10-9 遺志継ぐ杖は、君が為、
ついに明日、あたしたちは魔王アンリマンユに挑む。
ここまで、本当にいろんなことがあった。
今夜泊まるのは騎士団の幕営だから、見張りを立てる必要もない。
あたしたち四人は、ゆっくりしてられそう。
でもバリーズドはずっとお酒を飲んで、騒いでた。
なにやってんだか。
ま、ちょっとはわかるけどね?
きっとバカ騒ぎして、不安を見ないようにしているんだと思う。
どうせ、あとは戦うしかないんだから。
覚悟とか、そういうのピンと来ないし。
せめて今だけは、楽しみたいってことかも。
セルは先に休んだみたい。
まあ、賢いよね。やっぱり。
いつでもマイペースで、そういうとこ、頼りになる。
天幕をちょっと覗いたけど、ベッドにイサギの姿はなかった。
あたしは彼を探しに行く。
どうせ、いそうな場所はわかってた。
人混みが苦手なのだ。あたしも、彼も。
イサギは森の中でひとりで火を焚いていた。
どうせナーバスになっているくせに、彼は不安を人に見せようとはしない。
こうして自分ひとりで飲み込んで、あたしたちの前にいるときは笑顔を見せようとする。
でもさー、そういうのって、なーんか気に入らないなー。
信頼されてないみたいでさ。
違うんだろーけど。
イサギって『勇者とはこうあるべき』みたいな美学がちょっとすごいんだよね。
仕返し代わりにイジワルすると、彼は案の定、途端に困ってしまったようで、もごもごと口を動かしていた。
なんだかちょっと、安心する。
イサギは変わらない。旅に出たあの頃のままだ。
最近じゃ全然泣き顔を見せることもなくなっちゃって、いっちょ前の戦士みたいに振る舞っているけれど。
禁術を手に入れてから、なんだかどこか、まるで別人みたいになっちゃうときもあるけど。
でも、大丈夫。
イサギががんばるのも、明日までだから。
遠くから騎士団の人たちのざわめきが聞こえてくる中、あたしとイサギはしばらくそこで、ふたりでいた。
お互いなにも喋らなかったけど、たぶん、同じことを考えていたんだと思う。
差し出された手を握って、ふたりで手を繋いで、途中まで一緒に幕営に帰った。
イサギの手は冷たくて、少しだけ不安になったけど、でも手の皮もすっかり堅くなっていて、なんだか男の子って感じがして、ちょっとドキドキしてしまった。
内緒です。
まだ、浮かれている場合じゃないもんね。
絶対、みんなで一緒に、帰ろうね。
勇者イサギの魔王譚
Episode10-9『遺志継ぐ杖は、君が為、』
◇ ◆ ◇ ◆ ◇
坂道を下るイサギには、幾重にも重なりながら、プレハの声が聞こえていた。
時折壁に映し出されるヴィジョンの他に、文字が流れたりもする。
もしそれがなんらかの罠であったのなら、イサギはたやすく囚われていただろう。
イサギはいちいち立ち止まり、そのすべてに目を奪われていた。
まるで光のように瞬く記憶が、イサギの前を通り過ぎてゆく。
それはかつてイサギがセルデルとの戦いにおいて死の淵に立っていたときに流れていた、暗闇の向こうを走る夜行列車のような走馬燈にも似ていた。
イサギはプレハの記憶に照らされた道を、下って行く。
最終階層の『光の道』とは、プレハの道だった。
しかしそれはとても光とは呼べず。
まるで暗闇のような叫びの渦に、イサギはいた。
◇ ◆ ◇ ◆ ◇
イサギがきえた。
あたしの腕の中で、きえてしまった。
◇
ダイナスシティに帰る途中、バリーズドとセルデルがやけ焦げた町で、孤児を拾っていた。
あたしはずっと馬車の中にいた。
なにもする気がおきない。
◇
ダイナスシティについた。
パレードが起きている。
あたしたちは世界を救った英雄として、讃えられた。
イサギがいないのに。
◇
イサギの国葬が行われることが決定したようだ。
あたしは久しぶりにバリーズドとケンカをした。
彼が悪いわけじゃないのはわかっている。
でも、そんなことは許せない。
イサギはまだ死んだと決まったわけじゃない。
あたしたちの前から消えただけだ。
もし生きているのなら、そのうち姿を現すはず。
きっとそうだ。
大怪我を負って、出てこられないだけだ。
それなのに、葬式だなんて……。
◇
イサギがいなくなってから、半年が経った。
冒険者ギルドのことは、バリーズドに任せきりだ。
正直、申し訳ないって思っています。
でも、なにもする気がおきない。
最近、本当にイサギは死んだのかな、って思うようになってきた。
みんながイサギのことを思い出して、その偉大さを褒め讃える。
まるで故人を忍ぶように。
イサギ、まだ帰ってこないの?
◇
セルがよく王宮に顔を出すようになった。
エディーラから来てくれたのに、やらせることはあたしの泣き言の聞き役だ。
どうしてこうなっちゃったんだろう。
セルはバリーズドと違って、怒らない。
でも、優しいことを言ったりもしない。
淡々と事実だけ、言う。
イサギはもういないんだ、って。
最近、貴族たちが見合い話を持ってきて押し掛けてくる。
鬱陶しい。
あたしは誰とも婚約するつもりは、ありません。
◇
冒険者ギルドが完成した。
バリーズドはあたしをギルドマスターにしたがっていたけど、あたしは首を振った。
新しい制度を守っていくなら、奥さんも子どももいるバリーズドが一番の適任だと思う。
彼になら、色々な人がついていくだろうから。
でも、バリーズドはしつこかった。
きっと、どこかで彼は気づいているんだと思う。
イサギのいないこの世界で、イサギの遺したものを守っていくことを、あたしが無意味だと思っていることに。
アルバリススにはイサギがいない。
冒険者ギルドを作っても、どうしようもない。
あたし、なにをやっているんだろう。
◇ ◆ ◇ ◆ ◇
暗がりの中、イサギを失ったプレハの慟哭が響く。
ずっと知りたいと思い続けてきた、プレハの生き様だったのだが。
正直、見ていて楽しいものではなかった。
胸が苦しくなり、イサギは喘ぐようにその名をつぶやく。
「……プレハ」
彼女は強い人だと想い続けていた。
自分がいなくなったところで、彼女の芯はなにも変わらず、平然と生きているのだと思った。
プレハはもっとしたたかで、瀟洒で、この世界を優雅に渡ってゆくものだと。
たった15才の少女に、イサギは自らの願望を重ね合わせていたのだ。
しかし、どうだろう。
もし自分があの戦いの後にプレハを失っていたら、やはり忘れられなかっただろうか。
……そうかもしれない。
あの三年間はそれほどに濃密な時だった。
お互いに命を預け、ふたりは強固な絆で結ばれていた。
それが突然ひとりになるなんて、考えられない。
だからイサギだって、こんな迷宮の奥深くまで来たのだ。
一本道を下り続けていると、イサギはふと異質な光景を目にした。
アイスクリームをスプーンですくったように、丸く抉り取られた壁面だ。
その表面はツルツルで、特殊な能力によって行なわれたものだと人目でわかった。
それどころではない。
これは――。
「……プレハの、『極大魔法』……」
あらゆるものを消滅させる、彼女を最強の魔法師たらしめた力。
見間違えるはずがない。プレハは確かにここにいたのだ。
イサギはさらにペースを早め、駆け足で下ってゆく。
彼女は近い。
「プレハ……っ」
まるで返事をするように。
独白が聞こえた。
『そしてあたしは……悪魔の囁きを聞いた』
――暗がりにヴィジョンが瞬く。
◇ ◆ ◇ ◆ ◇
戦争が起きた。
目が覚めた気がした。
◇
エディーラ神国とタイアニアの国が、激突した。
バリーズドもセルも、精一杯やってる。
あたしも北へ向かうことにした。
イサギがいなくなってから、二年。
このままじゃいけないって、ずっと思っていた。
なにかをしようとしても、あたしはなにもできなかった。
イサギを目の前で失ったあたしは、ずっと無力感に打ちのめされていた。
けど、もう涙も枯れ果てた。
ずっと踏ん切りがつかなかったけど。
悲しんでいる人がいるなら、助けにいかなくちゃ。
だから、あたしも旅に出るよ。
イサギ、見ててよね。
もしかしたら、なにもできないかもしれないけど。
でも、見過ごすわけにはいかない。
あたしはあたしのやるべきことをやる。
キミに負けないあたしでいたい。
そしてあたしは、悪魔の囁きを聞いた。
◇
エディーラで会ったセルの言葉が耳から離れない。
もう一度、イサギに会えるの?
◇
セルは回復術を復活させようとしている。
彼には彼の思惑があるようだけど。
でも、その研究が進めば、失われた魂をかき集めて、一個の肉体に宿すことができるらしい。
――つまり、死人を生き返らせる術。
回復術の秘奥、蘇生術。
そんなものは、おとぎ話だと思っていた。
セルならできるかもしれない。
◇
そのためには極大魔晶が必要らしい。
だからセルはドワーフを滅ぼして、魔晶を作ろうとしている。
そんなことは……。
ひとりの命はひとりの命だ。
誰かひとりのために、大勢を犠牲にするなんてことは、できない。
わかってる。
そんなの。
セルは言う。
どうせイサギがいなければ滅びていた大陸だ、と。
イサギのために命を使うのがなにが悪い、と。
彼は嘘をついている。
あたしにはわかる。
本気でイサギのことを心配しているわけじゃない。
セルにはセルの目的がある。
でも。
極大魔晶があれば、イサギが生き返るかもしれないなら。
可能性が、そこに存在しているのなら。
もう一度、彼に会えるなら。
彼に触れられるなら。
そんなことが、本当にできるのなら。
あたしは。
あたしは――。
◇
頭が変になりそう。
◇
だめだ。
やっぱり、戦いを止めなくちゃいけない。
極大魔晶なら、あたしが探してくる。
犠牲を出しちゃだめだ。
ここは、イサギが救った世界なんだ。
再び戦火の渦に飲み込まれるわけにはいかない。
あたしがどうにかしていた。
ごめんね、イサギ。
でも、もう思い出したから、大丈夫。
あとのことは、あたしに任せて。
あたしはセルデルを止める。
◇
セルデルの法術も、あたしの前では意味がない。
あたしの極大魔法は、すべてを消滅させる。
北方山脈タイタニアの麓で、あたしとセルデルの戦いが幕を開けた。
旅をしていた最中に、ここまで本気でぶつかり合うことなんてなかった。
しかし、それでも、譲れないものがある。
彼は言葉であたしを惑わそうとする。
あたしの集中を削ぎ、魔術の完成度を下げようとしてくる。
安い挑発だ。イサギはもっと上手にやるよ。
あたしは悲しかった。
彼とこんな風になってしまったことが。
イサギを失ったあたしたちの心がバラバラになってゆくのが、とても悔しかった。
四人はどんな相手にも無敵で、あのアンリマンユをも倒した最強のメンバーだったはずなのに。
あたしは泣きながらセルを追いつめた。
でも、すべてが遅かった。
◇
ドワーフ族を滅ぼしたのは、セルではなかった。
ただの、冒険者たちだった。
◇
滅亡した都市に立ち、呆けるあたし。
辺りには血の臭いが充満して、それはあたしの記憶を呼び覚ます。
魔帝戦争のときに魔族に襲われた村のようだ。
あたしたちはこんな光景を、何度も見てきた。
あたしの隣に立ち、セルは笑う。
これがあたしたちの守った世界の本当の姿だと。
あたしがどんなに駆け回ったところで、世界を救えないのだと。
人間族も魔族も本質は変わらず、結局は己のことしか考えていないものなのだと。
セルは得意げにそんなことを語っていた。
あたしは彼の横っ面をブン殴った。
◇
ダイナスシティに戻ると、バリーズドはとても疲れた顔をしていた。
時代の流れは今、とてもおかしな方向を向いている。
舵を取ったのは、セルかもしれないけれど。
人間族が世界を統一しようともくろんでいるのだ。
これじゃあ、アンリマンユとやっていることは、変わらないじゃない!
冒険者ギルドは、そんなことのためにあるんじゃない。 世界を守るための力じゃないといけないのだ。
バリーズドのためにも、イサギのためにも。
あたしが世界を守ってみせる。
◇
あたしは長い旅に出た。
色々な国を訪れ、ときには極大魔晶を求めて迷宮に立ち寄った。
迷宮は困難が大きく、その仕組みに慣れるまでは苦労した。
けれど、魔世界においてもあたしの魔法の威力は変わらない。
むしろ、パワーアップしているようにも感じた。
あたしの戦法は徐々に迷宮攻略に適応していった。
人間族の次の目標は、シャハラ首長国連合だった。
今度こそ戦いを止めるために先回りしたあたしの元に、彼が現れた。
そして、あたしは目を疑った。
――どうして彼が、クラウソラスを持っているの。
◇
神剣は、勇者の象徴だ。
この世界を救うために与えられる神器だ。
別に、女神教を信じているつもりはないけれど。
あたしはそう教えられて、生きてきた。
カリブルヌスは、バリーズドとセルデルが助けた孤児だ。
明るくて、熱くて、意地っ張りで、負けず嫌いの。
少しだけ、イサギに似ている、少年だった。
ドワーフ攻めで獅子奮迅の活躍をし、人間族のために尽力したとは聞いていたけれど。
その彼が、クラウソラスを持っていた。
クラウソラスは、彼に力を貸していた。
あたしは愕然とした。
どうして。
なんで。
常にイサギとともにあったはずの神剣が。
もう二度と見ることはできないと思ったその輝きが。
クラウソラスはカリブルヌスを選んだのだろうか。
世界は、こんなことを望んでいるのだろうか。
これが人々の意志なのかな。
クラウソラスも、キミを救いたいと思っているの?
もう、わからない。
わからないよ、イサギ。
その数月後、シャハラ首長国連合は滅びた。
あたしにはもう、止められなかった。
あたしは人目を避けるようにして、迷宮に潜り続けた。
◇
極大魔晶があれば、イサギが蘇るかもしれない。
その言葉だけを頼りに、あたしはひたすらに。
迷宮を探しては潜って、迷宮を探しては潜って。
あたしはそれを続けた。
戦っていれば、気分は紛れた。
魔世界化した迷宮の中では、時々キミの幻影と会えることもあった。
いつしかあたしは『迷宮女王』などと呼ばれていたみたいだけど。
すべてはどうでもよかった。
拾った魔晶は、使い道があればと、すべてダイナスシティのバリーズドの元に送った。
ただ、迷宮に入るたびに、あたしの『症状』は加速していったように思える。
それもまあ、今さらだ。
どうでもいいことだ。
◇
セルの回復術の進歩は思わしくないようだ。
独学では限界があるということなのだろう。
彼はついにエルフの里、ミストランドを攻めることにしたようだ。
一向に禁術を表に出さないエルフに業を煮やし、力づくで技術を奪い取る気なのだ。
冒険者ギルドのハウリングポート支部で、あたしはバリーズドから密命をもらった。
今にも戦争が始まるところらしい。
こうしちゃいられない。
ミストランドには、あたしをお姉ちゃんと呼んで慕ってくれたリミノちゃんがいる。
たとえクラウソラスの導きだろうとも、もう関係ない。
あたしは人間族とエルフ族の戦争を止める。
きっとエルフ族だって、イサギを復活させるためだって言ったら、わかってくれる。
戦う必要なんて、ない。
◇ ◆ ◇ ◆ ◇
彼女はエルフ族と冒険者の戦いを止めるために、ミストランドに向かったのだろう。
だが、プレハの最後の願いは、叶わなかった。
なによりも如実に、歴史がそれを証明している。
エルフ族は弾圧され、一部は暗黒大陸へと逃げ延びたが。
そのほとんどは殺され、あるいは奴隷にされて、人間族への従属を強いられているのだ。
もしかしたら、プレハはその光景を目にしただろうか。
そうして……なにもかも、嫌になったのだろうか。
昔のプレハだったら、そんなにも弱いはずはないと断言はできたけれど。
わからない。プレハのあれだけ苦しむ姿を見てしまったのだから。
「……プレハ」
イサギは、震える声でつぶやいた。
彼女は彼女のまま、変わらなかった。
イサギがいなくなっても、それでも立ち上がり、這うようにして前に進んでいたのだ。
極大魔晶を探していたのだって、イサギを蘇らせるためだ。
ということはきっと、このラタトスクに潜ったのだって。
「セルのやつ、そんなこと一言も言ってなかったのにな」
イサギはうめく。
蘇生術なんてものがあるとは疑わしかったが、もしそんな技術を復活させたところで、イサギの魂を再生することはできなかったに違いない。
イサギは死んだわけではなく、20年後の未来に送り込まれただけだったのだから。
今はただ、プレハに会いたかった。
彼女の20年間の苦悩は、とてもじゃないけれど、計り知れないけれど。
でも、きっと喜んでくれるだろう。
再会を喜んでくれるはずだ。
自分がこの世界に召喚されて、約2年。
その間に、様々なことがあった。
しかし、確実に言えることがある。
世界は再び、救われたのだ。
他ならぬ――この世界に召喚された、イサギの手によって。
もはや危機は、どこにもない。
待つのは、輝かしい未来だ。
そうだ。
これより先、様々な種族が手を取り合う、本当の平和がやってくる。
魔王慶喜や、冒険者ギルドの愁、廉造、それにイサギがいれば、もう戦争なんて必要ないのだ。
ずっと、ずっと、望んでいた、アルバリススの平和な姿だ。
その夜明けに、プレハがいないなんて、ありえない。
イサギの剣も、破術も、この力のすべては、プレハのためのものだ。
想いは今も、変わらない。
ただ彼女のために。
そのためだけに。
自分はきっと、そのためにやってきたのだから。
だから。
光の道の終点が近づく。
道は急速に広がり、広間へと繋がってゆく。
この先に、プレハが――。
「――」
気配を感じて、イサギは飛び退いた。
同時に、今まで立っていた場所が激しく撃ち抜かれる。
震動が<光の道>を揺らした。パラパラと天井から埃が舞い落ちてきて、辺りは砂塵に包まれる。
その煙の向こうから、ゆっくりと顔を出すのは――。
赤黒い巨体の、魔物だ。
今まで見たどんな魂人とも違う。
のっぺらぼうの、異形の姿。
それを見た瞬間、なぜだか背筋がゾクッとした。
――強敵だ。
地面を引っ掻いたような足跡や、陥没した床が散見する広間において、魔物はイサギの行く手を塞ぐ。
辺りに刻み込まれているのは、戦いの痕跡だ。
壁のところどころには、プレハの魔法がぶち込まれた形跡もあった。
赤黒く変色している床は、血のあとだろうか。
「……てめえか?」
鋭く睨むイサギの声には応えず、どこかゴーレムのように無機物の雰囲気が漂う魔物は、こちらに向けて拳を固めた。
イサギは状況を把握した。
おそらくプレハは、こいつと交戦し、手傷を負わされたのだ。
そして何らかの理由で奥に閉じ込められ、脱出できずにいる。
あるいはこの化け物がずっと道を塞いでいるからかもしれない。
広間の向こう側からは、不思議な輝きが漏れてきている。
核魔晶か、あるいは魔術によって創り出された光だ。
つまり、あと少しだ。
肉塊の化け物はわずかに態勢を低くした。いつでも飛び込めるように脚に力を込めているのだ。
その姿は、イサギの記憶の中にわずかな痛みを伴って思い出される。
「……お前は」
こいつはただのアンデッドではない。
肉の体を持つ、魂ではない原理で動くもの。つめ込まれたものは神なる力――。
人間の果ての果て。神に手を伸ばした罪人の終着地。
弾丸のように化け物が加速し、突っ込んできた。
速い――。
「神化病患者の行き着く先、か!」
煌気をまとうイサギですら、回避運動を取ることが精一杯だった。
怪物はイサギの横をかすめて、壁に激突した。あまりにも強烈なタックル。その質量と加速度を鑑みれば、正面からぶつかればイサギの体は弾けて四散してしまうかもしれないほどの。
なんだってこんなところにいるのか。
魔晶の力を求めて、どこからかやってきたというのか。
こんな、知能があるかどうかもわからない怪物が?
「――いや、今は、なんだっていい」
神化カリブルヌスと同等の力を持つとすれば、生半可な攻撃は無意味だ。
生命活動を停止させるためには、その魂を、完全消滅させなければならない。
「まったく、もしかしたらこのときのために、戻ってきてくれたのかもしれないな。
いこうぜ、相棒。――もう一度、神斬りさ」
イサギはクラウソラスを引き抜く。
一際に輝くその銀剣を前に、怪物はまるで火を見た獣のように、わずかにたじろいだように見えた。
この先に、プレハがいる――。
イサギは眼帯を外し、真っ赤に染まる左目で化け物を見据えた。
クラウソラスを見せつけるように胸の前に掲げ、慈悲も容赦もなく。
「推し通るぜ」
迷宮最奥の最後の敵もまた両手を打ち鳴らし、声なき声で吠えた。