12-5 脆弱性
初めてこの手を汚したときのことは、よく覚えている。
愁はそう語った。
「君はどうだい」
「私は忘れたわ。死体の解体方法を教わったのは、テーブルマナーよりも先だったもの」
「……そうか、それは悪かったね」
「別にいいけれど」
少年は小さく頭を振り、ドス黒い血がこびりついてもはや元の色がわからなくなりかけた栗色の髪を揺らす。
両手両足を鉄枷に覆われた彼に許されている仕草は、その程度しかない。
「僕はとても強かったからね。当時はまだあまり術式という技術が発展していなかった頃だ。今のように誰もが使えていたわけじゃない。そんな中の『魔法師』はまさに一騎当千の力を持っていた。意志ひとつで首が飛ぶ。まさしく無敵さ。今の、君らのようにね」
暗闇を言葉で埋めるように、愁は滔々と話し続けた。
「もちろん、体系だった剣技だってない。身のこなしなんて、見よう見まねだよ。それでも僕は強かった。おそらくは魔力が頭抜けていたからだろう。僕とあの子の旅は、苦難なんてなにもなかった。……そのはずだったけど。まあ、苦難てほどではないな。些細なことさ」
闇から声がにじむ。
「……そんなことを話してどうするのかしら。誰かにせめて覚えていてほしいの? 感傷はくだらないわ、とてもとても」
「たぶんそういうことじゃないよ。意味なんてない。暇つぶしさ。僕は退屈している。君だってそうだろう。こんな監視はつまらない。だから話している。それに、少なくとも、こんな話は僕以外の誰にも語れはしないだろう」
六禁姫のひとり――ノエルは、赤い双眸を鋭く細めた。
先ほどから愁が口にする内容は、とても信じられないものばかり。
狂人の戯言であると切り捨てるのは、あまりにも容易だが。
しかし三代目ギルドマスターの語り口は、あまりにも真に迫っていた。
「僕が召喚された四百年前の話を続けよう。ノエル」
「……」
囚われ、戦闘能力などもはやなく、着ているものもみすぼらしくて、そしてあの残酷なディハザに自尊心を傷つけられたはずなのに。
緋山愁。
その口調は今なお、玉座に座る魔王のようで。
「別に、いいけれど」
この男は本当に今、死に損ないであるのだろうか――。
◇ ◆ ◇ ◆ ◇
過去。
――愁とルナが隣の大陸に到達したのは、三日も過ぎた頃だった。
「途中で海が落ちてきたらどうするかと思ったよ」
「心配いらない。あと三晩はあのままだ」
「それはそれで、色々と大変そうだけどね……」
崖の上に立ち振り返れば、いまだに轟々と音を立てながら人工の滝が海の底を叩き続けている。
ナイアガラを実際に見たことはなかったが、それでもこれよりも荘厳な風景を感じ取ることはできないだろうな、と愁は思う。
こんな現象をたったひとりの少女が引き起こしたのだ。自然に対する真っ向からの反逆は、大罪に他ならないのではないか。
倫理も無礼も知らぬ少女は、再び歩き出す。
「行くぞ、従者」
「……はいはい、お姫様」
輝く白髪を後ろで縛り、灼けた瑞々しい肌の美しい少女。
その後を、愁はゆっくりとついてゆく。
ただひたすらに歩き続ける旅の、始まりだ。
ルナと愁。
ふたりの物語がこうして、始まる。
寝ずとも休まずとも一向に体力が落ちないのは、愁にとってとても不思議な感覚だった。
自分の体にカロリーや筋肉ではない、もうひとつの新たなエンジンが搭載されたようである。
「まあこれが魔力、ってことなんだろうね」
街道に出るまでは、道なき道が続くのだという。
両足を交互に動かす行為を続けながら、辺りの景色はまるで変わらない。森だ。
人の手が加えられていない森然たる道のりが、どれほど困難なものか愁は知る。
踏みしめるべき場所は堅い草で覆われており、ときには革のブーツを貫通するほどに尖っている枝葉が行く手を阻む。
ちょうど顔の高さにまで伸びた針葉樹林の腕は、複雑に絡み合い、迂回するのも一苦労だった。
どこに毒虫が潜むかもわからない、本物の森だ。
さすがに汗を流す愁は両手を振るい、魔法で枝や草を斬り裂きながら進もうとしたが、ルナに止められた。
「わざわざ呼び寄せることはない」
「なにを?」
「賊どもだ」
「ん……どういうやつらが現れるかちょっとよくわからないんだけど、もしかして君は狙われていたりしているの?」
「……」
いつも通り、ルナの返事はない。
愁は肩を竦めると、再び手のひらから魔法を放つ。彼の命令に従う光の線は鞭のように暴れ、一瞬にして障害物を断ち切った。鋼鉄の壁に無理矢理扉を作るかのような斬れ味である。
あっという間にふたりの道が拓かれた。
「でも、こうしたほうが歩きやすいだろう?」
「変わらない」
「君のかわいらしい脚に、擦り傷がつくのは、少しもったいないからね」
「……勝手にしろ」
許しとは呼びがたい、突き放すようなその言葉に、愁は笑顔で「ならばそうしよう」と答える。
深い森に一筋の光が瞬き、それらの作る道は天の橋のようにまっすぐ伸びてゆく。
「これはこれで、魔法を使う練習になるとは思わないかい? 精密なコントロールは、まだまだ意識しないとできないからね」
「……」
ルナからの返事はないが、止められることもなかったため、愁は光の線を操作し続けていた。
襲撃はそれから二日後に、起きた。
森の中、得体の知れない獣を焼いて腹を満たし、原始的な生物のように横になって眠っていた頃。
ルナの少女のような小さな手が、愁を揺り起こした。
「起きろ。囲まれている」
「……ん」
さすがに物音は立てなかったものの、愁はまだ状況がうまくわからないとばかりに寝ぼけ眼をこすり、身を起こす。
ルナは声をひそめながら。
「ここは、ゴブリン族の縄張りか。どうりでだ。海を穿った方角が、わずかに上だったんだな」
「ちゃんと測量しないからだよ」
「まあいい。オマエは待っていろ」
ルナは闇に浮かぶ赤い瞳で辺りを見回しながら告げる。
腰を低くした体勢の彼女に、愁もまたその場にしゃがみ。
「……なにをするんだい?」
「ふりかかる火の粉は払いのけなければならない。それだけだ」
「僕は手伝わなくていいって?」
「いい。ワタシひとりのほうがうまくやる。オマエは殺されないようにここで隠れていろ」
「ふぅん」
愁は毅然と立ち上がると、両手のひらから放つ魔法で円を描く。
あっという間のことだった。森の中には五メートルの円形のなにもない空間が形成される。
愁が周囲を斬り裂いたのだった。
ルナは顔をしかめた。その表情が見られただけで、愁にとってはやる価値があったものだが。
「無防備もいいところだな」
「この方が戦いやすい」
「オマエが死んだらワタシが困る。『フォールダウン』は四百年に一度しか起動できないのだ。次の四百年後を待っている暇はないぞ」
「そうあれかしと望むままに。お姫様」
「わからない」
毒気を抜かれたように、小さく首を振るルナ。
愁は舞台の中央に凛然と立つ役者のように、両手を広げ、迎え撃つ。
敵の最初の一打は、投石であった。
四方から打ち込まれるその遠隔攻撃を、愁はものともせずにたたき落とす。
暗闇の中、それもかなりの速度で迫るつぶてだ。狙いは正確とは言えないものの、だからこそ完全に回避をするのは難しいはずであるのに。
光の軌跡が闇に浮かび上がる。その残像が網膜から消え去る前に、愁は新たなアクションを起こした。
「このままじゃ埒があかないと思うよ! 僕とこの子にちょっかいを出すのは止めにして、ここらで手打ちといかないかい?」
森の中に、その細い体から出したのとは思えないほどの大声がこだまする。
「無駄なことだ」
「ん、言葉が通じないとか?」
「ゴブリン族はひどく臆病な種族だ。縄張りに立ち入った人間族は情報を持ち帰り、自分たちを討伐しにくるものだと思い込んでいる。和平には応じない」
「それって僕たちにも責任の一端があるってことかな」
「だとしても、襲いかかってきたのはやつらだ。こうなった以上、やつらは引かぬ」
「んー……そうっか」
愁は頬をかく。どうしたものかとわずかに躊躇している間に。
ルナの言う「やつら」は、ぬらりと現れた。
姿を見るのは初めてだが、一メートルと少しの体躯を持つ子鬼の姿をした種族。
それは愁が日本で見たことがある物語の中の魔物そのものであった。
適度に痛めつければいいなら、愁はそうするだろう。そのつもりだった。
実のところは、ルナの言葉を、それほど信じていたわけではない。
命が大切であるなど、当たり前のことだからだ。どんな種族であろうとも生物である以上、その原則が変わるはずがないだろう。
絶対に引かないと忠告されたところで、そんなはずはない、というのが愁の思考だった。
――だが、やつらは引かなかった。
愁は強かった。
飛びかかってくるゴブリン族は、村の戦士たちよりも数段劣る相手であり、手加減をしてなお行動不能にするだけの余地があった。
初めての実戦においてもなんら緊張することはなく、子供をあしらうように魔法を放つ愁は、堂々たる様子だったのだが。
突き飛ばしても、得物を切り飛ばしても、彼らは次々と愁に襲いかかってきた。
「は」
相手は少なくとも二十匹以上。たったひとりでそれだけの数をさばき続けているのだから、その力量差は明らかなはずなのだが。
退屈そうに佇むルナをかばいながら、愁は舞踏のように光の線を伸縮させながら踊る。
学習能力がないのかあるいはそれほどまでに闘争本能が高ぶっているのか、ゴブリン族はまるで引く気配がなかった。
剥き出しの敵意と殺気を初めて浴びながら、それでも精密な狙いを逸らさない愁の胆力は、中学生離れしたものであったのだが。
「骨が折れるね」
ここから先には覚悟が必要だ。
汗で指が滑る前に、集中力を保てているうちに、行わなければならない。
村での実戦稽古で誰かを傷つけたことなどなかった。
全員を紙一重かつ寸止めで、仕留めてきたのだ。
それは裏を返せば、いつだって命を絶てたということでもある。
急所を刺せたということだ。
だからやる。
絶対に外さずに。
決して命には関わらない部位だけを、貫くのだ。
体の小さな種族を、無力化させるのは骨が折れるだろう。
「狙うのは足――かな!」
暗闇から波状攻撃を仕掛けてくる子鬼。
その一匹目の足を貫く。耳障りで甲高い悲鳴。
続く二匹目。刺す。やることは変わらない。三匹、四匹、次々と血が飛ぶ。
絶叫の中、愁は一匹ずつ順番に無力化してゆく。
ひとりも殺さないよう、繰り返す。何度も吐きそうになるような胸糞の悪い作業だったが、それでも愁はやり遂げる。
やり遂げたのだ。
辺りには苦悶を漏らしながら多くの賊が倒れ、蠢いていた。
顎先から垂れる汗を拭うのも忘れ、愁は息も絶え絶えに笑っていた。
「ふふ、これでいいだろう? ルナ」
こんなものは自己満足に過ぎない。不殺の誓いなど愁にはない。
それでも、これは彼なりに考えて、そして導き出した結論だ。
目の前で海を割るほどの力を持つ少女に『一緒にいてほしい』と思われるために、愁は己の有能さを見せつけてやろうと思っていた。
異世界からやってきたばかりの小僧が、彼女の力になるのだと、示してみせたのだ。
あるいはそれは、己のささやかな欲望によって生み出された、承認欲求のような気持ちであったのかもしれない。
そのために神経を張りつめ、たったひとりも殺さず、こうしてそれなりに頑張ってはみたのだが。
さて、ルナはどうだろう。
どんな顔をして、こちらを見ているのか。
もしかしたら、少しは褒めてくれるかな、だなんて。
誕生日に花を送る、幼子のような気持ちで。
その表情を確かめる前に。
スッと、ルナが愁の横を通り過ぎた。
「わかった、あとは任せろ」
「え?」
ルナはそう言い切り、両手を掲げ。
そして振り下ろしたその瞬間――。
そこに倒れていたすべてのゴブリン族が、腹を砕かれ、頭を潰され――絶命する。
何匹いたか。
十匹、二十匹以上。
そのすべてが――たった一撃で。
人知を越えた能力。
「――」
地面に落ちたトマトが人の足に踏みつぶされるような、
無慈悲で、残酷で、暴戻なその光景を前に、愁は――。
吐いた。
耐え切れなかった。
胃の中が空っぽになっても吐き続けた。
圧倒的な破壊衝動を目の当たりにし、嘔吐中枢が機能を停止してしまったかのようだった。
ルナはしばらく愁のその様子を呆気に取られたような顔で見つめていたが。
ああ……と得心すると、今度は所在なさげに目を逸らした。
「オマエほどのものでも、さすがにこれは無理だったか。そうだな、そういうものだろう。生き死にをかけた旅ではこういったことが多々起こる。オマエも少しずつ覚悟を決めてゆくのだな」
違う。愁は問いたかった。なぜ彼女はもはや抵抗できないはずの雑魚を残らず殺したのか。
自分が甘すぎるのか。ルナのような対応が当然の世界なのか。だが彼らは弱い。殺す必要などなかったはずだ。
ひとつの生き物の命を奪うことが、どれほどの業であるのか、愁にはわからない。その重さも確かめたことはない。
ただひとつだけ言えることがあるのならば、先ほどまで苦悶にのたうち回っていた子鬼どもが、今では指の先ひとつ動かせずに死に絶えている。それはとても、気持ちが悪い光景であった。
おかしなものだ。死んだ者より、生きている者のほうがずっと恐ろしいはずなのに。
物言わぬ死体の声が聞こえるようであった。その恨み言が、そして怨嗟の悲鳴が。
胃液を逆流させながら、血の海に頭を垂れる愁に、ルナは――。
愁が今感じているそれらの感情をなにひとつ共有できず、淡々とつぶやいた。
「ワタシには、オマエの気持ちはわからない。オマエにもそうだろう。我々は互いを理解などはできないものなのだ。オマエがワタシに歩み寄ろうとしているのは、わかる。だが諦めるのだ、シュウよ。ワタシとオマエの間には海よりも巨大な溝がある」
これほどの行ないを眉すら動かさずに行なった修羅。
返り血を浴びた頬を拭い、ルナは親指を舐める。
「諦めて、従者としてワタシに尽くすがいい。そうすれば悪いようにはしない。ワタシの力は強大すぎる。為すべきことのために、ワタシにはオマエが必要だ。あまり、手荒な真似はしたくはないのだが」
愁が顔をあげる。
その目からは涙がこぼれていた。
少年は唇をわななかせるものの、そこから声は出てこずに。
子鬼を殲滅した鬼女は、そんな彼を冷然と見下ろしている。
「……立ち上がれ。行くぞ。ワタシたちが向かう先は、北方山脈。ドラゴン族の根城だ」
愁は口を動かしながら、手を伸ばす。
ルナがその手を取ることはない。
「シュウ、ワタシはオマエが望むようなモノではない。さあ、ここでグズグズしていると、血の臭いに誘われた獣たちが寄ってくる。ふりかかる火の粉は払うが、好き好んでそうしたいわけではないのでな、シュウ……」
と、そこで、さすがのルナも、気づく。
「……シュウ、オマエ、まさか」
先ほどから何度も何度も口を開く愁を眺めながら、さすがのルナも驚いた。
彼は、あるいは、もしかしたら、と。
少年の力ない不安に塗り潰された黒い瞳に映ったルナの顔が、驚愕に彩られ――。
「声が」
◇ ◆ ◇ ◆ ◇
「失声症。強いショックを受けると、一時的に声が出なくなる病のことさ」
「……貴方が、それに?」
「ああ、数ヶ月は声を出せなかったよ」
「信じられないわ」
「僕だって自分が信じられなかった。ルナの力になって、良い格好をしたいって思っていたこの僕がね。酷いざまだ。お笑い草だよ。あの頃の僕は、ただのガキだった」
自嘲する愁のその微笑みには、青臭い過去を振り返るような恥じらいがあった。
「自信だってあったんだ。うまくできないことなんて、なにひとつないと思っていた。微笑みがすべて、僕の味方になるのだと。――だが、すべては錯覚だった。永遠に落ちてゆくように、なにもかもがこの指からこぼれた。僕は脆弱だった」
愁はふっと頬から力を抜いて笑う。
その目に憧憬を浮かべながら。
「あの頃は、色んなことがあった。現実を知って打ちのめされる、その繰り返しだった。戦いのたびに吐いていたし、人を殺める役目はずっとルナに押しつけてきた。夜は眠れず、ある日突然、歩いている最中に倒れたことだってあった。感情の押さえが効かなくなり、ルナにはずいぶんと酷いこともした」
「……ふうん」
タルの上に座る少女は、退屈そうに頬杖をついている。
「結局僕はあの世界で生きるしかなかったからね。ルナに見捨てられてしまえば、僕は独りになる。だから必死にあがいていた。何度も心を折られて、そのたびに繋ぎ合わせてきたよ」
「私はそんなことを思い知ったことはなかったわ」
「そうか、じゃあ君は強かったんだろうね。あるいはこれから、初めて心を折られることがあるのかもしれない」
楽しそうに笑う愁に、少女は釈然としないものを見るように、首を傾げた。
「それよりも、まだ信じられないのだけれど」
「僕が失声症になったこと?」
「そうじゃなくて」
ノエルは愁のおどけた声をピシャリと切り捨て、先を促す。
「貴方が英雄マシュウで、今聞いているのは四百年前の物語で、そしてあの大孤竜スラオシャルドと面識があるっていうことよ」
「ふふふ」
なんだかんだと付き合ってくれているこの少女は、神愛のノエル。恐らくは六禁姫の中でも、ディハザと同じように――異端に属するものだろう。
愁は微笑み、それから再び語り出した。
「なら続きはそこからにしよう。僕とルナが向かった先は、ドラゴン族の都……ではなく、その山脈のひとつに根城を構える、スラオシャルドの元だったんだ」
◇ ◆ ◇ ◆ ◇
再び過去。
「お前が新たな従者か」
深々と椅子に腰をかけたその男は、長い黒髪を後ろになでつけた若者であった。
髪の房のいくつかは硬質化しており、肌にもところどころ鱗のような箇所が見え隠れする。
その瞳は赤く染まっていた。
山の上に立つ、人里離れた一件の屋敷。
そこが彼の、孤独な住処であった。
「久しぶりだな、スラオシャルド」
「ご無沙汰しているぜ、ルナ。シワが増えたか?」
「ワタシは変わらない」
「ハ、わかっている、相変わらずクソ真面目なやつだ」
話し言葉は砕けているが、視線は猛獣のようだ。
ただ見つめられただけで体が竦むのを、愁は感じた。
スラオシャルド。後に大孤竜と呼ばれることになる男は、ルナを見やる。
「その顔、どうした」
「何でもない」
「……ふん」
ルナの頬には青あざがあった。何者かに殴られたあとだ。
それをやったのは、愁だった。自分でもありえないことだ。感情の押さえが利かなくなった愁を取り押さえようとしたルナに抵抗し、傷つけたのだ。
女性の、それも美しい娘の顔に、手をあげるなど。
だが、ルナはなにも言わなかった。殴られた彼女はなんでもないような顔をしていたが、殴った愁のほうがよほど辛い顔をしていたからかもしれない。
スラオシャルドはなにかを察したようにうなると、愁にはわからない話を始める。
「竜将五家は互いに監視させることにより、破滅への道を防がせている。いずれは潰し合うだろう」
「混血を進め、獣術の血も少しずつ薄くさせている。厄介な力だ」
「ああ、急務だからな。もう神化病に繋がるようなドラゴン族は現れまい。この俺が最後だ」
「構うな、お前には借りがある。この倦怠に飲み込まれそうな生活も、これはこれで悪くはない」
ルナはスラオシャルドの言葉を聞きながら、「ふむ」や「そうか」、「わかった」、「すまない」などの相槌を重ねていた。
愁はどこか麻痺してしまった心で、ふたりの関係性を推察する。
もしかしたら、ルナの先代の従者がスラオシャルドだったのだろうか。
ふたりは親しげには見えないが、様々な想いを共有しているようだった。それは恐らく、長い年月によって育まれたものなのだ。
「なあルナ」
「なんだ」
無骨に聞き返す飾り気のない娘に、スラオシャルドは顎に手を当てながら。
「少し、その男と話をさせてくれるか」
「ん、いいだろう」
愁は意外そうに顔をあげた。
一体、こんな自分に何の話があるのか。
ルナが席を外すと、スラオシャルドはゆっくりと口を開いた。
「まあそう堅くなるな」
「……」
その頃、愁は声を出せるようにはなっていたものの、まだまだ陰気な面構えは隠しようがなかった。
「ずいぶんと苦労をしているみたいじゃあないか。青年」
「……ええ、まあ」
スラオシャルドは敵意がなく振る舞ってはいるものの、彼の放つ圧迫感に、愁は縮こまる。
「ルナとの旅は、苦痛か」
「……どう、なのかな」
「あいつは冗談のひとつも言わないからな」
「そういう問題ではないと思うけれど……」
ふうむ、とスラオシャルドは顎を撫でた。
「ルナの目的を知っているか」
「……いえ」
愁は短く切り、それから思い出す。
「確か、役目があるとだけ、言っていた、かな。果たさねばならない使命があるって」
「そうだ。あいつはそのためだけに生きている。俺が死んでもずっと、そのために生き続けるだろう」
「……」
「神化病と呼ばれるその病は、人族にふりかかった災厄だ。あいつはそれを防ごうと、大陸を回っているのだ」
神化病。そんなものがあるのだと聞くのも、愁には初めてだ。
「……正義の味方、ってこと?」
「そうかもしれないな。だが、そのためにはなにを犠牲にしても構わないと思っている。身勝手なやつだが、あの両肩には世界の命運がかかっているのだ」
「そうか……それは、重いな」
愁はうなだれた。
「僕はもう少し、自分のことをできるやつだと思っていたんだけど。でも、その自信もどこかにいってしまったよ」
「お前は魔法使いなのだろう。類稀なる才覚の持ち主だ」
「スペックじゃなくて、それを使いこなす心の問題かな……」
「ふむ」
スラオシャルドは眉間にシワを寄せると、難しい顔をする。
「ルナがなぜドラゴン族の王城ラデオリに行かず、こんなところに隠れ住む俺の元を訪れたか、知っているか?」
「……いや」
「あいつは、全世界に手配されている。ドラゴン族だけではなく、エルフ族、獣族、魔族、そして人族、それらのすべてから命を狙われているのだ」
「……どうして?」
ドラゴン族の若者はわずかに逡巡したように息を呑み、だが語り出す。
「ルナを見ていればわかるだろう。あいつは不器用な女だ。神化病患者を排除するためですら、手段を選ぶことができない。だから殺しもためらわないし、時には人道に背くようなことも平気でやる。そして言い訳のひとつもしないのだ。おまけにあの白髪紅眼という、独特な外見だろう。迫害されないほうがおかしい」
「……」
人々から石を投げられ、それでも無言で立ち去ってゆくルナ。
その光景は、まざまざと浮かんだ。
「ルナの行ないは誰にも理解されることがない。神化病を放置すればこの世界が滅びるといっても、その光景を見たものはいないのだ。ルナが本当に人々に感謝されることがあるとしたら、そのときにはすべてが手遅れだ。やつの戦いは報われない」
「……」
愁はスラオシャルドの言葉を聞きながら、ひとりで先をゆくルナの後ろ姿を思い出す。
輝くような白髪を揺らし、迷わず進むその強い背中を。
「かつては人の心を理解しようと努めたこともあったのだろうがな。あれはもう、今はすべてを諦めている。自分だけの力でなんとかしようとして、なまじそんなことができるからこそ、人を頼ろうとはしない。四百年に一度召喚される従者だけが、違った価値観でやつと接することができるのだ」
「……そんなことを言われても、な」
愁はそうつぶやいて、うなだれた。
スラオシャルドはそれから愁にこの世界で生きていくための術を、語ってくれたが。
しかし、愁は彼に相応の対価を与えることはできず、この住処を立ち去ることになる。
わずか数時間だけの対面で、様々なものを教わったが。
結局、それはそれだけのものだった。
愁とルナ。
――ふたりの旅は続く。
◇ ◆ ◇ ◆ ◇
「わからないわ」
「はは、ルナのようなことを言うね」
「結局、どうしてその娘は、努力を続けなかったのかしら。人を理解しようと思わなければ、人に理解などされないものよ。虫が良い話だわ」
「君は辛辣だなあ」
愁は朗らかに笑う。
「だが、それはその通りだ。ルナは諦めていた。僕とルナの間の溝はまだまだ埋まらないよ。結局のところ、僕はルナを恐れていたんだと思う」
「口説いておいてね。どうして逃げ出さなかったの?」
「今の僕だったら、逃げ出しておいただろうね。でもあの頃の僕はルナが怖かったけれど、代わりにルナに見捨てられるのも怖かったんだ。すがっていた、とも言えるかな」
「わからないわね。スラオシャルドも一体なんだったの?」
「彼については本筋とはあまり関係がないことだからね。また今度にしよう。まあ、僕の苦難はもう少しだけ続くよ。少し照れる話だから、話題を変えてもいいかな」
「どうぞ。どうせ意味なんてない、暇つぶしなんでしょう?」
「そうだね」
許可を取った愁は咳払いし、転換する。
「知っているかい? この世界に禁術というものがあることを」
「ええ、当然よ。四大禁術。ドラゴン族の獣術、エルフ族の回復術、魔族の封術、ピリル族の破術でしょう?」
「すごい、何でも知っているね、君たち禁姫は。セルデルの助手を務めていただけのことはある。だが、その禁術がどうしてこの世界に誕生したかは知らないだろう?」
「……なにそれ」
彼女は興味を惹かれたように、わずかに身を乗り出した。
すべての禁姫と出会った愁はその瞬間、ただひとりこの『神愛』のノエルだけがかすかな共感性と親和性を持ち続けているのだと確信する。
そしてそれは愁にとって――限りなく、筋書き通りのシナリオであった。
ノエルの知らない知識を披露するのが楽しくてたまらないとばかりに、愁は笑う。
「かつてこの世界に神化病をばらまくために、暗躍した男がいた。その男は愚かな人族に力を与えると囁き、禁断の秘術をプレゼントした。ドラゴン族の血に、エルフ族の心に、魔族の願いに、ピリル族の魂に」
「……えっと」
「それらに『禁術』という名をつけ、封じ込めたのがルナ本人だ」
禁姫はドレスの裾を握り、指でもてあそびながら、愁に問う。
「禁術を名付けた? 与えた? あなたは一体、何の話をしているの」
「ふふふ」
愁は笑う。
多くは語らず、神話をかき乱すトリックスターのように。
「ルナと僕が次に向かったのは、エルフ族の里。召喚魔法陣『リーンカーネイション』の元へと」