13-5 哀切
イサギがいつものように城内をぶらついているところだった。
人気のない昼前。
廊下の向こうからやってきた若者が、イサギの肩を突き飛ばす。
見知らぬ誰かにおかしな視線を向けられるのは慣れてきたが、しかしだからといって直接的に攻撃をされるのは初めてであった。
「……なんだよ、お前」
彼は茶色の髪をした、優雅な青年であった――のだろう。
凛々しい瞳には、しかしその欠片と思しきものが残っているだけだ。
目の下にはクマができており、その完璧であろう美貌に、影が差していた。
光あるものすべてを憎むような目をした美青年は、イサギのゆく手を塞ぐように立ちはだかっていた。
「暇なんだろう? ちょっと付き合ってくれないかな」
「……はあ?」
「僕は緋山愁。キミと同じように、地球で生まれた者だ」
「あ、お前も、なのか」
イサギの顔が少しだけ綻ぶ。
仮面をかぶったような相手の態度には、気づきもしない。
緋山愁は両手を広げ、種明かしをするように笑った。
「そうさ、僕と小野寺慶喜、それにキミともうひとりで、四人。その四人が、魔族の手によってこの時代に喚び出された召喚者だ」
「つまり、仲間ってことだろ?」
「いいや、どうかな」
イサギの純粋な問いに、愁は笑っていた。
首をひねり、そして邪悪な本性を内に秘めた神、ロキのようにつぶやく。
「仲間だったのかもしれない。でも、キミのことは嫌いだったよ」
◇ ◆ ◇ ◆ ◇
勇者イサギの魔王譚
Episode13-5『哀切』
◇ ◆ ◇ ◆ ◇
王城というよりも、騎士団の詰所に近い修練場にて。
イサギは動きやすい恰好に着替え、木剣を握らされていた。
目の前には同じように、木剣を手の中で弄んでいる愁がいた。
「キミとこうして稽古するのは。魔王城にいた頃以来だな」
「……いや、覚えてねえけどさ」
「僕は剣の扱いが未熟でね。だけど、それなりに腕は立つつもりだったんだ。それがまったく敵わなくてさ、あれはショックだったな」
「……」
愁は意図的にイサギの言葉を無視しているようだ。
なぜそんなことをするのか。
どうしてなんの力もない自分を引っ張り込んできたのか。
イサギには愁の考えていることがまるでわからなかった。
「で、なんでこんなことになっているんだ」
「遊びだよ、遊び。少しは体を動かしたほうがいいだろう?」
「だったら別に、バスケでもサッカーでも」
「僕があからさまに遊んでいるのを見られたら、少し見面倒くさいことになっちゃうんでね。だから息抜きに付き合ってもらって悪いね」
「はあ」
愁は苦笑していた。
筋は通っている気がする。
生返事をしたイサギは、適当に剣を構える。
技術を身体が覚えていてくれたらよかったのだが、そういうわけでもなさそうだ。
手に馴染む感覚は、まったくなかった。
だが、こうして修練場で向かい合っていると、やはり男の子としては悪くない気分だ。
そんなことを言っていられるご時世でないのは重々承知だが、堅い棒きれを握り締めるのはワクワクとした。
「つっても、俺は剣道部でもなんでもないぜ」
「いいじゃないか、遊びなんだから」
「そうか」
「じゃあ、いくよ」
「ん」
イサギがうなずいた、次の瞬間であった。
音もなく愁の姿が消えた。
イサギは目を見開く。
「え――」
ほぼ同時に、手の中の物体が消失する。
木剣が弾き飛ばされたのだと気づいたときには、イサギは重力の感覚を失っていた。
視界が目まぐるしく揺れた。反転し、床に転がされてから気づく。
「え、あ?」
「どうしたんだい? 剣を落としてしまって、しっかりと握っていないとだめじゃないか」
狐につままれたような気持ちであった。
いったいなにをされたのかわからず、イサギは立ち上がる。
宙に舞った木剣は、まるで引き寄せられるかのように愁の手の中に吸い寄せられた。彼はそれをくるりと回すと、イサギに手渡してくる。
「さあ、仕切り直しだ」
「……」
あれが偶然だとは思えなかったが、イサギは再び木剣を構える。
愁は自然体だ。片腕をポケットに突っ込んですらいた。
「ほら、打ち込んでくるといいよ」
今度は愁はそう言った。
イサギは難色を示す。
「つっても、無防備なやつを木剣をぶっ叩くとか、怪我しちまうだろ」
「大丈夫。この世界の法則は地球とは多少違っているからね」
「そうは言われてもな……」
渋々とイサギは木剣を振りかぶった。
棒切れ同士を叩き合わせるのは楽しいだろうが、人を傷つけたいわけではないのだ。
愁は避けようとはしない。それなら、当たらないように直前でブレーキをかけようと思い――。
「ほら、平気さ」
手加減をする前の、骨まで響くような打撃だ。イサギの腕力ですら、人の頭に当たれば致命傷を与えてしまいかねないのに。
――愁はその木剣を、前腕部で受け止めていた。
強がりなどではない。彼は涼しげな顔をしていた。
「ほら、言っただろう。僕の身体の周りは、闘気で覆われているんだ。なにか硬いものを殴ったような感触が手の中にあるんじゃないかな?」
「す、すげえな」
本当にファンタジーな話だ。
自分とそう年齢も変わらないはずの若者が、超常的な力を持っているというのは、胸がときめくような想いがした。
それとともに、どうして彼が自分を誘ったのかを、イサギは知った。
身を乗り出して、尋ねる。
「もしかしてお前、俺にその力を教えてくれる、っていうのか?」
風よりも早く動き、炎のような剣撃を繰り出すことができる力は、憧れだ。それを体現した男が目の前にいるのだから、なおさらである。
愁は曖昧な笑みを浮かべていた。
それから木剣を下ろし、今度は振り上げた。
「いいや――」
強烈な打撃が、イサギの肩を襲った。
「――――――」
目から火花が散ったような気がした。
骨は折れていない。だが、激痛がイサギの腕の中で膨れ上がる。
思わず目の端に涙がにじんだ。
「お、お前、なにすんだよ……!」
「別に大したことはしていないけれど?」
「人のことを叩いておいて、お前、その言い草は!」
「さっきキミだって僕のことを叩いたじゃないか。おあいこだよ」
「手加減しろよ!」
イサギは左肩を押さえたまま怒鳴りつける。
「手加減?」
愁は首を傾げた。不気味な疑念の表情であった。
再び、彼は動く。
イサギの足を払うと、愁はそのまま木剣を振り上げ、そして地面に打ち付けた。
転んだイサギの足と足の間――修練場の地面が鋭利に引き裂かれる。
突き刺さった木剣を見るイサギの顔が、青ざめた。
「お、お前……」
「少しでも力を込めたら、キミは今頃真っ二つになっていたんだけどね。手加減というのなら、これ以上のことはないだろう」
「なんで、こんなことを……」
目を逸らすイサギに、愁は虫けらを見るような目を向けていた。
「言っただろう。僕はキミのことが嫌いだ。虫唾が走る。だから一度ぐらい、痛めつけてやりたかったんだよ」
――彼の冷たい笑顔には、狂気が漂っていた。
それからイサギはなぶり者にされた。
愁は猫が獲物をいたぶるように、イサギを弄ぶ。
小学生が体育の授業で教師に勝てないように、イサギは全敗を繰り返す。
勝機など、最初からなかった。
イサギの全身はジンジンと熱を帯びている。
きっと服を脱げば、青あざだらけだろう。
「もう、立てそうにないね」
とんとんと木剣で肩を叩き、愁は笑っていた。
彼はこちらに手を差し伸べることもなく、悠々と。
「僕はキミのことを応援していたんだよ。本当はいい友達になれるかもしれないと思っていた。だが、違っていた。僕たちはどちらもうまくいかず、無駄だった。最愛の人を救えなかったんだ。なのにキミひとりが今、こうしてのうのうと、なにもかもを忘れて生きている。それは少し、フェアではないんじゃないかな」
「……俺が、なにをしたんだよ……」
「なにもかもできるような顔をしていたんだ。少し前の僕と同じようにね」
愁はイサギを見下ろしながら語る。
「でも、裏切られた。現実に反逆されたんだ。キミもどうだい。僕みたいなのに痛めつけられて、さぞかし不愉快なことだろう。少しは僕の気持ちを味わってくれたかな」
イサギは地面に腕をつき、体を起こそうと力を込める。
「なんなんだよ……、みんな、どうして俺にそんなことをするんだよ……!」
「それは君が勇者だからだよ」
「勇者なんて知らねえよ! 俺はただの学生だよ! なんの力もねえよ!」
「それでも過去が消えはしない」
愁は嘲りを浮かべる。
「僕はずっと彼女のために戦いを続けてきた。なのに、どうしてこんなことになってしまったのか、いまだにわからない。いったいどこで間違えてしまったのか、キミにならその答えがわかるのかな」
「……わかるわけが、ねえだろ……!」
激情を煮詰めたような声を吐くイサギ。
折れそうな足で、ゆっくりと立ち上がった。
彼はここまで痛めつけられ、口から血を吐きながらも。
己より圧倒的に強い男を、睨みつけた。
その目には、炎が燃えていた。
「だがな、てめえが女にフラれちまった理由はわかるさ……! 男が腐ったみたいな本性が出ちまったんだろうな!」
「……ほう」
愁は鋭く目を細めた。
その意志ひとつで、今よりももっとひどい目に遭わされてしまうだろうに。
だが、イサギは怯まない。
逆境の中にあってこそ、彼の魂は気高き輝きを放っていた。
「フラれたのがなんだよ、弱い者いじめをして憂さを晴らすような暇があったら、てめえの本当にやりたいことをやればいいだろうが……。それができずにここでくすぶって……そんなやつの気持ちが、わかるかよ!」
「記憶を失っているキミが、知ったような口を吐くものだね」
愁はすっと手を向けた。
その手のひらには、光が輝いている。
「――だが、君のそんな弱々しい姿を、皆は見るに堪えないだろう」
愁の目がイサギを刺す。
――だがその男は目を逸らさなかった。
自らが殺されるかもしれないというのに。
それでも、前を見据えているその瞳、凛々しく。
眼帯をつけられていないイサギの左眼は、赤く染まっていた。
たとえ腕では敵わないとしても。
心で屈服することはない。そう告げるかのように。
「やってみろ、愁」
「……命が惜しくはないのか? 命乞いをしてみせれば、僕の気も変わるかもしれないよ」
「お前に下げる頭はねえよ」
「僕を見くびっているのか? 成れの果ての勇者よ。僕にはできないとでも?」
愁は自らの手から光を飛ばした。
イサギの頬が切れて、血の線が刻まれる。
それでも彼は、愁を見据えていた。
その視線の強さに、愁はわずかに眉をひそめた。
「記憶を失っているんだろ? ついこないだまで学生をやっていたそうじゃないか。だというのに、どうして僕を畏れない?」
「怖いわけがあるか」
揺らぐことのない声で、イサギは告げる。
「お前自身なんて、ちっとも怖くねえよ。ガキをいじめて楽しんでいる、ただの雑魚じゃねえか。いったい自分が何様だと思ってやがるんだ。幼稚園児をいじめて粋がっている小学生が怖いか? 銃を振り回して遊んでいるようなチンピラとお前、なにが違うんだ。お前に比べたら、俺のほうがよっぽどマシさ。勝ち目のない戦いに挑んでいるんだからな。舐めんなよ」
「……」
木剣を突きつけるイサギだが、その足元がふらついていた。
強がりもいいところだ。
愁は無防備に間合いを詰めてくる。
反応できないほどの速度で、彼はイサギの顎を蹴り飛ばした。
イサギはひっくり返り、あおむけに倒れた。
もはやイサギは心とは裏腹に、体が動かなかったのだ。
悔しそうに荒い息をつくイサギを見下ろしながら。
「……これが、勇者の資質か」
ぽつりとつぶやかれた声が、一体どういう意味を指すのか、イサギにはわからなかった。
愁は髪をかき上げる。
「勇者イサギ」
彼の発したその一言は、重かった。
これまでの軽薄さが嘘のようだ。
愁の全身に刻まれた封術が、わずかに輝きを放つ。
「……」
イサギにもはや答えるほどの余力はない。
愁は続ける。
「キミの記憶を取り戻すために、西へと旅立った娘がいる」
「……あぁ?」
冗談だと思ったが、愁の口調はそうではなかった。
先ほどとは違う。真に迫った、――抜け殻のような声だった。
「キミの記憶に密接に関わっているもの――極大魔晶という物体があってね。だが、敵に奪われたのだ。しかしその極大魔晶がキーになると考えたのだろう。奪い返しに行ったのだよ。城からいなくなっていたことに気づいたのは、今朝だった。すべて、キミのためだろう。羨ましいことだ」
「……」
天井を見つめるイサギの視界が、ぼやけてゆく。
身体の痛みも含めて、これが白昼夢であるかのような思いがした。
「取り返しに行った彼女はまず帰らないだろう。相手は強大だ。少なくとも僕よりは断然強い。恐らく死ぬが、仕方ないだろう。僕たちは遅かれ早かれ、皆死んでしまうのだ。人類に訪れているのは、それほどの危機だからね」
「……」
愁より強い相手、か。
彼はそれを自分に言ってどうしようというのか。
これも彼のタチの悪い嫌がらせなのかもしれない。
――いや、だとしても。
「さて、どうするつもりだ? 勇者イサギ。お得意の正義感を発揮して、助けにいかないのかい? いつだってキミは誰かのために戦ってきたのだろう? 今度は誰かがキミのために戦いにいったのだ。それを身過ごすわけにはいかないんじゃないのかい?」
「……」
イサギは天井を見上げながら、空虚な声でつぶやいた。
「……いけるわけ、ないだろ」
当たり前だ。
相手が愁より強いのならば、自分に勝てる道理はない。
誰が出発したのか。アマーリエか、デュテュか、それともリミノか。
いや、誰だったとしても、関係はない。
――助けられないことに、変わりはないのだ。
「……彼女が俺になにをしてくれたかだって、覚えていないんだ。それなのに、犬死だなんて……」
「そうさ、それでいいだろう。その言葉を聞いて、安心したよ。キミも僕と同じだ。なにも変わらない人間だ」
満足げな声だった。
愁は木剣を放り投げた。からんからんと乾いた音が鳴る。
手ぶらになった彼は、肩を竦める。
「僕は再び、愚かな道化師に戻るさ。キミは守られるだけの立場を存分に味わっているといい」
「……お前は、なんでそんな言い方しかできないんだ」
大の字になって倒れているイサギは、愁を見上げた。
彼は濁った目で、頭を振る。
「趣味の悪い遊びさ。……だが、思ったより心は晴れなかったな」
◇ ◆ ◇ ◆ ◇
時は多少前後する――。
そこには悩めるひとりの女性がいた。
彼女は今、人生でもっとも大事な決断を為そうとしていた。
「……お父様、申し訳ありません」
一本の剣を前に、デュテュは頭を下げた。
ここは彼女の部屋だ。
ベッドの上に放り投げられている服や道具は、彼女が支度のために散らかしたものだった。
デュテュは長い髪を耳にかけ、そして左手に革のグローブを装着した。
「デュテュは悪い子になってしまいました。ですが、これこそがわたくしの本当のやるべきことだと思っております。この世界を、あるいは魔族を救うために、お力をお貸しください、お父様」
窓から差し込む淡い月明かり。
部屋の中には、もうひとつの光源があった。
剣だ。
それは煌めくような色彩を放っていた。
デュテュがずっと腰に下げていた、お守りのような剣であった。
「わたくしに勇気をください。……強敵に立ち向かう、勇気を」
デュテュは恐らく彼を愛していた。
どうだろう。愛していたのだろうか。
わからない。
ただ、彼を初めて見たときの胸のときめきは、嘘ではなかったと思う。
ずっと、ずっと、彼のことを思っていた。
彼が幸せであればいいと願っていた。
戦う必要もなく、心穏やかに、生きていてくれればそれでいいと。
大事な人がいるのなら、その人と一緒にいてくれればいいと。
きっと、ずっと、思っていた。
勇者イサギは自らの父親の仇だ。
だが、彼が理由もなく人を殺すような人ではないのは、目を見ればわかった。
たくさんの迷惑をかけてしまったけれど。
でも、彼には穏やかに暮らしていてほしかったのだ。
なんの悲しみも怒りもなく。
健やかに、安らかに。
毎日を心配なく、不安もなく。
ただ笑って、大切に生きてくれたら。
どれほどよかったことか。
だが、今の彼はそれの状態とはほど遠い。
それがデュテュには辛くて、悔しかった。
「……イサさま。あなたさまの旅のご無事を、わたくしは心からお祈りしております。」
――幸せになってほしい。
この気持ちは愛なのだろうか?
わからない。
しかしその感情が、自らの犠牲をいとわずにいさせてくれるのなら。
たとえ愛ではないとしても――そうであったら、嬉しい。
窓に映る自分の表情は、とても安らいだような顔をしていた。
不思議な気持ちだった。
「よし」
小さく拳を握り締め、デュテュは前を向いた。
彼女は剣を掴むと、小さな背負い袋を担ぎ、部屋を出る。
ドアを開いた直後――。
『あ』
同じようにドアを開いたその娘と、目が合った。
時は多少前後する――。
碧色の髪を持つ少女は、祈りを捧げていた。
イサギの記憶を取り戻すためには、どうすればいいか。
その答えは、彼女の胸の中にあった。
「……やっぱり、それしかないのかな……」
プレハ。
勇者イサギが追い求め、そして愛する女性。
極大魔晶となり、敵に奪われ、今は行方知らず。
――だが、つい先日彼女の居場所がわかったのだという。
大森林ミストラル。
滅びたエルフの国があった地。
恐らくそこには、なにかがある。
ディハザの他にもなにか。
だからこそ、リミノはゆかなければならない。
「……お兄ちゃん、待っていてね」
リミノはイサギと添い遂げることができなかった。
彼の心にはいつも、とてつもなく大きな存在があったから。
だからいつもリミノは彼のそばにいながら、彼に愛してもらうことは叶わなかった。
叶わない恋はどこへゆくのだろう。
それは暗く淀んで心の中に沈み込み、そして静かに腐ってゆくのだ。
恋がキレイだなんて、口が裂けても言えやしない。
それはとても醜く、いつまでも隠しておきたいものだった。
できることならば、向き合いたくもなかったのに。
だが、リミノは気付いてしまったのだ。
イサギの隣にいるべき人物は、自分ではなかったのだと。
どんなに自分が彼を愛していても、でも彼が自分を選ぶことはないのだと。
この世を儚むには十分すぎることだったのに。
それでもリミノは、そうあるべきだと思った。
イサギは――プレハとともにいるべきだと。
リミノは心からそう思うことができた。
まだイサギへの恋心は消えてはいない。
いつまでも沈殿し、永遠に残り続けるだろう。
だが、それでもリミノはただ彼の幸せだけを願うことができたのだ。
これが愛とは呼ばずに、いったいなんだというのか。
「……リミノにできるかどうか、わからないけれど」
リミノは深呼吸し、鏡を見た。
――そこにはひとりの、強い目をした少女が立っていた。
「でも、大丈夫。お兄ちゃんだっていつも、敵うかわからない相手に、挑み続けてきたんだもんね。大丈夫、リミノは知っているから」
愛はなによりも強く、気持ちがあればなんだって叶う。
恋する乙女は無敵だ。
――そんな耳心地良い言葉を信じることは、もうできない。
リミノは王国を守り切ることができななかった無力な姫だ。
だが、違う。
変わったのだ。
誰かに頼り切る籠の中の鳥はもう、いない。
「待っていてね、お兄ちゃん。リミノがお兄ちゃんの幸せ、取り戻してくるから」
決意し、エルフの姫はドアを開く。
――飛び立つときが、来たのだ。
ドアを開いた直後――。
『あ』
同じようにドアを開いたその娘と、目が合った。
時は多少前後する――。
「同じことを繰り返しているだけなのかもしれないわね」
城の外へと出ながら、思わずそんなことをつぶやいてしまう。
おぼろげな月明かりに照らされながら歩くアマーリエには、短い影が付き従う。
すらりと腰の剣を抜くと、それは月光に反射して輝いた。
美しさすら感じるようなその刃を、アマーリエは見つめていた。
雷剣カラドボルグ。
父が振るい、そして勇者イサギが使っていた剣だ。
イサギがカリブルヌスを倒して、そしてセルデルの元へと向かおうとしていたときに、愁が彼に託したものだった。
あの頃はこの剣を自分が持つ日が来るなど、思ってもいなかった。
「……父さん、あたし、バカなことをしているかな」
冒険者ギルドの面々にはしっかりと別れを伝えてきた。
彼らは戸惑っていたが、しかしアマーリエの言葉を信じてくれた。
万が一の賭けでもしなければ、もはや人族は生き残れない。そのチップをアマーリエに託してくれたのだろう。
「でもきっとあの人は、あたしがいたら、自分でなにもしようとはしなくなってしまうわ」
後のことはすべて、ギルドマスターである愁を頼るように言ってきた。
緋山愁ならば、自分よりも何倍もうまく人員を動かすことができる。
軍略家でもないくせに。
……いいや、彼はずっとそうだった。
初めてやることでもなんでも、自分よりもずっと上手にやってのけるのだ。
それがアマーリエには、ずっと悔しかった。
「はぁ……。でも、いいわ」
カラドボルグの重みは、手に心地良かった。
この剣を握り締めているだけで、強くなれるような気がした。
「……いいわ、どっちみちやるしかないのよ」
すべてのピースを揃えてもまだ足りないかもしれない。けれど、すべてのピースを揃えることができるのなら、勝算は十分に生まれるはずだ。
アマーリエにはその確信があった。
勇者イサギ。
その力は、伝説とともに語られる。
アマーリエはずっと彼に憧れていた。
弱きを助け、強きをくじく。
彼の英雄譚に、胸を躍らせていたものだった。
イサギのようになりたい。
そう口に出すたびに、父親が「俺じゃねーのかよ」と情けない顔をして笑っていたのを思い出す。
勇者イサギはアマーリエの永遠の片想いの相手だったのだ。
それが――。
――今は。
ボロボロになるまで戦って。
少しずつ怪物に変わってゆきながら。
それでも誰かを守るために。
助けるために。
自分の身を犠牲にして。
正気を失ってでも。
ひたすらに前に進み。
そんな彼が行き着いた果て。
痛みに泣き叫ぶ姿。
記憶の一切を亡くし。
クラウソラスからも見放されて。
アマーリエは奥歯を噛みしめる。
「……あたしたちまで彼を見限るなんて、絶対にありえない」
余計なお世話かもしれない。
ただのおせっかいかもしれない。
でもアマーリエは、彼に強くあってほしいのだ。
もう一度、立ち上がってもらいたいのだ。
あんなに傷つき、朽ち果てそうになり。
もはや記憶すらも失った彼に、そんなことを要求するのは、鬼のような所業だろうか。
でも、アマーリエは思うのだ。
「彼ならきっと、言うはずだわ」
イサギなら。
このような人類の危機に、指をくわえて見ていようとは思わないだろう。
「きっと戦いたいと、言うはずだから」
アマーリエは彼を信じている。
勇者イサギの魂を、信じているのだ。
――アマーリエは静かに仮面をかぶる。
これは彼を模した正義の証だ。
感情が研ぎ澄まされてゆくのを感じる。
もはや余計なことを考える必要はないのだと。
あの雨の日、イサギを追いかけて泣いていた少女は、もういない。
ここに立つのは、ひとりの戦士だ。
「出発するわ」
アマーリエは小さく自らに号令を発する。
そして馬車の元についた直後――。
『え?』
同じように旅支度を整えてやってきたその娘たちと、目が合った。
◇ ◆ ◇ ◆ ◇
イサギは中庭のベンチに座っていた。
静かで優しい月明かりが、この世界を照らすような夜だ。
デュテュ、リミノ、そしてアマーリエの三人が西に旅立ったのだと。
イサギは慌てた慶喜から聞かされることになった。
彼女たちはイサギに一切別れの言葉を告げることはなかった。
最後に会ったリミノたちの姿を思い出す。
彼女たちは、笑っていた。
『ちょっと出かけてくるけど、心配しないで寝ててね』
そんな風に気楽に、あっけらかんと。
アマーリエやデュテュも、だ。普段通りの顔をしていて。
そしてなにも言わず、死ぬかもしれない戦いに向かった。
すべて、こんな自分のために、だ。
どうして皆、自分にそんな風に期待をかけるのか。
勇気もない、記憶もない、神剣も力を発揮しない。なんの価値もない。
こんな、空っぽの自分に。
「……」
愁に打ち込まれた全身が熱い。
痛みを発しているのだ。
中庭のベンチは、ひとりで座るには少し広かった。
見上げる夜の空は、夕焼けですらないのに、わずかに赤い。
それこそが、化け物がこの世界に降りたった証らしい。
なるほど、そうかよ、と思う。
ひどい状況だな、と。
そうは思うが、そこまでだ。
できることなど、なにもない。
神族は村を破壊しながらこの地に向かってきているという話を聞く。
そんなところに飛び込むなんて、不可能に決まっている。
城を出た瞬間に、殺されてしまうだろう。
まったく意味がない。
本当に、無駄なことだ。
「俺がもし勇者だったら、みんなを助けにいかないといけないんだしな。こうしてこの城で安全に待っていられて、本当に助かったよな」
イサギは目を閉じた。
「あの愁ってやつに殴られるのは嫌だけどさ、でも、なんとか会わないようにして、やり過ごせばいいんだ」
自分に言い聞かせるように。
そうつぶやいた。
「待っていれば、誰かがなんとかしてくれるだろ。それまで、俺はのんびりとしていればいいさ」
自分は間違っていない。
……そうだ、間違いでは。
「みんな強いんだ。平気だよ。死ぬわけがない。どうにかなるさ」
夜の風は冷たく頬を撫でる。
「記憶が戻って面倒に巻き込まれるのなら、このままでいい」
そうだ。
だって。
「――かっこつけるような相手も、ここにはいないしな」
そのとき右腕がじくりと痛んだ。
なぜなのかは、わからなかった。
イサギはベンチに座ったまま、拳を握り締める。
その姿を空に輝く月だけが見ていた。
なんの力もない。
剣も使えない。
魔力もない。
記憶もない。
知恵もない。
ただひとつ、勇気だけを持っている男が。
今、走り出す。
悩むなら最初からこうすればよかった。
死ぬとわかっているはずなのに、心はすごく楽になった。
もし命尽きようと、後悔などはしないだろう。
自分で選んだ道なのだから。
次回更新、4月3日21時。
13-6『疾走』