10-11 <プレハ>・ズ・レター/No.1
古来から、優れた術師が魔晶と化すという伝説は多々あった。
肉体の枷を越えて溢れた魔力が硬質化し、人が魔晶になってしまうのだ。
例えば、シルベニアがそうだ。
彼女は莫大な魔力と引き換えに自らの体を魔晶化させ、不治の病に苦しむこととなった。
今のところ、アルバリススにおいて治療法は、一切存在していないものだ。
いつかはシルベニアもまた、完全なる魔晶へと変貌してしまうのだろう。
ならば、プレハは。
プレハは、ここで、魔物と戦い、それでも勝てずに。
自らの体が魔晶化するほどに魔力を放出し、そうして核魔晶と同化して――。
極大魔晶となったのだ。
あるいはもう取り返しがつかないほど、彼女の『症状』は進行してしまったのかもしれない。
ラタトスクに潜ったのも、死を覚悟の上だったのかもしれない。
イサギはすべてを理解し、すべてを理解して。
神に祈るように頭を垂れ、そしてその顔を上げた。
極大魔晶の美しさは、以前となにも変わっていなかった。
少しだけ大人びたようにも見えるが、まだまだ若い。
そういえば彼女はエルフの血が混ざっているのだ。
だからきっと、イサギの横に並び立っても、恋人同士に見えるだろう。
見えていたことだろう。
「ぷれは」
イサギの声は震えていた。
痛みも疲労も、喪失感さえも今は、ない。
なにを握っているのかも、わからない。
「ようやく、あえたよな、ぷれは」
引きつる頬をなんとか歪めようとするが、だめだ。
うまく笑うことなどできない。
どうやって笑っていたのかなんて、忘れてしまった。
この二年間で、イサギは一度も、心からの笑みなど浮かべたことがなかったのだから。
「ずっと、ずっとさがしてたんだ。
まさかこんなところにいるなんて、おもわなかった」
極大魔晶の返事はない。
その表情を変えることも、ない。
「この22年、待たせて、ごめんな。
いそいで、きたんだけど、さ。
はは、待ちくたびれちまった、よな……」
彼女に触れようとして。
しかし、イサギはその手を途中で止めた。
イサギの手は今、血にまみれている。
触れればこんなにも美しい彼女が、きっと汚れてしまう。
途中で止めた手を握りしめ、イサギは俯く。
「……ごめん、な。
おれ、こんな姿、で。
ちっと、カッコわりぃよな。
ほんとは、もうちょっと、カッコつけてきちまったんだけど、さ。
みすぼらしい、よな。
はは。
苦戦、しちまって、さ」
震える拳を、行き場のない想いを。
イサギはどうすることもできず、ただ、嗚咽を漏らす。
「ぷれは……プレハ、プレハ……。
どうして、お前は、どうして……。
どうして……」
彼女は穏やかに、微笑を浮かべている。
それは、死にゆく者の姿ではない。
なぜ。
そんなにも。
俯くイサギは、そこで気づく。
物質が腐敗することのないこの最下層において、プレハの足元に落ちていたものがあった。
それは、綴られた便箋だった。
イサギは外套で手を拭い、あまりにも場違いなその手紙を拾い上げる。
まるで握力を失った病人が描くような、震える文字で。
その手紙は、書かれていた。
どんなに長い時を旅しても、イサギが忘れるはずがない。
プレハの文字だ。
……彼女は一体、なにを遺したのか。
震える最後の力を使い、どんなことを書き綴ったのか。
知りたかった。
魔晶の輝きの元で、イサギは紙を開く。
一通目は、名もなき誰かのために捧げられたものだった。
勇者イサギの魔王譚
『Episode10-10 <プレハ>・ズ・レター/No.1』
◇
極大魔晶を見つけてくださった方へ
あたしはかつて勇者パーティーにいたプレハと言います。
『極大魔法師』の名を覚えてくれている方がいることを願います。
このような迷宮の奥深くまでやってきたあなたに、お願いがあります。
この極大魔晶は、あることに役立ててほしいのです。
『イサギ』という方を、知っていますか?
14年前、魔帝戦争によって滅びかけていたスラオシャ大陸を救った勇者の名です。
彼はなんらかの理由によって、この世界から消失してしまいました。
一体なぜ、誰が、なんのために。それは今となってはもう、わかりません。
ご存知の通り、この世界は再び、危機に瀕しています。
あちこちで戦渦に巻き込まれている人々がいます。
平和な世界は失われ、きょうもどこかで人が殺され続けています。
アルバリススには今一度、勇者が必要なのです。
あたしはそのために、何年も極大魔晶を探していました。
しかし、ここでわたしは深く傷ついてしまいました。
もう地上に戻ることは出来ないでしょう。
あたしの前には三等級魔晶があります。
もう他に、道はありません。
あたしは魔晶と同化することを選択したのです。
そうすればきっと、
あたしの魔力と合わせることで『極大魔晶』が創り出されることでしょう。
極大魔晶があれば、勇者イサギを蘇らせることができます。
エディーラ神国のセルデルという人物がいます。
彼はかつて『天賢者』と呼ばれておりました。
セルデルは、魂の失ったものを生き返す蘇生術を研究しています。
イサギを復活させることも、不可能ではないでしょう。
しかし、そのためには、極大魔晶が必要なのです。
どうかこれを読んでいる方へ。
勝手な願いで申し訳ございません。
けれど、それは希望なのです。
勇者イサギを救ってください。
彼はこの世界のために戦い、この世界を救いました。
全ての人族の救世主です。
彼がアルバリススに戻ってくれば、再び世界を救ってくれるでしょう。
人族と魔族の争いすら、彼は止めてくれるはずです。
お願いします。
もしこの願いを聞き届けてくれるのなら、お礼は必ずします。
望むのならば、わたしの財産を全て差し上げます。
王都の銀行にこの手帳をお持ちください。
もしそこでなにか、意に沿わぬ事態がありましたのなら、
王都のギルドマスター・バリーズドをお尋ねください。
彼はあたしの旧知の友人です。
きっと貴方の力になってくれることでしょう。
お願いします、どうか見知らぬ方。
イサギはこの世界を導くものです。
彼の命を今一度、アルバリススに呼び戻すために。
どうか、お願いします。
願わくば、この手紙が心ある方に拾われますように。
追伸。
もしこの世に戻ってきたイサギが、あたしのことを尋ねるようでしたら、
『プレハは旅に出た』とだけ、お伝え下さい。
◇
イサギは、なぜプレハが微笑みながら息絶えたのか。
その理由を、知った。
彼女は託したのだ。
自らの命と引き換えに、この世界の運命を、未来を。
彼女が心から信じる勇者に。
イサギに委ねたのだ。
最後の力を振り絞り『遺書』を書き残して。
そうして、安らぎの中で、ひとり逝ってしまったのだ。
イサギの体は震えていた。
寒さでも、悲しみでも、寂しさでもなく。
わからない。そのなにかに打ち震えていた。
自らの半身を喪ってしまったような、そんな気がした。
「だいじょうぶさ、プレハ」
尊い輝きを見上げるイサギの目から、大粒の涙がこぼれた。
「お前の願いは、叶ったよ。
俺が、叶えた」
震える声で告げるイサギは、確かに世界を救った。
魔族と人間族の戦争を止めた。
アルバリススは、救われただろう。
だけど。
誰といても、なにをしていても。
この2年間、心の中を空虚な風が吹いていた。
そこにプレハがいない。
いないのなら。
なんのために。
ああ。
今すぐに叫び出したい。
喚き散らしたい。
しかし、イサギの前にはプレハがいる。
彼女の眼前で、そんなことをするわけにはいかない。
イサギはずっと、ずっと、勇者の仮面を被ってきたのだ。
せめてプレハの前では。
一人前の、勇者でいたかったから。
格好つけて。
頼れる男のフリをして。
虚勢張って、生きてきて。
なんでもできるのだと、言い張って。
ずっと、ずっと、そうしていたのだ。
見抜かれていても、見透かされていても構わない。
そうすることがイサギの意地であり、イサギの戦いだった。
続けることで、いつか本物になれると信じていたから。
だから、イサギは涙を拭い、精一杯笑う。
「俺は、アルバリススを救ってきたぞ、プレハ。
お前に、言われるまでも、ない。
俺は『勇者』なんだから、さ。
苦しんでいるやつらを、見捨てられるわけがない」
その言葉を聞いたら、プレハはきっと笑うだろう。
苦笑するかもしれないし、呆れられるかもしれない。
「こんなときにまで格好つけて、ばかみたい」と。
笑ってもらえたら、どれほど嬉しいことか。
その笑顔が、どれだけ見たかったことか。
甘い音色で名前を読んでもらえたら、ただそれだけで、報われるのに。
しかし、もうそれは叶わない。
叶わないのに続けることが、どれほど滑稽であろうとも。
イサギは勇者の振りをやめたりはしない。
誰も見ていなくても、誰が見ていたとしても。
そこに意味はない。当然、合理的ではない。
だが、価値がある。イサギはそう信じている。
イサギが生きてきた18年の間で、これほど誇り高く過ごしていた時間はなかった。
プレハがいたから、イサギは勇者でいることができた。
ならばこの想いは、プレハがくれたものだから。
胸を張って、イサギは彼女を見つめながら、告げる。
「プレハ。俺は、勇者イサギ。
この世界を救うために、お前に呼ばれたんだ。
なあ、そうだろ……?」
イサギは誓ったのだ。
そうあるべきだと、己に、あの召喚されたばかりの夜に。
プレハがなじられて、殴られて、それでも自分を信じていてくれたのだから。
絶対に、自分からは諦めたりしないと、そう誓ったのだ。
彼女に胸を張れるように、立派な勇者になろうって。
ずっと、ずっと、ずっと、そうして生きてきたから。
だから、泣かないでいよう。
ばかばかしくて、ちっぽけで、けれどそれが、そんなものが、イサギの決意だから。
愛しい人を前に、それでもイサギは笑おうとして、うまくいかずに。
泣き笑いのような表情となり、唇を噛みながら俯いた。
「……だめだな、俺は。
まだまだ、修行が、足りない、な」
ごまかすようにして、イサギは、二枚目の手紙をめくる。
「……おまえ」
便箋から顔をあげ、イサギはプレハを見上げた。
その手紙の宛名は。
親愛なる勇者さまへ――。
一瞬にして、目を奪われた。
◇
親愛なる勇者さまへ。
久し振りだね、イサギ。
懐かしいでしょう? アルバリスス。
キミがいなくなっている間、こっちは大変だったんだからね。
いろんな国との戦争が起きちゃうし、
あちこちで禁術を復活させようなんて運動が起きるし、
もう、疲れたんだから。
約束していた冒険者ギルドは作ってあげたけどね。
でもバリーズドがほとんどやっていたから、キミの思っていたものとは違うかも。
怒るならバリーズドを怒ってよ。
あたしはあたしで忙しかったんだもん。
だから、今度はキミの番。
三年前に現れてさ、ちゃちゃっとこの世界を救っちゃったみたいに。
早くアルバリススを綺麗な姿に戻してよね。
キミならできるんだから、絶対に。
あたしが信じてあげているんだから、
たかが知っている人たちがいなくなったぐらいで、めげないでよね。
ねえイサギ。
覚えているかな、キミが別れ際に言っていたこと。
「これからも俺についてきてくれないか」
あたしは覚えているよ。
何年経っても。
はーずかしいの。
うふふ。
まだあたしの答えを言ってなかったよね。
えっとね。
「ごめんなさい」
もしかして、意外?
どれだけ自分に自信があったんだか。
まったくもう。
でもね、キミと旅した三年間は楽しかったよ。
痛いことも辛いこともいっぱいあったけれど。
あたしは楽しかったの。
だからあのプロポーズは聞かなかったことにしてあげるからさ。
お互い、イイ思い出だと思ってさ。
胸の中にしまっておこうよ。
ね?
さ!
あたしの手紙は、そろそろおしまい。
今度はキミの番だよ。
せっかく戻ってきてくれたのに、ゴメンね。
あたしはちょっと遠くに行かなきゃいけないんだ。
ねえイサギ。
世界を助けてあげてって書いちゃったけどさ。
本当に疲れたら、もうやめてもいいからね。
どこかの街で恋をして、素敵な人を見つけて、
結婚して、子供を作ってさ。
それで、近所の子どもたちに剣でも教えてあげて過ごす、
そんなささやかな暮らしをしたっていいんだからね。
キミは頑張り過ぎちゃうから、ちょっと心配だよ。
ね、別に、めげちゃってもいいんだからね。
だからね、イサギ。
キミはどうか、幸せになってください。
キミの幸せが、あたしの幸せだよ。
これはホント。
うふふ、それじゃあね。
またどこかで、会えたらいいね。
そのときはきっと、
お互い素敵な人を見つけていようね。
約束よ。
世界を救った勇者が独り身なんて、
あたし許さないんだからね。
イサギに会えて。
良かったよ。
あたしの初恋の人、イサギへ。
Episode:10 あなたの初恋の人、プレハ End
より。
◇
泣かずにいようって。
格好つけていようって。
そう決めたばかりだったけれど。
「あーあ」
決めたばっかりだったのに。
だのに。
「フラれちまったなあ」
もう、だめだ。
もう、止められない。
「ずっと、ずっと、好きだったのに」
彼女はもう、いない。
愛しき人には、二度と、会えない。
「告白、も、したのに、さ」
プレハの言うことは、最初からずっと、嘘ばかりだ。
なにが遠くに旅に出る、だ。
そんなことを言ったところで、イサギが諦めるとでも思っていたのか。
そんなの、もう一度会うためになら、どんな迷宮の奥深くにでも、やってくるに決まっているじゃないか。
手足が千切れても、心臓を握り潰されたって、会いに来るに決まっている。
「すげー勇気、出したんだ、ぜ」
プレハは嘘つきだ。
見栄張って、意地張って。
格好つけて、自分はなんでもできるような口ぶりで。
明るく振る舞って、誰にも心配をかけようともせず。
「ったく、なにが恋をしてもいいよ、だよ」
なにもかもひとりで背負って、それなのに影で泣いて。
そのくせ人のことばかり思っていて、自分のことは二の次だ。
「お前以上の相手なんて、俺には、見つけらんねえよ。
無理だ、どこにだっていない、っての。
諦めきれねえよ……なあ……」
だからイサギはプレハが好きだったのだ。
ずっと、ずっと、好きだった。
初めて会ったときから、好きだった。
一緒にいて、その内面に触れて、ますます好きになった。
プレハさえいれば、他に誰もいらないと思っていた。
イサギにとっての光は、プレハだった。
「頼むよ、プレハ」
イサギはうずくまり、絞り出すような声で、懇願する。
「待たせちまって、ごめんな。
辛かっただろ、苦しかっただろ。
ずっとひとりで、世界中を駆け回ってたんだよな。
わかるよ、ずっと、俺もそうだった。
お前がいなけりゃ、どこにいたって同じだよ。
俺が、悪かったから。
だから、戻ってきてくれよ、プレハ。
お前の幸せは、俺の幸せだよ。
お前が生きてなかったら、意味ないんだよ。
なあ、約束、守ったんだからさ。
他に俺にできることがあるんだったら。
なんだってするからさ。
なあ。
プレハ、返事をしてくれよ。
頼むよ
頼むから。
目を開けてくれよ。
お願いだ。
プレハ。
なあ。
頼むよ。
プレハ」
髪をかきむしり、地面を叩いて。
そうしなければ自我が保てそうになかった。
みっともなく滂沱の涙を流すイサギの懐から、血まみれの指輪が転がり落ちても、構わず。
イサギは泣き続けた。
体中の想いを吐き出すように、泣き続けた。
そこにいたのは、ただひとりの男だった。
勇者の仮面を砕かれた、たったひとりの少年の姿だった。
22年越しの失恋は、イサギの胸を鋭く抉る。
それはリヴァイブストーンですら癒せない、心の痛みであった。
そんな彼の元、声が聞こえてきた。
そして間もなく、壁にヴィジョンが映し出される。
それはプレハの記憶だ。
最終階層に佇む光へと通じる道の、輝きだった。
この物語を締めくくる、エンドロールのような。
とても優しくて、そして悲しい、最後の、最初の、思い出だった。
◇ ◆ ◇ ◆ ◇
本当に、この男の子と一緒にいっても大丈夫かなあ。
不安でいっぱいだけどまあ、やる気はあるみたいだしね。
もう少しかっこ良い人が良かったけれど、仕方ないかな。
「まずはどうする?」
「西の町を救うんだろ? 行くさ」
あたしが聞くと、彼は仏頂面で答えた。
いっちょまえな口を聞いちゃってさ。
神剣が、まるで庭で拾った角材みたいよ。
ぜんぜん似合っていないんだから。
でもまあ、これから始まるのよね。
あたしたちの旅が。
正直不安でいっぱいだけど。
そんなの、どこにいたってそうだよね。
彼もやる気になってくれたみたいだし。
どんな風の吹き回しか知らないけど。
もしかしたら、彼の中に眠っていた真の勇気が、突然目覚めたのかな。
なんてね。
そんな都合の良いことは、起きない世界だよ。
明日には、どちらが死ぬかわからない。
あたしはもちろん、彼を死なせるつもりはないけど、さ?
その前にどうにかこうにか、強くなってもらわなくっちゃ。
一年、二年。
たぶん、三年ぐらいかけたら、アンリマンユに辿り着けるかな。
どんなところに行き着くか、知らないけど。
でも、無事でいられると、いいね。
そんな風に眺めているあたしの気持ちに気づいたわけじゃないと思う。
当時のあたしは、未来なんて、見えなかった。
王宮での暮らしは、今を生きるのに精一杯で。
毎日毎日、どこからか舞い込んでくる悲報に胸を痛める暇もなく。
殴られたり、怒られたりして、日々を削っていた。
『極大魔法師』の呼び名なんて、あたしには重たかったけど。
でも、彼が手を差し伸べてくれたその瞬間。
パッと、視界が開けたような気がしたんだ。
「だから、行こう。
――プレハ」
初めて彼はわたしの名前を呼んで。
なんだかその横顔がちょっぴり、凛々しくて。
そのとき、あたしは思ったんだ。
ああ、あたし、この人と一緒になるんだろうな――って。
なんだろうね。
運命とか、そんな言葉では言い表せないけれど。
なんとなく、感じちゃったんだよ。
おかしいね。
でも、異世界からやってきた勇者と、魔法師の魔女なんて、いい組み合わせじゃないかな。
たぶん、そうだよ。
魔帝アンリマンユを倒してさ。
この世界に平和を取り戻して。
そうしたらきっと、プロポーズ、しちゃうのかな、なんて思って。
それまで生きていたら、だけどさ。
「……プレハ?」
とまどうように、だけど少し自信なさそうに。
キミはあたしの名前を呼ぶ。
でも、キミの視線の意味にも、もうあたしは気づいていたんだよ。
ま、旅の途中はそんなの、かまってあげている暇はないけどね?
あたしは笑いながら、彼の名を呼ぶ。
「はい、勇者さま」
だから、これがきっと。
もしかしたら、あたしの初恋かも、なんて――。
◇ ◆ ◇ ◆ ◇
月明かりの夜に迷宮『ラタトスク』を脱した男が抱えていた極大魔晶は、まるで人の形をしていたと言われているが。
その真実は、定かではなかった。
世界三大迷宮のそのひとつを踏破した男は、「どこへゆくのか」と慌てて尋ねたギルド員の老人に、短くこう答えたという。
『俺の旅は、終わった』
極大魔晶を抱えた男の赤眼が放つ光は、ゾッとするほどに冷たかった。
男は大森林ミストラルの片隅の小さな家に住まう。
彼にただひとつ残ったものは、極大魔晶であった。
心折れた彼の元、ひとりの少女が訪れる。
健気な想いが彼を包もうとも、男の望みはもはやない。
変わってゆく世界。そして裏側で暗躍する者達の影。
そして新たな悲しみが始まる――。
勇者イサギの魔王譚、11章。
次回更新は4月予定です。