14-10 それが彼らの魔王譚
ルナの創り出した魔法陣フォールダウンは、四百年周期で起動するものだ。
それはのちに四人の少年を召喚した。
浅浦いさぎ、緋山愁、足利廉造、小野寺慶喜。
彼らは『魔族』を勝利に導くために、尽力した。
なぜ彼らでなければならなかったのか。
なぜ彼らが喚び出されたのか。
その答えがこの日、導き出される。
魔帝の姫は『魔族を救うため』に、少年たちを召喚した。
少年たちは間違いなく『魔族』を救うために召喚された、魔王たちであったのだ。
アルバリススはそんな召喚者たちを脅威だとは感じていなかった。
だが、それでもアルバリススは一度ルナに敗北を喫している。
念には念を入れるべきだと、かつての神族の王は考えた。
ルナを上回るために、彼は神世界の狭間を漂いながら、手を打った。
ルナトリスの目論見を出し抜くために、アルバリススはひとつの計画を立てたのだ。
四百年に一度のフォールダウンが起動するその二十年前に、アルバリススは暗躍を始めた。
ルナの計画を寸前で止めるために。
かつて神世界へと力を求めたひとりの若者がいた。
アルバリススは彼に神エネルギーと知識を授け、そして彼はアルバリススに忠誠を誓った。
若者はいずれ王を名乗り、魔族を統一すると、スラオシャ大陸へと攻め込んだ。
そしてダイナスシティの地下に眠る召喚魔法陣クリムゾンから、アルバリススを召喚する手筈であった。
だが、それは阻まれた。
なんの因果か、縁か、本当なら二十年後に召喚されるはずだった男――勇者イサギが、アルバリススとその手先の目的を阻んだのだ。
ありえないことであった。
なぜなら当時の勇者イサギは――体の育った三年後ならいざしらず――それこそなんの変哲もない、平凡な十三才の若者であったからだ。
彼が選ばれてこの世界に召喚されることも、その彼がアンリマンユを打倒することも、どちらも不可能なはずだった。
イサギはアルバリススの予想を一度、上回った。
だがそれは決して、イサギ自身だけの力ではない。
彼を支え続けた少女がひとり、いたからだ。
イサギを勇者だと信じ、彼に想いを託し、そして導いた少女。
彼女は今、イサギの年齢を超え、そして今なおイサギとともに戦っている。
輝かしい金髪を長く伸ばし、常に柔らかな微笑みを浮かべた芯の強い女性だ。
名をプレハといった。
イサギとプレハ。かつてそのふたりがアルバリススの策略を阻んだ。
これは決して歴史には表れない真実だ。
そして今――。
ふたりは歴史の影で戦う。
――アルバリススと勇者たちの戦いが、幕を開けた。
◇ ◆ ◇ ◆ ◇
勇者イサギの魔王譚
最終話
14-10『それが彼らの魔王譚』
◇ ◆ ◇ ◆ ◇
戦場において、プレハはその金髪を汗に濡らしながら立ちまわっていた。
彼女の運動力は術師としては並外れている。
まとう闘気はA級冒険者クラスだ。杖術で接近戦をこなすこともできる。
これはイサギ召喚前、彼女自身が単体で魔王を打倒せしめるほどの戦闘力を求められた切り札存在であったことに由縁する。
だがそれでも、プレハは刻一刻と変化する戦況を目で追うのがやっとだった。
――斬り結ぶふたりの勢いが、あまりにも苛烈なのだ。
重なっては離れ、弾け飛ぶ。
アルバリススとイサギの戦いはまさしく、地を駆けるふたつの流星のようだった。
アルバリススに向けて、イサギがクラウソラスを叩きつける。王は極術の壁を創り出してその一撃を防御した。
硬質的な音が響いて赤い魔力が弾けるものの、極術壁はびくともしなかった。
王は涼しい顔をしているが、イサギは必死だ。
彼が効果的な斬撃を叩き込むとしたら、煌気を使うしかない。
しかし、イサギは神エネルギーを奪われた。魔力の源がなくなってしまったのだ。今のイサギにとって、煌気はもはや常時使い続けられるようなものではない。
イサギの魔力は、急速に失われつつあった。
それでもイサギは神族の王から間合いを離さない。闘気を放出する技、エクスカリバーではアルバリススに致命傷を与えることは難しいとわかっているからだ。
直接クラウソラスを叩き込もうと、イサギはなんとかアルバリススのガードの隙間を探す。こじ開けようと剣を振るう。
六年間戦い続けたすべての経験を出し切るかのように。イサギはあらゆる手段でアルバリススを攻め立てる。
――それでも、アルバリススは微塵も崩れない。返す刀でミストルティンの刃を振るい、イサギを追い詰めてゆく。
剣技すらも、アルバリススはイサギに勝るとも劣らぬ実力を持つようだ。
ミストルティンの刃が引き起こした爆発を浴びたイサギ。その胸当てが砕け散り、下の肉が焼けただれた。さらにイサギの顔面を猛火が舐める。
肺にまで火の粉を吸い込み、激しい痛みに襲われながらもイサギはそれでも飛びのかなかった。
「くっ――」
「どうした、獣が。その程度の腕前で俺にかなうとでも思ったのか」
「――たとえ俺がひとりでは勝てないとしても」
イサギはクラウソラスを逆手に持ち直す。そうしてミストルティンの刃を受け流した。魂世界をも断ち切る力にすら、神剣は対抗できる。
そうだ、今のイサギでは、この男には勝てない。
だが、イサギは独りでここに立っているわけではない――。
そのとき、指先に魔力を集めていたプレハは叫ぶ。
「イサギ、右に跳んで!」
「ああ!」
彼からの返事とともに、プレハはアルバリススに向けて魔法を放つ。
「極術だろうがなんだろうが、この光はすべてを飲み込む。弾けて消えて――」
この一発で仕留めるつもりで、プレハは全力で極大魔法を打ち込んだ。
彼女の髪がふわりと舞い上がり、手のひらから七色の光球が放たれた。
真っ白な光の塊が、闇を飲み込もうとアルバリススに迫る。
まばゆいほどの輝きを前に、しかしアルバリススは避ける素振りを見せなかった。
刃を消したミストルティンを突き出すと、その先に光を宿す。
「ふん、消滅波か。だが、この程度のものであれば――」
「――!?」
硬直するプレハの体を、回り込んで戻ってきたイサギが担ぎ上げた。そうしてその場から飛びのくと同時に――。
今まで立っていた場所を、アルバリススの放った極術が押し流した。
極術はプレハの極大魔法に衝突し、確かに消滅する。だがそれは一部分にすぎなかった。相殺されなかった部分がさらに勢いを増して迫ってくる。
プレハひとりでは避けきれなかっただろう。その後に待っていた運命は死だ。
赤く溶けて消えてゆく大地。刻まれた爪痕。煙が立ち上り、辺りの魔力濃度を引き上げる。
プレハはイサギに抱かれながらも、青い顔をしていた。
「あたしの魔法が、通用しないの……?」
「大丈夫だ、プレハ」
イサギが離れたところに着地し、プレハに力強く言う。
「何度でもやろう。お前の魔法をあいつは極術壁で守ろうとはしなかった。なら、確かに通用するはずなんだ、だから――お前の力を俺に貸してくれ!」
「うん……、うん!」
右腕を失い、左目を失った男は、それでも希望を捨ててはいない。
プレハの目にさらに強い光が宿る。
地面に下ろされたプレハは、今度はイサギとアルバリススを挟み込むように陣形を展開した。
イサギは再びクラウソラスを抜き、左腕一本で構える。
勇者はすでに息を切らしていた。
肉体の限界。魔力の限界。魂の限界。三世界のリソースをすべて使い切りながらも、イサギはアルバリススと拮抗するために己の戦闘力を維持し続ける。
それは激しく寿命を削る行為であり、もはやこの戦いが終わったあとのことをなにひとつ考えていないかのような、愚行であった。
もはやイサギは安らぎなどを求めてはいない。
平和も彼自身には必要ではない。
今、彼が望むのは、アルバリススを倒すことができる力。それだけだ。
イサギは今、勇者という銘の一振りの剣である。
アルバリススの視線はイサギに注がれていた。王はミストルティンを手に持ち直し、イサギを見くだす。
「そのような体となり、まだ俺に勝てると思っているのならば、哀れなことだな。片腕では満足に剣も扱えまい」
「そうかもしれないな。だが、ハンディだとは思わないさ。俺の腕となってくれる人がいるんでな」
イサギの視線を受けて、プレハは小さく微笑んだ。
彼女はイサギの愚行をとめず、一緒になって戦っている。
それがこの世界にイサギを喚び寄せた己の使命であるとばかりに。
アルバリススは首を振る。
「なにを言っても無駄なようだな」
あきれ果てるような、王の口振り。
だが、それを聞いたイサギは正面から言い返した。
「それはお前も変わらないだろ、アルバリスス」
「……なんだと?」
イサギは左手でクラウソラスをもてあそびながら、アルバリススを見つめる。
「お前はバカだ、アルバリスス。この世界をひとりで総べて、その先になにがある? 自分に従うやつらだけを集めて、それが楽しいのか? なんでも思い通りになる世界で、ふんぞり返って満足かよ」
アルバリススは鼻で笑った。
「それが俺に与えられた運命だ。俺は支配者としてなるべく、この世界に現れたのだ」
「くだらねえな、アルバリスス。お前のやっていることは、お前自身すらも幸せにすることができない行ないだ」
「……ほう。この俺に意見をするのか」
アルバリススはイサギに近づこうとしていたその足を止める。
プレハの見守る前、イサギはクラウソラスを握り締めた。
「俺は思い通りにならないことばっかりだったさ。生まれたときからそうだった。両親が死んだときもそうだ。この世界に初めてやってきたときも、プレハと一緒にアンリマンユを倒しにゆくときも。そして再び世界を転移し、それから戦争を止めるために戦ったことも。ずっとプレハを探し続けたことも。壁にぶつかり続けて、ここまで来たんだ。だが、そのたびに俺は少しずつ強くなれた気がする」
イサギの言葉を、アルバリススさえもじっと聞いている。
王の顔にはなにも表情が浮かんでいなかった。
イサギの口調に熱がこもってゆく。
「俺は最初から勇者だったわけじゃない。困難が俺の前に立ちはだかったそのとき、俺は昔の自分を超えるために強くなった。俺を信じてくれるみんなのために、強くなりたいと願ったんだ。そのたびに俺は少しずつ勇者になれた。この心に思い描く、理想の自分へと」
そのときイサギの握るクラウソラスが、わずかに白く輝く。
それを見つめるアルバリススの顔に、変化があった。
彼はなにかを思い出すように眉をひそめる。
「……その剣は?」
小さなつぶやきに気づかず、イサギはアルバリススにクラウソラスを突きつけた。
「だから、アルバリスス。俺たち『魔族』はお前の言うような獣ではない。己を顧みて、常により良い方へと進み続けている。ときには間違ったり、傷つけあうこともあるかもしれない。だがそれでも、前だけを見ているんだ。支配者など、必要ではない。アルバリスス、お前はこの世界にいるべきではない存在だ」
アルバリススは自らの手のひらを見下ろした。
なにかを言い返そうとして、彼はしかし言葉が出てこない自分に気づいた。
昔は確かにあったはずだ。なにかの想いが。だがこぼれたものが多すぎて、アルバリススの手にはなにも残っていなかった。
なんのために戦いを続けようとしているのか。それはもはや欲望ですらなく、己で己を縛る呪いのようなものだった。
王の目は空虚だ。
それでも彼は、反射的に口を開く。
「俺はアルバリスス。この世界の王だ。この世界の支配者だ。俺は神族に乞われ、そして力を貸した。俺こそがこの世界を守るために。俺が――」
「そうだ。お前はそう『だった』んだよ。アルバリスス」
「ばかな、俺は、違う。なにを言う――」
もはや彼は聞く耳などは持たぬ。
勇者の言葉を一笑に伏せようとするアルバリスス。
そのときだ。
イサギが持つ剣と、地面に落ちたレプリカ。
二本の神剣がリィンと鳴った。
まるで『彼に呼びかける』ように――。
――その瞬間、アルバリススの表情が割れた。
「――俺は――」
アルバリススは顔面を押さえる。
彼は手のひらの指の間から、歪む目を覗かせる。
まるで怨嗟をミキサーにかけたような声が漏れ出た。
「――俺は――俺は――なぜ――俺は――
なにもかも――忘れて――俺は――!」」
その瞬間、プレハが走り出した。
アルバリススは反射的に手を伸ばした。彼女に向かってミストルティンの炎を打ち込む。だがそれに対しプレハは咄嗟に腕を上げた。
極大魔法が彼女の手のひらから放たれ、炎とぶつかりあってそれを相殺する。
光と光が弾け飛ぶ景色の中。プレハが転びそうになりながらも走ったのは、レプリカのもとだった。
このふたつのクラウソラスは、もともとは一本の剣だった。
神化カリブルヌスとの戦いにおいて折れてしまったもの。刃と柄を愁がそれぞれ再生させたために、二本となったのだ。
プレハはそのことを知っていたわけではない。
だが、彼女には予感があった。
その剣は今、一本に戻りたがっている――のだと。
「イサギ!」
プレハはクラウソラスレプリカを拾い上げ、そうしてイサギに向かって放り投げた。
回転しながらも迫る剣を前に、イサギはわずかに眉根を寄せた。彼には右腕がない。どうやって受け止めればいいものか。
だが次の瞬間、クラウソラスレプリカは光へと変わった。
驚くイサギの手をすり抜けて――、そしてそれは、まるで吸い込まれるかのようにしてクラウソラスの中へと入っていった。
クラウソラスの刀身がより一層輝くと、その剣はまるで中から殻を破るように魔晶の破片を撒き散らした。補修材として使われていた魔晶は、もう必要ではなくなったということだろう。
そして、ふたつの剣はひとつの剣へとなる。
本物のクラウソラスが戻ってきたのだ――。
イサギとプレハは夜を照らす剣の輝きを見つめ、呆けたようにつぶやく。
「これは……」
「あらゆるものを絶つ剣、クラウソラス……」
アルバリススがふたりのつぶやきに呼応し、顔をあげた。
王の眼はもはや血走っていた。明らかに今までとは様子が異なっている。
アルバリススが小さくつぶやくのはその剣の名――。
「クラウソラスだと……?」
アルバリススは己の頭を苛むなにかによって、苦しんでいるようだった。
今が絶好の機会だ。
真なる神剣を手に、イサギは走り出す。
アルバリススへと向かって、一直線に。
ここでアルバリススを――討つ。
ふたりの距離は十数メートル。イサギのまとう黄金の闘気がさらに色を変え、それは――白銀の闘気へと変わった。
クラウソラスがイサギに力を与えているのだ。
言うなればそれは極煌気のその先の力、――神煌気。
アルバリススはミストルティンを突き出し、真っ赤な光を放つ。凄まじい破壊の衝撃波が広範囲をに放たれる。それは瞬く間にイサギを包み込んだ。
「イサギ――!」
猛然と駆けてゆく勇者。その姿は紅蓮の衝撃波に覆われ、押し潰されるようにかき消える。
だが、彼の名を叫ぶプレハに応えるかのように――。
――白銀の光が走った。
極術のカーテンを斬り裂く閃光だ。
次元を超えるようにイサギの姿が現れ、プレハは歓声をあげた。
イサギは残像をなびかせながら走る。
伝説の輝きを帯びた神剣はイサギの想いを叶えるかのように、これまで以上の力を勇者に注ぎ込んだ。
「アルバリスス! お前の役目は終わった!」
「終わるものか! 俺は永遠にこの世界で生き続ける!」
「そうさ! 歴史に刻まれて、永遠にな!」
「抜かせ、小僧!」
アルバリススの叫びに合わせて、今度は死角からの一撃――潰れた左目側からの攻撃がイサギを襲った。
滝のように空から叩きつけられる極術波だ。さすがに斬り裂くことはできず、イサギは真横に跳んだ。
そこに――、着地際、アルバリススの炎が追撃する。地面を突き破ってマグマのように噴き上がる赤い光。イサギの全身は足元から炎に飲み込まれた。
――直撃だ。
勝利を確信するアルバリスス。さほど力を込めたわけではないとはいえ、今の極術は魔族の体で耐えられるような威力ではない。
しかし――。
すぐに、炎を突き破って、白銀の闘気を身にまとったイサギが現れる。
剣を振るう暇もなかったはずだ。現に、イサギの全身は先ほどより激しく焼かれている。
だが、とまらない。ということは――。
――すなわち、一撃ではこの男の足を止められないのだ。
イサギのまなざしはアルバリススだけを見据えている。
そこにアルバリススは、薄気味悪いものを感じた。
自分が負けるはずがない。だが、なんだこの圧迫感は。
まさか自分が恐怖しているというのか。滅亡の運命を――。
「――俺はこの世界の王、アルバリススだ!」
これまで以上の光が、アルバリススの杖に収束してゆく。
リアファルを吹き飛ばしたときと同じ――いや、それ以上の力だ。
そんなものを神族の王は、勇者ひとりに叩きつけようとしていた。
さすがのイサギとクラウソラスでも、しのぎ切れるはずがない――。
極術の範囲は凄まじいだろう。いかに飛びのいたところで、よけきれるものではない。それでもイサギは大きく跳躍しようと足に力を込めて――。
――そのときイサギの目に、プレハの後ろ姿が飛び込んできた。
金色の髪を翻し、乙女は両手を前に突き出す。
彼女はまるで、イサギをかばうように立っていた。
死ぬ気なのか――。
その身を危ぶんだイサギは、思わず叫ぶ。
「プレハ!」
「任せてよ!」
プレハの声には悲壮な決意の響きはなかった。
ただ生き残ろうとあがく、人類の愚かなまでの美しさがあった。
両手を突き出すプレハに迫る極術の炎。
それはこの世界のすべてを焼き尽くすような、神の浄火――。
「滅びるがいい! 勇者よ! その忌まわしき剣と共に――!」
「誰が――あなたにっ!」
魔晶の輝きが彼女の肌に走る。
その肌が色を失い、透き通るように煌めいた。
プレハの目に魔晶の輝きが宿る。
両手から放たれるのは、プレハの奥義。
「イサギはあたしのなんだから――――――!」
光が弾け飛び――。
――世界が極滅した。
消えてゆく。
光も、
音も、
空気も、
大地も、
重力も、
力学も、
時の流れも。
肉世界も、魔世界も、魂世界も、
――そして神世界すらも。
神の炎は掻き消された。
神世界を消し去ることで、プレハは極術の伝播を断ち切ったのだ。
これがプレハの力。
プレハの魔法。
あらゆるものを消し去る力とは、あらゆるものを『存在の観測されぬ第五の世界に転送する』力。
己の体である極大魔晶を触媒に放つ、転送術。
その力の前には、いかなるものであっても等しく滅びを免れぬ。
神世界の力であろうとも、なんであろうとも。
これが極魔法師プレハの最終奥義。
己の身ひとつで転送術を行使する魔法使いプレハの、極技であった。
プレハを中心とした半径十メートル以内の、――イサギとプレハを除いた――そのすべてが消滅する。
完全なる真空の世界。第五の世界――零世界が生み出された。
宇宙にも似た球体の零世界には今、イサギとプレハだけがいた。
プレハはイサギに手を伸ばす。男は女の手を掴んだ。
――無重力遊泳。まるで銀河を漂うかのように。
ふたりだけの世界はほんの一瞬生まれ、そして消えてゆく。
世界がもとに戻ってゆく。魔法によって作られた隙間を埋めるように。
光、空気、音。そして引きずり込まれてゆく影がある。
アルバリススだ。彼は四世界とともに零世界の中心点――プレハへと吸い込まれてゆく。
「これは――」
身動きが取れない。アルバリススは今、ブラックホールに吸い込まれる光のようだった。
そしてその先に待ち構えるのは、クラウソラスを持つ勇者――。
「――いって、イサギ」
「ありがとう、プレハ――」
プレハがぐいと掴んだ手を己に引き寄せる。
イサギはその勢いで、プレハの手から放たれた。
彼の背中から、白銀の翼が生える。
イサギは加速する。
その背が白銀の粒子を撒く。
振り上げたクラウソラスの刀身が輝いた。
「アルバリスス――!」
「――勇者イサギ!」
アルバリススの目がイサギを見る。
そこには激情が宿っていた
イサギが掲げたクラスソラスの刃がその瞬間、光と化す。
真っ白な光が降り下ろされた。
「――これが、俺の最後の切り札だ!」
光はアルバリススを分かつ。
真っ二つに斬裂された王は目を見開いた。
断面から血が噴き出す。
王の死だ。
いや――。
地面に降り立ったイサギは予感を覚え、振り返る。
王は生きていた。
半身しか残っていないというのに、その男は片足だけで立ち上がる。
まるで悪夢のように。
プレハもイサギも、息を呑んだ。
アルバリススは片腕を伸ばす。
すると、もう半身すらもゆっくりと起き上がった。
「少し、肝が冷えたぞ」
本来は死体であるべきのそれが、ゆらりとイサギたちを見やる。
「だが、俺は不死だ。無限に繰り返す回復術が、この俺にはある。剣で断ち切られたところで、死ぬものか」
王の声は落ち着きを取り戻していた。
分かたれた二体の王。
頭部すらも両断されているはずなのに、まるで何事もなかったかのように彼は振る舞う。まさしくの不死。本物の怪物がそこにはいた。
王はそれぞれの手のひらを、イサギとプレハに向ける。
「アルバリスス……!」
「……負けない!」
プレハは指先に魔力を込めようとした。しかし魔晶の魔力を振り絞ってまで放った極大魔法の奥義の影響で、そこに宿ったのは弱々しい光でしかなかった。
アルバリススはすっと目を細める。
「惜しかったな。俺を消し去る手段はもはや、ない。ルナトリスを失った時点で、お前たちの命運は尽きていたのだ」
アルバリススはそう言って口元を歪めて。
次の瞬間だった。
光が閃いた。
王の断ち切られたその断面から、わずかな輝きが零れ始めた。
それは極術の光ではない――。
『白銀』に満ちていた。
イサギははっとして気づく。
いつの間にかクラウソラスの刀身が失われていた。
それがアルバリススの断面に光となって輝いているのだ。
いったいなぜ――。
まるでヒビが広がってゆくかのように、白銀の光はその範囲を増してゆく。
やがて断面の全体を光彩が覆うと、今度は王の肉体にまで浸食を始めた。
アルバリススの肉体は少しずつ白光に包まれてゆく。
二匹の王は己の体を見下ろした。さらに輝きを増す光から、紋様のようなものが浮かび上がる。
それはまるで――茨のようだ。
「――これは、なんだ、これは――?」
イサギもプレハも、そしてアルバリススですらわからない。
そこには何者かの意志を感じられた。
やがてその光は、ひとつの輪郭を描く。
人型だ。
ふわりと広がる裾。ドレスを着た女性の影だと、ぼんやりわかった。
光は両手を広げる。
髪のようなシルエットが舞い上がった。
彼女の姿を見上げたアルバリススの表情は、変質してゆく。そこにあるのは、驚愕と得心、そして絶望と希望。相反する感情の混濁。
そのとき、イサギたちには小さな声が聞こえた気がした。
優しく微笑みかけるような、慈しみにあふれたささやきであった。
『――あなた――』
白く輝く彼女は、アルバリススの半身を抱き締める。
――次の瞬間。
薔薇の花が散るように。
アルバリススの半身が消滅した。
残ったもう一方のアルバリススは、夢から覚めたように目を見開いた。
王はこの世のものとは思えぬ形相で叫ぶ。
滅びの運命を否定するように――。
「なぜだ、なぜお前がここにいる――! クラウソラスよ――!」
神族の王家に連なる六文字を冠した名。
今はすべてを絶つ剣として語られる名。
それは、かつてルナトリスがミストルティンの刃で母親を刺し貫いたそのとき生み出された晶剣。
すなわち、――クラウソラス。
『――あなたは、わたしたちを救ってくれたわ。だから、もういいの。本当に、ありがとう、あなた』
「そんな、俺は、ああ、俺は――」
アルバリススの表情が歪んでゆく。
なんの感情すらも浮かんでいなかった王の瞳に、涙があふれる。
それはまるで過ちを責められた若者のようだった。
そんなアルバリススにかけられた声は、誰よりも愛に満ちていて――。
『あなたは少し、不器用だっただけ――。もう、一緒にいきましょう――。ねえ、あなた。きっと、みんなが、まっているわ――』
「俺は――俺は――」
アルバリススの残った半身は、もはや光の茨に包まれていた。
その顔に張りついていた表情は苦痛ではなく、悔悟――。
まるで救いを求めるかのように、――アルバリススは、ゆっくりと手を伸ばす。
震える指先は、何度も何度も、空を切り、それでも。
男は、無様なほどに、何度も、何度も、指を伸ばす。
その手を、彼女が掴んだ。
次の瞬間、男の目から涙があふれた。
彼女は両手で抱き締めるように、男の指をさすりながら告げる。
『あいしているわ――あなた』
「ああ――ああ――俺も――お前を――」
『――――』
「俺は――おまえに――」
ふたりの体がひとつに重なる。
そのとき、声がした。
ほんの小さな、葉擦れほどにささやかな。
それでも確かに、慈愛と幸福感に満ちた声。
誰かが忘れてしまっていた、小さな、小さな願い。
エンドロールが流れるように、ただ緩やかにに。
いつまでも続くように、ただ安らかに。
それは――。
勇者イサギの魔王譚
最終章
永遠の愛を End
完全に光と重なったアルバリススの体に、これまで以上の亀裂が走った。
割れた肉体の内部から漏れ出るのは、鮮血のように赤い光輝。
甲高い破砕音とともに、閃光が瞬く。
そのとき、アルバリススの体から無限の魔力が放出された。
大地と空、その両方に。
行き場を求めて弾け飛んだ魔力の渦は、天空へと立ちのぼった。
空を駆ける渦は天の雲を晴らしながら、地上へ極光となって降り注ぐ。
まるで死者を弔う七色にきらめく雪のように。
乾き切った空気が息を吹き返し、清涼な風が流れ出す。
赤い魔力の波は、地面を伝って広がってゆく
それを浴びた大地は、次々と魔晶化していった。
激しい戦いによって傷ついた街道に、魔力の輝きが満ちてゆく。
どこまでも、どこまでも、見渡す限りの魔晶の高原だ。
足下の地面ががぼんやりと紫色に輝いている。
この世界にかけられていた呪いが解けたのだとさえ思えるような美しさであった。
イサギは自らを照らすその光から顔を上げる。
すぐそばにプレハがいた。彼女は水晶の迷宮と化したような周囲を、ぼんやりと眺めていた。
イサギの視線に気づくと顔をあげ、彼女は力なく微笑む。
そのまま、そばにいた。
そうしてふたりはなにも言わぬまま、アルバリススの最期を見送る――。
あまりにも凄まじい魔力によって、辺りは魔世界化してしまったのだろう。
周囲には、この大地の記憶と思われるような、いくつもの幻影が浮かび上がっていた。
行き交う馬車。魔術を放つ魔族。旅をする人々。剣を交わし合う戦士たち。牛を連れた少女。ドワーフ族、エルフ族、人間族、さまざまな種族の人々が通りをゆき、戻りて、この大地を踏みしめてゆく。
赤い肌の男たちが激しく列を組み、白い肌の娘たちを追い立てる。赤い光が瞬き、人々は蹴散らされた。
手を繋いだ男と女、そしてその間に娘がいる。彼らは幸せそうに笑い合っていた。
次々と現れては消えていく景色。
王の体が砕けた場所にはもはや何も残っていない。
そこには最後に、ゆらりとひとつの幻影が浮かび上がった。
若い少年と、彼と同じぐらいの年齢と思しき少女が立っていた。
少年は見たことのない出で立ちをしている。せわしなく辺りを見回し、その顔に不安を張りつかせていた。しきりに黒髪をかき、なにかを言い出そうとしてしかし言葉が出てこない様子である。
一方、少女は巫女のような恰好をしていた。長い銀髪を編み上げて、ひとつ垂らしている。凛々しい表情には、真剣さと同じぐらいの緊張が見て取れた。
美しい少女だ。そして彼女にはどこかルナに似た面影を持っていた。
少年の戸惑いながらも決心したかのような顔で、巫女に声をかけた。
『ここは……いったい?』
少女はたおやかに腰を折った。
『初めまして、わたしはクラウソラス。神族と呼ばれる一族の、姫です。あなたにお願いがあって、ここに来ていただきました』
少年は頭をかく。
『……俺は有馬理人だ。って、答えになっていないと思うんだけどな』
『この世界に名はありません。我が滅びゆく一族を救ってもらうために、わたしがあなたを呼び寄せました』
すると少女は、少年の前に歩み出た。
その純粋な視線を浴びた少年は、わずかに顔を赤らめる。
少女が彼の手を掴み、乞う。
『どうか、お願いします。あなたさま、どうか、わたしたちの一族を――』
その言葉を最期に、――幻影は風に吹かれて消えてゆく。
この世界に喚び出されたひとりの少年には、力があった。
すべてを為すことができる、最強の力が。
だからこそ、彼は――。
気づけば、空が白んでいた。
イサギはまるで風を掴むように、伸ばした左手をゆっくりと握り締める。
プレハがそっと、男の腕に手を伸ばした。
傷だらけの腕を指で撫で、彼女はイサギを見つめる。
なにも言わず、イサギはプレハの小さな体を、翻したマントの中に抱き入れた。
魔晶に照らされた平野にて、ふたりは身を寄せていた
風が流れ、ふたりの髪を揺らす。
「……イサギ」
「ああ」
イサギは弾け飛んだ光の残滓を見送る。
もはや柄だけとなったクラウソラスを腰に差し直し、勇者は空を見上げる。
「終わった、のかな」
「うん」
乙女は力強くうなずいた。
イサギはぼんやりと天を仰いだまま。
その目が、ゆっくりと澄んでゆく。
彼は小さく拳を握り締めた。
そして、確かにうなずく。
「そうか、終わった、のか」
地平線の向こうでは、朝日が昇りつつあった。
ふたりを照らす、一日の始まりの光だ。
イサギは残った左腕で、プレハの体を抱き締める。
プレハはわずかに驚いた顔で、彼を見上げた。
ふたりの目が合う。イサギは自然に微笑んでいた。
そのとき、プレハの瞳があの日のイサギを映し出す。
かつて、アンリマンユを倒した直後――照れくさそうに微笑んでいた彼の顔。
顔を真っ赤にして、目を逸らしながら、それでも愛の告白をしようと勇気を出してくれた彼。
胸の中で、何度も何度も思い出した。
震える指を伸ばしても届かなくて、それでもあきらめきれなくて。
プレハが瞬きをすると、目に映るのは今のイサギだ。
ひどい有様だ。
左目が潰れ、右腕を失って、なにもかもが満身創痍。
顔も頬も腕も体も傷だらけで。
血を流したことがない場所なんてどこにもなくて。
仲間に裏切られたこともあっただろう。
友の死を前に涙したこともあっただろう。
無力に嘆き、眠れない夜も過ごしただろう。
魂を削り、痛みすらも感じなくなっただろう。
それでも彼は。
困難に立ち向かい、弱者を助け。
痛みに負けないで、勇気を胸に。
いつまでも諦めず、希望を抱き。
たったひとりでも、正義を信じて。
そして彼はここにいて。
プレハの隣で微笑んでくれている。
男臭い笑顔を浮かべながら。
あの日よりもずっと精悍な顔をして。
長い、長い旅を乗り越えて、ここにいてくれる。
そのことがなによりも嬉しくて、嬉しくて、ただ嬉しくて。
イサギはプレハに笑いかける。
「帰ろうか、――プレハ」
熱い感情が胸を打つ。
プレハの目に涙が浮かんだ。
それはあふれて、とまらなかった。
「うん、イサギ。帰ろう、一緒に」
朝焼けに照らされた魔晶の庭は、大地と空の境界があいまいで、まるで魔力の海に漂っているようだった。
ふたりきりの世界はどこまでも優しく、陽の光を浴びて輝いている。
澄み切った紫の光に包まれながら。
ふたりの影は重なり、やがて。
口づけとともに、影はひとつになった。
次回更新、10月9日(金)
20時、エピローグ1