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勇者イサギの魔王譚  作者: イサギの人
Episode:Final 永遠の愛を
169/176

14-7 咎神の名の下に

「獣に理解ができるとは思えないが、ただで滅びるのも哀しいか。ならば名乗ってやろう。俺は神族の王。――アルバリススだ」


 その声が、意識のないルナの耳に滑り込む。

 彼女は今、過去を遡る旅をしていた。


 まるで走馬灯のように――。




 ルナ。


 神族の命名法則にのっとった彼女の本来の名は、ルナトリス。

 六文字りょうしんの力を受け継ぎし、五文字おうぞくの証。


 想い出の中にある最も古い記憶は、父がくれた小さな木の剣を振りまわしているところだった。

 庭で父や兵長の真似をして、木剣を振り回すルナ。

 そんな幼き彼女を、父と母が見守っている。


 優しい母は少し心配そうな顔をして、その隣で父が彼女の肩を抱きながら、不器用に目を細めて笑っている。

 ルナは立派な武人になるのだと言い、父は喜んでくれたが、母を困らせてしまった。


「ルナトリスさんは、あなたに似て勇猛ね。もう少し女の子らしくしてほしかったのだけれど……」

「大丈夫だ。お前に似て、心優しい子に育つだろう」


 寄り添いながら、王と妃は仲睦まじく囁き合う。

 ――なぜそんなことを、今思い出してしまったのだろうか。


 目覚めたとき、そこは戦場だった。


 ルナはハッとして顔をあげる。

 ここはエディーラと呼ばれる土地。

 ルナが虐げられていた魔族たちを集めて逃げ延びた、雪に覆われた不毛の土地だ。


「ワタシは……そうか、気を失って」


 そう、今は戦いの最中である。

 ルナは渾身の極術を放ち、しばらく気を失っていたのだと気づく。頬に張りついた雪を手の甲で拭い、ルナは立ち上がった。


 雪国には、ところどころ神族たちの攻撃で雪が解けており、赤土が露出していた。

 それほどまでに激しい攻撃にさらされていたのだ。


 断続的に響き渡る音は、極術による砲撃だ。そのたびに地が揺れ、どこかで叫び声がする。手足が飛び散り、辺りは凄惨な様相を醸し出す。

 風が吹くたびに雪の混じった土煙が舞い上がり、また人が死んでゆく。


 ルナの周りには大勢の魔族たちがいた。

 人間族、ドワーフ族、エルフ族、ピリル族、ドラゴン族、そして魔族。後にそう呼ばれる者たちだ。

 姿かたちは違えども、皆、戦傷が目立つボロボロの姿をしている。包帯を巻いたものや片腕がないもの。様々だ。

 ルナを中心として方陣を組み、神族たちからの極術による攻撃をしのいでいる。


 ついに神族との全面戦争が始まったのだ。


 もともと、神族と魔族はともに生きるひとつの種族であった。

 だが、ある日アルバリススと名乗る指導者が現れたことにより、彼を王と仰ぐ種族が、自らを神の一族――神族であると名乗り出したのだ。

 神族はアルバリススの下、凄まじい速度で文明成長を遂げた。

 こうして神族は、大陸の中でも傑出した存在となり――やがて、すべての魔族を統治するようになった。


 魔族に知恵を与えたのは、神族だ。

 しかし、原始的な生活をしていた魔族を使役するだけでは飽き足らず、神族は彼らを虐げた。

 逆らう者は容赦なく殺し、自由も権利も与えず、家畜のように扱っていた。


 魔族たちは徐々に不満をため込み、散発的な反乱を起こすこともあったものの、それらの暴動は瞬く間に鎮圧される。

 特に神王アルバリススと、彼率いる神族兵団の兵長たちの前、魔族たちはなすすべもなく殺されていった。


 神族は魔族を低級種族であり、彼らから尊厳を搾取することになんら疑問を抱かず、特権階級としての優越を振りかざす。

 だが、それに初めて異を唱えた神族がいた。

 ルナの母親であり、妃である『―――――ス』だ。

 白銀の髪を持つ彼女は夫を愛していたが、体が弱く、同時にとても心優しい娘であった。


 魔族にも心があると説き、影ながら魔族を支援していた妃は、アルバリススの怒りを買った。

 最愛の妻をたぶらかされたと思った王は、これまで以上に激しく魔族を弾圧する。

 同時に、ルナトリスは神族の王宮に軟禁された母の身を危ぶみ、彼女を連れて魔族の元へと亡命をした。

 母の命と、そして母の意志を継ぎ、魔族を解放するために。


 娘にまで裏切られたアルバリススは、ついに怒り狂った。

 妻子の心を奪ったすべての魔族を根絶やしにしてしまいかねないほどに。


 神族と魔族の戦争が巻き起こる。

 神族は愚かな魔族を徹底的に叩き潰すため。

 そして魔族は自由を勝ち取るために。


 神話の物語。――神魔戦争の始まりである。


 戦う術を知らない母に代わり、ルナは彼ら魔族に戦い方を教えた。

 極術を使えない魔族に、術式と呼ばれるその代替案を生み出し、魔世界語を教えた。

 剣の握り方を伝え、槍を与えた。

 それでも、とてつもない数の魔族が犠牲になった。


 だがその終わりは近い。

 ルナは、アルバリススを戦場に引っ張り出すことに成功したのだ。

 王さえ討てば、神族は散り散りになる。その確信があった。


 極術によって溶けた土が吹き荒ぶ戦場において、ルナは立ち上がる。

 ルナは自らを慕う魔族たちに頭を下げた。


「すまなかったな、オマエたち。大丈夫だ、」

「いえ、自分たちの命があるのも、女神さまのおかげですから……」


 魔族の中のひとりが、ルナに杖を差し出してくる。


「女神さま、こちらを……」

「ミストルティンか」


 気絶するその寸前までルナが握り締めていた杖だ。受け取る。

 直後、杖の先端がぼんやりと光る。ルナの体内にある魔力に反応をしているのだ。


 父親から盗み出した神族の兵器。魔力を神の力へと変換する性質と、そして神の力を増幅する性質がある。

 王アルバリススの力は絶大だ。彼が操る魔力と極術は、他の神族とは次元が違う。その血を継いだルナですら、足元にも及ばない。

 だが、この杖さえあれば、一時的にでも互角以上の戦いが繰り広げられるだろう。


 人垣を割って入って、伝令が走ってきた。

 若い青年の彼は、ルナのもとにやってきて、その名を呼ぶ。


「ルナさま、来ました、あいつが――」


 血相を変えた青年の声に、ルナはうなずく。


「わかった」


 アルバリススが戦場に姿を現したのだ。



 アルバリススは王宮にいたときと変わらず、黒衣をその身にまとっていた。

 しかし彼の表情は歪んでいる。なににたいしても無関心で、表情を顔に出さないその男が、ここまでの怒りをあらわにするとは。


 束の間の夢の中では、アルバリススは笑っていた。だがそれはやはり幻だったのではないかと、ルナは思い直す。

 幼き頃の記憶など、今は必要ない。ルナは魔族を引き連れ、彼のもとへと歩み出た。


「ルナトリス」


 アルバリススは兵長たちと比べれば、体格も細い。背もあまり高くなく、威圧感はまるでないように思える。

 たったひとり立つ彼はその背後に神族を従えている。その声は、ルナの背筋を震わせるほどに恐ろしかった。


「お前はもう、俺のところに戻る必要はない。妻もだ」

「……許してほしいなどとは思わない。それに、許しを乞うのはそちらのほうだ」

「俺に逆らうなど、愚かな娘だ。魔族に加担するなど。お前の剣も極術も、すべて俺が教えたものだ。俺に勝てるとでも本気で思っているのか?」

「……」


 勝てると思っているのかと問われれば、ルナに応える術はない。


「だが、負けるわけにはいかない」

「お前は魔族に頼られて、ただひとり救世主面するのが楽しいだけだ。悲劇の勇者気取りはさぞかし面白かろう。まったく、あきれ果てる」

「なにを、なにを言っている!」

「お前たちが歯向かわなければ、俺は魔族を生かさず殺さず扱うつもりだった。これより魔族が滅ぼされるのはお前の罪だ。あの世で永遠に悔やむがいい」

「貴様――」


 ルナはミストルティンを突き出す。

 その先端に赤い光が収束してゆく。

 周囲の土や砂が舞い上がり、満ちてゆく魔力が電荷を帯びて弾け飛ぶ。陽の光を集めたような赤は光度を増し、まるで宝石のような輝きを放ちミストルティンの先端に点る。


「貴様がそのような男だから、ワタシは魔族を救うために――!」


 真っ赤な光が放たれた。

 極術の熱光線だ。それはまっすぐアルバリススに迫る。


「――親に向かって、その口の利き方はなんだ」


 放たれた光を、アルバリススは片手を払った。

 その手にまとう極術による盾は、熱光線の軌道を逸らす。

 逸らされた光はアルバリススの背後に突き刺さった。膨れ上がった爆発に巻き込まれた神族の何人かが炎に巻かれて消滅してゆく。

 しかし、王は眉ひとつ動かさなかった。


「ミストルティンを用いて、その程度の力か、娘よ」

「すべての魔族のため、ワタシはお前を倒す!」


 極術の技量ではアルバリススに到底及ばないことは、認めざるを得ないだろう。

 ルナは棒を操るように、ミストルティンを両手で握る。

 そのとき、ミストルティンの先端から赤い光が出現した。

 ミストルティンはたちまち、刃が長く伸びた一本の大剣へと変わる。


「次は剣か」

「そうだ、これさえあれば」

「――なんだというのだ」


 アルバリススもまた、極術を放つ。

 彼が天に向かって両手を広げると、その頭上に赤い雲が生み出された。

 一瞬にして生まれた雲は、神エネルギーの塊だ。そこから極術の雨が降り注ぐと、地上は次々と爆発に包まれた。辺りは瞬く間に火の海と化す。

 雨粒の一発一発が通常の神族が放つ極術と変わらぬ威力である。


 ルナは己に当たる雨粒を剣で打ち払いながら、しかしハッとして背後を振り返る。

 魔族たちはなすすべもなく雨に打たれて爆散してゆく。彼らの使う障壁などは、なんの役にも立っていなかった。


「アルバリスス!」

「この俺に逆らう者には、死を与える。それがこの世界のことわりだ。お前もその中で生きていたら、幸せだったろうに、ルナトリス」

「そんなものの――!」


 叫ぶ。そのとき、よけきれなかった雨粒がルナの肩に当たる。

 次の瞬間、魔力が弾けた。彼女は間近で起きた爆発と衝撃によって吹き飛ぶ。

 地面を滑りながらも受け身を取り、ルナは慌てて起き上がる。


 血を流す肩を押さえたまま、片手でミストルティンの剣を握り、ルナは叫ぶ。


「そんなものの、なにが幸せだ! オマエの顔色をうかがいながら、生きてゆくことのなにが理だ! すべての人々はオマエの奴隷ではない!」

「魔族も神族も変わらない。俺がこの世界の法則であり、世界とは俺だ」


 アルバリススの指先から放たれた真っ赤な光線を、ルナは転がりながら無様に避ける。

 頬が切れて血が流れたが、それでもなおルナは起き上がり、アルバリススを睨みつける。


「うぬぼれるのもいい加減にしろ! オマエもワタシたちとなにも変わらない、ただひとりの人であるくせに!」


 アルバリススは答えず、手のひらを開いてこちらに向けてきた。

 そこに赤い光が集まってゆく。

 ルナは駆け出しながらも、周りの景色が低速に見えていた。


 おそらくあの極術が放たれれば、自分の命はついえるだろう。

 その前に、ミストルティンの刃をアルバリススの胸に突き立てなければ。

 そのための方法を模索したが、ほんのわずかな時間だ。なにも思いつかず。

 ルナにできるのは、ただ愚直な前進のみ。


 そんなルナを冷やかに見つめ、アルバリススは片手を挙げる。

 なんらかの一撃でルナに引導を渡そうとしているのだろう。

 だが、次の瞬間。

 アルバリススの目が驚愕に見開かれた。


「――――――」


 王はいったいなにを見たのか。

 つられて、ルナも横を向く。


 すると、アルバリススのそばには、真っ白なドレスに身を包んだルナの母がいた。

 長く美しい銀髪を伸ばし、瞳を潤ませながら可憐に駆ける母だ。神族の中でもその美しさに並ぶものはおらず、『光の姫』の名で知られた彼女。

 今はエディーラに建立した塔で養生を続けていたはずだったのに。

 いつの間にこんなところまで来たのか。


 妃は懸命に走り、そしてアルバリススに向かって両腕を広げる。


「もうやめて、あなた――――――****――――」


 放った言葉は、聞き取れなかった。

 ただこのとき、見えていたのはアルバリススが動揺する姿。

 母が父に抱きつく。

 それだけを、ルナは見逃さなかった。


 ただがむしゃらに走る。

 もうなにかを迷っている暇はない。

 ミストルティンの光が一層強くなった。


 己の心を震わせるように、ルナは走る。

 ミストルティンを両手で構えて、そして突き出した。

 真っ赤な光刃が母の背中に吸い込まれる。


 ――剣は、父と母を同時に貫いた。


 三重の叫び声が響き渡った。



 母の体はその白い指先から赤い魔力となって解けてゆく。

 莫大な魔力の塊となり、その場――と彼女を貫いたミストルティンの刃――を魔晶化させながら、妃はゆっくりと姿を消した。


 アルバリススは血の滴る胸を押さえながら、後ずさりをする。


「なんて娘だ、お前は、なんて……」


 ああああああ、とルナは顔を歪めていた。

 ルナの口から意味のないつぶやきが漏れる。


 千載一遇の好機。あれを逃せばもう二度とアルバリススを討つ機会はなかっただろうが。

 それでも、母を犠牲にしたのだ。

 ここで立ち止まるわけにはいかない。


「――ああ、母さま、ワタシは、罪深きワタシを、どうか許さないでください――」


 母親の亡骸きょくだいましょうを触媒に――。

 ――ルナは術を創り出す。


「永遠に赤き血のごとく――」


 アルバリススの体をひどく複雑な魔法陣が覆う。


「――『クリムゾン』!」


 それはルナがアルバリススから教わっていない、唯一の極術。

 彼女が母親から伝えられた、封印の術――。


「ルナトリス、お前は、お前は――」


 手を伸ばすアルバリススは、まるで全身に真っ赤な茨が絡みついたかのような姿となる。封印の術が刻み込まれているのだ。


 だがそれに抗い、アルバリススは渾身の力で腕を振るった。

 すると彼の背後に立ち並んでいたひとりの神族が、真っ赤な光となって弾ける。

 光の残滓は王の体に吸い込まれた。その瞬間、アルバリススを拘束する光がわずかに弱まる。

 神族も生き残った魔族も皆、愕然とした。


 ――アルバリススは、他人の体を犠牲にして、自らの魔力を回復しているのだ。


 そのことに気づいた神族たちは逃げ惑った。一瞬で陣形が崩れる。自分たちを庇護し、君臨していたアルバリススの凶行に、彼らは皆、恐れをなしたのだ。

 押し合いながら神族は逃げてゆく。屈強な男たちが互いを突き飛ばし、一目散にだ。その中には慌ててルナに救いを乞うものもいた。戦場の秩序はもはや崩れ去った。


 だが、アルバリススは容赦なくその彼らを喰らってゆく。空気が震え、その足元が魔晶化してゆき、一秒ごとにアルバリススの力は強まっていった。

 茨が次々と弾け飛ぶ。先に右腕が自由になり、そして左腕、さらには右足までもが開放される。


「ルナトリス――――!」


 ルビーのような赤い眼をぎらつかせながら叫ぶアルバリスス。今や彼は一匹の巨大な化け物へと姿を変えてゆく――。


 ――しかし、それよりもルナの術の完成が早い。


 アルバリススの体に突き刺さった茨が、真っ赤な輝きを放った。

 すでにこの場に居並ぶすべての神族の力を吸収した王だったが、それでもルナの『クリムゾン』を押し返すことはできず。

 ――その体は、空中に描かれた魔法陣の中へと吸い込まれてゆく。


「俺は、絶対にこの世界にまた、戻ってくるぞ――! ルナトリス! そのときはお前の命を――! そしてすべての魔族を! 今度こそ!」


 アルバリススは、腕を下した。

 だが彼は諦めたわけではない。自らの胸から流れ出る血を使って、さらに魔法陣を描いていたのだ。


「ルナトリス――! ルナトリス――!」


 何度も父の叫びを耳に張りつかせながら、ルナは最後まで術を唱え切る。


 アルバリススの体を閉じ込め、そして空に浮かんでいた魔法陣『クリムゾン』は一層強い光を放った。

 王を封印した魔力は赤い光となって、地上から天へと立ちのぼる。

 そして魔法陣はすべての雲を吹き飛ばしながら弾け飛んだ。

 大地を舐めるように魔力の衝撃波が広がり、大陸全土を揺るがすような強風が巻き起こった。


 吹き飛んだクリムゾンはこの世界のどこかに固着し、その役目を終える。


 またクリムゾンの去った後、この場に一枚の禍々しき魔法陣も残った。

 それはルナの描いたものよりさらに複雑な文様であった。

 アルバリススが最期に自らの命を代償に創り出した転生術リーンカーネイションだ。

 それは地面に妖しく光り、不気味に脈動を続けている。


 すべてが終わり、ルナはその場に膝をついた。


 母の亡骸はもはや風に吹かれて、その美しき白銀の髪とミストルティンが残るのみ。

 心優しかった母親を犠牲に、ルナは実の父をこの世界から放逐したのだ。


「ワタシは、ワタシは――」


 誰かを守るためでも、誰かを救うためでも。

 もはや永遠に許されるはずがない、ルナの罪。


「ああああ」


 枯れるまで涙を流しながら、ルナは地面を強く叩いた。


 こうして神魔戦争は決着を迎えた。

 魔族が神族を打倒したのだと、後の世には伝えられる。

 しかしその中に、アルバリススの妃であるひとりの神族の名が語られることはない。


 ミストルティンを魔族――もとい、人間族に預け、ルナはひとり、旅を始めた。

 アルバリススが魔族に与えた禁術を封じ、そしてリーンカーネイションを監視しながら、これからも永遠にこの世界を守り続けるために。


 それは終わらないルナの懺悔のようなものであった。

 あらゆる感情を摩耗させながら、ルナは長い時をひとりで生き続ける。

 いつしか彼女もまたアルバリススのように、無表情で無感情な人形のように、変わり果てながら――。


 たったひとりの彼女は、それから数千年後。



 ――ひとりの少年と出会った。



 ◇ ◆ ◇ ◆ ◇



 中央国家パラベリウとエディーラ神国の緩衝地帯にあるその農村は、ルナの隠れ家のひとつだ。この村では、彼女がかつて助けた者たちが成長し、子を産み、育て、脈々と子孫を作り続けてきた。

 村人たちはルナから農耕や開墾、建築、教育、医療などの知識を与えられ、質素だが豊かな暮らしを手に入れていた。


 特徴のない、平凡な村だ。


 愁が村長に入村の許可をもらうため話をつけにいき、ルナは村の入口でぽつんと立っていた。

 前までは力づくで農村の門を押し開き、そのまま中に立ち入っていたのだから、それに比べたら大した進歩だ。

 自分が話せば人々は怖がる。それを知れたからこそ、大人しくしていようと思ったのだ。


 柵で覆われた村の中には広場があり、そこでは子どもたちが笑い声をあげながら遊んでいる姿が見えた。


 ルナはその光景を見て、思わず目を細めた。


 人の子というのは、無邪気で、愚かで、ただひたすらに愛おしい存在だ。

 彼らもそのうち成長して、愁のように自分で考え、行動するような大人になるのだろう。

 そう思うと、自然と言葉がこぼれる。


「人というのは、不思議なものだな……」


 ルナはこれまで、人との付き合いを遮断して生きてきた。

 自分が世界を巡る上で、必要なのはえんではなく、実利だと思ってきた。

 だが、そうやってすべてを自分自身だけの力でこなしていこうと思えば、どうしても近視眼的になってしまうだろう。

 閉じられた世界の中で、ルナは己の過ちを償うためだけに戦いを続けていたのだ。


 だが、こうして人の世界の末端に手を伸ばしてみたら、どうだろう。

 ルナは自分の戦いが、誰かの幸せを守るための戦いであるのだと、気づくことができた。


 それはくすぐったいようであり、今までに感じたことのない心地だった。

 体の中から物事を成し遂げるためのもうひとつのエネルギーがわいてくるような思いだ。

 そんな気持ちを気づかせてくれたのは、他ならぬ緋山愁である。


 愁が年配の男性と話している。ルナがその姿を眺めていると、ふと女の子の声がした。


「あ、お姉ちゃんって」


 声はやけに近くから聞こえた。ルナは辺りを見回す。

 すると左斜め前に、あどけない顔をした幼い少女がいた。亜麻色の髪を編んで前に垂らしている。

 女の子はルナを見上げ、どこか嬉しそうな顔で話しかけてくる。


「もしかしてお祝いに来てくれた人?」

「……ん、いや」


 ルナは首を振った。ただ単純に質問の意図が、よくわからなかったのだ。


「でもお姉ちゃん、お話の中に出てくる人と、おんなじ格好しているよ」

「ん……」


 赤肌銀髪のルナの伝承は、各地に残っている。

 特にこの村ではそうだ。ルナによって作られた村であるため、こんな小さな女の子にまで、ルナの容姿が語り継がれているのだろう。


 自分を怖がらない人間に対する接し方に戸惑いながら、ルナは少女に尋ねてみた。


「……なにか、あるのか? お祝いに来るようなことが」

「うんっ」


 そう聞かれることを待っていたかのように、少女は微笑んだ。久しぶりに見るような、透明な笑顔だ。

 宝物を見せびらかすように、女の子はルナに言う。


「あのね、あたしのお姉ちゃんがあさって、結婚するんだ」

「ほう」


 結婚――。愛し合った者同士がともに一生を過ごすことを誓う儀式だ。

 小さな村では、村をあげてのお祭り騒ぎになるのだと、聞いたこともある。

 知識では知っていることだが、『魔族』の結婚式を直接見たことはなかった。

 歴史の影を生きるルナにとって、祝い事や祭事はずっと縁遠いものであった。


 だから、女の子の嬉しそうな笑顔をこんなに近くで見るのは初めてなのだ。


「すごくきれいな花嫁衣裳をね、あたしも一緒に作ったんだよ」

「……そうか」

「うん、すごくがんばってたの!」

「それは」


 胸を張る少女を見下ろし、ルナは言葉を切る。


 続く言葉を出すのは、勇気が必要だった。自分がなにを言っても不本意に少女を傷つけてしまうのではないかという未来が見える。

 しかしここで押し黙ってもいられず、ルナは言葉を絞り出す。


「……がんばったんだな」

「そうなんだよー!」


 女の子は恐れなかった。それどころか、ますます親しげに話しかけてくる。


 ニコニコと笑う少女の話を、ルナは不器用な相槌を打ちながら聞いていた。

 なるほど、村の子どもたちがはしゃいでいるのは、結婚式が近いからのようだ。

 その日はごちそうが振る舞われ、美しい衣装に身を包んだ花嫁が村のみんなに祝福されるのだという。

 一日の仕事からも解放されて、丸一日遊んでいても誰にも怒られないらしい。


「なるほど、そうか、わかった、すごいな」と、ルナは一生懸命、小さな女の子の話を聞いていた。

 大人たちから崇められる存在であるルナが真剣に話を聞いてくれるのだ。女の子はとても嬉しそうであった。


 そんなとき。「あっ」と声をあげ、女の子は振り返った。

 すると広場には、ひとりの美しい少女が立っているのが見えた。

 彼女はルナの姿に気づくと、驚きながらも慌てて頭を下げた。


「おねえちゃんー!」


 あれがあさって、花嫁となる少女なのだ。小さな女の子は姉の元へと走ってゆく。

 ルナは女の子を見送った。別れ際に手を振られ、少し困ったような顔で手を振り返す。


 ふたりとも去ってゆくとなんだか急に寂しくなったような気がして、ルナは思わず静寂に逆らうように声を漏らす。


「……あさってが、結婚式、か」


 特にどうということはない。

 そこに未練や感傷などの、なにがあったというわけではない。

 ただそう、わずかに引っかかったのだ。


 先ほどの美しき少女が花嫁となり、それをあの小さな女の子を含めた皆が祝福するのだ。

 村をあげての宴会だ。それはきっと美しい光景なのだろう。


 しばらくして、愁が戻ってきた。彼は村人を連れて、ともに門を開く。そうしてルナを招き入れた。


「村長に話をつけてきたよ、ルナ。僕たちは東の外れの寝屋を借りられることになった」

「そうか」


 うなずくルナに、愁は「おや」と声をあげた。


「なにか良いことがあったのかい、ルナ。少し雰囲気が柔らかいね」

「……いいや、なんでもない」


 ルナは首を振った。

 結婚式のことは、口に出さなかった。これは別に、使命とはなんの関係もない、ただの寄り道だから。自分の我を出すような真似は恥ずかしかった。


 愁は口を閉ざすルナに笑いかける。


「そうかい、じゃあ一晩休んで、明日には発とう」

「……」

「次に向かうのは、いよいよ人間族の王都、ダイナスシティだ。そこまで行ったら、僕たちの旅も一息つく」

「……そうだな、シュウ」


 門を開いた若者たちは、愁に別れを告げて去ってゆく。ルナに話しかけることはなかった。触れてはいけない神聖不可侵の人物であると知られているのだ。


 これが当たり前の反応だ。愁がいてくれるおかげで疎まれないのだから、そのことについて喜ぶべきだ。


「いこう」

「そうだね、お姫様」


 ふたりは村へと入っていった。

 翌日は、雨だった。




 一晩泊まり、ふたりは借りた宿にて翌朝を迎える。

 旅立とうと言って準備を始める愁に、ルナはこの日初めて使命に背く言葉をはいた。


「もう一日待とう。明日には晴れるらしいからな」


 寝屋から窓の外を眺め、ルナはわずかに声を弾ませた。

 雨の日に無理して出かけるよりも、もう一日休養を取って体力を回復してから旅に出よう、と。


 そんなルナに、愁は若干いぶかしげな顔をした。

 愁の表情を見て、ルナは己がはいた言葉の意味を思い知らされる。


 先を急ぐ旅ではないが、今この瞬間にもどこかで神化病患者が生まれているかもしれない。自分の考えは甘えでしかなかったのだ。


 ルナは首を振った。


「いや、なんでもない。悪かった、シュウ。早く旅に出よう」

「そうだね、ルナ」


 立ち上がるルナのその手を、愁が引いた、

 彼は、バツが悪そうにはにかんでいる。


「でも、すまない。僕はあいにく、きょうは風邪気味なんだ。できればもう一日休ませてくれると嬉しいな。旅の最中、僕が動けなくなったら困るだろう?」


 愁の言葉を検討するかのように、ルナは黙り込んだ。

 胸の中に芽生えたわずかな感情を持て余しながら、ルナはつぶやく。


「……そうか、ならば仕方ないな、今オマエに倒れられるわけにはいかないからな」

「迷惑をかけるね」


 そう言う愁の顔は笑っていた。

 一日、たった一日だけ、ルナはこの村にとどまることにする。

 それはルナにとって、ただひとり神族としてこの地に残されて以来。初めての自由な時間であった。



 この日のルナは、宿に愁を残し、ひとりで行動をした。誰も怯えさせることがないように雨降りの村の広場の隅に立つ。

 そうしてなにをするかというと、結婚式の準備にせわしなく動く村人たちをずっと眺めていた。


 村人たちは彼女に見つめられているのを知ると、それぞれ目を伏せたり、家の中に隠れたりしていたけれど。

 昨日に会ったあの少女はルナに気づくと手を振ってくれていた。

 ルナもまた、感情を押し殺したように見える顔のまま、手を振り返した。


 ルナは人目を忍んで旅を続けていた。

 だから人々の祭りなどに触れる機会もほとんどなかった。

 人の幸せを自分たちの幸せだと感じ、村人たちは一丸となって式を盛り上げようとしている。

 ともすれば神族に滅ぼされてしまいそうなこの脆弱な世界でも、人々は懸命に生きているのだ。


 結婚式は明日だ。

 ルナは日暮れまでずっとじっとして、人々を眺めていた。


 帰ると愁は寝床に横になったまま、エディーラで買った本を読んでいた。

「やあ、おかえり」と声をかけられ、ルナは首を振った。


「ここはワタシたちの家ではない」

「そうだね、でも、別にいいじゃないか」

「……」

「おかえり」


 愁の言葉に、ルナはしばらく考えた後、つぶやいた。


「ただいまだ、シュウ」


 ルナは頬を緩めた。


 夜になっても、その弾んだ想いは収まらなかった。


 明日が結婚式だと思うと、なぜかざわざと胸が騒いで眠れなかったのだ。

 ベッドの中、ルナはぼんやりとする。隣に眠る少年の顔を、まともに見ることができなかった。


 明るい色の髪を持つ美少年。初めて見た頃は頼りなかったその体躯も一回り大きくなり、精悍さというよりも芯の強さが増していた。

 緋山愁はいまや、ルナにとってなくてはならない存在にまで膨れ上がった。


 四百年前。愁とふたりで旅をしていた、そんな日々。

 恐らくはこれが、ルナの人生の中でもっとも幸せであったと、そう思えるような毎日だった。


 三年間。彼との旅も、ついにはそれぐらいの年月が経過した。

 ルナとともに英雄マシュウの名は広まった。

 はぐれ神化病患者は化け物と呼ばれ、恐れられていた。そんな怪物を退治してゆくうちに、ルナもまた、人々に受け入れられるようになっていった。


 ルナだけでは決してなしえなかった。

 隣に横になって、こちらをじっと見つめる愁の視線を浴びながら、ルナはゆっくりと口を開く。


「最近は、オマエのおかげで助かっている」

「なんだい急に、それは」

「ピリル族も、他のものたちも、ワタシに対する態度とはまるで違う。オマエの前では皆、旧知の友人のようだ。ワタシはオマエのようにはできなかった」

「ふふっ、別に気にする必要はないんじゃないかな」


 愁は楽しそうに笑う。

 彼は身を起こして、寝転がりながら頬杖をついた。曇天の切れ間から差し込む月明かりを浴びるルナを、愛しげに見下ろす。


 あの笑顔に照らされると、居心地が悪くなる。

 自分にはそんな資格はないのだと、叫びたくなる。

 ルナは父を止められなかった己の罪を、許してはいないのだ。


 ルナは目を逸らしながら、つぶやく。


「自分のしてきたことが間違いだったとは思わない。だが、もっとうまい方法があったのならば、ワタシの旅はもっとずっと早く終わっていただろうに、と思ってな」

「君は少し自分を責めすぎるからね」

「あのエルフの少女だって、無理に殺すことはなかったかもしれない」

「ずいぶんと昔の話を持ち出すね」


 回復術によって化け物に変化してしまった少女のことだ。

 彼女が生きていられるようにと願った父親の想いを、ルナが踏みにじった。


「……オマエは、あの少女のことが好きだったのだろう。それをオマエの手で殺させてしまった」

「終わってしまったことだよ。僕は君に感謝しているんだ。あのまま僕がメイドの子と一緒に逃げていたら、僕は自分を嫌いになっていたと思うからね」


 愁はうつ伏せのまま、器用に肩を竦める。


「僕にできることは君にはできなくても、君ができることは僕にできないんだ。人はひとりでは生きていけず、互いに寄り添っていこうということだよ」

「……」


 この少年が自分より年下であるということが、時々信じられなくなる。


「……オマエと話していると、つくづく身に染みる。ワタシはなにも知らなかったのだな」

「知らないということを知るのは、一番大切なことさ」


 そうなのだろうか。


 だがそれきり、愁は口をつぐんだ。

 こちらをじっと見つめているだけで、なにも言おうとはしない。


「……どうかしたか?」

「あ、いや」


 愁は急に目を逸らした。


「そろそろ寝ようと思って、ね」

「ん、ああ」


 その言葉に、ルナもまた、うなずいた。

 愁はこちらに背を向けた。


 彼と出会ってから、もう三年間。

 ルナとマシュウ。ふたりは恋人であると、そう言われている。

 だが、事実は違う。

 ふたりは互いをそう呼び合うことはなかったし、ましてや。


 ――彼は旅の途中、一度もルナを抱くどころか。

 キスのひとつもしたことはなかったのだから――。


「おやすみだ、シュウ」

「……おやすみ、ルナ」


 愁はルナを軽はずみに口説くようなことを、もうしなくなっていた。

 その心境の変化と、心の機微が、ルナにはわからない。

 人と神だ。決して交わらないふたつの血。このまま主従の関係を続けるべきだとルナは思っていたはずなのに。


 愁はルナに興味がなくなったのかと思えば、しかし時折焦がれるような熱い視線を送ってきたりもする。

 なぜだかそれが、ルナの胸をひどく締めつけるのだ。

 心臓ではないどこかがぎゅっと痛むのだ。


「……」


 体全体にのしかかる旅の疲れは、ルナの意識をまどろみへと運ぶ。


 間もなくルナは眠りに落ちた。

 夜が更けてゆく。



 その翌日――。

 運命の転機が訪れる。



 結婚式の当日、「参加すればいいのに」と笑う愁に首を振り、ルナは仏頂面でつぶやいた。


「ワタシが近くにいると、皆を怖がらせてしまう」

「広場の隅で見守っていても、あまり変わらないんじゃないかな」

「……いいや、大丈夫だ。ワタシは身を隠しているからな」

「ああ、そうかい」


 呆れた風に笑う愁に、ルナは大真面目にうなずいた。

 実はこの日、太陽が昇るよりも早く目覚めていたのだ。昨夜はワクワクしていて、ほとんど眠れなかった。

 ルナが村の外で身を潜めていると、やがて村人たちが準備のために集まり出した。


 外にはたくさんの布が敷かれ、その上に本日のご馳走が並べられていった。

 女たちも男たちもせわしなく準備をしていたが、彼らの顔は皆、喜びに染まっていた。


 やがて、花嫁が現れる。


 この地方の花嫁は、様々な刺繍の施されたワンピースをまとっていた。

 頭には花飾りをつけ、紅を塗り、先日見たときよりもずっと大人びた笑顔を浮かべていた。

 幼き少女に花束を手渡され、たくさんの祝福を浴び、嬉しそうに笑う。


 その姿をルナは純粋に美しいと思ったし、胸を強く打たれた。

 あんな風に自分のすべてを委ねられる女の気持ちは、いったいどんなものだろうと思った。


 夫となる男は、年若い青年だった。

 年齢は恐らく愁と同じぐらいであろう。

 これから妻となる少女の肩を抱き、幸せそうに笑っている。


 愁もその場にいて、彼らに笑顔で拍手をしていた。

 晴れた空の下。素晴らしき日であった。


 身をひそめていたルナは思わず、夫婦となるふたりに自分と愁の姿を投影してしまう。

 それに気づいたルナは、思わず顔を赤らめた。


 自分はいったいなにを考えているのか。

 こんな自分に、女としての幸せが来るはずもないのに。

 だが、――もしそうではなかったとしたら。


 すべてが終わって、この世界から神族を根絶させて。

 そして、父の罪を贖い、自分が赦される日が来たのなら。

 もしかしたら、こんなふたりの未来も、あったのだろうか。


 そんなことを思った瞬間、ルナの体は小さく揺れた。

 見下ろすと、己の胸から血塗られた剣の切っ先が突き出ている。


 ――串刺しにされているのだ。


 ルナは目を見開く。

 熱い血の塊が喉奥から込み上げてきた。


 突然の事態に、反応が遅れた。

 いまだ新郎と新婦に目を奪われたままのルナの視界が、真っ赤に染まる。


 ルナの耳に、声が滑り込んできた。

 重々しい男の声だった。


「ついに見つけたぞ、神々の使い、ルナ――」


 それはまるで熱した憎しみを人の形に固めたような声であった。


「貴様が俺の娘を殺したんだ……! 貴様たちが……!」


 振り返る。彼はエルフの男だった。

 通常、エルフは森の外に出ることはない。

 なのに、こんなところまで。

 ミストランドから遠く離れたこの地までやってきた妄執の男。


 その顔に、ルナは見覚えがあった。


 そうだ、あのエルフ族の城で会った男だ。

 娘に向けて回復術を唱えた、あの神官だ。


 エルフ族の王族が「処刑した」と言っていたはずだったのだが。

 まさか生き延びていただなんて。


 神官は涙を流しながら、ルナに突き入れた剣をさらに深く刺す。


「貴様さえいなければ、貴様さえいなければ……貴様さえ、いなければ!」

「……ああ、そうか……」


 ごぼりと逆流した血が、口からあふれ出た。


 手のひらに赤い光を集めようとして、しかしルナは動きをとめた。

 ここで極術を使えば、この村の祭りを邪魔してしまう。

 あの幸せな夫婦のこれからを――。


 幼き少女が、姉の首に花飾りをかけていた。

 彼女たちは幸せそうに笑っている。

 これがルナの守りたかった景色。

 その光景がにじんで、かすんでゆく。


 ルナは思わずつぶやいた。


「――すまなかったな」


 かすれたその声は男に届いただろうか。

 驚愕に染まる男の表情が、もはやルナには見えない。


 愁がこちらに気づき、叫び声をあげた。

 ずっと自分と一緒に旅をしてくれたパートナーに手を伸ばし、ルナは口を動かした。


「シュウ――」


 もし『魔族』として生まれ変わることができたのならば、使命もなにもなく、罪もなにもない体に輪廻転生できたのなら。

 今度こそ彼とともに、花嫁のように――。



 薄れゆく意識の中、エルフの男がバラバラに切り裂かれる姿が見えた。

 悲鳴が響き渡り、それがルナの耳朶を打つ。



 これから先、誰も信じない。誰も信用しない。愁がそのような誤った道に進んでしまったのは、自分のせいなのかもしれない。

 自分ひとりの力で、ルナを救ってみせる。絶望と慟哭の中、16歳の彼はそう決意をし、旅立った。

 ルナの遺体を雪山に隠し、彼女を復活させる方法を探すため――。



 その四百年後、ふたりは再び出会うことになる。

 最悪の形で。



 ◇ ◆ ◇ ◆ ◇



 そして時は今に近づく。


 復活した『女神』ルナがエディーラ神国にて、緋山愁たち魔王四人と別れた後だ。


 自らを蘇生しようと願った愁の想いを振り切り、単身。ルナは誰にも頼らず、神族の完全復活を止めようと動いた。


 ルナは雪国を出ると、南西へと向かう。

 寒さが厳しい土地であった。しかし神族としての力を取り戻しつつある彼女にとっては、前も見えぬ吹雪ですら微風と変わらない。


 赤き肌の彼女は、駆けてゆく。

 雪原に進路を刻むルナの勢いは、溶岩流のようであった。


 ルナが神族の力を取り戻しつつあるのは、召喚魔法陣『リーンカーネイション』が起動したということに他ならない。


 リーンカーネイションとは、大地へと魔力を引きずり込み、別次元への扉を開くための鍵。神世界にて物理法則とエネルギーの狭間を漂う不定形の存在となった神族を、肉世界に再び喚び込むための奥義。それが神族の王、アルバリススが残した最後の力。

 ――転生術リーンカーネイションだ。


 その召喚魔法陣が動き出し、ルナにも力を与えているというのなら。

 すなわち神族の顕現は、全世界で同時に巻き起こっている現象なのだ。


 分厚い曇天に覆われた雪国の空もまた、今、血のような紅に染まっている。

 ルナが走るたびに舞い踊る粉雪もまた、照らされて赤。

 このアルバリススに神の力が満ち始めている証拠だ。


 満ちた神の力は、やがて肉世界にておぼろげな記憶とともに人型を取り戻す。

 目も鼻も口もない、不気味な赤黒い巨人。それが不定形のエネルギー体として数千年封印され続けてきた神族のなれの果てだ。

 永久に続く孤独の檻の中、もはや自分がどういった生き物であったのかさえ思い出せず、ただ魔族への憎しみだけによって動き出す化け物である。


 しかし、そういった神族の中には、いまだ記憶をとどめているものもいる。

 神族の兵士を束ねていた兵長や、あるいは恐らく――ルナの父であるアルバリススのように。


 また、神族のなれの果てですら、時が経てば記憶を取り戻す者たちもいるだろう。

 本来の姿を思い出したそのとき、エネルギーを収める肉の器でしかなかった神族は、真の帰還を果たすのだ。


 ただの化け物ならばよい。英雄に打ち倒されるのが定めであろう。

 しかしそれが神となれば、到底人には立ち向かうことができない存在となる。

 神族がこの地に帰還したとなれば、『魔族』の滅亡は免れないだろう。


 ならば、あの魔法陣を止めなければならない。

 神族でありながら唯一魔族の側に立つ女神ルナは、そう決意をしていた。

 必要なれば、自らの命を賭してでも。


「母様……。あの男の凶行は、ワタシが止めてみせる……。だから、見ていてくれ……」


 雪原に足跡を刻みながら、ルナは駆ける。

 白い霧の中、かつて傍にいてくれた男の顔が浮かんだ。

 振り払ったはずの彼の声が、その笑顔が、記憶の中の姿が、幽鬼のように付き従う。


 緋山愁。

 妄執に取りつかれた男の影を振り切るように、ルナは駆ける。


「待っていろ、神族。オマエたちの好きにはさせない――」


 数千年前の神魔戦争のように、再び神族を打倒するため。

 ルナはただひとり、雪山を越えていた。



 彼女が神族に阻まれ、その圧倒的な物量と復活した神王アルバリススの力に打ちのめされるのは、それから七日後の出来事。

 ――ただひとり、孤軍奮闘。三日三晩寝ずに戦い続けた後のことである。


 しかしルナの奮戦は無駄ではなかった。

 神族の目を引きつけた彼女は、大攻勢を浴びていたのだが。

 図らずとも星型第三要塞リアファルにて軍を率いていた魔王・小野寺慶喜らの命を生き長らえせる結果となり。

 ルナは大勢の命を救った。それは間違いではなかった。




 そして――。


 敗北したルナが目覚めたそのとき。

 彼女は髪を掴まれながら、何者かに引きずられていた。


「目覚めたか、ルナ」


 乱暴に突き飛ばされる。ルナを引きずっていたのは神王アルバリススである。

 いったいここはどこかとルナが周りを見回せば、辺りは激しい戦いのあとが残る荒野であった。

 気を失う前にほんの少しだけ見えた景色の中、ルナはあったはずの要塞を探す。

 振り向く。すると神族の群れの向こうに、ようやく見つかった。


 星型第三要塞リアファルと呼ばれるそれは遥か後方にあった。

 だが、城壁はもはや見る影もない。全体の三分の二が消滅をしていたのだ。


 そこにいた者たちの行方は、いったいどうなってしまったのか。

 思わずルナは叫ぶ。


「どうして、こんな、こんなことが!」

「魔族は俺の持っていたすべてを奪おうとした。だから、ひとり残らず殺すのだ。もう二度と奪われぬようにな」


 みんな死んでしまったのか。

 ルナが守ろうとしていた者や、別れを告げた者も。


 生命の痕跡をどうにか探そうとするルナの銀髪を掴んで、アルバリススがその頭を無理やり引き上げる。

 上向かされたルナの顔は、絶望に染まっていた。


「ルナ、お前は俺が魔族を滅ぼすところを見ているがいい。それがお前の罪だ」


 突きつけられた言葉に、ルナは絶句する。

 すべてを捨ててひとりアルバリススに立ち向かったルナは、もはや誰かの名を呼ぶことすらも許されなかった。



 アルバリスス。

 それはこの世界の名である。


 アルバリスス。

 それは神族の王の名である。


 アルバリスス。

 それは今、絶対的な力を持つ支配者の名であった。






 

 次回更新日:9月25日(金)21時。

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