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勇者イサギの魔王譚  作者: イサギの人
Episode:13 おかえりなさい、あたしの勇者さま
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13-8 極光

 そこに光はない。

 リミノは暗闇の中で、目を覚ました。


 自分は一体。

 頭が痛い。体が痛い。ああ、痛い、痛い。

 痛みの奥の記憶を、リミノは引きずり出す。


 ……ああ、思い出してきた。

 ディハザにやられてしまったんだ。


 最終禁忌と化した彼女は、とてつもない強さだった。

 戦いの記憶は、ほとんどない。

 ただ圧倒されたということだけを、覚えている。

 魔術も法術も、アマーリエの剣技もデュテュの魔舞も通用しなかった。

 滅茶苦茶にやられてしまった。

 まるで歯が立たなかった。


 なのに――。


 疑問が浮かぶ。

 どうして自分は生かされているんだろう。

 全身に焼けるような痛みがあった。感覚のない器官もあった。よっぽどひどい状態になっているようだ。


 ――でも、まだ生きている。


 ディハザに叩きのめされたのに? どうして。

 あの女は愉悦のために人を殺し、愉悦のために人を活かす存在だ。

 その行動理念など、自分に理解できるはずもないが。


 暗がりに目が慣れてきた。

 ここは、牢屋か。

 寒いのか、熱いのか、わからない。

 じんじんと体が痛む。


 かつん、かつん、と誰かが近づいてくる音がした。


 どうしよう。術式は使えるのだろうか。

 詠出術を用いてコードを描くと、それも問題なく行なうことができた。

 これなら身を守ることもできる。できるのだが……。


 なぜディハザはリミノを五体満足で生かしておいたのか、わからない。

 改めて処刑する気か……?

 そう思って身を固くしていると、揺れる火が近づいてきた。


 警戒しながら待つ、すると――。


「……姫様」


 ささやくような声が、聞こえてきた。

 顔をあげる、と――。


「……エウレ?」

「はい、姫様」


 ランプを持ったエウレが顔を出した。

 リミノを見た彼女は、わずかな驚きに目を見張っていた。

 聡いリミノは頬に手を当て、はにかんで笑う。


「ああ、リミノ、変な顔になっている? そうだよね、ボッコボコにやられちゃったんだもんね……」

「……いえ、姫様は綺麗なままですよ。それよりも」


 エウレは牢屋の鍵を外す。


「お逃げください、姫様。ディハザはおりません」

「え……?」

「今のうちです」


 慌てた様子の彼女に急かされて、リミノは牢屋から這い出してきた。

 腰を折って這うと、さらに痛みが強くなった。


「いてて……なんか、うまく歩けないな……」

「ご辛抱ください、姫様」


 そうだ、あのディハザに負けたというのに、この程度の怪我で済んでいるのが幸いなのだ。

 そう思わなくてはならないだろう。


 足を引きずるようにして、リミノはエウレのあとをついてゆく。

 聞くべきだろうか、聞かざるべきだろうか。

 いいや、リミノは迷わなかった。


「ねえ、エウレ。アマーリエとデュテュさまは、どうなったの?」

「……」


 リミノの問いに、エウレは応えなかった。

 それだけで、リミノは意味を察し、うなずく。


「……そう、なんだ」


 そうか。

 そうなってしまったのか。


「わたしが助けられたのは、姫様だけです」

「……」


 皆、死を覚悟してここに来た。

 だから、そうなってしまうのも、仕方ないのかもしれない。

 かもしれないけれど……。


 ただ、ただ、悲しかった。


 エウレはそれきり、黙る。

 リミノは歩きながら、俯いていた。


「……ディハザはどこに向かったの?」

「さあ、わかりません。あの人は、人間族が殺される現場を見るのが大好きですから、街へいったのかもしれません」

「リリアノお姉ちゃんと、エウレだけを残して?」

「ええ、他にも、たくさんの巨人もいますが」


 エウレは自ら話し出そうとはしなかった。

 思いつめたような顔をしていた。


 そんな彼女に、リミノが問う。


「エウレは、お姉ちゃんが生きていて、嬉しかった?」

「……」


 困る問いであっただろう。

 エウレの逡巡の気配が伝わる。


「……ええ、嬉しかったですよ」

「そう、なんだ。リミノもね、嬉しかったよ」

「はい」

「やっぱり、命って大事だね。あんな風になっていても、お姉ちゃんだって、ちゃんと思えるんだもの」

「……そうですね」


 エウレは自分を助けてくれたけれど、彼女の立ち位置がわからないからこそ、リミノは余計なことを言えない。

 どんな情報がディハザに伝わるかわからない。


 だが、リミノは口を開く。

 それは彼女が今さら、命に頓着していなかったからかもしれない。


「エウレは、お姉ちゃんがあのままでも、構わないの?」

「……わたしは、私事を挟むわけにはいきません。わたしはただ、仕えるのみです」

「そうだよね、エウレは昔から、変なところで頑固だったよね」

「……」

「ありがとう、エウレ。お姉ちゃんのそばにいてくれて」

「……姫様」


 そこで初めて、エウレの声に感情が混ざった。

 悔しそうな、それでいて悲しそうな声だった。


「わたしにできることはもう、リリアノさまのおそばにいること、だけですから」

「……そうなんだ」

「ええ、もうわたしのお言葉も届きません。ならばせめて、最後まで見届けることだけしか、できません」

「エウレ、ありがとう」

「……いえ、お礼を言われるいわれは、どこにもございません。わたしに言いたいこともたくさんあると思いますが、今はご自身が助かるために最善を尽くしてください」

「う、うん……。ありがとうね、エウレ」


 振り返ってきたエウレは、目を丸くする。


「わたしは……。リミノさまを裏切ったようなものですから……」

「でも、こうして助けに来てくれたでしょ?」

「……それはまず、助かってからです。さ、こちらへ」


 リミノの手を引くエウレ。

 だがその感触に、彼女は慌ててリミノの手を離した。


「あ痛っ……」

「す、すみません」


 リミノの手首には、血がこびりついていた。

 ――それを見た瞬間、エウレの張り詰めていたものが切れたのだろう。


 エウレの頬を一筋の涙が落ちた。

 それはもうとまらない。

 彼女は童女のように泣き続けた。


「ちょ、ちょっとエウレ、大丈夫だよ、そんなに痛くないよ」

「いえ、そうではないんです……。ただ、わたしは姫様になんてことをしたのだろうと思って……」


 エウレはリミノを先導しながら、ぽつりぽつりと語る。


「リリアノさまの無念が晴れればそれでいいと思い、付き従ってまいりましたが……ですが、あの方のやっていることは、もはや虐殺です……」

「……」

「わたしはあの方を助けてあげたかった。それができなかったのです」


 エウレの涙は止まっていた。

 だが彼女は悲しみを引き連れて、暗く寂しい迷宮を庭のように歩く。


「出すぎた真似でも、体を張って止めればよかった。それだけをわたしは後悔しております」

「エウレ……」

「だからこそ、リミノさまだけは、なんとしてでもお救いいたします」


 それはエウレの決意だったのだろう。



 曲がりくねった狭い通路を歩みながら、リミノはハッとした。


「ねえ、エウレ。あなたは極大魔晶を見ていなかった?」

「え?」

「極大魔晶。人の形をしたものだよ。見たでしょう? お兄ちゃんが大事にしていたあの像が、運び込まれてはいない?」

「……それは」


 エウレは視線を揺らす。

 心当たりがあるのだ。

 だが、彼女は渋っている。

 それはなぜか。リミノの命を――置かれた状況を慮っているからだ。


「ですが、姫様。今は時間が」

「うん、ありがとう、エウレ。だったら手伝って!」


 リミノは足を引きずりながら、滅びた宮殿を走った。

 地面を踏みしめるたびに走る激痛は、この貴重な時間の代償としては安すぎるほどであった。


 リーンカーネイションを横切り、さらに辺りを駆け回る。

 エルフ族の宮殿は、リミノが暮らしてきた場所だ。誰よりもこの場所の構造に詳しい自負はあった。


 ――そして、リミノたちは見つけ出した。

 小部屋の中。簡易的な台に寝かせられた、プレハ(きょくだいましょう)の姿を、だ。

 彼女は女神のように安らかな顔で眠っていた。

 まつ毛すらもピンと伸びていて、今にも目を覚ましそうなプレハ(きょくだいましょう)であった。


 リミノは思わずその場にしゃがみ込む。


「やった、あった……」


 噛み締めるように、つぶやいた。

 彼女を持ち帰るために、リミノたちはこの迷宮にやってきたのだ。

 それが叶った。

 いや、実際はまだだ。今から脱出をしなければならない。

 それでも、わずかに報われたような気がしてしまった。


 よし。

 まだ大丈夫、動ける。


「エウレ、いこ」

「……はい、姫様」


 プレハは自分で背負うことにした。

 エウレは心配そうに見ていたが、リミノは彼女に微笑み返す。

 命の重さを、今は感じていたかったのだ。

 プレハの足を引きずらないように、気を付けて背負わないと。



 リミノは改めて上へと向かう。


 背中から伝わる体温は温かくて、プレハは今にも目を覚ましそうで。

 それがなんだか嬉しくて、切なくて。


 体のあちこちは痛くて、泣きそうになったけれど。

 リミノは、暗闇の階段を、ひたすらに上り続けた。


 弱音は吐かなかった。

 目がかすむ。

 自分が今どこにいるのか、わからなくなってきた。


「……エウレ、あとどれくらい?」

「もうすぐです、姫様。ご辛抱ください」

「……うん、がんばるね、エウレ」

「はい」


 デュテュやアマーリエのことはなるべく、考えないようにした。

 彼女たちがどうなったかは、後にわかるだろう。

 今はとりあえず、その想いを叶えるべきだ。

 プレハの救出が、最優先なんだ。

 そう自分に言い聞かせた。


 上へと向かう。

 その先には、巨人の力に満ちた赤い空しかないだろうけれど。

 でも、外に出れば、きっと助かる。

 自分じゃなくて、イサギが助かるんだ。


 そのために、リミノは足を動かした。

 死体のような体を引きずって。

 死体のような目で、外界へとゆくのだ。


 大丈夫。

 ダイナスシティに帰れば、そこにはイサギが待っている。

 まずは馬車の元まで戻ろう。

 大丈夫。

 歩ける。

 エウレもいてくれるんだ。


 痛い。

 歩くたびに、神経に針が刺し込まれたような激痛が走る。

 体中が腫れていて、もうどこが無事なのかもわからない。

 それでも、歩く。


 空を目指して。

 歩く。


 お兄ちゃんが待っている。

 歩く。


 階段を上り、鉛のように重い体を動かして。

 歩く。


 背負ったプレハの体が重い。

 だが、それは大切な重さだ。

 これが人ひとりの命なのだ。

 誰かを救うということだ。

 イサギはきっと、こんな思いを繰り返してきたのだ。

 早く、イサギに会いたかった。


「もうすぐだから、お姉ちゃん……もうすぐ……」


 さあ、迷宮の出口が見えてきた。

 井戸の底から空を見上げたような光が。

 差し込んできて、思わずリミノは目を細めた。


 ああ、もうすぐだ。

 もうすぐ、外に出られる。


 リミノのかすむ視界に、ぼんやりと浮かぶ情景。

 それは、かつて見た景色であった。


 魔王城の中庭で、穏やかに談笑する人々。


 イサギがいて、デュテュがいて、どうしてかメイド服を着た自分がいる。

 愁がいて、廉造がいて、慶喜がいて、皆、楽しそうに笑っている。

 ロリシアがいて、シルベニアがいて、イラがいて、キャスチがいて。

 なぜかそこにアマーリエもいて、仲の良い人々がいて。


 ああ、いい。

 そうしていられたら、どれだけよかったか。


 そして、目を凝らす。

 イサギの隣には――。

 法衣をまとった、輝かしき金髪の彼女がいる――。


 なんて幸せなんだろう。

 イサギが、心の底から微笑んでいてくれるだなんて。

 ああ、胸が熱くなる。

 彼が幸せそうなら、もう、言葉はない。


 魔王城の、本当に心地良かった日々を想う。

 またあの日に、きっと戻れるはずだと。

 リミノは、願う。

 だから、歩こう。



 もうすぐ――。

 ほら、あと少しで――。


 景色が開けた。



 ――次の瞬間。


「だから言ったでしょう? リリアノ。ほぉら、エウレは裏切るって、あたしの言うとおりでしょう?」


 迷宮を出たところ。

 生い茂る木々の隙間の空間。

 椅子に座って紅茶を飲むリリアノと、ディハザがいた。


 プレハを背負ったまま、リミノはその場に膝をついた。

 この身が砂のように崩れ落ちてしまいそうだった。




「アマーリエ……、デュテュさま……?」


 ディハザの足元には、ふたりが転がっていた。

 どちらもリミノと同じか、それ以上に満身創痍だ。

 どうしてディハザはこんなところまで、ふたりを運んできたのか。


 ふたりの勇敢なる女性をまるで足置きのようにしながら、ディハザは哂っていた。

 エウレはわずかに腰を屈める。


「リリアノさま、ディハザ……」

「あたしから逃げられるとでも思っているの? それってどういう了見?」

「……わたしをおびき出すために、出かけていると言ったんだね、ディハザ」


 エウレの言葉に、リリアノは悲しそうに首を傾げていた。


「私はあなただけは信じていたのよ、エウレ」

「……リリアノさま」


 横を見やれば、リミノは茫然としている。

 もはや彼女に戦う能力がないことは、明白であった。

 それでもプレハを背負ったままでいるのは、もはや執念か。


 何度も何度も不義理を繰り返してきた自分だが。

 もう次はない――。


 廃城と化したミストランド城にて、エウレは息を深く吸いこんだ。

 絶体絶命のこの状況。

 それでも、言わなければならない。


「リリアノさま、申し上げます」

「どうしたの? エウレ」


 エウレはかしずいた。


「リリアノさまのやろうとしていることは、間違っています……。エルフ族の痛みを、人間族に味わわせようなど……。母君が聞いたら、どんなに悲しむことか……」

「大丈夫よ、エウレ。母様は死んだわ」

「……リリアノさま、人間族にも罪のない方はいます。どうか、正気に戻ってください」

「そうね」


 リリアノはわずかに考える素振りをした。

 彼女は立ち上がり、ゆっくりとこちらに向かって歩いてきている。

 エウレはさらに訴えた。


「エルフ族にも、人間族にも、魔族にも、ピリル族にも、それ以外の者たちだって、良い者と悪い者はおります! わたしは捕まっていた間、エディーラの宿にて優しくしていただきました! あの方々たちがいなければ、今こうして姫様とお話することも叶わなかったでしょう! ですから、姫様!」

「そうね。――でもそれがなに?」

「……え?」


 エウレを襲ったのは、顔面への強い痛みだった。

 リリアノが靴の裏で、エウレの後頭部を押さえつけたのだ。


「いい人も悪い人も、いるでしょうね。でも皆、エルフ族を助けてはくれなかったわ。だったら意味がないじゃない。みんな滅ぶべきよ。魔族もピリル族もドラゴン族も人間族もみーんな。それこそが戒めよ。それこそが報いだわ」

「それは違います、姫様!」


 踏みつけられたままで、エウレは必死に叫ぶ。

 だが、声は届かない。


 ディハザが笑っていた。


「いいわ、いいわ、それこそよ。いいじゃない、リリアノ。もっともっと恐怖をばらまいてあげましょう。その果てに死んだあなたの亡骸は、あたしが看取ってあげるわ」


 手を叩いて喜ぶディハザの目論見はわかっている。

 彼女は恐らく、その同化術と極大魔晶を用いて、完全な形でリリアノをも吸収しようとしているのだ。

 召喚術のキーである彼女を取り込めば、ディハザはもしかしたら――赤い巨人を自由に使役することもできるようになるかもしれない。

 そうなってしまっては、今度こそ、アルバリススはおしまいだ。


「姫様!」

「ああ、うるさいわよね、本当に、あの娘。殺しちゃえばいいのよ、リリアノ。でも神族はエルフ族を傷つけられないから、あたしにお願いしなさい。そうしたら秒殺してやるわ」


 椅子から降りたディハザが、リリアノの頬を撫でる。

 リリアノはエウレの頭から足を離し、正気を失った目で命じる。


「そうね、ディハザ……。エウレは殺しましょうか」

「姫様……」


 エウレは愕然とした。

 すぐにその目が、真っ赤に燃える。


「姫様をあなたの好きにはさせません、ディハザ」

「残念。そのためには力が必要だわぁ。あなたにはその力はある? あるわけがないわよねぇ?」


 エウレは腰から短剣を引き抜き、ディハザに斬りかかる。

 だが、それはまさに大人と子供の勝負であった。

 アマーリエ、デュテュ、リミノの三人がかりでも彼女を倒すことはできなかったのだ。

 今さらエウレが逆らったところで、形勢はなにひとつ変わらない。


「……エウレ……」


 力なく佇むリミノの前、エウレが蹴り転がされてゆく。

 だが命までは奪わない。それがディハザのやり方か。

 彼女は獲物を弄ぶようにして、自らの加虐心を満たすのだ。


「あーっはっはっは、弱い、弱いわぁ! まったく、意味がない! なんの価値もない! 死ぬしかないわねぇ!」


 頬に手を当てて笑うディハザに、しかしリミノは歯を食いしばった。


「あんた、なんて……っ」

「なぁに?」


 リミノが叫ぶ。


「あんたなんて、お兄ちゃんよりずっと弱いくせに!」

「へえ」


 眉を吊り上げて哂うディハザに、リミノは心の火を燃やす。

 プレハを背負っているというその事実が、リミノに勇気をくれた。


「もしここにお兄ちゃんがいたら、あんたなんて、あんたなんてあっという間に倒されるんだからね……! そんな、正義もない、義憤もない、愛もない、矜持もない、志もない、勇気もない! あんたの力なんて、全部まがい物よ! 偽物よ! そんな誰かから与えられた程度の力で、お兄ちゃんに勝てるわけがないんだから! もう、死んじゃえばいいのに!」


 ディハザは静かに両手を広げ、そして手のひらで指し示した。


「それで、あなたの言っている『お兄ちゃん』って言うのは」


 指を鳴らす。


「――こいつのこと?」


 パァンと空間が弾けた。

 木に偽装して、隠されていた。

 そこには彼がいた。

 いるはずもない、彼が。


「――」


 イサギがいた。

 ぞんぶんに痛めつけられた姿で。

 意識も失ったような顔で。

 いた。




 リミノの表情が。

 先ほどまで怒りに震えていた彼女が。

 喉から空気を奪われたように。

 一秒ごとに、蒼白へと変わってゆく。


 そしてリミノはついにプレハをその場に落とした。

 どさり、とまるで死体のようにプレハは横たわる。


 ディハザの口から、笑いが弾けた。


 これだ。

 ――これが見たかったのだ。


「あーっはっはっは! なんて滑稽! なんて雑魚! あんな力でなにをしにきたのよ! 半死人じゃないの!」


 イサギの指がわずかに動く。

 その彼を見るリミノの視界は、にじんでゆく。


「想いがあればなんでもできるって思ってた!? ばっかじゃないの!? あんたの仲間もバカだけど、こいつが一番バカだったのね!」


 生かさず殺さず。

 そう仕向けたディハザの叫びを聞いて。


 意識を失っていたはずのイサギの腕が、動く。

 ぴくりと震え、その顔は上を向く。


 なにをしようとしているのか。

 すぐにわかった。


 ――イサギは泥まみれになりながらも、立ち上がろうとしていた。

 彼の目は、ただ前だけを見据えていた。


「なぁに、そんな顔で立ち上がって! あたしに勝てるとでも思っているの? 無理無理無理無理、何万回、何億回やっても無理よ!」


 ディハザは手を叩いて笑う。

 イサギのすべてを侮辱する。


「あー弱い弱い! こんなに弱すぎると、殺さないように手加減してあげるのも大変だわぁ! まったくもう、弱すぎて疲れちゃう!」


 それでも。

 それでも。


 イサギは立ち上がった。

 立ち上がったのだ。


「……まだ、勝負は……ついて、いない」


 そう言い張りながら、根本から折れた鋼の剣をたずさえて。

 ディハザを倒すためだけが己の使命だと言わんばかりに。


「俺は、もう逃げない……。皆を連れて、帰るんだ……」


 ひたむきに。

 彼を前に、ディハザは哂う。


「いいわ、そろそろどこかを吹き飛ばしてあげましょうかぁ。指を一本ずつ折り剥ぎもぎ取られて、それでも同じことを言えたそのときは、今度はいっそ目玉かしらねぇ?」

「……それでも俺は、戦うさ……。当たり前、だろう……」


 なんと愚直な。

 その姿を見て、リミノは涙を流していた。


「お兄ちゃん……! もう、やめて……。もう、大丈夫だから……。戦わないで、お願い……」

「……いやだ。もう閉じ籠っているのは、いやなんだ」


 握力がなく、ボロボロの手だ。

 爪もいくつかは、剥がれていた。

 きっと必死で戦ったのだろう。

 それでも彼は、どうして彼は――。


「なにが力が必要よ……お兄ちゃんは、あんたなんかより、よっぽど強いよ……」


 ディハザには理解ができない。

 リミノの言葉を負け犬の遠吠えとあざ笑う。


「……へえ? この雑魚が?」

「絶対に勝てない相手に立ち向かっていく強さが、あんたにはわからないんだよ! 勝ち目がないのに、それでも戦うなんて、できないでしょ!」

「できるわけがないわね! そんな愚かな行為は!」


 ディハザは哄笑する。

 リミノが怒鳴った。


「だからあなたは、いつまで経っても三流なんだ!」


 その瞬間。

 ディハザは笑うのをやめる。

 恐ろしいほどの無表情で、彼女はつぶやいた。


「ならいいわ。報いはあなたの心が味わうがいい。あたしがこの男を殺すのを見ていなさい」

「――」


 リミノは手を伸ばす。

 だが間に合わない。

 ディハザは殺意を持ってイサギに向かう。

 彼が殺される。


 イサギは歯を噛みしめながら剣を構える。


「俺は、こんなところで死ぬわけには――!」

「あんたの意志なんて、関係がないのよ!」


 ディハザの繰り出したつま先が、イサギの腹へと向かう。

 貫こうと突き出したその蹴りは――。


 ――間に入っていたエウレが、受け止めていた。


「エウレ!」


 ディハザの足が、エウレの腹に突き刺さっている。

 腹を破られながらも、彼女は濡れた瞳で訴えようと。

 ディハザの向こうに立つ自らの主人に、血に濡れた指を伸ばす。


「姫様……どうか、あの頃の優しい姫様に……」


 ぽたりぽたりと血がこぼれた。

 ディハザが足を引き抜いた直後、エウレはごぼりと吐血する。


 その様子を見たリリアノは、目を見開き。


「あの頃?」


 そして――首を傾げた。


「――どの頃かしら?」


 貞淑に微笑む。

 巨人を喚び出した、神族の主――。

 彼女は道理を真っ二つに両断するように、酷薄に告げた。


「――ごめんなさい、忘れちゃったわ」

「アーッハッハッハ!」


 ディハザが再び笑う。


「最高だわ、リリアノ。なにもかも、台無しね! 雑魚がなにをしても変わらないのよ! 世界を動かすのは常に力だわ!」


 なにもかもが、台無し。

 その言葉は、強く、強くリミノの脳を揺らした。


 こんなことって、ない。

 誰もが願い、平和を愛していたはずなのに。

 どうしてこんなことになってしまうのか。

 ここには、愛がない。

 ひどい――。


「どうして、どうしてなの……。エウレ……。あなたが身を差し出すことなんて……。せっかく、大戦を生き延びてくれたのに……」


 リミノは必死に治癒術を唱える。

 だが、彼女の身にすらも魔力はほとんど残っていなかった。

 手のひらから霧散して消える魔力の欠片は、まるで命のようだ。

 この手から、一秒ごとに命が零れ落ちてゆく。


 だめだ、魔力が、ない。

 自分ではこのまま死んでゆくエウレを、助けられない。


 ああ。

 こんなことって。


 ひどい。

 こんなの、ない。


「うおおおおお!」


 イサギが叫ぶ。

 彼はついに鋼の剣を捨て、クラウソラスを抜いた。


 さすがにディハザの身が一瞬だけ強張る。

 だが――。

 神剣は、応えては、くれない。


 ただ重いだけの剣を振り下ろしたところで、それはたやすくディハザに奪われた。

 またひとつ、希望の明かりが握り潰されたような気がした。


「は、こんなナマクラ、よく下げているわね!」


 その辺の石ころを蹴飛ばすように、ディハザはイサギの顎を蹴った。


「すぐに同じところに送ってやるわ」


 もうやめて。

 これ以上、ひどいことをしないで。


 どうしてこんなことをするの。

 ただ自分たちは、平和を願っていただけなのに。


 リミノの願いは、叶うはずもない。

 なぜならこの世界は、力こそがすべてであるからだ。


「どうして……こんな、こんなことに……」


 誰か。

 お願い。


 誰か。

 お願いだから。


 デュテュやアマーリエは、まだ意識を取り戻してはいない。

 リリアノは、微笑んでいる。


 ここには誰もいない。

 誰も。


「お願い、誰かお兄ちゃんを助けて……。誰か……」


 どうして自分には力がないのか。

 想いは叶わないのか。

 国が滅ぼされたときからも、ずっと問いかけていた。

 愛で世界が救えないことなど、とうに知っていたはずなのに。


 リリアノは力を求めた。

 リミノもそうすればよかったのか。

 そうしたら、イサギを救えていたのか。

 救えていたのなら。


「さぁて、死になさい」


 ディハザがイサギの頭を摑んで持ち上げる。

 その光景が涙の向こう側に見える。


「お兄ちゃん……。やめて、リミノの命ならあげるから、だから、やめて……お姉ちゃん、止めて……」


 助けて。

 助けて。

 彼を助けて。


 リリアノにも届かない声。

 誰にも。

 誰にも――。


 ふと、リミノは目を見開いた。

 いない。

『彼女』が、なぜ。

 どうして――いない?


 誰かが持ち去った?

 いつの間に?

 いや、そんなことより今は――。


 そう思った瞬間。

 辺りに閃光が走った。


 七色に溶けてゆく景色の中で、ディハザがなにかをわめいている。

 その光は、温かかった。

 決して敵ではない。

 これは、そうだ、これは――。


 光はすぐに収束する。

 まるで万物誕生のような輝きは、彼女の手の中にあった。


 すっ、と。

 リミノの隣に、立つ影だ。


「ん、なるほどね」


 ひとりの女性がいた。

 金色の髪をなびかせて立つ、法衣姿の女性だ。

 彼女は腕組みをしながら、人差し指を一本立てる。


「あれが悪者ってわけね? リミノ」

「――」


 プレハであった。




 ──次回更新日、4月24日21時。


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