11-5 <リミノ>:part 3
「封術とはそもそもなんであったか、覚えておるか?」
キャスチの前、リミノとイサギは並んで座っていた。
イサギは顎に手を当てて、記憶を探る。
かつて、魔王城で習ったことだ。
二年前程度のことだが、思い出しながら、語る。
「……なんだったか、いや、覚えている。
確か、仕組みはこうだったはずだ。
召喚魔法陣によって、異なる世界に消えた神族の魔力を呼び出し、
そして封印魔法陣によって、体に固定させ、
……同化魔法陣によって、固定させた魔力を定着させる術、だな?」
「うむ、満点じゃ」
キャスチは煙管を咥え、魔術で火をつけた。
甘い香りがリビングに広がってゆく。
煙を吐き出すように、白衣を着た彼女は重い言葉をはく。
「封術は神族の魔力を人の身に宿す禁忌。
神の力は、我々にはあまりにも重い。
耐え切れずに肉体が滅びてしまうものが大半じゃ。
神の魔力を背負い続ければ、いずれそなたもそうなろう」
「……」
それは決定的な、破滅へと通じる道を示す言葉だった。
わかっていたこととは言え、通告された瞬間の衝撃は大きかった。
自らの拳を見下ろし、黙すイサギ。
キャスチの弁は続く。
「それでも、魂が完全な状態であれば、人はそうそうに神族に屈したりはせん。
肉世界と魔世界を守るため、魂世界の存在があるのじゃからな。
しかし、魂が傷つき、弱り果てたとき、その鎧は無力と化すのじゃ。
内圧は緩み、外から神の力が人を犯すであろう」
「……そういう、ものなのか」
キャスチの言うメカニズムが正しいものなのかどうか、イサギに判別する術はない。
だが彼女の言葉通りなら、この世界はまるで神エネルギーに満たされた深海のようなものだとイメージできる。
我々人族は、魂を健全に保つことで、その圧力に潰されずに生きているということか。
魂とはまさしく、肉世界と魔世界を守るための潜水服なのだ。
それはこの世界の新たな見方であった。
「神成りとは、魂に入り込んだ神族の魔力が、人をヒトではないなにかに変貌させる病じゃ。
現時点の魔学では、失った魂を再生させることはほぼ不可能である。
あの禁忌『回復術』とて、それを可能にすることはできておらぬ。
わしはエルフ族の禁術はそう詳しくはないが、『再生術』は理論ですら、存在していないからの」
だから神化病の治療は不可能だ。
古代の英雄、緋山愁はそう言っていた。
しかし。
――禁忌には禁忌を。
魔族には、その技術があった。
「ならば、患部から腫瘍を取り除くように、その魂から神族の魔力だけを『封』じ込めることができれば、症状は一時的に快方へと向かうであろう。
これもまた、禁術の応用である。
魂を癒すのではなく、魔法陣によって、神の力を調伏するのじゃ。
神成りそのものを根治することは難しいが、心神喪失や記憶の欠如といった作用には効き目もあろうて」
「……なるほど」
キャスチは煙を吐き出し、語る。
「しかし、それは無論、失敗のリスクと引き換えじゃ。
魔法陣自体、肉体に負担がかかるでな。
『封術』は致死率99・99%の禁忌。
果たして常人であれば、神成りで死ぬのが先か、禁術で死ぬのが先か、といったところじゃが」
「そ、そんな、それじゃあ……!」
立ち上がりかけたリミノを手のひらで制止し、キャスチは「心配いらぬ」と首を振る。
「こやつは、そもそもが召喚陣『フォールダウン』によって、魔王候補として呼び出された男。
施術には、耐え切れるであろう。それは確実じゃ。シルベニアがそのように召喚したのじゃからな」
そう言い切ると、リミノは少しだけホッとした顔を見せた。
唇を尖らせて、キャスチに恨みがましい目を向ける。
「も、もう先生ってば……変な言い方をして……」
「話には流れというものがあるでな。
これこれ、そのような顔をするでない」
キャスチは咳払いして、先ほどから真剣に話を聞いているふたりに、続きを語る。
「かといって無傷で済むかというと、それは不可能じゃろう。
刻まれた魔法陣は、使用者の魔力によって稼働する。
完全な封術師ならともかく、そなたの今の魔力と魂力では、三つの魔法陣を同時に使用するとはできぬ。
せいぜい『封印魔法陣』ひとつが関の山じゃ。
ある程度の神力は封じ込められるじゃろうが、完全には治りはすまい。
さらに、成功したところで、魔法陣の稼働に使う魔力は膨大じゃ。
ならば、肉体や魔力は、今の強度を保つことはできぬじゃろう」
イサギが本来持つ魔力を使って、魔法陣を動かすのだ。
それだけイサギの使える魔力の上限が下がるということは、つまりそれは、勇者イサギの戦闘力が弱体化するということだ。
悩む暇も、選ぶ余裕も、今のイサギにはあるはずがない。
それによって命が助かるのなら、イサギは魔法陣を刻むしかない。
せっかく彼は、禁術適正を持ってこの世界に召喚されたのだ。
99・99%死に至るほどの禁術『封術』を、その心配なく施術してもらうことができる。
それはまるで、奇跡のような幸運だった。
「まあ、恐らくな。……幻覚や誤認をしていた記憶は失われるかもしれん。
ここ数日間のことは、忘れてしまうかもしれぬ。
しかし、その程度じゃ。
少しの魔力と記憶、それと引き換えにおぬしの命は保証される」
「……イサギ」
それはイサギがリミノと過ごしていた記憶を完全に忘却してしまう可能性を示唆していた。
イサギがリミノを『リミノ』と認識していた時間は一秒だってなかったのだ。
すべては幻でしかなかった。
だが、それすらもイサギにとっては幸せなことだろう。
リミノの思いはともかくとして、イサギはプレハへの想いを、キレイなままで保っていられるのだ。
だったら、迷う必要はない。
リミノはイサギの顔を窺う。
彼は俯いたまま、じっと手のひらを見つめていた。
キャスチはさらに念を押すように、イサギの決断を流す。
「どうする? ……といっても、そなたはそのままでは滅びを待つだけじゃ。
選択肢などはありゃあせん。
生き長らえたいのなら、たとえ弱者に身を落としても、魔法陣を刻むしかないがの」
「……そう、だな」
歯切れ悪く答えるイサギは、なぜか躊躇しているようだった。
決してリミノのためを思ってのことではない。
彼女との記憶を大切に感じているはずがない。
そんな淡い期待など、ありはしない。
彼は未だ、プレハの姿をした何者かの正体に気づいてはいないのだから。
ならば一体どうして、とリミノは思っていた。
生き続けることよりも、大事なことなどはないはずだ。
リミノはたくさんの騎士や従者たちに命を救われた、エルフ族の第三王女だ。
彼女が生きて望みを果たすということは、救ってくれた仲間たちの思いに報いるということだ。
死ぬことは、絶対に許されない。
亡国の再建を諦めてしまうことは、リミノを守って散っていったものたちへの冒涜だ。
しかし、イサギはそうではなかった。
彼には彼の、想いがある。
イサギは首を振った。
「……少し、時間をくれないか?」
――なぜ迷う必要があるのか。
今のリミノには、イサギの気持ちが、その真意がわからない。
少なくとも、生きていれば極大魔晶と化したプレハが助かる見込みがあるというのに。
また彼女と笑い合う未来が待っているかもしれないのに。
その確率が、確かにあるはずなのに。
イサギは決断をしなかった。
それとも彼はこの時点で、もう選んでいたのかもしれない。
キャスチは「ふうむ」と唸り、煙管にかぶりつく。
納得はしていなかったものの、判断はふたりに任せるつもり、というところか。
その時、リミノは気づいた。
イサギの手は、震えていた。
◇ ◆ ◇ ◆ ◇
「すまなかったな」
キャスチたちには客間を貸し、その夜、イサギとリミノはふたりっきりで寝室にいた。
ふたり並んで座ると、イサギは唐突に謝罪の言葉をはいた。
「え? え?」
慌ててリミノが隣を見ると、彼は左目を抑えながら俯いていた。
先ほど、キャスチから受けた診断結果は、イサギの心に大きな傷を残した。
自分は深い神化病に犯されている。
彼自身覚悟していたこととはいえ、しかし実際に味わってみると、その衝撃は計り知れなかった。
なによりもイサギがプレハだと思い込んでいた人物は、そうではなかったのだ。
「いや、なんていうか……。
俺には本当に、わからないんだ。
おまえの、その顔が、声が、プレハにしか見えなくて。
結びつかないんだ」
彼女は自分が『リミノ』であると、キャスチの前で彼に名乗った。
しかしイサギがそれを、認識することはなかった。
『リミノ』の名は解けて、バラバラになり、意味を失っていた。
「たぶん、俺の知っている人だと、思う。
きっとそのはずなのに……。
……どうなっているのか、わからないんだ」
「……イサギ」
彼自身、最初は強い抵抗感を抱いていた。
そんなはずがない、と。
イサギは自分がプレハを見間違えるはずがないと、そう信じていた。
だが、それも違った。
病はイサギを狂わせていた。
「プレハは確かに、極大魔晶になった。
だから、ここにいる、その……キミは、プレハではない。
そんなことは、当たり前のはずだった。
当然の、道理だ。
なのに、受け入れられなかったのは、俺の、弱さだ。
……俺はつまらないことをしてしまったな」
イサギは悔恨するが、それは違う。
リミノは小さく首を振った。
「あなたは、ただ、悲しくて、寂しくて……。
それで、目の前にかつての恋人が現れたんだもの。
そう見えていたのだって、病のせいだと言うし、
ただ嬉しくて、舞い上がっちゃっただけだよ
なにも、悪いことなんて、ないよ」
「……」
リミノは祈るように、言う。
「それが悪いというのなら、そんな風にこの世界を作った、神様が悪いんだよ……。
魂が傷つけば、人が人でいられなくなるだなんて、そんなのは、おかしいよ。
間違っているのは、この世界の方だよ。
誰もあなたのことを、責めたりだなんて、しないよ。
もちろん、あたしだって……。
あたしは、ただ、あなたの力になりたかっただけなんだから……」
「……いいや、俺は……」
彼女の慰めの言葉も、イサギには届かない。
神化病は、認識を狂わせる。そのため、患者は己自身を信じられなくなる。
この目で見たものが、聞いた音が、肌触りが、なにもかも不確かなものならば、どうして生きていけるのか。
「……俺は『神化病』というものが、どういうものか知っていたつもりだ。
今まで似たようなやつらを斬り捨ててきたんだ。
それなのに、自分だけはそうはならないと思い込んでいた。俺だけは違う、とな。
俺は特別でもなんでもないというのに、滑稽なことさ」
自嘲するイサギを、リミノは悲しそうに見つめていた。
彼のことだ。イサギが魂を削ったのは、きっと自分自身のためではない。
誰かのために力を尽くして、そうして傷ついたのだ。
そうに決まっている。
彼はとても優しく、強い人だったから。
だからリミノは、イサギに自分のことをそんな風には言ってほしくなかった。
自分を卑下するなど、イサギには似合わない。
そんなことを思うリミノに、イサギは頭を下げる。
「キミには、迷惑をかけた。
済まなかった」
「……」
イサギはもうリミノの手を握ったりはしなかった。
彼はリミノがプレハではないことに気づいたから。
それは、リミノが望んでそうしたことだ。
愛しい人の温もりを捨ててでも、彼には助かって欲しかったのだ。
生きてほしかったのだ。
「わたしは……いいよ。
それがイサギのため、だもん」
リミノは微笑む。
彼と過ごした時間が彼の記憶から消えても、構わない。
幸せだったこの時間は、夢だった。
その思い出を胸に、これからも生きていけるから。
――だが、イサギは言う。
「……キミが俺のために手を尽くしてくれたのは、ありがたいよ。
本当に、嬉しい」
「う、うん……。
だって、よくなって、ほしいから」
リミノが彼に手を伸ばす。
ベッドの上の手を握ろうとしたが、イサギはその白くて小さな手を避けた。
イサギは頬をかき、首を振る。
「でも俺は、手術を受ける気は、ない。
……済まないな」
彼が放ったのは、謝絶の言葉だった。
◇ ◆ ◇ ◆ ◇
一体なぜなのか。
イサギは言った。
『力を失うことは、死ぬより恐ろしいんだ』と。
拳を握りしめながら、そう語った。
『守りたいときに、誰かを守れなくなら、死んだほうがマシだ』と。
彼は一点を見つめながら、まるで思い出すように言った。
勇者イサギは胸の内を吐露する。
己がいかに無力な存在であったか。
己がなぜ強くなければならないのか。
己の価値はただひとつでしかないと。
それは強くあり続けることなのだと。
彼は『力』を信じていた。
その真剣な横顔に、リミノはしばらく、なにも言えなかった。
絶句していた。
唖然としていた。
彼が、彼自身が助かろうとしてくれないのなら。
それを望まないというのなら、リミノは一体どうすればいいのか。
自ら死を望むなど、想像だにしていてなかった。
リミノは説得することすら忘れ、ただ言葉を失ってしまっていた。
それ以上、なんと言えばいいのか。
「……」
「……」
なにも言えず、ふたりは横になる。
繋いでいた手は離れ、抱き合うようだった毎日は終わりを告げた。
別々の方向を向き、ベッドの端同士。
ふたりの寝室には、寒々しい空気が流れていた。
そして翌朝。
いつものように極大魔晶を眺めるイサギを家にひとり残し、リミノとキャスチは森の中を連れ立って歩いていた。
元気のないリミノを、キャスチが誘ったのだ。
暗い顔のリミノと、そして腕を組むキャスチ。
先日からずっと続いている構図であった。
「そうか。あやつはそう言ったか」
「……はい」
「ふうむ……」
確かに魔法陣を刻まれたら、最大魔力容量は落ちる。
自らが弱くなってしまうという可能性を、危惧する気持ちもわかる。
「……ならば、先にプレハ、かの。
あやつを治すことには、なにか言っておったか?」
「いえ……ただ、『よろしく頼みます』とだけ」
「そうか」
キャスチはうなる。
イサギが治療を断るのなら、あとは無理矢理、力づくで魔法陣を刻むしかないが。
しかし、あの男はかつてアンリマンユを斬った勇者イサギだ。
その上、神化病に侵されているのなら、戦闘力はさらに跳ね上がる。
あのような男を縛りつけて治療をするのは、キャスチには不可能だ。
というか、この大陸の誰であっても、不可能なことだろう。
彼を癒やすのは、彼の協力が不可欠だ。
キャスチはそう思い、腕を組む。
「……まあ、やるだけのことはやろう。
じゃがな、リミノ。プレハが五体満足で助かる見込みは、正直薄いぞ」
「……」
「極大魔晶と同化しておるのじゃ。
命が助かったとしても、感情や記憶が元に戻るかどうかは、わからぬしな」
その事実もまた、重い。
この物語に、イサギとプレハの未来に、救いはないのだろうか。
キャスチが完全にプレハを治療することができないのなら、イサギが助かったとしても……。
……いや。
違う。そうではない。
「……リミノが、しっかりしなくっちゃ」
リミノは頬を叩き、思い直す。
諦めて、なるものか。
もう、決めたではないか。
ふたりを絶対に、助ける、と。
そうだ、彼がなにを思っていても、関係がない。
決めたのだから。
リミノは強く拳を握る。
「わたし、やっぱり、行ってきます」
「お、おう……?」
「お兄ちゃんを、このままになんか、させられません」
「そ、そうか」
リミノは小道を早歩きし、そしてすぐに駆け出してゆく。
腕を振り、緑色の髪を揺らしながら、息を切らせて。
力強く大地を蹴り、全身を躍動させ、リミノは走る。
ただひとり、自分を救ってくれたその青年を、救うために。
落ち葉を踏みしめ、ひたすらに走る。
残されたキャスチは、ひとりつぶやいた。
「……若さ、じゃのう」
◇ ◆ ◇ ◆ ◇
「イサギ」
「ん」
部屋に入るリミノ。
イサギは座って、いつものように極大魔晶を見上げている。
彼はこちらを一瞥すると、少しだけ見とれたようにぼんやりとして、それから目を逸らした。
「キミか」
「……うん」
リミノは扉の前に立ち、イサギをじっと見つめていた。
こうして佇んでいる姿を見ると、イサギが病に犯されているなどとはとても思えなかった。
この20年後の世界で、常に戦い続けてきたイサギだ。
大人でもなく、子どもでもない、青年としての熱情を秘めた横顔は、美しかった。
リミノにとっては、まだどこか、信じられない気持ちがある。
彼はデュテュを救い、戦争を阻止し、そして迷宮ラタトスクを踏破し、ここにいる。
もしかしたら彼が自分をからかっているのではないか。そうだったらどれほど良かっただろう。
そんなことをしなくても、彼が命じてくれれば、リミノは何にだってなるだろう。
リミノの心はとうに、彼のものだというのに。
自分を選んでくれたら。
ただそれだけで、いいのに――。
「……」
そんな風にいまだノイズの交じる思考を抑えきれず、リミノが黙っていると、イサギはなにかを探すように視線を床に這わした。
「……キミ、だよな?」
彼の目の紅い光が不安そうに揺れた。
リミノはなんと言っていいのかわからず、息を呑む。
すると彼は、顔を抑えてうめいた。
「……幻、じゃないよな。
いや、わからない、な。
一体俺が今見ているものは、真実なのか、どうなのか。
もう、わからないんだ」
イサギの嘆きは、地の底から響く怨嗟のようだった。
リミノはその声に戦慄すらも感じてしまう。
「この手が握ったのは、一体誰だろうか。
温もりか、あるいは虚無か。
俺はようやく理解してきたよ。
これが神化病にかかるということなんだな……」
背筋が凍りつく。
リミノは彼のもとに駆け寄った。
「お兄ちゃん……」
リミノは彼の手を握る。それはやはり、震えていた。
イサギはリミノの手の温もりを確かめるように、両手で握り返してきた。
「知らなければ、幸せでいられたかもしれない。
ただ、これからはそうもいかないな。
でも良いんだ。これは俺の選んだ道だ」
「そんな、お兄ちゃん……」
彼は一体どれほどの恐怖と戦っているというのか。
リミノは彼の元にひざまずき、イサギを見上げる。
「どうして、お兄ちゃんがそんなに苦しまなきゃ、いけないの……?
そんなの見ていて、辛すぎるよ。お兄ちゃん……。
どうして……?」
涙を湛えたリミノの瞳を映さず、イサギは唇を噛む。
「俺が弱くなれば、誰かを守れなくなるから」
「誰かって……?」
「わからない。だが、きっと誰かだ」
イサギはじっと床の一点を見つめ続ける。
「俺は強くなりたかった。
強くなければ、誰も守れなかった。
弱い俺に価値はない。
弱者に正義を語ることはできない。
それが、俺の……生きる意味だった」
「……お兄ちゃん」
イサギの言葉は呪いのようだった。
リミノは知らなかったが、これはまさしく神化病に取り憑かれたその証左であった。
かつて英雄王と呼ばれた男、カリブルヌスの想いは『怨念』であった。
彼は滅ぼされた故郷の悲しみにより、魔族を、しいては人間族以外の全種族を根絶やしにしようと、そのひとつの念だけに拘泥し続けた。
そしてその想い通り、カリブルヌスはアルバリススをかき乱す。
神化病患者の行き着く先は、残酷な虐殺であった。
ならば今、イサギの想いは何であるか。
彼は『人を守ること』を望みとした。
ずっとそれだけのために、生きてきたのだ。
だからこそ、力が必要だと信じた。
彼にとってそれは、当然の帰結であった。
イサギが『手術を受ける気はない』と言い切ったのは、彼の神化病として、根幹に位置する部分である。
ならばこそ、イサギは説得には応じることはない。
リミノの言葉にも、耳を貸すことはないだろう。
彼は病に侵されて死んでゆく道を選んだのだ。
たったひとりで、極大魔晶を前に、だ。
リミノは訴る。
彼が生きるべき意味と、その道理を説く。
「イサギ、キミは誰かのために戦い続けてきたんだよ。
自分のことなんて二の次で、それでも人を悲しみから救うために、剣を振るってきたじゃない。
それなのに、どうしてまだ戦おうとするの。
そんな体で、誰を守ろうっていうの……。
もう、いいじゃない……。
休んだって、いいでしょ……」
その声は、枯れ落ちる寸前の花のように、弱々しかった。
だが、イサギは聞き入れない。
プレハの声でも、言葉でも、彼はうなずきはしなかった。
きっと思いは伝わっている。
だからイサギはやはり辛そうに、顔を歪めたのだ。
「すまない」
何度も何度も無力を噛み締めて、そしてここまで歩いてきた。
目の前で無残に死んでゆく人を見た。
そのたびに悔み、打ちのめされて、そのたびに強くなった。
手に入れた力は、イサギが生きてきた証そのものだ。
どれだけの力が失われるのかはわからない。
イサギは世界最強の男だ。
ほんの少し魔力が減ったところで、その地位が揺らぐことはあるまい。
それでも、イサギは怯えていた。
最強ではなくなることに、彼は計り知れないほどの恐怖を抱いていたのだ。
「お兄ちゃん……」
リミノでは彼の心を動かすことはできない。
それを悟った彼女は、涙を流す。
彼を救えない己の無力に、ただ泣く。
胸に問いかけるのは、唯一性だ。
なにが違うのか、どう違うのか。
自分とプレハのその差は、決定的な隔たりは、一体なんなのか。
リミノは焦燥感に焚きつけられるように、何度も何度も、己に問いかける。
もし自分がプレハならば。
ここにプレハがいたならば、と考えずにはいられない。
恐らく、プレハならば、彼に手術を決意させることもできただろう。
彼女は――たやすいことでないにしろ――イサギを突き動かすことができるはずだ。
自分とプレハはなにが違うのか。
リミノは濡れる視界の中、イサギを見つめ、思う。
言葉が足りないのか、力が足りないのか。
彼と共有した思い出の差か、心が通じ合った経験の差か。
あるいは――想いが足りないのか?
それは、最悪の結論であった。
認めてしまうわけには、いかない。
絶対に。絶対にだ。
受け入れてしまえば、リミノの心はそこで折れてしまう。
だってリミノは、プレハには、なれないのだから――。
流れる涙を指先で拭い、それでもリミノはイサギに食い下がる。
なんとしてでも彼に生きるための道標を与えるために、手を尽くす。
「ねえ、イサギ……。
だって、プレハお姉ちゃんが、
助かるかもしれない、っていうんだよ……?
生きてさえいれば、だから……」
「……それは」
そこで初めて、イサギは口ごもった。
彼の堅い意思に亀裂が入ったように思えた。
だがそれは、すぐに見えなくなる程度の、些細な迷いでしかなかった。
「……かもしれない、という話だ。
俺はもう、希望を持つことは、できない。
プレハが目覚めるかどうかは、わからない。
だから、俺は力を失うわけにはいかないんだ」
イサギの心は変わらない。
リミノは彼の手をギュッと握る。
「でも、目覚めるかも、しれないんだよ……。
そんなときに、そばに、イサギがいなくてどうするの……?
一体誰が、プレハお姉ちゃんを迎えてあげるの……?」
「…………」
長い、沈黙が落ちた。
――そして彼は、首を振る。
「俺は、このアルバリススを、救った勇者だ。
あいつだって、わかってくれる、はずだ。
そうだ、プレハなら……もう、俺がいなくても、大丈夫だ」
次の瞬間。
リミノはイサギの頬を張った。
乾いた音が部屋の中に響く。
イサギは驚き、リミノを見つめたが。
だがそれ以上に、リミノの声が彼の脳裏を揺さぶった。
「どうしてそんなことを言うの!」
「プレ……ハ?」
リミノはイサギの胸ぐらを掴み、持ち上げる。
彼は呆然としたまま、抵抗しなかった。
「プレハお姉ちゃんの手紙、読んだんでしょう!
なのに、まだ諦めているつもりなの!?
なにを考えているの、イサギ!」
それが彼の本心だろうとも。
あるいは強がりで放った言葉だとしても。
どうしても力への思いを捨て切れず、悲しくて悲しくて。
それでもイサギは世界にいるどこかの誰かを守るために。
血を吐く思いで告げたのだとしても。
関係ない。
リミノには、許せなかった。
彼がそんなことを言ったことが、許せなかった。
怒りと悔しさで、リミノの胸は張り裂けそうだった。
「二年探し回って、それで見つけて、極大魔晶になっていたからって、なんだっていうの!
プレハお姉ちゃんは、十五年旅を続けたんだよ!
それなのに! それなのに!」
涙でぐしゃぐしゃになった顔で、リミノはイサギに叫ぶ。
「お兄ちゃんは、なにも! わかってない!
プレハお姉ちゃんが、どれだけ、お兄ちゃんに会いたかったのか!
そんなの、手紙を読めば、わかることでしょ!
わからない、なんて、言わせない!」
リミノの瞳が真っ直ぐにイサギの顔を映し出す。
イサギに叩きつける涙声は、言葉は、まるで絶叫のようだった。
「なのに、そんな、誰かを守るためだなんて、どうだっていいよ!
世界の命運なんて、関係ない! 関係ないもん!
お兄ちゃんが守らなきゃいけないのは、プレハお姉ちゃんだよ!
ふたりの、ふたりだけの、未来でしょ!」
プレハの声で、顔で、その姿で、リミノは彼に声を浴びせる。
リミノにしか言えない、言うことのできない、リミノだけの言葉を。
「俺と、プレハの……未来……」
イサギの胸を掴むリミノの手から、わずかに力が抜けてゆく。
息を呑み、つぶやく彼を前に、リミノは嗚咽を漏らす。
悔しくて、悔しくて。
歯がゆくて、彼と彼女の幸せだけを願って。
リミノは彼の胸を、叩く。
「お兄ちゃんは……生きてなきゃ、いけないんだよ。
もし、プレハお姉ちゃんが、生き返らなくたって、
でも、待ってなきゃいけないんだよ。
ずっと、ずっと、お姉ちゃんの帰りを……。
お姉ちゃんがそうしていたように、それが、お兄ちゃんの役目なんだよ。
お兄ちゃんの戦いは、もう、終わったの。
これからは、お兄ちゃんが、お姉ちゃんを待つために、生きるんだから……。
だから……」
リミノはイサギの両頬を撫でながら、訴えた。
イサギの、真っ赤に染まった左目を見上げ、願った。
こんな病気に負けないように。
元の優しいイサギに戻ってくれるように。
自分の名を思い出してくれるように。
そして、何よりも――。
「生きて、イサギ……。
あなたは、生きて、ずっと、生きて。
そして、絶対に、プレハと……幸せに、なってよ……」
その言葉が、最後まで残った、リミノの本当の願いだった。
世界を救ったイサギへの、心からの、想いであった。
「……」
イサギの手が、リミノのその手を掴んだ。
その表情は決して晴れやかなものではなかったけれど。
「……キミ、名前は……。
ああ、いや……。
どうせ今の俺は、それを聞いたところで認識できないのか」
「……イサギ?」
イサギはその頬を撫でる彼女の手を握り、俯く。
そして、つぶやいた。
「――ありがとう、プレハ」
たとえその名前が違っていても。
言葉に込められた意味を、リミノは正しく理解しただろう。
彼女の目からこぼれた一雫の涙が、床を叩く。
イサギは『力』を求めた。
無力は敵だ。
無力は悪だ。
無力は絶望なのだ。
しかし。
神化病患者にただひとつ残った想いは果たして『力』だったのだろうか。
彼は一体なんのために『力』を求めたのか。
誰のために、強くあろうと望んだのか。
答えは、そこにあった。
原初の願いは『力』ではなかった。
彼は守りたいと思ったのだ。
あの日あの時、泣いていた少女を。
それが、彼の根幹であった。
すなわち――それが『プレハ』のための言葉であるのなら。
イサギの心には、届く。
確かに、響くのだ。
神の力に満たされた男、神化病患者の虚無の心を。
リミノの言葉は、イサギの弱った魂を確かに貫いた。
頬に触れたリミノの手を握り、イサギは小さな、小さな微笑を浮かべる。
そしてまるで涙を拭うように、彼は少女の頬を撫でた。
彼はようやく思い出す。
『力』よりも大切なことが、なんであったのか。
それを教えてくれたのは、今ここにいる少女だ。
プレハではない、プレハの姿をした、彼女のために。
イサギは繰り返す。
「――ありがとう、プレハ」
その言葉に、万感の想いを乗せて。
リミノは涙を浮かべながら。
笑顔で彼に、強くうなずいたのだった。
「うん……っ!」
その翌日、イサギの体には封印魔法陣が刻まれた――。
勇者イサギの魔王譚
『Episode11-5 リミノ:Part END』
◇ ◆ ◇ ◆ ◇
「おまえだな、目撃者のギルド職員というのは。して、ラタトスクを攻略したそいつが、極大魔晶を抱えていたというのか?」
森の中にひっそりと佇む冒険者ギルドの町にて。
若い男たちが、年老いたギルド職員を問いただしていた。
老人は、ぽつりぽつりと語り出す。
「ええ、確かにあれは極大魔晶と呼ばれるものでございます。
あの青年は、女性の形をしたそれを抱えて、森の中へと消えてゆきました。
……一体どこに行ってしまったのか」
その言葉を聞いた若者たちは、互いに頷きあった。
「なるほど。わかった」
「地下迷宮を攻略した男か。本当にいたとはな」
「ならば、頭領!」
「……聞こえてンよ」
揃いの外套に身を包む若者たちは、神殺衆の精鋭だ。
彼らに取り囲まれ、外套を着た仮面の男は髪をかきあげた。
そして、命じる。
「そいつの行方を追え。今すぐに、だ」
その男の声は、戦いを前にした獅子の唸り声のようだった。