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勇者イサギの魔王譚  作者: イサギの人
Episode:10 あなたの初恋の人、プレハ
114/176

10-3 屍の下で泣き声をあげる赤子に名はなく、

 

 剣を跳ね飛ばされて、地面に転がされた。

 何度も何度もそれの繰り返し。

 泣き言を言ってもやめられず。

 ただただ、叩きのめされる。

 

 これはあるいは、なにかの刑罰なのかもしれない。

 そんなことを思いながら、痛む体の節々に心は悲鳴をあげていた。


「そんなことで生き残れると思っているの!?」

 

 剣を持つ老騎士の隣、金髪の少女が叫ぶ。

 訓練中の彼女は決して自分を、楽にはしてくれない。

 どんな法律よりも厳しく、鎖よりも厳格に、人間の尊厳をなじってくる。

 自分よりも年下の少女に罵倒されるのは、無様で惨めだ。


「……なんなんだよ、これ……」

 

 少年は血の混じったツバを吐き、つぶやいた。

 浅浦いさぎが『アルバリスス』と呼ばれる世界に呼び出されてから、三日目の出来事であった。

 



 


 勇者イサギの魔王譚・過去編・上

『Episode:10-3 屍の下で泣き声をあげる赤子に名はなく、』






 ◇ ◆ ◇ ◆ ◇



 どこまでも、どこまでも、ひたすら暗闇の中を落ちてゆく感覚があった。

 一寸先も見えない闇。上下も左右もわからない。不安定な空間に閉じ込められ、首を絞められたかのように衰弱してゆく精神を維持し続けるのは困難だった。

 目覚めるのがあと数秒遅れていたならば、彼の魂は削れ、溶けきった蝋燭のように失われていたかもしれない。


 しかと目を開く。自身の存在を確かめるように。

 そこは、薄暗くて閉塞感の強い部屋の中だった。

 身を起こす。牢屋にも似た光景を前に、わずかに体が震える。


 ノイズがかかったかのようにぼんやりとした思考力をかき集め、思う。

 一体自分はなぜこんなところにいるのか――。

 記憶のテープが切断されたかのように、直前の経緯を思い出すことはできなかった。

 いや、今は一番大切なものから、手繰り寄せていこう。

 自己を確立させるために。


 自分の名前は――。

 そう、『浅浦いさぎ』。

 近くの中学に通う二年生だ。 

 成績も運動も、至って並。趣味はゲーム、マンガ、アニメ……。

 最近身内の不幸があったばかりで、気持ちは暗く沈み込んでいたが、それは今はいい。

 

 これまでの経緯を思い出していると、暗闇の奥からほのかな緑色の光が近づいてくる。

 思わず身構えながら待つと、姿を現したのは奇妙な団体だった。

 真っ白な法衣――としか表現ができないものだ――を身にまとう、神官らしき男たちの集団。

 

 その先頭に、彼女がいた。

 連中と同じく法衣を着た、少女だ。

 陽光によって染め上げたかのように美しき黄金色の巻き毛を伸ばし、大きくカットしたブルーダイアモンドをはめ込んだような瞳は、曇り一つなく輝いている。

 掛け値なしに美しく、淡い光に照らされて神秘性すら漂わせるその存在を前に、イサギはただただ身を固くすること以外にはできなかった。

 まるで本物の天使が迎えに来たのかと、少年は思う。


「お待ちしておりました」


 少女はその薔薇のつぼみのような唇を開くと、唐突に頭を垂れた。

 同じように、法衣をまとう男たちもひざまずく。

 なにも持たぬ、平凡な少年であるイサギに、だ。

 

 戸惑いの波に揺られるばかりのイサギに、彼女はその宝石のような目を向けてくる。

 視線に貫かれ、冷や汗をかく少年に、告げられたのは神託のごとき一言。

 

「――勇者さま、この世界をお救いください」

 

 凍りついたイサギはいつまで経っても動こうとしなかったため、男たちに両腕を掴まれて、半ば囚われの兵のように連れてゆかれる。

 ――イサギはきっと、夢を見ているのだと思った。



 日の当たる廊下を引きずられ、どこをどう歩かされたか覚えてはいないが、最終的にイサギが連れて来られたのは、衣装がたくさんある部屋だった。

 ずらりと並べられた様々なクローゼットや鏡台を前に佇むイサギの元へ、今度はまるで映画や物語の世界から抜けだしてきたような侍女ふたりがやってきて、召し物を整え出す。

 あっという間に中学の制服を剥ぎ取られ、代わりに着せられたのはなにやらスタイリッシュなシャツとズボンである。肌触りだけで上等なものだとわかる。

 その上からさらに何枚も重ね着させられて、恐らくはそれなりに見栄えが整ったのだろう。

 侍女たちが満足した頃に、先ほどの金髪の少女が現れた。

 改めて光の下で見ると、やはり圧倒されるほどに美しい。声をかけることもためらうほどの美少女を前に、突っ立って待っていると。

 

 急に半眼になって上から下までジロジロと見つめられて。

 そして彼女はつぶやいた。


「……みすぼらしい」

 

 ひどい、と思った。



 ◇ ◆ ◇ ◆ ◇

 

 

 再び連行されてゆく。

 部屋を出た途端、数多くの屈強な大人たちに取り囲まれ、もはや抵抗する気はなくなっていた。

 一体どこに連れて行かれるのだろう、という興味も湧いてくる。

 回廊から回廊へと引きずり回されると、イサギは次第にここが城内であるということに気づいた。しかし豪華絢爛な内装に比べ、通り過ぎる騎士や人々の顔は沈み込んでいる。その雰囲気はどことなく、両親の葬式に現れた親戚縁者のように見えた。

 普段なら気づけたはずのわずかな違和感も、こんな状況に放り込まれたイサギにはまるで目につかなかった。

 ゾロゾロと大名行列のように並んで歩くと、行く手の先にはゾウも通れそうな巨大な扉があった。

 真っ白い甲冑をまとうふたりの騎士が重量を感じさせる動作で、扉を押し開いてゆく。

 

 中から漏れ出た風が、イサギの前髪を揺らす。


 そこには――大勢の騎士が整然と立ち並んでいた。

 陽聖騎士団と呼ばれる大陸最強の騎士団に睨まれ、その圧力にイサギの足が止まる。

 赤絨毯に覆われた大広間にいるのは、それだけではなかった。

 玉座があり、そこに王冠をかぶった老いた男が腰を下ろしている。


 これはまさか。

 例のあれなのではないだろうか。

 

 その時イサギはようやく気づく。

 自らが『勇者』と呼ばれ、なぜここに連れてこられたのか。


「ほら、行く行く」

「いてっ」


 いつまでも足を踏み出さないイサギに業を煮やしたのか、少女に強く背中を押され、もとい叩かれた。

 イサギはよろよろと歩み出て、彼らの視線を一同に集めた。

 

 笑いたかったのだが、とても笑い飛ばせない。

 突き刺さる視線の中、イサギは真っ直ぐに玉座に向かう。

 

 王は立ち上がり、イサギを迎えるように一本の剣を掲げた。

 白銀の鞘に収まった、美しい剣だ。


「よくぞ来た、勇者よ。そなたにこの剣を授けよう」

 

 随伴してきた少女に後頭部を掴まれ、無理矢理膝立ちの態勢にさせられた。

 ゆったりと一歩一歩を確かめるように進んできた王の手から剣を受け取ったその瞬間、剣は途端に輝きを帯びる。

 まるで魂が吹き込まれたかのように燐光を放つ剣を見て、辺りがどよめいた。

 

「おお……」「本物の」「神剣クラウソラスが……」

「勇者だ」「……美しい」「勇者が現れたのだ……」


 一体なんだというのだ。ただ触れただけなのに。

 プラスチックのように軽い剣――神剣クラウソラスを持ち上げるイサギ。

 これがどんなに特別なことであるかは知らないけれど、驚嘆に値する出来事のようだ。


 強張ったイサギの背中を冷や汗が流れ落ちる。

 これは、間違いない。

 間違いなく、例のやつだ。

 初めて見る。当然だ。

 そう、これは、『勇者召喚』というものだ。

 ということは、ここはつまり――。


 隣に立つ少女を見上げると、彼女はあくまでも毅然とした態度を守っていた。

 こちらの視線に気づき、イサギを見やる金髪の少女は、ほんの少しだけ口元に笑みを浮かべた――ような気がした。

 

 老王は両手を広げ、この世に新たなる法を定めた神のように、厳粛に言い放つ。


「この国を――世界を、頼む。すべてを君に託そう」


 

 かくして、イサギは託されてしまった。

 中学二年生の少年は異世界にて、『勇者』の称号を手に入れたのであった。

 

 だがそれは――限りなく、苦難の道であった。


 

 ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ 

 


 目を回しているうちに『召喚の儀』と『剣神の儀』は終わっていたらしく、イサギが最後に通された場所は、ベッドのついた豪勢な居室であった。

 

「……なんか、すごいことになっているな」

 

 神剣は回収されたため、イサギは手ぶらで部屋のソファにもたれかかる。

 ようやくひとりになって、緊張とストレスが襲いかかってきた。


「これは、夢じゃないんだなあ」


 まだ熱に浮かされているような気持ちが収まらず、イサギは恥ずかしげもなくそんなことを口にしてしまった。

 思考は散漫にほどけ、集中はとうに失せている。

 両肩にかかる疲労感に、まどろみを泳いでいたその時、やけに大きな音が耳の奥に響いた。

 ガチャリ、と音を立ててドアが開いたのだ。

 

 自分でも意外なほどに驚き、イサギは肩越しに振り向く。

 現れたのは、本日三度目の対面となるあの金色の髪の美しい乙女。

 後ろ手にドアを締め、ただひとり部屋の中に入ってくる。従者はいない。

 

 縄張りを侵された野良猫のように警戒する少年に、彼女は片手を挙げ、いとも気安く挨拶を交わしてくる。

 

「初めまして、あたしがキミをこの世界に呼びました。

 名をプレハと言います。しばらく、キミの教育係を務めさせてもらいます」


 プレハ。

 それが彼女の――イサギが来たこの世界で初めて聞いた――名であった。

 

 

 頭痛を押し殺すような顔で、イサギはつぶやく。


「いや、あのさ」


 プレハと名乗った少女は、その言葉を聞いているのか聞いていないのか、きょろきょろと辺りを見回していた。珍しい部屋というわけでもあるまいに。

 そして彼女はイサギを制止するように手を突きつけてきて、声を潜めながら言う。


「うん、まあね?

 言いたいことは山ほどあると思う。

 わかっている、わかっているよ。

 不可解だし、不条理。さぞかし、理不尽だろうね。

 ただ、あたしも頼み込んで、なんとかこうして時間をもらっている立場上、

 キミの質問にのんびりと答えられるだけの時間はないの。

 事情があるのは、こっちだって、同じなんだよ」

「えっと……」


 まくしたてられて、イサギは面食らう。

 少女――プレハは相変わらず周囲を警戒しつつ、顔を近付けてきた。

 その蒼い瞳に宿るのは、有無を言わせぬほどの真剣さであったが、彼女の髪からは、まるで芳花のような甘い香りが漂っていた。

 イサギはそちらのほうが気になってしまう。


「とりあえずきょうは、たっぷりと休んで。

 もしかしたら、ゆっくりと眠れるのは、

 キミの人生でこれが最後になるかもしれないから。

 処遇が決まったら、明日からしばらくは戦闘訓練だよ。

 すぐに放り出したりはしないから安心して。 

 お腹減ったり、他に用事があったらあの呼び鈴を鳴らして。

 ひとりで勝手にどこかに出かけたりは、絶対にしないこと。

 ――キケンだから」

 

 指を突きつけられて、イサギは息を呑む。

 絶世の美少女を目の前にして思うように言葉が出て来なかったから、まるでバカのように聞き返す。


「き、危険って……?」

「詳しくは話せない。

 今のあたしから言えるのは、それだけだよ。

 あ、いや……。うん、もいっこ、あったかな」

 

 プレハは頬をかき、眉を寄せながら、きまり悪そうに微笑んだ。


「……ごめんね? こんな世界に呼び出して、さ」

 

 頭を下げられても、なにもわからないイサギにできることなどなにもないのに。

 イサギが初めて見た彼女の笑みは、まるで罪人のようにこわばった、そんな痛々しい笑顔であった。

 

 それきり、部屋を出た彼女の背中を見送り、しばらくそうしていた後、イサギは倒れこむようにしてソファに横になった。

 

「……どういうことなんだよ……」

 

 網膜の奥に焼きついた彼女の微笑みの幻影を追うように、うめく。

 目を閉じ、イサギはしばらくずっとやることもなく、そうしていた。


「マジで、なんなんだ、一体……」

 

 目を閉じ、口内でつぶやく。

 まるで咎人のように笑っていたまぶたの裏のプレハは、なにも返してはくれなかった。


 

 ◇ ◆ ◇ ◆ ◇

 

 

 自分が『召喚魔法陣』によって異世界に拉致されたと聞かされたのは、それからまもなくの出来事だった。

 そしてどうやらこの世界は、こんな子どもひとりに託されるほどに。

 ――本格的にヤバイらしい。


 

 ◇ ◆ ◇ ◆ ◇



「滅ぼされかけているから、って……」

「まあそういうこと、です」


 翌日、メイドふたりを引き連れて朝起こしに来たプレハに案内され、イサギは彼女の後ろを追従していた。

 

 その途中で聞かされたのは、突拍子もない話題である。

 いわく、この世界――『アルバリスス』の人間族は滅びかけている。

 暗黒大陸に巣食う『魔族』が今、このスラオシャ大陸に攻めてきているのだ。

 であるから異世界から『神剣クラウソラス』を操る資格を持った『勇者』を呼び出した。

 それが『イサギ』その人であると。

 

 朝になって、真新しい切り傷が頬にできていたプレハが語ったのは、そのようなことだった。

 もしかしたら彼女も、戦いを続けている最中なのかもしれない。

 

「きょうからその、キミの戦闘適正を見るからさ。

 一応『神剣使い』と『魔力膨大』の、ダブルスキルでの召喚術だったから、

 そこまで適正が低いってわけじゃないと思うけど」

「……」

 

 なにを言っているかわからない。顎に手を当ててぶつぶつとつぶやくプレハは、しかしそんな何気ない仕草ですら天上の芸術品のようだった。


 複雑な構造をした城内を出て、連れて行かれた先は中庭を抜けた先にある修練場だ。

 物々しい警備が張り巡らされている。騎士が30人以上いるのではないだろうか。

 

 しかし中に入れば、そこにいたのはふたりの年老いた騎士だけであった。

 扉を閉めると、修練場はたった四人きりの舞台となる。

 彼らの元に歩み、なにやら指示を飛ばしたプレハは、振り返ってきてこんなことを言う。


「それで、きょうからここで訓練を積んでもらいます。

 まずは初歩的な剣技を習得してもらわないと、魔族に対抗はできないだろうから」

「え?」

「世界を救うために、キミの力が必要、だから、ね?」

 

 子どもに言い聞かせるようなそんな口調に、言いようのない不信感が募る。


 道着のようなものに着替えさせられたのはそのためだったのか。

 軽く腕組みをするプレハの前、騎士のひとりがイサギに木剣を差し出してくる。

 老いた男の若干怯えたような顔にも気づかずに受け取ったその剣は、ずっしりと重かった。

 こんなもので人を叩いたら、どうにかなってしまうのではないかと思うほどに。

 

「お願いしますね、『勇者さま』」

「……はあ?」


 戸惑うしかない。

 プレハはそんなイサギの心に気づきながら、あえて放置しているのか、一方的に告げてくる。


「とりあえず、これからキミには剣の扱いを学んでもらいます。

 たぶん使ったことは、ないでしょう?」

「いや、ないけど……」

「構わないよ。キミには莫大な魔力があるから。

 それの使い方を覚えてもらうの。それがこの訓練の目的。

 いいでしょ?」

「でしょ? って聞かれてもな……」


 語尾をあげるのが彼女の癖のようだ。小柄な少女が大人の真似をしているように見える。


「それじゃあ、あたしが見ているから。

 よろしくね?」

「魔力……ねえ……」


 体育教師のように体格の良い老年の騎士のひとりが前に歩み出てきた。彼は木剣を腰に差したまま、深々と頭を下げた。


「し、失礼致します、勇者様!」

「……」

 

 見えない圧力に押されるように、イサギもまた修練場の中央に行く。

 どうやら彼らは本気らしい。

 平凡な人生を歩んできた中学二年生のイサギに、木の棒で人を思いっきり叩けと言ってきているのだ。

 果たしてそんなことが許されるかどうかはともかくとして、それが『この世界』の常識なのだろう。

 

「……マジかよ」

 

 うめき、イサギは老騎士のように見よう見まねに剣を構えた。

 昨夜から続く倦怠感に、四肢はズッシリとして重い。普段以上に満足な動きはできそうにない。

 木剣を持ち上げるのだって、成長途中のイサギの細い体では、3分も持たないに決まっている。

 叩きのめされるのがわかっていながら挑むことに、一体なんの意味があるのかわからない。

 最初は素振りとか、そういったものから入るのではないか。

 頭の中でゴチャゴチャと考えていると、先に騎士が動いた。


「ちょ、ま、って――」

「ハッ!」

 

 鋭い呼気とともに、その老人の剣がイサギを襲う。

 踏み込みすらも見えない。大人と子どもの勝負だ。

 強く肩を打たれ、イサギは木剣を取り落とし、だらしなく悲鳴をあげた。


「いっ……てぇぇぇ!」

 

 騎士として何十年も訓練を続けてきた老人の一撃は――恐らく加減されたに違いないが――目の奥で火花が飛び散るほどに大きな苦痛をイサギにぶち込んだ。

 まるで骨が折れたような感触がし、イサギはその場でもんどり打つ。涙が零れそうだ。

 実際はただの打撲程度だったにしろ、そのときのイサギは冷静な思考力を完全に失ってしまっていた。

 

「なんだよ、なんなんだよ!

 なんで異世界に呼ばれて、こんな、冗談じゃない……!」

 

 たったの一打でパニックを起こすイサギを見下ろす彼らの目は、まるで理解出来ない生物を見るかのように、酷薄だった。

 プレハはため息をつきながら近づいてくる。そんな彼女の表情を見て、イサギは一瞬だけ安堵を覚える。


 やはり、ただの少年にいきなり実践は無理だ。

 基礎の基礎から段階を経て教えてくれるのだろう。

 だって、ただの一撃で自分の肩はもう上がらなくなってしまったのだから。

 魔力があると言うのなら、魔法だとかそういったものを教えてもらえればいいのだ。

 多少――大げさにでも――苦しんでみせたかいがあった、と。

 

「――」

「……あ?」

 

 しかし小さく唇を動かしたプレハが行なったのは、その手から淡い光を放つことだった。

 光はイサギの肩を優しく包み、その体からわずかな痛みを取り去ってゆく。


 魔法だ。――正確には『治癒法術』と呼ぶのだが――。

 それを初めて見たイサギは、「すげえ……」と自分の立場も忘れ、プレハに見とれてしまった。

 

 夢見心地のイサギを現実に引き戻したのは、残酷な言葉だった。

 天使のような金色の髪の乙女は、微笑一つ浮かべずに命じてくる。


「何度やられても、気にしないで。

 そのためにあたしがいるから。

 だから、思う存分、剣を振るってください」

「――は?」


 死ねとでも言うのか。



『勇者とは戦いの中で覚醒してゆくもの』

『彼らに付け焼き刃の剣技を教え込むことは、逆効果にもなり得る』

『だからまずは訓練の中で、その力の開花を待つ』

『必要ならば彼らは殺されても構わないと思っている。

 老いた体が王国のためになればと、自ら進んで志願してくれたのだ』


 そんな言葉を投げかけられたような気がしたけれど。

 イサギはもう、ほとんど覚えていなかった。


 真の力など、目覚めなかった。

 

 重くて堅い木剣で打たれるたびに、悲痛な絶叫が口から漏れた。 

 痛みはいつまでも続いた。脳の回路が焼き切れてしまいそうになるのではないかと思い、自然と涙が目の端から漏れ出た。

 人体が破壊されてゆく過程をゆっくりと味わわされているのだと、イサギは恐怖の中で感じた。

 

 しかし恐ろしいことに彼らは、骨の一本も傷つけぬように、細心の注意を払っているのだ。

 したがってイサギの体は動く。物理的に動いてしまうのだ。

 どんな泣き言を吐いても、その程度の傷――気が遠くなるような苦痛を彼らはその程度と呼ぶ!――は、プレハがたちどころに治してみせる。

 

 泣きながら「お願いします、もう無理です」と訴えたところで、プレハたちが聞き入れることは一切なかった。

 涙と鼻水と涎にまみれ、それでもイサギは決して許されることなく、いつまでもいつまでも、打ちのめされ続けた。

 

 頭部を、首を、胸を、肩を、肘を、二の腕を、手首を、腹を、脇を、鳩尾を、股間を、尻を、腿を、脛を、膝を、足を、一方的に叩かれた。

 まるでどこをどういたぶれば、イサギの『スイッチ』が入るのかと、実験をしているような有り様であった。

 

 人間の尊厳を蹂躙されたイサギが解放されたのは、それから六時間後のことであった。

 修練場の床に虫のように這いつくばったイサギに投げられたプレハの言葉に、一切の情はなかった。


「明日から毎日、これを繰り返してもらいます。

 それでは侍女をお呼びしますので、そのままでお待ちください」


 イサギはようやくわかった。

 自分が呼び出されたのは、夢と希望の新天地ではなく。

  

 地獄なのだと。

 

 

 ◇ ◆ ◇ ◆ ◇



 静寂の夜、全身が熱を持っている。

 

 プレハや、あの後に何人かの神官にかけてもらった治癒法術とやらでは、傷を完全に癒やすことはできないのだと言われた。

 この世界には復活の呪文など、そんな便利なものも、ありはしない。

 

「……」

 

 極限状態から一転し、手厚い介護によって解放されたイサギは、自室のベッドに寝転んで天上を見上げていた。

 目をつむると四方から木剣が襲い掛かってくるような気がして、ずっと暗闇を見つめていた。

 

 自分を納得させるための言葉を、ずっと探していた。

 この世界は滅びかけている。魔族の手によって、今でもどこかで人間族は殺されている。

 だから、彼らは必死なんだ。イサギの中に眠る力を解放させようと。

 だから、仕方ないのかもしれない。そのための勇者だ。

 だから。

 

 イサギはゆっくりと手を持ち上げる。

 消えてしまえば痛みというものは、ずいぶんと冷淡なものだ。

 先ほどまで胸中を渦巻いていた絶望感は、今は少し、和らいでいた。


 代わりに思い出す。自分を打ちのめす時の老騎士たちの、厳しいながらもすがりつくような視線を。裂帛の気合の中に潜んだ弱さと、覚悟。それをイサギは確かに味わっていた。

 退役間近の老騎士では為せないことがある。

 だから、イサギが呼ばれたのだ。


「……醜態、だよな」


 情けないだとか、カッコ悪いだとか、そんなことを思うような余裕が今になってようやく現れる。

 ひとりにしてもらったから、気持ちが浮上しているのかもしれない。

 

「我ながら、ひどい。うん」

 

 自分を見るプレハの視線を思い出す。

 まだあまり多く言葉を交わしていたわけではないが、修練場に入ってからの彼女の様子はまるで氷の仮面をかぶったかのようだった。

 一切の感情を排した目は、冷酷と呼ぶには、美しすぎた。


「……ゲンメツされちまった、ってことだったら、やだな」

 

 伸ばした拳をぎゅっと握る。

 

 自分でも不思議だったのは、ここまでされても『帰りたい』とは思わなかったことだ。

 なぜかと己に問えば、答えはすぐに見つかった。

 

 自分はどうせ元の世界では、いらない人間なのだ。

 両親が揃って事故死したのは、去年のこと。それ以来、頼れる身寄りもいないイサギは、親戚の家を転々としてきた。

 仮住まいに帰っても食事が用意されていないことなど、何度もあった。突き放され、なにもしていないのに閉め出されて、冬の夜の公園で凍りつきそうになりながら、ひたすら朝を待った日もあった。

 現実は地獄ですらなく、虚無であった。


 誰にも生きることを許されていないのではないかと思っていた。

 しかし、イサギは求められたのだ。世界の壁を越えてまで、どうしようもなく、狂おしいほどに。

 この『アルバリスス』は、確かに地獄かもしれないけれど。

 ここには確かに、イサギの居場所がある。

 皆がイサギに期待をかけて、救われることを信じている。

 

 それならば。


「いて……」

 

 みじろぎしたイサギは顔をしかめた。

 気付かなかったが、口の中も切れていて、血の味がした。

 

 痛みに気づいた途端に、今が辛くなってくるのは、きっと心が弱い証拠なのだろう。

 

「……変わらない、のかもしれないな……」

 

 結局自分はどこにいったって辛いままなのかもしれない、と思った。

 当たり前だ。世界が変わったところで、自分は自分。殻を脱ぎ捨てられるわけじゃないのだから。

 

 痛いのは嫌だし、怖いのは嫌だ。

 世界は嫌なことだらけだった。


「……忘れられるのは、寝る時だけ、か」

 

 目を閉じてしばらくは不安感の幻影と戦う時間だ。体は疲れているのに脳が冴えているから、素直に眠ることもできない。

 何度も寝返りを打ち、シーツをシワだらけにしてゆく。


 これから自分はどうなってしまうのだろう。

 本当にこの世界の人間族を侵略していると言われる魔族を、倒しにいくのだろうか。

 自分にそんな大それたことができるのか。

 内へ内へと沈み込んでゆく意識は、暗く震え、寒さに凍えてゆく。

 


 ――そのとき、音もなく扉が開く。

 誰かが来たようだ。イサギは身をこわばらせる。

 だがまるで物音がしない。まぶたの裏に光を感じることもない。

 もしかしたら風の音を聞き間違えたのだろうか。

 

 そんなことを思った直後。

 ――ドアが勢い良く開かれた。


「こんなところにまで入り込んで!」

 

 え。


 イサギが起き上がろうとしたその瞬間。

 白刃がきらめいた。


 寸前で翻る刃は、イサギの首を薄皮一枚切り裂く。

 尻もちをつくイサギの目には、真っ赤な目をして、逆手に短刀を構える侍女がいた。

 目が合う。見なければ良かった。

 彼女は血の涙を流しそうなほどに憤怒の表情を浮かべ、口から泡を吹いていた。


 あまりにも巨大な感情を叩きつけられて、イサギは身動きが取れない。

 自分は心の底から憎まれている。射竦められる。彼女は叫ぶ。

 

「貴様、貴様だけは――!!」

「あ、え、あ……」


 なんだ。なんでここまで恨まれなきゃいけないんだ。

 請われてこの世界に呼び出されただけなのに。


 無能者のように震えることしかできないイサギの元に、身を丸め、人間離れした動きで彼女が跳躍した。

 ――殺される。

  

 気づきながらも行動に移すことはできず、ただただ身を固めているだけのイサギ。

 死をまとう女は、短刀を振りかぶり、そして――。


「――去りなさい!」

 

 光が瞬いた。

 直後、ナイフを持つ女性の右手が消し飛ぶ。

 

「ああああああああああああ――!」


 絶叫が間近で。

 イサギは目を見開く。


 恐ろしいのはそれでもまだ女の目から憎悪が失われていなかったことだった。

 女は左手を突き出して、イサギの首を絞めようと迫ってくる。

 

 叫んだのは再びプレハだった。

 彼女の謎の力は立ちどころに作用し、そして――。

 

「――」


 今度は声はなかった。唇の隙間から舌をだらりと伸ばし、女は前のめりに、イサギの元へと倒れてゆく。

 生暖かい感触。その正体をイサギは知りたくない。見たくはないと心から思っていたのに。

 大勢の騎士が駆け込んできて、彼らが持つ明かりによって、気づいてしまう。


 女は後頭部を抉り取られていた。

 イサギの体を濡らすのは、血と、そして脳漿――。

 少年は凍りつく。


 死んだ。

 人が目の前で死んだ。

 

「あ、あ、あ……」

 

 イサギは震えた。

 だって死んだのだ、目の前で人が。

 まともではない。


 それなのに。


「うん、大丈夫そうね? 怪我はないみたい。

 すぐに部屋を変えるね。あなたたち、死体の始末をお願い!」

 

 それなのに。


 引き剥がされても、全身から生暖かい感触は消えなかった。

 きっと湯を浴びても、いつまでも、いつまでも残るだろう。

 

 この血なまぐささも、永遠に。

 

「……んだよ」

「え?」


 聞き返してくるプレハの表情は、普段となにも変わらない。

 まるでこれがこの世界の日常だと言わんばかりに、なにも――。

 

 イサギは両手で顔を抑える。


「なんなんだよ、これ……!

 なんで、こんな、俺が……俺が……!

 だって、勇者だって、望まれて、この世界にやってきたのに……!」

「……」

 

 プレハは痛ましいものを見るような目でつぶやく。


「あれは、魔族派の人だよ。

 人間族だけど、事情があって魔族に手を貸している人だね。

 家族を人質に取られたり、あるいは戦後の安全を保証されていたり。

 それで魔族に従っているんだけど」

「――そんなことは知らねえよ!!」

 

 吐き捨てるイサギ。

 

「なんで、こんな、城の中では、安全じゃねえのかよ……!

 こんなの、なんで俺が、襲われなきゃいけねえんだよ!」

「……ここまで魔族派が侵入してくるのは、予想外だったの。

 怖い思いをさせちゃったのは謝るよ。でも、間に合って良かった」

「よくねえよ……」


 かすれた声。

 血まみれのイサギは、動けなかった。

 もうベッドの上から、一歩も動けそうにはなかった。


 怖かった。

 さっきの短刀を持つ女性もそうだし、彼女を意思ひとつで殺害したプレハもだ。

 結局、そうなのだ。なにもかもが違うのだ。


 もう、これまでのようにはいかない。

 イサギはこの世界の真理を見てしまったから。


 痛みなど、まるで比較にならない。

『恐怖』はそれよりも遥かに鋭利なナイフで、イサギの心をズタズタに引き裂いた。


「……なんなんだよ、これ……」

「……」

 

 イサギは初めての死の恐怖に、涙を流していた。

 鼻をすすり、みっともなく、股間を濡らし。

 なにが勇者だ。なにが、だ。

 自分ができることなど、なにも、なにもない――。


 プレハは視線を逸らしながら。


「別の部屋を手配するよ。きょうはそこで休んで。

 警護は厚くする。明日も訓練だから、ね」

「……」

 

 イサギは力なく首を振る。


「……もう、家に帰してくれよ……」

 

 そのつぶやきを、プレハは恐らく、聞いていないフリをしていたのだろう。



『ごめんね』と彼女がつぶやいたその本当の意味を、イサギは知った。

 彼は今、ただ泣きじゃくるひとりの赤子でしかなかった。


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