11-12 風の憧憬
廉造とイサギが同時にそちらを見た。
緑色の髪をした少女が、息を切らせて、そこに立っていた。
エルフの第三王女、リミノである。
キャスチの元で修行を積んだ彼女は、自らの体の周りにたくさんのコードを浮かべていた。
キャスチやエウレとともに、極大魔晶プレハを見守っていたはずのリミノはただひとり、ここにいた。
矢も盾もたまらず、駆けつけてきたのだ。
彼女はその瞳に決意を浮かべながら、毅然と廉造を睨みつける。
「お兄ちゃんから、離れて」
声に震えは、ない。
恐れも、迷いも、ない。
リミノの作り出すコードは、精巧で緻密。
まさにキャスチ直伝、シルベニアに匹敵するほどのレベルである。
たった2年経たずにこれほどのレベルに達する素質を持つものが、どれほどいるのか。
キャスチは言った。
『そなたの才能を超えたものは、今までにふたりしかおらぬ』と。
キャスチは言った。
『二位はシルベニアじゃ。あやつはさすが魔法師であった。ゴールドマンとて妹には届かぬわ。
そして、第一位が、アンリマンユ。あやつはバケモノであった。誰もあの男には敵わなかったじゃろうな。
しかし、リミノ、おぬしは第三位。その中に食い込むほどであったわ』
リミノはその言葉を粛々として受け入れて、さらに研鑽を続けた。
その結果、彼女は魔法師に並ぶほどの実力を手に入れたのだが――。
――だがそれが廉造に通用するかどうか、というと。
「……テメェ」
「シグルドの、花弁!」
リミノが花びらのように撒き散らす風の刃は、残らず廉造へと襲いかかる。
廉造もまた、極煌気を使い、魔力を凄まじく消耗し切っているはずであったが。
「――っぜェ!」
腕の一振りで、廉造はそれらを払い飛ばす。
ただの一撃で、リミノが描いた魔術は叩き落とされ、大地に散った。
リミノは挫けず、さらにコードを描く。
神速詠出術――慶喜にも勝るとも劣らないその速度。
「リーヴァの根!」
大地から隆起した岩は槍のように持ち上がり、廉造を刺し貫こうと迫る。
その巨大さ、鋭さ、速さ、どれもが巨獣を打ち倒す英雄の槍のようであったが。
「喰らわねェよ」
廉造はそれを足蹴にし、岩を蹴り砕く。
見るも無残に破壊される魔力の残滓。リミノの無力を味わわせるように。
それでも、岩の槍の奥の緑の彼女は、まるで揺らがず。
一心不乱に廉造を睨み、コードを描いていた。
「エンディラの涙!」
砕けた岩は一瞬にして粉々になり、水色の光へと変わる。
それらは廉造を取り囲み、瞬く間に赤く変質した。
リミノの輪転詠出術。コードの残滓を集めてひとつの魔術を作り出す秘技。
魔術とは、可能性である。
その構造と作り方がわかっていれば、誰にでも独自の魔術を生み出すことができる。
もちろん、そこに一定以上のセンスは必要だが――リミノにはその能力があった。
「レンゾウくん……ごめんね、でも、我慢して!」
液体は炎へと変わり、爆発を引き起こす――。
廉造や慶喜が使うような、派手で規模の大きいものではない。
凝縮した焔は一点に集中し、その内部で魔炎が膨れ上がり、そして瞬く。
バジンッ!という樹の幹が弾け飛ぶような音を立てて、炎は消え失せた。
「……ごめんね、レンゾウくん」
その言葉に、大地を踏み締める音が応えた。
「構わねェよ。――ブチ殺す」
――炎の中から、無傷の廉造が、姿を現す。
「リミノ!」
少女を追いかける廉造の背に、イサギが叫ぶ。
彼は立ち上がろうとして、肘をついて身を起こした。
「なにをしに来たんだ! お前は! 逃げろよ!」
「……」
「リミノ! お前まで、死ぬ気か!」
廉造を前に、リミノはさらなるコードを描きながら、首を振る。
「……やだ」
「お前!」
「やだもん、私、絶対に、逃げないから」
「リミノ……!」
廉造の姿が遠くなってゆく。
彼はリミノまで殺そうとしているのか。
自分だけではなく、エルフのその王女まで。
そんなことは、見過ごすわけにはいかないのに。
イサギの体には、まるで力が入らないのだ。
そんな風にして奥歯を噛みしめるイサギに向けて、廉造の肩越しにリミノが微笑む。
その笑顔は可憐にして、芯があり、野に咲く美しい花のようだったひとりの少女が、まるで土に根を張る大樹に成長したかのような姿であった。
「大丈夫だよ、お兄ちゃん。
私は、強くなったんだから、大丈夫だから。
だから、もう心配しないで。
お兄ちゃんのことは、私が守るから」
「リミノ――!」
廉造は握り拳を固めながら、一歩一歩リミノへと近づいてゆく。
彼も限界をとうに越えているはずだが、それでもまだ少女を葬り去るだけの力は残っているだろう。
「オレが女子供に手をあげねェとでも思ってンのか?
関係ねェよ、決めたンだ、ブチ殺す」
「……いいよ、レンゾウくん。
私だって、怖いけど、でもここで逃げちゃ、だめだから」
「オレァ、強ェよ。無駄な抵抗だ。犬死にだぜ」
そうだ。廉造の言葉通りだ。
エルフの王女にどれほどの才能があって、また彼女がどれほど腕をあげたとしても、イサギを倒すほどの男に――禁術師に、適うはずがない。
しかしそれでもリミノはここに来なければならないと思った。
イサギに再会した廉造が決定的な仲違いをした際に、その場にいたのがリミノだったからだ。
リミノは毅然と言い放つ。彼がどんなに恐ろしくても、それを言うことができるのは自分の役目だと信じていた。
「レンゾウくんみたいな人に、私、負けないよ」
「……」
「あなたのことを私は、正直よく知らないけど。
でも、これだけはわかる。
あなたは結局、自分のために極大魔晶をほしがっているだけだよ。
お兄ちゃんからプレハお姉ちゃんを奪う権利なんて、ない」
「……ンだと」
廉造は――表面上は――迷ってはいないように、思える。
その深層心理の奥底は、どうなっていたか。
彼はイサギを『お兄ちゃん』と慕う少女だ。
そんなエルフの姿を見て、愛弓を思い出さないはずがない。
「……なンだよ、テメェ」
廉造はうめく。
だが、リミノはやめなかった。
「あなたは弱虫だよ。レンゾウくん。
自分に言い訳しなくちゃ、お兄ちゃんに殴りかかることもできない。
あなたは弱虫で、自分勝手なだけ。
優しいお兄ちゃんの気持ちをただ踏みにじった、ズルい人だよ」
「……あァ?」
自らに立ちはだかる少女を、廉造は本当に殺すだろうか。
わからない。イサギには、想像もつかない。
神化状態が解けた今のイサギには、戦いの反動が一気に降りかかっていた。
それは魂の虚脱感だけではなく、思考に関しても同様にだ。
神化病患者の思想は単一に固定される。
かつてイサギをなぶり続けたカリブルヌスのようにだ。
イサギもまた、廉造に勝利することができなかった。
それが人対神の限界であったのかもしれない。
さて、果たして廉造は――。
「うん、お兄ちゃん、大丈夫だから」
握り拳を固めた廉造が近づくと、リミノはなにかを取り出した。
それに気づいた廉造が、足を止める。
「テメェ……」
そしてイサギもまた――言葉を失った。
「……おまえ」
リミノは両手に一本の杖を握り締めていた。
それは戦いの中、結局イサギが使わずにいた、ひとつの宝具であった。
「お兄ちゃんのことは、私が、守るから」
重ねる誓いは天輪の如く、彼女の周囲を明るく照らす。
それはリミノが持つ杖が発する光であった。
――聖杖ミストルティン。
「だから、心配しないで。――お兄ちゃん」
勇者イサギの魔王譚
『Episode11-12 風の憧憬』
◇ ◆ ◇ ◆ ◇
リミノ王女は走っていた。
森の中を供も連れず、たったひとりで、だ。
『はぁ、はぁ、はぁ……』
エルフ族の王族――特に女性はまるっきり戦闘力を持たないのが、アルバリススの常だ。
彼女らは花よ蝶よ育てられた娘であり、その弱さ、儚さこそが美の象徴であった。
第三王女リミノもまた、例外ではない。
しかし今の彼女はどうだろう。
靴は両方とも脱げ、柔らかな足の裏は擦り切れてボロボロだ。旅装もところどころが破れており、まるで命からがら逃げ出した亡国の姫のようだ。
ただ違うのは、エルフ族の王国ミストランドは、まだ滅びてはいない、ということだけだった。
『カトレノお姉さま……リリアノお姉さまっ……』
息を切らし、涙の跡を拭いながら走る彼女は、姉たちの名前を必死に連呼する。
それだけが今彼女を支えているかのように。
ミストランドは魔族帝国軍の侵攻に晒されていた。
防壁が打ち崩されたのは、先日のことだ。
ついに戦線を維持できなくなったエルフたちは後退をした。もはや残るは王城ただひとつ。壊滅的な防衛戦であった。
希望はふたつ、あった。
ひとつはエルフ族の王城地下に眠る召喚魔法陣『リーンカーネイション』。
そしてもうひとつは、今こちらに向かっているという人間族の援軍だ。
だがどちらも、井戸の底から見上げた針の穴ほどの光であった。
召喚魔法陣を起動させたのは、エルフ族の第一王女リリアノであったが。
それは何度試したところで、彼女たちの望むような結果にはならなかった。
アルバリススの召喚陣は計三枚。かつてこの大地を去る時に神族が遺したとされるそれらは、どれも機能が異なるものだ。
ダイナスシティの召喚陣クリムゾンは、極大魔晶を用いて単一の物体――並びに人物を――高い精度で呼び寄せる。
魔族が統べる召喚陣フォールダウンは、周囲から徐々に魔力を吸い上げ、そうして魔力が集まった四百年に一度のみ使うことができる。その効力は絶大であり、クリムゾンの四倍以上の召喚力を誇るという。
だが、エルフ族の召喚陣リーンカーネイションだけは、その効果がハッキリとは判別していないものであった。
エルフ族が回復術とともに禁忌と呼び、封じ込めていたそれは、伝説の中でさえたったの一度も使用を確認されたことは――なかった。
エルフの王族がどんなに願ったところで、リーンカーネイションは彼らに応えることはなかったのだ。
それでも、リミノの姉である第一王女カトレノは、寝食を忘れ、ただひたすらに召喚陣に願いを捧げていた。
何百回、何千回、何万回。繰り返されるその懇願は、ただひとつ。
『我らがエルフ族の敵を打ち倒し給え』
だが届かない。何万回、何十万回繰り返しても、届かない。
リーンカーネイションの使用方法など、誰も知らないのだ。
藁にもすがる姉たちの姿を前に、リミノもまた、王国のためになにかをしたいと願ったのだ。
リミノと少数の近衛騎士は、密かに城を脱出し、人間族の援軍を呼びにいこうとしていた。
王国の現状を伝え、一日でも早く力になってもらえるように、だ。
しかしそれは、あまりにも危険な旅路であった。
無知で無謀な賭けだが、そんなことをしなければならないほどに、エルフ族は追いつめられていたのだ。
魔族軍と遭遇し、ひとり、またひとりと騎士たちは命を落としていった。
それでも、リミノはただ走る。
この方角で合っているはずだ。もうすぐで村が見える。そこには、人間族の大軍が駐屯していて、立派な剣や鎧を身につけた英雄のような男たちが、いるはずだから――。
森が開けた。
そこには、確かに村があった。だが――人間族の大軍などは存在していなかった。
いや、確かにいた。間違いではない。軍はいたのだ。
あちこちが焼け焦げた村の中に――魔族帝国軍が――我が物顔で闊歩をしていた。
村は蹂躙されていた。
『……あ、……はぁ、……ああ……』
リミノはその場にへたり込む。
もう一歩も動けそうには、なかった。
人間族はやられてしまったのだ。リミノはそう思った。
魔族帝国軍はあまりにも強大で、やはり自分たちは皆、殺されてしまうのだ。リミノはそう思う。
特徴的な緑色の髪に気づいたひとりの魔族がこちらにやってくる。心折れたリミノはもう身を隠すことすら忘れていた。
『ああ? エルフのガキかぁ? どっかで見たことのある面だな……』
顎をさする男が少女の瞳に映る。
だめだ。ここには魔族しかいなかった。
殺される。殺されてしまう。為すすべもなく、ここで。
これが戦争なのだ。城の中で怯えていた自分には、気づきようもなかった。
『……ぁ……』
魔族は血の付いた斧を握りしめながら、近づいてくる。
リミノは、か細い声で、つぶやいた。
『……たすけて……』
落ちた木の葉のようにかすれたその言葉は誰にも届くことはなかっただろう。
彼らが――この場に、いなければ。
『もちろんだ』
リミノの目の前、まるで切り倒した幹のように、魔族の体が斜めに崩れ落ちてゆく。
彼の背後から現れたのは、まだ若い、少年。
紅色のマントに身を包む、黒髪の男であった。
銀色の剣を握る彼は、こちらに手を差し伸べてくる。
『遅くなって、すまない。
思ったより魔族の数が多かった。
少し待っていてくれ。今、村を救ってくる』
『……ぇ、あ、あなた、は……?』
呆けるリミノにその少年は、答えた。
短く、そして力強く。
『イサギ』
まさしく風のように現れたその彼は、瞬く間に村を制圧した。
百数人の魔族を全員切り倒し、再び集まったのは村のあの門の前であった。
彼らは合計で、四人いた。
旅慣れた姿の剣士と術師たちは、弛緩した口調で言葉を交わす。
『しかし、村人を全員避難させていたのは、不幸中の幸いでしたね』
『うちの部下たちは、良い仕事すんだろ?』
真っ白な法衣をまとう青年が、体の埃を払いながらそう言う。
赤髪の男が得意げにうなずき、稲妻の走る剣を鞘に納めた。
『ねえ、イサギ。この子は?』
『ああ、さっき襲われそうになっていたところを、助けたんだ』
『イサギは本当に、息をするように人助けをするよね。すごいすごい』
『ま、この剣の届く範囲ならな』
いたずらっぽく笑う金色の髪の少女の前、イサギと呼ばれた少年はひざまずき、リミノと目線を合わせる。
『大丈夫か? 立てるか?』
『あ、あの……』
そこでなにかに気づいたように、法衣の青年がつぶやく。
『……こちらの方は、エルフ族の王族ですね』
『そうなのか』
『ええ、肩に刻まれた世界樹の紋章は、間違いありません。どうしてこんなところに』
『あ、あの!』
夢から覚めたように。
リミノは勢いよくイサギの両肩を握り締める。その勢いに倒れかけるイサギに、リミノは訴えた。
『今! 王城が! 襲われていて、それで、あの!
だから……だから、その……お願い、します……。
どうか……リミノたちに……力を……』
叫びながらも、リミノの語気は弱まってゆく。
それも当たり前だ。こんなところで、たった四人の旅人に助力を求めてどうするのか。
自分は六人の騎士とともに、人間族の援軍を呼びにいったのだ。
連れて帰るのが四人では、意味がない。ただ彼らを闇雲に失ってしまっただけだ。
リミノはボロボロと涙を流す。
それでも言葉は、止まらなかった。
『お姉ちゃんも、パパも、ママも、このままじゃ、みんな、死んじゃう……死んじゃうんです……。
魔族が、すぐそこにまで、きていて……みんな、みんな戦ってて、でも、リミノは、見ていることしかできなくて……。
それで、すごく、辛くて、苦しくて、やだ、やだよ……みんな、死んじゃうの、やだ……。
お願いします、どうか、どうか、助けて、ください……』
泣きじゃくるリミノの肩を誰かがぽんぽんと叩く。
それは法衣の青年だ。『どうぞ』と差し出されたハンカチを受け取り、リミノは目を拭う。
『イサギ』
『ああ』
少女に名を呼ばれ、彼は立ち上がる。
『バリーズド、すぐにアインとツヴァイを王城に送ってくれ。詳しい様子が知りたい』
『あいよ、大将』
『セルデル、エルフ族の城の辺りの地形はわかるか?』
『ええ、文献で見た覚えがありますね。四方を森に囲まれておりますが、花の門と星の門の両方を封鎖すれば、魔族はそこを無視して突入はできないでしょう』
『なら、二手に分かれるか。俺とセルデル。バリーズドとプレハだ。先鋒隊を片づけたら、俺とプレハが突入しよう』
『それが上策かと』
リミノは驚いた。
彼らを取り巻く空気が、一変していた。
先ほどまで気の良さそうに笑っていた赤髪の男は鷹のような鋭い目をして、指笛を鳴らす。
イサギも、法衣の青年も、どちらも緊迫した表情だ。
ただひとり、変わらぬ微笑みを見せるのは、金色の髪の少女。
彼女はリミノの手を握り、可憐な笑顔を浮かべた。
『大丈夫よ。心配しないで? リミノちゃん』
『……あ、……え……?』
『もう、助けは来たから。もう大丈夫。
ね? 涙を拭いて。よくがんばったね。
あなたは立派に、役目を果たしたんだよ』
優しく語りかけられて、それでもリミノには、わからない。
戸惑うリミノに、そして、イサギが告げた。
『俺たちが、援軍さ』
勇者イサギとその仲間たち。
リミノはそこで初めて、彼らに出会ったのだった。
勇者イサギたちは、リミノとの約束を守った。
三ヶ月かけて攻め落とされる寸前であったエルフ族の城を、三日三晩かけて奪取したのである。
魔王を倒す旅の途中の、ごくごくわずかな時間であったが、彼らの姿はリミノの胸の中に、鮮烈な記憶とともに刻み込まれた。
リミノは、勇者たちに憧れるようになった。
特にイサギとプレハにくっついて回って、彼らをなんとかエルフの国に引きとめようとしていたものだ。
世界を救う旅の途中だ。あまり悠長にしていられないと困る彼らに、それならばとリミノはついてゆくと主張もした。
仲間として扱ってもらえないのなら、イサギと婚姻の式をあげ、彼の后として添い遂げるのだと頼み込んだりもした。イサギはさらに困り、プレハに意見を求めていたりもしたけれど、彼女は『好きにしたら?』と素っ気なくつぶやいただけであった。
結局、それらの騒動は所詮、幼かったリミノの憧憬でしかなかったのだけど。
リミノにとって勇者イサギはまさしく、物語の中の英雄であった。
彼女の憧れはいつしか恋へと変わり、それはずっとずっと叶えばいいと思い続けた夢であった。
どんな苦難を前にしても、リミノの一途な想いはくじけることはなかった。
夢の中で、青空の中に、朝靄の光の中に、彼らと生きている自分の姿を思い浮かべるだけで、生きてゆくことができた。
イサギのそばに立つ自分。彼の手を引いて、そしてともに戦う自分。
彼らと肩を並べて、そうして笑い合う自分の姿を胸に、戦ってこれたのだ。
そうだ。
結局は、そうなのだ。
どんなに彼に口で言ったところで、それ以外にはなかった。
美しいままの想いでは、ありえなかった。
リミノはプレハになりたかったのだ。
プレハになって、イサギの隣に立っていたかった。
彼の寵愛を注がれ、そして彼に頼られて、彼とともに、生きたかったのだ。
女王としてエルフ族を率いることと同じぐらいに、リミノにとっては大事なことだった。
嫉妬と言われるのなら、そう呼ぼう。妄執と言われたのなら、そうなのであろう。愛などではなくても構わない。キレイなガラス玉のような胸の奥には、ドロドロが詰まっているのだとしても。
だが、この気持ちが嘘などと、誰にも言わせる気はない。
「ごめんね、お兄ちゃん」
リミノが握り締めるミストルティン。
それは神の産物。かつてアルバリススに舞い降りた女神が扱った神具である。
魔王パズズがこれを用いて、なにを行なったのか、それは当然リミノも知っている。
心を預ければ、ミストルティンはリミノから魔力を吸いあげてゆく。
体中から魔力が絞り出されるような心地がした。
しかしそれをイサギもかつて味わったのだとしたら。
――リミノにとって、なんて甘い痛みなのだろうか。
「よせ、リミノ!
それ以上いくと、戻れなくなるぞ!
おまえも、セルデルのように――」
イサギの決死の叫び声が、どこか遠くに聞こえる。
ああ、やはりこのままいくと、自分は死ぬのかもしれない。リミノは頭の片隅でそんなことを思う。
しかし、仕方がないことだ。
これが力なら、これでイサギを救えるのなら。
――それでも、いい。
リミノは喜んで、極術に身を委ねよう。
その結末が、どんなことになるとしても。
「――」
そのとき、気づいたリミノはわずかに頬をほころばせた。
そうか、これか、これだったのか。
プレハの手紙。
その気持ち。
リミノはついに、見つけだしたのだ。
自分の身を犠牲にして、イサギをこの世に呼び戻そうとしたプレハと同じように。
彼女がいったいなにを考えながら、微笑み、そして極大魔晶へと変貌してしまったのか。
その答えは、今、リミノの中にあった。
偽りでもなく、幻でもなく。
この瞬間――リミノはまさしく、プレハであった。
「レンゾウくん――」
杖を突きつけると、再び彼の動きは止まる。
瞳が揺れている。一体何を考えているのかわからない。だけど。
「あなたは間違っている。絶対に、間違っているよ」
「……あァ?」
言える。今のリミノになら、言うことができる。
リミノの精神状態はプレハになったのだ。さらに踏み込むことだって。
もはや怖いものなど、なかった。
「あなたには、妹さんと再会する資格なんて、ない」
「……」
リミノは言い切った。
決定的なその一言を、ついに口に出した。
「妹さんと離れ離れになって、辛いのはわかるよ。ずっと、頑張ってきたのだって。
ひとりで、誰もいない世界で、寂しかったんでしょ、心細かったんでしょ。
わかるよ、わたしだって、そうだったよ。レンゾウくんの気持ちはわかるよ。
でも、だからって、お兄ちゃんを倒してまで手に入れた極大魔晶でおうちに帰って、どうするの!
そんなことをして、妹さんが喜ぶとでも、思うの!?」
「……ンなのは」
「私だって、わかるもん!
私は、お兄ちゃんを20年待ってた! 待ってたんだから!」
張り裂けそうなその声が、森に響く。
「つらくて、苦しくて、それでもずっと待ってた! 帰ってきてほしいって思ってた!
だけど、もしイサギお兄ちゃんが、私のために友達をその手にかけたのなら、
私はそんなイサギお兄ちゃんを、笑顔で出迎えることなんて、できなかった!」
「……」
廉造の足が、完全に停止した。
もはや彼は――その表情は変わらなかったが――動けずにいた。
「あなたは弱い自分に動機を与えるために、都合の良い自分の中の妹さんを作り出しているだけだよ!
自分に良いように言葉を変えて、そんなのは、嘘っぱちだよ!
妹さんは確かにあなたを待っているのかもしれないけれど、でも2年もあれば、人は変わるし、人はひとりでだって、生きていける!
あなたがいなくたって、妹さんは生きているよ! ただお兄ちゃんの無事だけを祈って!
お兄ちゃんなんでしょ!? そんなことが、どうしてわからないのかな!」
打ちのめす。リミノはただ、廉造を打ちのめす。
後先などは考えていない。彼女もまた、必死であった。
叫び声が力になり、聖杖に魔力が集まってゆく。
「あなたはただ、自分のやりたいことを、やりたいようにするだけの、乱暴者だよ!
そのためにお兄ちゃんを、そしてプレハお姉ちゃんを利用しようとしているだけの!
バカ! こないで! お兄ちゃんをいじめないで!
あなたなんかに、お兄ちゃんを殺させるわけ、ないでしょ!」
一言ごとに、リミノの周囲に赤い光が飛ぶ。
神エネルギーの具現化だ。
「人の心を失ったあなたになんて、妹さんと再会する資格は、ないよ!
会ったって、妹さんはあなたのことなんて、嫌いになるに決まっているもん! べーっ、だ!」
妹の声には、言葉には、ハッキリと力がある。
それは廉造の最も根幹とも呼ばれる部分を貫いた。
極術の発動準備に入ったリミノの周囲には、防御陣が形成されている。
生半可な攻撃では、これを破ることは――。
それでも廉造が本気ならば、リミノを倒すことは、できただろう。
できたはずだが、そのはずだろうが。
「……」
廉造はいまだ、動けなかった。
リミノの言葉の重さに、縛られていたかのように。
もはや、手足が石になってしまったかのように。
リミノが必死に振り絞ったその声を、何度も何度も、噛み締めるように――。
あともう少しで極大結晶がその手に入るというのに。
2年かけた目的を成就させることができる寸前だというのに。
廉造は一瞬でも、考えただろうか。
今この場で、この瞬間で、リミノに殺されても構わないと。
そんな思考が、脳裏をよぎっただろうか。
イサギに何を言われても、男同士の勝負だからといって覚悟をしてきた彼が、たったひとりの少女の言葉によって、心変わりなどするだろうか。
命まで懸けて、情も愛もすべて捨てながら、それがこんな罵声によって揺らぐ? その程度の決意なのか?
「……」
廉造は黙して、語らず。
かつてひとりの男は力を失いたくないがために、その身に刻む魔法陣を拒み、神化病を受け入れようとしていた。
だがそんな彼に手術を決意させたのは、彼を想う少女の言葉であった。
そう、それが『プレハ』のためならば、神化病患者は従ったのだ。
では、廉造は――。
それが『愛弓』のための言葉であるのならば?
届くのだろうか。果たして、届いているのだろうか。
その胸の内は今、彼にしかわからない――。
だが廉造は、その場から逃げようとはしなかった。
もしかしたらそれが――答えだったのかもしれない。
「お兄ちゃんは、私が守るん、だから――!」
リミノの唇から出た決意は、恐らく極術の唸り声にかき消されて、誰にも届きはしなかっただろう。
彼女の覚悟は、誰も止められない。
イサギも、廉造も、誰も。
バァンとリミノの肩の肉が突如として爆ぜた。
血管の破裂。彼女の体は、いくら素質があるとはいえ、極術の使用に耐えられるようには、できていないのだ。
それでもリミノは、魔力を注ぐことを、やめなかった。
この先に待つ運命を知りながら。
奈落の底に落ちる定めだとしても、リミノは走り続ける。
これ以外に、イサギを守る方法はない。
廉造を倒すために。
聖杖にすべてを委ねて、リミノは、双眸を開く。
「やめろ、リミノ――――――!」
虚しく響くイサギの絶叫の中。
リミノは細胞のひとつに至るまで、魔力をひねり出して。
動かない――こんなに楽な標的はいない――廉造を見据えて。
先端に輝く赤い光を、放つ――。
放つ――?
放――。
いや。
その光は、瞬きながら、薄れてゆく。
一体どうしたことか。
聖杖ミストルティンは、リミノの手の中で、急速にその力を失いつつあった。
「どうして」
目を見開くリミノ。
だが、イサギだけは知っている。その現象を何度も見たことがある。
単純に、聖杖を操るリミノの魔力容量が足りなかったのだ。
起動に満たぬ魔力は霧のように辺りを漂い、そして消失してゆく。
失敗だ。リミノはミストルティンを使うことができなかった。
彼女は聖杖に認められなかったのである。
「――」
もう一度試そうとする。だが、無駄だ。
魔力を消耗して、それでも呼び声に応えてくれるほど、聖杖は万能の魔具ではない。
イサギだけは、リミノがセルデルのように枯死せずに済んだことに、一時的な安堵を得ていたが。
しかし、リミノは廉造を見た。
彼は嘆息をつき、再びこちらに向かって歩き出してきた。
「こんなはず、じゃ」
「……」
廉造の迷いは晴れたか?
そもそも彼に、そんなものはあったのだろうか。
今すぐリミノの首をもいだとしても、おかしくはない男だ。
リミノはやはりもう一度ミストルティンを突き出し、魔力を込める。何度でも。何度も。
たとえ、なにを失ったとしても。
「私は、絶対、お兄ちゃんを!
この命に、かえてでも!」
誓ったのだから。
――叫んだ次の瞬間。
リミノの手からは聖杖が、奪い取られていた。
「え?」
廉造ではない。リミノの杖は後ろから奪われた。
発動体勢に入った極術をこうもたやすく止められる男が、現れたのだ。
よもや、極大魔晶を奪いに来た第三の勢力か――?
リミノは驚き、焦り、振り返る。
そして再び、目を見開いて、驚いた。
なぜ彼がここに。
リミノから聖杖ミストルテインを奪い去った男は、ボサボサの頭をした冴えない外見の青年だった。
彼はその手のひらに杖をもてあそびながら、なにやらブツブツと独り言をつぶやいている。
よく見れば外套には木の枝や葉っぱなどがついており、森の中を突っ切ってここまで来たのだろうと窺えた。
青年はしばらく押し黙った後、決意をしたかのように顔をあげた。
背筋を伸ばしたその男の姿は、不思議な威厳を感じさせるものであった。
「えーと」
ようやく彼は声らしい声をあげる。
それは低く、感情を押し殺したようなものであった。
「偉い人が言ってました。
命を粗末にするやつなんて、死んでしまえって。
ぼくは今、限りなくそんな気持ちで、いっぱいです。
あなたたちに言っているんですよ、わかっているんですか?」
今ここは、彼の場だった。
皆が聖杖を持つ青年に引きつけられた。
彼は『禁術師』たるその証を身に宿しながら、大きな瞳で一同を見回す。
「正直に、言わせてもらいます」
朝焼けの中、赤い眼が輝く。
禁術師――。
「ぼくは今、怒ってます。
かなりマジです。人生で、マジで」
聖杖を突きつけ、彼は告げる。
小野寺慶喜であった。
次回予告
悲憤慷慨。彼の言葉は重く強く。
伍王会議。その実現は未だ遠く。
三人目の魔王はただひたすらに、想いを叫ぶ。
これは男たちがぶつかり合う魂を懸けた対話。
そして四人目の魔王の行方は――。
勇者イサギの魔王譚
第十一章・最終話『禁忌の血』
16日(金)更新予定です。