13-4 零落
冒険者ギルド本部二階の奥まった場所では、臨時の作戦本部が作られていた。そこでは、人族の状況が卓上の地図によって示されている。
集まった面々は各地の冒険者ギルドの有力者が十数名。だが覗き込む一同の顔は、一様に暗い。
スラオシャ大陸全土を描く地図の大半に、真っ赤な巨人の駒が配置されているからだ。
やつらの総数は、確認されているだけでも、百を超える――。
「まさかこんなことになるとは……」
若い男がつぶやいた。
詰めかけていた者たちは、口々に言う。
「赤い巨人は、スラオシャ大陸の各地に出現し、今なおその脅威は拡大し続けている」
「……手あたり次第に人族を襲っているらしいな」
「一騎当千どころか、一騎当万の怪物揃いだ。各支部も怒涛の勢いで根切りされていっている……」
「ええ、地方はひどいものね……」
巨人たちの侵攻状況は、かつての魔帝戦争を彷彿とさせた。
彼らは各都市を破壊した後に、この地に向かって進路を取っているのだという。
打つ手が早ければ、あるいはベリアルド平野で迎え撃つこともできただろうが。
もう間に合いはしない。
「まさか伝説の召喚陣、リーンカーネイションが起動するなんて」
「それが破滅を呼び込むというのもな」
皮肉げにつぶやいた男は、顔を手のひらで覆った。
わずか十日間。それだけで人族の地図は塗り替えられた。
事態を完全に把握している者は、恐らくこの中にすらもいないだろう。
しかし、誰も冒険者ギルドを責めることはできない。
こんな事態は、預言者にも予想はできなかったはずだ。
S級冒険者が束になってかかっても敵わないほどの化け物が、ある日突然、山のように現れるなど。
悪い夢以外の何物でもなかった。
だが、夢ではない。
今もこの世界のどこかで、誰かが巨人に殺されているのだ。
圧倒的な暴力によって、命を踏みにじられているのだ。
それならば、目を背けることはできない。
人族の尊厳を抱いて、戦わなければならない。
赤髪の娘が髪をかきあげ、地図に手を置いた。
副ギルドマスターであるアマーリエだ。
議論は出尽くした。結局のところ要点は『どこで、どのように戦うか』でしかない。
「……結局のところ、ここで食い止めるしかないわね」
巨人たちの進軍速度と侵攻ルート、それに人族側の戦力と支援と輜重のバランスを考慮すれば、ここ以外はありえなかった。
彼女が示したのは、ダイナスシティ防衛の要。
12の関所と7つの砦によって守られた先、3箇所の対魔術要塞のひとつ。
――星型第三要塞、リアファル。
「兵士を集結させて、戦力を一点に置く。逃げ延びてきた冒険者たちも、全員戦線に加えて。陽聖騎士団も、全員よ。配置を決めるから、みんな、手伝ってくれるわね?」
アマーリエの声に否定の声はなかった。
もはや打つ手は、全面対決しか残されていない。
それほどまでに、人族は追い詰められているのだ。
「リアファルを突破されたら、ダイナスシティが落ちるわ。――みんなで、生き残りましょう。ね」
アマーリエの声にみなぎっていた戦意のその向こう側にあるのは、ただ純粋な、願いであった。
◇ ◆ ◇ ◆ ◇
勇者イサギの魔王譚
Episode13-4『零落』
◇ ◆ ◇ ◆ ◇
アマーリエはブーツを鳴らしながら、ギルドマスターの部屋へと向かう。
知らず知らずのうちのため息が漏れた。
相手の実力は不明。相手の総数は不明。相手の正体は不明――。
これほどに先行きの見えない戦いは、初めてだ。
それに――。
「入るわよ」
「どうぞ」
中からの声を待たずに、アマーリエはドアを開く。
そこにはギルドマスターである緋山愁がいた。
「会議はどうだったんだい」
「第三要塞リアファルで迎え撃つことになったわ。あなたの言った通りにね」
「だろうね」
机には書類が山のように詰まれていた。
彼が姿をくらましていた間に、滞っていた文書の数々だ。
緋山愁はその前に座り、気だるそうに一枚一枚に目を通している。
「神族の侵攻は止められない。亡命をなるべく受け入れてはいるが、人が集まれば集まるほど、やつらの目はダイナスシティに引き寄せられ、襲いかかってくる巨人の数は膨れ上がるという道筋さ」
「……それでも、あたしたちは負けられないわ。背負っているものがあるのだもの」
紙をめくりながら、愁は口元に笑みを浮かべる。
「あれだけ大量の神族だ。攻め込まれたらひとたまりもないだろう。なんせかつてのカリブルヌスと同様の存在だ。たった一匹を相手にするだけで、僕とイサくんが全力を尽くしたのだからね」
「……だからって、やるしかないでしょう。わたしたちが退いたら、一体誰が人を守るっていうの」
「できることとできないことがある。やるかやらないかなんだ、と精神論では片づけられない」
「じゃああなたはどうするべきだというの」
「そうだな」
愁は顎をさする。
わずかな間が空いた。
彼が起死回生の一打を持っているはずがない。だが、名案ならば受け入れたいとアマーリエは思っていた。
が。
「空中戦艦があったじゃないか。あれに人を乗せて飛び立つというのはどうだろうね」
「……は?」
愁は再び書類をめくりながら、語る。
「僕のいた世界に、箱舟物語というものがある。一部の限られた人を船に乗せて救うんだ。その後世界は浄化され、しかし新天地での彼らの物語が始まる」
「……それって、なに」
なにを言っているかわからないというアマーリエ。
すぐに彼女はキツく眉根を寄せた。
「逃げ出すってこと?」
「そうだよ。スラオシャ大陸を離れて、遠く、遥か遠く。違う土地を見つけるんだ。暗黒大陸の奥地へ向かうというのでもいい。神族はきっと海を渡っては来ないだろう。明け渡すんだよ。そうすれば少なくとも、僕たちが絶滅することだけは免れる」
「……」
近づいてきたアマーリエがバンと机に手を打ちつける。
衝撃で書類がぱらぱらと舞った。
「あなた、本気で言っているわけじゃないでしょうね」
「僕はより生存率の高い話をしている」
「一体何人が乗れるっていうの」
「さてね。千人や二千人は難しいんじゃないかな」
アマーリエの赤髪が怒気に揺らぐ。
「それ以外の人間は死ねというの?」
「運が良ければ生き残れるんじゃないかな」
「人の上に立つ人の言葉じゃないわ」
「元からそういう器ではなかったのだろうね」
愁は肩を竦めた。
「あの場にキミもいただろう。僕はあの程度の人間だった」
「……」
「ルナに拒絶されるのも無理はない。僕はずっと自分のことしか考えていなかった。その報いだったんだろうな。なにもかもが軽薄で、本当の願いなどない」
その目は虚ろだ。
たった数日で、人はここまで変わるものか。
ダイナスシティの国王に伍王会議と平和を説いた彼はどこにいってしまったのか。
寝る間も惜しむほどの雑務に追われながらも、アマーリエと研鑽の日々を過ごした彼はどこへ。
愁はまるで抜け殻のようだった。
アマーリエはそんな彼の前、拳を握り締める。
「……箱舟は本気じゃなかったの?」
愁は口元だけで笑う。
「そうだね。僕はもう、人族の存亡に興味はない」
アマーリエが平手を打つ。
だがそれは、乾いた音を発せず、愁の手によって止められていた。
「あなた……!」
「残念だったね。まだ僕に一打を浴びせることは難しいようだ」
アマーリエは悔しそうに歯噛みした。
殴れなかったことが、ではない。
「もしあなたが本当に人族のことを考えて、そうして箱舟計画を思いついたのなら、あたしは反対はするけれど、あなたに失望することはなかったわ……! だって誰かの命を助けることに繋がるのなら、合理的な意見であることは間違いないのだから……。それが『興味がない』ですって? 言うに事欠いて、あなたは……!」
愁の腕を振り払い、歩き出そうとしたアマーリエは、しかしすぐに振り返り再び愁に拳を振るう。
「おっと」と体捌きでかわそうとする愁だが、彼の靴をアマーリエがすでに踏みつけていた。
「ん……」
「――ふざけないでよ!」
アマーリエの拳がついに愁の頬を捉えた。
踏み込みとともに、強烈な一撃が叩きつけられる。
「――」
愁はアマーリエに殴り飛ばされ、吹き飛んだ。
美青年は壁に貼りつき、それから床に膝をつく。
彼の頬からは、血が流れていた。
「……へえ」
息を切らしたアマーリエを見つめ、愁は小さくつぶやく。
見事な攻撃であったが、彼はダメージの割には動じていないような顔をしていた。
「キミに殴られたのは、初めてだな。会ったときは子供のような剣技を操っていたキミが、ずいぶんと強くなったじゃないか、アマーリエ」
その言葉を聞いて。
アマーリエは少年のように手の甲で、ごしごしと顔をこする。
「あんたがいない間、あたしたちがどんな想いでいたか……! それを踏みにじって、あんたは本当に……!」
愁とアマーリエの出会いは、カリブルヌスとの結婚式だった。
罠に嵌められてしまったアマーリエを助けた愁が、彼女に求婚したのだ。
それからもずっと、ふたりは同じ道を歩んできた。
同年代の友達がほとんどいなかったアマーリエにとっては、彼はあらゆる面で自分の上をゆく、稀有な存在であった。
アマーリエは決して彼のことが好きだったわけではない。
それどころか、ベリアルド平野で世界平和のためにイサギを犠牲にした愁を憎んですらいた。
だがそこに彼の信念があったから、絶対に譲れないものがあったのだから、認めずにはいられなかったのだ。
今まで彼の隣を歩んでいられたのは、方法もその目的の多くも違っている中、その全身を貫く槍のような根幹が一致していたからだ。
緋山愁の願いは世界平和だと信じ、そのために邁進する彼のそばにいたから、誰よりもわかっていたはずだ。
理解しているからこそ嫌い、憎み、そして彼を支えていたのだ。
なのに。
なのに――!
人族に勝ち目は薄い戦いが控えていて。
それでもあがき続けようと決める女性は、愁に叫ぶ。
「あんたは、この部屋で諦めたまま死んでいけ!」
勢いをつけたまま、彼女は部屋を出てゆく。
部屋の絵画がはね落ちるほどに強くドアを閉められて、愁はやれやれと頬に手を当てた。
「といってもね、人にはできることとできないことがある。ルナに捨てられた以上、僕にもうできることはないんだよ、アマーリエ」
そうつぶやいて。
まるで負け犬のようだな、と彼は自嘲した。
ここにいるのは、紛れもなく、ただ一匹の恋破れた負け犬でしかなかったからだ。
◇ ◆ ◇ ◆ ◇
人類が存亡の危機に瀕しているとは知れず。
イサギはベッドから起き上がり、王城をのんびりと散歩していた。
のんきに、というわけにはいかなかった。
城では難民の対応に追われた騎士たちが、慌てた顔で右往左往しているのだから。
「……なんか、すっげーな」
避難訓練のように、血相を変えた人々が走り回っているのだ。
世界のどこかでなにかが大きく変わってゆく。胸がざわつくようだった。
「俺、こんなにフラフラしていていいのかね」
「まあいいんじゃないっすかねえ」
「お前はもっと駄目なんじゃねえか?」
「はっはっは」
きょうもイサギの隣には、慶喜がいた。
彼は朗らかに笑うと、イサギを手招きする。
「それよりもここ、中庭がいい感じなんすよ。案内してあげますよ。ぼくがね、このぼくがね」
「あ、ああ、ありがとな」
親指を立てていい顔で笑う慶喜に、若干引きながらもうなずくイサギ。
「別に大したことじゃないんだけどさ」
「なんすか?」
「男にそんな誘いを受けるとは思わなかった」
「いやあ、ぼくだって誰彼かまわず声かけたりはしませんよ。先輩は特別っすからねえ」
「余計に嫌な気持ちが溢れ出してきたよ」
イサギは若干彼と距離を取る。
げんなりとしたイサギを見て、慶喜は余計に楽しげに笑っていた。
だが、慶喜が誘ってくれるのは、正直言って、嬉しかった。
彼の笑顔は打算でも親切でもない。なんだかもっとこう、かっこいいプラモデルを見せびらかすような幼稚な感情であるように見えて、それが今のイサギには妙に懐かしい。
「ま、城でひとりっていうのも、つまんないしな」
「そうっすよねえ。漫画もゲームもありませんし。ネットもパソコンもないですし」
「それに」
「はい?」
イサギは口ごもり、いや、と首を振った。
出かかった言葉は、「お前は俺にアレをしてくれ、コレをしてくれと指図をしてこないしな」だった。
慶喜に誘われる前、イサギはキャスチから診察を受けていた。
魔法陣が無事に起動するかどうかの状態確認だ。
そこに、あの少女がいた。
魔族の娘、デュテュだ。
『あの、イサさま、まだ具合はよくなりませんか?』
そう控えめに聞いてくる彼女に、イサギは「別にもうとっくに体に異常はないんだけどな……」と思いながらも、適当な答えを返したのだった。
デュテュはずいぶんと思い詰めた顔をしていた。
いや、彼女だけではない。
あの場にはいなかったが、リミノも、アマーリエも、キャスチですらそうだ。
イサギは、自分が記憶喪失状態にあることによって、他の誰かを傷つけているということを、無理矢理自覚させられるその状態が、嫌だった。
周りのみんなにとっては仕方ない話かもしれない。
だが、それがどうしたのか?
自分とは関係がない。イサギはそう言いたかった。
『そうなんですね、頭が、よろしくないんですね……』
『おい』
迂闊な発言を飛ばすデュテュに半眼を向けると、『そ、そういうわけでは!』と彼女は慌てて謝ってきた。
それからデュテュは、キャスチとなにやら言葉を交わしていた。
誰か女性の名前と思しき単語が、散見していたのだが。
そうだ、確か、***といった名前だったか。
あれ、なんだったか。聞いていたはずなのに、思い出せない。
***? それとも、***、か?
その瞬間、右腕にわずかな痛みが走ったため、イサギは慌てて他のことを考え出したのだった。
難しい顔をしていたからかもしれない。
すぐにデュテュがイサギの手を握り、こう言ってきた。
『心配しないでください、イサさま……。どうかわたくしが、イサさまの砕け散った記憶を、かき集めてまいります……。ですから、ですからあきらめないでください……!』
と。
いや、別に俺はなにも諦めてなんていないしな、と思わず答えそうになった。
それよりも必死すぎるデュテュの勢いが、イサギにとっては恐ろしかった。
自分と彼女の間になにがあったか知らない。
もしかしたらデュテュは自分のことを好きなのかもしれないが――といってもあんな美女に好かれるはずもないと思うが――それにしても、愛が重すぎる。
涙にぬれた彼女の瞳はそれ自体がひとつの星空のように輝き、とても美しかった。だがそれだけだ。
こんなに美しい女性が自分のことを好きで、自分のためにはなんでもしようとしているなんて、都合がよいのを通り越して、不気味なのだ。
というわけで。
イサギは今こうして、慶喜とふたりで並んで歩いている。
「気が楽だよ、お前といるとさ」
「フヒヒ」
「な、なんだよ」
「いやあ、先輩にそんなことを言われると、さすがに照れちゃいますなあ。ぼくのモテ期が来ちゃったのかもしれないっすね」
「やめろよな……マジで……」
そんな風に軽口を叩いていると、中庭に差し掛かったところで、強張った顔の兵士が駆け寄ってくるのが見えた。わずかに生えた鬼のような角から、人間族ではないとわかった。どうやら魔族のようだ。
彼は慶喜に敬礼する。
「魔王さま、ロリシアさまがお呼びです」
「ええー?」
慶喜はあからさまに不満げな顔を見せた。
「チミィ、ぼくは今ね、旧友のイサ先輩とふたりっきりの時間を謳歌している最中なんだよ。いくらロリシアちゃんでも空気が読めないって思わなくない?」
「そんなこと言って私を困らせないでくださいよ。魔王さまを連れていかないと、こっちが怒られちゃいますよ」
魔族の兵士は苦笑し、それから、と付け加えた。
「『すぐに済むから早く来てください。五分以内に来なかったらビンタですから』って言っていました」
「先輩、ぼくちょっと用事があるんで! すぐ戻ってきますんで!」
「お、おう」
頭を下げながら走ってゆく慶喜と兵士に手を振り、イサギはぽつんと立ち竦んでいた。
お飾りの魔王というわけではないようだ。口調は砕けていたが、あの兵士にはしっかりと慶喜への敬意があった。
「……」
イサギは意味もなく、己の左拳を見下ろした。
握り締めた拳をゆっくりと開いてゆく。
「浦島太郎も、きっと竜宮城から帰ってきたときは、こんな気持ちだったのかもな」
ただ異世界に喚び出されただけなら、まだいい。
しかしそこでは誰もが自分のことを知っており、今の自分を本物ではないと否定しかかってきているのだ。
つまらないし、やるせない。
お荷物以下の扱いだ。
こんな自分がここにいることに、なんの意味があるのか。
そんなことを考えてしまう。
記憶を失ってしまったイサギに価値はないと、皆が思っているに違いない。
「んなこと言われてもな……」
居たたまれなかった。
霧がかかったようなこの思考も含めて、気分がよくない。
すべての元凶であるこの右腕を斬り落としでもしたら、スッキリするのだろうか。
――くだらない。死ぬだけだ。
そんな気持ちの中、イサギはゆっくりと中庭に出た。
「……なんかここも、もしかしたら来たことがあるのかもしれないな」
デジャヴだ。いや、違う。本当に来たことがあるのだろう。
自分は記憶喪失なのだ。だが、あまり刺激すると右腕に痛みが走るので、無理に思い出そうとはしないことにした。
庭園は綺麗に整えられていて、そこだけがまるで世界から切り取られたかのような、美しい空間であった。
見惚れるよりも前に、皮肉が口からついて出た。
「こんな大変なときだってのに、中庭は立派なもんだな」
つぶやく。
すると、少女の声が小さく聞こえた。
『こんなときだからこそ、じゃないかな? ここが落とされたら、それこそもう、おしまいだもの』
そういうものか。
いや。
「……ん? 誰か、なにか言ったか?」
振り返る。辺りを見回したところで、そこには誰もいなかった。
参った。いよいよ頭がおかしくなってきたのか? 幻聴が聞こえてくるとは。
「やってらんねえな……」
「わひゃっ」
「うおっ」
深いため息をついたところで、茂みの中から転がり出てくる少女がいた。
ぼろをまとった娘だった。城の中でも見たことがない。また知り合いだろうか。いや、どうも違うようだ。
「な、なんだお前」
「ご、ごめんなさい! ごめんなさいごめんなさい! ごめんなさい!」
「え、ええ?」
烈火のごとく謝られてしまい、イサギはもう面食らう以外にはない。
「なんだよ、どうしたんだよ。大丈夫だよ、獲って食ったりしないぞ。どこからどう見ても無害な一般人だろ、俺」
「えっ、で、でもその身なり、貴族の方ですよね……? あっ、ご、ごめんなさい! 私、ごめんなさい! ごめんなさい!」
わからない。
必死に謝罪をされている最中、手を上げていると――。
「また入り込んでやがったか! このドブ鼠が!」
「ひっ――」
野太い怒鳴り声とともに、強面の騎士がのっしのっしとやってきた。
彼はイサギを見ると、貴族の嫡男だと思ったのか、唇だけで笑みの形を作る。
「ああ、すみませんねえ、こいつ何度言ってもお城に入り込んでくるんですよ。秘密の抜け穴があるそうで……ったく、貴族さまのお手をわずらわせるんじゃねえ!」
「ごめんなさい……ごめんなさい……!」
娘の髪を摑んで、男は彼女を持ち上げる。
痛みにひきつった顔をしている少女を見て、イサギも同じように顔を歪めた。
見ていられない。
「な、なあ」
「はい、なんでさあ?」
「どうしてその子、城の中になんて来るんだ?」
「ええ?」
不可解そうに眉をひそめる騎士は、娘を見下ろす。
ぼろをきた彼女は、はなをすすりながら。
「……だ、だって……おうち、もうなくなっちゃったし……たくさん人が来るから、わたしたちの食べ物も、ないし……お城にきたら、パンだって余っているし……」
「余っているわけねえだろ餓鬼が! あれは戦う騎士サマの分なんだよ!」
再び怒鳴りつけると少女は身を竦めた。
その様子を眺めていたイサギは――。
「……そうか、腹が減っているのか。だったら……」
そうつぶやいた途端、騎士が鼻で笑う。
「あぁ? 腹が減っているからどうしたって言うんですかね、貴族さま。もしかしてこの娘にパンをやれとか言うんじゃないんでしょうねえ?」
「え、いや」
顔を近づけてくる騎士は、その慇懃の言葉使いの端々に威圧感をにじませる。
「貴族さまは! 俺たち戦っている騎士よりも、こんないくらでも生えてくるような餓鬼に飯をやれっつうんですかねえ! それがあんたたちのやり方なんですかねえ!」
「そんな、俺は」
男越しに見た娘は、すがるような目をしていた。
名前も知らない、ただここで一目見ただけの少女だ。
だがそんなイサギの態度のなにかが騎士の逆鱗に触れてしまったのかもしれない。
騎士はイサギの肩を摑んできた。
「なあ、坊ちゃんよお! どうなんだおい、なあ!」
「俺は……」
痛い。男の怪力に、イサギは歯をくいしばって耐える。
なぜ自分がこんな目に遭わなければならないのか、わからない。
現代日本にいけば、食事などいくらでも余っていた。
だから、ほんの気楽な気持ちで言っただけなのに。
なんでこんな怖い目に遭わなければならないんだ。
脅され、イサギは自らの心が少しずつ砕かれてゆくのを感じる。
――こんなことになるなら、少しの正義感で首を突っ込むんじゃなかった。
ああ、もう。
なんなんだ、俺は。
どうしてこんな厄介事に巻き込まれてしまうんだ。
いつもいつもそうだ。不運ばっかりだ。
まったく、呆れてしまう。
素直に謝れば、穏便に済ませてもらえるだろうに。
殴られるのも痛いのも嫌なはずなのに。
それなのになぜ火に油を注ごうとするのか。
記憶を失う前の自分がもう少し利口であればよかったが。
自分には、こういうやり方しかできそうにない。
愚か者だ。
だがそれでも。
黒を白だと言うよりは、万倍もマシだ。
イサギは深呼吸し、男を睨みつけた。
『その子を――離せよ、おっさん』
イサギはその言葉を告げようとした。
そのときだった。
「――なにをやっているんすか?」
ひょっこりと現れたのは、のんきな顔をしたひとりの青年。用事を済ませて戻ってきた慶喜だった。
その横には、貴婦人のように着飾った少女、ロリシアがついている。
彼らを見たその瞬間。
「ああ……?」と反射的にガンを飛ばそうとした騎士は、青い顔で姿勢を正した。
「こ、これは――魔王さま!」
「どういうことすか?」
「いや、あの、これは――その、ドブ鼠が入り込んでいたもので!」
男の顔はもはや蒼白であった。
魔王に睨まれたその騎士は、直立の彫像と化す。
詳しく話を聞いた直後、慶喜は彼に告げた。
「わかりました。その子はぼくがなんとかするんで、もう配置に戻ってください」
「いえ、しかし、ここの監視は自分の仕事で」
スッとロリシアが前に歩み出た。
凛とした彼女は優しくその娘の肩を抱き、そして冷たい視線を騎士に向けた。
「――魔王さまがこう仰られているのに、あなたはその言葉に逆らうというのですね?」
「滅相もありませんっ!」
ほとんど金切り声のようだった。彼はそのまま走ってどこかに消えてゆく。
その姿が見えなくなってから、慶喜は「ふぅ」と息をついた。
「まったくもう、どこもピリピリしてるっすなあ」
「仕方ないですよ、みんな追い詰められているんですから……」
弛緩した空気が流れ出す。
見つめ合う慶喜とロリシアを眺めるイサギの目は――。
――まるで少年のように、輝いていた。
「すげえな、お前……」
「え?」
振り返った慶喜に、イサギは拳を握りながら迫る。
「お前、すげえよ! 大人相手に一歩も引かないで、すごいんだな! 魔王か、さすがだな、かっけえな!」
「あ、いや、えと」
「小さな子を助けて、やっぱりすごいんだな……。えらいよ、かっこいいよ」
慶喜は戸惑ったように目を逸らす。
その様子に、イサギは違和感を覚えた。
彼のことだから、そう言われたらきっと調子に乗って「そうでしょう! でしょう!」と胸を張るものだと思っていたのに。
イサギは慶喜との温度差を感じ、眉をひそめた。
慶喜は身を引いていた。
「……小野寺?」
「う、ううん、なんでもないんす。なんでもないっすよ。はっはっは、やだなあ先輩、そうでしょうそうでしょう。ぼくだって大したもんでしょう」
そう言って寂しそうに笑う慶喜の横で。
ロリシアはどういう感情を浮かべていいのかわからないというような、複雑で曖昧な顔をしていた。
「イサさまがヨシノブさまのことをそんな風に言うだなんて、明日は大雨かもしれませんね」
「そうだね、念願っすね」
「よかったですね、ヨシノブさま。イサさまを見返してやるっていう夢が叶いましたね」
「うん、まあ、はい。はっは」
乾いた声で笑う慶喜は、自らの思いを殺しているかのようだった。
いつだってそんなことを繰り返してきて、ここまでやってきたような。
それは負け戦の中に立つ男のような顔だった。
ロリシアはかがんで、少女に微笑む。
「今、少しのパンをもらってきますから。ちょっと待っていてね。でもお城の中は危ないから、すぐに町に戻るんだよ」
「……あ、は、はいっ」
緊張した少女がお礼も言えずにいると、その様子を見ていたイサギは、ふ、と微笑みを浮かべた。
「……ま、いいか」
柄の悪い騎士に絡まれたり、嫌な目に遭ったけれど。
結果的に彼女が食事にありつけたのなら、今はそれでいいか。
お腹を空かせているのは、辛いことだろうから。
そんなことを思っていると、慶喜とロリシアがこちらを見つめてきていた。
「? なんだ?」
「いえ」
いち早く慶喜が否定をした。
彼もなぜだか、嬉しそうであった。
「先輩は、やっぱり変わらないっすね」
「……そう、か?」
「はい」
ロリシアも小さく同意したから、イサギは頭をかく。
なぜだろうか。腹の奥が熱くなるような、そんな感覚がした。
決して嫌な思いではなかった。
先ほどよりもほんの少しだけ素直に受け入れることができるようになった中庭を見やり、イサギはつぶやく。
「よくわかんねえけど、あんまり期待しないでくれよ。俺は辛いことがあったらすぐ逃げ出すような、臆病者だからな」
「ですって、ヨシノブさま。イサさまが臆病者ですってよ」
「……人は人、自分は自分っす」
仏頂面の慶喜とからかうように笑うロリシアを眺め、イサギはなぜだか胸にぽっかりと穴が空いたような気持ちを味わう。
突如として襲いかかってきた虚無感に満たされながら、イサギは笑った。
「はは」
なくしてしまったものは、イサギの炎であり、魂であり、そして命そのものであるような気がした。
いったい自分は、なにを忘れているのだろうか――。
◇ ◆ ◇ ◆ ◇
その日、ついに消えていった空中戦艦の行く先が判明した。
極大魔晶を乗せたそれは、大森林ミストラルの中に消えていったのだと。
冒険者のエージェントが、急報を届けてきたのだ。
そして――。
一台の馬車がダイナスシティを出て、西へと向かう。
死神のような顔をした難民たちの列とは逆方向に向かうその馬車は、大空を引き裂いて飛ぶ鳥にも似ていた。
零れた想いはここに泣く。
落とした魂、どこで泣く。
男の知らぬ間に、彼女は去った。
向かう先は西。極大魔晶を求め。
ただひとつの救いを求め、征く。
夢見るは、あの頃の幸せ、唯一。
Episode13-5『哀切』
3月27日21時、更新。