12-10 王夜襲
宵闇の闖入者は、高らかに告げる。
「わたしの名前は、リャーナエル。『勇気』のリャーナエルよ。もっとも、あなたが覚える必要はないわ。あなたはここで死ぬのだから」
「えっとー……」
慶喜からしてみたら、突然現れたちびっ子のエルフがなにやらわけのわからないことを言い出した、という感じであった。
普段であれば、あめ玉ひとつあげて追い返すといったところである。
だがそのちびっ子があまりにも美しい。
慶喜は自分の妄想の理想像が形になって現れたのかとすら思った。
さすがにそんなはずがない。
寝付けないながらも寝ぼけ眼の慶喜は頬をかくと、きょろきょろと辺りを見回す。
「あの、お父さんお母さんとかは、一緒じゃないの? というか、もしかして、部屋間違っていない?」
「うふふ、ねえ、すごいでしょう、わたし。こんなところまでやってきたのよ。普通は考えられないでしょう? 王都のこんな深くまでやってくるだなんて、わたし、とっても『勇気』があると思わないかしら?」
と、艶やかに笑うリャーナエル。
窓から差し込む月明かりに照らされた彼女の微笑みは、夜の妖精のように美しかった。
幼い少女がそのような完全な笑みを形作ることに、慶喜はわずかな違和感を覚えた。
それはずっとロリシアのそばにいて、彼女ともに歩んできた彼だからこそ気づいたことだった。
一言で言うのなら、不穏であった。
わずかにドアから離れつつ、慶喜はベッドの脇に置いてあった杖に手を伸ばす。
「あの、きみは――」
「うふ」
問いかけたその直後だった。
ドレスのスカートをめくり上げた少女が、そのガーターベルトに飾られた細い脚を露わにするとともに――凄まじい前蹴りを放ってきたのだ。
「――え!?」
空気が衝撃波で歪みかねないほどの威力が、慶喜の腹を襲う。
視界が一瞬にして書き換えられた。
痛みを感じる暇もなく、慶喜の体は吹き飛ばされ、窓枠をぶち抜いて、宿の三階から外に投げされていた――。
重力に従い、慶喜は空中で体勢を立て直す。
耳がキーンとして、体がうまく動かない中、それでもなんとかやってのけた。
地面の衝撃に歯を食いしばって耐え、着地した慶喜の背筋が青くなる。
「ちょ、ちょっと、なんなのマジで……テロ? テロなの?」
慶喜の前に音もなく着地したドレス姿の少女は、貴族街の街並みの中、優雅にスカートを持ち上げながら頭を垂れた。
「ごめんあそばせ。わたしのいけない癖ですわ。いっつもすぐに『足』が出てしまうの。淑女としての慎みがないって、よくノエルにも叱られてしまっていますわ、うふふ」
「いや、あの、え? いや」
ぱらぱらと窓枠の残骸が落ちてくる中、慶喜はいまだに状況を飲み込めない。
ただそれでも、とっさに体が動いたのは訓練のたまものだろう。
リャーナエルは目を細めて微笑んだ。
「それにしても、さすが魔王さまですわ。わたしの脚撃を、その杖で防いでみせるだなんて。なかなかできることではありませんわ」
「いや、なんかちょっといやな予感がして……って、そうじゃなくて!」
慶喜は右手に握りしめた杖――あらゆる物理的・魔術的な攻撃に対して、絶対的な防御力を誇る女神の杖、ミストルティンを少女に突きつける。
「なんなの!? マジで! ここ最近平和だと思っていたのに、どうしてぼくが狙われるの!? 何事!? お金なら結構あるよ! 平和的解決がいいなあ!」
「極大魔晶」
――。
水を打ったようなその一言に、慶喜は思わず口をつぐんだ。
いつかこんな日が来るかもしれないと思っていたが、あまりにも早かったから。
こんな少女が刺客だったなんて。ごまかしすら思いつかなかった。
リャーナエルは自らの体のラインを両腕で撫でてゆく。子供が大人の真似をしているだけのような行為ですら、彼女が行なえば扇情的に見えた。
彼女はまるで幼子をあやすように、慶喜に笑いかける。
「持っていらっしゃるんでしょう? あなたが。それが理由ですわ。これでよろしくて? きちんと“お利口さんに”戦えます? 魔王さま。うふふ」
「よくわかんないけど」
慶喜はちらりと宿を見上げ、それから杖の先で地面を打った。
「それはちょっと、ぼくの中でも今、トップクラスに大事なものだからさ。あげられないよ。他にほしいものだったら、大抵なんでも渡せるけどさ」
「あなたの命でも?」
「それも勘弁かなあ!」
声を張り上げる慶喜。
ならば、とリャーナエルは両手を開いた。
「さあ、踊りましょう、魔王さま。――こんなにも月が綺麗な夜なんですもの」
ロリシアとそう変わらない年に見える彼女を前に、慶喜は心の底からうめいた。
「……これが本当にダンスのお誘いだったら、めちゃめちゃうれしいんだけどなあ……」
遥かに年下の少女と戦う? 本当に馬鹿げている。
これ以上気が進まないことなど早々ないだろうが、しかし相手がやる気であるのなら、応じなければならない。
そうではなくては、イサギとの約束を守れないから。
慶喜の全身に刻まれた刺青が、わずかに輝き出す――。
かといっても、慶喜に油断はない。
相手がどんな見た目をしていようが、目にも留まらない脚術を披露した少女を前に、たったひとりで立ち向かおうと考えるほど、慶喜は英雄でもなければ勇者でもないのだ。
なるべく宿の周りで騒ぎを起こし、シルベニアやエウレたちの救援を待とうと考えていたのだが――。
「ごめん――あそばせ」
「っ」
左右に体を揺らしながら迫ってきたリャーナエルの回し蹴りを、慶喜は避けることができず。
ミストルティンを盾にすることで直撃は免れたが、まるで冗談のように放物線を描いて夜空に打ち上げられてしまった。
「う、うああああああ!?」
体が浮き上がる感覚に思わず叫ぶ。早いところ魔術を詠出して救援を求めなければならないのに。
――目の前には、真っ赤に染まる少女の不気味な瞳があった。
「うおっ!?」
「うふふ、いやだわ、わたし――はしたなくて」
それでも今度は障壁が間に合った。空中での蹴撃を慶喜は迎え撃つ。月下、魔力の衝撃がほとばしった。
さすがに生身で障壁を破ることはできない。大人びたヒールの高い靴底が慶喜の眼前で火花を散らしながら停止している。
「あら? あらあら?」
その奥のスカートの中身を見る余裕もなく――慶喜は障壁が切れるその瞬間に叩き込むつもりの魔術のコードを描く。
少女は自由落下に切り替わりながら、しかしすぐに“宙を蹴った”。
「――!?」
「これは見たことがなくて? 魔王さまは見識が不足していますわね」
なんてことはない、それはリャーナエルが空中に出現させた障壁を足場に、再び跳躍しただけのことだ。
しかし接触した瞬間にその身を焼く障壁を足場にするなど、まともな考えではない。並外れたリャーナエルの体術が可能にした妙技である。
魔術を放つ暇もなく。
――今度こそ、慶喜は少女の蹴りを腹に食らい、ダイナスシティのその夜空を流れ星のように吹き飛んだのであった。
瓦礫の中から身を起こす慶喜。
「い、いててて……」
気を失わなかったのは、彼が身にまとっていた封術師としての闘気のおかげだ。
砲台のように吹き飛び、弾丸のように家屋をぶち抜いて、ようやく勢いを失ってストップしたのである。
「ど、どこだろ、ここ……」
頭を振りながら起きると、粗末な作りの家屋が建ち並んでいるのが見えた。先ほどの貴族街とはうってかわって、貧民たちが生活する区画のようだ。
ダイナスシティの地理には詳しくないが、どうやら相当な遠くにぶっ飛ばされてしまったらしい。
ということは、自分ひとりであの暴れん坊をなんとかしなければいけないということか。
「ええ~……ま、参ったなあ……」
蹴り込まれた腹を撫でると、血がにじんでいた。わずかに吐き気も感じる。
だが、あれだけの衝撃を受けたのに内臓や骨も無事なのは、手加減をしてもらったわけではないだろう。ただ単に、彼女にとって都合の良い戦場に運ばれただけに過ぎない。
威力よりも飛距離を重視した一撃。先ほどはその一手だったのだ。
「うへ~……」
慶喜は杖を支えに立ち上がる。
すると間近に気配を感じた。
慌てて振り返ると、柱の陰から小さな女の子がこちらを覗いているのが見えた。
「……」
「あっ、えっ」
ぼろをまとった少女だ。栄養が足りていないのか、痩せてみすぼらしい恰好をしている。先ほどのドレス姿の少女とは違う。
一瞬たじろぎ、それからすぐに慶喜は思い当たった。
「あ……あ、もしかしてここ、きみのお家……だったりする?」
「……」
少女はなにも言わないが、おそらくそうだろう。慶喜は頭をかいた。
「参ったな……ごめんね、風通しよくしちゃって。あとで弁償するからさ、うう、ごめんね」
頭を下げる慶喜に、少女は小さく首を傾げている。急に空から人が降ってきたのだ、そんなリアクションにもなるだろうか。
間を繋ぐために、慶喜はたどたどしくも言葉を続ける。
「あ、だ、大丈夫。ぼく、こう見えても結構お金持ちだから……その、信用できないかもしれないけど、いやまあしょうがないよね、こんな格好だし。ていうかそれ以前にめちゃめちゃ怪しいし」
「……」
柱の陰から出てこない少女をぼんやりと眺めていると、ああそういえばロリシアちゃんも昔はこんな感じだったなあ、などと思う。
「……いや、むしろ最初の方は、柱の陰から見つめていたのはぼくだったかな?」
もう二年以上も前の出来事だ。
なんとなく懐かしくなって、思い出してしまう。そんなことをしている場合でないということはわかっているのに。
周囲には、ずっと情けない姿ばかり見せてきた。
リミノを救えず、クローゼットの中に引きこもって、それからロリシアにもずいぶんと失望されたこともあった。
暗黒大陸からドラゴン族と協定を結ぶために大陸に渡って、それからも半人前の姿を晒して。
竜王バハムルギュスと戦ったときには、ロリシアが命まで懸けてくれた。
なんとなくふと思い出し、慶喜はわずかに背筋を正した。
「色々なことがあったなあ……ホントに」
呼吸を落ち着かせる。
今ここで強敵と対峙するのは、何度目だろう。指折り数える。
冒険者に襲われたこと、竜王バハムルギュスと決闘したときのこと、シルベニアを救うためにゴールドマンと戦ったときのこと、そしてデュテュを前に極大法術を張り続けたこと。
せいぜい五回か、あるいは六回ぐらいだ。命のやりとりがそれだけあれば十分だろうか。だがきっと、イサギや廉造はその何十倍もこういうことを続けてきたはずだ。
「あ、もしかして、ぼくを蹴り飛ばして、極大魔晶のところに向かったことなのかも……!」
そんなことを一瞬考えたけれど。
――少女は再び、慶喜の前に姿を現した。
音もなく着地し、彼女はスカートの端を軽く持ち上げて微笑む。
「魔王さま、“ねんね”の時間は終わったかしら?」
「うん、まあ、うん」
自分を追ってくれるのなら、まあ好都合と言えなくもないだろう。とりあえずは極大魔晶から彼女を引きはがせたのだから。
屋根すらも砕け散った家屋からは、月明かりが薄ぼんやりと降り注いでいる。
慶喜は杖をもう一度ぎゅっと握り締めた。
「誰かに頼まれていたことはあったんだけどさ、たぶん、ぼくから言い出したのは初めてなんだよね」
ぶつぶつと小声でつぶやく。リャーナエルはわからなかったようだが、構わない。
「あれこれやってくれ、あれこれ頼んだぞ、って、まあ、言われることの多い立場ですから、しょうがないんですけど。でも、この人のためになりたいっていう気持ちを表に出したのは、たぶん初めてのことで。だから、そればっかりは叶えさせてもらわないと困るな、って」
慶喜の目が赤く、赤く、澄んでゆく。
「自分のためじゃなくて、誰かのために。ぼくだってずっと、ずっと憧れてましたから。だから、すみません」
「なにを謝っているのかしら?」
「それは」
慶喜は一瞬だけ逡巡したが、結局は言い切る。そうすることにした。
それは決意の言葉だ。
「――ぶちのめさせてもらいます」
今度は慶喜のほうが早かった。
辺り一帯を覆う障壁。自分とリャーナエルを隔てた壁。
彼女が近接戦闘を得意とするのなら、これで慶喜には近づけなくなったわけだ。
しかしリャーナエルは平然とこちらを余裕げに見つめている。
法術はそれ単体では相手に危害を加えることはできないからだろう。
「時間稼ぎのつもりかしら?」
「いや……これがぼくの戦い方だし」
距離を取って魔術の連打を浴びせるために、準備を整える必要がある。
いくらミストルティンが手元にあるといっても、杖術の訓練を受けたわけではないのだ。彼女が相手では心もとない。
「ねえ、魔王さま、そういうのって、ちょっと『勇気』がないように見えるのだけれど?」
無視無視。
闘士に付き合って接近戦を挑む魔術師など、早死にするだけだ。
「いや、なんか失望させちゃったらごめんね、でもぼくって結構手段を選ばないタイプなもんで」
「ふうん」
弱者が強者に立ち向かうために、綺麗汚いなど言っている場合ではない。
障壁を張っているその数秒の間に、慶喜は魔術のコンビネーションを思い出す。
こんなところまで吹っ飛んできてしまったからか、辺りには貧民街の住人たちが様子を見に集まってきていたりする。
大魔術は使えないだろう。ならばリャーナエルの足を止めるためにその行く先を誘導するような魔術を――。
「ねえ、魔王さま。もしあなたがお父様から、『絶対にやってはいけないよ』と言いつけをされたら、どうするかしら?」
「え? ……いや、そりゃ、たぶんやらないだろうけど」
突然の質問を、バカ正直に答える慶喜。
リャーナエルは自らの体を抱きしめながら、俯く。
「そうよね、そうだわ、当たり前だわ。だってそんな言いつけを破ってしまったら、あとのことが怖いものね。普通ならするはずがないわ。だって良いことがないものね」
ふっと顔をあげた彼女の目には、これまでにない――陶酔の色が浮かんでいた。
それだけではない。その奥には、確かな狂気があった。
思わずゾッとした。
作り出した障壁が乱れかけ、慶喜は自らを制御する。
「でもそれは、本当にそうかしら? 本当に? 己の恐怖に逆らうことが勇気なら、それだって勇気の証明だとは思わない? わたし、言われてきたのよ。ディハザに『絶対に騒ぎを起こしちゃだめよ』って。何度も何度も言われたの。破ったら、きっと怒られるわ。すごくこわいけれど、でも、そのためにわたしは証明できるのよね、自分の『勇気』をね」
「きみは、一体なにを――」
リャーナエルはふいに慶喜に背を向けた。
真っ赤なドレスを翻し、彼女は淑女のような足取りで、カツカツとヒールを鳴らし、出口のほうへと向かう。
そこでは、浮浪者のような身なりの男が、怪訝そうにこちらを眺めていた。その男に向かい、リャーナエルは高々と右足を掲げた。
「ああ、はしたないわ。こんなこと、怒られてしまうわ」
「――やめ」
思わず障壁を解いた慶喜の叫びも聞かず、リャーナエルは足を振り下ろす。
その一撃で、男の首が飛んだ。
野次馬たちの間から、悲鳴があがった。
「なんで――」
「ねえ、良いことを思いついたわ、魔王さま」
勢いよく吹き出した血を浴びながら、ぺろりと唇を舐め、リャーナエルは清々しい笑顔を浮かべていた。
「あなたは術師なんでしょう? それならこうしましょう。わたしは臆病者は嫌いだわ。あなたが術式を使うごとに、人間族をひとりずつ殺してゆくわ。どうかしら? ……でも、ダイナスシティはきっと、人間族は大勢いるわよね? あまり意味はないかしら」
「……なんで、殺すんだよ」
奥歯を噛みしめながら、慶喜はうめく。
リャーナエルは顎に指を当てて首を傾げ、斜め上に視線を浮かべた。
「人を殺すのは、良くないことだと言うでしょう? だからかしら? でもそこはあまり大事ではないわ。禁じられたからするのよ。してはいけないことをするのが、わたしの役目だもの」
「――ふざけるなよ!」
慶喜は叫び、彼女に杖を向けた。
その瞬間、発動する魔術。それはコードの筆記さえ見えない、もはや魔法と変わらないほどの速度で打ち出される神速詠出術の極地のような魔術であった。
炎の矢がリャーナエルの額に吸い込まれるようにして着弾した。小さな爆発音とともに、彼女が後ろに倒れてゆく。その寸前で踏みとどまったリャーナエルは、艶やかに笑う。
「――魔術を使ったわね」
まるでダメージはないように見えた。闘気の鎧を打ち破れなかったのだろう。慶喜は叫び、魔力を叩きつける。
「うおおおおおお!」
四方八方から出現し、彼女へと突き刺さる石の杭だ。
普段ならここまで殺傷能力の高い魔術は、有用であっても決して使ったりはしない。
だが、慶喜の頭の中には今、彼女を止めなくてはという思いでいっぱいだったのだ。
それに、これほどの魔術を放たなければ、リャーナエルにはかすり傷すら負わせられないだろう、という想像があった。
――しかし、彼女はその魔術を避けようとはしなかった。
「――!」
杭にその細い手を、足を、腹を突き破られ、真っ赤な血を吹き出させた。
まるで磔にされたように足を浮かせる彼女。おびただしい血を流しながら、それでもリャーナエルは微笑む。
「――うふふ」
「……そんな、なんで……」
自らの手によって血塗れになった少女は、慶喜の心の奥底を汚すような顔で笑っている。
「だって、おかしいの。人を殺しただけで、そんなにムキになるんだもの。わたしが死んだらどんな顔をするか、見てやりたくなるじゃない。それに、どう? 恐ろしい魔術に立ち向かうわたしの『勇気』……。うふふ、賞賛してくださらない?」
「変だよ、こんなの……なんで、なんでそんな……」
彼女の行動の意味が、その目的がまるでわからない。
慶喜は力なく後ずさりをする。
「きみは、なにがしたいんだよ……わざわざ自分が傷ついて、意味がわかんないよ……!」
「“わたしたち”はみんな、台無しなものが好きなの」
串刺しにされた少女は血を垂らしながら、笑う。
「あなたのように真っ白な存在を汚すのが、大好きなのよ。洗いたての白い布に血をぶちまけるその瞬間は、ゾクゾクするわ。それに比べたら痛みなんて、なんてことはないもの」
「おかしいよ……そんな、こんな……」
うなだれる慶喜に、リャーナエルはさらに絶望を撒く。
「ああ楽しかった。それなら次は――」
リャーナエルが全身に魔力をみなぎらせた次の瞬間、彼女の体は緑色の光に包まれた。
何度も見たことがある禁術、回復術の輝き――。
石の杭を破壊しながら床に落ちるリャーナエルは、まさしく地上に舞い降りた天使のようだった。
「二度の魔術の代償を、いただくわ」
「やめ――」
起き上がり、慌てて魔術を放とうとした慶喜は、しかしその瞬間にわずかに躊躇ってしまう。
また魔術を使えば、人が殺されるのではないかと――。
その隙に、リャーナエルは稚拙な魔術を描き、視界の中にいたふたりの人間族を殺害する。
ひとりは、逃げ遅れていた老婆。
そしてもうひとりは――。
「――」
慶喜が先ほど言葉を交わした、この家屋の住人である――ぼろ切れをまとった少女だった。
瞳孔を開いたまま音もなく横たわる少女。
慶喜は髪を掴み、声なき声を叫ぶ。
「――――――」
絶叫する男を前に。
ドレスの埃を払い、リャーナエルは髪を手櫛で整えて、まるで新入生のような顔でにっこりと笑う。
「それじゃあ、遊びはここまでだわ。ちゃんと、やるべきことはやらないといけないわ。わたしも一人前の、レディーなんだもの」
「…………」
慶喜はゆらりと立ち上がり、杖をぎゅっと握り締めた。
「きみは、きみだけは……許さない……」
「許さない? 構わないわ。わたしたちはもう、女神さまから赦していただいているもの」
「きみだけは……!」
杖を突きつける慶喜。
――そのミストルティンの先端に赤い火が灯る。
「許さない――!」
慶喜の全身に刻まれた封術が、一際大きな光を発した。
それに比例するように、ミストルティンが輝き出す。
相手が少女だろうがなんだろうが、もう容赦はしない。
慶喜の頭に血が上る。
「そんな風に、人の命を簡単に奪うことが、どれだけの罪か! ぼくがきみに思い知らせてやる!」
「残念だわ、少し、遅いわね」
リャーナエルは踏み込みとともに、たやすく慶喜の懐に入り込んだ。
飛び上がり気味の蹴りは、しかし慶喜が発生させていた魔力の力場によって弾き飛ばされる。
「え?」
くるりと回転しながらも元の位置に舞い戻るリャーナエルは、彼がなにをしようとしているのか、そのとき理解した。
「それは――お父様の」
――極術。
持ち主の願いを叶えるための、絶大な力。
杖を支える慶喜の右腕の血管が破れ、血が吹き出た。
「ああああああ!」
「――っ」
真っ赤な光が集束し、リャーナエルに狙いを定める。さすがにこの一撃は、先ほどの魔術とは格が違う。
なんといっても神の魔力を借りたもの『封術師』が放つ、本物の極術だ。
絶対に浴びるわけには――いかない。
リャーナエルは一も二もなく、逃げ出した。
慶喜がどれほどの使い手なのかは知らないが、極術は発動までにあまりにも時間がかかる代物だ。リャーナエルが本気で身を隠せば――あるいは、人を盾にすれば、彼は水平に極術を放つわけにはいかなくなるだろう。
けれど――。
「っ――女神さまっ」
敬虔な――というよりももはや彼女の存在価値ですらある――女神教徒のリャーナエルは、寸前に足を止めてしまった。
あまりにも強大で、恐ろしい力をの前にこの身を晒してこそ、『勇気』を示せるのではないかと。
そんな甘美な誘惑がリャーナエルの脳裏をよぎる。
ディハザには叱られるだろう。烈火のごとく怒られる上に、そんなことをしてはただでは済まない。最悪、死んでしまうかもしれない。
ああ。
死に挑む――『勇気』――!
そんなことを思った瞬間に、もはや極術の発動は確定していた。
「――いっけえええええええええええ!」
慶喜の叫びとともに、杖から光が溢れだした。
その規模は小さい――といっても、ひとつの区画を丸ごと焼きつくすほどの威力があるだろう。水平に放たれていれば、だが。
慶喜が限界まで威力を絞って撃ち出した極術は、逃げ遅れたリャーナエルを飲み込む。
「あ、ああああああああああああああ!」
――幼い少女の本物の悲鳴が貧民街に響き渡った。
夜空を覆い尽くすような真っ赤な光はすぐに止み、また、角度をつけて放たれた極術も天空へと消えてゆく。
自らの魔力を振り絞った慶喜は、その場に膝をついた。
「はぁ、はぁ、はぁ……」
全身を包み込むような虚脱感は、大量の魔力を消費してしまったからだろう。
だが、歩けないほどではない。
杖をつきながら起きあがった慶喜が見たのは、のたうち回るリャーナエルの姿だった。
「あっ、あああ、あ、足、足があっ、やだ、なんで、どうして回復術が、あっ、ああっ、ああああ、うあああ」
左足を極術に飲み込まれたリャーナエルが、必死に地を這いながら、慶喜から離れようとしていたのだ。
緑色の光が左足を覆ってはいるが、血が止まるだけで、なんの作用ももたらしているようには見えなかった。
「あっ、だめっ、だめ、あた、あたしの回復術じゃ……治せ、ないっ、ああっ、ノエル、ノエル、助けて、あたしを、助けて、ノエル、助けて!」
慶喜はそんな彼女の元に近づき、その小さな体を見下ろす。
「……きみは……」
哀れに命を求める彼女を見て、慶喜が今思うことは――。
「……どうして、あんなことを、したんだよ……」
――虚しさしかない。
彼女を痛めつけたところで、死んだ人が生き返るわけでは、ないのだ。
虚空に手を伸ばすリャーナエルの姿は、痛ましく。
「ああ、ノエル、ノエル……あああ、あたしの、足が、足がないの……ノエル……お願いよ、ノエル……」
「……」
片足だけで起きあがろうとするリャーナエルに、慶喜は魔術のコードを描き、そして右手を突きつけ。
「……」
そして――。
――。
「ひどいざまだわ、リャーナエル」
ばちんと大きな音がして、慶喜の右手が見えない衝撃に打たれた。
「――なっ」
まるで同じ顔をして、同じ声をしたドレス姿の少女が、そこには立っていた。
長い耳のエルフの娘。リャーナエルとまったく同じ――。
いや、問題はそこではない――。
それよりも――。
「ミシフォン!」
リャーナエルが歓喜の声をあげる。
ミシフォンと呼ばれた少女は、小さく首を振った。
「こちらは終わったわ。早く戻りましょう」
――その少女は、ベッドのシーツに包まれたひとつの輝く彫像を、危なげに抱えていた。
言うまでもなく。
極大魔晶である――。
「そんな!」
慶喜は真っ青になって思わず叫んだ。――元から賊はふたりいたのだ。
ひとりが自分の相手をしている間に、もうひとりが極大魔晶を強奪したのだろう。
だがそれなら、他の面々は――。
――刹那、天より真っ赤な炎が、リャーナエルとミシフォンの間に降り注ぐ。
「――しつこい」
ミシフォンが嫌悪感をその美しい顔ににじませて、天を仰いだ。
頭上を取っていたのは――。
――白銀の髪を持つ寝間着姿の魔女。魔族国連邦、最強の魔法師、シルベニアである。
「黙れ」
宙に浮かびながら、彼女はその両手に巨大な炎を宿していた。
まさしく空中砲台である。
あれが放たれれば、間違いなく貧民街は消滅するだろう。
それよりもなによりも。
「――だめだよ、シルベニアちゃん! そんなことをしたら、プレハさんが!」
「……」
慶喜の叫びに、月を背にして浮かぶシルベニアは、こちらまで聞こえてきそうな表情で歯噛みをしていた。
「そういうことだわ。まったく、ここに来るまではどうなることかと思ったもの」
視線を転じれば、ミシフォンのドレスのあちこちには細い穴が穿たれていた。プレハに構わず、シルベニアが魔法を打ち込んだものに違いない。
ミシフォンは慶喜とシルベニアを交互に見つめ、言う。
「リャーナエル、帰るわ」
「ええ、ミシフォン、ええ、大丈夫よ、わたしだって跳べるわ」
片足立ちで嬉しそうに何度もうなずくリャーナエル。
慶喜は彼女たちに手を伸ばした。
「そうはさせない!」
極大法術を使い、ふたりの少女を閉じ込めるのだ。
リャーナエルはすでに片足がない。シルベニアとふたりがかりなら、ミシフォンを倒すこともできるだろう。
コードを編み出したそのときだった。
ミシフォンは極大魔晶をリャーナエルに渡すと、両手を掲げ、告げる。
「わたしはミシフォン。『忠節』の名を持つ、ミシフォン。命じられた事柄に背くことはない。必ず、ありえない」
両手を振り下ろしたその直後――。
――辺りの空間が爆砕した。
貧民街のやわな家屋は、残らず粉砕され、高々と舞い上がった。瓦礫の海の中、慶喜は魔術を使って辺りを吹き飛ばし、視界を確保する――。
――しかし、周囲に少女たちの姿はなかった。
「そんな――」
背筋が寒くなった。
少女が操った『魔法』によって、自分たちは彼女を取り逃してしまったのだ。
その上、多くの犠牲者も出てしまったことだろう。
――自分たちが巻き込んだのだ。
デュテュやリミノ、ロリシア、キャスチがどうなってしまったのか。
そして――。
――イサギとの約束を守れなかった。
慶喜は目眩を覚えて、地面に手をついた。
「こんなことって……」
打ちひしがれる慶喜の元に、ゆっくりとシルベニアが着地する。
彼女の目は真っ赤に染まっていた。
「ヨシノブ、わたしはあいつを追うから」
「……えっ」
「後は任せたの」
有無を言わせないシルベニア。
プレハを奪われたことがそれほど悔しかったわけでは、きっと、ないだろう。
尋ねるのが少し、怖かった。
震えながら、問う。
「……まさか、誰か、やられちゃった、とか……?」
シルベニアは一瞬だけ、自然体の表情に戻って瞬きを繰り返す。だがすぐに首を振った。
「…………ううん、そうじゃないの。デュテュがロリシアをかばって大きな怪我をして、今キャスチが見ている。だから大丈夫。心配いらない。みんな等しく役立たずだったの」
「そ、そっか。なら、よかった……いや、よかったってこともないか……でも、それならどうして」
シルベニアは複雑な表情をした。その中に、自分を責める色が混ざっていたのを敏感に感じ取り、慶喜は思わずドキッとした。
「ど、どうかした?」
「気がつかなかったの?」
「え……?」
聞き返されて、慶喜は胸に手を当てる。一体なにがだろう。
シルベニアは自らの髪を乱暴にいじりながら、不快そうに吐き捨てた。
「あの女、お兄……ううん、ゴールドマンの魔法を使っていたの」