12-9 二代目戦聖
ハノーファの前に立つ仮面の女騎士。
雪道に咲く一輪の花は、赤い髪をしていた。
黒衣をまとう彼女は柄に手を当て、男をかばうように立つ。
「このミス・ラストリゾートがあなたを断罪するわ」
ふたりの男に挟まれた彼女は、そんなことを言う。
イサギは異容の介入者を見つめながら、つぶやいた。
「……その姿は、おまえは一体……」
「あたしは」
答えようとした彼女が言葉を切る。
ハノーファの雰囲気が変化したからだ。
「お前はその男を守るのか、女」
「……」
ハノーファがわずかに右肩を下げたそれだけのことで、仮面の女は半歩、足を開いた。
両者が戦闘状態に入ったのだと、イサギは理解する。
仮面の女とハノーファの距離は、十歩。
「ならば私の剣の錆となるがいい」
「……あなたは」
仮面の女はぎゅっと拳を握った。
「本当に、ハノーファなの? ……どうして“そんなこと”になってしまったの」
「なにを言っている。私は私のままだ。なにも変わることはない」
「……じゃあどうして、あなたがこの人に剣を向けるのよ」
女の言葉に、ハノーファは迷うことなく告げる。
「決まっている。父上の仇だからだ。そいつは殺すべき敵だ」
「……っ」
イサギはやはり辛そうな顔をした。
親友であった男の息子に、自分は死ななくてはならないと言われて、それでも平然としていられるほど、強い人間ではないのだ。
ずっとイサギが抱え続けてきて、この世界に来てからもずっと戦い続けてきたが、今なお克服することはできない――己の心の弱さだ。
だが――。
仮面の女は、言う。
「この人は、優しい人だわ。あなたにこの人を否定する権利はなにもない。そんなことは、あたしが許さない」
「……おまえは」
イサギのそんな辛さもすべて見抜いたような言葉を吐く。
すらりと立つ仮面の女は、標的を見据えた。
「“ハノーファ”、残念だわ。あなたはもう六禁姫に……そうなのね」
「立ちはだかるのなら、お前も私の敵だ」
「わかったわ、ハノーファ……わかったわ、ええ、わかったわ」
仮面の女は、ついに剣を抜いた。
「たとえあなたと戦うことになってでも、この人を倒させるわけにはいかない。あたしのすべてを懸けて、あなたを止めてみせる。心配しないで、イサギ。あなたはあたしが守るわ」
ミス・ラストリゾート。自ら切り札を名乗る彼女は、ハノーファと対峙する。
ハノーファの抜いた剣は、輝く灰色の刃。石剣。
「死ぬがいい」
「誰も殺させない。――だってあたしは、守るために強くなったんだもの」
仮面の女とハノーファの距離は、十歩。
――そして、九歩になる。
彼女はアマーリエ。
初代ギルドマスター・バリーズドの長女、アマーリエ。
二代目戦聖の名を持つ者。
今はただひとりの、闇の剣である。
◇ ◆ ◇ ◆ ◇
勇者イサギの魔王譚
『Episode12-9 二代目戦聖』
◇ ◆ ◇ ◆ ◇
アマーリエはハノーファと別れ、たったひとりで放り出された後、すぐに行動を開始した。
やつらの言うことに従うのは癪であったが、それ以上に彼女は兄と愁を救いたいと思っていたのだ。
『ブレイブリーロードの対魔王戦』の舞台となった平野にて生み出されようとしている、『ベリアルド実験場』の極大魔晶。
それを持ち帰るために、アマーリエはエディーラを発つ。
だが、現地にたどり着いた彼女は、大きな問題にぶつかった。
ベリアルド実験場の魔晶は、極大どころの騒ぎではなかった。
その魔晶は、日数が経過するごとに――ある日を境に――徐々に縮小化していっていたのだ。
こんなことになっているとは思わなかった。
冒険者ギルド本部から派遣された研究員たちも、話に聞く限り、記録上初めてのことだと言う。
焦燥に突き動かされたアマーリエはエディーラへと、とんぼ返りをした。
なにが起きているのかはわからない。だが、ただひとつだけわかっていることがある。
それは、このことをバカ正直に話したところで、六禁姫が人質を解放することはないだろう、という確信だった。
アマーリエは自分たちの行動が六禁姫によって監視されているだろうことを知っていた。
だからその正体を隠し、エディーラへと再入国したのだった。
彼女が選んだ衣装は、黒衣。
そして、仮面だった。
誰の手も借りず、誰にも頼らずに。
ただひとりで正義を執行するために、彼女は闇をまとう。
それはかつて彼女が鮮烈に憧れた男の姿だった。
かくして今ここに、ひとりの剣士が誕生する。
――ミス・ラストリゾート。
隙あらば六禁姫の寝首をかくために。
彼女は決意とともに、仮面をかぶった。
その姿こそが彼女はふさわしいと思っていた。
ただひとりでこの世界の命運を背負うことを決めた女の前には今――。
――死んだと思っていたはずの、彼がいたから。
死んだと思っていたはずの大事な人と。
生きていると思っていたはずの大事な人がいて。
アマーリエはすぐに気づく。
己のやるべきことと、そして決断の時が来たのだと。
踏み込みの衝撃によって、粉雪が舞い上がった。
斬りかかるハノーファの剣を仮面の女――アマーリエは半身になって避ける。
自由自在に軌道が変化する邪剣を防ぐのは、至難の業だ。
間合いの外に逃げるのが、定石である。
「……本気の一撃……!」
仮面の女のわずかに覗かせている顔が歪む。
「……本当に、殺す気でかかってきているのね」
「言ったはずだ。死ぬがいいとな」
ハノーファは再び雪をかき乱しながら、女に襲いかかる。
今度の一撃は先ほどよりも早い。
そうだ。これがハノーファのやり方だ。彼は徐々にその剣速を増してゆくのだ。
アマーリエは飛び退きながら、つぶやく。
「……いつも言っていたわね。『父上の剣技は凡人の自分には使いこなせない。だから俺は頭を使うしかないんだ』って。相手の力量を見極め、リスクを嫌ってギリギリに配分されるあなたの攻防のバランスは、芸術的ですらあったわ」
だがその言葉も、雪に吸い込まれるようにして消えた。
「死ぬがいい」
さらにハノーファの速度が増す。
今度の一撃は、女の黒衣の端を裂いた。
女は間合いを取り、さらに語る。
「でもあたしはそんなあなたが、少し苦手だったわ。あたしには剣しかなかったけれど、あなたはなんでもできた。それがとても羨ましくて、そしてたまに憎らしくも思っていたの」
ハノーファの体がその場で一回転した。
足下をなぎ払う剣が雪を吹き飛ばし、雪煙を作り出す。
「あなたは出来の良い息子。父上を知るみんなはあなたに期待をかけたわ。だからあたしは王都を出て、冒険者になった。あなたと比べられるのは、もううんざり。あたしは唯一無二の存在になりたくて、勇者イサギに憧れたのだけど……でもきっと本当は、父やあなたに見せたかったのよ。あたしだって英雄の娘なんだって」
死角から飛び出したハノーファは剣を上段に振りあげている。
これで勝負を決するつもりの剣撃だ。
両手を添えられたその剣が、振り下ろされる。
アマーリエは同時に剣を振るった。
――硬質的な音が響き渡った。
ハノーファの斬撃はアマーリエの肩に鮮やかなる裂傷を刻む。
一方、アマーリエの反撃はハノーファのわき腹を斬り裂いてはいたのだが。
その肉体にわずかな切り傷をつけただけで、止まってしまった。
刃が通らなかったのだ。
異常に硬質化された皮膚。それはすなわち――。
「……」
そしてハノーファのその傷もまた、すぐに緑色の光に覆われて修復されてゆく。
もはや見慣れた――回復術の発動だ。
アマーリエは、静かに目を閉じた。
ああそうか、そういうことになってしまっているのか。
淡い希望すらもすり潰されたような心地であった。
回復術が発動されているのなら、もはやハノーファは――。
――もはや。
――。
「次で終わりだ」
ハノーファの死の宣告だ。
それは、間違いないだろう。これより速度が上がれば、仮面の女に対処する術はない。名実ともに認めよう。剣の腕は彼のほうが上であると。
さらに濃い闘気がハノーファの体から立ち上ってゆく。
二代目ギルドマスターであった頃のブランクを感じさせることがない、洗練された闘気だ。かつてアマーリエはそれをも羨ましがっていたのだが。
アマーリエは深く息を吸い、そしてゆっくりと吐き出す。
大丈夫だ。
やるべきことは、変わらない。
心はむしろ、穏やかだった。
降り積もる、この雪のように。
しんと雪の降る道で、アマーリエは仮面に手を当てた。
「みてて、イサギ」
女は仮面の奥の目で、じっとその勇者を見つめた。
彼は突然現れた女とハノーファの戦いに、戸惑いながらも、その視線に気づいてハッとする。
「まさか……」
その程度で揺らぐアマーリエではないが。
その『まさか』の言葉の意味が、仮面の女にはおぼろげながらも理解ができた。
彼は自分がハノーファに危害を加えることを快く思っていないのだろう。
本当に、甘い人だ。
自分を殺そうとしてきた相手にすらも、悪に徹することができない人だ。
彼にとってもハノーファは、特別な存在だったのかもしれない。
子どもの頃から知っていたようだったし。
アマーリエの脳裏に、以前言われた言葉が浮かぶ。
『――彼がいかなる決意をしてあの場に立っているか。その重さを知らない僕たちは、決してその邪魔をするわけにはいかないんだよ。それがわからないのなら、キミはまだここにいるべきではない――』
そうだ、彼はそう言っていた。
今になってようやく、そのことがわかる気がする。
誰かを救うためになら、どんなに汚いことにでも手を染めて。
そして自身を悪と化す。
それこそが、今自分にできる――。
「――やめろ、アマーリエ」
――。
その瞬間、彼女の思考が停止した。
名前を呼ばれた、ただそれだけで。
「お前がハノーファを殺すことはない。……俺が、やる」
イサギが前に歩み出てくる。
アマーリエはすぐに正気を取り戻した。
「……とめないで、イサギ」
自分がなんであっても、やるべきことに変わりはない。
そのことについて、とやかく言われる筋合いもないのだ。
「大丈夫だから、イサギ」
「だが、ハノーファはお前の……!」
「兄よ。でも、大丈夫」
アマーリエは言い切る。
「あれはもう、ハノーファ兄じゃない。ただの傀儡であり、生ける屍だわ。敵に回ったのなら、葬り去る。それ以外に、方法など」
「救えるかもしれない!」
イサギの叫びに、仮面の女はぴくりと震えた。
「俺がやる……、アマーリエ、俺がやるから」
「……」
その弱々しい声に、アマーリエは腕をあげてイサギは制した。
こちらに歩み寄ろうとしてくる彼の腰から一本の剣を引き抜く。
――雷剣カラドボルグ。
かつて父が所持していた、伝説の晶剣。
その昔、アマーリエが旅に出る前に触ったことがあるそれは、まるで鉛のように重かったはずだったのに。
今は手に張りつくような感触すらあった。
「イサギ」
彼の肩を押し返し、アマーリエは気炎を上げた。
「――そんな顔をするぐらいなら、人助けなんて止めなさい」
イサギはひどい顔をしていた。
彼はショックを受けたようにして、こちらを見やる。アマーリエはすぐに目を逸らした。
「……アマーリエ」
「あなたにはもう、これ以上なにも背負わせないわ。背負う必要だって、ない。――見ていなさい」
こちらをじっと見つめてくるハノーファの目を見て、アマーリエは背筋が寒くなった。
それはまるで、かつて自分を陥れた男、カリブルヌスのようだったのだ。
「……力を貸して、父さん」
小さくつぶやき、アマーリエは剣を持ち上げた。
切っ先をハノーファに向け、刺突の構えを取る。
「死ぬがいい」
ハノーファが踏み込んできた。
「ああああああ!」
アマーリエの叫びによって、雪が舞い上がる。
なにもかも振り切るために、アマーリエもまた駆けだした。
――雷鳴が轟く。
凄まじい音とともに、カラドボルグが叫ぶ。
ハノーファの驚愕の表情が一瞬、雷光に照らされ、紫色に輝いた。
――この一撃は、稲妻の如く。
まさしくそれほどの剛剣が、鋼鉄の殻に覆われたハノーファの首を貫く。
首だ。
腕でも足でもなく、アマーリエは首を狙ったのだ。
実の兄の、首を――。
アマーリエの速度は、ハノーファのそれをさらに上回った。
最初から防御などまるで気にしていない必殺の一撃を放つアマーリエを、ハノーファの技量では捌ききれない。
よって、彼は今、実の妹に首を貫かれている。
「かはっ――」
「……」
気道を塞がれ、行き場のない血がハノーファの口から溢れた。
だが、まだだ。
その体が緑色の光に覆われてゆく。
回復術の発現である。
一撃では、しとめられない――。
「ハノーファ兄」
肉に埋まる前に剣を引き抜くアマーリエは、ハノーファの胴を薙ぐ。
雪原に紫電が飛び散った。
「たとえあなたがあたしでも、きっと同じことをしていたわよね」
さらに縦に断つ。白いキャンパスが赤と紫に染まる。
その刀身に稲妻と伝説をまとう晶剣カラドボルグ。それは嘘のように素直に、アマーリエに従ってくれた。
「あたしはこの罪を生涯抱えて、生きていく。それがあたしの、ラストリゾートとしての咎」
ぐんにゃりと、ハノーファの体が膨らんだ。
右腕になにやら硬質的な鱗のようなものが浮かんでゆく。
かと思えば、その左腕は獣のような毛に覆われていったのだ。
「……これは……」
異形へと変わり果ててゆく兄の姿。
さすがのアマーリエですら、たじろいだ。
ハノーファの体は変形してゆく。
寄せ集めの土を混ぜ合わせたような体へと。
左右の腕は長さも違い、そして足も同様に。
まっすぐに直立することもできなくなり、揺れながらもその場で立つ。
ぱちんぱちんと鳴る音は、肥大した肉が体皮に収まり来れず、弾けてゆく音だ。
そのたびに血が飛んでゆき、雪を赤く汚した。
眼窩は窪んで、穴ぼこのような暗闇がこちらを覗き込んでいた。
緑色の光は妖しく輝き、そして脈動するかのように明滅している。
「一体、なにを、なにをしたの! 六禁姫――!」
アマーリエは叫ぶ。
「あたしのお兄に、なにをしたのよ! 六禁姫! 心を弄ぶだけでは飽きたらず、魂まで冒涜しようというの!?」
カラドボルグを振り下ろすアマーリエ。
だが驚愕に彩られた彼女の戦意では、雷剣の十分な力を引き出すことはできなかった。
ぶよんとした皮膚に弾かれ、アマーリエは態勢を崩す。
その瞬間――ハノーファの右腕が巨大化した。
「――っ」
まるでは虫類のような爪だ。人ひとりをたやすく叩き潰せるような大きさのそれが、アマーリエの体に影を落とした。
振り上げられた腕は、身を竦めるほどの暇もなく、アマーリエへと振り下ろされ――。
そこにすかさずイサギが、割って入る。
クラウソラスを抜く彼の行動に――今だけは――迷いはない。
だが――、
「うらあああああ!」
変わらない、やるべきことは、なにも――。
アマーリエの咆哮が、カラドボルグを力で満たす。
先ほどのように、そして先ほど以上に。
「あたしは――!」
引いた右足で大地を踏みしめ、アマーリエは剣を振り上げた。
巨大な右腕と雷を帯びた剣が交差する。
刹那、右腕は中ほどから斬り飛ばされ――宙を舞った。
アマーリエの体から吹き出した闘気は、金色の炎をまとう。
「――このあたしの剣は! あらゆるものを断つッ!」
それが肉親であろうと、異形の怪物であろうと。
恐怖だろうと、なんだろうと――。
決めたのだから、ただひとりで倒すと。
守るために強くなると――。
アマーリエは左腕を突き出し、コードを描く。
それはこの雪に覆われた町にふさわしき――凍土を操るための魔術。
「これがあたしの――切り札!」
光が瞬き、コードが発現した。
ハノーファであった者の再生能力を上回るほどの速度で、彼が足下から氷結化してゆく。
防御力の高まった神化病患者を撃破するために、アマーリエが生み出した奥義である。
剣を地にこすりつけ、巻き上げながら上段に振り上げた。
魔術剣――。
「――トルンプフカーテ!」
舞い上がる雪とともに、アマーリエは氷に覆われたハノーファを両断する。
真っ二つに割れ、地に沈み込んでゆく怪物。
凍りつき、魔力の行き場を失ったその回復術は、もはやハノーファに効力を発揮することはなかった。
これが彼女の、彼女が編み出した対神化病患者用奥義。
まさしく切り札である。
雪上の墓標に背を向け、アマーリエは赤髪を払った。
仮面の奥の目が、暗い色を浮かべる。
アマーリエは静かに目を伏せた。
なぜイサギが仮面をかぶっていたか、彼女はそのとき知ったのだ。
それはきっと――誰にも涙を見せないためだったのだろう、と。
「……終わったわ、イサギ」
涙声を隠しながら、アマーリエは彼に向き直った。
クラウソラスを掴みながら、自分よりもずっと辛い顔をしている彼。
「……アマーリエ、すまない」
この人を守らなければならない。
彼がどれだけの決意を持って、今まで世界を守ってきたか、今のアマーリエにはようやくわかった気がしたから。
だからアマーリエは唇を引き締めながら、告げるのだ。
「あたしはミス・ラストリゾート。あなたの涙を止めるためにやってきたわ」
イサギは顔を伏せ、目を逸らしながら小さくつぶやいた。
「それで自分が泣いていたら、世話ないな」
「……でも誰かの涙を止めることはできた。それならそれでいいの。あなたがずっとやってきたことでしょう」
「……」
イサギは小さく嘆息した。
「かもしれない」
歩き出そうとして、その体が傾ぐ。
「ちょっと、あなた!」
血相を変えて駆け寄ってきたアマーリエが抱いたイサギの体は――。
「とても、熱い……どうしたの、すごい熱……こんな状態で、さっきからいたの……!?」
「……それでもやらなければならないことがあるから」
「あたしの手もふりほどけずに、なにを言っているの。……本当に、どうしようもない人ね」
イサギは静かに目を閉じた。
「……きっと、そうなんだろうな」
◇ ◆ ◇ ◆ ◇
ダイナスシティに到着した慶喜たちを待っていたのは、王都の歓迎であった。
人間族と長らく敵対していたはずの魔族だ。
その彼らが王都の土を踏むことに、多大なる抵抗を持つ人間たちは確実にいると思っていたのだが。
人々の感情をも操ったのは三代目ギルドマスターの手腕だろう。
しかし、民にもその主義主張を受け入れる土壌があったのは、間違いない。
第二次魔帝戦争が巻き起こるかもしれないと言われた人々は、おそらく気づいたのだ。
自分たちはもう戦争に疲れたのだと。これ以上の争いは無用なのだと。
魔王慶喜、魔帝の娘デュテュ、そしてロリシア、シルベニア、キャスチ。さらにエルフの次期女王リミノ。
彼らは拍子抜けするほどに呆気なく、異国の客人として招待されたのだ。
王城ではなく、貴族街の高級宿に滞在するように言われた慶喜たち。
たったひとりの男性である慶喜は、ほっと息をついた。
手厚い警備に支えられたこの場所なら、プレハの身を守ることも難しくはないだろう。
ダイナスシティの王城にもっとも近いこの宿は、ネズミ一匹入り込むこともできない堅牢さだ。
滞在何日目かの夜。
外に月が浮かび、獣も寝静まったような真夜中、慶喜はなぜか眠れずにいた。
遠くに旅したイサギや、捕まった愁のことが心配だったのかもしれない。
竜王バハムルギュスなどは、すでにダイナスシティに到着していたらしい。
せめて一声、挨拶をしていったほうがいいかもしれない。
だが、イサギに託された極大魔晶の元を離れるのも不安だった。
自分は彼に信頼されて、そして一番大切な人を任せられたのだから。
今彼女は、隣のキャスチとリミノの部屋にいるが、なにかあったときにいつでも飛び出せる用意はしていた。
なにせ、極大魔晶だ。彼女を狙う者は山ほどいるだろう。
……廉造だとか。
「さすがに、廉造先輩に来られたら、そりゃこわいっすけどね……。でもぼくが決めたことっすから、弱音は吐いてられませんよね」
やはり、眠れずに。
これからのことを考えながら、ベッドに横になっていたときだった。
とんとん、とドアがノックされる。
「はーい?」
ロリシアかな? と思ってドアを開く慶喜。
そこには、真っ赤なドレスを着たひとりの少女が立っていた。
非常に美しい。まるで作りもののような美しさだ。
思わずぼうっとしてしまう。
「あ、え、ええっと……あ、とがった耳……エルフの子、だよね? リミノさんのお客さんかな?」
「――初めまして、魔王さま」
そう話しかけられて、慶喜の頭の中にはクエスチョンマークが浮かんだ。
こんな子は見たことがないけれど、一体何者だろう、と。
闇の中に、血のように赤い瞳を浮かべ、少女は笑っていた。
「ねえ、今宵の月は綺麗ね」




