11-13 禁忌の血
慶喜がイサギと廉造の戦いを初めて目撃したのは、ブルムーン王国の竜関門ワイバーンゲートでのことだった。
それまでの慶喜は、暗黒大陸で廉造の活躍の噂は聞いていたものの、彼の暴れっぷりを見たことはなかったのだ。
イサギに関しても、同様だ。イサギがS級冒険者を魔王城の地下で密かに始末したときに慶喜は避難していたし、その後にイサギがリミノを助けに来たときだって、慶喜はクローゼットの中で震えていただけだった。
どのような勝負が繰り広げられるのだろうか、という好奇心の中、慶喜は彼らの対決を見物する。
しかし慶喜は密かに――そう驚くことはないだろう、という自信があった。
なんせ、彼は魔族国連邦の首都ブラザハスにて、厳しい訓練を――それなりにサボりながらも――続けてきたのだ。
魔王たる慶喜は、封術師だ。他者とはそもそものスタートラインが違う。
だからこそ自分はできる男だと思っていた。シルベニアやゴールドマン、それにリミノなど、才能に溢れた一部のものには届かないまでも、慶喜は優れた術師であった。
旅は怖かったが、それでも慶喜は楽観的でさえあった。慶喜はアルバリスス一握りの強者だったのだ。
望んでいたチート能力は、手に入った。慶喜はそう思い込んでいた。
だが、そんな幻想は崩れ去った。
ドラゴン族と人間族が見守るその砦にて、イサギと廉造の殴り合いを慶喜はその目で見たのだ。見てしまったのだ。
黄金の闘気をまとう人知を越えた喧嘩だ。
その光景を間近に、慶喜は思う。
『あ、これはぼくの立ち入る隙ないな』
それは思わず悟りを開いてしまうほどの衝撃であった。
素手で大地を砕き、空を割り、城を破壊するほどの威力を叩き出すふたりは、慶喜にとって次元の違う魔人たちであった。
格の違い、というものを慶喜は思い知った。
戦う様子を見て、慶喜は初めて理解した。
今まで自分が立っていたその場と、イサギや廉造が立つステージとの、あまりにも開いたその距離を。
突きつけられたその事実は、慶喜の心に寂寥とした風を吹かせた。
自分が努力だと思っていたものは、所詮お遊戯でしかなかった。遠い。あまりにもふたりは遠すぎてしまった。
『この人たちはもう、人間じゃないな。サイヤ人だな』
そんなことを揶揄して自分をごまかしながら、慶喜は、イサギと廉造を見守り続ける。
努力を続けるのが馬鹿らしくなるような、半ばあきれ果ててしまうような、そんな感想を抱きながらも。
しかし、どうしてだろうか、少年の目は、彼らに釘付けになっていた。
どくん、と心音が跳ねるように高鳴っていた。
イサギが雄叫びながら振るうその拳を。
そして、真っ向から彼に対抗した廉造の勇気を。
慶喜は夢を見るような顔で、ずっと目を逸らさずに、見つめ続けていたのだ。
慶喜は複雑で、ひねくれて、穿った視点を持つ少年だ。魔王候補たちの中では、ある意味彼がもっとも老成しているのかもしれない。
単純に、強さだけを追い求めるような、そんな青臭い思いは彼にはない。どうせイサギや廉造に勝てるはずがないのだ。無駄なことを続ける根性もない。
慶喜は平和で、生活が保障され、自分だけを好きでいてくれる女の子がいればもう他にはなにもいらない。そんな男だった。
イサギや廉造のように、目的を達成するためにどうしても力が必要なら、慶喜はその目的をも諦めてしまうだろう。
元々こらえ性がないのだ。おまけに大それた欲もない。自分と身の回りの少しの人が幸せでいてくれるのならそれでいいのだ。
それなのに、そう思っていたはずなのに。
この頃の慶喜はまだ、知らなかった。
このアルバリススで『自分と身の回りの少しの人の幸せ』を得るために、どれほどの力が、犠牲が、必要であったのかを。
彼がそれを痛感するのは、その後――バハムルギュスとの決闘を終え、ロリシアとともに生きていくと決意し、そしてデュテュの戦争を止めてからだった。
慶喜は思い知った。
最強でなくても構わない。
負けっぱなしでも、いい。
ただ、間違ったこと間違ったと言えるように。
守りたいものを守れるように。
慶喜はそう願い、そうあろうとして、そのために鍛錬を続けてきた。
その目に映っていたのはきっと、あの日のイサギと廉造の姿だ。
正面から殴り合い、意地をぶつけ合い、一歩も引かず、強敵に立ち向かおうとした同い年の彼らが、脳裏に焼きついていたはずだった。
それは慶喜の理想であった。
追いつけなくても、届けなくても。
あのステージに立てなくても、肩を並べることができなくても。
それでも慶喜は、目指した。
北極星のように、確かな目印を胸に。
いつだっていつだって。
慶喜は彼らの背中を追いかけてきたのだから。
だから。
「イサ先輩、廉造先輩、そして、リミノさんも。
みんなに言います、改めて言いますよ。
ぼくは怒ってます。いったいなにを、考えているんですか」
慶喜は今、一言一言を噛みしめるようにして、告げていた。
彼の目は赤く燃えていた。禁術師の炎だ。
朝日が登りつつある荒れ地の中に立ち、慶喜は体についた枝や木の葉を払うでもなく、拳を握り固める。
「命を大事にしろって言って、ロリシアちゃんを救ってくれたのは、アンタでしょう、イサ先輩……。
廉造先輩、アンタは曲がったことが大嫌いで、いつだってまっすぐやってきたでしょう。
ぼくはね、そんなアンタたちに憧れて、ずっと、ずっと、憧れていたんですよ」
彼の足下から立ち上る魔力は、その全身の紋様を赤く染めてゆく。
渦巻く魔力は、イサギや廉造のものと同等ですらあった。
我慢ならなかった。
慶喜はアルバリススにやってきて、初めての怒りに身を焦がしていた。
「憧れていたんですよ、ああなれればいいって、ああなりたいってずっと、ずっと思ってたんすよ。
だって、格好良かったですからね! アンタたち!
やることなすこと筋が通っていて、迷わずに、颯爽としていて、ヒーローみたいでしたよ!
いつも前を走ってて、ぼくの前をさ! 届かないな、って、追いつけないな、って思っていたんすよ!
ただその背中を見つめながら、同じ方向にだけ歩けていたら、満足だったんだ!
それが、なんだよこれ、なにやってんだよ!」
慶喜は腕を払い、髪をかきむしる。
「聞こえていましたよ! 封術師の感覚は鋭敏でしたからね! 遠くからでもアンタたちの怒鳴り声がさ!
なにわーわー言ってんだよ! どうしてイサ先輩と廉造先輩が殺し合わなきゃいけないんだよ!
他になんにも手がなかったんだったらさ、ぼくだって一緒に考えますから!
そんな最悪な手段を選ぶ前に、一言声をかけてくれよ!
しょうもない、頭の足りない男だって自覚してますけど、一生懸命、一生懸命に考えますから!
アンタたちが困っているんだったら、力になりたいと思わないはずがないでしょう!
ねえ、わかっているんですかね! ぼくの言うこと、わかりますかねえ!?」
ぜえぜえと声を枯らして、慶喜は叫ぶ。
「それとも、人を殺すことはできるくせに、誰かを頼ることはできないっていうんですか!?
ぼくは魔族国連邦の王ですよ! すっごい権力者ですよ!
なにか名案が浮かぶかもしれないじゃないですか! そりゃもう、地の底まで探しにいきますとも!
ぼくは格好悪いのわかっているから、そんなの承知で言いますけどね!
アンタたち今、ぼく並に格好悪いっすからね!」
慶喜がこれほど痛烈に誰かを批判することなど、滅多にないだろう。
イサギ、廉造、そしてリミノ。彼らは三者三様の受け止め方をしているようだった。
これがただの義憤に駆られた男の言葉だったら、どうだろう。
イサギも廉造も耳を貸さず、殺し合いは続行されていたはずだ。
だが慶喜なのだ。
イサギと廉造を慕い、彼らを「先輩」と呼ぶ慶喜の言葉なのだ。
誰よりも弱く、もろく、挫折を味わってきてここまできた魔王の言葉なのだ。
響かないはずがない。
慶喜の言葉であるのなら。
「そりゃあ、ぼくは人を殺したことなんて、ありませんよ。
今の今まで、たったひとりもね。
先輩方に支えられて、泥をかぶってもらって、それでこうして生きてこれたわけですから、こんなことを言うのはそもそもがお門違いかもしれませんけど。
でも、だからってなんなんですか。
キレイゴトだって、いいじゃないですか! キレイゴトで済むなら、そうしてくださいよ!
人と仲直りするより、協力して目的に向かうより、殺して奪ったほうが楽だって言うんですか!?
もう慣れちゃって、人を殺したってなんとも思わないっていうんですか!?
ぼくの憧れた廉造先輩は、そんな人じゃないっすよ!」
廉造は、ぎり、と歯を噛みしめる。
その口から、声が漏れた。
「オレァ、変わらねェ。昔からずっと、このまんまだ」
「――だったら」
慶喜は怯まず、言い返す。
あの廉造に向かって、だ。
「ずっとぼくを、勘違いさせておいてくださいよ。
アンタは、男の中の男で、格好良くて、
そんで、間違ったことなんて、一個もしないんだって、思わせてて、くださいよ!
こんな異世界でも、まっすぐに立っていれば、夢は叶えられるんだって!
それが、アンタたちの――ぼくに夢を見せた、あんたの責任でしょう!」
体中で叫ぶ慶喜の前、思いを振り絞る慶喜の前。
しばらく誰もなにも言えなかった。
極大魔晶はできなかった。
廉造が何人殺したところで、地の底で魔晶が生まれることはなかった。
だから彼は目の前に現れた極大魔晶にすがりつく。
イサギを殺せば目的のものは手に入る。それは実に単純な構図だ。
あまりにも明快で、――愚かな決断だ。
廉造は空を見上げ、そして俯いた。
つぶやく。
「ジョーイ、出てこい」
その名に一同、聞き覚えはない。
しかしすぐに森の中から出てきたのは、仮面をつけた少年だった。
彼は戸惑いながら、こちらに向かってやってきた。
「は、はい、頭領……。
……ずっと、気づいて、いたんですか……?」
「退却する。晶剣や魔具を拾ってこい」
「は……いや、でも、あいつ神化病患者ですよね?
あと一息で倒せるのに……放っておいて、いいんですか!?」
廉造はこちらを――慶喜の方を振り返ってきた。
その目は朝焼けに包まれていたせいか、赤ではなく――本来の色を取り戻しているかのようにすら、見えた。
くぼんだ眼下。こびりついた血の後。疲労の刻みついた顔。全身にもはや先ほどまでの覇気はなく、それでも廉造はただひとりの男として、寡黙に言い放つ。
「……良いも悪いもねェよ。ヨシ公が来たンだ。
あいつが泣いたら、もう終いにするしか、ねェよ」
「……よし、こう?」
あれがそんなにすごい男なのかと、眉をひそめるジョーイ。
そんな彼に、廉造は告げた。
「魔族国連邦のドンさ」
こともなく言い、歩き出す廉造。
ジョーイは釈然としない顔をしていたが、すぐに気づく。
「……? 魔族の、ヨシ……まさか!
魔族国連邦の魔王、ヨシノブのことですか!?
なんでこんなところに……!」
「伍王会議の途中で寄ったンだろ。いくぞ」
「あ、ちょ、待ってください、頭領!」
廉造は足早に、去ってゆく。
その後を少年が追いすがっていった。
夜から朝にかけて戦い続けて、辺りは光が差し込んでいる。
激しい闘争の跡が刻まれた、荒れ地にて、残された一同はしばらく佇んでいた。
仰向けに寝ながら天を仰ぐイサギと、疲労感に襲われてしゃがみ込むリミノ。
慶喜は立ち上がれずにいたイサギに、手を差し伸べた。
「先輩」
「……」
「すごい怪我じゃないっすか……痛そうっすね。
戻って、手当しましょうよ。さあ」
「……」
イサギはなにも言えずにいたが、慶喜が無理矢理彼の手を取った。
慶喜はイサギの腕を肩に回し、彼を担ぐように持ち上げた。
「先輩」
「……」
イサギはされるがままである。
よっぽど弱っているんだな、と慶喜は痛ましいものを見るような目で、イサギを眺めていたけれど、実際はどうだったのだろうか。
そんなイサギは思い出したようにリミノを見やる。
彼女もまた、傷ついているはずだ、と気づきながら視線を向けると。
「大丈夫ですか? リミノお姉さま。
わたしでは治癒法術はお使いできませんので、止血だけはさせていただきますね」
「ロリシアちゃん……あなたも、ここに?」
「少し痛むかもしれませんが、我慢していただけると」
「う、うん……ありがとう……」
旅装のロリシアが革袋から真新しい包帯を取り出し、リミノの肩に巻きつける。
リミノはわずかに顔をしかめたものの、大人しくしていた。
久しぶりに再会した姉代わりの少女に、ロリシアはにっこりと微笑む。
「さすがリミノお姉さま、強いですね。
ヨシノブさまは、これぐらいのことでも、叫んじゃうんですよ。
ホンット、泣き虫なんですからね」
「ロリシアちゃん、きみは待っててって言ったのに……」
「嫌ですよ。ヨシノブさまひとりに、危ないことをさせられるわけないじゃないですか」
慶喜に「なにを言っているんですか」というジト目を向けるロリシア。
確かに絆が通い合っていると思われる、そのふたりの言葉に、イサギは俯く。
「……」
イサギは、少し、考えていた。
これからのことを、そして、慶喜の告げた言葉の意味を。
彼もまた、反芻する。
そしてなにも言えず、イサギはただ口をつぐんだ。
◇ ◆ ◇ ◆ ◇
伍王会議。
人間族、獣族、竜族、エルフ族、そして魔族の王たちを集めて、ダイナスシティで催される会議だ。
エルフ族の次期女王であるリミノが、その会議に出席するためにスラオシャ大陸を旅していたように。
魔族国連邦の魔王・慶喜もまた、暗黒大陸からスラオシャ大陸に渡ってきたのであった。
無論、この緊張状態に、彼ひとりということはない。
魔王とともにやってきたのは、まず銀魔法師シルベニア。
様々な事情はあれど、戦闘力では魔族連邦随一の少女である。
護衛としてついてきてくれるのなら、これほど心強い存在もいないだろう。
さらにロリシア。魔王の婚約者である彼女が慶喜をひとりにするはずがない。
13才になった彼女は相変わらず戦闘力は皆無であったが、すでに連邦議長メドレザの懐刀と呼ばれるほどの知識を手に入れていた。
その知恵は必ずや、魔族を導くことになるであろう。
そして最後にもうひとり。
――無理言ってついてきた『魔帝の娘』デュテュである。
彼女もまた、戦争責任に関しては断罪されるべきだと主張するものたちがいる中、スラオシャ大陸にやってきたのだった。
それはあまりにも無茶な行為であったが、彼女は彼女なりに果たすべき使命があるのだと己を省みていた。
彼らの事情は、一旦さておくとしても。
五人は今度こそ平和の使者として、ダイナスシティを目指していた。
その途中、セカンドポートにて、キャスチからの手紙を見たのである。
どうせならと、キャスチを拾っていこうとした彼らが立ち寄った大森林ミストラルの村にて。
――太陽の塔のようにそびえる、炎の魔術を見た。
詳しい事情は知らなかったが、慶喜は駆け出した。
それが封術師としての感知能力に基づくことだったのか、あるいはただのカンであったのかは、今ではわからない。
誰よりも早く、慶喜は目的地にたどり着いた。
そこには、破壊的な惨状が広がっていた。
大地は割れ、木々は根こそぎ倒れ、ところどころにクレーターができており、漂う魔力の残滓は辺りを紫色に染め、焦げた臭いが充満していた。
そして、血まみれで倒れるイサギ、廉造。
極術を発動しようとしていた、リミノ。
それらを見た瞬間。
慶喜は憤怒した――。
――そして、そのはず、だったが。
慶喜はなぜかすぐに青くなっていた。
自分が激情にかられて、とんでもないことを口走ったのだと思うようになったのだ。
それもまた彼のらしいところと言えば、らしいところなのかもしれない。
ずんずんと先に歩いてゆくリミノとロリシアを追いかけながら、慶喜は反省し、殊勝なことを言い始めた。
「あ、あの、先輩……」
「……」
「なんか、その、さっきは、こう……。
ぼく、ひょっとしてかなり、チョーシ乗っちゃってましたかね? へへ……」
慶喜に肩を貸してもらい、戻る帰り道。
イサギが喋らずにいると、慶喜はひとりでどんどんと落ち込んでゆく。
「イサ先輩だけじゃなくて、廉造先輩まで敵に回して……。
ぼく、この世界で生きていけるんですかね……。
なんかすっごい不安になってきちゃったんですけど……」
突如として弱音を漏らす彼に、イサギは――。
「……ありがとうな、慶喜」
「え? い、いや、あの、はい?
はあ、まあ、その……お役に立てたのなら」
「ああ」
「へ、へっへ、そ、そう言っていただけるんなら。
なんか、こう、無茶したかいがありましたなあ……」
そうしてイサギは目を閉じた。
「お前は、いいやつだな、慶喜」
「お、おう……? どうしたんすか、急に……。
イサ先輩、突然マジになるんでビビりますよ……」
「ああ。……だが、俺は、ダメだな」
「え、ええっ? 先輩?」
俺は、疲れた。少し、眠る……」
「あっ、せ、先輩! 先輩ー!?」
ぐったりと全身から力を抜くイサギ。
慶喜の声は遠く、遥か遠く響く。
それはなぜか、とても、とても懐かしい匂いがしていた。
◇ ◆ ◇ ◆ ◇
結局のところ――。
「あ、ありがとうございます、デュテュさま」
「うふふ、いいのです、リミノちゃん。
これがわたくしにできる、精一杯のことですから」
リミノやイサギは、大事には至らなかった。
寝室のベッドに横になりながら、イサギは集まってくれた一同を見回す。
「これだけの術者が揃っておるのなら、当然のことじゃな」
泣き腫らした目をしたキャスチが、うんうんとうなずく。
リミノが運ばれてきて一番動転していたのも、彼女だった。
「レンゾーが……そうなの」
銀色の長い髪をいじりながら、シルベニアがぽつりと漏らす。
彼女はその表情の中になにかを押し殺しているようにも見えた。
肉体と魂を極限まで消耗したイサギは、キャスチ、シルベニア、慶喜、そしてデュテュによって、完全なる治療を受けた。
アルバリスス最高峰の治癒術師たちの法術だ。治りも早かった。
しかしそれは、身体に限った話だ。
彼は魂をすり減らし戦った。それを治す術は――現状――ありえない。
それでも、皆の手厚い看護によって、容態はずいぶんとマシになったようだ。
「ありがとうな、みんな」
頭を下げるイサギは、いつになく元気がないようだった。
プレハの姿を見て、魔族の面々は複雑そうな顔をしたが、しかし治療の見込みもあると聞いて、笑顔を見せる。
「いいえ、イサギさまの想い人が見つかられて、本当に良かったです」
そう言って微笑むデュテュの心の内をわかっていたのは、この場ではリミノだけであった。
友人同士でもあるリミノとデュテュは視線を合わせ、そしてお互いに笑みを浮かべる。
少し眉を落とし、「仕方がないなあ」という困り笑顔である。
それはイサギに向かっての言葉なのか、あるいはそれでもまだ彼のことを想う自分たちに向けられたものなのか。
ともあれ、ひとりの死者が出ることもなく、嵐は過ぎ去った。
魔族の面々もしばらく――イサギの傷が癒えるまで――この家に宿泊してゆくのだという。にぎやかになるだろう。
一段落したところで、慶喜が話題を切り替えた。
「そういえば先輩、ここに来たのは、廉造先輩だけっすか?」
「ん、まあそうだな。あとはあいつの部下か」
「そうっすか……」
「どうかしたのか?」
「いえ……」
慶喜は歯切れ悪く答え、ぼそぼそとつぶやく。
「実は、伍王会議でぼくたち、ダイナスシティに招かれてるんすけど」
「ああ」
「ちょっと、問題が、起きているらしいんすよね。
その、結構大きめの問題が……。
っていっても、旅の噂で聞いたことなんすけど……」
「なんだよ、それ」
慶喜は声を潜めて、つぶやく。
「……エディーラ神国に向かった愁サンが、その、
行方不明になった、って……」
イサギは眉を潜めて、繰り返す。
「……あいつが? 行方不明に?」
「ええ、ギルドの人たち、ずいぶんバタバタしてましたよ。無事でいるといいんですけど」
「……」
イサギは窓の外を眺めた。
空は曇天模様である。
再び、大きな嵐が来る。
そんな予感を感じて、イサギは左目を抑えた。
だが。
この先、自分に、なにができるだろうか。
廉造に敗北し、リミノと慶喜に命を救われ、
結局、極大魔晶を一人では守りきることができなかった、この自分に――。
「……プレハ」
彼女は本当に、目覚めるのだろうか。
もし目覚めなければ、そのとき、自分は一体どうなってしまうだろうか。
ここに来てから、色んなことがあった。
正直……疲れた。
ベッドの上で、イサギは目を閉じた。
今はただ、ただ、眠りたかったのだった。
そしてイサギは、夢を見た。
それはきっと、幸せな日々の、過ぎ去った思い出の夢であった。
◇ ◆ ◇ ◆ ◇
魔王城の中庭に、この世界には似つかわしくない柱が立っていた。
その柱の上部には、網のようなものが取り付けられている。現代の日本で言うならば、それはバスケットゴールに酷似したものであった。
『ンでこんなこと』
指先でボールを回しながら、廉造が呻く。
それは獣の皮で作られた質の悪い模造品であったが、愁が一生懸命作り上げたものであった。
『たまには良いじゃないか。スポーツで、爽やかな汗を流そうよ』
『汗なら毎日流してンだろ。無駄に』
『まあね? でも、たまには遊びも必要じゃないかな』
そう言って愁は廉造の手の上から、バスケットボールの模造品をかすめ取った。
このために馴らした地面でドリブルを始める愁。その笑顔になにやらピクリとするものがあったのか、廉造もまた体勢を整えた。
『ちったァやる気になったぜ、愁』
『あはは、僕も嬉しいよ』
その様子を慶喜とイサギは遠巻きに眺めている。
まだ少し怯えがちの慶喜は、メガネを抑えながらつぶやく。
『あー……あれっすね、これがリア充のあれっすよね。
なんですぐたまあそびをしたがるんでしょうね、ああいう方々……。
現代人が忘れた野生の魂をいまだに胸に秘め続けているんでしょうかね……』
はあ野蛮はあ野蛮、とため息を漏らす慶喜。
眼帯をつけたイサギはゆっくりと前に歩み出て、愁と廉造の間に割って入った。
『あ、あの、イサ先輩?』
イサギもまた腰を落とし、その視線をボールを持つ愁に据えた。
『お、イサくんもやるかい?』
『ああ、愁。相手になってやるさ。
言っておくが、俺はルールぐらいしか知らないがな。
それもちょうどいいハンデになるだろうよ』
と言っているそばから、愁は「よっ」とボールを放った。
それは吸い込まれるようにゴールを通過する。
固まるイサギに、愁はにっこり笑った。
『僕の勝ち?』
『……』
中庭の隅っこでは、木に姿を隠すようにしてデュテュが拳を握り締めている。
がんばれ、がんばれと叫ぶように、だ。彼女の熱視線はイサギだけに向けられている。
イサギはそんなことを気にしていないようだったが。
『……愁、この借りは返すぞ』
『イサ、次はオレだ』
『必ず……な』
『いいからどけ』
イサギは肩を落としたまま、愁の横を通り過ぎる。
彼は微笑み、肩を竦めた。
『いやあ、イサくんに勝てることがようやく見つかったかな。
といっても、すぐに抜かされちゃいそうな気もするけど。
どうだい? 慶喜くんも一緒にやろうよ。それなら2on2ができるよ』
すでに愁と廉造の勝負は始まっているというのに、愁はドリブルをしながら廉造にボールをかすらせることもなかった。
声をかけられた慶喜は嫌そうな顔をしながらも、歩み出てくる。
『え、えー……じゃあ、まあその、愁サンと同じチームなら、へへへ』
あくまでも勝ち馬に乗ろうと言うようだ。
別にいいが、釈然としなかった。
『……』
『……』
イサギと廉造は共に仏頂面を作る。どちらも負けず嫌いなのだ。
ふたりは顔を見合わせて、同時に己の手のひらを拳で叩いた。
『負けねェ』
『絶対に勝つ』
空では相変わらずイラが辺りを偵察して周り、シルベニアは尖塔でひとりだけの研究に没頭をしているのだろう。
中庭にはしばらく、ボールが地面を叩くリズミカルな音が響いていた。
やがて日が落ち、ロリシアやリミノが差し入れの果物や飲み物を届けに来るまで、一同は汗を流した。
魔王城での日常は、穏やかに過ぎてゆく。
それは紛れもなく、遠い昔。
もはや後戻りすることなどできない、幸せな日々の思い出であった――。
◇ ◆ ◇ ◆ ◇
陽の届かぬ地下室。
どれくらいここに閉じ込められていただろうか。
まぶたを刺す光が痛い。
緋山愁は、ゆっくりと覚醒してゆく。
「やあ……きょうは皆で集まっているんだね」
照らされたその姿は、酷いものであった。
高貴な栗色の髪は血に汚れていて、その下の美しき素顔も痣や火傷だらけだ。
血だまりの上の椅子に縛られた愁の両手には、爪がひとつも残ってはいなかった。
無残。彼のその姿は、拷問を受けた囚人のそれである。
「どうしたのかな、誰かの誕生日かい?」
そんな有り様だというのに、愁の浮かべた笑みはいまだ涼しげであった。
両足も拘束され、足を組み替えることもできないというのに。
愁は切れた唇を緩やかに吊り上げる。
「それともそろそろ、僕を解放してくれたり、するのかな」
悠々とした彼の言葉に、どこからか失笑が漏れた。
その声は――場違いなほどに――可憐で、無垢ですらあった。
邪気もなく、甘く、透き通るような声色。
こんな状況だからこそ、それはひどく不気味に聞こえた。
「ノエル、彼がなにか仰っているんですけど」
「ええ、カロラエル、希望というものは本当に厄介なものですわ」
愁の前、六つの影があった。
どれも小さな、少女たち。
尖った耳をした、エルフ族の子どもだ。
愁の膝元に、拷問器具を握り締めたひとりの少女がひっついた。
「あたくしたちの言うことを聞いた方が、早く楽になれるとお思いますわよ?」
「そうですわ、三代目ギルドマスターさま。もうあなたは逃げられませんわ。
わかっているのでしょう? うふふ。
ここを脱出できたところで、わたくしたちを敵に回せば生きてはいけませんことを」
嘲笑。少女たちの笑い声の中、愁もまた目を閉じた。
いくつかの言葉を思い浮かべ、そのうちのひとつを選択する。
「まあ、そうだね。
君たちのような子たちが、この大陸にいたとは、ね。
……僕の調査不足、かな」
愁の嘆息は、無力の象徴であるかのように、意味を持たず。
その彼の頬が打たれた。乾いた音が響く。
「まーったく、チンタラチンタラやってんだから、もぉ。
こんなXXX臭いXX野郎なんかに、いっつまでかけてんのよぉ。
ほっら、わたっくしが、手本を、みせって、あっげるからぁ」
嗜虐的な少女は、さらに彼の腹を蹴る。
愁が血を吐くまで、何度も何度も。何度も何度も。
「…………」
その光景をひとりの少女が、感情の浮かばない瞳で眺めている。
皆、似たようなデザインのドレスを身にまとっているため、誰が誰だかわからない。
まるで人形のような少女たちは、悪意も殺意も六等分するかのように、立ち並んでいる。
六人の少女が、ここにはいた。
六対の双眸が、闇の中、『赤』く光る。
少女たちは手を繋ぎ、繰り返し行なわれていた儀式のように、両手を掲げた。
その呪文、妖しく響く。
「『希望』の名の元に、愚民を支配し」
「『神愛』の名の元に、緩慢な死を」
「『勇気』の名の元に、人族を殺し」
「『忠節』の名の元に、無恥盲目に」
「『智慧』の名の元に、甘い夢をぉ、見ちゃってぇ」
「…………」
彼女らは、女神教『六つの大徳』を唱えながら、嗤う。
色の違うゴシックドレスに身を包む、冷然で艶やかな六人の小さな女の子たち。
手も足も細く、胸すらも膨らみかけの、儚げな娘たちであった。
エルフ族の、六人の少女――。
――この地は、エディーラ神国・首都リーンカテルダム。
とある屋敷、ここはセルデルのかつて所有していた屋敷の地下であった――。
手勢とともにやってきた愁は、何者かに襲撃され、そのままこの屋敷へと連れ去られたのであった。
エディーラ神国がひた隠しにした負の遺産が根づいていたのは、このような場所だ。
かつてセルデルが飼っていた六人のエルフ族。
くびきから解き放たれた、悪魔の子ら。
彼女たちを、国の者は、こう呼び捨てる。
――六禁姫。
彼女たちの望みは、ひとつ。
くすくすという笑い声が部屋に反響する中。
愁は天井を仰ぎ、肩を竦めようとしたができず、首を傾けながら力なくため息を漏らした。
「やあ、どうしようかな……。
ぼくもキミみたいには、なりたくないしねえ」
その視線の先には、イスに縛りつけられて頭に袋を被せられた男がいた。
彼の手足はなく、もはや絶命していることは明白であった。その麻袋の隙間からは、美しい金色の髪が窺える。
希望もなく、神愛もなく、勇気もなく、
智恵もなく、忠節もなく、忍耐も持たざる、六人の少女たち。
かつてセルデルにされたように。そのすべてを弄ばれた者として、彼女たちは、この屋敷から絶望をまき散らすだろう。
なにをするだろうか。
――恐らく、すべてを。
禁じられた、人の道に反する、魔物のような所行をすべて、ひとつ残らず、すべてをやってのけるのだ。
そのために彼女たちはここにいる。
彼女たちは、ここから、始めようというのだ。
六人のエルフ族の少女たちは、声を揃え、告げる。
Episode:11 朽ちよ、身罷れ、地に絶えよ End
それこそが、彼女らの唯一にして――絶対なる望みなのだから。
次章予告
かつて世界を救った男がいた。
そして愛する人を失った男がいる。
『僕はずっと、彼女に会いたかった、だけなんだ』
男が奏でるのは、愛の歌。
残された男には、戦うことしかできなかった。
友に敗れ、少女も守れず、ひとりの男は朽ちてゆく。
これは滅びへと向かう、別れの旅。
少女の涙が落ちた時、男は再び立ち上がる。
無力を嘆くのは――もう終わりにしようじゃないか。
勇者イサギの魔王譚
Episode:12『終焉に希う、ただひとつの』