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勇者イサギの魔王譚  作者: イサギの人
Episode:12 終末に希う、ただひとつの
142/176

12-7 デモン

 旅の衣装を身に着けたイサギは、家のドアを開く。


「それじゃあ、いってくる」


 腰につけたのは、二本の剣。神剣クラウソラスと、晶剣カラドボルグだ。

 

「はい、任せてください、先輩!」


 見送る青年は、女神の杖ミストルティンを抱きかかえるようにして持つ。

 魔王・慶喜、彼もまた決意を秘めたまなざしであった。


 リミノもデュテュも、心配そうな顔をしている。

 彼女らを見返すことはできず、イサギは慶喜につぶやいた。


「プレハを頼んだ。慶喜。それに、みんな」

「ういっす!」


 ドンと胸を叩く慶喜。わずかにその上背が伸びた気がするのは、自信がついて姿勢が正されたからだろうか。彼は間違いなくこのアルバリススにやってきて、一番成長した男だ。

 

「なんか、前もこんなことがあったね」


 リミノが複雑そうに微笑むと、デュテュも一緒になってうなずいた。

 

「イサさまが、暗黒大陸を出発しようとしたときのことですね」

「うん、あのときもリミノたちで見送ったよね」

「懐かしいです……。まるで、すごく遠い昔のようです」


 リミノとデュテュはふたり手を繋ぎ、互いの勇気をかき集めるような顔をして、それでようやく口を開く。


「お兄ちゃん、絶対に今度こそ、帰ってきてね」

「イサさま、お願いします、どうぞご無事で」


 ふたりは『自分のところへ』とは言わなかった。

 彼が戻るべきは、自分の元ではないから。

 それでも男の無事を祈り、ふたりは微笑む。


 イサギから託されたプレハを護り、そしてその彼の帰りを待つのが、今のふたりの使命なのだ。


 そのとき、どこかからひょっこりとエウレがやってきた。

 バツが悪そうな顔をする彼女に、リミノがわずかに目を吊り上げながら。


「お兄ちゃんが出発するっていうのに、どこにいっていたの」

「いえ、まあ、周りの様子を見に、ですかね、へへへ」

「別にきょうぐらいいいじゃない。最近、いつも留守にしているくせに」

「ええ、まあ。どこにいてもご無事は祈ってますし」


 エウレは小さく舌を出して笑う。その楽観的な緊張感のなさも、彼女らしいものだ。

 イサギがどうなったところで、エウレだけは彼の無事を信じ続けるに違いない。


 だが、キャスチだけはまだ諦め切れないような顔をしていた。


「本当に良いのか? せめてシルベニアでも連れてゆけば、なにかの助けになると思うのじゃが」


 たったひとりで向かおうとするイサギに、彼の戦いを間近で見たことがないキャスチは申し出るものの。

 イサギは静かに首を振った。


「ありがとう、キャスチ。でも大丈夫だ。俺のためを思ってくれるのなら、ひとりでも多くの戦力をプレハを守るために使ってくれ」

「むう……」


 もう何度も繰り返されたその問答に、キャスチは唇を結んだ。

 そのためにミストルティンも慶喜に預けたのだから。



 話し合った結果、一同はこの村を放棄することに決めた。

 廃村は身を守るのには向かない土地だ。


 彼らは先にプレハをダイナスシティに運ぶことが決まっていた。

 あの場所なら愁を知るものが力を貸してくれる上に、伍王の面々も集まっているという。

 それにプレハの症状を回復させるためには、多くの魔晶の欠片が必要だ。いつかは向かわなければならなかったとも言う。


「治療は任せるがいい。……わしにできることをしよう」

「道中も心配はいらないっす、怪しいやつらが近づいてきたら、ぶっ飛ばしてやりまっす」


 胸を張る慶喜。

 リミノやデュテュもうなずいていてくれる。

 

 イサギは思わず目頭が熱くなるのを感じた。

 

 自分とプレハのために皆が集まって、協力をしてくれる。

 この世界の秘宝たる極大魔晶を、無償で守ってくれるというのだ。

 それも人間族に虐げられた、魔族やエルフ族の姫たちが。

 イサギの歩んできた軌跡のすべてが結実したかのような思いに駆られてしまう。

 まだここからなのに。

 

 ――愁を救い、そして伍王会議を成功させることで、各種族の禍根は完全に取り払われ、ようやく本当の意味で二十年前の戦いを乗り越えることができるのだ。

 アンリマンユを討伐した、その先にある本当の平和だ――。


 ふと会話が途切れたそのとき、イサギは歩き出す。


「それじゃあ……その、いってくるよ」


 いってらっしゃい! と姫たちの声が出発を告げる鐘のように鳴った。

 その声援は、風を抱くように彼とともに舞ってゆく。


 イサギは向かうのだ。

 戦いを終えたはずの男が。

 遠く、愁が捕まっているその王国、神国エディーラへと。






 勇者イサギの魔王譚

『Episode12-7 デモン』





 

 ◇ ◆ ◇ ◆ ◇



「さて」


 愁は首を傾けながら、暗闇に燐光のような吐息を漏らす。


「僕の旅はもうすぐ終わりに近づいている」

「あら、まだなにも始まっていないじゃない」

「始まったらもうおしまいさ。各国の王に僕が『マシュウ』という名を名乗りながら、あちこちの魔物を退治していくだけの物語だ。伝承を記した本を読めば、そこに大体のことが書いてある。そう遠くはないよ」


 愁の前の小さな椅子に足を揃えて座るドレス姿の少女は、ピンと尖った耳を小さく揺らしながら身を乗り出した。


「あなたとルナはエルフ族の王国、ミストランドに向かって、そこでリーンカーネイションの様子を確認した。そこまで話したでしょう」

「ああ、そうだね」


 ノエルの真剣な紅色の眼差しに、愁は楽しそうに笑う。

 

「ミストラルで起きたその出来事、それが僕とルナの始まりだったんだ」






 ◇ ◆ ◇ ◆ ◇



 過去。

 愁とルナはその日、エルフの城に泊まった。

 久々に与えられるふかふかの寝床に、愁も満足であった。

 

「ああ、これが人の住むところって感じがするなあ……」


 ひとり部屋でベッドに頬を埋めながら、愁はわずかな郷愁に想いを馳せる。

 シーツから漂白剤や洗剤の匂いが漂っていると思うのは、記憶が刺激されているからだ。

 海馬に眠る引き出しに次々と電気信号が走り、関連記憶が引き出されてゆく。


「……熱いコーヒーが飲みたい」


 うめいたところで、この世界にそんなものはない。

 いくら求めたところで手には入らないものがあるのだと気づかされたのは、この異世界召喚のおかげだろうか。


 窓の外からは深い森が覗けた。星の光も届かないほどの樹冠がいっぱいに広がっている。

 

 ベッドに横になって天井を眺めていると、心がこの世界に溶けてゆくような気がする。

 元の世界の緋山愁が欠片も残さず、飛散してゆくようなそんな錯覚を覚えた。

 消失してゆく人間味の欠片を、それでもこの世界に繋ぎ止めておけるものがあるとするのなら。


 それは愁にとって、人のぬくもりであった。




 暗がりに男と女の荒い息遣いがわだかまる。


 ベッドの上で絡みつくふたつの影。まさしく生の象徴であるような様であった。

 肌と肌を重ねあわせていれば、なによりも自己の証明になる。

 それだけではない。こんな異世界でも、男と女の理はなにも変わらないのだと、実感ができる。

 それは計り知れないほどの安心感であった。


 愁が組み伏せているのは、エルフ族の侍女だ。

 彼の世話をするためにやってきた少女を、愁はベッドに誘ったのだった。


 初めて触れ合うエルフ族の肌はきめ細やかで、手のひらに吸い付くような感触があった。

 城に勤め、身の回りを小奇麗にしている少女だ。これまでの村娘とはわけが違う。いじらしい喘ぎ声を繰り返す彼女は、愛らしかった。

 

 細身の彼女を抱きしめていると、ふいに思うことがある。

 こんなエルフ族の美しい侍女とともに、この城で暮らすのはどうだろう、なんてことを。

 

 ルナと旅を続けていたとしても、自分の行く末はどうなるか決してわからない。

 それならば、ここで安息を得るのもいいのではないか、だなんて。

 

 愁はそんなことを思った。

 手に入らないものを諦めて、身近な幸せを掴む。

 夢のような話。

 それもひどく甘い夢だ。


 夜の明かりにも目が慣れてきたそのとき、愁は少女の腿に大きな裂傷の痕を見た。


「あっ、これは……」

「……ん」


 わずかに現実に引き戻されたような気がした。

 酷い大怪我の後だ。現実世界ではまずお目にかかることができないような、凄惨なものだ。


 彼女は自分が死に至る寸前であったこと。だが、素晴らしい術で完治することができたこと、などを控えめに語った。

 愁はそんな少女を抱き寄せながら、微笑んだ。

 未だ心の中に恐怖を飼っていた彼女を慰めることは、自らの弱さを鎮める行為にも似たようなものだったけれど。


 自分だけは違う、と思い込んでいた愁は、異世界に召喚されたことによって幻想を打ち砕かれた。

 もはや彼は己の弱さを否定するような真似はできないから。

 だからルナのようにたったひとりで歩んでいける娘とではなく、こんな小さな少女と手を取り合いながら生きていくことができれば、と。

 

 そんなことを、思っていた時――。

 扉が開け放たれた。


 赤肌の、輝ける白髪の女。

 燃えるような紅眼をたたえ、超常者は立っていた。

 

 右手に神官のような男を引きずりながらやってくる彼女は、まさしく狩りを終えたばかりの獅子の如く。


「すべての禁術に関する書は焼き払ったと思っていたはずが、まだ使い手が残っていたか。まったく、潰しても潰しても沸いて出るものだ」


 ビクッと身を震わせながら目を覚ます侍女と打って変わって、愁は気だるそうに尋ねる。


「どうかしたのかい、ルナ。怖い顔をして」

「ああ」


 愁の言葉にうなずくルナ。

 彼女は部屋に立ち入りながら、ベッドの上の男女を睨みつけ、そして告げた。


「どけ、オマエ。今からその女を、殺す」


 有無を言わせぬ物言いであった。




「ちょっと待ってくれ、ルナ」


 腰履きを身につけただけの姿で、愁は立ち上がる。

 ルナの口調はいつもと相違ない。つまり、本気だ。


「彼女は無害だ。一体なにをしでかしたのかは知らないが、僕が保証する。この子に人を傷つけるようなことはできないよ」

「ずいぶんとかばうのだな」

「まあそりゃあね。肌を重ねた仲だから」


 恥ずかしげもなく言い切る愁は、軽く微笑みを浮かべた。

 どうにかしてこの場をコントロールするために、愁は思考を巡らせる。


「そもそも、どうしたっていうんだい。君の主義は『振りかかる火の粉は払わねばならぬ』だろう。君にはこの子が火の粉に見えるというのか?」


 いつになく厳しい口調で問い詰める愁は、少女を守ろうとしていたのだ。

 侍女は震え、シーツを胸元まで引き寄せていた。

 紅眼白髪のルナの容貌は、この世界で生きる人々にとってやはり、忌まわしき姿のようだ。

 そんな娘に『殺す』とまで言われたのだから、今どれほどの恐怖を味わっているのか。


 だがルナは、神官の男を部屋の中に投げ入れると、その足で強く床を叩く。

 

「この男が吐いた。オマエは禁術を使ったな」

「……禁術?」

「回復術。魂を犠牲に肉体を再生させるための禁忌だ」


 待て! と男が叫んだ。


「その娘には、俺の娘には罪はない! すべては俺の責任だ! 死傷を負った娘を癒やすために、俺が禁忌に手を出したのだ! だから、ルナ様、贖うのならば、俺だけの命で――」

「そういうわけにはいかぬ」


 一言で切って捨て、ルナは歩み出た。


「禁断の果実を口にしたものは、滅びは避けられぬ。一時の栄華は幻だ。もともと死する運命だったのだ。これまで生き長らえた幸運に感謝せよ」


 神官も侍女もルナの物言いになにも言えず、そして扉の影からこちらを窺う兵士たちも皆、ルナの逆鱗に触れまいと怯えている中――。


「待つんだ、ルナ」


 ――たったひとり、愁だけがその言葉を発した。

 魔法師である彼の目もまた、薄く朱色に光をともす。


「一度与えた希望を奪うなんて、そんなことは誰にもできない。しちゃいけないだろ、ルナ。僕たちは神様じゃないんだ」

「オマエは知らぬ。禁術の果てがどのようなものか。そこをどけ」

「スラオシャルドが僕に言ったことがある。君はたったひとりで、誰にも理解してもらえない戦いを続けているのだと」

「……あの男が、そんなことをか」


 愁とルナの間に高まる緊張は、徐々にその危うさを増してゆく。


「でも、今初めてわかったよ。君がこんなやり方を続けていたのでは、誰にも理解されないのは当然だ。君はただ切り捨てているだけだ」

「オマエの言っていることは、わからない。ただ情を移った女を手放したくはないだけだろう。これがワタシの役目だ。振りかかる火の粉を払うのとは、わけが違う。神化病患者は根絶やしにしなければならない」

「……彼女がそうだというのか?」


 震える侍女を指す愁に、ルナは飾らぬ言葉を吐く。


「可能性がある」


 その物言いが、愁の激情をも誘った。

 今までずっと考えてはいたが、彼女に守られていたのも事実だから――決して言えなかったことが、爆発した。


「助かった命をそんな理由で! 生き残ろうとすることが罪だと言うのか!」

「違う。だが世界が滅ぶよりは良い」

「彼女の世界は滅ぶことになる!」


 大義のためにひとりの命を見捨てるための決断を迷いなく行なう彼女とは、いつまで経っても平行線だ。

 愁はそこまで割り切ることなどできやしない。

 人間ひとりがどれほどの価値を持つのか、ルナにはわからないのだ。


 侍女をかばう愁に、酷薄な視線を向けるルナ。


「三度目だ。これが最後だぞ。そこをどけ」

「もしどかなければ?」

「最後だと言ったはずだ」


 ルナは開いた手のひらを外に向け、腰だめに構えた。


「オマエを召喚したのはワタシだ。オマエがワタシの使命を阻むというなら、相応の目に合ってもらわねばなるまい」

「ふうん。……なら、その前に、ひとつだけお願いがあるんだけど」

「考えを改める気になったか?」


 愁は頬をかき、先ほどまでの激情を沈めるかのように、冷えたため息を吐き出す。


「服を着てもいいかな」


 微笑む愁に、ルナはわずかに眉をひそめただけだった。

 それぐらいは許してくれる、ということなのだろう。


「ありがとう、ルナ。しかし、君と戦うことになるとはね」

「……ワタシもこんな日が来るとは思わなかった」


 ほんの少しだけルナの口元が引きつった。それは表情の変化に乏しい彼女にとっては、珍しい仕草であった。

 こんなときにだけ見せてくれるだなんて、と愁は少しだけ皮肉げに思う。


 服をまとった侍女と同じように、愁もまた身支度を整えて。

 そして、ルナを見据えた。


「さあ、じゃあやるかい、ルナ」

「……ああ」


 両手に魔法の光を宿す愁を前に、ルナは一分の油断もしなかった。

 あの海を引き裂いた紅い光を身にまとい、完全なる闘法態勢を整える。

 部屋には魔力が渦巻き、それらは行き場を求めて開け放たれた扉や窓の隙間から吹き抜けてゆく。

 

 その光景を目の当たりにした者達は、皆、畏敬の念を抱いただろう。

 

 愁は両手のひらから魔法を撃ち放つ。

 ひとつは弧を描きながらルナのその首へと迫った。


 ルナは虫を払うように――手の甲で、その光の線を迎撃する。

 この程度のものではルナに傷ひとつすらつけられないとばかりに。

 

 だが――。


「なんてね」


 愁が伸ばしたもう一方の光の線は、窓を突き破り、外へと伸びていた。――それは遠くの木に結びつけられている。

 ルナはハッとした。片腕にエルフの侍女を抱きかかえた状態で、愁は笑う。


「ルナと真正面から戦うはずがないじゃないか」

「オマエ――」


 愁が光の線を縮めると同時に、彼らは急激に外へと引っ張られるようにして部屋の中から消えてゆく。

 これこそまさに、逃げるが勝ち、だ――。




 深い森の中に落ちて。

 愁とエルフの侍女は、ふたり、どこへともなく歩いていた。


 逃避行だ。


 追撃をかわすためにずいぶんと魔力を消耗してしまったが、おかげでどうにか振り切れたようだ。

 ルナの使う術には制限時間がある。それを過ぎてしまえば――それでも常人よりは並外れて強いが――彼女はしばらく力を使うことができない。


 愁は彼女を安心させようと、人当たりの良い笑みを浮かべていた。

 

「とんだ事件に巻き込まれてしまったね」


 少女は、すべて自分のせいだと言い、先ほどから沈み込んでいる。

 そんな彼女の手を引きながら、愁はこれからのことを考えていた。


「とりあえずどこか人里に降りて……。できれば、僕たちのことを知らないところがいいな。人間族の小さな村にでもつけば、あとはどうにでもなるだろう。僕は幸いにも戦う力がある。仕事には困らないはずだ」


 それほど楽には生きられないだろうが、しかし愁に悲観の色はない。

 どこでだって暮らせるという自信が、今の彼にはあったからだ。

 

 結局、どこだって人がいて、人と付き合っていかなければならないのだ。

 ルナに引きずり回されたことで、精神はずいぶんとタフになった。

 人々を操る笑みは、暴力的な能力を得たことにより、驚異の進化を遂げた。


 他者を従える王たる資質を持ちながらしかし今の愁は、ただ自分と少女の幸せだけを願う十四才の少年であった。


 世界を破滅させる猛毒と呼ばれる神化病患者の手を引きながら、光を目指して進んでゆく愁。

 愁はようやく、自らの足で、歩み出したのだ。



 足が動かない、と彼女が言い出したのは、それから間もなくのことだった。


 ずいぶんと我慢をしていたようだ。愁が見たそのときには、例の回復術によって完治したはずの傷跡がわずかに開き、血が流れ落ちていた。


「これは……無理をしたね」

「……申し訳ありません……命を救っていただきましたのに……」


 彼女は恐縮したままうなだれた。

 愁に手当の知識はない。消毒薬や包帯があれば人通りはできるけれど、ここではそういうわけにもいかないものだ。

 ルナのように治癒魔術が使えたら良かったのだが。


 しかし侍女は、不安にとりつかれた顔をしている。

 それはきっと住み慣れた城を離れなければならないからだと、愁は思っていた。

 

 殺されそうになったところを助けられて、その上自分の手を引いて一緒に逃げてくれる救世主のような少年に、彼女は言い出せなかったのだ。

 だがついにその口を開く。


「……でも、変なんです……。私、足が……」

「動かないんだろう?」


 涙をたたえ、彼女は愁を仰ぎ見た。


「いえ……“痛くない”んです……ちっとも……!」


 まるで抑えきれない感情が溢れだしたかのような、悲痛な叫び声。


 ――次の瞬間、侍女の体が爆ぜた。

 愁にはそう思えた。


 

 この世界で生きてゆく間に根付いた危険察知能力により、愁はとっさに飛び退いた。その判断が正しかったのかどうかはともかくとして、辺りの大地はまるで侍女の体に飲み込まれてゆくように引き寄せられていた。


 質量を吸い取っているのか――?


 愁はゾッとして、彼女に声をかける。


「君は――」


 そのとき、愁は自分が彼女の名前すらも聞いていなかったことに気づく。

 ルナを敵に回し、それでも落ち着いているつもりだったのに。

 名前も知らない少女のために命を賭けようとしたことに後悔はない。


 だが――救えなかったのでは意味がない!


「それが神化病なのか……?」


 片方の脚だけが肉だるまのように膨れ上がってゆく。

 これまで、ゴブリン族やドラゴン族など、様々な人の形をした種族と出会ってきたが、これほどまでに『異形』と呼べる姿は初めて見た。


 恐ろしいのは、それなのに上半身はいまだ、少女の姿を保っていることだ。


 ミチミチと音を立てながら肥大してゆくその身体――。

 ――まさしく肉の塊。


「あ、ああ、あああ、わた――わ――たし――」


 こちらに必死に手を伸ばす彼女の。

 だが、凍りついた愁は、手を取ることはできず。


 変質、変貌、変革。

 うねりながら膨張する血管は触手のように枝分かれし、絡み、肉も骨もなく、まるでひとつの新たな器官のようにブチブチブチと潰れ、グチャグチャになりながらも混ざってゆく。

 もはや――人ではない。


「おねが  ねが い 」


 ノイズが混じったかのような声は、耳朶を震わせる。

 周囲の森がまるで沼の中に沈み込んでゆくようだ。なにもかもが地中へと引きずり込まれ、辺りには紅い煙が漂い始める。


 その中で少女が――少女と呼べるのかどうかもはやわからない存在が――必死に唇をわななかせて。

 気が狂うような恐怖と戦いながら、それでもきっと、愁を信じて、哀願を――。


「たすけ て  」


 そして彼女の顔もまた、肉に覆われ、ひしゃげるようにして砕け、一瞬にして飲み込まれ、悲鳴すらもあげず消え――。

 ――愁はその場を一歩も動くことはできなかった。


 

 初めてルナを見たときにも、思ったことがある。

 この世界には『人間よりも上位の存在がいる』のだと。


 あるいはそれは記憶に残る初めての父の姿だったり。

 動物園の檻の中に見た猛獣の姿だったりしたのかもしれない。


 目の前で膨れ上がってゆくその巨体は、まさしく人を飲み込む生物であった。

“彼女”が身を起こすとともに大地が揺れ、愁はわずかに態勢を崩す。

 取ったはずの間合いはすでに何の意味もない。手を伸ばせば愁はたやすく握り潰される――。


「これが……」


 十四才の少年は巨神を見上げ、畏怖した。

 もはや人の身でできることは、なにもないと――。


 

 異形の怪物は、いびつな五本を握り固める。それだけで空気がミシリとヒビ割れた。

 もはや意志を亡くした彼女は、正面に当たる愁にその拳を叩きつけてこようとする。

 緩慢だが絶対的な死を前に、愁は動くこともできず、ただ見返すのみで――。


 刹那、愁の眼前に白刃が舞い降りた。



「ずいぶんと育っていたものだ」


 巨大な拳を打ち払う、その小さな手。

 白髪赤眼の少女。


 ルナ。


 超巨大、圧倒的な質量を真っ正面から彼女は弾き返してみせた。

 そして今も堂々と愁をかばうように立ち、


 人知の及ばぬ力を持つ彼女だが――。


「これだから、魂を鍛える術を持たぬものが回復術を浴びるのは危険なのだ。進行速度が早過ぎる」

「……ルナ……?」

「さて、どうしたものか。肉世界と神世界の繋がりを断つか。だが上手くゆくかどうかは難しいところだな」

「君は……!」

 

 愁は唖然とし、目を見開いた。


 ルナが神化巨人の一撃を受け止めたその右腕は、あらぬ方向にへし折れていた。

 あと少しでねじ切れてしまいかねない重傷だ。


「その腕は……」

「ああ。オマエにまんまとやられてしまったからな。ワタシの力はまだ戻らない。神化病患者相手には、少々力不足といったところだろう。弾く角度が悪ければ、ふたりとも死んでいたかもしれないな」

「だったら、どうして……僕を……?」


 拳を受け止める必要などはなかったはずだ。

 愁を見捨てれば、彼女はここまでの傷を負わなかった。


 一体なぜ――。


「ルナ、君は!」

「ワタシの使命は神化病を根絶させることだ」


 愁との前に立ちはだかるルナが現れたことにより、その力を見定めているのか、巨人は動こうとはしない。

 ルナは右腕から涙のように血を流しながら、静かに語る。


「ワタシにもかつて守るべき人がいた。愚かだが、愛しき者たちであった。だが皆、死んだ。彼らの寿命は短く、もはやどこにもかつての仲間はいない。だが、敵だけはずっと、いつまでも残り続ける。終わらない。永遠に戦いは続く。いつまでもだ」


 口調はハッキリとしていたが、その顔色は夜の森の中でもわかるほどに、悪かった。

 あるいは立っているのもやっとという有り様なのかもしれない。


 それでも彼女は、その場を離れようとはしない。


「神化病はワタシの父が創り出した(ことわり)だ。彼を追い詰めたのはワタシだった。ならば神化病と禁術にまつわる罪は、すべてがワタシのものだ。この手で葬り去らなければならない」


 振り返るルナの目は、まるでかつての彼女がそうであったかのように――優しかった。


「オマエたちには罪などない。人が弱さゆえに禁術に手を出したのならば、それもまた、ワタシの罪だ。シュウ、オマエはワタシとともに戦ってくれた昔の仲間に似ていたよ。ワタシと対等にいようとしたのは彼らと、そしてオマエのような異界人だけだ。そう悪くはない時間だったように思える」


 巨人が今度こそ完全に立ち上がる。

 森の木々の隙間から覗いたその頭部には、空虚な穴がふたつ空いているだけだ。


「哀れな贄よ。ワタシが今、引導を渡してくれよう」



 ――と、そのとき。


 立ち上がった愁は、ルナの左肩を掴んだ。

 彼は絶対的な力を前に、無理な戦いを挑もうとしているルナを制止した。


「その怪我じゃ無理だ、ルナ」

「かもしれない。これまでの記憶を探ってみても、ここまでの危機はなかった」


 平然と言い放つルナが、当然戦いを止めるはずもない。

 わかっている。

 だが彼女は決してその『使命』から逃げることはしないだろう。

 ルナから逃げ出し、恐怖を克服できず、現実に立ち向かうことができなかった愁とは違うのだ。


 そうさ。

 わかっている。


 命を懸けるとは、そういうことだ。

 愁にはわかっていなかったのだ。

 わかっていなかったのだ。


 ルナが背負うと決めた罪の重さを。

 彼女の悲壮なる決意を。


「だから――」


 愁は肺の中のすべての空気を吐き出すようにして、そして告げた。


 奥歯を噛み締め、震える拳を握り。

 あらゆる複雑な感情を炉にくべて燃やし尽くすような赤い目をして。


「僕がやる。――僕に、やらせてくれ」


 

 守りたかったはずの少女を、愁の魔法は八つ裂きにした。

 実質トドメを刺したのはルナであったが、しかし、愁はその日初めて人を殺めたのだ。


 いじらしかった彼女の声が、何度も何度も頭の中で反響した。

 ともに暗闇を走ったその手のぬくもりを、抱きしめた華奢な体を、愁は確かに覚えている。


 ただ生きようとして、そのために傷を癒やしただけの少女を、愁は無残に引き裂いた。

 愁は慟哭したが、今度こそ自らの足で立ち上がることを決めた。


 これがルナの見ている景色。

 これがルナが背負おうと覚悟した罪なのだから。


 微塵も己を肯定せず。

 そして正当化すらできず。


 それでも世界の秩序を守るために――。


 もはや感情や理性の付け入る隙間はないその高み。

 罪をただ罪として受け入れ、自らを許しがたき罪人であると断定し、いつか食らうべき罰から目を逸らさず、立ち向かう道。

 

 死者たちに背を向けることなく。

 これこそが理想の世界を創りあげるその礎になるのだと、確固たる信念を抱えて。


 愁はその日――修羅の道に足を踏み入れたのだった。






 ◇ ◆ ◇ ◆ ◇



 それから――。

 現代の地下室に閉じ込められたままの愁は、語る。

 

「その後、僕とルナは、ピリル族の元に向かった。主な交渉は僕が担当することになったから、すごくやりやすくなったよ。これまでの生き方がなんだったのかとルナも反省するほどにね」

「……」

「その後も僕たちは様々な国を巡った。まあルナは、どうしてもエディーラにだけは来たがらなかったけれどね。……それも、仕方ないのないことだったけれど」


 ノエルは何かを考えるように顎の下に手を当て、忙しなく視線を動かしていた。

 ぽつりと、こぼす。


「……禁術を使った人は皆、そんな化け物になってしまうのかしら」

「いや、そうとは限らない」


 愁は柔らかく否定をする。


「神化巨人へと変貌してしまった彼女は、戦闘訓練を受けていない少女だったからね。肉体と魔力と魂を変換する回復術の仕組みに、耐え切れなかったんだ。それに回復術自体も、非常に稚拙なものだった」

「……そう」


 エルフ族の少女は唇を指でなぞり、それから小さくため息をつく。

 再び顔をあげたとき、その目はいつもと変わらず。


「確か、マシュウとルナは、恋人同士だと言われていたようだけど」

「それには多少、語弊があったかもしれない。僕と彼女は互いをそう呼び合うことはなかったからね」

「そうなのね」

「ただ、旅の最中、僕たちが体を重ね合わせる関係であったことは確かだよ」

「……」


 禁姫はまるでお伽話の種を明かされたような、侮蔑の表情をする。

 愁は面白そうに笑うのみ。


「誘ったのは僕からだけど、彼女にはぜひとも人間の気持ちがわかってほしかったんだ。人のぬくもりを教えられたら、もう少し態度も軟化するだろうと思っていたしね。初めての夜は楽しかったよ。ルナの色々な顔を見ることができた」

「……一体、なにが楽しいのかしら」

「楽しいさ。あれほど生きていることを感じられる瞬間はない。相手がルナだ。なおさらさ」


 ノエルが舌打ちをした。


「わたしは楽しいと思ったことは、一度もなかったわ。――あんなもの」


 愁は髪を揺らし、口元を緩めながら。


「人を傷つけるのは、楽しいかい」

「わからないわ。……わたしには、わからないわ」


 愁はなにも言わない。

 ノエルは苛立ちながら、爪を噛む。


「みんなは楽しいと言うわ。それが至上だと言う。でもわたしにはわからない。でもどうすればいいの。壊れたわたしたちの中で、わたしだけが違っていたらのなら、わたしにはもう、生き場所はないわ。わからないだなんて、言えるわけがない。わたしはひどく不完全で、醜い生き物だわ」


 無表情のはずだが。

 愁の目に――その娘は泣き出しそうにも見えた。

 

 傷だらけの愁は、散歩の途中ですれ違った知人に挨拶をするかのように。


「すごく陳腐なことを言わせてもらうよ、ノエル」


 なんでもないようなことを、なんでもないような声で、告げる。


「不完全な存在として作られた僕たちは、そのいびつな形を埋める片割れをいつか見つけ出すことができる。それが人だ」

「……」

「ノエル、人に生まれた君は、愛を知るべきだ。なによりもそれが、尊いものだ」


 女神教の六つの教え『神愛』の名を与えられし少女、ノエルは――。


 セルデルの奴隷として買われたその娘は。

 あまりにも虚無と観念、そして破滅へと支配された我が身を思いながら。


 それでも――愁の言葉を聞いてそのとき、ほんのわずかにだが。


「そんなものが、あればいいのだけど」


 微笑んだ――。


 それは獲物をいたぶる残酷な笑顔ではなく。

 来るはずもないとわかっているはずの王子様を夢見るような、儚げな乙女の微笑であった。


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