10-5 己に抗うことを決めた日、
「そう、ついに最後の魔術要塞まで落とされた……んですね」
「ええ……」
特に用事があったわけでもなく、ただ単に自分の住んでいる城の構造を把握しておけば、もしここが攻め込まれたときにも逃げ出す算段がつけやすいのではないかという独善的な理由により、イサギはその光景を偶然目にしていた。
誰にも見咎められることもなく辿り着いたのは、城の外れにある聖堂。
もはや祈るべき神もいないのか、がらんとした広い空間に立つ女神像の下、プレハとひとりの騎士が話し込んでいた。
彼らは、イサギには気づいていない。
「これで残るダイナスシティは丸裸、というわけですね」
「……ですので、早急に」
「ええ、わかっています」
ふたりは深刻な顔で話し込んでいた。
騎士は陽聖騎士団の紋章を身につけている。陽聖騎士団とは、このダイナスシティを守護する最強の騎士団らしい。その一員であることから、かなりの手練であることが察せられた。
自分の相手をしている老騎士などとは格が違うのだろう。
首を突っ込む気はなかったが、イサギは思わず足を止めた。
歴戦の強者のような男と一対一で話し込む毅然としたプレハの姿に、見惚れてしまっていたのかもしれない。
そこでイサギは初めて気づく。
遠くでの囁き声のはずなのに、ずいぶんとハッキリと聞こえてくる。
魔力による五感の強化を、イサギは知らず知らずのうちに体得をしていたのだ。
あるいはそれは、打たれ続けたことによって生存本能が刺激され、無意識の防衛能力の発露だったのかもしれない。
以前から夜目が利いていたのも、そのひとつか。
鍛えればセンサーのように敵を察知することもできるのかもしれないが。……まあ、今は盗み聞きに役立つ程度の能力だ。
ふたりはすぐに話を終える。俯きながらこちらに足を足を進めていた彼女は、「あっ」とふいに顔をあげた。ようやく気づいたのか。
前から思っていたが、プレハにはずいぶんと迂闊なところがある。眠っている最中、自分なんかを間合いに踏み込ませたり。
そんな彼女はなにかをごまかすようにハツラツに笑い、片手をあげた。
「や、やあ少年! きょうも元気にしているかねっ!」
「……」
それへの返礼は、イサギの冷たい視線だった。
陽聖騎士団の男が頭を下げながら横を通りすぎてゆく。
互いに無言で見つめ合うこと、しばし。
「……えっと」
「……」
「……あれ、なんか違った?」
「キャラが違うだろ」
首を傾げて気まずそうに笑うプレハに、イサギは静かに指摘したのだった。
勇者イサギの魔王譚・過去編・下
『Episode10-5 己に抗うことを決めた日、』
◇ ◆ ◇ ◆ ◇
プレハは孤高であった。
王城の誰とも馴れ合わず、常にひとりだった。
昼は姿をくらまし、夜になるとイサギの部屋の前にやってきて、一晩中寝ずの番――時々眠っているようだが――をする。
イサギはやはり、そんなプレハの行動に気づかない振りを続けていた。
腫れ物に触るように騎士に話しかけられるプレハも、夜の年下のくせに姉のように振る舞うプレハも、どちらも理解ができなかったからだ。
得体が知れないのに、慣れ合う真似などできやしない。
プレハはあくまでも職命で自分を監視しているに過ぎないのだと、イサギは思い込むことにする。
真実はともかくとして、それが一番辻褄が合うから。
いつしか、気づけばイサギはプレハのことばかりを考えるようになっていた。
彼がこのアルバリススでまともに接した人間が彼女くらいなものだろうから、仕方のないことではあるのだが。
夜の散歩につき合うプレハは、相変わらず儚くも芯の通った不思議な雰囲気を漂わせている。
後ろ手を組み、体を揺らす彼女の気ままな態度は、高貴な猫を彷彿とさせた。
「いつになったら逃げ出すの?」
「……もうちょいだよ」
「ふーん?」
庭園にて、にやにやと笑う金髪の美少女。
からかわれているような気がするのは、イサギの被害妄想だろうか。
毛布をかけた夜の一件以来、彼女の態度はさらに気安くなった。
こんな世界に自分を呼びつけた張本人だが、そう笑われると嫌な気分ではない。
嫌な気分ではないのが、大問題なのだが。
ストックホルム症候群という言葉を、イサギは聞いたことがあった。
誘拐犯とともに行動することによって、被害者は自らを騙し、誘拐犯に特別な好意を抱くようになる状態のことを指す。
これは生存本能に基づき、脳が自己欺瞞的心理操作を行なうためである。
よって、誰にも起こりうる可能性がある症状だ。
確かにプレハや王族たちに肩入れし、彼らの言うことを進んで聞き入れれば、イサギの心理状態はもう少しマシなものになるかもしれない。
この状況を楽しめるとまではいかないだろうが、自らが『勇者』なのだと、その雰囲気に浸ることができるだろう。
しかし、イサギは自分自身を騙しきることができなかった。
この状況はどう考えても拉致監禁であり、その首謀者と実行犯の下でのうのうと生きてゆくことなど、イサギには無理だ。
両親が亡くなった途端に次々とイサギを厄介者扱いし始めた親戚たちの間をたらい回しにされて、もはや疑わずに生きてはゆけない。
心から自分の才能を信じて、そうしてアルバリススを救おうと決意をできたならば、どれほど楽だろう。
横に座るプレハがいったいなにを考えているのか、その言葉を聞けたのなら、気持ちは軽くなるのだろうか。
自分が意地を張っているのだということは、わかっていた。
だが、どうして、なぜ、何に意地を張っているのか、それがわからない。
イサギには己がわからなかった。
乾いた夜の風がふたりの間を吹く。
髪を押さえて目を細めながら夜空を見上げるプレハを横目に見て、イサギは頬をかく。
「……俺が本当に勇者だと思うのか?」
幾度となく問いかけたその言葉に、やはりプレハは自信に満ちた顔で胸に手を当てる。
「あたしの召喚術を疑っているわけ?」
声に出さずつぶやく。当たり前だ。だって自分だから。
その顔を見たプレハもまた、不満そうに眉根を寄せる。
「なんだろうが、キミは選ばれたんだよ?
あたしたちの求める条件において、キミ以上の資格者はいなかったんだから。
大前提に噛みついても仕方ないんじゃない?」
「身勝手な言い分だよな」
相変わらず唾棄するようにして、イサギは取り合わない。
プレハは風の音に紛れそうな声でつぶやいた。
「そんなの知っているし」
距離が近くなるということは、心を開くということだ。
それがほんの少しの瞬間であっても、プレハは不機嫌そうな顔を見せた。初めてみる、それはプレハの生の感情であった。
あれほど願って、欲したその表情を垣間見ても、今はイサギの心には何の感慨も浮かばない。
不満そうなその態度すらも、義憤を抱えて権力に挑む聖者のように、凛々しい顔つきだったからかもしれない。
なにもかも美しいのか。反則だ。
イサギは泥のように吐き捨てる。
「だが、俺が選んだわけじゃない」
結局はそれだ。
望んで今の状況にいるわけではない以上、イサギは他人の言葉で納得などできやしないのだ。
自分の心に決着をつけるのは、自分の意志でしかない。
それをしようとしない以上、イサギの立ち位置はいつまでも変わらない。
だからきっと、彼女の言葉も、イサギには届かない。
「……あたしだって、選んでここにいるわけじゃないけどね?」
月明かりよりもかすかに光るプレハの瞳の中に浮かんだ感情の正体は、やはりイサギにはわからなかった。
◇ ◆ ◇ ◆ ◇
「神剣クラウソラスだ」
陽聖騎士団の男が持ち出してきた剣を差し出され、イサギはおそるおそるそれを受け取った。
相変わらず、羽のように軽い。けれども、抜けば絶妙な重心が剣の中に生まれ、振り回すことに苦労はしなかった。
この日、プレハは修練場に姿を見せなかった。代わりにいつか見た屈強な騎士がイサギの指導役として、神剣を持って現れたのだ。
恐らくは、あまりにもイサギの訓練に進展が見られないから、この辺りでブレイクスルーを期待してのことであろう。
白銀に輝く剣を手にするイサギの姿は、まあそれなりに見られるものだった。
訓練につき合ってくれていた老騎士などは、「なんと立派な……」と感動のあまり目が潤んでいたりもする。悪い人たちではないのだ。
「……あらゆるものを切り裂く、ねえ」
そんなものを人に向けることに、非常に抵抗があったが。
どっちみち、今まで一度だってイサギの剣が老騎士にヒットしたことはなかったのだ。もう諦めている。
ならば、構うまい。イサギはいつものように見よう見まねで構えを取った。
「おお、勇者様が、神剣を構えて……」
「まさに伝説の通り……」
むずがゆい。頬が熱くなる。
どんなに強い武器を持ったところで、当たらないのなら意味などないのに。
「いいから、さっさといくからな」
きょうもただ打たれ、転がされる時間の始まりだ。
痛みには多少慣れた。思い切りがよくなったのも、恐怖心を克服しつつあるからかもしれない。
あるいは、目標ができたからだろうか。
この老騎士をぶちのめし、プレハを見返してやる、というそんな目標が。
「らぁ――!」
技量を補うため、恐怖を紛らわすため、自らに活を入れる。イサギは大きく踏み出した。
すぐに気づく。いつもとなにかが違う。
それは無論、得物の軽さであったり、相対する老騎士の気迫であったりするのだが、それだけではない。
イサギはクラウソラスを横薙ぎに振るう。剣は縦に構えを取った老騎士の木剣をたやすく切り飛ばす。
あわや彼の首をはねそうになり、イサギは慌てて刃を止めた。じわりと老人の枯れ木のような首に、わずかな血がにじんだ。
初めてのことだった。
老騎士が受けに回ったのも、イサギの攻撃が当たったのも、人を殺してしまいそうになったことも。
そして、
「お見事です、勇者さま」
この世界に来て、誰かに褒めてもらえたのも。
ひざまずいた老騎士は顔をあげ、にやりと笑った。
結局――。
老騎士を上回ったのは、その最初の一度だけだった。
クラウソラスを振り回しながらも、相変わらず叩きのめされるばかり。
馬子にも衣装とはこのことかと、イサギは思った。
しかし、あの一度の手応えをイサギは何度も何度も思い出す。
初めて誰かを屈服させ、自らの力を誇示することができた、あの会心の一撃を。
羨望と畏れ。それらが入り交じる視線はたまらなく心地よく、イサギは今まで味わったことのないような歓心を覚えてしまった。
もし本当に自分が勇者であり、剣を振るう限りこの味を堪能し続けられるのなら、と考えてしまうほどに、それは美味であった。
今までずっと虐げられ、地をはいずり回ってきたイサギが感じた手応えは、中学二年生の男子の承認欲求を、かつてないほどに満たしてくれたのだ。
それは自分がまさしく物語の中の英雄になったのだと錯覚させるほどの鮮烈なる生の体験である。
その気があれば、今頃あの老騎士の命はなかった。
こんな自分が、人を斬り殺しそうになっていたのだから、お笑い草だ。
ほんのわずかだが『報われた』と、イサギは思った。
勝利の余韻に浸りながら自室へと戻るイサギの手に、神剣クラウソラスはない。厳重に管理されているようで、あの騎士に没収されてしまったのだ。
しかし、一矢報いたイサギの心は晴れやかだった。
イサギは力を誇示したのだ。
だから、もうこれ以上この城にとどまり、くだらない訓練を続ける必要はない。
イサギはついに城から抜け出す決心をした。
行く宛はないが、まあなんとかなるだろう。
高揚感に浮かび上がりそうな足取りで、イサギは行く先を変え、プレハを探すことにした。
これが最後だから、せめて一声をかけていこう。
もしできるのなら、説得でもして。
別段、死ぬほどのことではないだろうと言って。
それでもし良ければ、一緒に抜け出しても構わないだろう。
イサギが彼女を見つけることができたのは、その卓抜した五感のおかげか、あるいは単なる偶然だったのかはわからない。
以前見た聖堂に、プレハはいた。
金髪の美少女の前には、痩せこけた貴族の男が立っている。
穏やかな雰囲気では、ない。
一体なんだろう。
柱の陰から中を覗いて、イサギは驚いた。
そこには片腕のない兵士の、凄惨な姿もあったから。
ひざまずいた彼は、今にも死んでしまいそうな形相で、顔を伏せている。
プレハと貴族と隻腕の兵士。奇妙な取り合わせに、イサギは息を潜めた。
動機は、単純な好奇心だ。唇を噛むプレハの姿は、今までに見たどんな彼女の姿とも異なっていて、新鮮だった。
だから物陰に隠れて様子をうかがったのも、プレハのまた新たな一面が見えるのなら、と思う浅ましい気持ちによものだった。
この距離では多少の物音を立てたところで、プレハたちが自分に気づくことは、ありえない。
魔法師である彼女の感知範囲は、常人とほぼ変わらないようだ。
果たしてプレハは、どんな言葉で、どんな高貴な手段でこの場を切り抜けるのか。
その快刀乱麻を絶つような、小気味の良い姿を見せてほしいとイサギは思う。
――だが。
イサギはこの日、ここで見たことを、一生忘れることはないだろう。
数日に渡りプレハと言葉を交わし、彼女の本性をわからないなりに接してきた。
イサギの中で、プレハという少女のイメージを積み重ねてきた。
嘘をつけず、高潔で、高貴にして、華麗。年下とは思えないほどにしっかりとしていて、どんなことにも揺るがない。
その容姿は儚げながら、暗闇の中においても輝く月のような美少女。
アルバリススにおいて並び立つもののいない魔法の使い手。極大魔法師の名を持つもの。
それがプレハだ。
それがプレハのはずだった。
これより、この世界に召還されたイサギは、知ることになる。
今まで、ここまで、どうして、自分の周りにつきまとっていたのか、彼女のその想いの一端を。
イサギの物語は、ここから始まる。
プレハとともに。
イサギは歩き出すことになる。
プレハとともに。
イサギは己の弱さに抗うことになる。
――すべては、プレハとともに。
会話の流れはわからなかったが、イサギが覗いたとき、プレハはひどく責められていた。
もう少しプレハと親密な関係を築いていたならば、居たたまれなくなって場を離れていたかもしれない。
しかしイサギはそれ以上にプレハのことを少しでも知りたいと思っていたから、この続きを目撃することになんの躊躇もなかった。
貴族の男は声を張る。
「おまえは、自分の身が惜しいからそんなことを言っているのだろう!」
「……違います」
絞り出すような少女の声を、男は頭ごなしに叱りつける。
「勇者を今すぐ西の街へ送れ!
そこで魔族の軍勢を食い止めなければ、このダイナスシティは滅びるぞ!」
「それはまだ無理だと……」
「黙れ!」
平手の音がした。
まるで手加減のない一発に、思わずイサギは身を竦めた。
プレハの体はたやすく揺らぐ。
彼女はまだ小柄な、12才の少女なのだ。
だが、むしろプレハは冷ややかな目で貴族の男を見上げている。
手をあげた男のほうが、今にも崩れ落ちそうな顔であった。
「お前たちがここでグズグズしている間に、領内は蹂躙されている……!
兵が、民が、我が友が……! 魔族に、それを、黙ってみていろと言うのか!」
貴族の言葉は、涙混じりの声だった。
悲痛で、もうひとりでは抱えられないほどに苦しく、張り裂けそうな魂の叫びだった。
「力あるものが、その力を振るわずに! こんな王都に閉じこもり!
それで一体なにが勇者だ! なにが『極大魔法師』だ!
ふざけるな! こうしている間にも、死人が出ているのだぞ!
見ろ、この男を! 私をここまで精一杯逃がしてくれた我が兵を!」
「……っ」
プレハは拳を握り、俯いていた。金色の前髪に覆われて、彼女の表情は見えない。
正論の矢に撃ち貫かれたプレハは、一言も発せずにいた。
「片腕を失い、それでもなお馬車を走らせ、危機を知らせるために、私をここまで……!
私たちは妻も、息子も、見捨てて、ここまで……!」
ひざまずいた兵のきつく閉じた瞳から無念の涙が流れるのを、イサギは見た。
異様な光景であった。
「おまえが前線出ていれば! 誰も、死なずに、済んだかもしれないのに……!
目の前の人を救えずに、なにが、なにが、勇者だ!」
プレハは極大魔法師である。恐らくはこの国一番の使い手だろう。
だからきっとなんでもできるのだと、イサギも思っていた。
大の大人がふたりがかりで、少女にすがりついて。
それすらも、力あるものの宿命であると、イサギはこの時まではそう思っていたのだ。
いたのに。
「……すみません」
プレハは抗弁ひとつせずに、頭を下げた。
男の言葉を全面的に認めるかのように、白旗をあげていた。
事情もなにひとつ話さず、彼らの無念を受け止めていた。
あのプレハがだ。
だが、プレハの態度は男の怒りに火をつけてしまった。
「お前が謝罪して、失った命が戻ってくるのか!?
それで助かったはずの命が、報われるというのか!
謝るよりも義務を果たせ! 今すぐに都市を守りに来い!」
「……」
なんて勝手なことを言う貴族だ、とイサギは思いながら、目を逸らすことができなかった。
彼は領地を守り切れなかった男だ。
仲間を助けられなかった弱い男だ。
だから強いプレハにすがりついている。
プレハならできるだろうから。
プレハは彼になにを言うだろうか。
いつものように毅然と彼を突き放し、颯爽と身を翻すのか。
見てみたかった。そんな強いプレハが。
自分にはできないことを、できるプレハを。
だが――。
折れるほどに歯を食いしばり、正気を失うほどに嘆き悲しむ男の前、プレハは地べたに座り、静かに頭を下げた。
それはイサギが知っている土下座と呼ばれるものに非常に近い、謝罪の意を表す態度であった。
あのプレハが床に額をこすりつけるようにして、深謝しているのだ。
美しい金色の髪が汚れるのも構わず、彼女がそんな態度を取ったことに、イサギはひどくショックを受けた。
「……本当に、ごめんなさい」
イサギは驚く。
なぜそんなことを。
言えばいいではないか。
人族最後の砦であるこのダイナスシティを守るために、プレハがいるのだと。
ここが落とされてしまえば、世界が滅ぶから、だから、と。
自分はそのためにいるのだと。
突き放せばいいのに。
プレハはそうはしなかった。
ただ真っ向から彼の瞳を見据え、震えながら、首を振っていた。
あのプレハが。
しかしというか、やはりというか、平謝りなどでは男の想いは静まらなかった。
「勇者が、来たのだろう……!
まだ子供だと聞いているが、奥の手の、極大魔晶を使用して、呼び寄せたのだ、本物だろう……!
やつを、おまえとふたりで、我が領地に来れば、あるいはそれで、今からでも魔族を……!」
イサギは胸に痛みを感じて、顔を引きつらせた。
そうだ、彼の無念も、他人事ではないのだ。
自分はこの世界を救うために、やってきたのだから。
唇を噛むプレハは、床に両膝をついたまま、そこで初めてキッパリと意志を示した。
「それは、できません」
その言葉は当然、男を激昂させてしまう。
男は怒りに身を任せたまま、プレハの横顔を靴のつま先で蹴り飛ばした。
「貴様!」
「……っ、……彼はまだ、あたしと前線に出られるほど、強くはありません」
唇が切れて、プレハの端正な顔に傷がつく。
だが、プレハの態度はなにひとつ変わらない。
「……なん、だと! 勇者、だろう!?」
「ええ。ですが、彼はまだ成長途中です。
せめてあと一ヶ月……いや、一週間、お待ちいただかなければ」
「一週間! それだけあれば、我が領地が灰になる!
かろうじて生き延びたものとて、皆、焼き討ちされるぞ!」
「……ですが、不可能です。
あと一週間、お待ちいただけなければ、意味がありません。
ごめんなさい……ごめんなさい」
まるで土下座のように、何度も頭を下げるプレハ。
一体これはなんだろう。
なぜ彼女は、あんなことをしているのだろう。
イサギは部屋で繰り広げられるその壮絶な光景を、まるでガラス越しに眺めているような気分だった。
だって、彼女は言っていたではないか。
逃げたければ、逃げればいい、と。
そうしたければそうすれば、と。
イサギにいる前にいる彼女は、飄々として、笑っていて。
「それで、いつここを逃げ出すの?」だなんて言って。
あんな風に、貴族に責められて、心の底から辛そうに、悔しそうに、顔を歪ませて。
それでも真剣に向き合い、逃げ出さず、人たちの命を思いやる少女ではなかっただろう。
もっと、自由で、優雅で、正直に生きているのではないか。
「何度も申し上げたとおり、です。
あたしの魔術、魔法は強力無比ですが、たったひとりではその時間を稼げません。
連発すればすぐに魔力枯渇を引き起こし、一度の抵抗を残しただけで、この国は滅びます。
犬死にです。ですから、そのための、勇者さまなんです。必要なんです、彼が」
「ならばすぐに洗脳でもして、とっとと前線に送れば良いだろう!」
「……」
「な、なんだというんだ! その目は!
この国の民がどうなってもいいというのか!」
プレハはゾッとするような目つきを床に這わせると、小さく口走る。
「……でも、そんなこと、卑怯でしょ」
「なんだと!?」
「それが望みなら、最初からそう命令すれば良かっただけじゃない。
意思を持たぬ神剣を操れる傀儡を召喚しろ、って。
言われたんだったら、あたしだって従っていました、けど」
聞きとがめられ、恫喝されたとして、プレハの言葉は止まらなかった。
「教育係を任せられたのは、あたしよ。
戦うための石偶兵を作れだなんて言われた覚えは、ないもの。
彼が本当に『勇者』ならば、あたしたちを救ってくれるはず、だよ。
あたしはそう、信じているもの」
他の世界からやってきた自分に、どうしてそんなことが言えるのか。
イサギはそれがプレハのでまかせだと断じる。
現に自分は、今だって、逃げ出すことしか考えていないのに。
「――!」
もはや理性のタガも失い、うなだれた兵の前でプレハを口汚く罵るだけの貴族を見上げ、プレハはその宝石のような瞳に涙を浮かべながらも。
凛然と、ただ凛然と、ひざまずいたまま胸に手を当て、告げる。
「あたしが彼に『召喚時』に望んだ条件は3つ。
それは絶対に覆らないよ。皆は、あたしの召喚術に願いを託した。
ならあたしだって、彼に命を預けるよ。
それが王に拾われ、今日まで生き延びてきた、この『極大魔法師』プレハの意地だもの。
彼が真の勇者であることを、あたしは一度だって疑ったことはない!」
なぜ。
そこまで言い切ることができるのか。
こんな物陰に隠れている、臆病者の少年をどうして信じることができるのは。
イサギはプレハの言葉を思い出す。
『きょうからその、キミの戦闘適正を見るからさ。
一応『神剣使い』と『魔力膨大』の、ダブルスキルでの召喚術だったから、
そこまで適正が低いってわけじゃないと思うけど』
彼女はそう言っていた。ならば条件は2つのはずだ。
イサギがイサギであることの理由など、ないと言っていたのに。
また嘘を付いていたのか、あるいは本当のことを告げなかっただけなのか。
それはどうして――。
「……一体、なんだというのですか? その、条件は。
勇者になれる条件が、あるのなら……」
今まで黙っていた兵が、恐れを抱いた声で尋ねた。
彼もまた、勇者にはなれなかった男だ。
救いを求めるようなその言葉に、プレハは口を開く。
声を潜め、秘匿を暴くように。
だがそれすらも、イサギの研ぎ澄まされた聴覚は拾い上げた。
「どんなに偉大な武器を使えたところで、どんなに強力な魔力を所持していたところで、それがなければ、歴史に名を刻む『英雄』でしかない。
彼こそが、彼にしかない、勇者であるために、必要な条件……」
「だから、なんだというのだ!」
イサギの心の声を反映したかのように叫ぶ貴族。
壁により掛かるイサギの手のひらに、汗がにじむ。
もしそんなものが、本当にあるとしたら。
一体プレハは、プレハは、自分に何を望み、何を望んだからこそ、この世界に自分を呼び出したのか。
それがついに聞ける。
凡百の中に埋もれるのはなく、イサギがイサギだからこそここに呼び出された、その唯一の絶対的なる理由があるのだとしたら。
本当の、力があるのだとしたら。
こんなにも傷めつけられずに、済んでいただろうに。
理由があろうがなかろうが、わざと教えられなかったことに苛立ちを感じながらも、イサギは息を止めた。
緊張に口の中が乾く。
まるで告白の返事を待つような気持ちで、イサギは耳を澄まし。
そして、それは――。
「『勇気』、だよ」
陶器を指で弾いたような音色で告げるプレハの言葉に、イサギは耳を疑った。
バカな。
一体なにを言っているのか。
「あたしが望む条件を満たしていた人は、いくつもの多次元を越えて、何億、何兆の可能性の先に、彼しか――『浅浦いさぎ』しか、ありえなかった」
なんて、つまらない冗談なんだ。
イサギは根も葉もない噂を聞かされているような気分だった。
そんなものが、あるはずがない。
「長い時間をかけて、ようやく探し当てたのよ。
それなのに、洗脳だとか、命令だとか、できるはずがない。
彼は誇り高く、そして、強い人だよ」
違う。
そんなはずがない。
どこの、誰の話をしているのだ、プレハは。
「あたしは極大魔晶の力を通して、異世界の彼を、見たよ。
彼は死んだ両親を汚され、彼らのために怒り、悲しんでいたよ。
己の無力を嘆き、もっと力があるならと、いつだって世界の暗闇から目を逸らさずに、現実を受け止めて、戦っていたの」
違う。
勝手な解釈だ。
もし彼女が本当に地球でのイサギを観察していたとしても、それは自分の表層を見て、理解した気になっているだけだ。
自分はそんな大層な人間ではない。
プレハの言っていることは、的外れだ。
「彼は決してあたしたちを見捨てないよ。
こんな世界に連れて来られて、帰るすべもなく、それでも彼はきっとあたしたちのために戦ってくれるから。
きっと、立ち上がってくれるって、あたしは彼を信じている。
彼は気高い人だから」
ありえない。
自分はただの中学二年生の、臆病で、卑小で、下らない男だ。
何億、何兆から選ばれたなど、嘘だ。
「彼の持つ勇気は、決して弱い人を見捨てたりしない。悲しみや、苦しみや、憎しみや、悪意のその先を越えて、魔族を倒し、この世界に恒久な平和をもたらす光だよ。
そんな人に、『戦え』だなんて、言えるはずがないもの。
彼自身が立ち上がるその日まで、あたしたちは願うことしかできないんだ。
この世界を救ってください、って、それだけだよ」
イサギは「もうやめてくれ」と願う。
これ以上期待されたところで、イサギにできることはなにもない。
無理なのだ。
イサギはもう現実の前に、とうに敗北を認めていたのだ。
だが、プレハの言葉は降り積もる雪のように、止まない。
それはまるで、地上の景色を覆い尽くすように、真っ白な言葉だった。
「だから、他の誰が彼にその重圧を押し付けたとしても、あたしだけは責任を取るの。
彼ひとりに命を賭けさせたりはしない。
彼が戦うと決めたなら、あたしはどこまでもついていくよ。
どんなことだって、するよ。
召喚を命じられたそのときから、あたしはそう決めていたの。
あたしは勇者の下僕『極大魔法師』。そのために生まれたんだ」
イサギの心に、もはや言葉が浮かぶことはなかった。
何度も、何度も、プレハの声が己の心臓を叩く。
圧迫感に苛まれ、耳鳴りを覚えた。
血流が加速し、イサギは自らの顔を手で押さえる。
貴族の男の唇は、震えていた。
プレハの覚悟に気圧されながら、それでもなにかを言わなければと思い、意味のない抗弁が彼の口から吐いて出た。
「も、もしやつが偽物で、すべてがおまえの思い違いで……!
そして、魔族の侵攻を防げなかったそのときは、ど、どうするのだ!
なにか、打つ手は……」
「死ねばいいよ」
いともたやすく、挨拶をするかのように気楽な口調で、プレハは言った。
滅びの言葉を、微笑すら浮かべながら、彼女は口にする。
「あたしたち人間族が滅べばいいだけだよ。
彼ひとりを犠牲に、巻き添えにして、自分たちだけが生き長らえようとして、それでもできなかったのなら、そのときはあたしたちは死ぬしかないよ。
そんな都合の良いことを吐いても助けられなかったなら、それでいいのよ。
そうすることしかできやしないでしょう? 当然の報いだよ。
きっと女神様があたしたちの滅亡を望んでいるのだから」
「なっ……。
世界の運命と、異世界人ひとりの命を、天秤にかけるというのか!?」
もはやその場に倒れ込んでしまいそうな貴族に、プレハは。
当然とばかりに、断言した。
「そうだよ」
再び、平手の音が鳴った。
いつまで、そうしていただろうか。
イサギは壁によりかかりながら、その場にしゃがみ込んでいた。
今にも叫び出してしまいそうな気持ちだった。
意味のある言葉はなにひとつ、浮かんではこない。
召喚術というものがイサギの中に『勇気』を見出したとして。
今の彼の心に、そんなものは一欠片も残ってはいなかった。
期待と重圧に、ただ打ちのめされていただけだった。
貴族の男と兵がいつの間にか出て行っていたのかも、しばらく気づかなかった。
一枚の壁を隔てて、イサギとプレハ。
ふたりは同じようにうずくまり、同じように顔を押さえていた。
そして、同じように、涙をこらえている。
胸の中に荒れ狂う感情を持て余しながら。
ひとりは黙し、そしてひとりは口を開く。
「……」
それは、治癒法術を詠出する際に、彼女が唱えるマジックワードであった。
あの男につけられた傷を、自ら癒しているのだ。
「……痛いなあ、もう」
プレハの小さな小さなつぶやき声。
涙混じりの、弱くて、幼い、12才の、感情の吐露だ。
「……」
ため息。
それは諦観であり、失意であり、あるいは自虐であり、己に対する軽蔑の意味すらも含まれていた。
今にも爆発してしまいそうな心を抱えたまま、イサギは目を瞑る。
爪が食い込むほどに握られた拳は、力を緩めた途端になにかが失われてしまいそうだった。
「……そりゃ、死にたくなんて、ないけどさ」
肩越しに彼女の姿を見やる。
足を崩し、聖堂にたったひとりで座る少女は、色彩豊かに光を放つステンドグラスを見上げ、力なく笑みを浮かべていた。
「だから、って、逃げるわけには、いかないよ。
あたしに、勇気なんて、ないけど、でも。
……逃げたら、もっと、辛いもん」
自らの弱さを自嘲するような、プレハの囁き声。
それらすべてが、まごうことなく、プレハの本心だとしても。
飽和したイサギの心にようやく浮かんだのは、暗い光であった。
下らない、とイサギは思った。
顔も知らぬ、名も知らぬ人々のために、命を賭けられるはずがない。
プレハだって『命は大切なものだ』と言ったではないか。
なにが勇者だ。なにが勇気だ。
下らない。本当に。
そんなもの。
なのに。
どうしてこんなに。
胸が痛いのか。
どうしてこんなに。
全身が熱く。
魂が、うずくのか。
流れる涙を止められず。
イサギは歯を食いしばり、立ち上がる。
だから。
プレハは手を組み、ひざまずき、女神像の前、まるで巫女がそうするように祈り、つぶやく。
「――勇者さま、この世界をお救いください」
初めて会ったときに告げられた少女の願いを今再び、少年は聞いた。
――その瞬間。
マグマのような感情は決壊し、イサギは走り出した。
◇ ◆ ◇ ◆ ◇
夕刻を過ぎて日の落ちた修練場は暗く、誰の姿もなかった。
イサギはその中で木剣を手に、がむしゃらに振り回していた。
「――!」
声にならない叫びがノドの奥から出る。
体中から汗が吹き出て、体力の限界に脳が悲鳴を上げたところで、やめる気はなかった。
今はなによりも徹底的に、自分を傷めつけたかった。
『勇者』の称号など、おこがましい。
世界を救うなんて、まっぴらだ。
こんなところに突然呼び出されて。
身勝手な言い分には腹が立って仕方ない。
おまけに命まで狙われて。
冗談じゃない。誰も望んでなんかいない。
心の叫びを雄叫びと化して吐き出し、イサギは剣を振るう。
本当に、いい迷惑だ。
「ああああああ!」
剣の先には、己がいた。
昨日までの、いや、つい先ほどまでの自分がヘラヘラと笑い、あるいは泣き、地面を転がされ、無様に弱音を吐いている。
その幻影をめった打ちにするように、イサギは剣を振るった。
卑怯で、勇気がなく、臆病で、矮小な自分が、
気高く、才能を持ち、強くて、美しい彼女にできることなどなにもない。
そう思っていた。
頑なにそう、信じていたかった。
今の自分は無力だ。
騎士ひとりにだって、勝てやしない。
無力なままでいることは、とても心地良いことだ。
誰かに守られて、守ってくれる人を怒鳴りつけて、それだけで済む。
まるで泣き声をあげる赤子だ。
プレハに食って掛かったあの貴族のように、当たり散らせばいいのだ。
見ていたようにやればいい。
昨日までの自分のように、弱さを振りかざせばいい。
ひどく格好悪く、無様で、それでも生きていける。
命がもっとも大事なら、そうすればいい。
それが最も、怠惰で、自堕落で、確実だ。
ああ。
――冗談じゃない。
「ちくしょう、ちくしょう……ちくしょう!」
イサギは己の弱さに、楔を打ち込む。
プレハの強さに甘え、12才の少女にすがって生きてゆく?
ふざけるな。
ふざけるなよ。
今の自分がどんなに弱くたって。
そんな真似はもう二度としない。
変わるんだ。
きょうこの日、ここから。
変わるのだ。
もう二度と、「できるわけがない」なんて、言わない。
「勝てるわけがない」なんて絶対に言わない。
期待に応えたい。
彼女が信じてくれるのなら、立ち向かわなければならない。
偽物だっていい。
『勇気』なんてなくたって、構わない。
あの少女の涙を止めるために。
あの少女に笑ってもらうために。
逃げたりしない。
強くなろう。
格好良くなるんだ。
プレハを守れるように。
彼女が頼れる男になるために。
あの子がもう誰にも責められないように。
誰から殴られることもないように。
誰からも汚されず、ただ笑っていられるように。
心から、安らいでいられるように。
他の誰が死んでも構わない。
ただ彼女のために。
そのためだけに。
自分はきっと、そのためにやってきたのだ。
『――勇者さま、この世界をお救いください』
それが彼女の心からの願いならば。
イサギはきょう、この日、ここから、それを叶えてみせるのだ
「あああああああああああああああああ!」
イサギは吠える。
修練場の窓から差し込む月明かりの下、ひとりの少年が今、勇者へと変わってゆくその姿を空に輝く月だけが、見ていた。
そして6日後。
物語が、始まる――。
◇ ◆ ◇ ◆ ◇
厚手の外套に身を包んだ少年は、背負った袋の重さに眉根を寄せる。
まだ訓練の疲れは取れていない矢先の出発は、ひどく慌ただしいものだった。
「馬車のひとつもないものか」
「大通りなんて歩いていたら、すぐに見つかって、取り囲まれちゃうよ?」
「本当にふたりで行くとか、正気の沙汰じゃないよな……。
この背負い袋の中身、全部必要なのか? 少しぐらい置いてったって」
「もう、つべこべ言わないの。
いつどこから敵が襲ってくるかわからないんだからね、気を緩めない」
「はいはい、わかってますって。がんばって周囲を警戒するよ」
「……なんだか、最近急に素直になったよねー?」
「自分にできることはやろうと決めただけだよ。そんなに気持ち悪いか?」
「失礼を承知で申し上げるのならば、きもちわるい」
「承知なら申し上げんなよ」
鼻の頭をかく少年の腰には、白銀の剣があった。
ひとつのナップザックと一本の剣を手に、少年は広々とした路を征く。
その後ろに付き従う少女は、先端に魔晶の取りつけられた杖を持ち、したり顔で指を立てた。
「さ、まずは西の街に向かいましょ。
そこではかろうじて生き残った人たちが、傭兵王と呼ばれる人の下で、レジスタンスを結成しているらしいから。
あたしたちも手助けに行かなくっちゃ」
「あいよ」
気安く返事をした少年と少女は、しばらく無言で足を進める。
王都を離れ、決して安全を約束されたわけではない土地を行くことに、ふたりとも少し緊張しているのだ。
そんなとき、少女は小さく問いかけてきた。
「ねえ、キミさ」
「ん」
「逃げなかったよね、結局」
「逃げなかったな」
少年は憮然とした表情のまま、変わりない。
それはあるいは精一杯『格好つけて』いるのかもしれないが、少女は気づかないだろう。
「どうして?」
「そりゃお前、決まってんだろ」
真顔を作る少年の胸の鼓動は、少女には伝わらない。
彼がどれほどの決意を持って、外の世界に旅立ったのかも。
だから少年は恐らく、一生口にすることはないだろう。
少女が少年の前、自らを取り繕い、決して弱みを見せず、いつでも微笑を浮かべ、ためらいひとつなく人を殺す最強の『極大魔法師』を演じるというのなら。
少年だって当然のように、こう告げるべきだから。
「俺は『勇者』なんだから、さ。
苦しんでいるやつらを、見捨てられるわけがない」
勇者の仮面をかぶり、歩き出す彼の胸中を知るのは彼だけでいい。
それが彼の決意なのだから。
その真剣な横顔を見つめて、惚けたように立ち止まる少女に気づき、少年もまた足を止めた。
そっぽを向き、わずかに耳を赤くしながら、少年はぶっきらぼうにつぶやく。
「だから、行こう。
――プレハ」
初めて告げたその名に。
彼女は驚き、目を丸くし、そしてすぐに微笑む。
金色の髪の乙女は、彼の手を取り、とても嬉しそうに、こう、答えた。
「はい。勇者さま!」
◇ ◆ ◇ ◆ ◇
それから24年後――。
地下迷宮『ラタトスク』へと、ひとりの男が挑む。