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勇者イサギの魔王譚  作者: イサギの人
Episode:13 おかえりなさい、あたしの勇者さま
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13-6 疾走

 揺れる馬車の中には、三人の女性がいた。

 いずれも美しい。一国を代表しうるほどの地位を持つ、美女揃いだ。

 魔帝の姫、デュテュ。

 エルフ族の次期女王、リミノ。

 そして人間族の副ギルドマスター、アマーリエ。

 以上の三人である。


 彼女たちは闇にまぎれ、西へと向かっていた。

 ひとりではないというのは心強かった。志を共にする仲間だ。

 だが、それだからこそ、リミノはため息をついてしまう。


「なんでリミノたちこんなことをしているのかな」


 根本的な問いであった。


「……それ、言う?」


 頬杖をついたまま、アマーリエが嫌そうに眉をひそめる。

 アマーリエは他のふたりと話したことは、ほぼない。だが物怖じするような様子はなかった。

 相手が姫だろうが女王だろうがなんだろうが、この馬車に乗り込んだ以上、立場は同じだ。

 同じように彼を想う、ただひとりの女だ。


 リミノはぐったりと馬車の椅子の背にもたれかかった。


「だってさ、お兄ちゃんの好きな人はもうプレハお姉ちゃんだって決まっているのに」

「知っているわよ」

「リミノたち、いわばただの片想いだよ? 横恋慕だよ」

「たち、って……」


 アマーリエは顔を曇らせた。

 若干具合を悪そうにしているのは乗り物酔いのせいだが、他の女性たちの前で弱さを見せたくないというのはあった。

 ささやかなプライドだ。

 なのに、リミノは子供のように口を尖らせていた。


「そうなんでしょ?」

「……ノーコメントだわ」

「なんだかちょっと落ち込んでこない?」

「だから考えないようにしていたんじゃない」


 どうにもよくないとは思いながらも、リミノのペースに乗せられてしまう。

 まったくもって、遺憾だ。


「勇者イサギの永遠の恋人であるプレハさまを助け出すのよ。あたしたちが伝説のお手伝いをできるだなんて、名誉なことだわ」

「そういう大きな枠組みの話をしているわけじゃないんだけどなあ」

「……。知らないわ」


 アマーリエが彼に抱く感情は、ただの憧れと尊敬だ。それだけだ。


 それに、どっちみちイサギがプレハを捨てて自分の手を取ってくれるはずがない。

 そんな未来、欠片も想像できないし、今から逆転することだって無理だ。

 もしそうなったらそうなったで、きっと自分はイサギを叱咤してしまうだろう。

 自分は彼にふさわしくないとまでは言わないが、プレハが彼のそばにいるのなら、自分は彼の隣には立てない。


 ……ほら、なんだか落ち込んできた。


「はぁ……」

「はぁ……」


 アマーリエとリミノの嘆息が重なった。


 なのに死ぬかもしれない戦いに赴くという、その意味がわからない。

 いや、わからないことはないのだ。実に理に適っているはずだ。イサギが復活すれば、人類は赤い巨人を倒せるかもしれないのだから。

 もしこれが分が悪い賭けだとしても、その見返りが人族の生存ならば、勝負に出るのは間違いではないはずだ。

 だが、やはり意味がわからない。


 そのときだ。

 馬車の端っこでニコニコとふたりの話を聞いていたデュテュが、手を打った。


「まあまあ、イサさまがお幸せなら、それでいいじゃありませんか。わたくしたちは、そのために戦うんですもの」


 彼女を見るリミノとアマーリエの目が点になる。

 心の底からそう思っているであろう笑顔を前にして、ふたりはまたもや同時にため息をついた。


「デュテュさまは幸せそうだよね……」

「心の底から羨ましいわ」

「なんでですか!?」



 ◇ ◆ ◇ ◆ ◇



 ダイナスシティには、次々と避難民がなだれ込んできていた。

 やがてはその都市機能もパンクしてしまうだろう。

 すでにあぶれた人間たちは、城塞都市の周囲にキャンプを張っている状況だ。

 そんなときである。


 王城の一室には、五人の男がいた。


 ひとりはギルドマスター。緋山愁。

 ひとりはドラゴン族の王。竜王バハムルギュス。

 ひとりはピリル族の王。盲いた目のレ・ダリス。

 ひとりは魔王。極大法術師、小野寺慶喜

 ひとりは人間族の王。バラベリウ三十六世。


 すなわち――。


「エルフ族の女王は所用により席を外しておりますが、改めて開催をここに宣言いたしましょう」


 皆の注目を集め、その優男が口火を切った。

 堂々たる声は、静かな迫力を秘めて響く。


「――伍王会議。きょうこの日、すべての人族の行く先が決まると言っても、過言ではありませんね」


 皆の注目を集め、愁は会議室の中心に置かれた地図を手のひらで指し示す。

 スラオシャ大陸の危機が、そこには描かれていた。


 赤く塗り潰されてゆく領土。

 一日、一刻ごとに破滅へと向かうアルバリススの現状だ。


「もはや一刻の猶予もありません。今こそ、すべての種族は手を取り合い、過去の遺恨を洗い流し、そして一致団結して侵略者に立ち向かうべきです」


 バハムルギュスやレ・ダリスもすでに、それぞれの国に手紙を送っていた。

 兵を集めよ、という達しだ。

 ドラゴン族やピリル族の里はまだ、それほど侵略を受けてはいないらしい。

 だが、それも時間の問題だ。一匹の巨人に彼らの町が破壊し尽くされたという情報も流れていた。

 巨人は分け隔てなく滅びをもたらす。そういった存在であった。


「魔帝戦争ですら敵対していた我らが同盟を結ぶか。面白い」

「この老いぼれた身で、このような戦に加われるとはな。至極。血が滾るわい」


 老いた二王の放つ存在感を肌で感じ取りながら、愁はうなずいた。


「あらゆる種族によって防衛を固めます。決戦は星形第三要塞リアファル。そこに騎士、冒険者、ドラゴン族、ピリル族、そして魔族の精鋭を結集させる。これこそが決戦だ。王。あなたの領地をお借りしますが、よろしいですね?」


 愁が視線を投げると、人王パラベリウは白髪の混じった髭を撫で、うなずいた。


「構うも構わないもあるまいな。突破されてしまえば、国が滅びる。他に打つ手はあるまい」

「いかにも」


 あの巨人に個々の能力で敵わない以上、物量をぶつける以外はないのだ。

 そんなことは誰にでもわかっている。

 もはや正体不明の巨人を侮るものはいない。

 逃げ延びてきた難民たちの表情がそれを教えてくれた。


「前線の指揮は竜王バハムルギュス、そして魔王慶喜。このふたりが行ないます」

「良かろう」

「ウイッス」


 バハムルギュスだけではなく、慶喜も真剣な顔をしていた。

 愁は目を細め、慶喜を見つめた。


 慶喜には怯えはあれども、しかし迷いはないようだった。

 初めて見たときには、三日で野垂れ死にそうな顔をしていたはずであったのに。

 今では人族の命運をかけた戦いの、その総指揮官として戦場に赴こうとしている。

 魔王慶喜。その名にふさわしいほどに成長を果たしたか。


 まったく、と愁は心中で皮肉げにつぶやいた。

 結局のところ、願いのために自らの体を竜と化した廉造も、勇者であったイサギも、そしてこの慶喜ですら、自分とは器が違っていたのだ。

 心の強さという意味では、皆が皆、魔王の素質を持っていた。

 そうだ、自分を除いた全員が、だ。


 侮り見くびっていた慶喜ですら、こうなのだ。

 いよいよもって、己の情けなさが際立つようだ。

 誰もが自分を置いてゆく。

 愁にできることは、この舞台を去らず、演じきることぐらいだ。

 他にはもう、なにもない。

 この身を動かす歯車は、たった一枚しか残ってはいない。

 空っぽだが、それでも最後まで全うしよう。

 壊れてしまった心で、愁は誓う。


 ――愁は拳を掲げ、一同を見回しながら、告げた。


「それでは皆に、人類栄光のご武運を――」


 皆の咆哮が轟く。



 ◇ ◆ ◇ ◆ ◇



 伍王会議が終わり、部屋に戻っている最中。

 慶喜は不思議な気持ちでいた。

 あれだけのメンバーと肩を並べていたことが、いまだに信じられないのだ。


「ぼくもいよいよ来るところまで来たって感じっすなあ」


 魔王として人々に頼られて、その彼らに報いろうとするだなんて、どうかしている。

 以前の自分ではまるで考えられなかったことだ。

 少し前向きになれたのだろうか。

 自分のことを信じられるようになったのだろうか。

 いや、そんな大層なことはないだろう。


 部屋に戻ると、そこには真剣な顔をしたロリシアがいた。

 彼女は机に向かい、なにやらペンを走らせている。

 後ろから覗くと、彼女は魔族に現状を伝える手紙を送ろうとしているようだった。


 ふと気づいて振り向いてきた。


「あ、ヨシノブさま、おかえりなさい」

「うぇーい」


 慶喜は礼装の首元を緩める。


「大丈夫です? メソメソしてませんでした? 意地悪とか言われませんでした?」

「大丈夫、大丈夫、なんとかなったよ。ぼくは気配を消しながら、隅っこでぼーっとしているだけだったし」

「ヨシノブさまが一番得意なやつですね」

「う、うん」


 間違っていない。慶喜は曖昧にうなずいた。

 与えられた部屋にて、どーんとベッドに横になる。


「はー、でも肩肘が張っちゃうよね。周りの人のプレッシャーぱないし」

「はいはい、あとで構ってあげますからね」

「わーい」


 そんな風に万歳をして、慶喜はそのまま天井を見上げていた。

 人類の危機と言われてもピンと来ないけれど、頭にずっと引っかかっているものがある。

 他でもない、イサギのことだ。


「ううーん、ううーん」


 悶えながら、ベッドをゴロゴロと転がる。

 魔王としての礼服がしわになるのも構わず。

 こんなことをしているからいつもロリシアに叱られてしまうのだが、今ばかりは彼女もなにも言ってはこなかった。


 もちろん、愁のことも心配だ。

 彼がルナにしたことを考えれば同情の余地はないのかもしれないが、それにしたってその後の愁の落ち込みようはすごいものだった。

 自分がロリシアにあんなことを言われたら、その場で首を吊ってしまうだろう。そう思うと、胸が苦しくなる。


 しばらく、ふわふわと思考を漂わせていると、作業を終えたロリシアがやってきた。

 ロリシアはベッドに腰をかけて、上から覆いかぶさるように慶喜の髪を撫でる。


「……ん?」


 ロリシアの様子にふと気づく。

 彼女はなにか言いたげな顔をしていた。


「ロリシアちゃん、どうかしたの?」

「あ、いえ」


 揺れる瞳がゆっくりと慶喜に定まってゆく。


「……ヨシノブさまは、逃げたいだとか、思わないんですか?」

「ん、別に、思わないかな」

「どうしてですか?」


 どうしてと聞かれても。

 別に、迷うようなことはない。


「ぼくが逃げたら、ぼくより弱い人が戦わなきゃいけないじゃない。それはなんか、ちょっとずるいな、って」


 慶喜は指先に炎を灯す。

 息をするように使える魔術だ。


 これしきのことができない人は、山ほどいる。

 だが別に慶喜が特別努力をした証というわけではない。この力は、彼が召喚後に授かったものだ。

 他の誰でもよかったのだ。ただ力を与えられたのが慶喜だった、というだけの話。

 国を守り続けてきた騎士や、正義の心に燃える冒険者など、本当はもっともっとふさわしい人がいただろうに。その人たちに慶喜は申し訳ないな、と思う気持ちがあった。

 だから、戦わなければならないのだと思う。


「ぼくは弱虫のゴミクズだったけどさ」

「知っています。すごく知っています。ていうかそれは割と今もです」


 ものすごく当たり前のようにうなずくロリシアに、わずかに心削られつつ。


「……う、うん。まあ最近は、それでも昔よりはそうじゃないのかもって思い始めてきたからさ。それがなんか、自分でもうれしいっていうか。調子にのりすぎて、失敗することもよくあるけど……」


 慶喜は頭をかく。

 なんだかなにを言いたいのか、わからなくなってきた。


「でも、頼られるのはなんか嬉しいっていうか、自分でできることがあるなら、やらないとなーっていうか」


 ほんわりと浮かぶのは、やはりイサギの顔だった。

 すべての力を失った彼。

 素直に慶喜をかっこいいと褒めてくれた彼。

 あのときは嬉しかったが、しかし悔しい気持ちもあった。

 イサギにもう一度立ち上がってほしかったのだ。


 でも、今はもう違う。

 イサギに「格好いい」だなんて言われてしまったら、かっこ悪いところは見せたくない。

 なんでこんな風に思ってしまうんだろう。

 わからない。

 自分が、――男だからかもしれない。


「先輩があんなことになっちゃっているんだから、ぼくは戦わなくっちゃね」


 そう言って笑うと、ロリシアもつられたように寂しげな笑顔を見せた。

 今は彼女がなにを考えているのか、慶喜にはよくわからなかった。といってもわかっていたときのほうが少ないのだが。

 だが、今はロリシアの声色は優しかった。


「でも、ヨシノブさまは弱虫だから、心配です。今だって、無理しているんじゃないですか?」


 少しだけむくれているが、怒っているようではなさそうだ。

 慶喜は身を起こし、控えめに笑った。


「そんなことないよ。ありがとう、ロリシアちゃん」

「……」


 ロリシアは俯く。その唇がなにかを告げようとしたとき――。


 ――そのとき、ドアのほうから気配がした。

 ふたりが顔を向けると、そこにはバツが悪そうに立つ若者がいた。


「悪い、聞く気はなかったんだが……」


 イサギであった。



 慶喜は慌てて両手を振る。

 変なところを見られてしまったな、と思った。イサギに気を遣わせてしまうのは、とても不本意だ。


「ううん、いいんすよ。いつも部屋に来てくださいって言ったの、ぼくですし」

「あ、わ、わたし、お手紙出してきますね」


 顔を赤らめたロリシアは、そそくさと立ち上がった。

 イサギの横を通りすぎ、小走りで駆けてゆく。

 いったいなにを言おうとしていたのかはわからなかったが。


「……邪魔、したかな」

「いや、いいんすよ。ぼくとロリシアちゃんは一蓮托生ですし」

「そ、そうか。羨ましいな」


 部屋の入り口辺りに佇みながら、イサギは頬をかいた。冗談とも本気ともつかなくて、反応に困っているようだ。

 なんだかそちらのほうが恥ずかしいのだが……。

 まあそれはいい。


「お前も、戦いに行くのか?」

「え、ええ、まあ。一応こう見えても、魔王ですからねえ」

「……そうか、すごい責任感だな。大したものだ」

「え、ええと……」


 持ち上げられると、なんだか自分が悪いことをしているような気分になってくる。

 まるで嘘をついているような、自分を偽っているような。

 違う、そんな立派な気持ちではないのだ。


「いや、あの、ぼくにはずっと、憧れていた先輩がいるんすよね」

「へえ」


 イサギは相変わらず、好意的なまなざしをこちらに向けてくれる。それがとてもくすぐったい。

 慶喜は地に足がついていないような気持ちで、ぼんやりとつぶやいた。

 ロリシアにすら恥ずかしくて、伝えられなかった想いがある。


「ずっとかっこよくて、強くて、なんでもできちゃって、ぼくもああなりたいなってずっと思っていて。ああなれたら、なんてかっこいいんだろう、って」


 まるで漫画の主人公に憧れるような気持ちだったのだ。

 あんな人がいるだなんて、信じられなかった。

 とてもキザで、いつも格好つけていて、それがとてもサマになっていて。

 とてつもなく鮮烈な衝撃だった。


「立派な人で、いつも後ろを追いかけていました。いつか追いつけるかな、いつか隣に立てるかな、って思いながら」


 慶喜は鼻をこする。


「でもなんか、その人の真似は、ぼくにはあんまり合わないっすな。ただ、一度くらいはかっこつけてみたかったんすよね。これが最後のチャンスかもしれませんし」


 慶喜は手を後ろへと回し、隠した。

 その手は、震えていた。

 イサギは気付いていなければいい、と願う。

 こんな矮小な心を、気づかれたくはない。


 結局、民だとか、自分が強いからだとか、そんなのは方便だ。

 ロリシアにも本心は、言えなかった。


「もしぼくが戦えば、ロリシアちゃんを助けられるかもしれないなら、それは戦う価値があるな、って」

「……」


 イサギは俯いていた。


 慶喜は頭をかく。

 死ぬ気でダイナスシティを守らなければならない。

 いつも心配そうに自分を見ている彼女が笑っていてくれるなら、そのために自分が立ち上がりたい。


 幼くて、小さくて、弱くて、それでも自分を守ってくれているロリシア。

 戦争で両親を亡くし、魔王城で出会った少女。

 天涯孤独だった彼女はずっと自分のそばにいてくれた。

 頼りない自分の背中を押してくれた。


 だから、今度は自分が彼女に報いる番だ。

 ――かっこいいところを、見せる番なんだ。


「そう決めたとき、なんだか心がすっと軽くなったんです。これが、あの人の見ていた景色なのかもしれません。不思議な気持ちっすなあ」


 ロリシアが襲われるよりも、自分が痛い目を見た方がマシだなんて、今まで考えたことがなかったのに。

 今は、彼女を傷つけるすべてのものから、彼女を守りたいとすら思う。


 イサギは今までずっとこんなことを繰り返してきたのだ。

 そう思うと、自分にもできる、やってみたいと思う気持ちが溢れてきた。


「ぼくがロリシアちゃんを守る……。なんかすごい、おこがましい気がしますけど……」


 慶喜は拳を握り締めた。


「やらなくちゃいけないと思うんすよ、ぼくも。あの人の背中を追いかけていたいから」

「……立派なやつだな、そいつは」

「かっこいい人です」


 慶喜はすっきりと笑う。

 イサギは虚空に溶けてゆくようなつぶやきを漏らした。


「その先輩も、同じ気持ちだったのかな?」

「え?」

「誰かを守るために自分が傷つくのを、いとわない人だったのか?」

「はい」


 慶喜は断じた。


「あの人は、ぼくたちのヒーローです」


 面と向かって、慶喜はそう言った。

 イサギは拳を握り締めていた。


「そいつは、かっこいいな……。俺も、そうなりたい……」

「……先輩」

「いや、ありがとう、小野寺。お前は大したやつだよ。俺とは、違うな」

「そんなことは――」


 否定しようとした慶喜を手で制し、イサギは歩き出す。

 慶喜がかけた声にも、振り返ってはこなかった。



 ◇ ◆ ◇ ◆ ◇



 イサギはひとり、廊下を歩く。


 胸の中にくすぶる気持ちがあった。

 それとともに、右腕がズキズキと痛みを発する。まるで警告のようだ。

 ――だめだ、思い出すことはできない。

 あんな痛みを味わうのは、もう二度とたくさんだ。


 だが、この胸の苦しみはなんだ。

 これこそが――腕の激痛を超えるほどの、痛みではないのか?


 足を引きずるように歩いていると、たどり着いたのは小さな聖堂であった。

 そこは粛々とした空気に満ちている。


 空に祈りを捧げる女神像の前には、愁がいた。

 彼はゆっくりとこちらを振り返ってくる。


「……」


 こんなときに、嫌なやつに会ってしまった。

 愁はイサギの目の前までやってきて、避けようとしたイサギの体を壁際に追い詰めてくる。


「どうしたんだい、勇者。浮かない顔をして」

「……愁」

「まだ世界を救いにはいかないのかい?」

「……」


 イサギは彼を見返した。

 胸の中の憤りが、言葉となって溢れた。


「お前はどうしてここにいるんだ」

「……なんだって?」

「冒険者ギルドの、ギルドマスターなんだってな。それなのにこんなところで、油を売っていていいのか? もっとやるべきことがあるんじゃないか」

「言うじゃないか」

「言うさ。……お前は俺にはない力を持っているじゃないか」


 イサギの弾劾を、愁は黙って聞いていた。

 自分には王都で他にもやることがある、などと愁は言わなかった。

 高みを気取り、イサギの見識の狭さを罵倒するような真似を、しなかった。


 なぜならばそれはすべて、愁自身に心当たりのある言葉だったからだ。

 自分が前線に出て指揮をするのが一番に違いない。各王たちは自分たちの種族を率いるだけならばともかく、異なる種族間で連携を取れるとは思えない。

 愁と同じレベルでそれを実行できる者は、アルバリススにふたりといないだろう。


 それでも愁は、前に出ようとは思わなかった。

 もはやこの世界の存亡すらも、彼にとっては取るに足らない出来事であるからだ。


 そんな諦め切った愁の心の中を、見透かしたかのように。

 イサギは愁の胸ぐらを掴む。


「あれほど色んな人が力を望んでいる……! 守りたいと願い、勇気を奮いたたせながら戦っている! それなのにお前はなぜ逃げ続けているんだ! お前は卑怯者だ!」

「……」


 愁はイサギを振り払う。


「力があろうがなかろうが、関係はないよ。現に僕の実力では、神族には遠く及ばない。どっちみち不可能だ。彼らから見れば、僕も雑兵も変わりはない」

「そんなのやってみなければ」

「キミこそ、自分の無力を人に当たらないでほしいな。いい迷惑だ」


 その言葉もまた、イサギの胸に突き刺さった。


「なんだと……!」


 イサギは拳を握った。

 その態度を見て、愁は不快そうに眉をしかめる。


「キミの青臭さに、付き合ってはいられない」


 そう言い、愁は歩き出そうとする。

 イサギは「待て」と彼の肩を掴もうとして。


 だが、愁はイサギの横を過ぎると同時に、彼の軸足を足ですくった。

 バランスを崩したイサギは、それだけでその場にひっくり返った。


 顔面から無様に倒れるイサギを見下ろし、愁は肩を竦める。


「結局、どこにも行かずここにいるのは、キミも同じことだろう。力があろうがあるまいが変わらない。僕たちは同じだ」


 同じ、同じか。

 本当に、そうなのか。

 イサギの胸の内を問いが叩く。

 自分たちはここでなにもできず、くすぶっているだけのガキだ。

 激しい願いがありながら、なにひとつ行動には移せない、屑どもか。


 イサギは身を起こしかけ、その拳を握り締める。

 ギリッ、と歯を噛み締める。


 今ここで、自分のために、世界のために、戦っている人がいる。

 身を捨て、利益を求めず、苦しい思いに飛び込もうとしている人がいる。


 この胸には、彼らに報いなければならないという想いがある。

 誰も頼んじゃいない。求めちゃいない。放っておいてほしいくらいなのに。

 それでも、それが愛ゆえの行動ならば。

 たとえ、己が勇者ではないとしても――。


 だから――。


「……違う」


 鼻血を拭い、イサギは立ち上がる。


「俺とお前は違う……、違う! 今すぐ助けにいけるなら、行きたいさ! お前のように縮こまっていないでな!」


 愁は顔を歪める。力もないくせに吼えるイサギの大言壮語が、憎たらしかった。


「愛する人に必要とされない僕の気持ちなど、キミにはわかるまい」

「そんなの知ったことかよ! 想いがあるなら行動すりゃあいい!」

「ずいぶんと簡単に言うんだな」


 拳が振ってきた。愁に殴り飛ばされて、イサギは再び床に転がる。


「すべて彼女のためにやってきたつもりだ。だが僕はなにもかも否定されたんだ。僕の存在価値はもう、ないんだよ。僕はそのために喚び出されたんだからね。僕がなにをしようとも、彼女は喜んではくれないだろう。それならば――」

「くだらねえ……」


 吐き捨てるイサギに、愁はさらに残酷な目を向けた。

 だが彼を見上げるイサギの目には力があった。

 記憶を失いながら、かつての迫力を失ってはいなかった。


「俺はお前とは違う……。今ようやく、ハッキリとわかった」

「……なんだって?」


 イサギのまとう雰囲気が、わずかに変わった。

 瞳が決意の色を宿す。


「力があるかとか、ないとか、そんなものは関係がないんだ。気持ちがあるのなら、走ればいい。例え死ぬとしても、この胸の叫びに従わなければ、そんなのは偽物だ。偽物の人生だ」


 血を吐き、絨毯を汚し、イサギはそれでも立ち上がる。

 記憶を失った男は、言う。


「――俺は俺の人生を征く」


 その宣言は、彼の魂の叫びであった。

 なんの力もない。

 剣も使えない。

 魔力もない。

 記憶もない。

 知恵もない。

 ただひとつ、勇気だけを持っている男が。

 今、歩き出そうとしているのだ。


 ならば愁は、

 もはや彼の行く手を阻むことはできないだろう。


「そうか」


 愁の目はもはや虚無だ。

 イサギをまっすぐには見つめられない。


「大層なことを言うじゃないか」


 愁がポケットから取り出したのは、小さな鉄の鍵だった。

 それを愁は、彼の足元に放り投げた。


 聖堂に小さな金属の音が響く。


「……これは?」

「トッキュー馬車の鍵だ。二十七番を使うがいいだろう」


 つぶやく愁に、イサギは眉をひそめた。


「あの三人の娘は、大森林ミストラルに向かった。御者に言えば届けてくれるだろう」

「なぜ、こんなことを」


 愁はしばらく押し黙っていた。

 自分が殴り飛ばしたイサギの全身を見つめ、ボロボロの彼を前に、自分こそがもっと痛めつけられたような顔をしていた。


 そして、そっぽを向きながらつぶやく。


「なにひとつ力がなくても、立ち向かう心を忘れない。キミは僕とは違う。そうなんだろう」

「……」


 愁は首を振った。


 言うべきかどうか、迷った。

 だが、認めなければ。

 その瞬間、自分は本当に死んでしまうような気がして。

 どこで間違ったんだろう。

 どこで道を違えたんだろう。

 まったく。


 愁は己の手を見下ろし、吐き捨てた。


「そうさ、僕もそう思っていた」



 ◇ ◆ ◇ ◆ ◇



 イサギは走り出した。

 自室に戻ると、手あたり次第の物を鞄に詰め込み出す。

 前もこんなことがあったような気がする。

 右腕が痛むが、構ってなどはいられない。

 隣にはとても大事な人がいたはずだ。

 その匂いがふっと蘇り、イサギの胸がいっぱいになってくる。


 例え犬死にだとわかっていても。

 どれほど愚かなことであっても。

 それでも走らずにはいられない。

 男として生まれ落ち、この世界にやってきたのならば。

 己には、なにかを為せると信じるのだ。


 クラウソラスを手に取ったイサギは、その重みに辟易する。

 違う。今の自分に必要なものはこれではない。

 神剣を腰に差し、そして鞄を摑み、走り出す。

 途中、廊下に飾られている鎧が持つ、鋼の剣を掴み取った。


 そうだ、これでいい。

 今の自分には神剣なんかより、鋼の剣のほうがお似合いだ。


 ああ、悩むなら最初からこうすればよかった。

 死ぬとわかっているはずなのに、心はすごく楽になった。

 もし死んでも、後悔などはしないだろう。

 自分で選んだのだから。


 鋼の剣を持ち、鍵を握り締めながら、イサギは走る。

 ひたむきに、前だけを見据え。


 走る。

 いつしか音は遠ざかる。

 自分の息遣いだけが聞こえる。

 息が苦しい。

 だが、頭は澄み渡る。

 大地を蹴り。

 走る。

 己に命じることは。

 ただ一つ。

 走れ。

 走れ。


 自分にできることをするのではない。

 自分がやらねばならないことをするのでもない。


 自分がこうありたいと願うことを、するのだ――。




 ◇ ◆ ◇ ◆ ◇



 勇者イサギの魔王譚

 13-6『疾走』



 ◇ ◆ ◇ ◆ ◇




 走り去る馬車を廊下の窓から見下ろし、愁はため息をついた。


「力を失っても、まだ走るか。どうしてそんなことが、できるんだろうな」


 結局のところ。

 最初から自分と彼の器は違っていた。

 これが勇者であろうと願った勇者と、そして為した出来事で後世に語られたに過ぎない英雄の違いだったのだろう。


 勇者イサギ。

 彼は記憶を失っても、勇者であった。


 そのことが愁には悔しく。

 だが、心地良くすらあった。


 真実の魂を持つ者は、どんな泥の中に沈んでも、輝きを放つ。

 ならば彼はまさしく、本物だったのだろう。


「いけよ、イサギ。行ってその情けない姿を見せてやれ。そしてフラれ、無残に殺されるといい。そうすれば僕の溜飲も下がる。僕にはもう、なにもない」


 本当に自分がそう願っているのか、愁にはわからなかった。

 だが、彼が戻ってきたとき、自分はより一層みじめな気持ちになるだろうということだけは、わかった。


 口惜しい。

 悔しい。

 妬ましい。

 そして、――羨ましい。


 ああ、何故。

 何故自分は、彼のようには、できなかったのだろう。

 あんな風にがむしゃらになれなかったのか。

 なにもかも捨てて、ただ一途になれなかったのだろう。

 何故。何故。


 ――もしもう一度すべてをやり直せるのなら。

 今度こそ、彼のように。

 胸を張って、光の下を歩いてゆけたら。

 どんなに誇り高い気分になれたことか。

 だが、だが。


 今となっては、もう、すべてが無意味だ――。


「あーらら」

「……ん」


 愁の隣には、いつの間にか慶喜がいた。

 これから要塞に向かうのか、旅支度を整えた彼は、嬉しそうに言う。


「先輩は行ってしまいましたかー」

「キミは一緒にいってあげないのか。ずいぶんと薄情なものだな」

「必要ないっすよ。ぼくの憧れの先輩なんすから」

「でもあれは常人だ。なんの輝きも発しないクラウソラスを持っていったが、滑稽なことだ。もう生きては戻って来れないよ」


 ずいぶんと厳しいことを言ったつもりだが。


「それはぼくたちも一緒っすよね。生き残れるかどうかなんて、誰にもわかりませんし」

「……そうだね」


 慶喜は笑顔だった。


「それに、先輩は戻ってきますよ。絶対に」

「……そうかい」

「はい。だって、いつだってそうだったんすから」


 その自信であふれた言葉を聞いて。

 愁はふと慶喜を見た。

 彼はきょとんとして見返してくる。


「……どうかしたっすか?」

「いや」


 愁は首を振る。

 慶喜の目を見て話をしたのは、初めてだったような気がした。

 ただ、それだけだ。


 愁は目を閉じ、ただ小さく、つぶやいた。


 憧憬に彩られた道を征くひとりの少年。

 彼の者に栄光あらんことを。






『やることは、わかっているわよね』

『当然だよ、プレハお姉ちゃんを取り戻す。それだけだよ』

『結構』


 剣士は真剣な顔でうなずいた。


 自分たちにはなにができるのか。

 そして、自分たちはなにを為すべきか。

 単純なことだ。


『どうしても、勝てない敵が現れたら、覚悟を決めましょう。あたしが動きを止めるわ。――合図をしたら、あたしごとやりなさい』


 そう話し合っていた。

 剣士は深く息を吸う。

 今こそ思い出さなければならない。


 ――そして、娘は剣を抜いた。


「――徒花乱舞あだはなみだれまい、ゆきます」


 次回更新、4月10日21時。

 13-7『狂宴』

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