11-1 夢と嘯く
あらゆる迷宮には寿命がある。
その地の底に核魔晶が生まれるとともに生を受け、彼らは誘い込んだ獲物たちの血によって育ち、そして誘い込んだその獲物たちに命を奪われる。
迷宮が無制限に拡大し続けることはない。迷宮たちの前にはいつだって捕食者が現れるからだ。
かくして、迷宮は皆、寿命を持つ。
それはあるいは、人族に魔晶を捧げるためのようであった。
男の背後で、ひとつの迷宮が今、崩れ落ちようとしていた。
核魔晶を抜き取られたことによって、魔世界化した内部を保てなくなった迷宮は、やがてただの穴ぼこへと変貌を遂げる。内部は土に満ち、なにもかもが埋められてゆく。冒険者の屍も、剣も鎧もだ。
地下迷宮『ラタトスク』の死を、役目を終えた大地が眠りについてゆくその様を、ひとりの老人が見つめていた。
彼はこの迷宮を管理する冒険者ギルドの職員だった。そして以前にひとりの男をこの迷宮に送り届けた老人でもある。
眼帯をつけた男は、生きたまま核魔晶を抱きかかえ、その地獄より這い出してきたのだ。
そこに居合わせた幸運は、老人にとっては運命ですらあった。
なぜなら、その魔晶は――。
「……プレハ、さま……?」
老人のしゃがれた声は、地下迷宮の崩れる轟音によって塗り潰された。
誰にも届かず、それは口元に漂いそしてすぐに消えた。
見やる。男の衣装は血まみれであった。
見やる。男の足取りは今にも折れてしまいそうなほどに頼りなく、彼が満身創痍であることが容易に見て取れた。
しかし老人は、彼を助けようなどとは微塵も思わなかった。それどころか、近づけば斬り殺されてしまうような、そんな畏れが彼の全身を締め上げていた。
ハッキリと言えば、男は別人であった。
この迷宮に潜る前の彼とは、まるで違う。しかしそれは珍しいことではない。人は誰しも、地の底で絶望を抱く。男とて、例外ではなかっただけの話。
だがそれでも男は例外だった。男は核魔晶を手に入れたのだ。未だかつて誰にも成し得なかったその宝を持ち帰ってきたのだ。
核魔晶は女性であった。光の反射で色を変えながら、神に祈りを捧げる女性のような姿をしていた。その姿は美しく、儚く、命を失った女神のようだった。
核魔晶を抱える男は、魂を刈り取る死神のようにすら見える。
男はその頼りない足取りで地をこそぎ、俯き歩く。半死人のような足取りで、老人の横を通りすぎてゆく。そんな体だというのに、髪の隙間から覗く眼は、飢えた獣のように爛々と輝いていた。
老人はハッとして振り返る。男の背に向けて問う。ラタトスク崩壊の地響きの中、精一杯の声を張り上げた。
「――どこへゆくのですか!」
その言葉には、様々な意図が、万感の想いが含まれていた。
男は地下迷宮ラタトスクを突破した強者だ。核魔晶を持ち帰った栄誉ある冒険者だ。
老人が今までずっと送り届けてきたものは、ほとんどが戻らなかった。
彼ら冒険者とて覚悟しているものとはいえ、忸怩たる思いがあった。
人を死へと向かわせる己の職務への業に悩まなかった日はない。
だが、男は帰ってきた。それもたったひとりで挑みながら、だ。
男の偉業は人々に語り継がれるべきものだ。いわば男は老人の罪障を晴らしたのだ。
それなのになぜ、どうして。
彼は光照らされる道ではなく、昏い森へと向かっていた。
人々に憧れられ、褒め称えられ、恋焦がれられるはずの男は、すべてを棄て、歩んでゆく。
孤独に、寡黙に、そして高踏に。
光から、闇へと――。
老人の問いに、男は応える。
足跡を刻むかのように、ただ語る。
「――俺の旅は、終わった」
彼の目はもはや後戻りできぬほど紅く、紅く、紅く染め上げられていた。
勇者イサギの魔王譚
『Episode11-1 夢と嘯く』
◇ ◆ ◇ ◆ ◇
エルフ族は古来から大森林ミストラルに住まう。
彼らがなぜ人目を避けるように森の中に居を構えたのか、それについては諸説がある。
曰く、人間族に住処を追われた結果である。
曰く、先祖代々受け継いだ世界樹の元で暮らす教義が根付いている。
曰く、他種族を嫌った結果、ここに隠れ住むのだ。
エルフ族ですらなぜなのか、その理由を忘れてしまうほどに長い年月が経ち、彼らの国ミストランドは常に大森林ミストラルとともにあった。
穏やかな暮らしとともに、彼らエルフ族は自分たちだけの独特の文明と社会を築き上げ、種の栄枯盛衰を証明するかのように緩やかな衰退を辿り。
――そして、冒険者たちの手によって、七日で滅ぼされた。
ミストラルは人の手によって開拓されつつあったが、その一部ではまだかつての姿を色濃く残す地域もあった。
ここはそんな、滅びたエルフ族の村のひとつである。
延焼を免れた少し大きな一軒家に、彼は――浅浦いさぎは、いた。
かつて13才でアルバリススに召喚され、そして3年間の旅の後に魔王アンリマンユを討ち、そして再び召喚されてしまった非業の少年。
世界を変える動乱の中、彼は、「二度目の召喚でわかたれてしまった初恋の人に再会したい」という願いだけを胸に、旅を続けた。
彼は無数の人々のために魔王となり、勇者となった。
幾度となく戦い、世界を救い、彼はあがき続けた。
ただひとつのささやかな想いだけを握り締めて生きた、2年の旅の果て。
願いはその手の中で潰れ、ひしゃげていた。
彼は、18才となったその男は、ラタトスクを出て、さまよい歩く。
そしてイサギが行き着いたのは、この地であった。
深い森の奥。滅びた村の崩れ落ちそうな柱が支える家屋。それがかつて勇者と呼ばれた男の終着地であった。
彼の元には、魔晶があった。
あらゆる願いを叶えると言われた、魔力の塊にして究極の魔具。ひとつの極大魔晶があった。
だが、イサギは知っている。
それがそれであるからこそ、ただひとつ、彼の願いだけは叶わないのだということを。
イサギにはもう、なにも望むことはない。
その心に願いは、ない。
すべては失われたのだから。
彼が過ごす日々は、もはや余生でしかなかった。
傾きかけたその家を、イサギは三日かけて補修した。
材料は、他の家々から持ち寄ってきた。
室内をくまなく掃除し、ベッドルームを整え、ダイニングを作る。
その日暮らしを続けながら、少しずつイサギは家屋を元の姿へと戻してゆく。
最初のうちは迷宮に持ち込んだ保存食だけで暮らしていたが、そのうちイサギは狩りを始めた。
エルフ族がいなくなったことで、辺りには野生の動物たちが豊富に棲みついていたようだ。
飲み水や生活用水の類に関しては、そのつど魔術で代用した。
リビングルームに、イサギは極大魔晶を設置した。
両手を組み合わせ、祈るように立つ法衣姿の美女の像だ。
色を失い、灰のような虹色に淡く輝く彼女は、目を閉じ、物言わぬままそこに佇み続ける。
「プレハ」
呼び声に応える言葉はない。
それでもイサギは喋る。テーブルに頬杖をつき、彼女を見つめながら。
「これからは、一緒だな、プレハ。
なんか、色々あったけれど……でも、これからは、一緒だ」
ぼんやりとした彼の紅眼の中には、魔晶の光が映り込んでいる。
獣たちや鳥たちの声がささめくような夜だった。
「……それじゃあ、長い話でも、始めようか。
俺が20年後のこの世界に、どうしてやってきたのか、って、さ」
ふたりの時間を埋めるように、イサギは語り出す。
この行ないは虚無か無価値か。そんなことは、今の彼にとっては問題ではない。
イサギの元には極大魔晶がいる。
それが事実であり、それが今のイサギにとってのすべてだった。
「魔王を斬ったあの直後、俺は薄暗い部屋で目覚めたんだ――」
長い夜を越え、イサギと極大魔晶は一つ屋根の下で暮らし始めた。
◇ ◆ ◇ ◆ ◇
プレハは明るく、太陽のような笑顔でいつもイサギを照らしてくれていた。
その一方、憂慮を抱えて生きる彼女が時折見せる寂しげな表情は、雲の間から覗く月明かりのようで、イサギの胸を締めつけるのだった。
そんな顔をさせたくないと思い、戦い続けてきた。
三年間、勇者として振る舞ったのはプレハのためだった。
それ以下でも、それ以上でもなかった。
「ただいま、プレハ」
解体して水洗いした獣の肉を背負い戻ってきたイサギは、いつものように彼女に声をかけた。
極大魔晶はなにも言わず、なにも変わらずそこにあり、イサギを出迎える。
彼女を見つめるイサギの表情は、実に複雑なものだった。
今にも泣きそうでありながら、しかし口元には微笑を浮かべてすらいる。
視線は吸い込まれるようにプレハに固定され、それは荷物をテーブルに置く瞬間ですら微塵も揺らぐことはなかった。
プレハは美しい。
陽の香りのするその金色の髪も、柔らかな頬も、華奢な肩も、すらりと伸びた長い足も、あらゆるものが一級の芸術品のようである。
「だからって、本当に芸術品になっちまうことはねえだろうよ。
……なあ? プレハ」
皮肉げにつぶやくけれど、その言葉は虚しく消えてゆくのみ。
「極大魔晶、か。
このアルバリススに現存する、唯一の……。
極大魔法師が、行き着くところにいっちまった感じだな」
いつものように頬杖をつき、彼女を見上げるイサギ。
その手がゆっくりと極大魔晶に伸びてゆく。
「……プレハ」
彼女の硬質的な肌に触れる。温もりはなく、鉱石を撫でたかのようにひんやりと冷たかった。
魔晶の感触は、不快である。それはリヴァイブストーンを苦手とするイサギの心情から起因されるものだ。
イサギは静かに立ち上がり、指を伸ばしてゆく。
その手から肘へと上り、肩に触れる。冷たい肌を辿り、首筋へと。
「……」
下顎から頬を撫で、そうしてイサギの指は、彼女の唇に触れた。
イサギは生唾を飲み込む。
指の裏で唇を撫で、イサギはゆっくりと彼女に顔を近づけてゆく。
しかし、その動きは、寸前で止まった。
「……よせよ」
イサギは顔を背け、そして手のひらで目を覆う。
己がやろうとしていた行ないを恥じて、イサギは椅子に座り直した。
「俺は、プレハと……」
ただ会いたくて、抱きしめたくて、そうして旅を続けてきたのに。
いざ目の前にしてしまえば、欲望を抱く自分に嫌悪感が募った。
それも、彼女は眠り続けているように目を閉じている。なおさらだ。卑怯な真似だと思った。
「……すまない、プレハ」
その謝罪の言葉すらも、自ら薄く感じてしまう。
愛する女性を前に、イサギは拳を握り、俯いた。
長い夜が終わり、そしてまた朝が来る。
イサギの日々はここで、続いてゆく。
◇ ◆ ◇ ◆ ◇
話は少し、遡る。
イサギは地下迷宮の最奥で極大魔晶を発見し、彼女を抱きかかえながら、地上へと帰るために来た道を引き返した。
すでにリヴァイブストーンを飲み込み、魔力を消費し、肉体を酷使したイサギに、魂人たちは容赦なく襲いかかった。
化け物のより所である迷宮の核魔晶を奪い去ろうとするものに対し、彼らはこれまで以上に熾烈な攻撃を仕掛ける。
特に、第四階層と第三階層の戦いは混沌を極めた。
イサギの進む先に道はある。だがその先に未来はない。
それでもイサギは立ちはだかるものを斬り捨て、地上へと向かった。
プレハを陽の光の下に戻すために。彼女を安息の地へと運ぶために。
気力はもはやなく、足取りは重かった。
プレハを抱え、片手が塞がっているため、まともな立ち回りもできず、そのためイサギは何度も手傷を負った。それは時に致命傷ですらあった。
しかしリヴァイブストーンが彼の傷を癒す。魂を削りながらも、肉体は地上を目指す。命ある限り、彼は向かう。
諦めてしまえば楽になる道だ。核魔晶を手放せば、魂人もこれ以上イサギを追いかけてはこないだろう。
多難と苦難、苦痛と不安から解放されるのだ。
『もうやめればいい』
『こんなことをして何になる?』
『彼女は死んだ』
『キミの行為に意味はない』
『だからホラ、その荷を棄てて』
『苦しいことなんて、今すぐやめよう?』
『こっちにおいでよ』
第三階層『輝砂海』を歩むときに聞こえたマーメイドたちのその声は、甘く、魅力的ですらあった。
彼女はもう、いない。絶望は味わったはずだ。
ならば、どちらとて同じこと。リヴァイブストーンの効果時間が切れ、ここで倒れてしまえば、犬死にだ。
それなら、なぜこんなことをする? 一体誰のために。なんのために。
これほどの道のりをイサギがゆかねばならぬ理由がどこにある。そんなものはない。道理など、ない。
ない。
道理など、初めからないのだ。
あるのは意志だ。
ここで力尽きても構わぬという、意志だけがある。
愛する人の骸を抱え、それでも歩くイサギの姿は、懸命や健気という言葉ではもはや済まされない。
第二階層、何度も転落の危機に合いながら、それでも彼は外界へと向かう。
この階層に出現するはずのない意志を持つアンデッドを退けるイサギは、この頃にはすでに意識も半ばおぼろげであった。
それでも上を目指したのは、一体なんのためか。
自らの心に決着をつけるためか?
旅の終わりを刻むための道か?
違う。そうではない。
そんなものなど、二の次だ。
物言わぬ彼女にもはや幸せなどはなく、結局は残された人が納得をするための儀式でしかないという理屈など、今のイサギの頭には一切なかった。
イサギはただ、プレハのことだけを想っていた。
こんな暗闇で、ただひとりで、いつまでも神に祈りを捧げるように、愛しき彼女が佇むなど、あってはならないことだと思った。
プレハを外へ。暖かな家へ。咲き誇る花畑へ。風の通り抜ける高原へ。せせらぎの響く清流のそばへ。月明かりの元へ。
ただそれだけのため。それだけのために。
イサギはそれだけのために。
否――、そのためになら、命を投げ捨てても構わないと思っていた。
この行為には価値があると、イサギは信じていた。
18年間生きて、努力を続けて、勇者と呼ばれ、救い、救われ、傷ついて、様々な人と出会い、旅をし、アルバリスス最強へと上り詰めたこの人生と、見合うだけの価値があるのだと。
イサギは信じていた。
彼女は報われなかった。
そんな彼女にしてやれることが、他になにがある?
なにもない、なにもないから。
イサギはただ、歩く。
愛する少女を陽の下へ。
その思いを抱え、歩く。
イサギは第二階層を登りきった。
第一階層の化け物をけちらしながら、イサギは紅い眼の光を落陽のようにたなびかせ、征く。
地上はすぐそこにあった。
◇ ◆ ◇ ◆ ◇
月日が流れる。
イサギが極大魔晶とともに暮らす日々は穏やかで、なにもなかった。
朝目覚め、昼に食料を調達し、帰ってきたら一日中、極大魔晶を見つめ続けた。
それはきっと幸せな毎日だっただろう。
だが、辛く、苦しい時間でもあった。
いつまでも終わらない、悲しみに彩られた余生であった。
己の不甲斐なさと無力を噛みしめるだけの日常が続いていた。
この日イサギは、いつものように極大魔晶の元にいた。
だが異変に気づき、体を起こす。
「……」
イサギは久しぶりに、人の気配を感じた。
――何者かがこの家に近づいてきている。
こんな滅んだ村に、一体なんの用か。
どこかの調査員がやってきたのだろうか。
それとも……。
イサギはちらりと極大魔晶を見た。
「……まさかな」
気のせいならばいいのだが。
イサギの元にあるのは、すべての願いが叶うと言われる魔晶――極大魔晶だ。
誰にも見られてはいなかったと思ったが、それでもラタトスクの崩壊はもう世界中に広がったはずだ。
ならば、不思議ではないのか。
もし本当にそうなら、手加減する理由はない。
イサギは立ち上がり、壁に立てかけておいた銀の剣クラウソラスを取る。
「ちょっと見てくるよ、プレハ」
軽く言い放ち、そうしてイサギは玄関へと向かった。
仮に侵入者がやってきて、そうして極大魔晶を奪い取ろうとするつもりなら。
――今のイサギは、その侵入者を斬殺することに、一切の躊躇いを感じることはないだろう。
玄関に近づくと、さらにかすかな足音までも聞こえてきた。
イサギは息を潜め、戸に手をかける。
「……」
少し、考える。
もし単なる旅人だとしたら、どうするか。
イサギがこの場所に住んでいることは、誰も知らないことだ。
旅人がなにかに気づいたとしよう。
魔晶でなくとも良い。ただの男がこんな辺鄙な場所に住んでいることを不審げに思ったとする。
町に帰ったそのものが誰かに話せば、そこから噂が広まらないとも限らない。
旅人には罪はない。
だが――だからどうした?
この世界から、たったひとりの命が潰えたところで、どうなることか。
答えは、なにも変わらない、だ。
極大魔晶を守れるのなら、それが一番手っとり早いのではないか。
と、そのようなことを思う自分に気づき、イサギは首を振った。
イサギは軽くこめかみを押さえ、目をつむる。
「……なにを考えている、俺は。
そんな、妄想だ。バカバカしい……」
もしなにも知らない人間なら、追い返せばいい。
明確に意志を持って魔晶を奪おうとするものなら、斬り殺す。
どちらかでいい。そう、どちらかだ。
いよいよ人の気配が迫ってきて、イサギは意を決して戸を開いた。
結果は――。
どちらでもなかった、のだ。
彼女は、家から少し離れた道の先に、いた。
こちらを見て、驚きに目を丸くしていた。
それはイサギも同様だ。
信じられないものを見たように、目を見開く。
まさか。
そんなはずはない。
「――」
彼女はなにかを言って、こちらへと駆け寄ってくる。
ノブを握るイサギの手は、震えていた。
あの娘は。
彼女は――。
「――」
その声も、彼女の仕草も、なにもかもを、イサギは知っている。
知っていた。その名前は、いつだって、イサギとともにあった。
彼女はまさしく。
そうだ。まさしく。
「……プレハ……?」
彼女が、いた。
極大魔晶になってしまったその美少女が、当時の面影を残したまま、立っていた。
プレハだ。本物の、プレハだ。
イサギが見間違えるはずがない。彼女はそのものだった。
これは幻か。
ついにイサギは、おかしくなってしまったのか。
そう、彼は恐れ、思う。
だが、それは違った。
プレハは嬉しそうにイサギの元へやってきて、首に腕を絡め、抱きついてきたのだった。
彼女には実体が、肉体があった。柔らかな感触があった。しっかりとした温もりが、あった。
――プレハは、生きていた?
彼女は明確に、イサギを知っていた。そこには親愛の情があった。当たり前のような、恋慕の念があった。
想いは伝わる。イサギの震えはいつしか、止まっていた。
「プレハ……?」
だがイサギには、信じられなかった。
なぜ彼女が生きてここにいるのか。そんな都合の良いことが起きるはずはないと、イサギは思っていた。
混乱する。一体なにが起きているのか、わからない。
この地が魔世界化しているのかもしれないという想像が頭をよぎる。
しかし、迷宮外でそのようなことが起きることは、まずありえない。
なによりも彼女には、肉体があった。そして意志を持って、嬉しそうにイサギの手を握りしめている。
頭を押さえながら、イサギは彼女をリビングに招き入れる。そこにはやはり、プレハの姿をした極大魔晶が佇んでいた。急に動き出すなどということは、なかった。
じゃあこれは一体。本物のプレハではないというのか?
わからない。イサギの前、微笑む彼女は、何者なのか。
頭に霧がかかったようだった。
なぜここにいるのかと、イサギは少女に問う。
すると彼女は目を細め、泣き笑いのような表情で、イサギにささやくように、こう告げてきたのだ。
「――あなたに会いたかったからだよ、イサギ」
その声は、言葉は、イサギの胸を激しく締めつけた。
彼女が目の前にいて、そして生きている。手を握りしめていてくれて、微笑んでいる。
それ以外に必要なことなど、なにもないと思った。
イサギの願いは、他にはなかった。
「ああ、プレハ、おまえ……ここに……」
イサギは俯きながら、唇を噛む。
再会したときに言いたい言葉は山ほどあったのに、なにひとつ出てこなかった。
奇跡などというものを、イサギは信じない。
だが、これが悪魔の所行だったとしても、イサギは今、その悪魔に感謝したい気分でいっぱいだった。
「わかっている、わかっているよ、イサギ」
彼女は、イサギの頭を撫でる。
母親が子どもにするように優しく、髪を梳く。
「イサギを見ていたら、わかるよ。
がんばったんだね、うん。わかるから。
だから、いいの。もういいんだよ、イサギ」
「……っ、ぷれ、は……」
声が出てこない。言葉が詰まって、飲み込むことも吐き出すこともできやしない。
そんなイサギを、彼女は抱き寄せた。
「キミは、世界でいちばんがんばったから。
そのことを、……あたしだけは、知っているから、ね。
だから、いいの、もう、いいんだよ」
イサギにはもう、自分を律することはできなかった。
どんな自制心も、押し寄せてくる嗚咽の波には逆らえなかった。
彼女に見苦しいものを見せてしまうと思いながらも、イサギは流れ落ちる涙をこらえることはできない。
格好悪い。情けない。己を責める声も、やがて彼女の言葉に包まれて、消えてゆく。
「ね、イサギ……もう、キミは、がんばらないでいいんだから、ね。
一緒に、ここで、暮らそ? ね……?
あたしは、ずっとずっと、イサギのことを、大好きだったよ。
ふたりで、これから、ずっと……」
ああ。
ああ。
まさかプレハの口からそんな言葉を聞けるだなんて。
イサギは彼女の肩を抱き、そして正面からその女神のような笑顔を見て。
涙でぐちゃぐちゃになった視界の中――。
「ずっと、ずっと好きだったんだ、プレハ。
おまえを、おまえだけが、好きだった。
俺の初恋は、プレハだったんだ」
――告白をした。
彼女は目の端から一筋の涙を流し、そして精一杯の笑顔を浮かべ、返事をした。
「あたしもだよ、イサギ」
彼女は幻などではない。
プレハは今、確かにここにいるのだった。
それだけがあれば、十分だった。
イサギの魂は、救われたのだ。
ふたりが口づけを交わすその姿を。
……極大魔晶だけが静かに見守っていた。
◇ ◆ ◇ ◆ ◇
イサギと彼女は、この家でふたり、暮らし始めた。
それは間違いなく、幸せな時間だった。
「おはよう、プレハ」
「おっはよ、イサギ」
目覚めればそこには、プレハの姿があった。
台所に立つ彼女は、微笑みながら振り返ってくる。
採ってきた野草と、イサギが下拵えをしておいた肉をフライパンで炒めながら、鼻歌を歌う少女。
そんな後ろ姿を眺めながら、イサギは思わず目頭が熱くなるのを感じた。
こんな暮らしが来ることを、ずっと、ずっと、夢に見ていたのだ。
細い体を背中から抱き締めると、彼女は笑いながら言う。
「どうしたの、イサギ。
ごはんはまだできないよ。我慢できないの?」
「……プレハ」
確かめるようにその名を呼ぶと、彼女はイサギの頭に手を伸ばしてきた。
「……あたし、はここにいるよ、イサギ。
ずっと、そばにいるんだから、ね。
だから、もう泣かないでいいんだよ、……イサギ」
「……」
彼女に撫でられながら、イサギは目を閉じた。
こんな生活が、いつまでも続けばいいと、心からそう願った。
ずっと彼女だけを探し続けていた。
20年後のこの世界に来て、離れ離れになって、それでもプレハだけを求め続けた。
世界を平和にしたのだって、プレハの愛したこのアルバリススを守りたかったからだ。
イサギの旅は、彼女のためだったのだ。
それが今叶った。
極大魔晶の正体や、彼女が生きていた謎など、どうだっていい。
彼女がここにいるというその事実以上に、大切なことなどない。
もし詳しく追求してしまえば、夢から醒めてしまいそうな気がした。
だからイサギは、もうなにも思わない。
もうなにも、考える必要などないのだ。
彼女がここにいるのだから。
彼女が自分と生きているのだから。
最初からこうすればよかったのかもしれない。
魔王も倒さず、なにもせず、彼女とふたりで逃げ出していれば。
ずっとこんな安寧が続いたのだろう。
雫が落ちて岩を削るような、永遠の日々だ。
「プレハ……」
「……うん」
「俺は……」
「……うん、うん」
ふいに涙がこみ上げてきた。
抑えきれない。
彼女がそばにいるということだけで、イサギはもう、だめだ。
どうにもならないのだ。
この笑顔を、この声を、絶対に手放したくはない。
どんなことがあっても、離すものか。
どんな困難が、不幸が襲いかかってきたとしても。
イサギは生涯をかけて、プレハを守りきろう。
幼い日に、己に交わした約束を。
今こそ、握り締めて、生きてゆくのだ。
絶対に。
絶対にだ。
「……プレハ」
「あ……」
彼女の手を握り、イサギは誓う。
「ここで、俺と一緒に、暮らそう。
ずっと、一緒に、プレハ。ふたりで、暮らそう」
くすりと笑う彼女の笑顔は、まるでその言葉を待ち望んでいたようだった。
イサギの髪を撫で、その頬に手を伸ばしてきて。
そして彼女は、たまらなく愛しい声で、イサギの唇にキスをした。
「はい、よろこんで」
ふたりは、一つ屋根の下で暮らし始めた。
イサギの心は救われたのだ――。