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勇者イサギの魔王譚  作者: イサギの人
Episode:13 おかえりなさい、あたしの勇者さま
153/176

13-3 自失

「こんな形でオマエと再会することになるとは、思わなかった」


 頬を叩かれて――。

 そんな言葉を浴びせられた愁は、しばらく自身の感情を持て余している顔で、彼女を見つめていた。


 この再会は長い時間の流れとは裏腹に、ひどく奇妙なものだ。

 四百年の時を越えた愁にとっては、三年と少しぶりの再会に過ぎず。

 雪山で氷漬けにされていたルナにとってもまた、四百年の時を感じる手段はない。

 しかし彼らを分かつような感情の川は、そんな長い時の隔たりによって、すっかりと冷え切っているかのようであった。


 無表情で、無感情で、冷淡なルナの声はいつもと変わらず。

 だがそこには、彼女をよく知る人にしかわからない程度の、失望の色が混ざっていた。

 当然、緋山愁はそれを感じ取る。


 復活したばかりのルナが、愁に冷たく当たる必要などはない。

 それなのに、なぜルナはそんな辛辣な言葉を吐かなければならなかったのか。

 吐かなければならないほどに、追い詰められてしまっているのか――。


「……」


 緋山愁は、栗色の髪を指でかきわけ、改めてルナを観察する。

 美しき獣のような、野性を色濃く残した銀髪赤肌の彼女。

 四百年前ですら、はっきりと彼女のことを理解していたとは言いがたいが。

 今は、一瞬でも心が通じ合ったあの頃が嘘だったのではないかと思えるほどに――ルナの考えていることが、わからなかった。


 目覚めたばかりの赤子をあやすように、愁は両手を広げて優しい声を出す。


「……ルナ? 僕だよ、緋山愁だ」


 ルナはやはりこちらを見ようとはしない。


「わかっている」

「どうしたんだい、僕はここにいるよ」

「知っているとも」


 ならばなぜ。

 愁は首を傾げていた。


 半壊した広間には、いまだ何名かが残っている。

 それでも彼らは明確に――ふたりの物語の中――観衆でしかなかった。

 背景に溶けてゆくように、愁の目には映らない。

 色がついているのは、ただルナひとり。


 そんな彼女の考えていることがわからないなど、あってはならないことであった。

 愁はこの日のために生きていたのだから。


「ワタシの使命は、神族を滅ぼすことだ」


 重苦しく語るルナ。

 そうだ、もちろん知っている。

 ルナはそのために現出し、過ごし、戦い、長い時を生きた。

 それこそが、彼女の存在意義であった。

 愁はそんな彼女に喚び寄せられたのだ。


「わかっているよ、ルナ」

「世界に満ちた神エネルギーは、神族を呼び込む。そのためワタシはあらゆる禁術を封じ込めようとしていた。そのために、ずっとずっと、旅を続けていたのだ」


 そんなことは今更言われなくても――。


「――ああ」


 愁はそのとき、ようやく至った。

 口下手な彼女がなにを言わんとしているのかを。


 愁の全身には、禁忌とされていた紋様が刻み込まれている。

 それは四大禁術のひとつ『封術』。神の力を封じ込め、そして利用するための秘術である。

 ルナと愁は、この禁術の使い手を破壊するために各地を旅していたのだ。

 ならばこれが、ルナにとっては裏切り行為にも見えたのかもしれない。

 いや、きっとそうだろう。


 愁は花咲くように微笑んだ。


「そうか、そういうことか。僕のこの身に刻まれた禁術のことを言っているのだね」

「……」


 だが、違う。

 それは誤解だ。

 わずかなスリルを感じながらも、愁は話を進めた。


「ああ、そうさ。キミの目には隠すこともできないだろう。この行為はキミの気持ちを裏切る結果になってしまったかもしれない。だが、これには理由があるんだ。僕がこの世界で成り上がるためには、力が必要だった。周りは化け物だらけだったからね。まずは生き残らなければ、意味がないだろう?」


 実際は愁はなすすべもなく、この体に禁術を埋め込まれたわけだが。

 それは愁自身の落ち度というべきものだ。

 ルナの前で、自らの失態を告白するのは、あまりよい気分ではなかった。

 だから愁はそのことを巧妙に隠しながら、自らの想いを語る。


「この体、必要ならば君に捧げる日もくるだろう。禁術を使用した者には等しき死を。その掟に従うとしよう。僕にはその覚悟がある。それでも僕はキミに一目会いたかった。もう一度その声を聞きたかったんだ」


 愁の語る言葉に熱がこもってゆく。


「キミを愛するこの想いが罪だというのなら、僕はいつだって罰を受けるつもりだ。だが、今一度キミの隣で戦うことができるのなら、僕にはもうなにもいらない。この命すらも、だ」


 それは紛れもなく愁の本心であった。

 なんのためにアルバリススをひとりで旅をしていたのか。

 なぜ神化病を止めるために戦い続けていたのか。


 それらすべては。ルナのためだ。

 たったひとりで、振り返らずに戦い続ける彼女のためになにかできることがあるのなら、それを証明していたかったのだ。


「僕はこの時代でひとり、いくつもの夜を越えた。誰にも心根を吐けぬ毎日が、辛くなかったと言えば嘘になる。いつだってキミのことを思い出していた。キミが戻ってきたときに、僕の姿を見せたかった。キミはいつだって僕を侮っていたものだから、見返したかったんだ。キミのそばに立つことが許されるように。どうだい、ルナ。今の僕の力なら、きっとキミの役に立てるはずだ」


 愁は雄弁であった。

 言葉では届けられないはずの想いを、言葉で届けようとあがいていた。


「ルナ、今こそ僕が必要だろう。僕と、僕の作り上げた組織『神滅衆』だ。一度ダイナスシティに戻り、ともに力を尽くそう。僕の力は、キミのためにある。さあ、この手を取るといい。僕の全身全霊がキミのために力を振るうだろう」


 だが――。


 ルナはそんな風に手を伸ばす愁の横を、スッと通りすぎた。

 愁は弾かれたように振り返る。


「……ルナ?」

「シュウ。ワタシには使命がある。目覚めたのならば、征かねばならぬ。あのリーンカーネイションを止めるために、だ」

「そうか、わかっているとも。キミの道を僕が切り拓くとしよう」

「その必要はない」


 そのときになって初めて愁の胸の内に芽生える感情。

 それは、もしかしたら自分がひどく無様な勘違いをしているのではないか、という疑念だった。


 ルナがいったい何を言わんとしているのか。

 それは愁にはわからない。

 どうしてそんな、氷のような目をしているのか――。


 研ぎ澄まされた刃じみた彼女の美貌は、この一瞬、あらゆるものを斬り裂くほどに酷薄であった。


「眠り続けていたときに、オマエの声が聞こえていた」


 すべての音が遠ざかり、彼女の声だけが時を刻む。


「オマエは幼き少女(ノエル)を犠牲にし、騙し、ワタシに禁術を施して復活させようとしていたのだろう?」

「――」


 愁は目を見開いた。






 ◇ ◆ ◇ ◆ ◇



 勇者イサギの魔王譚

 Episode13-3『自失みずからがうしなわれてゆく



 ◇ ◆ ◇ ◆ ◇






「それは」


 返す言葉など、ない。

 いや、それではだめだ。必死になにか考えなくては。


 ――彼女はどこまで知っている? 気づいているのだ?


「今さら咎めはしない。だが、オマエは変わってしまったな、シュウ」

「まってくれ、ルナ」

「信念無き男に背中を預けることは、できぬ」

「違うんだ、ルナ」


 違うことなどなにもない。

 その通りだ。

 愁はノエルを騙し、彼女の想いを裏切り、ディハザを利用し、イサギの恋人と知っていたはずの極大魔晶を用いて、そしてルナを復活させようとした。


 ルナはすべてを聞いていた。

 そんなばかな。

 彼女は死んでいたはずではなかったのか。


 天は見通し、という言葉がある。

 天はすべてを見通しているから、善悪それぞれに間違いなく報いが訪れるであろう、という意味だ。


 愁はそのような言葉を信じたことは一度もなかった。

 悪が栄え、ずる賢いものが得をする世の中だ。天は見通しなど、正直なだけで能力を持たない善人が放った、苦し紛れの言葉でしかないだろう、と。

 今までずっと、思っていた。

 いや、今でもその気持ちは変わらない。


 ――つまり、しくじってしまったのだ。


 最後の最後に、愁は過ちを犯したのだ。

 もしルナが自分の言葉を聞いていると思っていたならば、もっとうまいやり方があったはずなのに。

 運が悪かった。失敗してしまった。

 愁はそんなことを思い、歯噛みした。


 ルナは愁の心を、見通していた――。


「オマエの性質は、ワタシとは違う。共に戦うことは不可能だ」

「だが僕には力がある! ルナ! たったひとりでは戦えないはずだろう!」

「戦える」

「強がりはよすんだ! 僕は罪を背負いながらも、ここに立っている! 僕ならばキミの力になれると信じて」


 愁は言葉を途中で途切れさせた。


 ルナの目を見た愁は、ゾッとしたのだ。

 愁の話を聞いている間、彼女はずっとこれほどに冷たいまなざしをしていたのか。


「他人の命を弄ぶオマエは、本質的にあの神族たちと変わらない」

「僕はすべてキミのために――」

「違う!」


 ルナは強く断じた後、わずかに俯いた。

 そして彼女はすべての情を振り払うかのように、首を振る。


「オマエがやったのは、自分のためだ」

「――」


 凍りつく。

 まるで決別の言葉のようだった。


「僕は、違う」


 ぽつりと唇から言葉が漏れ出た。


「いつだって、ルナのためだと、思っていた。それは本当だ。本心なんだ」

「ワタシのことを思ってやったことがそれか!」


 ルナの声にも悔しさがあった。

 彼女もまた、きっと愁を信じていたのだ。

 もしふたりがなんの遺恨もなく再会できていたら、それはとても美しい光景になったはずだろう。

 愁もまた、そんなものを夢見ていたのだ。


「キミを愛しているんだ、ルナ」

「……っ、今さらそんなことを! どの口が言うか!」

「僕が間違えたのなら、またここからやり直そうじゃないか! 僕たちはいつだってそうしてきただろう!」

「踏み越えてはならない一線というものがある! オマエはそれを破ったのだ! もはやその言葉は聞く耳を持たぬ!」

「……どうして……。だめだ、戻ってくるんだ、ルナ!」


 必死に手を伸ばす愁の姿は、哀れであった。

 彼を拒絶するルナの表情もまた、悲壮。

 どちらも望んではいない結末だったのに。

 だがふたりはもう元には戻れなかった。



 ルナは杖を握り締めたまま、天井から覗く赤い空を見上げる。


「……時間がないな」


 眉をひそめる彼女は、まるで神族の声が聞こえるかのようだった。

 かつて自分のパートナーであったはずの男をも観衆とし、ルナはただひとり舞台に立つ。

 彼女が掲げるのは、女神の杖ミストルティン。


「起動したリーンカーネイションを止めなければ、アルバリススに満ちた神エネルギーを糧に、やつらはこの地に戻り続けてくる。もはや一刻の猶予もない。ワタシはいかなければならない」


 ルナはそこで、立ち並ぶこの世界の生き物たちを眺めた。

 倒れたイサギ、彼を介抱するリミノや慶喜。アマーリエ、そして愁――。


「すまなかったな。神化病はワタシの父が創り出した(ことわり)だ。彼を追い詰めたのはワタシだった。ならば神化病と禁術にまつわる罪は、すべてがワタシのものだ。この手で葬り去らなければならない」


 ルナは頬を緩める。ただそれだけで彼女を取り巻く雰囲気が一変した。

 それはこのエディーラ神国を創ったとされる女神の微笑みのように厳然としていて、残酷なほどに美しかった。


 この場に敬虔なる女神教徒はいない。それなのに皆がルナの表情に心を奪われてしまった。

 彼女が別世界から訪れた神なのだと教えられても、信じられるほどの美貌だ。

 ――本来この笑みは、愁に向かって注がれるはずのものだったのに。


 だが、そのような佇まいも長くは続かなかった。

 次の瞬間、隕石のように落下してくるひとつの赤い影があったからだ。


 どこから降り注いできたのか。それは破壊的な質量を持って一同の前に姿を現した。着弾と同時に震動。強烈な地鳴りは日常の破壊を意味する。

 慶喜やリミノがとっさに法術の壁を張るも、舞い上がる土砂によって視界は遮られた。


 辺りは暗く包まれてゆく。

 それはまるで、なにもかもが闇に閉ざされてゆくようだった。


「オマエたちは逃げるといい」


 ルナは当然のように言い放った。

 愁が手を伸ばす。


「ルナ……」


 だが、もはや拒絶は済んだ。

 彼女は振り向くことすらもなかった。




 ルナをここに残すことが満場一致で決まったわけではない。

 しかし、いまだ目覚めぬイサギを危機に晒すことはできないのだ。

 愁たちは、屋敷から脱出することになった。


 煙の向こう側、ゆっくりと立ち上がるのはとても人間とは思えない大きさをした、人間のフォルムの化け物であった。

 腕の一振りで屋敷を叩き潰し、その脚力は山をも飛び越えるほどのものだろう。そもそも性能がなにもかも、人間とは違うのだ。

 こんな相手に、まだ少女と言っても差支えないほどの体格の娘がひとり、挑むというのか。

 まるで死にいくようなものではないのか。


「あの、ほんとにっ?」


 去り際、心配そうな顔をしていた若者に目を向けると、ルナはミストルティンを両手で握る。


「任せておけ。これがワタシの使命だ」


 その持ち方は奇矯。

 片方の手で杖の下半分を持ち、もう片方が杖の頭の付近を握り締めている。

 まるで相手の剣を受け止めるか、あるいは床に刺して土を掘るかのような、そんな持ち方であった。


「あ、あなたも、一緒に逃げたほうが、いいんじゃないっすかね、なんて――」


 必死の説得に、ルナはふっと表情を和らげた。


「優しき人の子よ、感謝する。だがこれはワタシの戦いだ。巻き込まれるといけない。それに、怖がられるのもあまり好きではないのでな」


 やがて土煙の向こうから、赤黒い巨体が現れた。

 慶喜は見たことがないだろう。しかしアマーリエの記憶にはある。

 それはかつてカリブルヌスが変貌した姿と、ほぼ同一の様相だった――。


 たったひとりでダイナスシティの王城を破壊した化け物だ。あのときはイサギの働きで、なんとか退治することができたのだが。


「こ、こんな相手に、たったひとりで……?」


 もはやルナはその怪物に向き直っている。

 一対一。質量においては数百倍の差があるふたりだ。


「かつて魔族に授けたこの杖を、再びワタシが持つことになるとはな。因果なものだ」


 握っていた聖杖ミストルティンが光を放つ。

 それは極術の発動のように思えた。

 だが、異なっていた。


 化け物がこちらに踏み込んでくる。そのときだ。

 ルナが両手で握り締めていた杖のその先端から、赤い光が伸びた。

 それは打ち出されたものではなく、杖に接続されていた。

 すなわち――、剣。


「さあ、かかってくるがいい、神族よ。ワタシはルナ。オマエたちを打倒せしめる者だ」


 ――極術・ミストルティンの剣。


 杖はただの持ち手に過ぎなかった。

 伸びた刃は、鮮血のように赤い。

 ただの一撃で怪物の体をも両断できるほどの、長大剣。

 それが本来の女神の聖杖の形であった。


 そしてそれは、かつて勇者イサギがカリブルヌスを両断したときに用いたクラウソラスにも酷似していた。


 ルナは数メートルにも及ぶ剣を構え、そして神を見据えた。


「――神を殺す神の力、とくと見よ」



 ◇ ◆ ◇ ◆ ◇



 それが、イサギの眠っていた間の出来事であった。


「結局、六禁姫のひとりを倒したはずのシルベニアちゃんも、どこかに消えちゃったみたいで……」

「……」


 豊かな胸を揺らす、双羊角を生やした女性が沈鬱な面持ちで言う。

 他にも、長い耳の緑色の髪の少女などもいた。

 皆、目が覚めるほどに美しい。

 すごいな、ここがファンタジーの世界か。

 そんなことを思わずつぶやいてしまいそうになるが、イサギは自重した。

 皆の表情が、あまりにも暗かったためだ。


 召喚以降の記憶を失っていたイサギは、皆を見返した。


「ええと……、それで、俺は記憶を失った、って?」

「……うん、そう、みたい」


 改めて尋ねると、先ほどリミノと名乗った娘がうなずいた。

 部屋には、デュテュ、リミノ、それにアマーリエと慶喜がいる。


 いや、あとひとり。隅っこのソファーで、小さな娘が力尽きたように眠っていた。


「ずっとがんばってくれたんだよ、キャスチ先生。先生が手を尽くして……封印をなんとか強固なものにして、意識は回復させたんだけど、でもその代わりに……ってことなのかな」

「ふむ」


 イサギはベッドの上で腕組みをして首を傾げる。

 よくわからないが、どうやらこの右腕に原因が詰め込まれているようだ。

 まるで高級な絨毯のような紋様が刻まれている。

 ずいぶんとかっこいいが、これでは銭湯には入れなさそうだ。


「それで俺がずっと戦いを続けていたのだけど、世界が危機に陥って……って?」

「はい、そうなんです」


 デュテュがそばでうなずく。彼女の髪の毛からは甘ったるい香りが漂っているようだ。イサギはわずかに身を引いた。


「えっと、それ本当の話、か? 俺をみんなで騙そうとしているわけじゃないよな……? コスプレまでして……」


 皆を見回すが、誰も笑ってはくれなかった。

 空気が重苦しかった。


「俺が勇者イサギとして、この世界で戦っていたって言われても……。ていうか、勇者ってなあ……」

「だ、大丈夫だよお兄ちゃん! 魔力が回復してきたら、すぐに思い出せるよ!」

「お、思い出せるって言われても」


 リミノの顔が近い。宝石のような瞳がぱちぱちと輝き、鼻筋が通った美少女に顔を突き合わされるなど、照れてしまう。イサギは目を逸らした。

 そこで赤髪のアマーリエが、今度はイサギの肩を揺らしてくる。


「し、しっかりしてよ。またすぐに戦えるようになるから!」

「俺はそんなに戦うのが好きだったのか……?」


 思わず問い返してしまう。


 しかし、記憶か。

 イサギは思い返すために、目を閉じた。


 まぶたの裏。

 当然、そこには闇しかなかった。

 いや、その奥に潜る。そうすると、なにか……。

 ……光か? これはいったいなんだろう。

 さらに奥へと潜ってゆく。


 光はなんらかの輪郭を形作ってゆく。

 それはなんだろう。

 まるで人のようだ。

 女性、か?

 とても懐かしい匂いがする。

 伸ばした手のような光が、イサギに触れようとしたその瞬間――。


 真っ赤な茨が、イサギの右腕に絡みついた。


「――――――」


 絶叫が響き渡った。

 信じられないほどの痛みだった、なんだこれは。目を開くと右腕に刻まれた魔法陣が不気味に輝いている。

 痛みはまだ続いている。右腕の神経という神経が悲鳴をあげていた。体が本人の意思とは打って変わって、激しく痙攣を始める。

 痛みは骨の奥から響いているようだ。泡を吹きながらのたうち回るイサギは、ただ嵐が過ぎ去るのを待つことしかできなかった。

 激痛が去った後は、もはやイサギは抜け殻のようだった。

 強烈なダメージに、脳の回路がすべて焼き切れたように放心していた。


「…………」


 激しく息をつく。右手の爪からは血が漏れていた。あまりの痛みに、あまりにも強くシーツに爪を突き立てていたようだ。


 一同はそんなイサギを前に、凍り付いていた。

 いち早く我に返ったリミノが慌ててやってきて治癒術をかけようとするのだが、びくっと震えたイサギはその彼女からも距離を取った。


「あっ、お兄ちゃん……」

「……」


 イサギの目は、今の一瞬で充血していた。

 わずか数秒にも満たないほどの時間で、イサギは自分の心が打ちのめされたのを感じた。


「な、なんだ、今の……。すごい痛みが、すごく痛くて……」

「う、うん……たぶん、先生の封印だと思う。かなり強引な手を使わないと、お兄ちゃんを助けられなかったって言っていたから……」


 リミノが再び優しく手を添えてくる。治癒術をかけられた右腕が、ぬるま湯に浸かったように、温かみを帯びた。


「……思い出そうとすると、こんなことになっちまうのか?」


 その言葉に答えられるものは、誰もいなかった。

 だが恐らくは、そうなのだろう。


「……勘弁してくれよ……」


 イサギが左腕で頭を抱える。


「なんだよこれ、突然こんなところにいたと思ったら、拷問みたいな真似をされてさ……。なんだよあの痛み、右腕がねじ切られるかと思ったよ……」


 まだ呼吸は落ち着いていない。

 だが思い出すことがあの痛みに繋がるというのなら、もうなにも考えたくはなかった。


「イサさま……」

「うん、だから、ごめん。ちょっと思い出すのは無理みたいだ。ごめんな」


 イサギが首を振ると、その場のものたちは顔を見合わせた。

 あれほど痛みに苦しむ姿を見て、それ以上なにも言えなくなったのだろう。

 ただひとりを除いては――。


「……」


 赤髪の娘が、一本の剣を差し出してくる。

 銀色の柄に収まった、とても綺麗な剣だ。

 直接光が当たっているわけでもないのに、きらきらと輝いていた。


 イサギはそれを怪訝な顔で見返す。


「あん……?」

「持って」

「いや、そう言われても」

「いいから、持ってよ」


 イサギは疑いの眼差しだ。


「……いやだよ」

「なんでよ」

「俺の記憶に刺激を与えるようなことは、やめてくれ。さっきみたいな痛みはもう二度とごめんだよ」

「……あなたの剣でしょう、持ちなさいよ」

「知らねえよ、見たこともないんだ」

「――っ!」


 その瞬間、アマーリエの髪が逆立った。


「勇者でしょう! どうしてそんなことを言うの! あなたは決して誰にも負けないで、戦い続けてきた人でしょう!」

「お、おい、やめろ――」


 彼女はイサギの腕を掴むと、怯える彼に無理矢理クラウソラスを持たせる。

 地球人であるイサギにとって、アマーリエの膂力は並外れていた。それがこの世界の生き物の使う『闘気』だという技能だとは、知る由もない。


 イサギは再びクラウソラスを手にした。

 そのときである――。


『え……』


 それは誰が漏らした言葉であったか。

 

「は? ……な、なんだよ……?」


 一同を見返すイサギは両手でクラウソラスを抱えていた。

 まるで茶番だ。彼は顔をしかめ、そしてクラウソラスを突き返す。


「こんな重い剣を持たされたところで、俺が思い出すことなんてないって……」

「……」


 アマーリエが息を呑んだ。

 彼女はクラウソラスを抱えながら、唖然とした顔でつぶやく。


「剣が、光らなかった……?」


 なにを言っているのか。

 剣が光るはずが、ないだろう。




 皆が去ってゆき、寒々しい部屋にはただひとり、冴えない顔をした若者だけが残った。

 彼はイサギを安心させようとか、平凡な笑みを浮かべていた。


「いやはや、イサ先輩」

「……先輩?」

「あ、えっと、そうっす、ぼくはイサ先輩のことをそう呼んでました」

「ふむ……同じ学校だった、わけじゃないよな?」

「ええ、まあ、違います。どっちかというと、成り行きで」


 警戒するイサギに、慶喜は再び「いやはや」と頭をかいた。


「大変なことに、なりましたっすねえ」

「そう、なのかな。俺にはあんまり実感がないんだ。起きたら俺の知らない人ばかりで、びっくりしたよ」

「そうっすよねえ、そうっすよねえ」


 イサギは自分の右腕をおっかなびっくり見下ろしていた。


「さっきのは痛かったな……」

「それ、ぼくも食らったことあるんすよねえ」

「そうなのか?」

「そうなんすよ……。あのときは、全身がバラバラになってしまうかと思いました……」


 大げさにため息をつく慶喜に、イサギは笑った。


「お互い、大変な目に遭っているみたいだな」

「せ、先輩……」

「ん?」

「今、自然に笑いましたね……?」

「いや、笑うくらいは笑うだろ。……記憶を失う前の俺は、どれほどに暗い奴だったんだよ」


 眉根を寄せるイサギに、慶喜は「うーん」と腕組みをした。


「まあ、結構なレベルでしたけど……。でも、かっこよかったっすよ」

「自分がかっこいい姿なんて、あんまり想像できないけどな」


 頬をかく彼に、慶喜は意外そうに尋ねた。


「そうなんすか? 先輩、めちゃめちゃかっこつけてましたけど」

「いや、よくわかんねえよ。そんな痛いキャラだったのか、俺は」

「痛いというか……いや、まあ、うん」


 慶喜はとても言いづらそうに口ごもった。

 マジかよ、という気分になってくる。


「そうか……。あ、でもお前、『慶喜』ってことは日本人だよな?」

「もちっす、そうっす」

「ああ、せめて同郷のやつがいてくれてよかったよ。さっきも名乗ったかもしれないが、俺は浅浦いさぎ。よろしくな」

「はい、ぼくは小野寺慶喜っす」


 イサギは右腕を動かすのはこわかったのが、左腕を差し出してきた。

 ふたりは握手を交わす。


「一応、ぼくたち同い年なんすよ」

「あ、そうなのか。そうか、俺ここ三年間の記憶がないからな……。小野寺も、昔の俺を知っているんだよな?」

「え、ええ、まあ」

「そうか、なんだか変な気持ちだな……。俺が知らないのに、皆が俺のことを知っているというのは」


 難しい顔でうなるイサギは視線を感じて、顔をあげた。

 慶喜がこちらをじっと見つめている。


「どうかしたか? 小野寺」

「あ、いえ、別に」

「そういえば小野寺はこっちの世界ではなにをしているんだ? 俺は勇者だとか言われていたが、お前は俺の仲間だったりするのか?」

「あー」


 慶喜は斜め上に視線をあげ、そしてつぶやいた。


「あの、一応、魔王やってます」

「敵同士じゃねえか」


 仰け反るイサギに、慶喜は苦笑いを浮かべていた。


 冒険者と神族の争いが始まる。

 だがそれはもはや一方的な虐殺でしかなかった。

 神族の侵攻を止めるため、

 アマーリエは星型第三要塞リアファルでの迎撃を主張する。

 立ち向かうしかないのだ。

 彼我の戦力差は、神とヒトほどにかけ離れているとしても。


 ――勇者は未だ目覚めず。


 次回更新日:3月20日『零落』

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