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勇者イサギの魔王譚  作者: イサギの人
Episode:13 おかえりなさい、あたしの勇者さま
159/176

13-9 最愛

 ――時はわずかに巻き戻る。


 イサギは、馬車にて大森林にやってきた。

 その途中で先にディハザに発見されたのだ。

 ディハザの警戒網は広く、なんの力も持ち合わせていないイサギが捕まるのも仕方のないことであった。


 だが、ディハザはイサギを恐れた。

 無理からぬ話だ。

 手も足も出なかったギルドマスターであるシュウを、一蹴した男なのだ。

 無論、最終禁忌ラストアビスとなった今、彼と互角以上に渡り合えると確信していた。

 しかし、何事にも警戒は必要だ。


 ディハザは用意周到に準備をした。

 もしものときのために、二体の巨人を配置して。

 さらに、殺さずに取っておいたデュテュとアマーリエを連れてきて。

 いざとなれば彼女らを人質として活用するつもりだった。


 結論から言えば、――その必要はなかった。


 馬車から降りてひとりでこちらに向かってきたイサギ。

 彼と、迷宮の入り口にて、ディハザは対峙した。


「あの神剣使い……、来たわね……!」


 大人となったそのディハザの美しき顔は、引きつっていた。

 この体の調整は済んだはずだが、それでも――。


 やってきた男は、デュテュとアマーリエが腕輪と足輪を付けられているのを見て、すべての事態を理解したようだった。

 拳を握り、決意に固まった顔でつぶやく。


「……お前が、皆を痛めつけていたのか」


 イサギは胸に嵐を秘めたような顔をしていた。

 ただひとりの少年の器からあふれ出た感情の正体。

 そこには、静かな怒りがあった。


「だからなんだというのよ。あたしは究極禁忌として生まれ変わったのだわ! あんたなんかに負けることはないわ!」


 ディハザが叫ぶのは、彼を恐れているからだ。

 己でも自覚をしていた。

 その身に取り込んだ禁姫たちが、震えている。

 しかしここで恐怖を克服できなければ、世界を支配などはできないだろう。


 気を張るディハザの前、イサギは身に着けていた剣を――神剣ではなく鋼の剣を――抜いた。


「……よくも、やりやがったな」


 構えは下段。

 剣閃は、恐らく見えないだろう。

 ディハザはその一瞬にすべてを賭けるつもりで、音が消え去るほどに集中した。


「かかってきなさい――」


 身を屈め、イサギは抜群のタイミングを計っているように見えた。

 間隙と間隙を縫うかのような斬撃を、目で捉えるのは不可能かもしれない。それでもディハザは不可能を手繰り寄せるために、世界を我がものとする。

 筋肉に走る電気信号すらも、今のディハザには感じ取れるようだった。


 電気信号が走った、次の瞬間。

 イサギは叫びながら斬りかかってくる。

 だが――。


 ――それは、あまりにも遅い。


 イサギは、一瞬にして蹴り倒されていた。

 彼は地面をすべり、苦悶の声を漏らす。


 反撃をする気はなかった。

 ただ足が出た。

 彼が思い通りになるはずがないのに。ディハザの解釈は揺らぎを見せる。


 無様といえばそうだが、不気味でしかなかった。


「ぐっ、痛……っ……」


 ディハザは眉根を寄せた。


「――はあ?」

「……」


 イサギは起き上がる。それがフリであれば大したものだが、今の彼は新兵も同然であった。

 痛む体に鞭を打ち、ディハザに向かってゆくその男。

 腫れた患部を恐る恐るつつくような、そんなディハザの脚撃を浴びて、みっともなく地面を転がっていった。


「っ、ぐぐぐぐう……ああっ……!」


 自分はからかわれているのか?

 彼は本気なのか?

 植物に擬態した捕食動物を眺めているような気分であった。

 いつ正体を現して襲い掛かってくるのかがわからない。


 そんなとき、悶えながらも起き上がるイサギの右腕に刻まれた魔法陣があらわになる。

 そこで初めてディハザはイサギの魔力の流れを観察した。

 眼球が真実を穿つ。


「闘気も、なにもまとっていない……。あんた、その魔法陣は……」


 イサギは生命維持のために、己の魔力のすべてを費やさなければならないほどの重傷を負った。

 魂を侵食する神エネルギーを押し返す手段として、その身の魔力が必要なのだろう。

 ということは――。


「――もしかして、そういうことなのぉ?」


 徐々に口元を吊り上げてゆくディハザ。

 それはディーラーのイカサマを暴いた賭博師のような、嗜虐的な笑みだった。


 そうか、そうだったのか。

 彼にはもう、なにもない。

 自分は風車を竜と勘違いしていた、馬鹿者だ。

 だがそれ以上に。

 風車を竜だと言い張り戦場に裸で現れたイサギは、――無類の狂人であった。


 狂人は数多く見たが、こいつはとびきりだ。

 すぐに殺すのは『もったいない』な。


「いいわ、あなたにはすべての苦痛を差し上げるわぁ。とびっきりの、――フルコースよ」


 ディハザはイサギを嬲り尽くした。

 それは格別の喜びであった。




 そんなディハザの幻想が今――砕け散る。




 ディハザは顔を歪める。


「なんなのあんた……? また余計な雑魚が現れたわね」


 金糸のような長い髪に、処女雪のように白い肌。

 可憐にして、清廉。透き通るような美貌の中で、その瞳は自信に満ち溢れているかのように輝いていた。


 唐突に現れた美女は、周囲の視線を集めながら髪をかきあげる。

 彼女の肌からは、わずかな燐光が放たれていた。魔晶の煌きだ。


 これがどのような者であるか。

 正しく認識することは、不可能だ。


 完全なる魔晶生命体とは、禁忌をさらに超える生命の矛盾だ。

 肉世界と魔世界と魂世界の概念を掻き乱す者。そんな存在であった。


 混沌の魔晶生命体は、言葉を発する。


「別に気にしなくていいよ。あたしだって、あなたの名前にも素性にも興味はないしね?」


 女性の形をした極大魔晶は、人差し指を振る。

 呼吸もせず、喉も震わせず、発声する。


「ただ、その手に持っている人は離してくれないと困るかな? それ、あたしのだからね」


 ディハザは足元に目を向けた。

 そこには、今にもくたばりそうな死にぞこないがひとり。

 極大魔晶の輝きに照らされ、風化してゆく砂よりも価値のない者。


「こんなゴミが?」

「若いね。君にとっては不要な存在でも、それが誰かにとっての宝物だってこともあるんだよ?」


 そう言うと、彼女は歩き出す。

 二十九才で眠りについた、魔晶生命体プレハ。

 その足取りは、しかし、紛れもなく堂々たるものであった。


 プレハは涙で顔をぐちゃぐちゃにしたリミノのそばに向かうと、彼女の肩を撫でる。

 そうして、倒れているエウレのもとに屈むと、微笑み、柔らかな声を出した。


「リミノ。その人のこと、見せてみて」

「……プレハ、おねえちゃん……」


 声にならない声を漏らすリミノの横から、エウレを見つめる。

 プレハの伸ばしたその手は淡い光に包まれ、ほんの少しだけ傷口に触れた。

 ぴくりとだけ、エウレが震える。


 再びプレハは微笑み、そっとリミノの頭を撫でた。


「うん、大丈夫。急所は外しているね。この子の体力なら、治癒法術をかけておけば、大丈夫だよ」


 涙に濡れたリミノの目が丸くなった。


「……ほんとに?」

「ええ、もちろん。あたしが嘘を言うはずがないでしょう?」


 プレハはなんのためらいもなく、そう言い切った。

 彼女はリミノを抱き寄せる。


「よくがんばったね、リミノ」

「――」


 リミノは目を見開いた。

 自らの体を抱き締めようとして、しかしその手が止まる。プレハが優しくリミノをさすっていたからだ。

 リミノの震えはとまり、彼女の目からはらはらと涙が落ちた。


「おねえちゃん……おねえ、ちゃん……おねえちゃん……」

「よしよし、いい子ね、リミノ。よしよし、ふふふ」


 彼女の頭を撫でながら、プレハは辺りを見回した。

 並んで立っているリリアノとディハザ。

 それに、倒れているデュテュと、アマーリエ。


 ミストラル王城跡には、あまりにも濃い腐敗臭が漂っていた。

 こんなに美しい霊森の景色を、災禍の毒で腐らせているものがいる。

 プレハの目に見える景色は、以前とはまるで違っていた。

 それが人間を超越した証なのかもしれない。


 プレハはこめかみに軽く指を当てた。


「……あれは、デュテュちゃんに、アマーリエちゃんか。ずいぶんと大きくなったね。それだけの時が経ったってことなんだろうな」


 寂しそうなつぶやきであった。


 その様子に、ディハザは目を細めていた。

 今さら、彼女の正体に気づいたのだ。


「……あんたもしかして、極大魔晶?」


 プレハはリミノを一撫でしてから立ち上がると、形の整った顎に指を当てて、首を傾げた。


「なのかな。正直、今ちょっと記憶が混濁しているみたいなんだよね。ただ、あたしを呼ぶ声が聞こえてきた気がするんだ。ずっと、ずっと、誰かがそばにいてくれたんだよ。とても、大事な人だったの。あ、もしかしてこれ惚気かな?」

「知ったことじゃないわ」


 ディハザは吐き捨てた。


 プレハの視線がボロボロになった黒髪の少年を捉える。

 得難いものを慈しんで撫でるように、彼女の眼差しは彼の姿をじっと見つめていた。


 プレハは口内で小さくつぶやいた。


「……まーたかっこつけちゃって」

「ああ?」

「ううん、なんでもないの」


 にっこりと笑ってから、プレハは口元を引き締めた。


「あなた、名前に興味はないって言ったけれど、改めて聞かせてもらってもいいかな?」

「ディハザよ」

「そう、ディハザちゃんね」

「なんなの?」

「あたし、殺すと決めた相手の名前は聞くことに決めているの。あなたの名を背負って生きるためにね」


 ディハザの両手に魔力が渦巻いた。


「は! 戯言を言うわね! 死にぞこないが!」

「死にぞこないは、まあ、当たっているかもね」


 プレハの笑顔は力強さとは裏腹に。

 月下にだけ咲く花のように、儚くすらあった。


 極大魔晶の中にほんの少しだけ残っていたプレハの魂。それが彼女の存在を許しているに過ぎないのだから。


 リミノが慌ててプレハの袖を引いた。


「だめだよ、お姉ちゃん……いくらお姉ちゃんでも、勝てないよ」

「そう?」

「だって、リミノたちが三人がかりでも、歯が立たなかったのに……」


 プレハはあくまでも術師だ。

 対するディハザは、どちらかというと剣士に近い。

 懐に入られたら、プレハはおしまいだ。


「いったん逃げて、そうしてまた改めて……。ね、お姉ちゃん、だめだよ、勝てないよ……」

「大丈夫、リミノ」


 彼女の髪を撫でて、プレハは快活に笑う。


「――あたしに任せて」


 プレハは右手を横に振り、コードを描く。

 法術。あらゆる行動の起点となる、障壁だ。


 それを見たディハザは地面を蹴った。

 プレハの法術の習熟度は、一流ではあるが、その程度だ。

 リミノとほぼ変わりはない。

 ならばディハザにとって、蹴り破るのもそう難しい話ではなかった。


「弱い! 甘い! もう一度地獄に送り返してやるわ!」

「弾けろ」


 法術が破砕された次の瞬間、プレハもまた、手を突き出していた。

 その足めがけて、手のひらから魔術を叩き込む。

 近距離での魔術の暴発。それは以前にディハザが行なったようなものだが、しかしプレハはそのバックファイアを完全に抑え込んでいた。

 圧倒的なまでの――技量の差だ。


 ディハザは吹き飛び、後方に着地した。


「――なんですって!」


 驚いたのはそれだけではなかった。

 プレハは自ら――間合いを詰めてきていた。

 術師である彼女が、だ。


「潰れろ」


 爪を振り下ろすように、彼女は右腕を振るう。

 その直後、強烈な重力の塊が、ディハザを押し潰す。

 プレハオリジナルの魔術――広範囲への重力攻撃は、逃げ道を塞ぐ。


「ぐおおおおおおおおお!」


 ディハザは吠えた。唱えては破壊される法術を幾重にも束ねて、プレハの魔術を押し返そうとあがく。

 だが、だめだ。掲げた両腕が持っていかれる――。

 薪を斧でへし折ったような音が響き、ディハザの腕が肘から無残に折れた。


 鮮血をまき散らしながらプレハを睨むディハザの目は、真っ赤に染まる。

 ディハザの全身をすぐに、回復術が包み込んだ。


「雑魚が! なんだってのよ! よくもよくもよくも――!」

「蠢け」


 鋭利な真空の刃が生み出された。

 それは全方位からディハザを切り刻む。

 数十にも及ぶそれらは、かわしようなどはない。

 ディハザは顔をかばい、回復術で嵐が過ぎ去るのを待つ。


 結果、――台無しとなったのは、そのドレスであった。


「あんたは……!」

「あら、そのドレス、とても綺麗だったのに。もったいないことをしちゃったかな?」

「もう、許さないわ――」


 ディハザの体が膨らんでゆく。

 ドレスがはち切れて、破れた。

 彼女の肉体が赤黒く染まってゆく。

 それは神化そのものだ。


 やがて完成される。

 彼女が追い求めていた力の片鱗。

 神エネルギーを取り込んだディハザ。

 すなわち――神化ディハザ。


 両腕と両足は巨木ほどに膨れ上がり。

 その胴体は幾重にも鎖を巻きつけたかのように、ねじ曲がりながらもひとつの円柱を作りあげていた。


 あらゆる肉が神エネルギーの貯蔵庫であり。

 細胞の一欠片に至るまでディハザの支配下にあった。

 もはや先ほどの美しかった娘の面影は、微塵もない。

 だが――、引き換えに手にした身体能力は、先ほどとは雲泥の差だ。


「これが究極禁忌の本当の力――。その恐ろしさを味わうがいいわ」


 ディハザの声にすら、魔力の残滓があった。

 その身が内蔵するエネルギーは、ひとつの国を凝縮したかのようだ。

 肌がひりつくほどの圧迫感は、生物の根底を支配する。


 勝てるはずがない。

 怯えた顔で、リミノはプレハを見つめる。


「プレハお姉ちゃん……」


 だが、プレハはなにひとつ動揺をしていない。

 風のそよぎを味わうように涼やかな顔で、微笑んでいた。


「ん、任せて? 大丈夫よ、お姉ちゃん強いんだから」


 プレハはリミノにピースサインを返す。

 よそ見をするその態度に、ディハザの堪忍袋の緒が切れた。


「なにを油断しているのよ――!」


 踏み込みのその一歩目で、地面が爆砕した。

 加速をつけて打ち出される彼女の体は、それだけで兵器のようだ。


 しかし――。


「油断? 違うよ。これはね、年の功っていうのよ、お嬢ちゃん」

「な――」


 プレハの手のひらの中には、七色の光が渦巻いていた。

 ディハザの突き出した拳を止めているのは、その光だ。


 いや、違う。

 プレハの発生させた魔法は、ディハザの拳を消滅させている。


 心優しきプレハの操る魔法。

 なにひとつ生み出せず、すべてを破潰することしかできない、彼女の奥義。


「――ディハザ。あなたの命はあたしが背負う。だから、安らかにお逝きなさい」

「あんたは――」


 ディハザは目を見開いた。

 間近で見たプレハの瞳に、圧倒される。

 悲しみも、怒りも、喜びも、愛も、憎しみも。この世に生きる人のすべての感情を内包したかのような瞳。

 なんという、深さか――。


 動けない。

 いや、あらゆる防御が、意味を為していない。

 こいつは――。


 極光に照らされ、プレハは目を細める。

 魔力の風にたなびく金髪は、星々の川のようだった。


「あたしはプレハ。かつて極大魔法師ウィザードと呼ばれていたけれど、――今はただのプレハよ」


 プレハの手のひらから膨れ上がった光は、ディハザを飲み込んだ。

 肉世界と、魔世界と、魂世界と、神世界。

 すべての存在を削り取る究極の力。――極大魔法。


 ――ディハザは光に掻き消される。

 その絶叫すらも無に還る――


 閉じたまぶたが世界を消すような夢想を、事象として引き起こす能力。

 すなわちこれが、アルバリススにおける魔法師の頂点。


 ただ風に吹かれ、そこには初めからなにも存在していなかったかのように。

 プレハは息をついて、額にかかる髪を指でわける。


「プレハお姉ちゃん……すごい……」


 夢でも見ているように、茫然とつぶやくリミノ。

 プレハは、そこでようやく少女じみた笑顔を浮かべた。

 誕生日にプレゼントをもらった幼女のような、笑顔であった。




 それからプレハは皆に、治癒法術を駆けて回った。


 頭を振りながら起き上がるアマーリエは、戦いの傷跡が残る痛々しい姿だったけれど。

 そんなものはまるで気にせず、アマーリエは神様を見るような目で、金髪の美女を見上げている。


「え、うそ、プレハ……さま?」


 アマーリエは自らの手が血に汚れているのに気付くと、それを慌てて服でこすった。

 かさぶたが剥がれ、新たな血が流れてゆく。

 しまったという顔をするアマーリエの手を、プレハが優しくさすった。


「ええ久しぶりね、アマーリエ。ずいぶん大きくなったじゃない」

「……あ、あたしのことを、知っているの? じゃ、じゃなくて、知っているんですか?」

「もちろんよ。あなたのおしめをかえたことだってあるんだからね?」


 アマーリエの頬が赤く染まってゆく。


「そ、そう、パパのこと……」

「そうよ、彼はまだ元気にしている?」

「あ、えと、パパはもう」


 プレハはただ穏やかにうなずく。


「そっか」


 デュテュも、プレハを見上げて、目をぱちぱちとしていた。

 小さく「……え、女神さま?」だなんて、つぶやいている。

 寝ぼけているのかもしれない。


 そうして、一番最後に――。

 プレハは、イサギの元にやってきた。


 彼は起き上がっていた。

 泥だらけ、すり傷だらけ。

 よくもまあ、こんなになるまで戦うものだ。

 一番ひどい傷じゃないか。


 プレハは法術を描く。


「……ん、あれ……」


 治癒法術を唱えようとしたそのコードがほどけて、宙に舞う。

 どうしてだろう。うまく集中ができなかった。

 彼の目が、自分を見つめていたからだ。

 平静を装っていたはずなのに、ドキドキしていた。

 年甲斐もなく、胸が高鳴る。


 しかしその若者は、予想外の言葉を口にした。


「助けてくれて、ありがとう。……君は?」

「……えと」


 冗談を言っているようではないらしい。

 若者は、困惑の表情を浮かべていた。

 彼のこんな顔が自分に向けられるだなんて、プレハも考えたことがなかったから。

 思わず言葉に詰まってしまった。


 そこで初めて、リミノが困ったように微笑んだ。


「あのね、お姉ちゃん……」

「うん?」


 リミノに事情を聞かされて。

 ――プレハは、すべてを思い出した。


 ずっと自分のそばにいてくれた、彼のことを――。



「そっかあ」


 彼はイサギ。紛れもなく勇者イサギだと知り、プレハの胸には様々な想いが去来していた。

 その想いのひとつひとつが大きすぎて、深すぎて。

 言葉に出すのは、とても難しかったけれど。


 でも最初に頭の中に浮かんだ言葉は、「よかった」だった。

 よかった。


 よかった。


 まさかイサギが記憶を失っていたとは思わなかったけれど。

 だが、生きていてくれた。

 生きていてくれたのだ。


 二十年前から、この世界に飛ばされた勇者イサギ。

 まさかそんなことになっていたとは。

 さすがに、予想はできなかった。

 いや、していたこともあったかな。


 けれど、まあ、いいか。

 よかった。


 イサギの右腕に刻まれた物々しい魔法陣。

 それを見たプレハは、微笑みながらイサギの頭に手を伸ばす。


「がんばったね、きみ、すごいね」


 イサギはわずかに驚き、そして不満そう口を尖らせた。


「……な、なんだよ、子ども扱いするなよ」

「えらいね」

「俺はそんなつもりで来たんじゃ……」


 プレハの手を振り払い、イサギはそっぽを向いた。


「俺はみんなを助けるために来たのに、でも、徒労だった。俺は、彼女たちを助けることができなかった。……俺は無力だ」

「……」


 拳を握るイサギを見て、プレハは胸の内が温かくなる。

 どうしてだろう。

 彼の考えていることが今、手に取るようにわかる。


 自分の無力を嘆き、悔やみ、いつだって苦しそうな顔をしていた彼。

 彼がいるのだ。

 ここにいるのだ。

 この手の触れられる距離に、いるのだ。


 ああ、なんだろうこの感じ。

 突っ張った男の子を前にした、あの頃の自分が我が身に帰ってきたようだ。


 すごく、――懐かしい。


「君は精一杯頑張ったよ。だからもういいんだよ」

「……」

「大変だったでしょう。つらかったでしょう。でも、いいんだよ。君の頑張りは、みんながよくわかっているよ」


 プレハはイサギを抱き寄せる。

 その肩に、背に、触れる。

 熱い。


 今度は、抵抗されなかった。

 彼はされるがままだ。


 若者のその目から、涙が一粒、落ちた。


「これは、違う」

「うん」

「……ちょっと目から水がこぼれただけだ」

「うん、そうだね?」

「笑ってんなよな」

「ごめんね、男の子だもんね」


 しばらくプレハは、イサギの頭を抱きしめていた。

 もう二度と離さない――とでも言うように。


「ずっとずっと、がんばってきたんだもんね」

「……え?」

「生きていてくれて、ありがとう」

「……」


 プレハもまた、微笑みながら涙を流していた。

 だが、イサギはなにも言わない。


 ふたりもなにも言わず。

 彼らはただ、抱き合う。


 その場の誰もが、言葉を挟むことはできなかった。

 長い勇者譚のエンドロールのように。

 今このときを邪魔するものはどこにもいない。


 ――ただふたりだけの時間が流れていた。


 

 次回更新日:5月1日

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