストリゾート!」
その瞬間、闘気の刃はかき消える。
ドレグは目を見開いて驚愕した。
彼の胴体に、イサギの剣が突き刺さる。
「ドレグ、お前の屍を越えて、俺は行くぞ」
振り切る。
「なぜ、こんなところに……こんな男が……
おまえが……
……モンスターか……?」
そのうめき声もなにもかも置き捨てて。
彼の胴を真っ二つにし、
イサギは立ち止まることなく歩き出す。
背後で死体が地面を叩く音がした。
イサギはその足で船に乗る。
風の力と魔力で動く巨大な定期船だ。
出港するまで、イサギは甲板にいた。
船尾に立ち、大陸を見つめていた。
「変わっているな、お前」
話しかけられた。
頬に傷を持つ男だった。
背中に大きな弓を背負っている。
冒険者だろうか。
「……なにがだ?」
「いや、ね。
普通は海と、帰るべき故郷を見つめるものさ。
なのにアンタは暗黒大陸を眺めている。
まるで去りがたいようだ」
「……」
イサギは黙った。
それから、少し笑う。
「そうだな、そうかもしれない。
この大陸では色々なことがあった」
「……若いが、苦労をしてきたようだな。
俺もな、仲間を全員スラオシャ大陸に送り届けて、
だってのにギルドマスターだけ三ヶ月近く遅れて最後の出発さ。
貧乏くじを引いちまったぜ」
「……」
「おっと、悪いな。
ひとりになると、つい喋っちまう」
「いや、いいさ」
「邪魔したな。俺はゼッド。
なんかあったら声をかけてくれ。
お互い独りのようだしな」
「ああ」
男は肩を竦めて去ってゆく。
イサギは見知らぬ人との会話を面倒に思っていたわけではない。
ただ、戸惑っていたのだ。
こんなにゆっくりと過ごすのは久しぶりだから。
顔に手を当てて目を瞑る。
孤独が身にしみるとは、こういうことだろうか。
なにもすることがないなんて、困る。
これから、どうやって暇を潰せばいいのか。
こんな、カラッポの自分が。
イサギは手すりに背中を預けて、鞄を開く。
そういえばデュテュにもらった金銭をまだ確認していなかった。
A級クエストの一貫ということで、乗船代はチャラになったが、
中で食事を取るためにはお金を使わなければならない。
財布の包みを開く。
すると、そこには一枚の紙が挟まっていた。
(……ん)
広げてみる。
それは手紙のようだ。
差出人は……
デュテュだ。
なんでまた。
イサギは内心首を傾げながら、手紙を読み始める。
そのとき、汽笛が鳴った。
出港の合図だ。
『拝啓、イサさま。
お元気でしょうか。
今頃は船に乗っていらっしゃる頃でしょうか。
わたくしもあなた様と一緒に旅に出られたら、どれほど素敵なことでしょう。
そうすることのできる世を作るために、今はがんばるときですね。
実はわたくし、
イサさまに、申し上げていないことがございました。
お手紙でしかお伝えできない、
わたくしの小胆をお許し下さい。
失礼ながら、申し上げます。
イサさまは、もしかしたら、
あの伝説に聞く、勇者イサギご本人だったのではないでしょうか』
文面を読んでいたイサギの目が止まった。
わずかに手が震える。
……続きを読もう。
『わたくしには、何の根拠もございません。
ですが、そう思ってしまったのです。
イサさまは、時折わたくしのことを、
なにか懐かしいものを見つめるような瞳で見ておいでです。
それとともに、寂しそうな、辛そうなお顔していらっしゃいます。
もしかしたらわたくしは、
イサさまに大変なことをしてしまったのではないでしょうか。
そう考えるたびに、この身が張り裂けてしまいそうです。
かの勇者イサギは、
わたくしのお父様を倒したその直後に姿を消したと申します。
もしかしたら、イサさまは、
その直後にフォールダウンによって導かれてしまったのではないでしょうか。
魔族国連邦による召喚陣起動の決定が、
あのときあなたさまを連れ去ってしまったことにより、
人間族の怒りをかってしまったのだとしたら、
もしかしたら魔族国連邦の凋落は、わたくしたちへの罰なのでしょうか。
このような恐ろしい事実を知ってしまったわたくしが、
一体どうしてあなたさまに顔向けができましょうか。
気づかぬふりを続けることしかできなかった、
愚かなわたくしを、どうかお許しくださいませ。
わたくしには難しいことはわかりません。
ただ、イサさまが長い間ひとりで苦しんでらっしゃったことだけは、わかります。
もしイサさまが魔族のことを恨んでいらっしゃるのでしたら、
どうぞわたくしの首をお持ちください。
わたくしはイサさまのために、喜んでこの身を捧げる所存です。
ですが、もしわたくしたちを少しでも哀れに思う気持ちがあるのならば、
差し出がましいのですが、お願い申し上げます。
イサさまは魔族国連邦に対して、
『我こそが勇者だ』と、名乗らないでいただきたいのです。
イサさまはとてもお強くらっしゃいます。
それでも、お父様の仇を討たずにはいられない方々が、
魔族国連邦にはたくさんいらっしゃるのです。
イサさまが名乗りを あげることによって、
彼ら将兵は軍を繰り出すことだと思われます。
そうなったら、わたくしの力で戦争を止めることは、恐らくできません。
ヨシノブさまも、レンゾウさまも巻き込まれてしまうことでしょう。
わたくしは、あなたさまに弓引きたくはないのです。
どうかこの浅知短才なわたくしの言葉、
聞き届けてくださいますよう、お願い申し上げます。
わたくしの命ならいくらでも差し上げます。
ですが、お願いします、イサさま。
魔族国連邦を、憎まないでくださいませ。
わたくしはあの国で生まれ、あの国で育ちました。
あの国がわたくしの故郷です。
わたくしはあの国を守らなければなりません。
王女の位にありますが、わたくしは無力です。
イサさまのお怒りを沈めるために、
この身を捧げる以外になにができましょうか。
ですが、イサさまはこんなわたくしに、優しくしてくださいました。
宿敵であるはずの、魔帝アンリマンユの娘に、です。
そのことがわたくしは、たまらなく嬉しかったのです。
あなたさまのお優しさを勘違いしてしまいそうになるほどに、です。
イサさま、あなたさまと過ごした半年は、
わたくしにとって本当に幸せな一時でございました。
これからも先、この思い出を胸に生きていけるほどに、です。
どうかあの日々を、血塗られたものには変えないでくださいませ。
わたくしの身勝手なお願いです。
申し訳ございません。
あるいは、わたくしのこの想像が、
まったくの的外れであることを、願います。
イサさま、
あなたさまの旅のご無事を、わたくしは心からお祈りしております。
どうぞ長旅、ご自愛下さいませ。
魔族国連邦第一王女・デュテュより。敬具』
長い手紙を読み終えて。
イサギは顔を上げた。
水平線の彼方に夕日が沈もうとしている。
もう、暗黒大陸は見えなかった。
けれどイサギは、しばらくその方向を見つめていた。
想いが込められている手紙を、そっと鞄にしまう。
胸が熱い。
愛を語ることも正義を語ることも、もうできない。
自分は人を殺しすぎた。
命令をされるがままに殺し、時には自分の身を守るために殺した。
いつしか人を殺して後悔の涙を流すこともなくなった。
人として大切ななにかを、全て失ってしまったのだと思った。
もはや自分はただの剣に成り下がってしまったのだと。
だが、こんな自分のことを想ってくれている人がいる。
自分はひとりではないのだと感じた。
イサギはデュテュの、リミノの、
慶喜の、廉造の笑顔を思い出していた。
離れがたいと思ったけれど、
その感情もまた、大切に感じていたかった。
この瞬間、自分はひとりの人間でいられたような気がしたから。
彼の頬を、一筋の涙が伝っている。
別れを歌うように、海鳥たちが鳴いていた。
Episode:4 鞄には愛だけを詰め込んで