10-4 手に一枚の愛を握り締め、
翌日からも訓練は続き、イサギは地面を転がされ続けた。
『闘気』などというものの使い方もわからず、だからこそ身体能力も低い中学二年生の少年が、騎士としての修行を積んだ人の相手になるはずもない。
巻藁の代わりかと思われるほどの、めった打ちである。
そこまでされて筋や骨にまるで損傷がないのだから、これはもはや凄まじい腕前の差だと言うより他ない。
人間とは、本当に丈夫なものだ。
イサギは他人ごとのように思う。
肉体が傷めつけられ、長く苦しい昼が終わった。
当然のように、収穫などはなにもないが。
そして、きょうも夜が来る。
心が傷めつけられ、長く苦しい、夜が来る。
勇者イサギの魔王譚・過去編・中
『Episode:10-4 手に一枚の愛を握り締め、』
◇ ◆ ◇ ◆ ◇
イサギはたったひとり部屋に閉じこもっていた。
身辺警護を申し出られたものの、それらもすべて断っていた。
誰が信頼できて、誰が信頼できないのかなど、判別する術はないのだから。
イサギのできることは、ベッドの上で膝を抱き、がたがたと震えるだけだ。
目をつむれば、今にも暗闇から暗殺者が襲いかかってきそうで。
イサギは夜に取り殺されそうだった。
眠れない。
眠れない。
疲れていて、体も痛むのに、眠れない。
惨めだし、格好悪いし、そんな自分がひどく無様だった。
薄暗闇が恐ろしく、外を吹く風の音が恐ろしい。
葉ずれの音が、どこかで揺らぐ松明の火が、虫の鳴き声が恐ろしい。
「……異世界って、辛いんだな……」
窓の外には、月が浮かんでいた。
それを見上げると、少しだけ安心するのは、やはり地球が恋しいのかもしれない。
立ち上がり、窓に近づくが、イサギの部屋の窓は開かない作りになっているようだ。
「……」
部屋に閉じこもって怯えているのなら、外の空気が吸いたくなった。
――どうせ殺されるときには、どこにいたって殺されるのだろうから。
革靴を履き、イサギはゆっくりと部屋のドアに近づいてゆく。
もしかしたらここも施錠されているのかもしれないと思ったが、その心配はなかった。
するりとノブは周り、廊下の光が差し込んでくる。
すると。
「あ」
部屋のすぐ外には、人が立っていた。
心臓が飛び出るかと思った。
プレハだ。
「……おま、え」
「あ、いや、別に。
……たまたま立ち寄っただけよ、うん」
法衣を身にまとった金髪の少女は、そっぽを向いてそんなことを言う。
相も変わらず、宵闇の中で浮かび上がるような美貌をまとっていた。
初めて会ったときは見惚れずにはいられなかった天使のような彼女だが、こうして一対一でいると、己の卑小さを突きつけられているような気さえした。
彼女が呼び出した勇者は、暗殺者に襲われて泣きながら弱音を吐いただけの男だ。
そんな気持ちを持て余しながら結局なにも言えず、イサギは彼女の横を通り過ぎた。
「ちょっと、どこにいくの」
軽い足音を響かせながら、小走りでついてくる彼女に、振り返らずイサギは告げる。
「……中庭」
「なんでまた?」
「外の空気を吸いたくて」
「ああ、そう? ふーん」
横に並んだ彼女は背を折り、天の川のようなきらめく金髪を耳にかけ、イサギの顔を窺うように上目遣いにこちらを見上げてきた。
その半眼はイサギの心の奥底まで見透かすようだったから、イサギは思わず目を逸らす。
もうこれ以上、自分の内面をなにひとつ晒したくはなかった。きっと、手遅れだろうけれど。
イサギが歩き出せば、彼女はまるでそれが当然だと言うかのようについてくる。
……わずらわしい。
「……なんで一緒に」
「え? ああ、うん、そうだね。
えーっと、うん、たまたまよ? たまたま」
どう考えてもそんなはずがない。口ぶりのわざとらしさなど、まるで三流役者のようだ。小学生だってもっとマシな嘘をつく。
しかしイサギは深く追及はしなかった。
イサギはプレハのことも恐ろしかった。
彼女が暗殺者の後頭部をえぐり取ったときの光景は、ハッキリとこの目に焼きついている。まるでためらいなく、意思を持って人の命を奪い取ったのだ。
まだ自分とほとんど年の変わらない子どもなのに。
――人を殺すことができるだなんて、ゾッとする。
「……おまえって、さ」
「んー?」
「強い、んだよな」
「まあ、そりゃあね? 筆頭宮廷魔法師だから。
実力はこの王都ダイナスシティナンバーワンよ」
胸を張って言うプレハは、口元に微笑を浮かべていた。
誇り高きその表情は、彼女に実に似合う。イサギの胸中には気づきもしない。
「いくつなんだ?」
「え?」
「年だよ、年齢」
「ああ、変なことを気にするのね?
あたしは、12才よ」
ということは、イサギのひとつ下だ。学年は中学1年生か。
それなのにここまでしっかりして、気位が高く、美しく、そして凄まじく強いのか。
きっと、イサギとはなにもかも違うのだろう。
平和な現代日本でぬくぬくと生きてきた自分なんかとは、比べるほうが失礼というものだ。
無言のまま進んでゆく。ところどころに配置された衛兵はイサギを見咎めることなく、すんなりと通してくれた。さすがは勇者の称号だ。名ばかりだが。
「へえ、お城の構造をもう把握したんだ?
案内もしていないのに、覚えが早いね」
「……」
そんな声をかけられても、精一杯褒める部分を探しているのかもな、としか思えなかった。決して皮肉ではないだろうに。
そんな風に考えてしまう自分に対しても、気分は決して良くなかった。叩き伏せられてねじ曲がったのは、どうやら肉体だけではないようだ。
自己嫌悪に襲われながら、イサギは回廊を抜け、中庭に出ることができた。
月に照らされた庭園は、綺麗に整えられて、幻想的な光景が広がっていた。見たこともない異世界の花々が咲き誇っている。
しかし今は、その美しさを正直に受け止めることはできない。
「……大変な時だってのに、城の中は立派なもんだよな」
「こんなときだからこそ、じゃないかな?
ここが落とされたら、それこそもう、おしまいだもの」
イサギのつぶやきに、後ろから鈴のような声が横槍を入れてくる。もしかしたら彼女は単純に話し好きなのかもしれない、とイサギはそんなことを思い始めていた。
中庭にある小さな東屋のベンチに腰を下ろすと、プレハは少し離れた場所に同じように座り込んだ。もはや咎める気もない。
イサギは夜空を見上げた。
「……」
星を見るのは、好きだった。
宇宙に比べれば、自分の悩みや存在など、ひどくちっぽけなものに見えるから、というアレだ。
悠然と輝く月もまた、自分にとっては遥か遠く、手が届くはずもない。
イサギはちらりと横を向く。まるで月のようなその少女は、ベンチから足を投げ出して、ぷらぷらと揺らしていた。
法衣の裾から覗くその真っ白な素足の、そのところどころに鉤爪で引き裂かれたような深い傷跡があるのを見て、イサギは思わず目を逸らした。
なぜだかわからないが、見てはいけないものを見てしまったような気がした。
「ん? どーかしたの?」
「……いや」
ロクに女子とも離したことのないイサギが、気の利いたごまかしなどできるはずもなく、ただ首を振って黙ることを選択した彼に、プレハは子猫のように瞳を丸くして不思議そうな顔をしていた。
庭園に来て気づいたが、やはりここにも何者かが潜めるような物陰があちこちにあった。
声を潜めて彼女に問う。
「なあ……ここは、本当に安全、なんだよな」
「中庭?」
「ああ」
「んー、そうだね。たぶん、大丈夫だと思うよ?」
たぶんってなんだよ。口には出さずにつぶやくイサギ。確かに勝手にやって来たのは自分だが。
その不満気な顔を見て、プレハは苦い笑みを浮かべた。
「今この世界に絶対安全な場所なんて、どこにもないよ。
そのために、キミの力を借りようって呼び出したんだから」
「……」
「だから、今はとにかくキミが強くなってくれないと。
王様も、大臣も、貴族も、キミひとりを頼りにしているから。
あたしたちの『最後の切り札』だからね。
魔族だってキミに怯えている。あんな、暗殺者が送りこまれてくるぐらいだもの」
……自分が切り札だと言うなら、もう少し手厚い扱いをしてもらいたいものだが。
夜風を浴びながら、イサギはゆっくりと口を開く。
「……なんで俺なんだ」
「え?」
「……見ての通り、俺、ガキだぜ。
力だって強くない。勇気だって……別に、ない」
選ばれた理由があるのなら、それを知りたかった。
どうして自分でなければならなかったのか。その根拠さえあれば、自信を持てるかもしれないと思ったのだ。
この世界で生きるために今、イサギにはすがりつくものが必要だった。
夜空に光るあの月のように、唯一無二の価値が自分にもあるのなら。もしかしたら、彼女に怯えずに言葉を交わせたかもしれないのに。
「……んー」
プレハは腕組みをして頬杖をつく。
しばらく迷っていたようだけれど、彼女は結局、告げてきた。嘘をつけない性格だから。
「神剣クラウソラスをね」
「……」
「あの剣を扱えて、さらにその範囲内で潜在的魔力の最も高い人。
それを調査した結果が、キミだったの。だから、キミを勇者『ということに』して。
この世界に、アルバリススに、呼び出しました」
「……おい」
自分でも意外なほどに、低い声が口から飛び出していた。
あまりの理不尽さに、イサギの目の前が赤く染まってゆく。
なんだその話は。
ということは、神剣が使えるものなら、誰でも良かったということではないか。
魔力がなんだか知らないが、そんなもの多少上下したところで、まずはなによりも生きていく強さが大事だろうに。
失意か義憤か、思わずイサギは少女に食って掛かる。
「それじゃあ、つまりそれ、別に俺じゃなくても良かったってことかよ……?」
「え? あ、いや、そんなことないよ?
条件に合う人はそう何人もいなかったし……」
「待ちやがれよ、お前……!」
イサギはプレハを強く睨む。
逆らえば殺されるかもしれない、などという発想には至らなかった。
今はただ、押し殺してきた感情を発散したいが一心で。
「そんなので、俺を巻き込んで……! そこまでして……。
自分たちの国が守れれば、なんでもいいっていうのかよ……!」
「……」
「突然呼び出されて、剣を渡されて、自分たちのために戦えって言われてもな……。
俺にはそんなことをする義理も、なにもねえんだよ……!
なのに、一方的にブン殴られて、命まで狙われてさあ……!」
イサギのその言葉もまた、完全に独善的な言い草でしかないのだが。
プレハはなにも答えなかった。美少女が氷の仮面をかぶり、表情を消せば、それだけで絵になるからいいよな、とイサギは思う。
プレハは先ほどのイサギと同じように、夜空を見上げていた。
論じる価値もないのだと、彼女は思っているのかもしれない。イサギは唾棄した。
「なんだよ、答えられないのかよ……。
都合が悪くなったら、それでいいんだから、お前たちは楽だよな……。
……俺は異世界のことなんて、なにもわからないのに」
イサギにとってプレハは優秀な魔法使いであり、ひとつ年下の凛然とした美少女であり、そしてためらいもなく人を殺めることができるほどの強者だ。
そんな彼女を責めていることに、イサギは暗い喜びを感じてしまう。
打ちのめされて、何度言ったところでやめてはもらえず、彼女の前で醜態を晒し続けた自分が、こんな天使のような美少女に反撃をしているのだ。これが愉悦ではなくてなんだと言うのか。腕力では勝てないから、言葉で屈服させるために。
そうでもしないと自尊心を保てず、壊れてしまいそうだったから。
だけど。
「そうだね、ひどい話かも」
「……あ?」
プレハは静かにそう、認めた。
葉ずれの音に紛れてしまいそうなほどにか細いその声。つぼみのような唇から紡がれるその言葉。なにひとつ、反論はなかった。
「確かに、そう。キミの言うことは、間違ってないと思う」
「……」
「あたしたちは身勝手で、キミを呼び出して、なにもかも任せて、押し付けて。
そうして一発逆転の作戦を狙っているわけだからね。虫の良い話だよ」
「……なんだよ」
そんなことを言わせようと思ったのではない。
イサギは彼女の卑小さが見たかったのだ。
痛いところを突かれて、みっともなく顔を赤くして、自分ごときにムキになって、それで必死に取り繕って、いい格好をする彼女の滑稽な姿を見せて欲しかったのだ。
それなのに超然と月を見上げる彼女の微笑みは、目をそらせば消えてしまいそうなほどに儚くて。
違う、そんな顔をさせたかったのではない。
「今度は開き直りかよ。認めたら、罪が軽くなるとでも思っているのか……。
どうせなら、俺を元の世界に戻してくれよ……」
「ごめんね。それは、できないから」
「……そうかよ」
あくまでも真摯な態度を崩さない彼女から目を逸らし、イサギはうめく。
どっちみち、期待して言ったことではなかったのだけど。完全に否定されて、イサギは望みを絶たれたような気分になった。
もう二度とコンビニに行くことも、漫画を読むことも、ゲームをすることもできない。あの世界の食べ物がなにも食べられないし、学校に通うこともだめだ。
過ぎ去ったこれらがなにもかも愛おしいものに思えてしまい、イサギは胸を締めつけられる。
自分にはもう、なにもない。
未来は、ない。
閉ざされて、しまった。
ここにいるのは、ひとりの剣奴だ。
「結局、お前たちは俺を馬車馬のように戦わせるってことかよ……」
「……」
プレハの表情に変化はない。
イサギの怒りと憎しみを受けて、それでも毅然と佇んで。
やはり、自分などとはまるで器が違う。イサギの言葉程度では、彼女の心にさざなみ一つ起こすことはできないのだ。
ここでも無力感を味わわされる。それと同時に、消えてしまいたいほどの孤独感もまた。
月に雲がかかり、辺りは一層の闇に包まれてゆく。
「別に、逃げてもいいんじゃないかな」
プレハは唐突に、そんなことを口走った。
月の雫を背中に浴びたような心地だ。
あっけにとられて、イサギは聞き返した。
「は?」
彼女はその蒼い目で、こちらを見つめていた。
透き通るほどにクリアなその瞳には、イサギの間抜けな顔が映し出される。
「いいと思うよ、逃げちゃっても」
「いや、でも、お前」
言いかけたイサギの言葉を、斬り落とすようにつぶやくプレハ。
「それでこの国は滅ぶかもしれないけれど、滅ばないかもしれないし。
どっちみち、あたしは死ぬまで戦うけれど。
そんなこと、キミには関係ないもんね? だから別に、いいと思う」
イサギは絶句する。
当然のような顔で『死ぬまで戦う』と宣言し、その口で『キミには関係ない』と言い放つ彼女の強さと、その覚悟を前に、体は凍りついてしまった。
それは王国の決定がどうであれ、決して揺らぐことのない彼女の『個』を鮮烈に証明しているかのようだった。
そして同時に、イサギが先ほど抱いていた暗い喜びは、今度こそ完膚なきまでに破壊された。
プレハが生きているのは、そんな低い次元ではないのだ。
彼女が己の高潔さを示せば示すほど、イサギは打ちひしがれた。
立ち上がったプレハは、そんな少年の前を通り過ぎた。
まるでお世話焼きの幼馴染のように、イサギに親切な言葉を投げてくる。
「ただ、必要最低限の戦う力は身につけておいたほうが、いいと思うよ?
これから、このスラオシャ大陸が、どうなっちゃうかはわからないし。
あたしから言えるのは、それぐらいかな。
ああ、言ってくれたら、少しの路銀ぐらいは、用意してあげてもいいけどね?」
「……」
俯くイサギを突き放すように、プレハはその場を去った。
ひとり中庭に取り残されたイサギに、再び暗闇が襲いかかる。
プレハが恐ろしいと言っても、独りはそれ以上に恐ろしかった。
「楽じゃあねえな……異世界、召喚……」
自嘲するかのようにつぶやいてみるものの、その客観的な発言は、自身の感情を羽一枚分も軽くするということにはならなかった。
◇ ◆ ◇ ◆ ◇
魔法師プレハ。
齢12才にして中央国家パラベリウ最強の術者である彼女に与えられた二つ名は『極大魔法師』である。
成長途中のその体はいまだ魔力総量が追い付いていないものの、技量としては頭ひとつもふたつも抜きん出ていた。
そして。
「あ、きょうも?」
「……ああ」
夜になると常に、彼女はイサギの部屋の前にタイミングよくやってきた。
闇に怯えて寝つけないイサギの散歩に付き合うように、斜め後ろをついてくる。
一体なんのつもりで付きまとってくるのかはわからないが、彼女には彼女の打算があるのだろう。
「ふぁぁ……」
「……」
「あ、ごめんね。最近ちょっと寝不足気味で?」
「……どうだって、いいよ」
あくびを噛み殺して笑うプレハに、イサギは胸中ため息をつく。
自分がどんなに彼女を警戒していても、彼女が自分を警戒する理由はなにひとつない。
彼女の前に立つと、イサギは惨めな思いを想起させられる。ひとつ年下の彼女に叶うものがなにひとつない。
それで勇者などとおだてられ、持ち上げられているのだから、これでは道化でしかない。
きょうもプレハの目の前で老騎士に打ちのめされたイサギは、ぽつりと漏らす。
「……お前なら、なんでもうまくできるんだろうな」
「んー?」
「強いんだろ」
「まーね?」
プレハはキリリと、しかし年の頃が透けて見えるような笑みを浮かべた。
「あたしは『極大魔法師』のプレハ。
やがて旅立つ勇者とともにこの世界を救う、魔法師だもの」
「……え?」
イサギは思わず足を止めた。その背中にプレハがぶつかりかけて、「おっと」とつぶやく。
振り返り、きょとんとした顔の彼女をイサギは見つめる。
「おまえ、俺と一緒に?」
「一応、そういうことになっているね」
プレハとふたりで旅に出る。その意味をイサギは、好意的には捉えられなかった。
確かにまばゆいほどの美少女には違いないが、自分と彼女ではなにもかもが違っている。一緒にいたところで、うまくいくはずがないだろう。
世界を救う旅の最中でも、常に劣等感に苛まれていけというのか。
押し黙るイサギの前、プレハは自らの胸に手を当てる。
「元々、ダイナスシティの守護者として生を受けたわけだし?
そのための訓練をずっと、生まれてからずっと叩き込まれているから」
「……」
ほら、生まれながらのサラブレッドだ。
自分のように呼び出された得体の知れない来訪者とは違う。
彼女は人差し指を左右に振りながら、少し眉を吊り上げて。
「キミもさ、腐ってばかりいないで、ちゃんと真面目に強くなろうとしてよ?
旅に出たら、あたしの前をちゃんと守ってくれなきゃいけないんだから」
「……」
夜の彼女はこういう軽口を叩くようにもなった。
イサギの心はささくれ立ってゆく。
「……俺は、別に……」
「まあ、キミはまだまだ弱っちいもんねえ?」
「……」
それは事実だ。
だけれど、当たり前だ。改めて言われるまでもない。
「俺は……この世界に呼び出されて、まだなにも、知らない。
お前みたいに、殺人マシーンじゃない」
「別に呼び名はどうだっていいけれどね?
そうこう言っている間にも、魔族たちは迫ってきているんだよ。
早く強くならないとさ、
前みたいにまた襲われちゃったときに、自分で自分の身を守れないよ」
「……」
イサギは舌打ちした。強くなれるならとうに強くなっている。生まれて一度も剣を持ったことがない男に、昨日きょうで覚醒しろだなんて不可能だ。
自分たちの世界の常識に当てはめて、勝手な理屈を唱える少女に、苛立つ。
「……そうしたら、今度こそ死んでやるよ。
こんな世界とはおさらばだ。
お前たちだって、ずいぶんと困るんだろうよ」
精一杯の虚勢を張って、そんな風に言い返す。
そんな度胸もないくせに。
本当に襲われたら、泣き叫びながら、逃げ出すくせに。
見苦しいほどに生にしがみついて。
最後には助けに来てくれたプレハに当たり散らして、プライドを保つのだ。
それが勇者と呼ばれる少年、イサギの本当の中身だ。
罵倒されれば、あるいは軽蔑されたら。
あるいはそれで、イサギの気は晴れるのかもしれないけれど。
プレハは。
「別に、あたしはどっちでもいいよ?
キミがそうしたいなら、そうすればいいよ。
そしたら、旅にも出ずに済むしね。
ふたりとも死ぬなら、そのほうがいいかもしれないし」
「……」
飄々とそんなことを言って、さらにイサギの気分を逆撫でしてゆく。
「……ちくしょうが」
帳の落ちた廊下を歩き、イサギは舌打ちした。
それしかすることはできなかった。
なぜ召喚をするときに、もっと勇者らしい男を選んでくれなかったのか、それだけがイサギの恨みであった。
◇ ◆ ◇ ◆ ◇
プレハの昼の顔は、まるで別人のようだ。氷のような表情で廊下を歩く彼女を、騎士たちは恭しくひざまずいて見送る。
ダイナスシティの術師の頂点に立つ12才の少女は、この国の象徴であり、守り神でもあった。
一方のイサギは、修練場に這いつくばりながら、そんな彼女の横顔を見つけて、歯噛みする。金髪の乙女が歩けば人々が振り返り、尊敬の念を向けるだろう。
だが自分は、このザマだ。
神剣を扱える勇者だからといって、身体能力が伴っていなければ、ただの子どもに過ぎない。だからこうして、一般兵にすら負け続ける。
「……大丈夫ですか? 勇者さま」
老騎士の顔にありありと浮かぶのは、失望の色。
この人が本当に世界を救ってくれるのか?
そんな疑念を常に叩きつけられているようで、イサギにはたまらなかった。
痛めつけられるのも数日続けば、色々とわかることがあった。
まずこの世界の騎士たちは、『闘気』と呼ばれる魔力による身体強化を操り、それによって超人的な動きが可能だということ。
主に筋力だが、反応速度や五感も大幅に引き上げられているようだ。
持つものと持たざるものでは、獅子と兎のように歴然とした差があるらしい。
彼らの言う『勇者としての目覚め』とはつまり、その闘気を身につけられるかどうか、ということだった。
「……そんなに大切なモンなら、マニュアルにでも書いとけってんだよ……」
「え、あの、なにか……?」
「……なんでも、ない」
肘を立てて、イサギは身を起こす。
そのために叩かれ続けるという非効率的なやり方には、辟易する。
金色の髪の乙女プレハは、実績を積み上げ、人々に頼られて、その上美しい。
自分は請われて呼び出されたはずなのに、その期待を裏切り続け、ひどく見苦しい。
「……こんなはずじゃ、ない、んだ……。
だって、くそう……こんなんじゃ、俺は、もっと……」
思い描いていた異世界とは、まるで違う。
どこまでいってもこの世界は、現実の延長線だ。
挫折と挫折、そしてまた挫折。理想を描く暇すらない。
夜は地獄だ。闇からいつどのように魔の手が迫ってくるかわからないけれど。
昼は否応もなく自分の卑小さを思い知らされるから。やはり今の時間も、地獄であることには変わりなく。
視線を感じて顔をあげると、修練場の入り口に立ち、こちらを眺めているプレハの姿があった。
彼女はいつもどこかしらに傷を負っている。この日は眉の上だった。
自分がこうして転がされている時間にも、きっとどこかで魔族を倒してきているのだろう。颯爽と、毅然と。まるで英雄のように。
這いつくばるイサギを見て、今彼女はなにを思うのか。
頭の中に、声がリフレインする。
『――キミはまだまだ弱っちいもんねえ?』
あざ笑うように。
イサギの目の端に、涙が浮かぶ。
「ちくしょう……ちくしょう、ちくしょう……ちくしょう!」
床に拳を叩きつけて、イサギは立ち上がった。
痛めつけられて――痛めつけられるのだけはうまくなった。なんの自慢にもならないが、奮い立つというよりはヤケを起こし、イサギは歯の根を噛み締める。
木剣を突きつけて、怒鳴りつける。
「もう一回だ!」
どうせ誰にも扱えないのなら、神剣を持ち出して、こんなところは絶対に逃げ出してやる。そのために自分で自分の身を守れるように、強くなるんだ。
だが、その前にやることがある。
一度だけでいい。
一度だけでも、あのプレハという女に、思い知らせてやる。
男の意地だ。
こんな気分のままでは、生きてゆくことなどできない。
今は、吹けば飛ぶようなそんな存在でも。
月に手を伸ばすのだ。
浅ましさの泥の中でもがくように生きながら。
イサギは今、それだけのために稽古をつけていた。
◇ ◆ ◇ ◆ ◇
打ちのめされて、痣だらけになり、治癒法術を浴びせられて、その日はひどく疲れ果てていた。
睡眠不足がたたり、イサギは自室に着くなりベッドに倒れ込む。
(……くそ……いつもより、手荒に、しやがって……)
自分の発奮を見て、嬉しそうに木剣を振りかざしてきた老騎士たちの残像は、まぶたの裏からあっという間に消え去った。
意識は一瞬で落ちてゆく。
瞬きひとつの後に、目覚めたときにはもう、外は白んでいた。夜明け前だ。
背筋に氷を突き立てられたような気がして、慌てて飛び起きた。
なにも考えられない。半ばパニック状態で、イサギは自分の体をまさぐった。
どこも外傷はない。
暗殺者は来なかった。
生きている。
自分はきょうも、生きていられた
安堵したのもつかの間、途端にこの部屋が恐ろしくなった。
恐怖に背中を押されるようにして、イサギは転がるようにベッドを降りた。
この城で安らげるところなんて、どこにもないはずなのに。
どこに逃げたって、悪夢は常にイサギの背中を追っている。
頼れるものも、助けを求めることも、できない。
体はもう汗だくだ。衣服が肌に張り付いて気持ち悪い。
死ねば楽になれるのなら、もういっそのこと――。
イサギは恐る恐る廊下に出て。
そうして。
「……え?」
見た。
扉の近くでうずくまる、小さな人影だ。
背中を壁に預けて、膝を抱えるようにして座り込んでいる金髪の少女。彼女は真っ白な法衣に身を包み、しかしそれではまだ寒いのか、時折体を震わせていた。
俯くその彼女に近づけば、穏やかな寝息が聞こえてくる。
「……」
それは、プレハだった。
彼女はどうして、こんなところにいるのだろう。
イサギは呆然として立ちすくむ。廊下で身を震わせながら、たったひとりこんな寂しい場所で眠っているのか。
「……」
そうか。
これはきっと、イサギを逃さないためにだ。
口では『好きにすればいい』などと言っておきながら、結局は逃げ出すと彼女は困るのだろうか。
だからこうして、見張っているのか。
そうだ。
夜の散歩に出かけるイサギにさもタイミングを合わせて、今来たように見せかけていたけれど。
それもすべては、イサギを監視するためだったのだ。
そうに違いない。
そうなのだ。
それ以外に理由など、ない。
イサギの部屋の扉の前でこんな風に、うずくまりながら眠る理由など。
なにも。
……、ない。
「なんだよ……結局は、お前も……」
プレハに信用されていたわけじゃなかった。
当たり前だ、自分だってプレハのことを信用していないのだから。
こんなに近くにいるのに、イサギのことにも気づかず眠りこけている彼女は、見張りとしては失格だろう。
彼女も、しばらくずっと睡眠不足が続いていたと言っていた。それは一体どういう意味だったのか、今のイサギにはわからない。
プレハのことを見下ろすのは、初めてのことだった。
いつでも彼女に見られていたときは、イサギが地に這いつくばってばかりいたと思う。
「……なんだよ」
細い首筋と、白いうなじ。華奢な肩。小さな手のひら。それはどこからどう見ても、ただの年下の少女にしか見えなかった。
その無防備な寝顔は、女神さえも嫉妬してしまいそうなほどに、無垢で、可憐だった。
胸の鼓動をごまかすように、つぶやく。
「…………なんなんだよ……」
イサギは部屋の中に戻ると、余っていたブランケットを掴んで、再びプレハの元にやってくる。
これは決して、プレハのためなどではない。
ただ、13才の少年として、12才の少女にこういったことをするのは、当然だと思ったのだ。
その細い肩に毛布をかけると、なぜだか、無性に胸の奥が熱くなった。
ただそれだけの些細な『善なる振る舞い』に、イサギは叫び出してしまいたくなる。
誰かに傷つけられたくないから、自分で自分を蔑んでばかりだったイサギが忘れていたものが、そこにはあった気がした。
すぐに後悔をした。情などかけなければ良かった、と。
プレハの寝顔を見ていると、今まで張り詰めていたものがすべて、途切れてしまいそうだった。
幼い子どもがそうするように、イサギのかけた毛布を無意識にぎゅっと握り締める彼女を見て、どうして涙がこぼれそうになったのだろう。
まるでかけがえのない愛を守るように、毛布を引き寄せて頬擦りをするプレハに、なにを思えばいいのかわからない。
だめだ。
自分で自分に期待をしてはいけない。
明日からの日々が、きっと余計に辛くなるから。
だから、この気持ちは封じ込めなければならない。
自分は卑怯で、勇気がなく、臆病で、矮小だ。
彼女は気高く、才能を持ち、強くて、美しい。
それが答えだ。自分と相手との立場の差だ。
プレハは月だ。天に輝き、尊く地上を照らす、触れることなど許されない少女だ。
イサギは逃げ出すようにそっと離れて、後ろ手にドアを閉めた。
扉の向こうから感じた沈黙の気配は、気のせいだったのだろうか。
彼女ほどの術師だ。もしかしたら本当は起きていたのかもしれない。
ベッドに横になり、まどろみの中に意識を沈めながら、そんなことを思う。
この世界に来てからは、自分の気持ちを持て余すことばかりだ。
今はなにも考えたくなかった。
「…………」
どうして悔しかったのか。
どうして悲しかったのか。
どうして切なかったのか。
どうして、胸が、痛かったのか。
そのときのイサギには、まだわからなかった。
わからないから、だから、わからないままでいようとした。
月をたぐり寄せようなどと、してはならないのだから。
シーツを握り締めたまま、イサギは眠りにつく。
アルバリススに来て初めてその日、なぜ自分が素直に熟睡することができたのか。
その理由だけは――認めたくないけれど、本当は――イサギは知っていたはずなのに。