11-10 嵐の中で
形勢は一瞬にして――傾いた。
「――冗談じゃねェ!」
粉塵の中から這い出てくるのは、廉造だ。
吹き上がった土砂が辺りに泥の雨を降らせていた。
そんな廉造を追いかけて現れるのは、赤い両眼の男。
右手にクラウソラスを握り締め、左拳を固めていた。
ボロボロになった外套をマントのように翻し、男は廉造を追いつめてゆく。
――奴は怪物か。
廉造は苦虫を噛み潰したような顔をする。
跳躍したイサギは廉造を打ち砕こうと拳を振るった。その結果が、さっきまで廉造が立っていた位置に作られた巨大なクレーターである。
先ほど、たった一合打ち合っただけで、廉造は己の不利を悟っていた。
だめだ、このままでは、圧倒されるだけだ。
少し前のイサギとは、次元が違う。まるで別人のようだった。
一瞬で間合いに踏み込んでくるほどの凄まじい速度と、そして大地を叩き割る圧倒的なパワー。
廉造とて、アルバリスス最高峰の実力者だ。そんな彼は今、目の前の獣をどうやって刈り取るか、その計算に――脳髄が焼け焦げるほど――追われていた。
やはり、あれしかない。
レーヴァテインを、使うしかない――。
対巨神兵器レーヴァテイン。人の手で作り出した疑似極術砲。その一撃、まさに神の雷。
元々人に向けて放つような兵器ではない。どっちみち、廉造とて使う予定はなかった。だが今のイサギは――本当に人と呼べるのか?
やらなければ、こちらがやられてしまうのだ。廉造は背中の鎧に収納していた砲塔を起動させた。
これから魔力を送り込む間、廉造はイサギの動きを止める必要があった。
「クソが!」
廉造はフラゲルム・デイを放つ。一爪を犠牲にしたとはいえ、残る五爪は健在だ。足止めなど生ぬるい。それらを操り、今度こそイサギの急所を貫けば良い。
再び闇夜を踊る黒い影の前、イサギはその場に立ち止まる。光の槍がイサギに降り注ぐ。だが、それでもイサギは動かない。
フラゲルム・デイもまた、対巨神兵器だ。その威力ならば――理論上は――今の神化イサギの外皮を突破できる。
廉造の狙いは、イサギの頭部と心臓。今度こそ、外さない。――五本の光が収束してゆく。
正確無比なその狙いは、イサギに突き刺さった――かのように見えた。
赤い残像を残してバックステップしたイサギ。全砲撃が空を切る。人知を越えた反射速度であった。
そのイサギは、すでに両手に剣を構えている。彼の全身が淡く赤く輝くほどの魔力。そして神エネルギーの昂ぶりは、風を呼んだ。
クラウソラスとカラドボルグ。二刀を交差させ、構え、神化イサギが巻き起こすのは、刃の嵐――。
「――エクスカリバー・エクストリーム・ジョーカー!」
それは、廉造のミラージュを打ち破るために、イサギが放ったのと同じ技――のはずだった。
だが、密度と威力だけが、まるで違っていた。
確かに砲撃をするその瞬間だけ、魔爪はその場に停止しなければならない。イサギの技はその隙を突いたものだろう。
しかし、そんなものは隙とは呼べないほどの、瞬く間だ。実際にフラゲルム・デイは闘気の刃を避けるように飛び回ることができた。できていたはずだ。
それなのに――。
イサギの放った剣閃は、その五爪のすべてを同時に斬り裂く――。
ただの一撃。
それだけで。
「ンだと……ォ」
逃げ延びたはずの対巨神兵器は微塵に引き裂かれた。
これに関して、射程を見誤ったと廉造自身、悔やむことすら無意味である。
ただ純粋に、イサギが廉造の上をいった。それだけのことだ。
「……」
イサギの視線が、ぴたりと廉造に狙いを定める。
その時、廉造の背筋に怖気が走った。
今までこんなことはなかった。
アルバリススに来て、このような思いを抱いたことは一度も――。
「テメェ!」
恐れを振り払うように、廉造もまた、剣を抜く。
フラゲルム・デイすらも避ける今のイサギに、レーヴァテインは到底当たらないだろう。
彼の機動力を奪わなければ――。
廉造が持つのは、かつてS級冒険者から剥ぎ取った晶剣。
それは魔王城にいた頃からずっと、廉造のそばにいた。
廉造はこの剣とともに、二年を過ごし、晶剣の操り方を学んだのだ。
誰よりも長くそばにいた愛剣。――幻影剣ミラージュ。
廉造は左手で剣を握り、包帯を巻きつけた右腕を握り固めた。
「ミラージュ・ランペイジ! 細切れになれ!」
そして、イサギが地を蹴った。
廉造はミラージュを操る時、姿を隠して己の幻影を作り出し、そして相手の不意を打つ戦法を得意としていた――と思われている。
だが、彼の使うミラージュの本分は、違う。
「うらァ!」
本来のミラージュの使い方は、廉造の鋭く速い剣技の、その威力の底上げである。
イサギを迎え撃つように剣を振るう廉造。その刃の影からまた新たな刃が出現した。刃はイサギの死角から死角へと入り込む。この位置では避け切れまい。
単調な突撃を仕掛けていたイサギは、その刃に飲み込まれた。左腕が巻き込まれ、そしてやがて全身が刃に包まれる。まさに細切れだ。そのミキサーの中で、イサギは――。
「――ラストリゾート・ミニマイズ・ジョーカー」
小さくつぶやいた彼の言葉により、前方を覆っていた刃がごっそりと消失する。破術との同時使用だ。そのようなことまでできるとは。
だが、破術は破術に変わりない。今彼の体はその反動を得て、一時的に魔力を失っているはず。
「その首もらったァ!」
廉造は大きく踏み込み、斬りかかる。今度こそ息の根を止める。真っ二つにしてみせる。廉造の覚悟の一撃であった。
イサギはその刃に対して、信じられないことに。
――真っ向から、拳を合わせてきた。
引き絞った神化病患者の左拳が、ミラージュを打ち抜く。
次の瞬間、ひとつの晶剣が――砕かれ――この世界から、失われた。
今イサギの体を包み込み、彼自身の硬度を異常なまでに高めていたのは、神世界のエネルギーだ。それは神化病患者の症状であり、神エネルギーの内圧によって引き起こされる作用である。
剣撃が弾かれるほどの防御力を得る神化病患者はごくわずかだが、拳で晶剣を打ち砕く男など、神殺衆の長、廉造ですら聞いたことがない。
そして破術とは、魔世界を正常化するための禁術である。
神世界のエネルギーを破術で打ち消すことは、できない。
よって――今のイサギが、破術の反作用によって弱体化することは、ない――。
そのことに気づいた廉造を襲ったのは、絶望か?
いや、違う。
まだ彼は闘争の意志を手放しては、いない――。
「ラブリュス!」
廉造は唖然ともせず、怯みもせず、ただ剣を引き抜いた。
イサギは目の前にいる。彼を倒せばいい。そのことに変わりはない。
六本目の――最後の晶剣は、戦剣ラブリュス。
鉛色の剣のその効果は、刃を当てた相手に凄まじい衝撃を叩きつけることができる、というものだ。
いわば、斬撃と衝撃の同時攻撃である。
よってこの剣を剣で受けたものは、身動きが取れなくなるほどのダメージを浴びる。体をかすめただけで行動不能は免れない。先ほどのように拳で叩き割ることなど、できるはずがない。
破壊力だけならば、数ある晶剣の中でも随一。あのカラドボルグの殺傷力にも並ぶこのラブリュスの一撃。
廉造は巨木を切り倒すかのように、剣を両手で持ち、真横に振り抜く。
「うらァァァァァァ!」
裂帛の気合と共に放たれたその斬撃を、イサギは――。
「――センチネル・ジョーカー」
たったひとつの法術。黒曜石のように浮かべた障壁で防いでみせた。決して術式に優れているはずではない男が、廉造の渾身の一太刀を、だ。
硬質的な音を立てて弾かれる廉造の剣。イサギの目が赤く光った気がした。殺される。このままでは。廉造は迷わず最後の剣を――捨てた。
――叫ぶ。
「テメェの手札はすべてジョーカーかァァ!」
廉造の右腕が――包帯に包まれていたはずのそれがあらわになった時、イサギは神化状態に変貌して以来、初めて感情を表に出した。
驚きに目を張るイサギの前、紫色の煙が廉造の右腕から噴出される。
それは、廉造自身の魂が形を成した姿だ。
かつて一度イサギに土を付けた男、獣族の王が使っていた鎧。
――魂鎧オハン。
常人が扱えば、自らの魂をすり減らす危険な魔具である。
だがそれは今、間違いなくイサギの不意を突くことに成功していた。
「ああぁぁぁぁ!」
叫び声とともに振るわれた廉造の右腕は、イサギの顎を打ち貫いた。斜め下から突き上げるようなアッパーカット。それも、肘から噴射された魂によって、凄まじい加速を得た拳である。
イサギは上方に吹き飛ばされた。空中の彼にめがけ、廉造はレーヴァテインを操作し、雑に狙いを定める。どこでもいい。どこだってこの魔砲ならば、当たるはずだから――。
廉造の全身から魔力が吸い上げられる。魔力は砲塔のマジックラインを通過し、魔法陣を起動させた。
魔圧の安定と共に浮かび上がる秘術の紋章。魔晶ギアが跳ね上がり、制御棒が全解放され――そして安全装置が解除される。
なにが終わりだ。
舐めるなよ。
「それはテメェのことだろうがァ――」
叫ぶ。が――遅い。
既に。もはや。それは。
絶望的なほどに。速度が。
――間に合わない――。
イサギには空中で重力を制御する術があった。彼は背中から黄金の翼を生やし、残像を残して廉造の視界から消え失せる。
どこに――。
廉造の左側から、圧力が迫る。気配を隠すことができない神化病患者独特のプレッシャーだ。振り返るよりも先に横に飛ぶ廉造。イサギがクラウソラスを空振る姿が見えた。九死に一生を得て、しかしイサギの追撃は止まらない。
オハンの拳打を浴びたはずのイサギは、まるでダメージを受けているようには見えなかった。その彼が横に飛ぶ廉造よりも早く飛翔し、追いついてくる――。
イサギの拳が放たれる。廉造は頬に直撃を受けて、真横に吹き飛ばされた。目まぐるしく視界がかき混ぜられるジェットコースターの終点に、神化高速飛翔で廉造を追い抜いたイサギが先回りし、神剣を手に待ち構えている。
廉造はオハンを使い、急ブレーキをかける。あのクラウソラスだけは食らってはならない。太刀筋をかわし切る廉造。その代わり廉造はイサギの二の矢――掌打で打ち上げられる。
放り上げられた砲弾のように夜空に浮かぶ廉造。
その目に映る月に覆い被さるように、再び眼前にはイサギが――。
「イ、サ――」
「終わりだ」
神化イサギの渾身の拳が、廉造の腹に打ち落とされた。
廉造はまるで翼をはぎ取られた悪魔のように、地面に叩きつけられた。
辺りが揺らぐほどの衝撃が響き渡り、廉造は地面に大の字になって倒れていた。
指先も、足の感覚も、もはやない。
それでも廉造は、地面にめり込んだ体をゆっくりと起こす。
寝ている場合ではない。
イサギの姿は、すぐ目の前にあるのだから。
「とんでもねェ……化けモンだぜ……」
「……」
廉造はよろめきながらも、なんとか立ち上がる。
全身がボロボロだ。後ろに撫でつけている自慢の髪型も、乱れてしまっていた。
だが、大丈夫だ。まだ戦える。まだやれる。
この男相手に、レーヴァテインを当てるのだ。
先ほどの発射シークエンスは妨害されたが、今度こそ、今度こそだ。
再び、全身から魔力を集めて、かき集めて、そうして、一発逆転の砲撃を……。
レーヴァテインさえあれば、これさえ食らわせれば、今のイサギと言えども……。
だが、廉造は、気づく。
「あァ……?」
へしゃげ、折れた、その砲塔に。
これは――。
「ンだよ……」
最後のイサギの、あの打ち下ろしの拳。
あれは廉造に止めを刺すためのものではなく。
廉造を背中から叩きつけることによって、レーヴァテインを破壊するための――。
そのことを知った廉造は、愕然とした。
思わず、全身から力が抜けてしまった。
心が、屈服しかけて、しまった。
廉造の口から呪詛がこぼれる。
「クソ、クソが……」
廉造の装備はもう、なにもない。
晶剣はすべて手放すか、折られてしまった。
フラゲルム・デイは全滅だ。
レーヴァテインすらも、破壊された。
あれほど、武装を整えてきたのに。
なんということだ。
神化イサギの前には、まるで歯が立たなかった。
これが対巨神兵器の限界だ。
目の前の男は、『巨神』よりも、遥かに強いのだから――。
どうすればいい?
どうすれれば、勝てる?
捨てるしかないのか。
この身を。
廉造は目を閉じ、そして覚悟する。
残るは――。
「燃やし尽くす、か……魂を……」
廉造の右拳に装着したオハンが唸りをあげる。
これに限れば、燃料は廉造の魂だ。
そそぎ込めばそそぎ込むだけ、その威力が上がる。
神化イサギにも、通用する、はずだ。
「イサ……これがオレの、一撃だ」
廉造の体から金色の闘気が放たれ、プロミネンスのように猛り、弾け飛ぶ。
それを見やるイサギは、まるで感情を失ったしまったかのように虚無の眼差しだ。
いいさ。
澄ました顔をしているがいい。
あの顔面に、一発入れて。
そのまま首をねじ切ってやる。
廉造は今、体の奥底から魔力を引き出す。
風が巻き起こり、粉塵が舞う。
一撃だ。一撃であの男を倒すだけの、その魔力を。
そして魂すらも、犠牲に捧げる。
紫色に輝くオハンを掲げ、廉造は叫ぶ。
「オレは、愛弓の元に、
帰る……帰って、見せる!」
「……」
「喰らえ、イサ、これが、オレの――!」
低い姿勢から、廉造は地を蹴った。
その右腕が超加速をし、廉造は回転を続けながらイサギに迫る。魔力と魂と、そして遠心力によって極まった廉造の拳は今、無防備に立ち尽くすイサギに迫る。
「うらああああああああ!」
そして最後は飛び上がり、正面から廉造はイサギに拳を打ちつけた。右腕の衝撃は廉造の肘から肩へと抜けてゆく。発生した衝撃波が輪となって広がり辺りの木々を薙ぎ払う。それほどの威力であった。
間違いなく砕いた。そう思えるほどの手応えだったが。
だが。
だが――。
「言っただろ、廉造」
――神化イサギは、廉造の拳を受け止めていた。
たった左手一本で、易々と。
その場から動かず、眉ひとつ動かさず。
受け止められた右腕は、万力で締めつけられているかのように動けない。
イサギがわずかに力を込めると次の瞬間、オハンの装甲がミシリと音を鳴らし、ヒビが入った。
こいつは、
こいつは――。
「あ、ああああああああ!」
廉造は叫ぶ。こんなことがあっていいのか。自分の覚悟は、たかが左手ひとつで受け止められるほどのものなのか。その程度なのか。絶叫が喉の奥からほとばしった。
押さえつけられた廉造に落ちる、黒い影。それは不気味に発光する、魔法陣を刻まれたイサギの右腕だった。
赤い眼の光が、廉造を貫く。
その瞬間、廉造は己の絶対的な敗北を悟った。
「お前はもう、終わりなんだよ」
放たれた拳を顔面に食らい、廉造の意識は散った。
強い。
あまりにも強い。
強すぎる。
これがイサギだ。
本当の彼の力だ。
自分は、あまりにも無謀だったのだ。
廉造は暗闇の中、自らの顔を両手で覆う。
人にはどうすることもできない領域がある。
それは父親がギャンブルにのめり込んだ時に届かなかった『天運』であったり。
若く美しかったはずの母親の『老い』であったり。
そして廉造の前の世間の壁であったり、愛弓の年齢であったり。
どうすることもできないものが、世界には多々ある。
所詮は、『強い』や『弱い』など、人の世界の理に過ぎない。
廉造の目の前に立っていたのは、神だ。
神に人が、敵うはずがない。
だめだ。
もう、だめだ。
廉造は頭を抱え、髪をかきむしる。
自分はここで死ぬ。死ぬのだ。
死ぬのは、恐ろしくはない。
廉造はこの世界で多くの命を奪ってきた男だ。いつかはその日が来るのかもしれないと、漠然と予感していた。
イサギはあまりにも強すぎた。
その相手に、できる限りのことはしてみせたはずだが、それでも届かなかった。
廉造は全力を出しきって、そして、圧倒的な力の差を見せつけられて敗北したのだ。
これが無常というものだ。
――すまねェな、愛弓。
暗闇の中、廉造は膝を折り、唇を噛みしめる。
だが、彼女はきっと、現実世界でも生きていけるだろう。
明るく、強く、聡明な少女だ。
いなくなった廉造のことなど忘れ、自分の生活を見つけるだろう。
愛弓なら大丈夫だ。
きっと彼女なら、大丈夫、だから。
――オレァ、精一杯やったンだ。
――だが、こいつには勝てねェ。
食いしばった歯の間から、無念がこぼれた。
彼女ともう一度会うために二年も旅を続けてきたが、しかし廉造は道を誤ってしまったのだ。
人を殺せば殺すほど、廉造は自身が変わってゆくのを感じた。
どんな相手も、廉造を見れば、怯え、竦む。
廉造は圧倒的な暴君であった。
拳を振るえば、誰もが廉造の思いのままになる。他人の心を蹂躙し、他人は進んで自らに従属した。
圧倒的な強者として、廉造はまさしく魔王の名にふさわしかった。
それが心地よく、感じてしまうときすらも、あった。
廉造は変わってゆく自分に思い悩み、一体どうすればいいのかと考えた夜も、あった。
だが、極大魔晶を得るためには、やはり人を殺さなければならない。
殺して殺して殺して殺して、廉造は力に溺れてゆく。
後戻りなど、できなかった。
廉造はこのままでは、血に飲み込まれるところだった。
どんな手段を使ってでも、現実世界に戻らなければならないと決意した。
そして、開けてはならないパンドラの箱に手を伸ばしてしまったのだ。
愚かなことだ。
愛弓とはもう二度と会えず、自分はここで殺される。
だが、廉造は精一杯やったのだ。
きっと愛弓だって、廉造を責めはしないだろう。
――クソが。
――勝てねェンだよ。
――仕方ねェだろ。
覆い隠す目の間から、熱い涙がこぼれる。
元の世界に戻りたかった。
もう一度、あの愛弓の笑顔を見たかった。
ただそれだけだったのに、願いは叶わない。
仕方がない。
廉造は、やるだけのことはやってきた。
仕方がないはずだ。
イサギが遙かに強かったのだ。
彼の覚悟が、信念が、理想が、能力が、あらゆる点が廉造を上回っていたのだ。
廉造ではイサギには勝てない。
あの男はいつだって、自分の先を歩いていた。
魔王城で彼に助力を求めた。
初めて闘気や剣技の使い方を教えてもらった。
五魔将会議に出席し、それからブラザハスで命を助けてもらった。
ドラゴン族の元に身を寄せてからは、共に戦ったこともあった。
もはや懐かしい思い出だ。
イサギの背中は、常に廉造の前にあった。
ずっとずっと、イサギが羨ましかった。
己の正義を貫き、己を信じ、己のやりたいようにやるあの男が、羨ましかった。
イサギは常に強く、まっすぐに前だけを向いていた。
悩み、後悔しながらもあがくその姿は、廉造にとってはひどく眩しかった。
強くなればイサギのようになれるのかと思ったが、腕を上げたところで見える景色は変わらなかった。
イサギのようにはなれない。裏切りと策謀の中、力の味に溺れながら廉造は虚しくそう悟った。
光の中で生きていけたら、どれほど良かっただろうか。
イサギのように愛する人を見つけ出して、彼のようにその人を復活させるために全力を注いで。
いつも格好をつけて、気取って、それでも最終的には必ず勝つ。
それは、まさしく、勇者――だ。
愛弓のために、すべてを投げ打ってでも。
元の世界に、戻る。
そう、決意していたのだが。
廉造は力が及ばなかった。だから負けた。
ただの一度も――結局――イサギには勝てなかった。
――。
――クソが。
愛弓。
妹の笑顔が、瞼の裏に浮かぶ。
彼女のそれが、徐々に泣き顔に変わってゆくようだ。
廉造は心の中で、何度も謝罪を繰り返す。
――すまねェ、愛弓。
――すまねェ。
その時。
廉造の暗闇の心の中に、ふわりと小さな光が浮かんだ。
それは彼の奥底にある、原風景であったのかもしれない――。
廉造は誓ったはずだ。
愛弓を守る、そのために戦おうと。
彼女はこれからたったひとりで、生きていけるだろうか。
あれから二年。
もしここと地球が同じ時を刻んでいるのなら、彼女は中学三年生になったはずだ。
美しく、利発に、成長したことだろう。
最初は廉造がいなくなり、きっと動転したはずだ。
捜索願を出して、それでも見つからず、生活にも困ったことだろう。廉造の残したお金があったとはいえ、苦しかったことだろう。
ひとりぼっちで生きていくのは、辛く、寂しかったことだろう。
これから先も廉造は、愛弓にそんな目を合わせることになる。
ひどい、ひどい男だ。
こんな自分を見て、愛弓はなんて言うだろうか。
愛弓と過ごしたのは、たかが二年弱だ。
それでも廉造は、愛弓の言いそうなことぐらいは、わかる。
きっと彼女は目を吊り上げ――廉造を叱るだろう。
『諦めるなんて、にいにらしくない!』だとか。
『負けるはずないでしょ、にいにが!』だとか。
『にいには、いつだって、偉そうぶっていればいいの!』だとか。
あの背の低い妹は、腰に手を当てて、上から指を突きつけてくるのだ。
人の気も知らず、そんなことを。
自分がどれだけやったか、どれだけあがいたか。
でもそんなことは、彼女には関係がない――。
『にいには、絶対に、負けないもん』
『にいにをいじめる人なんて、あたしがぶっ飛ばしちゃう!』
『ねえ、にいに、あたしが』
光の線の少女が、暗闇の中の廉造をゆっくりと抱き締める。
彼女に頭を抱かれ、涙を流す廉造は、歯を食いしばった。
『にいに、心配しないで、にいに。
もしにいにが負けても、あたしが仇を討っちゃうから。
だから、ね、にいに。
あたしに任せて! にいに』
それはきっと幻想だ。廉造の心が作り出した愛弓だ。
しかし、いかにも彼女が言い出しそうなことでもあった。
なんてことだ。
本当に、馬鹿馬鹿しい。
――クソ。
――クソが。
自分が死んだら、愛弓がここに仇を取りに来る?
イサギを倒すために? ありえない。そんなはずがない。
そんなはずは、ないのに。
ないはずなのに。
幻の愛弓は決して廉造を甘やかさず、手を差し伸べてきた。
その笑みは『わかっているでしょ?』という悪戯っぽいものだった。
――愛弓。
――テメェ。
『やっちゃうんでしょ?』と、愛弓が笑う。
廉造は深く、大きなため息をついた。
あれほど完膚なきまでに叩きのめされたのに。
それでもまだ戦えというのか。愛弓は。
兄を焚きつけ、死地へ送り込む気だ。
なんて妹なんだ。まったく。
廉造の勝利を信じているのか、その笑みに曇りはない。
いつからこんなに頼られるようになってしまったのか、わからないが。
廉造は頭を振った。
どうやらこのまま死ぬことは、許されないようだ――。
手の甲で、涙を拭い、廉造は愛弓の手を取る。
バラバラに散らばって消えてゆく光の中、廉造は新たな力が自らに注ぎ込まれてゆくのを感じた。
それは先ほどまで愛弓を形作っていた、黄金色の輝きだった。
――ったく。
――しゃァねェな。
――しゃァねェなァ!
廉造は拳を地に打ちつけ、そして立ち上がる。
その目が見開かれ――廉造は、覚醒した。
――面倒くせェなァ!
――――アニキってやつァ、よォ!
廉造は意識を失いながらも、その場に立ち続けていた。
凄まじいほどの闘争本能だが、それももう、ガス欠である。
イサギがクラウソラスを振りあげ、トドメを刺そうとしたその時だった。
廉造はゆっくりと目を開いた。
「イサ……、テメェは大したやつだ」
「……」
「ひとりの男として、尊敬しちまうよ、ったく」
だからこそ越える。
だからこそ、倒す。
廉造はもう、ひとりではない。
愛弓とふたりで、その絆で――神を打ち倒すのだ。
廉造は奥歯を砕くほどに噛み締め、そしてくぐもった声を漏らす。
「テメェを倒して、オレァ、愛弓の元に、戻る。
変わらねェ、なにも、変わらねェ。
これまでも、そして、これからもだ――!」
次の瞬間、男の全身を包む闘気が、その色を変えてゆく。
黄金の魂は今――闇の中、漆黒に輝いた。
廉造の魂に注ぎ込まれる魔力によって、内圧が上昇し、彼の身体能力は限界を振り切るようにして高まってゆく。
かつてイサギが言ったように、廉造は紛れもなく、闘気を操る天才であった。
彼の戦いにおける資質は、新たな扉を開く。
それは決意と覚悟と、そして絆によって導かれた『力』であった。
今この時、この瞬間、廉造は――開花する。
腕や足に絡みつく龍のような黒い闘気。
それは伝承の中にだけ存在していたはずの、究極の力であった。
「煌気のその先――、聞いたことがある」
イサギは表情を変えず、静かにつぶやいた。
「極煌気。俺が到達できなかったその境地、か」
廉造は拳と拳を合わせ、細く長い息を吐く。
死相すら浮かぶその顔が、イサギを睨む。
「名前なんざどうだっていい……。
イサ……オレァ、テメェが羨ましかったよ」
黒い気が廉造の周りを漂い、そしてその胸に集まってゆく。
その禍々しさは、まるで廉造の命を絞り取っているかのようだった。
「女のために、イイじゃねェか。
格好いいじゃねェか、ったくよ。
オレにァ、テメェみてェな真似はできねェ、そう思っていたがよ」
廉造の真っ赤に染まった瞳が、紅蓮の炎を灯す。
「今なら、言えるさ。
もう一度、何度だって、言ってやる。
オレァ、愛弓のために、あいつのために、元の世界に戻る。
テメェをブッ潰して、な。誰にも邪魔は、させねェ!
変わらねェよ、オレだって! 女のためにさ!
イサ、テメェを、倒す!」
「そうか、廉造」
廉造とイサギはしばし、見つめ合う。
戦場の中の切り取られたわずかな一瞬のことであったが。
ふたりにとっては、それで十分だった。
「イサ」
「廉造」
「これがオレの最後の力だ」
「……来いよ、廉造」
踏み込んだ廉造の一歩が地面を揺らす。速い。神化イサギにも勝るとも劣らない速度だ。
たやすく剣の間合いの内側に入り込む廉造から繰り出される右拳。イサギは受け止めもせず、左の拳を振るう。
神速と神速。圧撃と圧撃。極煌気と神化。人と神。
ふたつの塊が衝突し、互いに顔面で食らい、そして、夜の空気がヒビ割れ、欠ける。空間に震動が走った。
互いに、吹き飛ぶ。後方に。すぐに踏みとどまり、睨み合う。
視線で火花が散る。魔力が轟と鳴る。闇の存在が彼らの光によって塗り潰されてゆく。
「イサァ!」
「廉造!」
叫び、ふたりは再び激突する。
男たちの戦いはそして、終局へと至る――。