End-3 足利廉造の譚歌
アパートの前に立ち、足利廉造は途方に暮れていた。
そこは、かつて自分が住んでいた部屋だ。
だが――。
古びたドアには汚れた『入居者募集中』の張り紙があった
郵便受けには、チラシを入れないでくださいのテープが貼ってある。
「……」
廉造はポケットに手を突っ込みながら、しばらくそのドアの前に立ち尽くしていた。
隣に住んでいるらしい男が、コンビニの袋を提げて帰ってきた。彼は廉造を不審に思ったのか、声をかけてきた。
「誰かに用かい、兄ちゃん」
「……」
廉造はその男性を一目見た。住人が入れ替わっていたのだろう、見覚えのない男だ。
「この家に住んでいたガキはどこにいった」
「なんだよ、お前、借金取りか。マヌケだな、そいつはとっくにいねえよ、ったく。どっかで野垂れ死んでんだろ」
頭をかきながら部屋に入ろうとしたその男の首を、廉造は掴んだ。
「どこにいったかって聞いてンだよ」
「ふっ、ざっ、け――」
男は反射的に、コンビニの袋を廉造に叩きつけた。
中に入っていたワンカップの瓶が廉造の頭を強打する。
「誰に口きいてんだてめえは! 薄汚え借金取りの分際でよ! ぶっ殺すぞ!」
唾を飛ばしながら叫ぶ男。しかし、男は目を見開いた。その体が徐々に宙に浮いてゆく。首を掴まれたまま、片腕一本で持ち上げられているのだ。
「あ、ああ……!?」
思いきり瓶を頭に叩きつけられながら、眼前の青年は無傷だった。
廉造はもう一方の手をポケットに突っ込みながら、けだるそうに問う。
「聞こえなかったか。このアパートに住んでいたガキはどこにいった?」
「な、なんだ、て、め……」
「めんどくせェやつァ、嫌いなんだ」
廉造の声は落ち着き払っていた。
この程度の荒事、児戯にも等しいとばかりに。
「その気になれば、テメェの首をねじ切るなんて、造作もねェことだぜ。なァ、オッサン。知っていることを話してくれよ」
「あ、がが、が……」
男の顔は土気色に染まりつつあった。
廉造は彼を地面に下ろす。
激しくむせる男を見下ろしながら、廉造は改めて問う。
「なあ、オッサン」
びくりと震えた男は、慌てて口を開いた。
「と、隣のガキは、一年ぐらい前に出ていっちまったよ! なんでも、家族が蒸発したとかでな! 俺の知っていることはそれだけだ!」
「嘘じゃねェな?」
「ほ、本当だ!」
男は必死な顔で何度もうなずく。
廉造はその肩に手を置いた。
「……ありがとよ」
震える男をその場に残して、歩き出す。
廉造は小さなため息をついた。
「ったく、地球は蒸し暑くてかなわねェな」
二年と半年を過ぎ、廉造は日本に帰ってきた。
季節はもう秋だというのに、ジメジメとして肌に張りつくような不快な暑さがあった。
廉造の格好は、シャツにズボンだ。なるべく日本でも不自然には見えない格好をしてきたつもりだった。
あとは現金の代わりにもらってきた様々なものを詰め込んだリュックを提げている。
廉造はリュックの中から二通の手紙を取り出す。
「こいつも届けにいかねェとな」
差出人は、小野寺慶喜と、緋山愁。
ふたりが自分たちの家族に宛てた手紙だ。
だいたい内容は「自分は訳あって帰ることができないが、元気で暮らしている。あなたたちも元気で過ごしてくれ」という類のものである。
ふたりは地球に帰ってくることを選ばなかった。
だからこそ、廉造が手紙を託されたのだ。
しかし、イサギは手紙を残さなかった。
彼は日本で孤独だったのだと言っていた。
そんな想いを廉造も今、味わっている。
異世界から戻ってきた男は、懐かしい街並みを見回した。
「……さて、行くか」
もし彼女を見つけ出したとしても――。
自分のことを忘れていてくれるならいい。元気で生きているその姿だけを一目見られたら、それでいいのだ。
そのために、地球に帰ってきたのだから。
廉造は首を振り、歩き出す。
――最愛の妹を探しに。
◇ ◆ ◇ ◆ ◇
あっという間に二か月が経った
辺りには雪が降り出していた。
季節は流れて、冬になった。
クリスマスソングで彩られた華やかな街を、ひとり歩く廉造。
彼が今いるのは、廉造が住んでいた場所の、隣の県であった。
廉造の耳にかすかな笑い声が聞こえてきた。
サングラスをかけて、深くコートを羽織った廉造は、声のほうへと向かった。
路地を抜け、廉造はたどり着く。
そこは、市の児童養護施設であった。
施設の周りを、学校のようなフェンスが覆っている。
廉造は門のそばに立ち、敷地内に目を向けた。
また、笑い声がした。
聞こえてくるのは裏手からだ。
しんしんと雪が降る。
吐く息が白い。
雪に足跡を刻みつけながら施設の裏に向かうと、そこには数名の子どもたちがいた。
小学校低学年の男の子や女の子。そして彼らを叱りつけている中学生ぐらいの少女がいる。
「だーかーらー、雪食べちゃだめって言っているでしょ! こんなにきれいでも、ばっちいんだからね! おなか壊しちゃうんだよー!」
少女は、どうやら子どもたちの面倒を見ているようだった。
雪の日にはしゃいで、犬のように辺りを駆け回る子どもたちの世話に、目を回している。
「あーもー、みんなー! 話きいてー! なんでこんな日に限って園長先生たちが風邪ひいちゃってるのー!」
頭を抱える少女が、耐え切れずに叫ぶ。
そのさまを、廉造はじっと眺めていた。
やがて、ひとりの小さな男の子が廉造のもとに向かって駆け寄ってきた。
だが、彼の目的は廉造ではない。おもむろにフェンスに取りついて、登り始めたのだ。
廉造は振り返った。施設の裏手には、廃棄された雪がたくさん積み重なっている。少年のお目当てはそれだろう。
大して背の高くないフェンスだ。小さな男の子は苦労しながらもフェンスを乗り越えて、そうして見事に脱走を成功させた。
「あーっ!」
少女がこちらを見て叫ぶ。
廉造の横を走り抜け、一目散に雪にダイブをしようとした男の子であったが。
「???」
しかし彼は飛び込んだのに、一向に落下しないことに目を白黒させている。
その首根っこを、廉造が掴んでいたのだ。
「風邪ひくぜ、ガキ」
宙ぶらりんになりながらも、男の子は廉造を見上げて笑った。ひとときの空中遊泳を楽しんでいるかのようだった。
新たな声が、慌てた様子で飛び込んでくる。
「あっ、ご、ご、ご、ごめんなさいっ!」
ガチャンと音がした。振り返れば、少女がフェンスに頬をめり込ませていた。
彼女はフェンスの隙間から、こちらに必死に指を伸ばしている。
「も、もう、なんでフェンスよじ登るかなー! こっちに、もどって、こっちにもどってきなさい、迷惑かけちゃうでしょー!」
廉造は男の子を吊り上げ、視線を合わせた。
そうして問いかける。
「雪がほしいのか?」
男の子は大きくうなずいた。
廉造は頭をかき、そうして少女に向き直った。
「ちと、離れてな」
「え? あ、は、はい、って、え!?」
廉造は雪の塊を蹴り飛ばす。
すると、凄まじい勢いで雪が舞い上がった。
それはフェンスを突き抜けて、その手前に降り注ぐ。
あっという間に、大人が丸ごと入れるかまくらが作れるような雪が、積み重なった。
「ほらよ」
廉造は男の子をその場に優しく下ろす。
すると彼は目を輝かせながらフェンスをよじ登って、向こう側に戻っていった。
そして、今度こそ嬉しそうにその雪で遊び始めたのだ。
一方、少女は目を白黒させていた。
フェンス越しに彼女は頭を下げる。
「あ、あの、えと、ありがとうございます」
「いや、いいンだ」
少しの間、廉造はサングラス越しに、彼女を見つめていた。
セミロングの髪を無理矢理縛ってお下げにしている少女だ。
凛々しい顔立ちをしていて、やや切れ長の瞳を今は所在なく揺らしている。
背が伸びて、ぐっと大人っぽくなった。
今はもう中学三年生のはずだから、当然か。
フェンスの向こうの彼女は、廉造には手が届かない存在だ。
その元気な姿を見ることができただけで、男の胸はいっぱいだった。
白い息をはく。
雪はいまだ降り続く。
廉造は軽く手を挙げた。
彼女に背を向ける。
「忙しいところ、邪魔したな」
「あ……、はい」
呆気に取られたような彼女の声がした。
廉造は歩き出す。
行くアテなどはない。
己がどこへ行き着くことができるとも、思わなかった。
それでも、この場から立ち去ろうとした廉造を――。
呼び止める声があった。
「――あの、待ってください!」
廉造は足をとめた。
ゆっくりと、肩越しに振り返る。
少女はフェンスを両手で掴みながら、廉造を睨むような目で見つめている。
「あの、えっと、あの、急にこんなことを言われても、困っちゃうかもしれませんけど、……あの」
「……」
廉造は押し黙っていた。
そんな彼に、少女はか細い声をかけた。
「あの、あたしには、にいに、じゃなくて……、あの、お、お兄ちゃんが、いるんです!」
「……」
「三年前にいなくなったっきり、ずっと音信不通で、もう生きているのかも、死んじゃっているのかもわからなくて……あ、あの、あたしはきっと生きているって信じているんですけど、でもあんまり希望を持っているのもよくないって警察の人も言っていて、それで、あの……」
「……」
少女はフェンスを握る手に力を込めた。
そしてまっすぐな目で、廉造を見つめる。
「あたし、中学校に入ってすぐ、貯金がなくなっちゃって……! それで、アパートを追い出さそうになったところで、ここにやってきちゃったんです! 来たばっかりのときは泣いてばっかりで、寂しくて、でもあたしよりもっと小さい子もたくさんいたから、あたしばっかり悲しんでちゃいけないって思って! それに、にいにがあたしを捨てるはずがないって、あたし信じていたから、がんばろうって、いい子にしてたらきっとまた迎えに来てくれるからって、思って、がんばろうって……!」
その言葉の途中で、少女はぽろぽろと涙をこぼしていた。
「あたし、がんばってきたんだよ。だって、にいにもきっと、がんばっているって思っていたから! なにがあっても、どんなことがあっても、ぜったいに負けないようにって! くじけないようにって! ひとりで、がんばっていたんだよ! だから、だから……」
少女はフェンスに寄りかかるようにして、顔を俯かせた。
そこで廉造が小さく口を開く。
「……そうか」
そして、顔を背けた。
つぶやく。
「見つかるといいな、おまえの兄貴が」
「――っ」
少女は目を見開いた。
ぼろぼろとこぼれる涙を隠そうともせず、次の瞬間――。
――彼女はフェンスに一息で上り切る。
そのまま、慌てて振り返ろうとした廉造へと向かって飛び込んできた。
「おま――」
「――にいにのばかああああ!」
廉造と少女は、折り重なって倒れた。
サングラスが外れ、雪の上へと落ちる。
廉造の黒い瞳が、少女を映す。
少女は涙を流したまま、廉造に馬乗りとなる。
そして拳を握り固めた。
「ばっかじゃないの! にいにってずっとそう! 昔からそう! なんでも自分で完結して! あたしの気持ちなんて知らないで! それがかっこいいと思ってやっているんでしょ! ばっかみたい! ばっかみたい!」
「お、おい、愛弓――」
「にいにのばか! ばか! ばか!」
だが、彼女はその振り上げた拳を振り下ろすことなく。
雪の上に大の字になって倒れている廉造の頬を、撫でた。
「にいに」
「……愛弓」
廉造の胸元に、涙がこぼれた。
「……本当に、にいに、……帰ってきたんだね、にいに」
はぁ、と廉造はため息をついた。
白い息が溶けて、冬の空気に交じり消えた。
そうだ、忘れていた。
廉造は諦めたような気持ちで空を見上げた。
妹は――愛弓は、こういうやつだった。
自分は愛弓に勝てないのだ。
改めて思い知らされた気分である。
いつの間に集まってきていたのか。フェンス越しに、たくさんの少年少女がこちらを見つめていた。
廉造を見下ろす愛弓の瞳は、涙に濡れて輝いていた。
「愛弓、おまえ……」
「……うん、うん」
「デカくなったな」
「当たり前だよ、もう十五才になったんだから」
「そうか……」
「うん」
愛弓は涙を浮かべながら、微笑んだ。
「おかえり、にいに」
しんしんと静かに、穏やかに、雪が降り積もる。
「……ただいまだ、愛弓」
どこか遠くでクリスマスのメロディが流れている。
ひとつの物語が幕を閉じる、そんな音がした。
次回更新、10月9日(金)
23時、完結