12-6 魔法陣
「ノエル」
「……」
呼び止められ、振り返った彼女は薄ぼんやりとした暗がりの中の、ひとりの少女を目にする。
まるで六つ子のように、ほぼ同じ顔をした――いや、ほぼ同じ顔にさせられた――少女だ。
彼女は揃えられたドレスの裾を苛立たしそうに振りながら、こちらを睨んでくる。
「あなた最近、ずいぶんとあの男と親しくしているようじゃないの」
「……そうかしら?」
「ええ、そう見えるわ。どういう風の吹き回しなのかしら。一体なにをたくらんでいるの? ただひとり、ギルドマスターを懐柔しようというの?」
「心外だわ。あまり酷いことを言わないで、カロラエル」
ノエルは長い髪を払い、冷然とした瞳で彼女を見据える。
「わたしたちは六禁姫。同じ血を分けた唯一の同胞よ。わたしたちはわたしたちでしかありえない。それはあなたもわかっていることでしょう」
「そうだわ、ノエル。でもわたしは心配なの。希望は人を狂わせるわ。あなたがもしなにか『希望』を抱いたら、『普通に生きられるのではないか』と思ってしまったら、ディハザにきっと叱られるわ。そのときはわたしもなにをしてあげられるか、わからないもの」
「……」
身を寄せ、唇を撫でてくるカロラエルの指を不快そうに見返すノエル。
「気になるのなら、あなたも一緒に来る? 別にわたしはどちらでも構わないわ、カロラエル。つまらない話ではないと思うけれど」
「いやよ、だって臭いんだもの」
カロラエルは身を引くと、クスクスと笑いながら小指をくわえ、楽しそうに唇を歪めた。
「全部終わったら教えてちょうだい。こっちも終わったら、教えてあげるわ」
「あなたがハノーファの相手をしているの?」
「ええ、そうよ。ようやく大人しくなったから、少しお茶をいただきに来たの。ふふふ、今度のは自信作よ」
「それはよかったわ」
視線を外したつもりは、なかったが――。
カロラエルはいつのまにか、ノエルの背後にいた。
ふわり覆い被さるように、彼女は後ろから抱きついてくる。
同じ匂い、同じ血、同じ組成であるはずなのに。
彼女の感触はなぜだかゾッとするほどに切なかった。
「ねえ、お願いよ、ノエル。ずっとずっと、わたしたちと一緒にいてよ。あなたがいなくなっちゃ、いやよ。わたしたちは六人でひとり。わたしたちは変わることなんてできないわ。あなたがわたしたちの希望なのよ。あなたが大好きだわ、ノエル」
「わかっているわ、カロラエル」
後ろから抱きすくめられ、その顔をうなじにうずめられながら、ノエルは静かに目を閉じた。
嘆息したい気分ではあったが、それすらも煩わしい。
「ごめんなさい、おかしなことを言って。ノエル、お願いよ、嫌わないでちょうだい」
すんすんと泣くカロラエルの流血のような声が、辺りを静かに濡らしていた。
ノエルは後ろに手を回し、カロラエルの頬を撫でる――。
「カロラエルは、泣き虫ね」
勇者イサギの魔王譚
『Episode12-6 魔法陣』
「おかえり、ノエル」
「……」
愁のその開口一番の声に、ノエルは思わず眉をひそめていた。
「別にわたしがここに戻ってくる理由はどこにもないのだけど?」
「そうかい? まだ話が途中だったじゃないか」
「ただの暇つぶしだわ」
「間違いないね」
柔らかく微笑む愁に、ノエルは違和感を覚えた。
彼は先ほどまでとは変わらない。変化しているのは己の認識だ。
なんだこれは。苛立たしい。
ノエルは指先に小さな赤い光を灯した。魔術の炎だ。
「三代目ギルドマスター」
「なんだい」
「今ここであなたの目を潰すわ」
「両方? それとも片方?」
「まずは片目から。指でゆっくりと葡萄の実を潰すよう、最大限の苦痛を与えられるよう配慮しながら」
「そうか、それは痛そうだ」
愁は唇の端をつり上げながら、頭部をわずかに傾けた。
「なら、それが終わったら、続きを語ろう」
「……脅しではないわ」
「そうだね。君たちはやると言ったことは必ず実行してきた。いい気分ではないけれど、仕方ない。今の僕は囚われの身なんだから」
「永遠に苦痛を与え続けられることもできるのよ」
ノエルは自分が子ども扱いされているかのような錯覚を覚え、彼を睨みつける。
「目を潰し、鼻をそぎ、耳を落とし、骨を断ってそれでも終わらない。わたしたちには回復術があるわ。あなたは無限の拷問に耐えきれる? ディハザなら何のためらいもなくやるわ。彼女は今まで何人も壊してきたもの」
「つまり、君はそういうことはしないってことかい」
「冗談を言わないで。あなたの両手両足の爪を引きはがしたのはわたしだわ。どうしてそんな相手と談笑ができるの?」
「ん」
愁は小さな相づちを打ち、まるで思い出すように。
「僕は元来、人間の性質とは悪であると思っている。僕のいた国では『性悪説』というんだけどね」
「知らないわ」
「そうだろうね。すごく遠くの国の教えだからね。まあ詳しい説明は省くとして、人間とはそもそもが悪であり、獣と変わらない。だが後天的な教育によって、善を目指すことができる、というものだったと思う」
「……それが?」
「獣であった人間が己の志ひとつで正義にも善にもなれるんだ。人間の無限の可能性と、そして尊厳のあり方について、考えさせられるとても良い話だよね。まるでどこかの勇者を思い出すようだ。できることなら僕も善でありたい。そこで、君たちだ」
愁の視線を浴びて、ノエルは無意識に胸に手を当てていた。
「君たちはこの屋敷に閉じこもっていた。善になるきっかけをこれまで手にすることができなかった。いわば生まれたままの純粋な悪だ」
「……」
悪であると言い切られたことには、なんの感慨もない。
ただ、ああそうであろうな、と思っただけだ。
だが。
「君たちは変わることができる。歪んだ倫理感を正し、光の下に出れば、善にだってなれる。君たちの罪は君たちのものではない。それは君たちを教育したものの責任さ。だから僕は君を恨まない。これが答えだ」
「……」
ノエルはしばらくなにも言わなかった。
愁もまた、自ら口を開こうとはしない。
静まり返った深い地下室。
禁姫と呼ばれ続けたひとりの少女は髪を撫で、それからわずかに首を振る。
「……女神教の教えとは違うわ」
「ん」
「女神は人が善なる心を持って生まれ、その光輝く魂を抱きながら、魔に墜ちることなく在世すべきであると謳ったわ。魔に墜ちたのはわたしたちよ。もう二度と、這い上がれない」
「それが女神の教え、か」
なにが面白いのか、愁は口元をほころばせた。
ノエルはなぜだか打ちのめされたような気分であった。
しばらく椅子に座りながら足を組み、ノエルは愁のみすぼらしい姿を見つめていた。
髪もボサボサで、血にまみれていて、彼が『封術』と呼ばれる自らの魔力を増幅させる禁術を植え付けられていなければ、いつ枯渇して死んでもおかしくないほどの状態であるはずなのに。
あれだけ痛めつけられても、目の光は少しも薄れてはいない。
はっきりと言えば、不気味だ。まるで不死者のようではないか。
しかしなぜだろう。その姿が妙に胸をかき乱すのは。
これが彼の主張する『人間の尊厳』とでもいうべきものなのかもしれない。
「……話の続き」
「ああ」
「聞かせなさい」
「いいよ」
神愛のノエルに、愁は微笑む。
「僕たちの次の目的地は、大森林ミストラルの魔法陣、リーンカーネイションだ。そこにつくまでの旅も、楽ではなかった。今みたいに街路が整備されていたわけでもないしね」
「そう」
「ルナと僕の距離は開いたままだ。きっとその頃の僕はルナが怖かったんだと思う。もうルナを理解しようとすることを諦めていたんじゃないかな。前みたいな自信はすでになくて、彼女は少女ではなく、人間の形をしただけのナニカだと思っていたんだ。恐らくそれは、最初の村で村人たちが彼女に対して抱いていた印象そのものだったんだろうな」
愁は虚空に視線を浮かべながら続ける。
「襲いかかってくる賊とは相変わらずだ。僕は震えていて、ルナが皆殺しにする。三度、四度続いて、僕はいよいよ精神の均衡を保てなくなった。そんなとき、僕たちは久々に村に立ち寄ったんだ」
「人々に疎まれていたのではなかったのかしら」
「疎まれてはいたさ。でも追い出されるまでのことはなかった。そういう休憩地点をルナは多く持っていた。思い出してみれば、最初の村だってそうだっただろう? ルナが過去に助けたことのある若者たちが育ち、村を作り、その孫や曾孫にルナの名前を伝えていったようなところだ」
「気の長い計画ね」
「そんな村に到着して、久々に“まともな”人間と接した僕が、とにかく思い出したことがあったんだ」
「それは?」
愁は明日の天気でも予想するように、さらりと答えてみせた。
「女を抱くことだったよ」
「……」
ノエルは苦虫を噛み潰したような表情をしていた。
愁は涼しい顔。
「もちろん同意の上だったんだけど、今となっては怪しいな。僕の容貌はその頃には割とワイルドになっていたし、あのルナの同行者だ。村娘たちが断りきれるはずはなかっただろう。僕はそこで丸二日、代わる代わるに女を抱いたよ。器量の良い子たちとは決して言えなかったけれど、自分が生きていることを思い出すような作業だった」
「さっきからなにを言っているの」
「大事なことだったんだよ、少なくとも僕にとっては」
愁は自嘲気味に嘆息すると、視線を床に落とす。
「それから僕は村につくたびにルナの目を盗んで、女を漁った。といっても、彼女にはバレバレだったんだろうけどね。生きるのに必死すぎて、とても浅ましかった。我ながらそう思うよ。ルナはそんな僕のことをどう思っていたんだろう。人間は弱いものだと、呆れ果てていたのかな」
「知らないわ」
ノエルはいつものようにそう答えた。
しかし、その後に、ぽつりと。
「……知らないけれど、きっとあなたに同情していたのではないかしら」
「同情? 彼女が?」
「ええ。あなたが苦しそうにしていたのは、きっと伝わっていたはずだわ。その上で現実と向かい合うために足掻くあなたを同情こそすれ、見下すことは決してないでしょう。どうにもできない自分にも苛立っていたはず……」
と、そこでノエルはなぜ自分がそんなことを言っていたのかわからず、言葉を切った。
悪感情を抱きながら愁を見やれば、やはり彼は笑っていて。
「そうか。そう言ってくれると、嬉しいな」
「……」
愁は改めて、話を続ける。
「スラオシャルドの山を下りてから半年。僕たちはようやくミストラルにたどりついた」
◇ ◆ ◇ ◆ ◇
過去。
北方山脈を後にしたルナと愁が次に向かった先は、大陸の中央部に位置する大森林ミストラルだ。
相変わらず、ただふたりでの旅路。
スラオシャルドはルナが孤独であると言っていた。
だがそれは、獣がたったひとりで生きることを選んだだけのような気もする。
「次の森を抜けたら、ミストラルに出る。だが、エルフ族の監視の目をくぐり抜けながらゆくのでな。ここからが長いのだ」
彼女は本当に自分を必要としているのかどうか。
とてつもなく強く、揺るぎない信念を抱き、目的のために突き進む彼女。
白き髪と赤き目を持つ女、ルナ。
人間の形をした怪物。
あるいはそれは、邪神の戯れによって人間が翻弄されているだけなのではないだろうか。
愁はなんのためにここにいるのか。
ここにいることで、愁はルナの役に立てているのか。
どうしても聞きたかった。
だが、愁にはどうしても聞けなかった。
さんざんに迷惑をかけておいて。
暴れる自分を取り押さえるルナを、殴りつけたことすらもあるのに。
それでもまだ、心のどこかではこう思っていたのだろう。
自分はここにいてもいいのだと。
ルナが自分を欲しているから、彼女についていかなければならないのだと。
それは愁の最後の逃げ道だった。
追いつめられた心が抱きしめたその拠り所だけは、最後まで問いただすわけにはいかなかったのだ。
エルフ族の王城の地下に、リーンカーネイションは眠るという。
何度かの襲撃を退け、愁とルナは城へとやってきた。
「まさかお城の中に忍び込むって言うんじゃないよね。あるいはムリヤリ押し入るだとか?」
「……」
天を衝くような巨樹の枝の上に立ちながら、ふたりは眼下に広がる城を見下ろしていた。
ルナは形の良い顎に手を当て。
「さすがにそれは無理だ。ワタシの力では、あの城を破壊することになってしまう。そうなれば魔法陣もどうなってしまうかわからない」
彼女の力について愁が知っていることは数少ない。
一度力を使うとしばらくは再使用ができないこと。そしてそのコントロールがあまり巧みではないことぐらいだ。
前者は数時間のスパンが必要となり、そして後者は切実だ。彼女は望む望まないに関わらず、襲いかかってくるあらゆる相手をオーバーキルしてしまう。原型を留めない死体を、愁はいくつも見てきた。
手のひらから放つ術の他に、彼女は力をまとう闘法を持つ。どちらも欠点は変わらない。人をボロ切れのように引き裂く力だ。
その状態のルナに近づき、愁も殺されかけたことがあった。理性は保っていたが、まさしく猛獣のようである。
それはともあれ、ルナは愁を見やり。
「ここに来る前に書簡を送っておいた。手引きしてくれるものがいるだろう。わざわざ仇を為そうとしているわけではないワタシの邪魔を、しようとは思わないはずだ」
「ま、だろうね」
「オマエが光を振り回せば、それが目印となる。頼むぞ」
「……はいはい、お姫様」
少しバランスを崩せば地上まで真っ逆さまに墜落してしまう、高層ビルのような木の枝に立つ愁は平然と肩をすくめる。
なんだかんだで、ずいぶんと肝は据わったものだ。
愁が輪のように魔法を回せば、その数十秒後、城の塔からも同じように松明が円を描いてくるのが見えた。
「これで合図は完了だ。直に迎えのものが来るだろう」
「君にしてはずいぶんと回りくどいやり方をするんだね、ルナ。城壁をぶち破ってでも立ち入るのが君のやり方だと思っていたけど」
「昔は似たようなことをしていた。だが、そんなことはしないでくれとエルフの女王に頼まれたのだ」
「ああ、そう」
そのときの様子が目に浮かぶようだ。
ルナも女王も、どちらもひどく困惑していたのだろう。
「ゆくぞ」
「ん」
平然と飛び降りるルナと、木に絡ませた光の線をたどりながら降りてゆく愁。
彼が今考えていたのは、エルフ族にはどんなに可愛らしい女の子がいるのかな、ということぐらいなものだった。
その後に待つ悲劇など、予想もせずに――。
「召喚魔法陣とはそもそも、この世に神化病をばらまいたものが残したものだ」
渡されたフードを深くかぶりながら、ルナは小声でつぶやく。
彼女の周りに立つのは同じ格好に身を包んだものが合計13名。12名のエルフ族と、そして従者の愁だ。
どう見ても歓迎させられているようではない。これはエルフの子とのお楽しみも期待はできないな、と愁は思っていた。
「この世界から去るために『クリムゾン』を。そして『リーンカーネイション』の代用品としての『フォールダウン』を。三枚の召喚陣は皆、そのために敷かれた。ヒトの身には過ぎたる力だ」
暗い回廊を地下へと向かう。硬質的な足音が規則的にカツンカツンと響いていた。
愁はふてぶてしい笑みを浮かべながら問う。
「そんな恐ろしいものなら、壊してしまえばいいじゃない。どうして後生大事に守っているんだい?」
「魔法陣はそれぞれは莫大な魔力を秘めている。破壊すれば大陸がともに沈む。仕掛けられたトラップのようなものだ」
「へえ」
「その中でも『リーンカーネイション』はトクベツだ。この起動方法は、ワタシにもわからない。だからこうしてたびたび様子を見に来ている」
「藪をつついて蛇を出す結果にならなきゃいいけどね」
「……わからない。召喚陣は、それを起動し、操る術者がいなくてはならない。エルフ族に研究させてはいるが、進展はないだろうな」
愁はいつになく雄弁なルナを見ながら。
「それでそのリーンカーネイションが作動すると、どんなことが起きるんだい?」
その問いに、解は与えられなかった。
途端に沈黙を保つルナに、愁はやはり肩をすくめる。ここから先は自分の入り込んで良い領域ではないようだ。
やがてエルフ族たちの城の地下、魔法陣が敷かれている空間へと案内された。
そこで薄く緑色に発光しているのは、フォールダウンの数倍の大きさを持つ魔法陣であった。
幾何学的な模様が交差しながらも全体で絵を描いているようだ。一カ所を切り取ってみれば確かにそれは文字なのだが、もう少し離れて見れば図形となっており、そして全体図では災厄のようですらあった。
今にも巨大な手が出現し、その上に立つものすべてを握り潰してしまいそうな恐怖を感じさせる。
これが召喚魔法陣、リーンカーネイション。
エルフ族すらも遠巻きに眺めるその魔法陣に、ルナはつかつかと乗り上げる。
「ふむ、色や形、光、それに音も変わりはないな」
ルナは右腕を掲げ、それを握りしめる。すると次の瞬間、彼女の周りの空間が歪み始めた。
非常に巨大なコードを描き出すルナ。それは大地に埋め込まれた魔法陣を、この中空に再現するかのような芸当であった。
動揺が伝播し、エルフ族たちは一斉に血相を変えた。
一体ルナがなにをしようとしているのかわからなくて。
召喚術師。それは緻密な構成を用いて魔法陣を起動させるための能力者だ。そのためには特別な訓練が必要となる。
そして今ルナの魔力は空間を渦巻くのみで、そこから先の結果は出なかった。
コードを散らし、ルナは腕を組む。
「やはりだめか」
突如としたルナの行動に慣れている愁はともかく、残りのエルフたちは皆、愕然とした顔でルナを眺めていた。
愁はため息混じりに彼女にささやく。
「そういうことを何回も繰り返しているから、悪名が轟いているんだよ、ルナ」
「? なんのことだ?」
ルナには人の気持ちがわからない。
わからないのだ。
愁とルナはその場を去り、リーンカーネイションは残された。
歴史上、その召喚魔法陣が使用された記録は、たったの一度もない。
そしてその翌日、決定的な出来事が起きて、ルナと愁の関係性に変化が生じることになる――。
◇ ◆ ◇ ◆ ◇
そして今。
大森林ミストラルにて。
「――お兄ちゃん」
旅支度をしているイサギの背を、ひとりの少女がにらみつけていた。
その様子を開いた扉から顔だけ出して窺っているのが、デュテュとキャスチである。
慶喜の持っていた手紙がバレ、彼は今ロリシアに説教をされている最中だった。
それは愁がイサギに助けを求める手紙だったのだ。
だからイサギはこうして、旅の準備をしている――。
「お兄ちゃん」
ピリピリとした雰囲気の中、リミノは改めてその名を呼ぶ。
イサギはなにも答えない。それが彼の決意であるかのように。
「行く気なの? プレハお姉ちゃんを置いて?」
その言葉にイサギはぴたりと止まった。
リミノは自らの感情をむき出しに、イサギへと突きつける。
「シュウくんを助けるために、プレハお姉ちゃんをおいていくの? お兄ちゃんの想いは、その程度だったの?」
「リミノ」
「聞かないよ」
暗い顔でこちらを見上げる屈んだイサギを、リミノはつんと唇を尖らせながら睨む。
「お兄ちゃんはここでプレハお姉ちゃんと暮らすんでしょう。それ以外に大事なものなんて、なにもないはずでしょ。ちゃんと自分の幸せだけを見ていてよ」
「うん」
イサギは目を逸らし、己の手のひらを見る。
「わかっている、リミノ」
「じゃあお兄ちゃんは、ここにいて。心配しないで、シュウくんのところには、リミノが行くから」
リミノがそう胸を張ると、扉の陰から控えめに「わ、わたくしも!」とデュテュが手を挙げた。
「他にも、エウレも連れていくよ。一端、王都に寄れば、もっともっといろんな人たちに助けを求めることだってできるもん。本当は、お兄ちゃんにバレる前に出かけようとしていたのに……まったくもう! まったくもう!」
下手を打った慶喜に、リミノも憤慨している様子だった。
彼女は苛立ちながら首を振る。
「なにも、お兄ちゃんが戦う理由なんてないよ。もう、どこにもない」
「戦う理由、か」
イサギは天井を見上げた。
「確かに、俺が勇者だった頃は、そんなことに悩む必要はなかった。困っている人に手を差し伸べるのに、理由なんてなくても良かったんだけどな」
「そうだよ、プレハお姉ちゃんをひとりにしていいわけがないでしょう。極大魔晶なんだよ、いろんな人にねらわれちゃっているんだよ。まさか、連れていく気? 無理だよ、絶対安静なんだよ。もちろん、お兄ちゃんだって」
詰め寄るリミノに、イサギは静かに首を振った。
「まあな。だから行くのは俺ひとりだ」
「そんなの絶対にだめだよ!」
リミノは叫ぶ。
「またそんな、どうしてお兄ちゃんじゃなきゃいけないの! もう十分がんばったでしょ!? リミノにはわかんないよ! どうしてそんな、お兄ちゃんばっかり……お兄ちゃんばっかりなの……みんな、ひどいよ……」
「ごめんな」
イサギはリミノの頭に手を置いて、それを優しく動かした。
リミノは泣いていた。
「泣かせてばかりだ」
「お兄ちゃんのせいだよ」
「そうだな」
プレハをここに置いて、それでも旅をしなければならない理由など、どこにもない。
イサギの戦いはすべて、プレハのためにあった。
ただ一緒に召喚された同郷の男に、命を懸けなければならない理由など。
「でも愁は、プレハの居場所を見つけてくれたんだ」
「……」
「あいつがいなければ、俺はこうしてプレハと再会することもできなかった。それが理由じゃ……だめか?」
リミノはぐすぐすとはなをすする。
「……おにいちゃんの、ばか」
「バカかな、俺は」
「ばかだよ。もっとずるく生きてよ。都合の良いところだけを見てよ。自分の幸せだけを願って、そして、周りの人なんて見捨てて、切り捨てて……なんでそんなに背負っちゃうの……もう、リミノも、ついていけないよ……意味わかんないよ……」
「ごめんな」
リミノがどんな気持ちでイサギを止めようとしてくれているのかは、わかる。
彼女は自ら愁を助けに行くとまで言っているのに。
イサギはもう一度謝った。
その謝罪は拒絶よりも遠く、そして離別よりもずっと優しいものであった。
「――じゃが」
と、口を開いたのは、成り行きを見守っていたキャスチだった。
「次にあやつが攻めてきたらどうする。おぬし抜きで守りきれるかの」
「ん……」
リミノの肩を押し返し、イサギは言葉を切る。
キャスチが言っているのは、廉造のことだ。彼も相当な重傷のはずだが、どうだろう。
ここにはデュテュやリミノ、それにシルベニアやエウレなどもいる。まず間違いなくこの大陸で最高クラスの実力者が集まっているのだが、それでも廉造に勝てるイメージはあまり浮かばない。
「そうしたら、ぼくに任せてくださいよ!」
すると、その男が現れた。
頬に真っ赤な紅葉をふたつ張りつかせた青年。小野寺慶喜だ。
「どうしたそれ」
「いえ、リミノさんとロリシアちゃんに……まあ、それはいいとして!」
彼の後ろには腕組みをして頬を膨らませたロリシアがいた。どうやらイサギに愁の助けを知られたその責任を取らされたようだ。これはしばらく仲直りはしてもらえないだろう。デュテュにすら睨まれていたりする。
それはともかくとして。
慶喜は自信満々にピースサインを作る。
「廉造先輩からなら、ぼくがプレハさんを守りますよ! これまで先輩にもらった数々の恩を返すときがやっときましたね! ぼくに任せてください! こう見えても最近ぼく、結構強いんですから! お役に立てさせてくださいよ! ねえ、へっへっへ!」
その言葉に、イサギは目を丸くした。
それから同じように眉をひそめているリミノと目を合わせて。
指の腹で涙を拭うリミノは、小首を傾げながらつぶやく。
「お兄ちゃん行くのやっぱりやめてくれる?」
「うーん」
「ちょっと待ってくださいよお!!」
慶喜の悲鳴が森の中、響き渡った。