10-10 貴方との未来。
この相手が神化カリブルヌスと同じようにはいかないのだと気づいたのは、戦いを開始して間もない頃だった。
まず目の前の化け物は、負った傷を瞬時に回復することはできないようだ。
回復術かリヴァイブストーンの効果が切れているのか、あるいは他の理由なのかは知らないが。
さらにどうやら肉食動物並の知能は所持しているようだ。
イサギの行動パターンを見極め、分析し、そのつどに違った攻撃手段を放ってくる。
ときには岩を投げつけてきたり、さらに両の腕を使ったフェイントも見せた。
「この野郎――」
イサギは予想外の苦戦を強いられた。
怪物の動きは単調で、戦いの手練手管に長けたイサギが『あらゆるものを断つ』神剣クラウソラスを持ってしてでも、容易には下せないその理由は、ふたつある。
まずイサギ自身の『枷』だ。
「エクスカリバー・ボルテックス!」
クラウソラスから放たれた闘気の刃は怪物の表皮に弾かれる。目眩ましになればいいと思い撃ったものだが、怪物の動きは止まらない。
剣閃を追いかけて駈けるイサギを迎え撃つように、怪物は大きく足を蹴りあげた。
跳躍し、翻りながらその丸太のような足をスレスレで避けるイサギ。顔をかすめるその質量は、まともに喰らえばミンチになりかねないものだ。だが、懐に潜り込んだ。
「――ッ」
イサギの体に影が落ちる。懐に潜り込んだのではない。十分に引きつけられただけだ。
渾身の力で拳が落とされる。床は砕け、瓦礫が舞い飛ぶ。
ピンポン球のように吹き飛んだイサギは火花が散るほどの速度で床に叩きつけられ、広間の端の壁まで吹き飛ばされた。
それでも、すぐさま態勢を立て直し、追撃に備えてヴァイパイアに対する十字架のようにクラウソラスを突き出す。
殴り飛ばされる寸前に、目の前につきつけられた怪物の拳を思い切り蹴ったことで、イサギは直接のダメージを避けることができた。
それでもまあ、無傷というわけにはいかないが。
「ったく、ハンデ戦みてえなもんだな……」
理由のひとつ、イサギ自身が魔世界に適応できていないのだ。
破術さえ使えれば、あの程度の魂、一撃で砕けるはずなのに。
術式を思う存分放つことができれば、怪物の足を一瞬でも止められるかもしれないのに。
魔世界化している迷宮内において、そのふたつを実戦に持ち込むのはあまりゾッとしない。
だがそれでも、ある程度以上の力量差がある相手なら、これほど手こずることはないのに。
それが、もうひとつの理由――。
「……お前ひょっとして、神化カリブルヌスより強いんじゃねえよな」
額から流れ落ちる血を拭い、目の前の怪物にうめくイサギ。
この化け物の、並外れたスピードとパワー。ふたつが組み合わさったことによる破壊力だけでも恐ろしいというのに、そこに人間離れした反応速度と神力による絶対防御が加わるというのだから、目の前の怪物はもはや途方もない次元で完成されているとしか言いようがない。
クラウソラスに勝るとも劣らない威力を誇るプレハの魔法ならば、この怪物を倒すことはできるだろう。
しかし、弾幕を張る前に肉薄されたら、一撃で叩き潰されておしまいだ。
プレハはこいつと戦ったのだろう。そして、どうなってしまったのか。
……嫌な考えが頭の中を占め、イサギはそれを振り払った。
「プレハが難儀するわけだな。
前衛と後衛のコンビじゃないと、こいつはキツいぜ」
少なくとも、人間が戦うような相手ではないだろう。
イサギは剣を立て、そこに手を添える。
「しゃあねえな……。
……余裕ぶっている場合じゃあなさそうだ」
深く息を吸い、イサギは覚悟する。
相手を確実に殺すという、その覚悟を、だ。
化け物はまるで力を貯めるようにその場に佇み、拳を握り締めている。
あれだけの巨躯だ。クラウソラスで一太刀浴びせたところで、一撃では倒せまい。
もし反撃をもらったら、その時点でイサギはおしまいだ。
誰も迷宮ラタトスクを攻略できなかったわけである。こんな怪物が潜んでいただなんて。
イサギは舌打ちする。
こんなところで阻まれるとは。
しかし引き返すなどという選択肢が、あるはずもない。
あと一歩だというのに。
「ったく……うぜえ、うぜえ、うぜえな……」
腹の中に黒い気持ちがたまってゆく。
こんなに苛立ったのは、久しぶりだ。
イサギは歯を食いしばり、化け物を睨みつける。
絶対に死ねないのだ。
この先に進むまでは。
だから、どんな手を使ってでも、勝つ。
手段を選んでなど、いられない。
「どこのどいつだか知らねえが、な。
俺の世界にゃ、こういう言葉があるんだよ」
懐から取り出した魔晶を指で弾き、イサギはそれを空中で受け取る。
輝けるその宝石の名は――。
「人の恋路を邪魔するやつぁ、馬に蹴られて死んじまえ、ってな」
イサギはリヴァイブストーンを飲み込んだ。
この広間ではどのように立ちまわったところで、壁を背負わされる。
逃げ場を失ったイサギは怪物の股下をくぐろうとして――。
「――チッ」
いち早くその意図を理解した怪物が豪腕を地面に叩きつけ、イサギの行く手を阻む。
右か左か、視線でのフェイントなど意味はない。怪物は煌気をまとったイサギの速度を、見てから反応することができるのだ。
左――。金色の軌跡を描きながら地面を蹴るイサギをすくい上げるように、手のひらが迎え撃つ。
そのリーチを見極め、ギリギリの位置をかすめようとしたイサギを、直前で伸ばされた鉄塊のような指が引き裂いた。
目の前が激痛によって血で染まる。
クラウソラスを握っていた右手が、付け根からもぎ取られた――。
「うおおおおおお!」
宙を舞う自らの腕の行方を追うこともなく、イサギは左手一本でカラドボルグを抜くと、怪物の顔面めがけて叩きつけた。
硬質的な音を響かせ、カラドボルグの刃はわずかに食い込む。しかし切断するには至らぬ。イサギは煌気をまとった回し蹴りを剣に打ち込んだ。怪物に怯んだ様子はない。すぐに追撃が来る。
イサギは右腕の――クラウソラスの元へと飛ぶ。
その背に、拳が追いついた。
「――――」
血や内臓が腹の中で爆発したような感触がイサギを襲う。
化け物の一撃によって、下腹部に穴が空いた。意識が失われてもおかしくないほどの激痛がイサギの脳を滅茶苦茶にかき回す。全身が痺れたかのように言うことを効かず、イサギは芋虫のように地面を転がった。
言うまでもなく――致命傷である。
絶叫していたのかもしれない。刹那、五感が戻る。霞む視界で捉えたものはこちらにトドメを刺そうと悠長に足を進めてくる怪物の姿だ。
イサギの全身に熱が戻る。失われた血がリヴァイブストーンの魔力によって再生し、注ぎ込まれているのだ。
「てめえ――――」
動く。体はまだ動く。数秒前まで内臓破裂を引き起こし、上半身と下半身がちぎれかけていたその男はすでに起き上がり、失ったはずの右腕にクラウソラスを握り締めている。
イサギは噛み締めた歯の間から呪詛を漏らす。
なんなんだ、こいつは。強すぎる――。
破術がなかろうとも、術式が使えなくとも、イサギはスラオシャ大陸最強の男だ。
それが、クラウソラスを持ちながら、倒すことができない相手だと?
神化病患者とはここまで強くなるものなのか?
もしこの相手が、カリブルヌスを上回るほどの実力者だったとして、そんな人物が一体何人大陸にいる?
アンリマンユ、レ・ヴァリス、あとはそう、たとえば――プレハだとか。
バカバカしい。プレハはリヴァイブストーンや回復術には関与していなかった。彼女が神化病にかかる由縁はない。
それに、あちこちにはプレハ自身が戦った痕跡があった。あれを無視することはできないだろう。
少なくともプレハはこの化け物と戦い、そして倒すことができなかった。それが事実だ。
プレハが勝てなかった相手。その意味がイサギの両肩に重くのしかかる。
「ちくしょうが……」
いつか味わったような無力感が、イサギの身を襲った。
いつだってそうだ。この自分は臆病で、逃げ腰で、悪いことばかり考えて。
本当に、情けない――。
「冗談じゃねえ……この先には、プレハが……。
冗談じゃねえ、冗談じゃねえよ!」
顔面にカラドボルグを刺したままやってくる怪物を見上げ、イサギは血を吐きながら叫ぶ。
「この先にはなあ!
俺が、探していた、俺の、プレハがいるんだよ!
このために、ここまで来たんだ!
手ぶらで帰れっかよ!」
腕を振り上げた化け物に、イサギは一切避ける素振りを見せなかった。
しかし彼はいつの間にか、左手に聖杖ミストルテインを握っている。
凄まじい速度で迫る巨大な拳に向け、イサギは正面からミストルテインを叩きつけた。――直後、魔世界が歪むほどの魔力の激突が発生し、辺りには虹色の粒子が舞う。
その余波は、イサギの左腕を肘の辺りまで消失させていた。魔世界化した迷宮の崩壊に巻き込まれた結果だ。
しかしイサギは構わず、剣を振るう。
ゼロ距離の極術を浴び、怪物の動きは今、完全に停止している。左手を犠牲にして得られた、千載一遇のチャンスを無駄にはしない。
身を動かすたびに気が狂いそうな激痛に苛まれたとしても、その先にある未来のために。
――光の道の果てにたどり着くために。
イサギの袈裟斬りは、怪物の右手を斬り飛ばす。
鮮血が舞い、怪物が苦悶の声をあげた。
さらに返す右薙ぎが、その巨体を真横に断つ。だるま落としのように化け物の体がずれた。
まだだ。
身動きを取り戻した怪物は必死に抵抗し、イサギの右足を掴む。振り回し、壁に叩きつけるつもりか。
ここで距離を取られたら、もう二度と懐には入れないかもしれない。イサギはためらわず、己のその脚を斬り落とした。
足を掴む怪物を置き去り、イサギは片足で飛んだ。
狙いは、その頭部。
振りあげた剣が、白銀の光を放つ。
唐竹に、真っ二つに――。
――クラウソラスを、降り下ろす。
「くたばれえええええええええ!」
その一太刀は閃光となり、広場に輝く。
崩壊と消滅。怨嗟の声が広間にこだまする。怪物の全身は真っ赤な煙と化し、大量の魔力が迷宮内に溢れ、暴走する。質量を持った魔力に押され、イサギは着地と同時に尻もちをつく。
残りの闘気を残らず叩き込んだその一撃。
イサギの不屈の剣は、怪物を断ち切ったのだ――。
――しばらくその場に膝をついていた。
目の焦点が戻るとともに、イサギは顔をあげた。
「あ、うあ……」
まただ。
怪物を倒してなお、失ったものは大きかった。
心臓の中の中。魂と呼ばれるものが、イサギの体から抜け出てしまったような、言いようのない喪失感がこの身を襲っていた。
リヴァイブストーンによる作用だけではない。間近で極術を使ってしまったことも魂が傷ついたことの原因のひとつだろう。
今度はなにを失ってしまったのか。わからない。わからないから恐ろしい。
えづくように大量の血を吐いて、イサギはしばらく咳き込んだ。
手の感覚が戻るまでに、再びしばしの時間を要した。
イサギは苦悶の声を漏らす。満身創痍も甚だしい。
前回、愁に首を斬られたときに比べても、ずいぶんと無茶をしたと思う。
しかし、構わない。
なにを無くしたとしても。
この先に待つ人が、イサギを出迎えてくれるのなら。
イサギの四肢はすでに再生が完了しているが、まるでボロ雑巾のようになってしまった外套は元には戻らない。
なんというみすぼらしい格好か。
こんな姿で、プレハの前に出るのはどうかと思ったが、今さら服の代えはない。
イサギは手に魔力を集めて、氷の鏡を創り出そうとしたけれど、それもうまくはいかなかった。完全にガス欠だ。諦めて、イサギは手の甲で顔を拭いた。ぬめりとした血の感触がした。
まったく、なんてざまだ。
身だしなみを整える力も、残っちゃいない。
格好悪い。
……今、なにをしようとしていたんだっけ。
思い出した。
「……あ、ああ……」
イサギは慌てて懐を漁る。
あった。
血まみれの、指輪が、残っていた。
その瞬間、イサギの中に張り詰めていた緊張が解けた。
痛みがぶり返す。イサギは苦痛に顔を歪めながらも、立ち上がる。
「待ってろ、よ……この先、に……」
イサギの辺りで――神化カリブルヌスを倒したときのように――怪物だったものの肉片が赤い煙をあげながら消滅してゆく。
落ちたミストルテインや、ずるりと抜けたカラドボルグを拾おうともせず、イサギはゆっくりと歩き出す。
迷宮の最奥に。
クラウソラスだけを握り締め、まるで奴隷のような姿で。
顔も体も血に濡れ、足を引きずるようにして進む。
「プレハ……」
その名だけが、イサギを支えていた。
その名をつぶやけば、痛みも疲労も喪失感も、今は気にせずにいられた。
その名が今、イサギのすべてであった。
「……プレハ……」
三大迷宮ラタトスクの最終階層<光の道>。
その終着地点に。
――プレハは、いた。
魔晶の輝きが辺りを照らしていた。
そこは聖堂のような雰囲気を漂わせた、小部屋であった。
部屋の中心には、宝石のように紫色の光を放つ魔晶が鎮座していた。
地下迷宮の核魔晶である。
それは美しかった。
この世のものとは思えぬほどに。
まるで女神像のような大きさをした魔晶は、三等級どころの話ではない。
これは『極大魔晶』だ。
イサギが、廉造が、愁が、慶喜が、そしてセルデルが、かつてプレハが、探し、求め、手に入らず、願った、極大魔晶が、そこにあった。
そして、プレハがいた。
「あ、あ」
足を引きずりながら歩くイサギの手から、クラウソラスが滑り落ちた。
心臓の鼓動の音が消え去る。世界のすべてが白く染まってゆく。
見開いた彼の目に映る極大魔晶は、戦い疲れた英雄を迎える聖母のように安らぎ、端然と光を放っていた。
プレハもまた眠るように目を閉じ、自らの胸を抱き、立ちすくんでいる。
金色の髪も、白磁のような肌も、なにもかもが懐かしく、愛おしく。
けれど、けれども――。
「ああああ」
イサギは膝から崩れ落ちた。
極大魔晶はなにも言わず、祈るように佇み、勇者を照らし続ける。
イサギはすべてを理解した。
両手で顔を覆い、彼は神に赦しを乞うように、うめく。
最終階層の最奥<光の道>の終点。
「ああああああああ」
そこには、
極大魔晶がいた。
勇者イサギの魔王譚
Episode10-10『けれど、貴方との未来は手のひらからこぼれ落ちた。』