13-8 極光
そこに光はない。
リミノは暗闇の中で、目を覚ました。
自分は一体。
頭が痛い。体が痛い。ああ、痛い、痛い。
痛みの奥の記憶を、リミノは引きずり出す。
……ああ、思い出してきた。
ディハザにやられてしまったんだ。
最終禁忌と化した彼女は、とてつもない強さだった。
戦いの記憶は、ほとんどない。
ただ圧倒されたということだけを、覚えている。
魔術も法術も、アマーリエの剣技もデュテュの魔舞も通用しなかった。
滅茶苦茶にやられてしまった。
まるで歯が立たなかった。
なのに――。
疑問が浮かぶ。
どうして自分は生かされているんだろう。
全身に焼けるような痛みがあった。感覚のない器官もあった。よっぽどひどい状態になっているようだ。
――でも、まだ生きている。
ディハザに叩きのめされたのに? どうして。
あの女は愉悦のために人を殺し、愉悦のために人を活かす存在だ。
その行動理念など、自分に理解できるはずもないが。
暗がりに目が慣れてきた。
ここは、牢屋か。
寒いのか、熱いのか、わからない。
じんじんと体が痛む。
かつん、かつん、と誰かが近づいてくる音がした。
どうしよう。術式は使えるのだろうか。
詠出術を用いてコードを描くと、それも問題なく行なうことができた。
これなら身を守ることもできる。できるのだが……。
なぜディハザはリミノを五体満足で生かしておいたのか、わからない。
改めて処刑する気か……?
そう思って身を固くしていると、揺れる火が近づいてきた。
警戒しながら待つ、すると――。
「……姫様」
ささやくような声が、聞こえてきた。
顔をあげる、と――。
「……エウレ?」
「はい、姫様」
ランプを持ったエウレが顔を出した。
リミノを見た彼女は、わずかな驚きに目を見張っていた。
聡いリミノは頬に手を当て、はにかんで笑う。
「ああ、リミノ、変な顔になっている? そうだよね、ボッコボコにやられちゃったんだもんね……」
「……いえ、姫様は綺麗なままですよ。それよりも」
エウレは牢屋の鍵を外す。
「お逃げください、姫様。ディハザはおりません」
「え……?」
「今のうちです」
慌てた様子の彼女に急かされて、リミノは牢屋から這い出してきた。
腰を折って這うと、さらに痛みが強くなった。
「いてて……なんか、うまく歩けないな……」
「ご辛抱ください、姫様」
そうだ、あのディハザに負けたというのに、この程度の怪我で済んでいるのが幸いなのだ。
そう思わなくてはならないだろう。
足を引きずるようにして、リミノはエウレのあとをついてゆく。
聞くべきだろうか、聞かざるべきだろうか。
いいや、リミノは迷わなかった。
「ねえ、エウレ。アマーリエとデュテュさまは、どうなったの?」
「……」
リミノの問いに、エウレは応えなかった。
それだけで、リミノは意味を察し、うなずく。
「……そう、なんだ」
そうか。
そうなってしまったのか。
「わたしが助けられたのは、姫様だけです」
「……」
皆、死を覚悟してここに来た。
だから、そうなってしまうのも、仕方ないのかもしれない。
かもしれないけれど……。
ただ、ただ、悲しかった。
エウレはそれきり、黙る。
リミノは歩きながら、俯いていた。
「……ディハザはどこに向かったの?」
「さあ、わかりません。あの人は、人間族が殺される現場を見るのが大好きですから、街へいったのかもしれません」
「リリアノお姉ちゃんと、エウレだけを残して?」
「ええ、他にも、たくさんの巨人もいますが」
エウレは自ら話し出そうとはしなかった。
思いつめたような顔をしていた。
そんな彼女に、リミノが問う。
「エウレは、お姉ちゃんが生きていて、嬉しかった?」
「……」
困る問いであっただろう。
エウレの逡巡の気配が伝わる。
「……ええ、嬉しかったですよ」
「そう、なんだ。リミノもね、嬉しかったよ」
「はい」
「やっぱり、命って大事だね。あんな風になっていても、お姉ちゃんだって、ちゃんと思えるんだもの」
「……そうですね」
エウレは自分を助けてくれたけれど、彼女の立ち位置がわからないからこそ、リミノは余計なことを言えない。
どんな情報がディハザに伝わるかわからない。
だが、リミノは口を開く。
それは彼女が今さら、命に頓着していなかったからかもしれない。
「エウレは、お姉ちゃんがあのままでも、構わないの?」
「……わたしは、私事を挟むわけにはいきません。わたしはただ、仕えるのみです」
「そうだよね、エウレは昔から、変なところで頑固だったよね」
「……」
「ありがとう、エウレ。お姉ちゃんのそばにいてくれて」
「……姫様」
そこで初めて、エウレの声に感情が混ざった。
悔しそうな、それでいて悲しそうな声だった。
「わたしにできることはもう、リリアノさまのおそばにいること、だけですから」
「……そうなんだ」
「ええ、もうわたしのお言葉も届きません。ならばせめて、最後まで見届けることだけしか、できません」
「エウレ、ありがとう」
「……いえ、お礼を言われるいわれは、どこにもございません。わたしに言いたいこともたくさんあると思いますが、今はご自身が助かるために最善を尽くしてください」
「う、うん……。ありがとうね、エウレ」
振り返ってきたエウレは、目を丸くする。
「わたしは……。リミノさまを裏切ったようなものですから……」
「でも、こうして助けに来てくれたでしょ?」
「……それはまず、助かってからです。さ、こちらへ」
リミノの手を引くエウレ。
だがその感触に、彼女は慌ててリミノの手を離した。
「あ痛っ……」
「す、すみません」
リミノの手首には、血がこびりついていた。
――それを見た瞬間、エウレの張り詰めていたものが切れたのだろう。
エウレの頬を一筋の涙が落ちた。
それはもうとまらない。
彼女は童女のように泣き続けた。
「ちょ、ちょっとエウレ、大丈夫だよ、そんなに痛くないよ」
「いえ、そうではないんです……。ただ、わたしは姫様になんてことをしたのだろうと思って……」
エウレはリミノを先導しながら、ぽつりぽつりと語る。
「リリアノさまの無念が晴れればそれでいいと思い、付き従ってまいりましたが……ですが、あの方のやっていることは、もはや虐殺です……」
「……」
「わたしはあの方を助けてあげたかった。それができなかったのです」
エウレの涙は止まっていた。
だが彼女は悲しみを引き連れて、暗く寂しい迷宮を庭のように歩く。
「出すぎた真似でも、体を張って止めればよかった。それだけをわたしは後悔しております」
「エウレ……」
「だからこそ、リミノさまだけは、なんとしてでもお救いいたします」
それはエウレの決意だったのだろう。
曲がりくねった狭い通路を歩みながら、リミノはハッとした。
「ねえ、エウレ。あなたは極大魔晶を見ていなかった?」
「え?」
「極大魔晶。人の形をしたものだよ。見たでしょう? お兄ちゃんが大事にしていたあの像が、運び込まれてはいない?」
「……それは」
エウレは視線を揺らす。
心当たりがあるのだ。
だが、彼女は渋っている。
それはなぜか。リミノの命を――置かれた状況を慮っているからだ。
「ですが、姫様。今は時間が」
「うん、ありがとう、エウレ。だったら手伝って!」
リミノは足を引きずりながら、滅びた宮殿を走った。
地面を踏みしめるたびに走る激痛は、この貴重な時間の代償としては安すぎるほどであった。
リーンカーネイションを横切り、さらに辺りを駆け回る。
エルフ族の宮殿は、リミノが暮らしてきた場所だ。誰よりもこの場所の構造に詳しい自負はあった。
――そして、リミノたちは見つけ出した。
小部屋の中。簡易的な台に寝かせられた、プレハの姿を、だ。
彼女は女神のように安らかな顔で眠っていた。
まつ毛すらもピンと伸びていて、今にも目を覚ましそうなプレハであった。
リミノは思わずその場にしゃがみ込む。
「やった、あった……」
噛み締めるように、つぶやいた。
彼女を持ち帰るために、リミノたちはこの迷宮にやってきたのだ。
それが叶った。
いや、実際はまだだ。今から脱出をしなければならない。
それでも、わずかに報われたような気がしてしまった。
よし。
まだ大丈夫、動ける。
「エウレ、いこ」
「……はい、姫様」
プレハは自分で背負うことにした。
エウレは心配そうに見ていたが、リミノは彼女に微笑み返す。
命の重さを、今は感じていたかったのだ。
プレハの足を引きずらないように、気を付けて背負わないと。
リミノは改めて上へと向かう。
背中から伝わる体温は温かくて、プレハは今にも目を覚ましそうで。
それがなんだか嬉しくて、切なくて。
体のあちこちは痛くて、泣きそうになったけれど。
リミノは、暗闇の階段を、ひたすらに上り続けた。
弱音は吐かなかった。
目がかすむ。
自分が今どこにいるのか、わからなくなってきた。
「……エウレ、あとどれくらい?」
「もうすぐです、姫様。ご辛抱ください」
「……うん、がんばるね、エウレ」
「はい」
デュテュやアマーリエのことはなるべく、考えないようにした。
彼女たちがどうなったかは、後にわかるだろう。
今はとりあえず、その想いを叶えるべきだ。
プレハの救出が、最優先なんだ。
そう自分に言い聞かせた。
上へと向かう。
その先には、巨人の力に満ちた赤い空しかないだろうけれど。
でも、外に出れば、きっと助かる。
自分じゃなくて、イサギが助かるんだ。
そのために、リミノは足を動かした。
死体のような体を引きずって。
死体のような目で、外界へとゆくのだ。
大丈夫。
ダイナスシティに帰れば、そこにはイサギが待っている。
まずは馬車の元まで戻ろう。
大丈夫。
歩ける。
エウレもいてくれるんだ。
痛い。
歩くたびに、神経に針が刺し込まれたような激痛が走る。
体中が腫れていて、もうどこが無事なのかもわからない。
それでも、歩く。
空を目指して。
歩く。
お兄ちゃんが待っている。
歩く。
階段を上り、鉛のように重い体を動かして。
歩く。
背負ったプレハの体が重い。
だが、それは大切な重さだ。
これが人ひとりの命なのだ。
誰かを救うということだ。
イサギはきっと、こんな思いを繰り返してきたのだ。
早く、イサギに会いたかった。
「もうすぐだから、お姉ちゃん……もうすぐ……」
さあ、迷宮の出口が見えてきた。
井戸の底から空を見上げたような光が。
差し込んできて、思わずリミノは目を細めた。
ああ、もうすぐだ。
もうすぐ、外に出られる。
リミノのかすむ視界に、ぼんやりと浮かぶ情景。
それは、かつて見た景色であった。
魔王城の中庭で、穏やかに談笑する人々。
イサギがいて、デュテュがいて、どうしてかメイド服を着た自分がいる。
愁がいて、廉造がいて、慶喜がいて、皆、楽しそうに笑っている。
ロリシアがいて、シルベニアがいて、イラがいて、キャスチがいて。
なぜかそこにアマーリエもいて、仲の良い人々がいて。
ああ、いい。
そうしていられたら、どれだけよかったか。
そして、目を凝らす。
イサギの隣には――。
法衣をまとった、輝かしき金髪の彼女がいる――。
なんて幸せなんだろう。
イサギが、心の底から微笑んでいてくれるだなんて。
ああ、胸が熱くなる。
彼が幸せそうなら、もう、言葉はない。
魔王城の、本当に心地良かった日々を想う。
またあの日に、きっと戻れるはずだと。
リミノは、願う。
だから、歩こう。
もうすぐ――。
ほら、あと少しで――。
景色が開けた。
――次の瞬間。
「だから言ったでしょう? リリアノ。ほぉら、エウレは裏切るって、あたしの言うとおりでしょう?」
迷宮を出たところ。
生い茂る木々の隙間の空間。
椅子に座って紅茶を飲むリリアノと、ディハザがいた。
プレハを背負ったまま、リミノはその場に膝をついた。
この身が砂のように崩れ落ちてしまいそうだった。
「アマーリエ……、デュテュさま……?」
ディハザの足元には、ふたりが転がっていた。
どちらもリミノと同じか、それ以上に満身創痍だ。
どうしてディハザはこんなところまで、ふたりを運んできたのか。
ふたりの勇敢なる女性をまるで足置きのようにしながら、ディハザは哂っていた。
エウレはわずかに腰を屈める。
「リリアノさま、ディハザ……」
「あたしから逃げられるとでも思っているの? それってどういう了見?」
「……わたしをおびき出すために、出かけていると言ったんだね、ディハザ」
エウレの言葉に、リリアノは悲しそうに首を傾げていた。
「私はあなただけは信じていたのよ、エウレ」
「……リリアノさま」
横を見やれば、リミノは茫然としている。
もはや彼女に戦う能力がないことは、明白であった。
それでもプレハを背負ったままでいるのは、もはや執念か。
何度も何度も不義理を繰り返してきた自分だが。
もう次はない――。
廃城と化したミストランド城にて、エウレは息を深く吸いこんだ。
絶体絶命のこの状況。
それでも、言わなければならない。
「リリアノさま、申し上げます」
「どうしたの? エウレ」
エウレはかしずいた。
「リリアノさまのやろうとしていることは、間違っています……。エルフ族の痛みを、人間族に味わわせようなど……。母君が聞いたら、どんなに悲しむことか……」
「大丈夫よ、エウレ。母様は死んだわ」
「……リリアノさま、人間族にも罪のない方はいます。どうか、正気に戻ってください」
「そうね」
リリアノはわずかに考える素振りをした。
彼女は立ち上がり、ゆっくりとこちらに向かって歩いてきている。
エウレはさらに訴えた。
「エルフ族にも、人間族にも、魔族にも、ピリル族にも、それ以外の者たちだって、良い者と悪い者はおります! わたしは捕まっていた間、エディーラの宿にて優しくしていただきました! あの方々たちがいなければ、今こうして姫様とお話することも叶わなかったでしょう! ですから、姫様!」
「そうね。――でもそれがなに?」
「……え?」
エウレを襲ったのは、顔面への強い痛みだった。
リリアノが靴の裏で、エウレの後頭部を押さえつけたのだ。
「いい人も悪い人も、いるでしょうね。でも皆、エルフ族を助けてはくれなかったわ。だったら意味がないじゃない。みんな滅ぶべきよ。魔族もピリル族もドラゴン族も人間族もみーんな。それこそが戒めよ。それこそが報いだわ」
「それは違います、姫様!」
踏みつけられたままで、エウレは必死に叫ぶ。
だが、声は届かない。
ディハザが笑っていた。
「いいわ、いいわ、それこそよ。いいじゃない、リリアノ。もっともっと恐怖をばらまいてあげましょう。その果てに死んだあなたの亡骸は、あたしが看取ってあげるわ」
手を叩いて喜ぶディハザの目論見はわかっている。
彼女は恐らく、その同化術と極大魔晶を用いて、完全な形でリリアノをも吸収しようとしているのだ。
召喚術のキーである彼女を取り込めば、ディハザはもしかしたら――赤い巨人を自由に使役することもできるようになるかもしれない。
そうなってしまっては、今度こそ、アルバリススはおしまいだ。
「姫様!」
「ああ、うるさいわよね、本当に、あの娘。殺しちゃえばいいのよ、リリアノ。でも神族はエルフ族を傷つけられないから、あたしにお願いしなさい。そうしたら秒殺してやるわ」
椅子から降りたディハザが、リリアノの頬を撫でる。
リリアノはエウレの頭から足を離し、正気を失った目で命じる。
「そうね、ディハザ……。エウレは殺しましょうか」
「姫様……」
エウレは愕然とした。
すぐにその目が、真っ赤に燃える。
「姫様をあなたの好きにはさせません、ディハザ」
「残念。そのためには力が必要だわぁ。あなたにはその力はある? あるわけがないわよねぇ?」
エウレは腰から短剣を引き抜き、ディハザに斬りかかる。
だが、それはまさに大人と子供の勝負であった。
アマーリエ、デュテュ、リミノの三人がかりでも彼女を倒すことはできなかったのだ。
今さらエウレが逆らったところで、形勢はなにひとつ変わらない。
「……エウレ……」
力なく佇むリミノの前、エウレが蹴り転がされてゆく。
だが命までは奪わない。それがディハザのやり方か。
彼女は獲物を弄ぶようにして、自らの加虐心を満たすのだ。
「あーっはっはっは、弱い、弱いわぁ! まったく、意味がない! なんの価値もない! 死ぬしかないわねぇ!」
頬に手を当てて笑うディハザに、しかしリミノは歯を食いしばった。
「あんた、なんて……っ」
「なぁに?」
リミノが叫ぶ。
「あんたなんて、お兄ちゃんよりずっと弱いくせに!」
「へえ」
眉を吊り上げて哂うディハザに、リミノは心の火を燃やす。
プレハを背負っているというその事実が、リミノに勇気をくれた。
「もしここにお兄ちゃんがいたら、あんたなんて、あんたなんてあっという間に倒されるんだからね……! そんな、正義もない、義憤もない、愛もない、矜持もない、志もない、勇気もない! あんたの力なんて、全部まがい物よ! 偽物よ! そんな誰かから与えられた程度の力で、お兄ちゃんに勝てるわけがないんだから! もう、死んじゃえばいいのに!」
ディハザは静かに両手を広げ、そして手のひらで指し示した。
「それで、あなたの言っている『お兄ちゃん』って言うのは」
指を鳴らす。
「――こいつのこと?」
パァンと空間が弾けた。
木に偽装して、隠されていた。
そこには彼がいた。
いるはずもない、彼が。
「――」
イサギがいた。
ぞんぶんに痛めつけられた姿で。
意識も失ったような顔で。
いた。
リミノの表情が。
先ほどまで怒りに震えていた彼女が。
喉から空気を奪われたように。
一秒ごとに、蒼白へと変わってゆく。
そしてリミノはついにプレハをその場に落とした。
どさり、とまるで死体のようにプレハは横たわる。
ディハザの口から、笑いが弾けた。
これだ。
――これが見たかったのだ。
「あーっはっはっは! なんて滑稽! なんて雑魚! あんな力でなにをしにきたのよ! 半死人じゃないの!」
イサギの指がわずかに動く。
その彼を見るリミノの視界は、にじんでゆく。
「想いがあればなんでもできるって思ってた!? ばっかじゃないの!? あんたの仲間もバカだけど、こいつが一番バカだったのね!」
生かさず殺さず。
そう仕向けたディハザの叫びを聞いて。
意識を失っていたはずのイサギの腕が、動く。
ぴくりと震え、その顔は上を向く。
なにをしようとしているのか。
すぐにわかった。
――イサギは泥まみれになりながらも、立ち上がろうとしていた。
彼の目は、ただ前だけを見据えていた。
「なぁに、そんな顔で立ち上がって! あたしに勝てるとでも思っているの? 無理無理無理無理、何万回、何億回やっても無理よ!」
ディハザは手を叩いて笑う。
イサギのすべてを侮辱する。
「あー弱い弱い! こんなに弱すぎると、殺さないように手加減してあげるのも大変だわぁ! まったくもう、弱すぎて疲れちゃう!」
それでも。
それでも。
イサギは立ち上がった。
立ち上がったのだ。
「……まだ、勝負は……ついて、いない」
そう言い張りながら、根本から折れた鋼の剣をたずさえて。
ディハザを倒すためだけが己の使命だと言わんばかりに。
「俺は、もう逃げない……。皆を連れて、帰るんだ……」
ひたむきに。
彼を前に、ディハザは哂う。
「いいわ、そろそろどこかを吹き飛ばしてあげましょうかぁ。指を一本ずつ折り剥ぎもぎ取られて、それでも同じことを言えたそのときは、今度はいっそ目玉かしらねぇ?」
「……それでも俺は、戦うさ……。当たり前、だろう……」
なんと愚直な。
その姿を見て、リミノは涙を流していた。
「お兄ちゃん……! もう、やめて……。もう、大丈夫だから……。戦わないで、お願い……」
「……いやだ。もう閉じ籠っているのは、いやなんだ」
握力がなく、ボロボロの手だ。
爪もいくつかは、剥がれていた。
きっと必死で戦ったのだろう。
それでも彼は、どうして彼は――。
「なにが力が必要よ……お兄ちゃんは、あんたなんかより、よっぽど強いよ……」
ディハザには理解ができない。
リミノの言葉を負け犬の遠吠えとあざ笑う。
「……へえ? この雑魚が?」
「絶対に勝てない相手に立ち向かっていく強さが、あんたにはわからないんだよ! 勝ち目がないのに、それでも戦うなんて、できないでしょ!」
「できるわけがないわね! そんな愚かな行為は!」
ディハザは哄笑する。
リミノが怒鳴った。
「だからあなたは、いつまで経っても三流なんだ!」
その瞬間。
ディハザは笑うのをやめる。
恐ろしいほどの無表情で、彼女はつぶやいた。
「ならいいわ。報いはあなたの心が味わうがいい。あたしがこの男を殺すのを見ていなさい」
「――」
リミノは手を伸ばす。
だが間に合わない。
ディハザは殺意を持ってイサギに向かう。
彼が殺される。
イサギは歯を噛みしめながら剣を構える。
「俺は、こんなところで死ぬわけには――!」
「あんたの意志なんて、関係がないのよ!」
ディハザの繰り出したつま先が、イサギの腹へと向かう。
貫こうと突き出したその蹴りは――。
――間に入っていたエウレが、受け止めていた。
「エウレ!」
ディハザの足が、エウレの腹に突き刺さっている。
腹を破られながらも、彼女は濡れた瞳で訴えようと。
ディハザの向こうに立つ自らの主人に、血に濡れた指を伸ばす。
「姫様……どうか、あの頃の優しい姫様に……」
ぽたりぽたりと血がこぼれた。
ディハザが足を引き抜いた直後、エウレはごぼりと吐血する。
その様子を見たリリアノは、目を見開き。
「あの頃?」
そして――首を傾げた。
「――どの頃かしら?」
貞淑に微笑む。
巨人を喚び出した、神族の主――。
彼女は道理を真っ二つに両断するように、酷薄に告げた。
「――ごめんなさい、忘れちゃったわ」
「アーッハッハッハ!」
ディハザが再び笑う。
「最高だわ、リリアノ。なにもかも、台無しね! 雑魚がなにをしても変わらないのよ! 世界を動かすのは常に力だわ!」
なにもかもが、台無し。
その言葉は、強く、強くリミノの脳を揺らした。
こんなことって、ない。
誰もが願い、平和を愛していたはずなのに。
どうしてこんなことになってしまうのか。
ここには、愛がない。
ひどい――。
「どうして、どうしてなの……。エウレ……。あなたが身を差し出すことなんて……。せっかく、大戦を生き延びてくれたのに……」
リミノは必死に治癒術を唱える。
だが、彼女の身にすらも魔力はほとんど残っていなかった。
手のひらから霧散して消える魔力の欠片は、まるで命のようだ。
この手から、一秒ごとに命が零れ落ちてゆく。
だめだ、魔力が、ない。
自分ではこのまま死んでゆくエウレを、助けられない。
ああ。
こんなことって。
ひどい。
こんなの、ない。
「うおおおおお!」
イサギが叫ぶ。
彼はついに鋼の剣を捨て、クラウソラスを抜いた。
さすがにディハザの身が一瞬だけ強張る。
だが――。
神剣は、応えては、くれない。
ただ重いだけの剣を振り下ろしたところで、それはたやすくディハザに奪われた。
またひとつ、希望の明かりが握り潰されたような気がした。
「は、こんなナマクラ、よく下げているわね!」
その辺の石ころを蹴飛ばすように、ディハザはイサギの顎を蹴った。
「すぐに同じところに送ってやるわ」
もうやめて。
これ以上、ひどいことをしないで。
どうしてこんなことをするの。
ただ自分たちは、平和を願っていただけなのに。
リミノの願いは、叶うはずもない。
なぜならこの世界は、力こそがすべてであるからだ。
「どうして……こんな、こんなことに……」
誰か。
お願い。
誰か。
お願いだから。
デュテュやアマーリエは、まだ意識を取り戻してはいない。
リリアノは、微笑んでいる。
ここには誰もいない。
誰も。
「お願い、誰かお兄ちゃんを助けて……。誰か……」
どうして自分には力がないのか。
想いは叶わないのか。
国が滅ぼされたときからも、ずっと問いかけていた。
愛で世界が救えないことなど、とうに知っていたはずなのに。
リリアノは力を求めた。
リミノもそうすればよかったのか。
そうしたら、イサギを救えていたのか。
救えていたのなら。
「さぁて、死になさい」
ディハザがイサギの頭を摑んで持ち上げる。
その光景が涙の向こう側に見える。
「お兄ちゃん……。やめて、リミノの命ならあげるから、だから、やめて……お姉ちゃん、止めて……」
助けて。
助けて。
彼を助けて。
リリアノにも届かない声。
誰にも。
誰にも――。
ふと、リミノは目を見開いた。
いない。
『彼女』が、なぜ。
どうして――いない?
誰かが持ち去った?
いつの間に?
いや、そんなことより今は――。
そう思った瞬間。
辺りに閃光が走った。
七色に溶けてゆく景色の中で、ディハザがなにかをわめいている。
その光は、温かかった。
決して敵ではない。
これは、そうだ、これは――。
光はすぐに収束する。
まるで万物誕生のような輝きは、彼女の手の中にあった。
すっ、と。
リミノの隣に、立つ影だ。
「ん、なるほどね」
ひとりの女性がいた。
金色の髪をなびかせて立つ、法衣姿の女性だ。
彼女は腕組みをしながら、人差し指を一本立てる。
「あれが悪者ってわけね? リミノ」
「――」
プレハであった。
──次回更新日、4月24日21時。