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勇者イサギの魔王譚  作者: イサギの人
Epilogue 貴方との未来はこの手のひらの中に
173/176

End-1 少女の恋した夢譚

 かつてこの大陸に覇を唱え、そしてすべての魔族と神族を治めていた王、アルバリスス。召喚魔法陣リーンカーネイションによって蘇った化け物が巻き起こしたあまりにも凄惨な戦争は――人族の勝利で幕を閉じた。

 これからもまだまだ問題は残っている。

 人族の被害は甚大であったし、復興にはしばらくの時間がかかるだろう。


 しかし、人族は勝ったのだ。


「今はその勝利を祝いましょう!」


 そう言って杯を掲げるのは、壇上に登った魔帝の姫。あちこち傷だらけで玉の肌に傷を負ったデュテュであった。

 けれどもその顔には、柔らかな笑みが浮かんでいる。

 デュテュは華美な黒いドレスをまとっていた。これは彼女が暗黒大陸から持ってきた私物のうちのひとつだ。突き出した胸を強調するかのようなデザインは煽情的であったが、それもまた彼女の華やかさを彩っていた。


 周囲には数々の男や女、人種の違う様々なものたちが立ち並んでいた。誰もが疲れ切って目の下にクマを作っていたが、しかしそれを苦とするものはひとりもいない。

 歓声をあげながら手を叩き、この場に渦巻く熱狂をさらに盛り上げることに、一役を買っていた。


 ここはダイナスシティである。城の中庭を借りての戦勝会の会場には、たくさんの人々が集まっていた。

 一晩かけて王都に帰ってきたため、辺りはもう暗闇だ。それでも祝いの準備は全速力で行なわれた。

 魔術の光があちこちに漂っていて、中庭をライトアップしている。幻想的な美しさの中で、デュテュは乾杯の音頭を取った。


「それでは、乾杯――」


 中庭には、戦い終わった人々がいる。

 すべての兵が入り切れるような規模ではないが、それ以外のものたちもどこかで安らいでいるだろう。

 酒を酌み交わし、互いの戦いを労っている。

 あるいは、死者にさかずきを捧げ、粛々とその死を悼んでいる。

 これからの世界について声高く論じ、世界の行く末を憂いている。

 そのすべてが、今を生きているからこそできることだ。


 テーブルいっぱいに並べられた料理は、リアファルで働いていた料理人たちが腕を振るい、戦勝祝いに大張り切りで作ったものだ。

 もともとはダイナスシティに難民がなだれ込んだ場合に備えて、用意されていた食料である。大慌てでかき集めたので日持ちしないものばかりだったため、それならばこの機会に振る舞ってしまおうという算段だ。


 次から次へとできあがる料理をメイドたちが皿に盛り付け、せわしなく中庭へと早足で運んでくる。それを迎えるたびに兵士たちは歓声をあげた。急かす彼らをいさめるメイドも笑顔で、誰もが命の喜びを感じているようだった。


 がやがやと賑わう中庭には、多くの種族が入り乱れている。

 まさしく神族との決戦に勝利した魔族たち、といった様子だ。おそらくは、数千年前にもこの地で、同じような宴が催されていたのだろう。



 その中で。

 左目に眼帯を装着したイサギは輪から外れ、柱に背中を預けていた。

 グラスを持ち、まるで夢を見るようなまなざしで、人々を眺めている。


 そんな彼のもとに、廉造が近づく。


「よォ」


 廉造の全身に、もう封術の刺青は残っていない。獣術の能力も失ってしまったようだ。

 体中に包帯を巻いた痛ましい姿とは裏腹に、廉造もどこかスッキリとした顔をしていた。


 苦しみもなく心地よさに浸っている廉造を見つめ、イサギはほっと息をつく。


「廉造、調子がよさそうでなによりだ」

「……まァな。アレが手に入ったンでな」


 親指で後ろを指す廉造。

 ダイナスシティの中庭の中央には、ひとつの巨大な魔晶が鎮座していた。

 アルバリススの死後、廉造が魔晶化した大地を掘り起こして手に入れてきたもの――極大魔晶だ。

 それは偉大なる輝きを称えて、魔術の光を照らし返している。


 イサギは口元を緩めた。


「ようやくお前の願いが叶うな」

「あァ」


 遠い目をしながら、廉造はうなずいた。

 彼もまた長い戦いの道のりを思い出しているのかもしれない。

 イサギの隣に立ち、廉造は小さくつぶやく。


「……テメェには、世話になったな。さぞオレを恨んでいるだろう」


 廉造は、イサギの失われた右腕を見つめていた。

 その表情に重苦しい影が漂い始める。


 しかし、隻腕の男は気安く肩を竦めた。


「どうってことないさ」

「だが、もう禁術はなくなっちまった。回復術もだ。テメェの腕は、元には」

「いいんだ」


 イサギは廉造に首を振った。


「俺の願いも、お前の願いも、叶うんだ。それ以上に嬉しいことなんて、ないさ」

「……テメェは、本当に」


 面食らったような表情で口を開いていた廉造は、すぐに大きなため息をついた。

 そうしてイサギの肩に腕を回し、うめく。


 ――甘ェやつだ。

 そんなことを言われるのだろうな、と思いながらも待つイサギに。

 廉造は感慨深く言った。


「大した男さ、本当にな」


 肩に回された廉造の腕の熱さに、イサギは戸惑う。

 だが、悪い気はしなかった。


「……お前もな、廉造」

「へッ」


 互いの健闘を称える男たちは、小さくグラスを打ち合わせた。


 そこに楽観的な声が降り注ぐ。先ほどまで、人々に取り込まれていたひとりの英雄のものだ。


「いやあよかったっすねえ」


 魔族国連邦の魔王、慶喜である。

 彼は左手に皿を持ち、その上に料理を山盛りにのせながらやってきた。

 すべてが終わった今、慶喜の顔は緩み切っている。

 彼も廉造同様に封術を失った身であるが、力への執着は微塵もないようだ。

 慶喜は温かい料理に舌鼓を打っている。幸せそうであった。


「悪は滅ぶんすよね、必ず最後に愛は勝つんすよ!」

「……あれが悪だったかどうか、俺にはよくわからないけどな」


 物憂げにつぶやくイサギだが、慶喜はあくまでも能天気に笑っている。


「で、先輩はこれからどうするんすか? 一緒に魔族国連邦に帰ります? それともダイナスシティのほうで暮らすんすか?」

「そのどちらも選ぶことはないだろうな」

「と、いいますと?」

「俺は旅にでも出るよ」


 そう言った途端、慶喜は驚いたようだ。


「えっ? それ中二病とかじゃなくて、マジで言ってんすか?」

「ああ。昔から夢だったんだ。どこか人の来ない草原にでも家を建てて、のんびりと暮らすのがさ」


 イサギは中庭を見回すが、ともに誓い合った少女の姿はない。席を外しているのかもしれない。

 廉造は肩を竦めて、なにも口に出そうとはしない。それがイサギの決めたことならば、と思っているのだろう。


 慶喜は少し寂しそうに笑う。


「そうっすか……。でも、イサ先輩確かにそういうの、似合いそうっすもんね。離れていても、元気でやっていてくださいね!」

「ああ、お前もな。幸せになれよ」

「大丈夫っす! もう幸せっすから!」


 親指を立てる慶喜の笑顔は、極大魔晶に負けないほどキラキラに輝いていた。

 しかし彼は、急に気づいたようにハッとする。


「あ、それじゃあふたりとも、ぼくの結婚式には来てくれないんっすか!? 日取りはまだこれから決めようと思っているんすけど!」


 うろたえる慶喜。イサギと廉造は顔を見合わせた。

 そしてふたりは微妙に眉根を寄せる。


「お前の結婚式か……。祝福したいようなそうでもないような、複雑だな」


 イサギは、慶喜とロリシアのなれそめを思い出してしまう。慶喜に土下座でお願いをされて、ロリシアとの仲を取り持ったのだった。あれから本当に相手を射止めることになるとは思わなかったが。


 廉造は髪をかきあげながら、けだるそうに言い切る。


「いかねェよ。オレは家に帰る」

「そんなぁ!」


 悲鳴をあげる慶喜。

 と、彼はあちこちをきょろきょろと見回して。


「だったらせめて、愁サンだけでも……って」


 言いかけて、慶喜はその言葉を飲み込んだ。

 この会場のどこかでギルドマスターの制服を着た青年が微笑んでいるような気がしたのだ。女性に囲まれながら、ワインを片手に笑顔を浮かべている。そんな景色がほんの少しだけ――。


 廉造は腕組みをして空を仰ぎ、イサギは微苦笑をする。


「どうかな。愁がいても、来てくれたとは思えないな」

「アイツは勝手なやつだったかンな」

「……そう、っすね」


 慶喜は頬をかいて、気落ちした顔をみせた。

 だがその雰囲気を振り払うように、廉造は首を振る。


「テメェの道を通して死んだンだ。悲しむ必要はねェよ、ヨシ公」

「……ぼくは、でも悲しいっすよ。もう愁サンと会えないのは……」

「それでもいいさ、慶喜。お前のその優しさで救える人も、多くいるだろうからな。それに、なにもひとりで悲しむ必要はないだろう。お前には分かち合う人がいるんだから」


 イサギの言葉が慶喜の心に染み込んでゆく。

 慶喜は胸に手を当てて、小さくうなずいた。彼はその瞳に凛とした光を宿し、しっかりと応える。


「……ういっす」


 それは人の死を乗り越えて前に進むのだという、意思表示のようなものだった。

 イサギと廉造はそんな慶喜の姿を見て、もうこれ以上の心配は無用だろうと判断する。


 慶喜は彼の道を歩み始めたのだ、と。



 今回の戦争の英雄三人は、しばらく固まって談笑をしていた。

 そんなときだ。三人のもとにひとりの少女が近づいてくる。

 銀髪の娘――シルベニア。彼女は銀色のスパンコールのちりばめられた藍色のドレスを身にまとっていた。

 星空のような髪をなびかせ、ドレスを身に着けた彼女は、社交界に招かれた令嬢のようである。

 そんなシルベニアは、けれど少し怒ったような顔をしていた。


「あ、シルベニアちゃんはぼくの結婚式に、来てくれるっすよね!?」


 シルベニアは慶喜の横を通り過ぎ、廉造の前に立った。

 背伸びをするようにして、彼の黒い目を見つめる。

 彼女の薄い桜色の唇が、鋭い声を放った。


「……レンゾウ、もう帰るって本当なの?」


 廉造は当たり前のようにうなずいた。


「ああ。この宴が終わったら頼むぜ、シル公。テメェにクリムゾンで送ってもらわねェとな」

「……」


 満足げに顎を撫でる廉造の前、シルベニアは俯く。

 顔をあげた彼女の雰囲気は一変していた。さらに激しく、シルベニアは廉造を睨みつけた。

 そうして開かれた口から出た言葉は、拒絶である。


「やだ」

「はァ?」

「あたし、レンゾウ送るの、やなの」

「なに言い出してンだよ、テメェ」


 シルベニアの反抗に、廉造がドスの利いた声を出す。

 この期に及んで手のひらを返されたのだ。無理もないことだろう。彼がどれほど元の世界に帰りたがっていたかは、皆の知るところだ。

 禁術を失ったとはいえ、廉造の戦闘力は凄まじいものがある。辺りに緊張が走った。


 イサギと慶喜が視線を交わし、ささやき合う。


「廉造のやつ、ずいぶんと恨みを買ったのか?」

「わ、わからないっすけど、でも、ものすごい怒っている気配がしますよ!」


 シルベニアの周囲に魔力が高まってゆく。

 風が吹き、彼女の髪がなびいた。ドレスのスカートがふわりと舞う。

 剣呑な気配を感じ取ったのか、辺りがざわめき出した。


 もしなにかあれば止めようと、イサギと慶喜がそれぞれ身構える。

 だが、その必要はなかった。

 風がふいにやんだ。


 シルベニアはいまだ廉造を睨みつけていたままだったが。

 切れ長のその瞳が、徐々に潤んでゆく。

 開いた唇は、震えていた。


「……やなの、レンゾウ。あたし……やだ……」


 シルベニアは赤い両目からぽろぽろと涙を流していた。

 スカートの裾をぎゅっと拳で握り締めて、駄々をこねるように、シルベニアは首を振った。


「レンゾウがいなくなっちゃったら、あたしはひとりぼっちになるの。だから、やだ。レンゾウを送るのやなの」


 シルベニアはまるで子どものように泣きじゃくっていた。

 イサギや慶喜は、呼吸をするのも忘れて、彼女を見つめている。

 まさか銀髪の魔女が、こんな風に感情をあらわにするなんて。


 廉造は鼻から息を抜くと、シルベニアの頭に手を伸ばした。

 彼はシルベニアの帽子を取り、ぐしゃぐしゃとその美しい銀髪を手荒に撫でまわす。


「ばーか、誰がひとりぼっちだよ」


 シルベニアの目はいつしか、縋りつくようなものになっていた。

 廉造は腰を屈め、視線を合わせる。


「テメェの周りにはたくさんの人がいるだろ。姫さんだって、キャスチだって、それにこれからもっともっと増える。どうやっても生きていけるさ」

「でも、戦争が終わったら、あたしは、もう、戦争が終わっちゃったら、あたしにはもう、価値なんてないの……。あたしはいつまでも、誰かを殺し続けないと……」

「いいや、なんだってできるさ」


 廉造は小さく笑った。

 彼は手の甲で、シルベニアの頬を撫でる。


「テメェの人生はテメェで決めろ、悩みながらもゆっくりと歩いてゆけばいいさ。な、――シルベニア」


 突き放すように聞こえるかもしれない言葉だ。

 しかし廉造は、シルベニアを抱き寄せた。

 まるで妹をあやすかのように――、その背中を撫でる。

 シルベニアは廉造の胸に顔をうずめながら、声をあげて泣き続けていた。


 イサギはゆっくりとその場を離れてゆく。

 皆が皆、これからそれぞれの道を進み出すのだ。



 中庭から出ようとしたところで、後ろから小走りに追いついてくる娘がいた。

 彼女はイサギに並ぶと、明るい笑顔を見せる。


「お兄ちゃん、プレハお姉ちゃんを探しているの?」

「あ、いや、そういうわけじゃないんだが」


 晴れやかな顔をしたリミノだ。深緑を思わせるような碧色のドレスを着た彼女は、花のような笑みを浮かべる。


「お姉ちゃんだったら、さっきお城の中に入っていったよ。リミノに『きっとよい女王様になれると思うよ』って、声をかけてくれたんだ。嬉しかったな」

「それは俺もそう思うよ。リミノは立派になった」

「そう? ほんとに? どういうところが?」


 リミノはイサギの手を取った。

 好奇心の中に一滴の期待を含めて、イサギを見上げてくる。


「今のリミノは、一本芯が通ったように思える。どこに出しても恥ずかしくない王族さ」

「えへへ、そっかぁ」


 リミノは嬉しそうに目を細めて笑う。

 幸福感を噛み締めるかのように。

 イサギの腕を撫でながら、彼女はつぶやいた。


「ね、お兄ちゃん」


 リミノの声に艶が混ざった。イサギはそれに気づかない。

 彼女はイサギからぴょんと飛びのく。中庭の騒ぎを背に、後ろに手を組んで笑う。

 頬を赤く染めて、目を細めながら。

 その美貌は過酷な運命という名の流れに磨かれた宝石のようだ。


「リミノね、後悔していないから」

「え?」


 騒ぎ、笑う人々。

 自分のいる世界は彼らのそばだと言うかのように、リミノはそこから離れない。

 澄んだ瞳を潤ませながら、微笑んだ。


「後悔していないよ。お兄ちゃんのために生きよう、お兄ちゃんのためにすべてを捧げて、お兄ちゃんだけを永遠に愛し続けようって……思わなかったこと。ちゃんと自分で考えて決めたことだから。だから、これでよかったって、ちゃんと思っているから、ね」


 リミノは改めて頭を下げた。

 顔をあげると、彼女は麗らかな気分で笑う。


 大森林ミストラルで過ごした日々を、イサギは覚えていないけれど、それでもリミノはそれでいいと思っていた。

 ――イサギに一番ふさわしいのは、やはりプレハなのだから。


 そんなリミノに、イサギもまた笑いかけた。

 心を込めて、感謝を伝える。


「ありがとう、リミノ。お前がいたから、俺はここまで来れた。だから本当に、ありがとう」


 深い想いの込められたその言葉を聞いて、リミノは目を丸くした。

 まさかそんな風に言ってもらえるとは思えなくて、嬉しさで胸がいっぱいになる。

 想いはこぼれて笑顔となる。リミノは光を背に、満面の笑みを見せた。


「うんっ!」


 リミノはイサギに手を振り、中庭へと戻ってゆく。

 イサギは光の中へと戻ってゆくその背中を見送り、そして歩き出した。



 イサギが少しゆくと、庭を出てすぐのベンチに珍しいツーショットが座っているのを見た。

 先ほど挨拶をした魔帝の姫デュテュと、彼女の父親を討伐した父を持つ、アマーリエである。

 黒のドレスを着たデュテュは怯え、そして赤いドレスをまとうアマーリエはしきりになにかを訴えている。


 脅しているわけではないだろうが、いったいなにをしているのだろうか。イサギは声をかけてみた。


「なにをしているんだ、お前たち」

「イサさまぁ~」


 デュテュが情けない声をあげてイサギに手を伸ばす。

 その手をアマーリエが払いのけた。


「ああ、気にしないで。この子が、冒険者こわい冒険者こわいとか言うから、あたしがそんなことないって言っているのよ」

「だって~……うう~……」

「いまだにそんなことを言っているのか、デュテュ……」

「イサさままで~」

「はあ」


 アマーリエは深いため息をついた。

 それから再び冒険者ギルドの歴史と、そのことの起こりを語り出す。まるで歴史の授業のようだ。


「いい? そもそも冒険者ギルドが魔族を狙おうとしていたのだって、本来の冒険者ギルドの理念とはまるで異なっていて、そのことにはあたしたちも何度謝っても済む問題ではないと思っていて厳粛に受け止めようと……」

「ふぇーん」


 イサギが見やれば、デュテュの頭からはぷすぷすと煙があがっていた。それでもなんとか理解しようと、アマーリエに食いついている。

 別にこんな祝勝会の最中にやらなくても、と思ったが、イサギは特になにも言わずに歩き出そうとする。


 と、後ろからデュテュの声がかけられた。


「イサさま、どこかにお出かけになるのですか?」

「ん……ああ、まあ、少し旅にな」

「あ、そうなんですねー」


 デュテュはぱちんと両手を合わせて、イサギに微笑む。

 それはとろけるような、人を包み込む笑顔であった。


「それでは、お気をつけて、イサさま。あなたさまのご無事を、祈っております」

「……ああ、ありがとう」


 デュテュは初めて会ったときと変わらず、無垢なる微笑みを浮かべている。

 今ならばわかる。彼女の鈍感な機微は、ある種の強さであったのだと。

 悪意に対しても誠意を返し、献身さと礼節を持って人々に尽くす。アルバリススの大地を愛する彼女がいたからこそ、自分たち元魔王候補たちはこの世界を嫌いにならずに済んだのだ。


 純真なその瞳に映る自分が、凛々しき勇者でいられたのならよかった。イサギは心からそう思い、手を振る。


 アマーリエが熱心にデュテュに講義を続けているのは、それはあるいは愁を失った悲しみを忘れるためなのかもしれない。

 愁の死を一番悼んでいたのは、アマーリエだった。

 彼からもらった手紙に『結婚の約束は反故にしてほしい』と書いてあったのを読んだアマーリエは、その場で手紙を滅多切りにしたのだった。

 彼女は雷鳴剣を振るいながら、先にひとりで逝ってしまった愁の名を呼んでいた。

 だが、今はもうすっかり元気になったようにふるまっている。


 視線に気づいたアマーリエが、振り返ってくる。


「……ん? どうかした?」

「いや」


 イサギは敬意を込めて、片手を挙げた。


「ありがとうな、アマーリエも、デュテュも」

「別に……あたしはこの世界のためにできることをしただけだわ。お礼を言われることはないわよ。……でも、あなたにそう言ってもらえると、ちょっと嬉しいかな」

「どういたしまして、イサさま」


 アマーリエは照れてそっぽを向き、デュテュは素直ににっこりと微笑んだ。


 イサギは彼女らに別れを告げ、歩き出す。

 いつの間にか、プレハを探している自分に気づいた。



 城を歩き回り、そうしてイサギは地下に降りていった。


 召喚魔法陣クリムゾンのそばに、彼女がいた。

 普段は衛兵たちによって守られているはずの王城の地下だが、今は人払いを済ませてあるのか、他に人影はなかった。

 深い闇の中。ぼんやりとした赤い光に照らされながら、ひとりプレハが立っていた。


 プレハは普段通りのローブを身に着けていた。

 着飾らずに自然体でいる彼女は、イサギに気づくと微笑みながら振り返る。


「よくここがわかったね、イサギ。それとも、たまたま?」

「なんとなく、かな。もう一度ここが見たくてさ」

「ふふ、じゃああたしと一緒だね」


 召喚陣の輝きに照らされたプレハの大人びた笑顔に、思わずドキッとしてしまった。


 足を引きずるようにして歩き、イサギはプレハと並んで立つ。

 ふたりの前、召喚魔法陣クリムゾンが穏やかに光を放っていた。


 イサギはエンドロールを歌うように、口を開く。


「すべてはここから始まったんだよな」

「そうだね、変わらないね、ここは」

「あのときは本当にびっくりしたよ、プレハ。目覚めたらいきなり異世界だもんな」

「強引に喚び出して、本当にごめんね」

「謝る必要なんてない。プレハに会えて、俺の人生はようやく意味を持ったんだ」

「でも最初は恨んでいたんでしょ?」

「ま、ほんの少しだけ、な」


 プレハとイサギは、まるでじゃれ合うように笑う。


 だがすぐに、イサギは小さくため息をついた。

 己の拳を見下ろして、口元を緩める。

 戦い尽くめの六年間だった。平穏な日々なんて、魔王城に滞在していたときぐらいなものだろう。

 まだまだやりたいことは残っている。だが、総じて言えば――。


「いい人生だった」


 十八才の男は、迷いなくそう言い切った。

 プレハは慈愛の表情で、こちらを見つめている。


 もうとっくに、プレハも気づいていたのだろう。

 彼女は笑うでもなく怒るでもなく、イサギの言葉を真摯に受け止めた。


「イサギ、あなたはやっぱり」

「ずいぶんと、無茶を繰り返してきたからな」


 自らの拳を見下ろして、イサギは皮肉げに笑った。


 何度も何度も破術を使い、魂をすり減らしてここまで来た。

 空いた穴を埋めてくれる神エネルギーはもはやない。

 勝利を求めた代償が、訪れていた。


 ――すなわち、イサギの体は滅びつつあった。


 アルバリススを倒した直後から、イサギの魂はもうほとんど残ってはいなかった。

 死は喉元に突き付けられていたのだ。

 今にも崩れ落ちてしまいそうだったけれど、イサギは己を律して立ち続けていた。


 ――せめて皆には『旅に出る』と伝えるために。


 そうだ、これからイサギは長い旅に出る。

 もう二度と皆と会うことは叶わないだろうけれど。

 でも、もう、イサギの為すべきことは済んだから。

 人々は平和を手に入れることができたから。


 リミノの言っていた通りだ。

 後悔はない。

 いい人生だった。


 イサギはゆっくりとその場に腰を下ろした。

 足を伸ばして座り、大きく伸びをする。


「しかし、俺はもう少し苦しむものだと思っていた。もう、痛みもなにも感じないんだ。心は満ち足りている。こんな気持ちで滅びることができるだなんて、俺は幸せだよ」

「……」


 プレハはイサギの近くに、膝を折って座った。

 彼女の表情は、先ほどからずっと、真剣な眼差しだ。


 イサギの冷たい手をさする。


「イサギ、おつかれさま」

「ああ、プレハ。最後に一目あえて、本当によかった」

「うん、あたしもだよ」

「ずっとお前のことを、探していたんだ」

「うん」


 ふたりは地下室の片隅で、手を握り合っていた。


 イサギは最期の力を振り絞る。

 そしてプレハの目を見つめながら、告白した。

 ずっと言えなかった、その言葉を――。


「愛しているよ、プレハ」


 たった一言。

 この言葉を告げるために、三年の旅を続けてきた。


 プレハの唇がわずかに震えた。

 彼女はぎゅっとイサギの手を握る。


「……うん。あたしも、あなたを愛しています、イサギ」


 その言葉の響きは、あまりにも美しかった。

 魔力を帯びているかのように凄艶で、冷然としていて。

 それは、――プレハが悲しみを押し殺しているからだ。


 ゆっくりとイサギの力から、体が抜けてゆく。

 その場にあおむけになり、イサギはそれでも笑みを浮かべていた。


 イサギの目からはもう、光が失われている。

 勇者はゆっくりと死に絶えつつあった。

 彼はプレハの手を愛おしく、撫でる。


「最期のわがままだ、プレハ」

「うん」

「俺が眠るまで、この手を握っていてくれないか」

「……うん」


 見上げるプレハの顔も、もう見えない。

 イサギは静かに目を閉じた。

 そこには確かに、プレハの微笑みが浮かんでいる。


 世界で一番愛している彼女の、優しい笑顔だ。

 プレハに看取られて逝くなんて、本当に幸せな人生だった。


 音が遠ざかってゆく。


 だがここに。

 手のぬくもりだけは。

 確かにあった――。










 勇者イサギの魔王譚

 エピローグ


『貴方との未来はこの手のひらの中に』













「ねえ、イサギ」



 感覚も、意識も、現実感さえも遠ざかる中。

 プレハの声だけがやけにはっきりと聞こえてきた。



「あたし、あなたに会えて本当によかった」



「あなたのことをずっとずっと探していた。あなたがいなくなってから、十年以上。ずっとあなただけを」



「人はどうして、今を生きると思う?」



「あたしはね、『ああ、よかった』って感じるその瞬間のために、生きているんだと思う」



「人生は長さじゃないんだ。そんな瞬間がどれほど訪れたかで決まるんだよ。みんな、そのために明日も生きてゆくの」



「あたしはね、あなたがいなくなってからの十二年間はとてもつらいって思っていたけれど、でももう大丈夫だよ」



「あなたに愛していると言ってもらえて、あたしは幸せです。その一言を聞くために、あたしは生き続けていたんだって、わかったから」



「ね、だから、イサギ――」






 イサギの体が軽くなった。

 まるで浮遊するように。

 先まで忍び寄っていた死の気配が、遠ざかったような気がした。


 それとともに、手の中から温もりが消える。

 イサギはハッとして、とっさにプレハの行方を追う。

 目を開いた彼は、不思議なものを見た。


 地下室の中、横たわっていたはずの自分が、なにか不思議な力でわずかに浮き上がっているのだ。

 原因はイサギの体の周囲に輝く赤い光だろう。この全身を包み込んで、死と重力を隔てているのだ。

 いったい――。


「……これは?」


 顔をあげれば、少し離れたところにプレハが立っていた。

 彼女もまた、光をまとっている。イサギのものとは異なる、七色の光彩だ。

 薄暗い地下室を、鮮やかに染めていた。


 この狭い空間に魔力が渦巻いている。

 その意図がわからず、イサギは思わず彼女に問いかけた。


「なにをしているんだ、プレハ。……それは?」

「この世界を救ってくれて、ありがとうございます」


 プレハはしっとりと微笑んでいた。

 イサギは左手を伸ばすが、その微笑みは遠い。


「アンリマンユから一度。そして神族から二度目を救ってくれた。でも、あなたが救ってくれたのはそれだけじゃない」


 感情を排除しようと努めているのか、彼女の声は淡々と奏でられた。

 だがそれでも、プレハの言葉の端々には、膨大な感謝の念がにじみ出ている。

 しかし、イサギが今聞きたいのはそのような言葉ではない。


「俺の体は、いったいどうなっているんだ……? 生きて、いるのか?」

「あなたはあたしまで救ってくれました。本当に、ありがとうございます」


 プレハが小さく頭を下げると、彼女がまとっていた七色の光彩が揺らめき出す。

 辺りに気流のような風が巻き起こり、イサギの頬を撫でた。

 なにかが始まろうとしている。

 そんな予兆に、イサギの背筋が冷たくなった。


「プレハ!」


 イサギはなおも呼びかけるが、それがプレハの感情に影響を与えたりはしなかった。

 もはや意思を定めた殉教者のように、彼女はより一層美しく微笑んでいる。

 なにもかも満ち足りたような表情だ。


 ――まるで、先ほどのイサギのように。


 その考えに至ったとき、イサギの表情は凍りついた。

 プレハは白い指先を振るう。そのたびに魔世界が書き換えられ、コードが刻まれてゆく。


「あたし、考えていたんだ。あなたをどうやったら助けることができるのか。ようやくわかったよ」

「俺が、助かる……? だが、もう俺の体は」


 そうだ。イサギは死の淵にあった。

 かつて、魂のすり減った人間は神化病にかかり、その空白を神エネルギーによって埋められた。

 だが、もはや世界の法則は書き換えられたのだ。魂が失われれば。待つのは絶対的な死のみ。

 その運命に委ね、イサギは息絶えるつもりだった。

 だからこそここで、始まりのこの地で、プレハに看取られながら――。


 しかし、プレハは断固首を振る。

 聖女のような固い意思を持ち――。


「大丈夫、あたしに任せて、イサギ。あたしはあなたを救う。あたしに残された時間は、もう残り少ないけれど……でも、やってみせるからね」

「いったいなにを……」


 そのとき、イサギの目に映ったのは、プレハの細い腕だった。

 コードを描くその指先。さらにローブの先から覗く両腕が、硬質的な紫色の輝きを放っている。

 あれは魔晶だ。プレハの腕が魔晶化をしてしまっているのだ。

 いったいなぜか。


 キャスチがプレハの魂を呼び起こすために使ったのは、封術の一種であった。

 その効果。神エネルギーの力は、アルバリススによって取り込まれた。

 もはやこの世界に禁術は存在していない。プレハの魂を固着するための仕組みも、失われてしまった。


 ということは、すなわち――。


「お前も死ぬのか、プレハ!」


 イサギは愕然とした。

 暴れるように腕を伸ばすが、しかしイサギに絡みつく赤い光は彼をその檻から決して出そうとはしない。

 世界を救うためにイサギは旅を続けてきた。だが、最愛の彼女を救えないというのなら、彼は決して納得ができないだろう。

 これはイサギの願い、望んだ結末では――ない。


「――大丈夫だよ、イサギ」


 プレハは応える代わりに、笑顔を見せた。

 それは儚くて、雪のようで、消えてしまいそうなほどに、美しく。


 彼女は両手を広げ、さらに術式を詠出した。

 滔々と広がってゆくそのコードは、召喚魔法陣クリムゾンに重なって。

 まるで巨人が目覚めるような音を立てて――、クリムゾンが静かにその光を強めてゆく。

 それに反応をするかのように、極大魔晶プレハもまた、さらなる輝きを放つ――。


「なにをしようとしているんだよ、プレハ! お前、まさか!」

「ありがとう、イサギ。今度はあたしの番だよ」


 イサギは光から手を伸ばす。ここに破術があれば、この術式を破潰することができるのに。彼は己の無力を悔いながらも歯を食いしばった。それでも諦めることなどできず。プレハへと真っすぐに手を――。

 だが、届かない。光の檻は絶対的であった。まるで次元が隔たれているかのように。人ひとりの意思すら通さず、プレハの想いを完遂させようとする。

 だが決して享受することなどできやしない。イサギは願いを叫びにのせて発する。


「プレハ!」

「イサギ、あたしはあなたのことを……」


 プレハはそこで言葉を区切った。

 幼き少女のようにはにかむと、頬を赤く染めて体を揺らす。

 深い愛にあふれた笑顔であった。そのひとかけらに触れただけで、魂が溶けてしまいそうなほどに。


「……これ以上は、言えないや。あなたはきっと、気にしてしまうだろうから」


 己の想いすらも飲み込み、なにもかもを包み込むような笑顔を浮かべて。

 そんなプレハにイサギは無駄だとわかっていながら、手を伸ばす。先ほどまでこの手の中に確かにあったはずの温もりを、思い出すように。


「俺はお前のことが――」

「でも、ひとつだけわがままを言わせて、イサギ。あたしの最期のわがまま」

「プレハ――!」


 すうと息を吸い込むと、彼女は胸に手を当てた。

 魔晶の輝きを帯びた瞳が、イサギの表情を映し出す。

 プレハの唇からこぼれ落ちる言葉は、まるで涙のようだった。


「あなたを一途に慕っていたひとりの女性がいたことを、覚えていてくれたら、嬉しいです」


 イサギの胸が締めつけられる。切なさに心が張り裂けそうだ。

 なにを叫べばいいのかもわからず、彼は己の魂のままに吼える。


「忘れるものか、プレハ!」

「よかった」


 その瞬間、ついにクリムゾンが起動した。

 魔法陣から立ち上る赤い光が彼女の姿を覆い尽くす。

 光に遮られ、もはやプレハは見えなくなり。

 それでもイサギは彼女を求め続けることを、やめられない。


 声が響く。


「あたしの魂も、一緒に連れていって、イサギ――」


 光の向こうで、輝きが弾けた。

 七色にきらめくきらめきの残滓が、飛散する。


 散らばった光の粒は地下室を漂う。

 イサギは限界まで腕を伸ばす。

 それがプレハの遺したものならば、それがなんだとしても――。


 そうして一輪の光を掴まえた。

 わずかな温かみを残して消えてゆく光を大事そうに抱え、それがなにを意味するのかもわからず、イサギは叫ぶ。


「プレハ――――!」


 もはや絶叫。だがそれは、彼女には届いていなかった。

 世界が薄く、遠ざかってゆく。


 祈りにも似た声は、プレハのものだ。


『あたしの分まで――、向こうのあたしを、幸せにしてあげてください』


 その声を最期に。

 イサギの意識は暗転した。


 ずっと、ずっと。

 イサギは手を伸ばしていた。

 光の粒の温もりを、その手に握りしめたまま。

















「……ギ、……イサギ、……ねえ、イサギ!」


 ハッと目を覚ます。

 眼前には、プレハがいた。


 煤けて、あちこちが汚れ、汗にまみれた少女だ。

 生きているのか? いや、違う。

 彼女は最後に見たときと比べて、はるかに幼い顔立ちをしていた。

 そう、少女のプレハがそこにはいた。


「なんで、若返って……」


 イサギのかすかなつぶやき。

 それを不安そうに眺めながら、彼女はイサギの肩を揺する。


「ねえ、大丈夫? イサギ、ねえ!?」


 イサギは目を見開く。

 まず驚愕したのは、失われたはずの左目と右腕が再生していることだった。

 プレハがなにかをやったのだ。

 そして、辺りの景色に見覚えがあった。


 ここは魔王城だ。

 それも、過去の世界。

 すなわち、アンリマンユを倒した直後の――。


 辺りには心配そうな顔をしたバリーズドとセルデルの姿もあった。


「イサギ、冒険者ギルドの話を始めたと思ったら、急に意識を失ったように倒れて……それで、ようやく目を覚まして……」

「……俺は」


 イサギは瞬きを繰り返す。

 プレハと目が合った。

 彼女は真剣な目で、こちらをじっと見つめている。

 そこにはわずかに、涙の跡があった。


 少年は己の拳を見下ろす。

 これは死ぬ前に見た夢なのではないか。そう思った彼は――。

 おそるおそる、手のひらを開いていった。

 その中には――七色の色彩が、ふわりと輝いていた。

 イサギが掴んだ、光の粒だ。

 それは儚く溶けて、消えてゆく。


 彼の心臓が、跳ね上がった。


 ここは、夢ではない。現実の世界だ。

 自分は過去に戻ってきたのだ。


 プレハが己の極大魔晶からだを使って、

 イサギを過去の世界へと転送させたのだ――。


 イサギの命を救うために。

 そのために、過去のイサギの魂と、傷ついた二十年後のイサギの魂を融合させた。


 生きていてほしかったから。

 プレハは、イサギに幸せになっていてほしかったから。


 少女のプレハが、イサギの顔を覗き込んでくる。


「ね、イサギ。……本当に、大丈夫? もう少しで結界が破れて、そうしたら騎士団のみんなが迎えに来てくれるはずだから……。それまで、大丈夫……?」


 震えるような声を聞いて。

 イサギの胸が張り裂けそうになった。


 セルデルとバリーズドがイサギの体を眺めて、それぞれうなずく。


「……魔力は、もう戻っているようですね」

「ああ、肉体にも傷はないな。ショック状態になっちまったんじゃないか? プレハが返事をしてやらないからな」

「え? え、え?」


 プレハはしばらく戸惑っていたようだが、その顔がみるみるうちに赤くなってゆく。

 両手をぱたぱたと振り回し、抗弁する。


「そ、そんな、そんなことがあるわけないってば! そ、そうだよね、イサギ?」

「あ、ああ……?」


 イサギは彼らがなんの話をしているのか、思い出せなかった。

 ただ、別れ際のプレハの笑顔だけが、網膜に焼き付いて離れない。


 イサギの反応が薄いことを見ると、プレハはこほんと息を整えた。

 それから、イサギのもとに屈む。


「ねえ、イサギ」


 十四才の少女は、イサギが息を呑むような真剣さで。

 目を潤ませながら、顔を真っ赤にして。

 声を震わせて、それでもしっかりと。


 言った。


『――これからも俺についてきてくれないか――』


 その問いの、答えを――。



「……ふつつかものですが、どうぞ、よろしくお願いします」



 微笑む彼女の顔を見たその瞬間――。

 ――少女のプレハの笑顔に、別れてきたプレハの大人びた微笑みが重なり。


 イサギの目から涙があふれた。


「ちょ、ちょっと、イサギ?」


 イサギは泣き続けた。

 声をあげて泣いた。


「も、もう、イサギってば、やだ、セルとバリーズドが見ているのに……」


 己を犠牲にして救ってくれたプレハは、もういない。

 今ここにいるプレハは、なにも知らないのだ。

 イサギが戦った三年間を。そしてプレハがイサギを追い求めた十数年間を。

 なにも知らずに、微笑んでくれている。


 ――それがなによりも、哀しかった。


「イサギ……、そんな、そんなに嬉しかったの……? だったら、あたしも嬉しい、けど……もうっ」


 プレハが優しくイサギの頭を撫でる。




 長い旅は、終わった。

 勇者はこの地から再び、歩み出す。










 これは彼が歩んだ物語。

 ここではないどこかのアルバリススにて物語られた、英雄譚。


 勇者イサギの魔王譚であった。



 次回更新、10月9日(金)

 21時、エピローグ2

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