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勇者イサギの魔王譚  作者: イサギの人
Episode:13 おかえりなさい、あたしの勇者さま
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13-10 安眠

 なにが起きたかわからなかった。

 というよりも、彼女は現状をもはや把握できなかった。


「…………?」


 ガラスのような目玉に、彼女は虚無を映し出す。


 ずっと母親の言う通りに生きてきたら、人間族に攻め滅ぼされた。

 今度は召喚陣を願い、現れたディハザというエルフ族の言う通りにしていたら、彼女が死んだ。

 ――リリアノは目の前の事実に呆然としていた。


 視界が徐々にぼやけてゆく。


 色のない世界で、人間たちが蠢いていた。

 先ほどまで見えていたはずのディハザはもう、いない。

 エウレも、そしてリミノも見えなくなってしまった。

 リリアノの世界にはもう、なにも見えない。


 自分たちに、希望などはない。

 やはりもう。

 こんなことなら、なにも。

 灰色の虚無に、鮮血の赤だけが鮮やかに浮かび上がる。

 そうか、これが復讐の色。

 リリアノの本当の、願い――。


 そのとき、心の中に一滴が落ちた。

 水面に波紋が広がるように、心がさざめく。


 声だ。

 ずっと聞こえていた何者かの――。

 いや、これは神の。

 血塗られた神の声だ。


『もっともっと強く願え。願え、願え』


 そうだ。

 それだけを覚えていれば、いい。

 それだけだ。


 破滅的な衝動に突き動かされ、リリアノは願う。

 あらゆる種族の崩壊を。

 目に映る赤が強くなった。

 辺りに赤が満ちてゆく。

 これが死の色。

 赤は強く、濃く。広く、深く。

 大地から染み出てゆく。


 胎動のように、リーンカーネイションがどくりと揺れた。


「だめ――!」


 そのとき、視界いっぱいに灰色の影が映った。

 影は赤を遮る。

 邪魔だ。


「お願い、正気に戻って、お姉ちゃん……! もう戦う必要なんて、ないんだよ……」


 肩を摑まれ揺すられる。

 鬱陶しい。

 だがその手を払いのける力は、リリアノにはもう残っていないから。

 より強く、願う――。


「赤い巨人たちを止めて! お姉ちゃん!」


 止められるはずがない。

『お前は今から両腕を使わずに生きろ』と言われて、できるのか?

 そこになんの意味がある?

 リーンカーネイションは、神がリリアノに与えてくれた最初で最期の、ひとつだけの能力だ。

 もはやこの力を棄てることなど、考えられない。

 それでは自分に意味はなくなってしまう。

 壊す以外に、もうなにもないから。

 壊せるのなら、壊さなければならないから。


 灰色の影では、リリアノの心は動かない。

 妹であるリミノをも、もはやエルフ族の第一王女は拒絶した。

 その心の壁を突き破ることは、できない。

 ただひとり。

 彼女を除いては――。


 アーモンドの殻を破るような気やすさで。

 なにかがリリアノの心に、そろりと触れた。


「――」


 リリアノは目を見開いた。

 虚無の世界に、それは信じられないほどの衝撃として現れる。

 頭が割れるほどに大きな情動が全身を貫いた。


 彼女の前には、羊のような角を生やしたひとりの娘がいた。

 その輪郭は薄くぼやけていて、赤に混ざらず、しかし輝いていた。


 こいつは、一体――。


「……わたくしが」

「デュテュさま……?」

「心配しないでください、リミノちゃん。わたくしが今、リリアノさまを救い出してきますから」


 薄光をまといながら、彼女の指先がそっとリリアノの胸に触れた。

 夜の砂漠のようなリリアノの魂に、ランプの火よりも儚き光が生まれる。

 だがそれは。

 なんと、温かい――。


「このときのために、わたくしの力はあったのですね」




 魂と魂の接触は、互いの心を重ね合わせる行為だ。

 デュテュの能力は、相手の心に触れることができる。

 それをさらに深く深く潜ってゆけば、やがてそれは相手の魂に行き着く。

 デュテュの魂は今、リリアノの心の中に入り込んでいた。


 裸のデュテュが、リリアノの魂の裾野に降り立つ。

 そこはなにもない、ただ真っ白なだけの空間が広がる、寂しい風景であった。


「……こんな気持ちを抱いていた人を見るのは、初めてですね」


 魔族の兵士たちの魂に触れたときでも、なにもない世界は存在していなかった。

 誰かしら、守りたいもの、愛するもの、大切なもの、幸せだった頃の記憶、そういったものを抱えていた。

 だが、ここにはなにもない。

 寂しくて、悲しくて、寒くて、辛いだけの心だ。


「壊れてしまった心に触れるのは初めてではありませんが……ですが、これではあまりにも……」


 デュテュはそう思いながら、魂世界を歩む。

 足元の砂は乾き、尖っていて、進む者の足を容赦なく傷つけた。

 悲しげな瞳で、デュテュは地面を見下ろす。


「なんて痛々しい……」


 と、ふと気づく。

 それはただの砂ではない。

 すくいあげると、わかった。

 骨だ。

 真っ白な骨が砕かれて、地面を覆い尽くしているのだ。


「そんな……それじゃあ」


 デュテュは足元を掘ってゆく。するとそこには、なにか石のようなものが突き出ていた。


「……埋まっているのですね……?」


 手が傷つくのもいとわず、デュテュは掘り進めた。

 魂世界の時間は止まっているかのように、穏やかだ。

 延々と、延々とデュテュはたったひとりで掘ってゆく。

 やがて表面が見えてくる。


 そこにあったのは、彼女が過ごしていたと思われる大森林ミストラルの中に立つ居城――。

 エルフ族の城だ。


「砕かれた骨に埋まっているだなんて」


 足元から、泣き声がした。

 すでにデュテュの両手は血を流しているが、構わない。

 さらに掘り進む。


「――」


 そんなとき、急に地面が抜けた。

 デュテュは突然の浮遊感に目を白黒させる。


 目まぐるしく変わる景色に酔いそうだ。

 乱れる髪をなんとか手で押さえ、デュテュはさらに下層へと潜る。


 やがて風が止んだ。いつの間にか瞑っていたまぶたの裏に、光が差す。

 落ちた先で顔をあげたそこは、社交場であった。

 華やいでいる。さては滅びた都の、その前の風景か。


 デュテュもまた、いつの間にか白いドレスを身にまとっていた。

 ダンスホールのように輝く広間には、たくさんのエルフ族が談笑していた。


「ここは……あっ」


 そこに見知った顔がいた。

 勇者イサギと、そして復活した魔法師、プレハ。

 そのふたりが一緒にいるのならば、魔帝戦争時代に他ならない。

 デュテュがまだ生まれていなかった頃だ。


「……イサさまと、プレハさまが……?」


 それはなにか、王宮の催しのようだった、

 彼らの元に、美しく着飾った少女が駆け寄っていた。

 碧色の髪を持つ彼女は――今よりも幼い、リミノだ。


 勇者パーティーに囲まれたリミノは緊張しながらも、頬を赤らめていた。

 それは憧れの騎士を前にした、少女だ。


 しかしここには、リリアノがいない。

 魂世界に本人が存在していないはずがないのに、――いない。


「……あの人は、どちらに……?」


 白いヒールを鳴らしながら、デュテュは魂世界の持ち主を探す。


 笑う人々の虚構をすり抜け、デュテュは走った。

 貴族の踊りは優雅で、綽然として。

 デュテュだけが別世界を駆けている。


 いない。

 どこにもいない。

 布で覆われた白テーブルの中を覗いてみるけれど、いない。


「リリアノさま、どちらに」


 振り返る。

 リミノがイサギの腕に抱きついて、彼を困らせていた。

 なぜこの場面を見せているのか。

 リリアノがなぜ、勇者イサギのことを何度も思い出しているのか。


 どこかから、声がした。


『私はこの王国を継ぐから、リミノとは違うから。私は我慢しなくちゃ。人間族の勇者さまとは、お話しちゃいけないから。お母様の言いつけ通り、良い子にしなくちゃ』


 それはひどく寂しそうな、子供の声だった。

 だがやはり、リリアノの姿は見えない。


 これではらちがあかない。

 デュテュは軽く目を閉じると、自らの魂をさらにリリアノに注ぎ込む。

 まるで内臓が抜き取られたかのような喪失感とともに、デュテュはリリアノの存在を確かに感じ取った。

 その方へと、走る。


「リリアノさま」


 彼女は壁のそばに立っていた。

 ぱっと見はリリアノだとは気づかないだろう。ひどくみすぼらしい恰好をしていた。ボロキレのような布をまとって、死んだような目をしている、少女だ。


 その足には、足枷のように真っ赤な鎖が巻き付いていた。とても痛々しく彼女の美しき細い肢を締め上げている。

 それは恐らく、リリアノをこの世界に繋ぎとめるための楔だ。

 力で引き剥がすことは、できない――。


「リリアノさま、お迎えにきましたよ、リリアノさま」


 デュテュは彼女を怖がらせないようにそっと手を差し出した。

 そのリリアノは、真っ赤に泣きはらした目をしている。


「悲しいことが、あったんですね。でも、大丈夫です。もう、怖いことはありません。さあ、一緒に帰りましょう」


 慈しみに満ちた笑みを浮かべて近寄るデュテュ。

 リリアノの目玉がぎょろりとこちらを認識した。

 次の瞬間だ――。


 辺りを死の風が撫でた。


「――」


 気づく。先ほどまで華やかだったこの空間にもはや生きている者はおらず、ダンスホールには屍がうずたかく積もっていた。

 たったの一瞬でなにもかもが腐敗し、色あせ、カーテンは腐り落ち、絨毯はほつれて跡形もなく消える。


 デュテュですら目を覆いたくなるほどの惨状。

 死体には虫が湧いており、その生をも冒涜するように、這い回っていた。

 そんなもので、ここは満ちていた。


「リリアノ、さま……?」

「……死んじゃった」


 彼女がようやく、口を開いた。

 足につけた鎖がじゃらりと鳴る。


「なにもかも、死んじゃった。誰も、助けてくれなかった。みんな、みんないなくなった。私だけ残された。私だけ、生き延びて。どうしてなの。どうして、私も連れていってくれなかったの」


 涙も枯れ果てたような顔で、彼女はつぶやいた。

 その鎖は薄く赤く輝いている。


「誰も信じられない。誰も信じたくない。誰も助けてくれない。なのにまだ生きていなくちゃいけないの。もう嫌だ。辛いよ。でも死にたくないの。どうしてなの。私がどんな悪いことをしたの。教えてください、ごめんなさいしますから。だってよっぽどのことをしたんでしょう。じゃなきゃこんなに、神様が怒るはずがないよ。私はなにをしてしまったの?」

「……リリアノさま」


 デュテュはゆっくりと手を伸ばす。

 彼女の頬に触れると、それは驚くほどに冷たかった。

 まるで死体のようだ。


「ずっとみんなの言うことを守って生きてきたの。やることはやったし、やらなくていいこともやってきたよ。なにも悪いことは、してなかったよ。嘘だって、ついたことなんてない。リミノも大事にした。お祈りだって、毎晩してた。でも、誰も助けてくれないの。どうしてみんな、私を置いていっちゃうの。私はまだなにをすればいいの」

「……いいのですよ」


 デュテュは彼女を抱きしめる。

 人形の死体じみたリリアノは、まるで抵抗を示さなかった。

 あまりの冷たさに、熱が奪われてゆく。

 氷像のようなその細い体を、しかしデュテュは決して離さなかった。


「いいのです。もう、がんばらなくても。リリアノちゃん……よく、がんばりましたね。ねえ、寒いでしょう、リリアノちゃん。今、温めてあげますからね」

「……」


 腐臭に包まれた王宮にて、デュテュは目を閉じた。

 そうして、自らの魂をリリアノに分け与えてゆく。


 アンチライフドレイン。

 それを直接魂に注ぎ込むのだ。


「リリアノちゃん、疲れたでしょう。でも、もう大丈夫。ここにあなたの敵はいません。あなたを助けてくれる人が、いたんです」

「……」


 デュテュはリリアノを離し、手のひらを彼女の前にかざした。

 そこから魂によって人の形が作られる。


 それは先ほど、リリアノの魂世界に存在していた三人の人物。

 イサギ、プレハ、そしてリミノ。


 リリアノの目が、見開かれた。


「イサギさま、プレハさま、リミノ……」

「遅くなって、本当にごめんなさい」


 デュテュはリリアノの髪を撫でた。

 ふたりの意識は緩やかに溶け合い、混ざり、そして再び分かたれてゆく。

 感情の欠片に触れたデュテュの目から、涙がこぼれた。


 ――壊れた心のリリアノがずっと、どんな想いを抱えていたのかを、知ったから。


「でも、助けに来ましたから。ごめんなさい、ひとりにして。ごめんなさい、リリアノちゃん。ねえ、帰りましょう。ねえ、一緒に」


 リリアノは不思議そうにデュテュを見つめる。


「……おねえちゃん、泣いているの? どこか、いたいの?」

「ううん、大丈夫です。ごめんなさい、涙もろくて。でも、もっともっと前に、あなたを救いたかった。あなたに手を差し伸べたかった。遅くなって、ごめんなさい。ひとりにしてしまって、ごめんなさい」

「……?」


 リリアノはわからないといった風に首を傾げていた。

 彼女を繋いでいる鎖に、わずかにヒビが入る。


 泣きじゃくるデュテュの指を、リリアノはぎゅっと握る。


「泣かないで、おねえちゃん。私が一緒に、ついていってあげるから、ね?」

「……うん、ありがとうございます、リリアノちゃん……」


 その言葉は、声にならなかった。


 助けにきたはずなのに。

 でも彼女は虚無の瞳にほんのわずかな光を浮かべて、そうして微笑みを見せてくれた。

 その健気さに、涙が止まらなかった。


 どんなに自分が辛い目にあっていても、リリアノは、デュテュのために笑ったのだ。

 彼女はきっと、仇を取りたかっただけだ。

 死んだエルフ族のために、なにかをしてやりたかっただけなのだ。

 焼け焦げた大森林ミストラルには捧げる花もなかったから、リーンカーネイションに願ったのだろう。

 本当に、なんて悲しい話なのだろう。


 デュテュは涙を浮かべたまま彼女の手を引いた。

 ここに長く居すぎて、デュテュの魂はずいぶんと失われてしまったけれど、ここに来てよかった。

 リリアノのことを知れて、よかったのだ。


「おねえちゃん、だいじょうぶ?」

「うん、平気です。リリアノちゃんが一緒に来てくれたら、きっと嬉しいですから」


 その言葉に、リリアノは困惑をしているようだったが。

 彼女を縛っていたおぞましき鎖は、もはやない。

 赤くなった素足が、見えていた。


「じゃあ帰りましょう、リリアノちゃん。ふたりで」

「うん」


 リリアノはデュテュに小さくうなずく。

 ふたりで帰ろう。

 ――手を繋いで、帰ろう。



 それから間もなく。

 召喚陣リーンカーネイションの起動は停止した。



 ◇ ◆ ◇ ◆ ◇



 デュテュの体がびくりとはねた。

 ――次の瞬間、彼女はこの世界に帰還を果たす。


 ここはエルフ族の王城があった場所であり、リリアノの魂世界に酷似した野原だ。

 何万年も前からそこにいたかのように動かぬ二体の巨人がいて。

 さらに仲間が自分たちを心配そうに見守ってくれていた。


 そんな中、青ざめた表情で地面に手をつくデュテュの前。

 リリアノは膝をつき、天に手を伸ばして――。


「あ、ぁ……」


 ――彼女の全身からなにかが抜け出るかのように、赤い霧が空へとあがっていった。だがそれとともに、全身は急激に衰弱してゆく。


 まさか失敗か。

 デュテュの顔に動揺が走る。

 だが。


「……リミ……ノ……」


 その口が発した言葉に、引きつけられる。

 リミノが慌てて彼女に駆け寄った。


「お姉ちゃん!? リリアノお姉ちゃん!」

「あぁ……リミノ……」


 リリアノがゆっくりと腕を持ち上げてゆく。

 その指先は、もはや骨に変わりつつあった。

 急激に衰弱を始めているのだ。

 彼女はすでにひとりでは体を保てないところまできてしまっていた。


 だが、右半身がミイラのようになりながらも、彼女は口元に柔らかな――ヒトの尊厳を感じさせるような、笑みを浮かべていた。


「ああ、リミノ、よかった、リミノ、生きていて……。ああ、よかった……」

「おねえちゃん」


 リリアノは最期に、正気を取り戻したのだ。

 だからきっと、彼女は最後に幸せを取り戻せたのだろう。


 大地から響いていたリーンカーネイションの召喚陣は停止する。

 よって今後、これ以上赤い巨人が増えることはない。

 リリアノとリーンカーネイションの繋がりは断ち切られたのだ。

 他でもない、デュテュの願いによって。


「私は、彼らの声に、抗えなかった……だけど、ようやく『鎖』が外れた……。ああ、私は最後に、自分の人生を……」


 微笑みながら彼女はリミノと、そしてデュテュに向かい、頭を下げる。


「ありがとう、あなたたちがいてくれたから、私は、ありがとう……。そして、この世界をどうか、あなたたちに託し――」


 その先の言葉を、彼女は告げることができなかった。

 唇の動きが止まり、瞳から急激に光が失われてゆく。

 やせ細った体を支えるものはもはやなく、リリアノは膝から崩れ落ちた。


 だがそれは、決して悲しい最期ではなかったのだろう。

 最悪の中にあって、最上に近いほどの別離だ。

 だからもう、リミノは泣かなかった。


 リリアノはリーンカーネイションに囚われていたのだろうか。

 今となってはもう、わからない。

 だが、ひとつだけわかっていたことがあるとすれば――。


『鎖』という名の契約に囚われていたのは、リリアノだけではなかったということだ。

 ――そう、赤い巨人たちもまた――。


 エルフ族に従い、すべての人族を滅ぼすために喚び出された『神族』はこの時――。

 ――真の意味で、解き放たれたのであった。




 ◇ ◆ ◇ ◆ ◇



 勇者イサギの魔王譚

 13-10『安眠やすらかにおねむり



 ◇ ◆ ◇ ◆ ◇




「――」


 リリアノの体をねじ切るように、その巨人は腕を振るっていた。

 ――そう、もはやエルフ族と交わした盟約に意味はない。


「お姉ちゃん!」


 リミノが叫ぶ。

 目の前で、リリアノの体が破壊されるところを、見てしまった。

 今救われたはずのリリアノが、その魂の器が、巨大な拳によって完膚なきまでに叩き潰されたのだ。


 止められた時を取り戻したように。

 赤い巨人は敵意を抱いて、こちらに向かってきていた。

 人の世を無に帰すための進軍だ――。


「……ついに真打の登場ってわけね」


 アマーリエが苦々しくうめいた。


 赤い巨人はこちらを見据えている。

 物言わぬ目も鼻も口もない化け物だが、明確な敵意を感じるのは、互いが戦士であるからだろうか。


 馬車へと向かう皆を逃がすために、プレハが前に歩み出る。


「なーんかさっきから、見覚えがあるんだよねえ……」


 人差し指を顎に当てるプレハは、額にしわを寄せた。

 赤い巨人は、その奥にさらに一匹。

 同時に二匹――。


 皆は、ディハザを一蹴したプレハならば、赤い巨人をも打ち倒せると信じているのだろう。

 しかし、当の本人だけが、現状を理解していた。


「二体は、結構厳しいかなあ」


 頬をかくプレハは、苦笑いをする。

 彼女のそばにいたイサギが、疑念を覚えながらプレハを見上げる。


「でも、お前なら、勝てるんだろ……?」

「んー、それはどうかな」


 プレハは軽い口調の中に、張りつめたような真剣さを押し込んでいた。

 腕まくりをして、よっし、と両手を握り締める。


「お前……」


 イサギを振り向かずに、彼女は微笑んでいた。


「あたしはラタトスクの地下迷宮で、こいつと一対一で負けちゃったから、さ」

「え……」




 ラタトスクの地下迷宮。極大魔晶が眠っていると信じていたその迷宮にて、プレハはいくつかのミスを犯してしまった。

 第五階層に到達するまでに、いつもより多く魔力を使ってしまったのがその際たるものだが、それ以上に彼女は危機を認識していなかった。

 それが迷宮の番人。ラタトスクの地下に生息していた赤い巨人であった。

 彼我の戦力にそれほどの差があるとは思わなかった。

 プレハの体捌きはこのときすでに達人の域に達していたが、そうだとしても赤い巨人は凄まじく強い相手だった。


 なによりもすべての行動が、異常な速度を持つのだ。

 さらに生物としての呼吸を感じず、今までに戦ったことのあるどの相手よりもやりづらかった。

 プレハが一呼吸をする間に、間合いを詰められ、世界最強の魔法師は圧倒された。

 通常の相手ならば押し返せるほどの魔術の嵐も、その巨躯と質量を前には意味がなかったのだ。


 一撃必殺の魔法も、当たらなければ意味がない。

 巨大な壁を作って時間を稼ぎ、その背後の巨人ごと消し去ろうと試みたが、プレハの極大魔法を巨人は発動を見てから避けることができた。


 プレハは幸いにも致命傷を避け続けたが、しかしそれもうまくはいかなくて。

 結局、その命を散らせる結果となってしまった。


 核魔晶にたどり着いたプレハは最後の力を振り絞って、手紙を残した。

 そして魔晶と同化し、自ら極大魔晶を創り出すための礎となったのだ。


 苦い記憶であった。


「そうだったんだね、ラタトスクの地下にいた化け物は、まだ完全には発動をしていなかったリーンカーネイションが召喚した、その尖兵だったっていうわけだね」


 今ここでプレハはため息をついた。

 一対一でも勝てなかった相手が、同時に二体。

 もちろん、初めて戦う相手ではない以上、前よりはやりやすいはずだ。

 それにここは屋外であり、魔法師が苦手とする屋内での近接戦闘を強いられるわけではない。


 しかし、それにしても――。


「ま、さすがに二度も死んでいられないしね」


 プレハは心配そうにこちらを見つめるイサギに、微笑みを返す。


「大丈夫、なんとかなるよ。一度負けた相手にそうそう遅れは取らないよ。それにラタトスクで戦ったやつより、ほんの少しだけど小さく見えるし」

「だ、だけど……」


 必要なのは前衛だ。

 プレハが魔法を放つまでの時間を稼ぐことができる戦士。

 それ単体で相手を撃破できる攻撃力を持つ剣士。

 互いの弱点をカバーすることができる相棒。


 そんな者がいれば、恐らくは――勝てる。

 だが、ここにはもう、いない。


「あたしがやるわ」


 そう言ってプレハの横に並んだのは、アマーリエであった。

 傷つき、泥だらけになりながら、カラドボルグを握り締めた彼女であった。


 プレハは眉をひそめた。


「やめたほうがいいよ。あたしと組むと、キミはきっと死んじゃうから」

「ずいぶんとハッキリと言うじゃない。でもデュテュはリリアノを救って、リミノももうボロボロよ。どこの誰があなたの背中を守れるの。あたしにだってバリーズドの血が流れているんだわ。やれるはずよ」

「バリーズドの娘だからっていうのは、関係ないよ。キミみたいな若い女の子に、命を投げ出してほしくないだけ」


 困った笑顔を浮かべるプレハ。アマーリエは剣を抜いて前に歩み出た。


「でも、光栄なことだわ。あなたを守って、死ぬことができるというのは」

「まったくもう、これだから最近の若い子は、すぐ英雄願望に走っちゃうんだから」

「あなたが魔王を倒したのは十五才の頃でしょう。あたしはもう二十才近くなんだからね。あたしにだって十分覚悟しているわ」

「頑固なところはバリーズドそっくりだね」


 やれやれと肩を竦めるプレハ。

 彼女の目に闘志がともる。


「仕方ない、リベンジといきますか。イサギの見ている前で、負けたくないしね?」




 赤い巨人を前に立つふたりの女性。

 それを見たイサギは、胸を押さえていた。


 まるでアドレナリンをぶち込まれたようだ。

 先ほどから鼓動の高鳴りが止まらない。


「なんだ、この感覚は……。俺は、昔……」


 だめだ、思い出してはならない。

 思い出そうとすると、右腕がひどく傷むのだ。

 イサギの脳を破壊しそうなほどに、激痛を発するから。

 だからイサギは、その光景だけを焼きつけるように目を見開いていた。


「俺は、俺は……!」


 次回更新日:5月8日予定。





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 ではではー。

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