11-8 足利廉造
案の定酔いつぶれ、部屋のソファーで眠っていたイサギは、朝日を浴びて目を覚ます。
いつもと変わらず、なんの変哲もない穏やかな朝であった。
「ん、ああ……」
おぼろげな記憶を探る。
リミノとエウレに絡まれて、いいように――というか玩具のように――されていたのは覚えているが。
どの時点で自分が寝入ったかは、定かではなかった。
宴の後のリビングは、綺麗に片付けられていた。
イサギが潰れた後も、女性陣三人は引き続き飲んでいたのかもしれない。
毛布をかけてくれたのは、昨晩介抱をしてくれたリミノだろう。
彼女の優しさをなぜだか気恥ずかしく感じながら、イサギは身を起こす。
なにかの予感を感じた、のかもしれない。
ただ単に、それは普段行なっていることの繰り返しでしかなかったのかもしれない。
イサギは目をこすりながら、極大魔晶の像を仰ぎ見た。
「おはよう、プレハ」
彼女を迷宮の奥深くから助けだして以来、挨拶を欠かしたことはない。
金髪の乙女、プレハの体を取り巻く魔晶の壁は、さらに薄れつつある。
キャスチがなにをどうしているかは詳しくは知らないが――というか聞いてもよくわからなかったのだが――、その治療は順調のようだ。
いつかは目を覚ます日が、来るのだろうか。
来てくれる、のだろうか。
あるいは一生このまま、眠れる森の美女のように、目を閉じたままなのだろうか。
わからない。
「……どうなんだろうな、プレハ。
俺、廉造の言っていることも、わかるんだ。
元の世界に戻って、みんなで幸せに暮らせばいい、って。
それもひとつの、アンサーだと思う」
イサギはぼんやりと魔晶の輝きを見つめながら、つぶやく。
「でも、やっぱりさ、俺にはできないよ。
お前の生きてきた証を、無駄になんか、できない。
迷って、思い悩んで、でも、決めたんだ。
俺はこの世界で生き続けるよ。
そうして、お前を待ち続けるからさ」
それがイサギの答えだ。
もう決して、揺らぐことはないはずの、真実の思いである。
そう言った途端、であった。
目の錯覚かと、イサギは思った。
しかし、それは、確かに。
まるでイサギの言葉に応えるように。
ぴくり、と。
――プレハの左指が、動いたのだ。
「……え?」
イサギは思わず姿勢を正した。
目をこすりながら、イサギは何度もプレハを見つめる。
あるいは彼女に先ほどのように話しかけてもみたが。
同じような反応は、二度となかった。
しかし、イサギは確信していた。
酔って潰れた男が目にした幻などではない。
イサギは確かにこの目で見たのだ。
嘘ではない。夢ではない。
イサギの左胸が、熱く、高鳴った。
自らの、生命の鼓動がハッキリと聞こえてきた。
その時ガチャリと部屋のドアが開き、だぼだぼのパジャマを着たキャスチが姿を表した。
ツインテールの彼女は大きなウサギのぬいぐるみを引きずりながら、リビングにやってくる。
「うー……飲み過ぎたわい……」
「おい、キャスチ!」
「ひっ!?」
寝起きに眼帯をつけた男に首根っこを掴まれたキャスチは、震え上がる。
しかしイサギは気にせず彼女をリビングに引っ張り出した。
体重の軽いキャスチを捕まえて、イサギは――まるで抱っこさせるように――プレハの前に持ち上げた。
「さっき、プレハが、動いたんだ!」
「お、おう……?」
こんなに興奮しているイサギを前にするのは初めてだから、キャスチはおののいた。
しかしイサギはそれを、信じられていないのだと思い、さらに彼女に詰め寄った。
「嘘じゃない! 見たんだ!
左指がぴくりって動いて、それで、さあ!」
「わ、わかった、わかったから! とりあえずおろしてっ!」
童女のようにわめくキャスチを下ろすと、彼女は慌てて身だしなみを整える。
それから「ふーむ」とうなり、キャスチは目を細めた。
「そうか、動いたと言おうたか」
「ああ、この目で」
「わかったわかった」
イサギを押しとどめ、キャスチはしかと見定める。
「なるほど、まずは肉体の反応が、戻って来おったか。
ならば経過は順調ということであるな」
その言葉にイサギは衝撃を受けた。
息を呑み、細くつぶやく。
「……やっぱり、見間違いじゃ、なかったのか」
イサギはプレハを仰ぎ見る。
彼女は未だ目を瞑って、両手を組み合わせたままだったが。
希望は、確かに彼女の中にある。ほんの小さな、ささやかな光だが。
可能性は限りなく低いかもしれないが、まだゼロになったわけではないのだ。
「そうか、やっぱり、生きているんだな、プレハ……!」
イサギはキャスチの手を掴み、その場で回る。
彼は久しぶりに、晴れやかな表情をしていた。
「お、おい、おぬし、こらっ」
「やった、やったよ、やったぜ!」
「こらこら、こらぁ! 子どもが生まれた父親ではないのじゃから!」
「そのうち、目を覚ましてくれるんだな、プレハは!」
「ま、まだそうと決まったわけではない! こおらぁ!」
無邪気に喜びをあらわにするイサギに振り回され、寝起きのキャスチはくたくたになりながらも怒鳴る。
しかし自らの患者が快方に向かっているのだ。彼女とて、嬉しくないわけではない。キャスチのそれも、照れ隠しのようなものだったのだろう。
朝っぱらからそんな騒ぎを聞いて、寝巻き姿のリミノが寝室からやってきた。
彼女はいつもとは違ったイサギのその姿を見て、様子を察したのか、口元に柔らかな笑みを浮かべる。
「えへへ……お兄ちゃん、良かったね」
「ああ、ああ」
何度もうなずくイサギの顔は、いつもよりもずっと清廉で、そうして歳相応の熱情を感じさせるほどに、活力にあふれているものだった。
イサギは今、思う。
今までずっと喋りかけていたことは、無駄ではなかったのだ。
イサギはなにも間違ってはいなかった。
迷う必要など、最初からなかった。
イサギの声は、プレハに届いていた。
それがイサギにとって、なによりも嬉しかった。
イサギの胸の奥に熱が生まれる。
この想いがあれば、決して誰にも負けることはないだろう。
イサギはキャスチの手を離し、決意を込める。
極大魔晶を見上げて、彼女の手を取った、あの旅立ちの日のように。
「プレハ、俺はお前を、守る」
一体、誰が来ようとも。
決して、負けられはしない。
ただ彼女の左指が、ほんのわずかに動いただけで。
生き返るというその可能性が、確かめられただけでもいいのだ。
「俺は、絶対に負けないよ、プレハ」
その言語が、イサギのやるべきことを明確化する。
視野が広がり、彼の魂は、ただひとつの使命を秘めて脈動した。
戦い、勝つ。
ただそのふたつのために。
極大魔晶を奪おうとするものから、己のすべてを守るために。
イサギは戦うだろう。
たとえ勇者の仮面を投げ捨てたとしても。
魔王を演じるその舞台衣装を脱ぎ捨てたとしても。
イサギは、戦うのだ。
今はただ、ひとりの男として――。
◇ ◆ ◇ ◆ ◇
……。
廉造は母親の残したわずかな生活費を使い、小さなアパートを借りた。
生活必需品を揃えた後、彼は中学を卒業してすぐに働きに出る。
中卒の少年が職を得るのは困難な時代ではあったが、しかし廉造には数々のツテがあった。
叩きのめしたやつらや、その先輩たちを頼りに、肉体労働などの仕事を手にすることができた。
だが、それもどれも、長くは続かない。
仕事先ではどこも、独善的で能無しの男たちが幅を利かせていて、廉造はそんなやつらと真っ向から対立をし、時には拳を振るうこともあった。
職を転々とし、廉造の悪い噂は瞬く間に広がってゆく。
アパートには、奇妙な同居人がいた。
義理の妹である、四つ年下の少女、愛弓だ。
廉造は彼女とまともに言葉を交わしたことはなかった。
どちらも親に捨てられた身だ。そんな少年と少女が傷を舐め合うような真似をすることを、廉造はひどく嫌った。だから彼は自分がひとりでも生きてゆくことを、両親にはできなかった誰かを養うということをできるのだと証明するように、職を探し、そして職を失った。
廉造の心は、日毎に荒れた。
些細なことに気分を害し、街に出ては憂さを晴らした。もういっそのこと、そういった職業に転職することが正解なのではないかとすら思った。
ケンカに明け暮れて、勾留される廉造を引き取りに来たのは、決まって妹の愛弓であった。彼女以外には、いなかった。
アパートの家賃も滞っていたある日、愛弓は廉造に言った。
『にいに、あたしも、お仕事したい』と。
愛弓の心は廉造にはわからない。しかしそれは、敗北を認めるような気がして、廉造には許可ができなかった。第一、小学六年生にできる仕事など、ありはしない。
しかし愛弓は頑なに言う。
『あたしだって、にいにの力になりたい』と。
愛弓はよく笑う娘だった。
父親に捨てられてなお、見ず知らずの男であるはずの廉造に挨拶を欠かしたことはなく、常にへらへらと人に媚びるようにへつらっていた。それすらも廉造の気に障っていた。
廉造は愛弓を突き放す。
『オレァ、お前たちみたいに弱ェ人間じゃねェ。オレにならできる』のだと。
言葉を告げた直後、こちらを見上げる愛弓の瞳に映った自分の姿を見た。
それは果たして、『強い』男の顔だろうか。
自分が殴り飛ばしてきた男たちと、なんら変わらず、ただ鎧をまとっただけの無愛想な人間でしかないのではないか。
廉造は初めて己を顧みて、そして愕然とした。
それは、結局のところ、自らをエリートであり、特別な存在だと信じきっていた父親の姿そのものではなかっただろうか。
自分よりも弱い人間に当り散らし、自らの存在を確かめるような、そんな惨めで愚かな所業ではないか。
なにかの感情を堪えている愛弓の視線に気づいたとき、廉造はなにも言うことができなかった。
己が今まで強さだと信じていたことは、間違っていた。
しかしそれを認めてしまえば、自分の人生の価値はなくなってしまう。
ここにいるのは、ただふたりの弱いだけの生き物であった。
苦悩する廉造に、意を決した愛弓は、言う。
『にいにのこと、教えてよ。悩んでいることとか、辛いこととか、なんでも、教えてよ。あたしだって、力になれるかもしれないから』などと。
赤の他人の娘にそのようなことを言われて、廉造は口をつぐむ。
だが、愛弓は何度も何度も、廉造に要求する。
『にいには今までなにを思って、どんなことを感じてきたの? それをまず、教えて』と。
愛弓はひたすらにしつこかった。彼女は追い出すことのできない同居人だ。裏切られ、捨てられてきた自分が、彼女を捨てることだけは考えたくなかった。もはや逃げ場所はない。
廉造は彼女に、洗いざらいぶちまけることにした。
もうなにがどうなったところで、恐れるものはなにもなかった。取り繕うほどの強さなど、廉造には残っていなかったから。
廉造は、生まれてからの出来事を、すべて義理の妹である愛弓に語り尽くす。
順風満帆だが、愛のない家庭。冷えきった家族。家政婦の同情。強かった父親と母親。そして父親の転落。彼の豹変。母親との離別。母親の変貌。そして、別れ。
一晩中だ。廉造は愛弓になにもかも、胸の内を明かした。
彼女が自分のことを理解できるとは、到底思えなかった。まだ小学六年生の娘だ。
こんなことをしてなんになる、という思いとは裏腹に、廉造は語ることをやめなかった。
すべてを語り終えたその時。
愛弓は泣きながら、ただ廉造を抱き締めた。
『にいに、辛かったんだね、にいに……』
そんな言葉を吐きながら、彼女は廉造を抱きしめていた。
同情などはごめんだ。
廉造は愛弓を振り払う。お前に俺の何がわかる。俺を見くびるんじゃねえ。俺は強い。そんな妄言を口走る廉造であったが、実のところ、強い人間や弱い人間の違いなどはまったくわからなかった。
愛弓は怒りを露わにする廉造を見て、さらに言う。
『あたしが、にいにのそばにいて、あげるから。
これからずっと、ずっと一緒だから、にいに』
拒絶されても怒鳴られても、邪険に扱われても疎まれても。
それでも愛弓は廉造に、そんなことを言う。
その姿を前に、廉造は思わず息を呑んだ。
親に捨てられた娘が、親に捨てられた息子を見て、涙を流す。
それはなんと滑稽なことか、と、そんなことを思いながら。
廉造は、激しい動揺に襲われた。
あの時、暴れ狂う父親を前に、彼を軽蔑することしかできなかった自分に比べて、愛弓はその自分をも受け入れようとしているのだ。
果たして、そんな風に誰かのために泣くことができる少女を『弱い』と言えるのか。
本当の強さとは、弱さとはなんだったのか。
他者を寄せつけず、反発し、強いがゆえに拳を振るう自分。
そして、弱いがゆえに、誰かを受け入れることができる少女。
その違いと、境界と、差と、区別に、廉造は価値観を大きく揺さぶられた。
思い返す。
父親は本当に、強い人間だったのだろうか。
彼は元々弱い人間であり、その弱さがゆえに、誰かに胸の内を打ち明けることができなかったのではないか。
そもそも、強い人間と弱い人間など、そんなものがあるのだろうか。
人は誰もが、等しく強くあり、そして等しく弱い生き物なのではないか。
廉造は愛弓を眺めながら、そんなことを考えた。
彼が思い出していたのは、かつて自分を抱きしめていた家政婦の温もりであった。
答えは出なかった。だが、廉造は決して考えることをやめなかった。
それは廉造が長年追い求めていたことの、その一端であるという確信があったからだ。
その日から、廉造は変わった。
『……おう、ただいま、愛弓』
『おかえり、にいに! ごはんできているよー!』
『……あァ』
廉造は自分がなにを思い、なにを感じて、なにに憤りを感じ、なにに喜ぶのかを、愛弓に語るようになった。
義理の妹はそれを喜ばしく思い、いつだって笑いながら、廉造の話を聞いてくれていた。
『あいつはマジで面倒くせェやつでな』
『そうなんだ……。
にいにをいじめるなんて、ひどいね! あたしが文句言いにいっちゃう!』
『……まァ、よせよ。あんなクソ野郎に、いちいちカリカリするこたァねェ』
仕事で辛いことがあった日は、家に帰ってからも機嫌が悪く、苛立ちを表に出してしまうこともあったが、そんなときでも愛弓はそばにいて、廉造の話を聞いてくれた。
天気が良かった。風が心地良かったなど、些細な喜びに触れた日、家に帰ると、決まって愛弓は口に出さずとも、『にいに、なにかいいことあったの?』と聞いてきてくれた。
いつしか廉造は、愛弓が笑うと、胸が温かくなる自分に気づく。
彼女が悲しい顔をしていると、その要因を見つけ出して、ぶちのめしてしまいたくなるほどに怒りを抱く自分に気づく。
まるで愛弓の周囲だけが、廉造にとっての光であるようだった。
廉造が今まで生きてきた人生とは、一体なんだったのだろうか。
『強さ』や『弱さ』にこだわることこそが、なによりもちっぽけなことではないだろうか。
月並みではあるが、愛弓とともに生きることができれば、自分ひとりでは折れてしまいそうなことが起きたとしても、苦楽を共にして耐えることができるのだと知った。
そして、そのように感情を共有して生きる共同体を『家族』と呼ぶのだと気づいた。
愛弓は誰にでも優しい娘だ。それは廉造相手だからこそ、特別というわけではない。家族にも、自分を捨てた父親にすらまだ情を抱いている。
だが、廉造はそれでも構わないと思った。
この世にはクズが多すぎる。そんな相手にまで優しい心を向ける愛弓は、だからこそ尊いものであり、そんな彼女の心を廉造は守りたいのだ。
これが改心と呼ぶのなら、そうなのだろう。優しさという道理が通じない相手がいることを、廉造はその荒れ果てた人生の中で、何度も見てきた。
もし彼女が苦難に巻き込まれることがあれば、廉造は万難を排すために、戦うだろう。
自分の腕っ節はその日のためにあるのだと、廉造はいつしか、思うようになっていた。
もう廉造は、迷うことはない。
深く思い悩むことも、必要ではない。
言ってわからないバカはぶちのめすしかないし、自分のために他人を利用するようなこすい真似をする野郎は、虫酸が走るほどに嫌いだ。ケンカを止める気はないし、愛弓に何度叱られようと、己を曲げる気はない。
だが廉造は、それで構わないと思う。
どんなに落ちぶれても、どんなに間違ったことをしても。
それでもそばにいて、叱ってくれて、泣いてくれて、喜んでくれる絆があるのなら。
たったひとりの、義理の妹が、愛弓が、『家族』がいるのだから。
廉造はきっと、父親のようになることはない。
親に見捨てられ、奇妙な縁で結ばれたふたりは、本当の家族になれたのだ。
そのことがなによりも、確かなことだった。
そして廉造は、かつて捨てたはずの『強さ』を取り戻す。
なによりも強く。それがただひとつ、必要なことであった。
……。
……。
「ンじゃあ、いくか」
廉造は今ひとり、異世界の森を征く。
その姿、まさに異形。
夜の森の獣たちも逃げ出すであろう。
彼が左手に持つのは、爆槍スワヒリである。
数々の戦いを共にした相棒のようなものだが。
その男の武装は、それだけにはとどまらない。
腰につけた鞘の数は六本。
左右に帯びて、まるで鉤爪のようだった。
ミラージュ、ユルルングル、ジュワユース、
ラブリュス、ダインスレイヴ、ヴァサーゴ。
どれもが名のある晶剣である。
しかし、まだあった。
その背中には、斜め上に突き出るように、三対の翼が生えている。
フラゲルム・デイ。開発部の作り出した対巨神兵器のひとつであった。
廉造は徒手の右腕に、仰々しく包帯を巻きつけていた。
傷ではない。それも必要なことであるのだ。
そして最後に、フラゲルム・デイに組み込まれるようにして、上方を仰ぐひとつの巨砲があった。
天を衝くその大筒には、至るところに魔法陣が刻み込まれている。
人間に向けて放たれることがまるで想定されていないその魔具は、たった二発までとの制限が課せられた開発部の切り札『レーヴァテイン』である。
これらの武装をたったひとりの人間が、身につけている。
それらの武装はたったひとりの人間に、向けられるのだ。
「もうオレァ、負けねェぜ……。イサ」
禁術師、足利廉造は夜の森を征く。
強く、誰よりも強く、ひたすらに強くあるために。
廉造が征くその先。
森を抜けたその広場で、彼は待っていた。
宵闇の中、溶けるように浮かび上がるひとつの影だ。
ここはかつて冒険者が侵攻し、辺りを焼き尽くした荒れ野であった。
そのため、戦いを遮るものはなにもない。
示し合わせたわけでも、待ち合わせたわけでもなかった。
だが、ふたりの男はまるで引き寄せられるかのように、この場を決戦の舞台に選んでいた。
「……」
岩に腰掛けていたのは、黒衣をまとう、眼帯の男。
その男が漂わせる雰囲気は、まさしく強者そのものである。
只者ではない。
このアルバリスス、最強の称号を持つ者なのだ。
かつて廉造が歯が立たなかったレ・ヴァリスというピリル族の長を、彼は打ち倒した。
実力の溝は、どれほど隔てられているのかもわからない。
だが、その男がなんであろうと、廉造は彼を越えねばならない。
彼が最強ならば、廉造はその上をゆかねばならぬのだ。
廉造はそのために、ここに来た。
最強の男を打ち倒し、そして、
極大魔晶を強奪するそのために、来たのだ。
「……」
「……」
――かつての勇者、イサギ。
神剣クラウソラスと、晶剣カラドボルグ。
そして、神杖ミストルティンによる神族の奥義『極術』を操る男。
闘気を越えた力――煌気と、数々の術式。
経験と知識に裏打ちされた判断力と、戦場での閃き。
どれひとつ取っても一級品の、完成された戦士だ。
だが、勝つ。
どんな手段を使ってでも、だ。
月明かりに照らされた彼は、夜空を見上げていた。
これから殺し合う男の顔を、廉造はしかと見据える。
イサギの表情に、もはや迷いはないように思えた。
強者とは、精神的にも付け入る隙がないからこその、強者なのだ。
廉造は『強さ』や『弱さ』の意味を探すのは、もうやめた。
そのはずであったのだが、今、再び思わずにはいられない。
目の前のあの男こそが、真の『強さ』を体現している男なのかもしれない。
虚像のはずであり、虚構のはずであったその言葉の意味が、廉造の前に振りかかる。
追い求めていた答えが、確かにここにはあった。
しかし――。
「イサ」
「廉造」
互いの声が届くほどの距離に近づいた時、イサギの目がこちらに向けられた。
いつもと、まるで変わらない、穏やかながら哀しみを讃えた男の目だ。
「プレハは、リミノたちに預けてきたよ」
「そうか」
どのみち、彼を倒さずに極大魔晶だけを奪おうなどとは思わない。
そんなことをしたところで、イサギは地の果てまでも廉造を追いかけてくるだろう。
死闘の舞台が、帰還召喚陣のあるダイナスシティに移るだけだ。
それは多くの人を巻き込み、都に血の雨を降らせることになるだろう。
イサギにとっても廉造にとっても、望むことではない。
イサギは最後に問いかけてくる。
もはや事務的な手続きとしか思えない、その確認の問いを。
「やるのか」
「あァ」
戦いの気配は、闇に交じり合うことなく、色濃く漂う。
常に勝利し続けてきたイサギを前に、廉造は尊敬の念すらも感じている自分に気づく。
この異世界に召喚され、彼に数々の手助けをしてもらい、それでなんとか生きてこられたことは間違いない。
廉造はイサギがいなければ、今ごろ死んでいたかもしれないのだ。
ならばなぜここに立たねばならないのか。
その男に剣を向けねばならないのか。
それはもはや、理屈ではない。
廉造の心に、躊躇いはない。
憎しみや、怒りすらもない。
ただふたりにあるのは、守りたいもの、そして守るべきもの。
そのためになにをすればいいのか、彼らの選んだ答えは、実に単純なものであった。
古来から男たちの遺伝子に刻まれてきたその本能。『闘争』という名の歴史。
原始の時代から続く、戦い、勝ち取るというプロセスを今一度、呼び覚ますために。
己の信じるものを違えたその時、ふたりは戦うしかなかったのだ。
男たちは戦う。
極大魔晶を賭けて。
理由など、他に必要はなかった。
無造作に距離を詰める廉造と、彼を迎え撃つでもなく立ち上がるイサギ。
ふたりは徐々に近づきつつある。
一歩、また一本と。
涼やかなる風が吹く夜の森の中。
あらゆる生き物の声が遠ざかってゆく。
「……」
「……」
もはや剣の届く距離を過ぎ、男と男は横に並び立つ。
すれ違おうかとした、その瞬間だ。
――先に動いたのは、廉造だった。
槍を握る廉造が空いた片手で抜いたのは、用意した六晶剣のうちの一本、『不可避の輝剣』ジュワユース。
ただ事象を斬ったというその結果だけを残して空間を裂く防御不可の一撃を放つ廉造は、音と抵抗を置き去りにする。煌気によって身体能力を倍増させたそれは、タイミング、角度、速度、紛うことなく会心の一太刀であった。
対するイサギは身を屈めながら、神剣クラウソラスを抜き打つ。
抜刀術によるその斬撃、遅れながらもなお速い。逆手に持った銀の剣は、ジュワユースの刀身を中ほどから断ち切っていた。返す剣が闇夜に瞬く。
しかし廉造、すでにその場から退いている。ジュワユースを手放さなければ、彼の腕が分断されていたことは、間違いない。
「……」
「……」
再びクラウソラスを鞘に収めるイサギ。
彼のその泰然とした姿を見て、廉造の背中を――無意識に――汗が伝い落ちる。
やはりイサギ。
いついかなる瞬間にどのような斬撃を受けたとて、まるで動じることはない。
この程度の強襲で、彼を倒すことはできない。近接戦闘ならば、なおさらだ。
これがイサギである。
イサギはふいに視線を落とし、それから改めて廉造を見た。
彼は眼帯を外す。夜に輝く紅眼は、まるで死神のそれのようだった。
「強くなったな、廉造」
イサギを真っ向から睨みつけ、廉造もまた、その胸の昂ぶりを魂に注ぎ込み、闘気へと変えてゆく。
この日、この夜、すべての決着がつく。
二年のアルバリススでの生活に、ピリオドが打たれるのだ。
ただ強く、ただ強くあり続けたあの日のように。
今はこの身に宿る『弱さ』を投げ捨てて。
己の全身全霊を賭けて、挑もう。
最強の男を前にした廉造は、挑戦者であった。
廉造は槍を構え、歯を食いしばりながら、告げた。
「強くなったさ。
この日のために、な」
勇者イサギの魔王譚
『Episode11-8 足利廉造』
◇ ◆ ◇ ◆ ◇