9-14 COLORS
慶喜の雄叫びに、デュテュは歯噛みするように口を閉ざしていたけれど。
胸を押さえ、彼女は首を振った。
「もう大事な人は、残っていないのです」
デュテュはまだ折れない。
必死に、守るべきものがあるように。
いや、あるのだろう、きっと。
それが彼女の芯を支えているのだ。
「彼らは、戦争によって家族を失い、家を失い、
住処を奪われ、弾圧されてきたものたちです!
その憎しみを、恨みを、すべて水に流して歩んでいこうと言うのは、
あなた方にとっては、敗者に手を差し伸べているように思えるでしょう!
ですけれど、わたくしたちにとっては、
地面に投げ捨てられたパンを施されるような気持ちにしか!」
「まったく……」
慶喜はともすれば途切れてしまいそうな意識を必死に繋ぎ止める。
「大事な人がいないだって……?」
「……」
馬の上で体を支えられず、慶喜はよろめきながら地面に降りる。
顔を押さえる指の間から真っ赤な光が漏れ出していた。
「よくそんなことを言えたものだね……」
「……なんだというのですか」
食いしばる歯の隙間から押し出すようにして吐かれたデュテュの声は、とても彼女の言葉とは思えないほどに苦々しく、慶喜よりもずっと辛い痛みを堪えているかのようだった。
彼女を魔帝たらしめているものがなにが、慶喜は知らない。そんなものの重さに興味はない。
「大事な人なら、いるに決まっているじゃないか……!」
「すべては21年前から続く負の連鎖の中で朽ち果ててゆきました!
今さら昔のことを持ち出されたところで、迷ったりはしません!
わたくしは、もう、この手で……この手で!」
手を払うデュテュは、自らの行ないにより大好きだった人を殺めてしまったのだと思い込んでいる。
もう引き返すことはできない修羅の道に足を踏み入れたのだと。
だが慶喜はそんなことは知らない。
気が回るはずもない。
上手に説得することなど、最初から諦めている。
だから撃ち抜くだけだ。彼女の感情のその中心核を。
それだけが、ただそれだけが。
今の慶喜が持ち得た唯一の銃弾である。
「大事な人なら、いるよ」
「そんなのは!」
デュテュに慶喜が、撃ち込む。
「きみだよ。デュテュさん。
この人たちにとって大切なのは、間違いなく、
――きみなんだ」
400人限りの魔族帝国の兵士たちの中。
その瞬間、初めてデュテュは。
胸に手を当てて、聞き返した。
「――え」
◇ ◆ ◇ ◆ ◇
デュテュ=ファイナリテ=ベロネーミアは、父であるアンリマンユとサキュバス族の母の間に生まれた娘である。
サキュバスとの間に生まれた女児は例外なくサキュバスとして生誕する。
彼女もそのひとりだった。
サキュバスの特性にエナジードレインというものがある。
これは異性から精気を吸収することにより自らの魔力を増幅する種族特性だ。
――言うなれば、一族皆が限定的な魔法師なのである。
デュテュは、異常な力を持つサキュバスであった。
父譲りの魔力によって彼女は、加減を知らぬ2才のときに誤って教育係であった家庭教師の男を吸い取り殺す。まるで母親の乳を飲むかのような気安さで。
その頃の記憶は、デュテュにとってはまるで残っていないけれど。
それ以来、デュテュの親衛隊は皆、女性だけで結成されることになった。
食事を与えられず、絶対的な魔力不足の中で過ごす彼女は、心身のバランスを崩し、まるで少女のような外見のままで育った。
デュテュを魔族のために利用しようと思うものは後を立たなかったが、その目論見はイグナイトやゴールドマン、メドレザたち五魔将の手によってことごとく潰されてゆく。
魔帝アンリマンユの一人娘であるデュテュが生かされていること自体が奇跡のひとつなのだ。
ヘタな動きをすれば、デュテュは容易に冒険者によって処罰されることは明白だった。
籠の中の姫。
デュテュは魔族国連邦の象徴であり、蕾であり、希望であった。
魔帝の娘は道化のように、ただただ微笑み続ける。
人の悪意というものは、生まれたときからデュテュの回りを渦巻いていた。
策謀、思惑、利己、妄執。それが彼女のゆりかごの名。
デュテュが悪意に対して鈍感なのは、決して彼女自身の美徳ではない。
何のことはなく、とっくに能力値が飽和していたからである。
人並み程度の技量しか持たない姫にとって、与えられた環境は冬山のように険しく、ただ生きて役目を全うするだけの日々の中、微笑む以外の生存方法があったとは思えない。
デュテュの神経は摩耗し、削れ、完全な珠となる。
磨かれて輝く宝石のような姫。だがそれは、叩けば砕ける脆く儚い石であった。
デュテュは歳相応に強く、思いやりがあり、優しく。
――けれど、歳相応程度に、弱い少女だった。
◇ ◆ ◇ ◆ ◇
それはデュテュがイサギを見送り、本格的な暗黒大陸解放戦線が始まった頃だった。
当時の状況としては、廉造とシルベニアがたったふたりで商業都市レリクスを攻め、デュテュ率いる魔族国連邦本隊がミンフェスへと進軍の準備を進めている最中である。
魔王城をその男が訪問する。
五魔将がひとり、魔族国連邦の魔術師を束ねる男。金魔法師ゴールドマン。
『デュテュさま、よろしいでしょうか』
『ゴールドマンさん! 来ていただけたのですね!』
両手を打ち鳴らして目を細めるデュテュにとって、彼は父と共に戦った旧友であり、父の古い友人の息子――すなわち、従兄弟のような存在であった。
無論、分をわきまえたゴールドマンに必要以上に親密な態度を取ることは彼の迷惑になるであろうこともわかっていた。それでも彼とシルベニアの不和を知っていたデュテュは、いつかふたりが和解することを信じてその仲を取り持っている。
『もう少し早く訪れてくだされば、シルベニアちゃんにも会えたのに……』
『妹とは先日、ブラザハスで顔を合わせました。本日は手土産というわけではありませんが、
僕の新型石偶兵の試作品と、そして近衛魔術師の200をお届けしようと思いましてね』
『まあ……それはそれは、本当に、ありがとうございます。
わたくし、精一杯頑張りますね!』
深々と頭を下げるデュテュに微苦笑するゴールドマン。
これがデュテュでなければ、内心でなにを考えているかわからないものだが。
彼女は呆れるほどに人の行為を疑おうとはしない。善意悪意に関わらず。
相手は自分を映し出す鏡であると言う。
デュテュの交渉姿勢はバカ正直すぎて、駆け引きの欠片も存在しないのだが、そこになんらかの意図を感じ取らざるをえないものも少なからず存在する。泥沼のような政治闘争を生き残ってきた貴族たちだ。
そうなった場合デュテュは非常に強い。
魔帝の娘であるというネームバリューに加え、微塵も腹の中を読ませる余地のない微笑みで対面者を次々と圧殺してきた姫だ。
もとより『なにも考えていないだけ』などという真実を暴けたものは、数えるほどもいない。その答えは、不敬にもほどがあるであろう。
そんな考えはおくびにも出さず、ゴールドマンはデュテュから学んだ微笑の鎧をまといながら両手を広げた。
『ただ、ひとつだけ姫様にお願いをしたいことがありましてね。
戦勝祈願というわけではありませんが、どうか、僕の部下にお慈悲をいただきたいのです』
『お慈悲……?』
『ええ、エナジードレインです』
『?』
童女のように目を丸くさせながら首を傾げるデュテュは、無意識の色香をまき散らしていた。
まるで男を誘うような蜜の香りを首筋の後ろから漂わせる彼女から少し距離を取りつつ、ゴールドマンは慇懃に腰を折る。
『ご存知ではなかったのですか? 姫様の持つエナジードレインの能力には、いくつかの作用がございます。
魔力を引き出す以外にも、相手の精神的な負担を軽減する効果があるのですよ。
僕は小さいころ、あなたの母君様からそう教えられたことがあります』
『ほえ~……は、初めて聞きました。
え、で、でも、その、見知らぬ方とちゅっちゅをするのは……!?』
『……いえ、大丈夫です。
そこまでなさらずとも、身体接触での吸精で構いませんので』
『あ、そ、それなら。はい、任せて下さい』
あきらさまにホッとした顔で両手を合わせてうなずくデュテュに、ゴールドマンは微笑む。
彼がデュテュの母――リーリュに聞いたということは紛れもない事実だ。
サキュバスの中でも高位に位置するものだけが使える特殊なエナジードレインは、確かに相手の心身の苦痛を和らげる能力がある。
だが――それは失われてしまうわけではない。
『ならば早速』
ゴールドマンが連れてきたのは、隻腕の壮年。
彼の放つ陰気は部屋の雰囲気を一変させた。まるで闇を煮詰めたような瞳を前に、しかしデュテュはまるで動じていない。
それはそれでずいぶんと大したものだが。
『この男、20年前の戦で全てを失ったものです。
このたび、人間族に復讐する機会を与えられたということで、これまで以上にデュテュさまに忠誠を誓う所存でございます』
『ヒメさま』
しゃがれた声は老人のようだった。
数々の戦歴を重ね今ここにいることが奇跡のような傷を持つ男だ。
ひざまずく彼は、誰もが目を逸らさずにはいられぬであろう鬱々とした目でデュテュを見上げ、頭を垂れる。
『お慈悲を』
『ええ、わたくしにできることなら』
ためらいもせず、デュテュは彼の後頭部に指を当てる。
口唇での摂取よりも効率は劣るが、それでもデュテュの持つ力を考慮すれば十分すぎる。
王たる資質。そんなものがあるとすれば、デュテュには確かに不足しているかもしれない。
だが、聖女たる素養は十全に備わっているのだ。
『では……』
ギュッと目を閉じるデュテュ。軽く開いた唇から吐息が漏れる。
エナジードレイン。碧色の魔力の輝きが男からデュテュの体へと吸い込まれてゆく。
十数秒。
臍帯で繋がれた母子のようにすら見えるふたり。
その行ないはなぜだろうか、尊いものに見える。
黒い双羊角を持つ魔族であるそのデュテュが、まさしく聖女のように見えたからかもしれない。
わずかな時間で、エナジードレインは完了した。
『ふぅ……』
デュテュはよろめきながら指を離す。
膝が崩れかけ、その体を素早くゴールドマンが支えた。
『大丈夫ですか? デュテュさま』
『ええ、ええ、それは……でも……』
終わった後のデュテュの様子が、少しおかしい。
ほろりと彼女の瞳から一粒の涙が流れ落ち、ゴールドマンの手の甲を濡らす。
デュテュは信じられないという表情で、両手を顔の前に掲げながら。
『あれ……? これは、その……どうしたことでしょうか……?
わたくし、なんだか、あれ……?』
『……』
『なんでしょうか……熱いものが、胸を……。
これは、どういう……あれ、あれ……?
わたくしがいるのは、ここは……? ああっ……?』
『どうやら、吸い取った魔力がデュテュさまの中でうまく調和せず、消化不良を起こしているようですね。
大丈夫です、すぐに飲み込めますよ。問題はありません。
おい、おまえはもう下がるといい。ご苦労だった』
はい、と小さな声をあげて部屋を退出する男。
ふたりきり残され、ゴールドマンは笑みを浮かべている。
視力を失ったように手を伸ばすデュテュの指を、そっと握るゴールドマン。
『ゴールドマン、これは……?
わたくしの中に、見たこともない景色が……。
いったいこれは、どういう……黒いものが……』
『大丈夫です、デュテュさま。なにも問題はありません。
これからもよろしくお願いします、デュテュさま。
皆、あなたさまを心から愛しているのです』
デュテュはついに口を押さえ、えづくようにしてその場に膝をついた。
涙を溜めた瞳で悪寒を耐えながら、そのままの容態でしばらく体を震わせていた。
『また、お慈悲をいただきに参りますね』
その日から――ゴールドマンはたびたび魔王城を訪れた。
デュテュの『役目』がまたひとつ、増えた――。
◇ ◆ ◇ ◆ ◇
『イラちゃん!』
『……デュテュさま』
天鳥騎士イライザールが発見されたと聞いたのは、戦争が始まってしばらく経ってからのことだった。
ベリフェスの街の地下牢から助け出された当時の彼女はひどく衰弱し、筋力や魔力の大部分を失ってしまっていた。
容姿は整えられていたものの、かつて戦いの中でちぎられた翼はまるで稚児のもののように小さい。
けれども、天幕にやってきた彼女の、瞳の中の覇気は失われてはいなかった。
『……おめおめと生き恥を晒して、戻ってきたのだ。せめて一矢報いなければ……。
デュテュさま、この私に汚名返上のチャンスをくれ……!』
『イラちゃん……』
『人間族をこれまで以上に上手に殺してみせるさ……だから……!』
ひざまずく彼女の言葉に、デュテュは胸を抑えた。
イラは半年に渡る監禁生活の中で、もしかしたら正気を失ってしまったのではないかという不安が湧き上がる。
きっとひどいことをされて、それでも復讐の焔だけは絶やさずに、ずっと助けだされる日を夢見て生きてきたのだ。
どれだけ辛く、長い日々だったろうか。
デュテュはノドを締めつけられるような気持ちになった。
そうだ、彼女は同じだ。
戦争の被害者となったゴールドマンが連れてくるものたちと同じく、心にひどく大きな傷を負ったのだ。
ならば自分にもできることがある――。
きっと、そうだ。
『……』
『……デュテュ?』
デュテュはイラの頬に手を当てる。
軽く撫でるようにようにして顔をあげさせると、彼女の目を見ながら微笑む。
指先に魔力を灯し。
『イラちゃん……でも今は少し、休んで、ね』
『一体、なにを――』
彼女の辛さも憎しみも、その負担を少しでも軽くできるのなら。
やるべき意味はある。その価値はある。
デュテュは渾身の力でイラにエナジードレインをかける。
『まさか、デュテュ、同性へのエナジードレインを……?』
『ええ、あの、やったことはなかったんですけれど……。
でも、今のわたくしならきっと、できるような気がしまして……その』
規格外のサキュバスによる力は、ここでも作用した。
本来ならありえないはずの性別の垣根を越えた力は、イラの感情を指でくすぐる。
『……こ、これは……』
『ね、なにもかも、わたくしに委ねてください。
ずっと今まで、イラちゃんに守られてくるばかりだったわたくしが、
ほんの少しだけれど、恩返しができますように』
しばらくの間、吸い取り、吸い取り、吸い取り尽くして。
イラはそれこそ、夢見心地のようにエナジードレインを浴びていたけれど。
いささかやりすぎてしまい、爪も牙も抜いてしまい、その後前線に送り出されて廉造の補佐となったイラは、まるで別人のように朗らかになっていたらしいが。
それはまた別の話。
◇ ◆ ◇ ◆ ◇
天幕の中、列をなす兵たち。
彼らの膿を吸うように、デュテュはエナジードレインを行なう。
『あなたに慈悲を』
『……ありがとうございます』
夜の闇に淡く光る碧色の光に照らされたデュテュの姿は、彼らにとってまるで女神のようにも見えていただろう。
一対の羽根を持つ、先が三角に尖った尻尾の聖女は、ただただ彼らの痛みを空へと還してゆく。
◇ ◆ ◇ ◆ ◇
繰り返し、何度も吸精することで、デュテュは少しずつ変わっていった。
笑顔に陰りが見えるようになり、暗闇と独りになることを恐れ、そのたびにそばにいてくれるゴールドマンに信頼を寄せるようになった。
暗黒大陸解放戦争が続く中、徐々に彼女の人間に対する拭い去れなかったほどの恐怖心が。
薄れたわけではない。
真っ黒な『憎悪』と『憤怒』によって塗り潰されていったのだ。
前線で戦を支えるデュテュは、自ら剣を取った。
◇ ◆ ◇ ◆ ◇
すべてはゴールドマンの計画である。
デュテュの、サキュバス族の奥義。
エナジードレインを凌駕するエナジードレイン。『ライフドレイン』。
それは対象の魔力だけではなく、その思考や感情、能力の一部、極めれば魂さえも奪い取るほどの力となる。
二十才を迎えたデュテュの覚醒により、彼女は次々と敗残兵たちの意志を受け継ぎ続けた。
そう、魔力だけではなく、『彼らの感情の一部』を担っていったのだ。
真っ白なキャンバスに怒りの赤が、憎しみの黒が、妬みの色が、次々とぶち撒けられてゆく。
かつてなにも知らなかった子どものような女性は、もうそこにはいない。
やがてデュテュはこの戦いの本当の意味を知る――。
◇ ◆ ◇ ◆ ◇
ブラックラウンドを落とし、勝利の美酒に酔いしれる港にて。
デュテュの前には400の兵がいた。
彼らは魔族国連邦の中でもはぐれ者の集まり。
一流の敗北者。末期の術師。怨念に取り憑かれた亡者。復讐鬼。
即ち――老いた魔術師たちの群れである。
いつかこのような夜が来ることを夢に見て、そのためだけに人生を捧げ。
不具の身体を引きずり、蛇のように蠢きながら人間族の首を噛み千切る狂犬どもだ。
それが400。
正道を逸した邪悪なる魔物たちの嘆願の中心に、彼女はいる。
魔帝の娘デュテュ。
この400の者たちの心を残らず吸い取り、自らも魔と化した姫。
乞われ、縋られ、願われ、訴えられ。
これが魔族国連邦に対する裏切りだというのはわかっていた。
進む先は崖であり、狂気の鼠の群れは海に飛び込む以外はないのだとも。
『……』
自ら争いを拡大することなど、言語道断であり。
己の人生の20年への背信行為であるというのは、百も承知だ。
だが――それでも。
デュテュが、どうして彼らの手を振り払うことができただろうか。
人間族への復讐のためだけに20年を生き続けてきた男たち400人。
8000年の歳月をその身に取り込み、もはや抗う術などどこにもなかったのだ。
デュテュは海の前、手を伸ばす。
その先にある、ダイナスシティ。かつてアンリマンユがあと一歩というところで攻め滅ぼすことができなかった人間族の本拠地を掴むように。
静まり返った男たちに、デュテュは告げた。
『――わたくしとともに、参りましょう。
あの、ニンゲンが支配する土地へ』
そしてその日、魔帝が誕生した。。
◇ ◆ ◇ ◆ ◇
一軍を率いることは、そう難しくはなかった。
ゴールドマンが常にそばで補佐してくれていたからだ。
彼がデュテュに言ったことはただひとつ。
『わからないことや難しいことがあるのなら、言葉を発する必要はありません。
貴女はただ微笑んでいれば、周りの者たちは納得します』
言う通りにした。
魔力が増加しても、デュテュ自身の能力が向上したわけではない。
精一杯外面を取り繕ったけれど、それでも無理がある。
デュテュは言葉少なげに微笑み続けた。
やがてレ・ヴァリス率いるピリル族と合流し、ハウリングポートを攻め落としたが。
頭の中は自問自答の繰り返し。なぜこんなことになったのか、どうして自分はここにいるのかわからない。
けれども、自分を信じてくれていた400の兵の前ではそんな素振りは一度も見せなかった。
デュテュは魔帝への道を自ら定め、自ら歩んだのだというその重責があった。
慶喜とロリシア、それにシルベニアとイグナイトが港を訪れたとき、彼女の心は今までになく、ひどく粟立った。
(……ごめんなさい、ヨシノブさま……本当に、ごめんなさい……。
わたくしたちの願う平和は、あなた様がこれから、叶えてくださいませ……)
頑なに口を閉じたまま、デュテュは淡く微笑む。
喋れば必ずボロが出る。それはさんざんにゴールドマンに釘を刺されていたから。
魔帝としての自分と、デュテュとしての自分。ふたりの己に挟まれ苦悩する姫。
それでもレ・ヴァリスの前に処刑されようとしている慶喜を救ったのは、彼女に他ならない。
『……ヴァリス。
そのものは牢に閉じ込めておきます』
火事場の力というものがあるのなら、恐らくあれがそうだったのだろう。
デュテュは魔帝としての威厳を保ちながらも、慶喜の命を拾い上げることに成功した。
きっとゴールドマンは快い顔はしていなかっただろうが。
だが、デュテュの意志を汲み取ってくれたのだ。
(……本当に、ごめんなさい、ヨシノブさま……。
これからの魔族国連邦の未来は、あなたにかかっています……。
本国に戻ってからも、ロリシアちゃんと一緒に、どうぞお幸せになってください)
心情を吐露することなどは許されぬ。
そんなことをしてしまっては、誰を巻き込むかわからない。
謝罪の言葉が漏れるのは、きっと悪いことをしているという自覚があるからだ。
そうとも。願いを叶えるために願いを踏みにじっているのだから。
人を殺し、街を焼き、仲間を裏切ることが『良いこと』のはずがない。
わかっている。
わかっていた。
デュテュは歳相応に強く、思いやりがあり、優しく。
――けれど、歳相応程度に、弱い少女なのだから。
ゴールドマン、シルベニア、イグナイト、そして400の兵。
様々なものを巻き込み、もはや戻れぬ道であることも知っている。
生き続けることは苦痛であったが、それ以上に周りの人たちが戦争で命を落としてしまうであろうことが辛かった。
魔族帝国の兵。彼ら全員がそれを望んでいたとしても、だ。
この頃にはもはや、デュテュの想いは固まっていた。
――いつ、どこで、どのように死ぬのが、もっとも皆のためになる形か。
デュテュはそればかりを考えるようになっていた。
◇ ◆ ◇ ◆ ◇
冒険者がベリアルド平野に陣を敷いたため、そこに軍を向かわせている途中だ。
いよいよ決戦だという、その矢先。
シルベニアに、イサギが死んだことを伝えられた。
それをしたのが、シルベニア自身であるということも。
『……シルベニアちゃんも、お辛かったのですね』
思わず言葉が口をついて出た。
そんなことをつぶやいたら、シルベニアに思いっきり平手をもらった。
『あたしのことなんてどうでもいいの!
……デュテュはどうしてそんなに人のことばかり気にしているの。
デュテュが言えば、魔族たちは皆、デュテュに従うの。
なのにどうして、なにを我慢しているの。
このままじゃ、デュテュも死ぬのよ。父様や母様みたいに』
あまり表情は変わらないけれど、そのときのシルベニアは泣きそうな顔をしていたと思う。
付き合いの長いデュテュにだからこそわかる。
それにシルベニアは暴力的な気質があるが、決して自ら手を上げたりはしなかった。
魔法と違って叩く手も痛いのだから、そんなことは合理的ではない、と。
信条を曲げてまで、自分のことを思いやってくれるシルベニアが、誰よりも愛しかった。
やはり彼女は――ただひとり対等に接してくれていた友人なのだ。
その想いに、胸が熱くなる、だが――。
言っていることはまるで違う。
違うのだ。
もはやデュテュの言葉になど、彼らは従わない。
最初から、デュテュは彼らに従う以外にはなかったのだ。
死ぬのは、もう、いい。決めたことだ。
シルベニアを巻き込むのは、辛い。
デュテュはシルベニアを突き放し、彼女もそれに従った。
おそらくはこれでいいのだと、思ったから。
去ってゆくシルベニアの後ろ姿を見送りながら、デュテュは胸に手を当てた。
『……イサさま……』
知人の訃報を聞くのはこれが初めてではない。
母は自分の目の前で冒険者に殺された。父代わりの五魔将ミョルネンもだ。
だから、今度も大丈夫だと思った。
いつものように、顔に出さず、胸の中だけで泣けば、それで終わることだと。
だが、これは自らの行動の結果起きてしまった出来事だ。
不幸な事故――などとは呼べない。
『イサギの死』という現実が、肺腑を抉る。
うまく呼吸ができない。
そっか。
死んだのか。
初めて彼と魔王城で会って。
短いけれど、とても濃密な日々を共に過ごして。
そのひたむきな姿に惹かれて。
それでもいつも辛い顔をしていた彼のそばにいたくて。
そっか。
でも、死んだのか。
魔王城の外で、約束して。
いつかまた会おうって、言ってくれて。
そっか。
死んだのか。
リミノとふたりで見送って。
彼も大きく手を振ってくれていて。
そっか。
でも、死んだんだ。
真っ黒い液体が心臓から染み出し、全身へと循環してゆく。
心も、魂も、もはやなにもかも触れれば砕けてしまいそうなほどに亀裂が入り。
デュテュの世界からゆっくりと色が消えてゆく。
イサギ。
勇者イサギ。
自分だけが気づいていた彼の秘密。
最後に送った手紙を、彼は読んでくれただろうか。
20年前、自分の父を討った勇者。
その行為は多くの人を救い、多くの憎しみを生み出した。
だがきっと、彼も苦しんでいた。
今ならそれがわかる。きっとわかる。
でも、死んだ。
この世界のことを誰よりも思いやっていてくれた人が。
死んだ。
――否。
自分の決断が、彼を死に追いやった。
そうだ。
『殺した』のだ。
――デュテュが、デュテュ自身が。
彼は紛れもなく、デュテュにとって特別な存在だった。
そんなのはわかる、わかっている。
こんな血に汚れた自分が救われるはずがないのも、わかっている。
だけど、だけど。
たぶん、心のどこかで思っていたのだ。
いつかどこかの英雄譚のように。
勇者に救われる姫。そんな物語を。
ロリシアも彼が来てくれたら、なんて言って。
もしかしたらなんて、夢想して、逃避して。
自分のようなものが、だ。
本当に、くだらない。
信じているのは、自由だったから。
そんな夢を、みて。
ああ。
でも。
そっか。
彼はもう。
もう。
ああ。
ああ。
◇ ◆ ◇ ◆ ◇
ああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ。
◇ ◆ ◇ ◆ ◇
そして――今。
ここ、ベリアルド平野にデュテュは立つ。
先ほどから慶喜は、息を切らして、必死にデュテュを説得しようとがんばっているけれど。
でも無駄だ。そんなことはすべて。
もうないのだから、自分たちにはもうなにも。
空っぽだ。この心を埋められるのは、血でしかない。
だのに、彼は言う。
「きみだよ。デュテュさん。
この人たちにとって大切なのは、間違いなく、
――きみなんだ」
そんな、
『とても残酷なこと』を。
「――え」
顔をあげたデュテュは、思わず振り向く。
自分を後ろから見守ってくれていた兵たちは皆、目を逸し、あるいは空を、地面を見つめ、その慶喜の言葉を肯定とも否定とも言えぬ雰囲気でやり過ごそうとしていたが。
確かに、わかる。
それは今までデュテュが見ないようにしてきたことだったから。
「……そんな」
でも、
今さらそんなことを言われても。
言われても、どうしようもない。
どうしようもないのだ。
ここまで来てしまったんだから。
彼を――殺めてしまったのだから。
本当はデュテュはいつでも戻れていたのだろうか。
あの尊き日々は、すぐ近くにあったのだろうか。
涙を流しながら訴えれば、聞いてくれたのだろうか。
ゴールドマンも自分の言う通りにしてくれたのだろうか。
後悔ばかり過ぎ去って、もうなにも考えられない。
そのとき、ついに慶喜が支えていたあの『極大法術』の輝きが失われた。
封術師慶喜の魔力が底をついたのだ――と思ったが。
違う、慶喜は頭を抑えながらこちらを見据えている。
まだ彼は諦めていない。
「デュテュさん、ぼくは最後まで、あなたを説得するつもりだ」
「……魔王さま」
「好きな10才の子を、ずっと付け回していたんだ。
ずっと、ずっとだよ、毎日だ。話しかける機会をひたすら伺って、ずーっとね……!
ぼくはしつこさには定評があるんだ。
だから、きみがうなずくまで、絶対にやめないつもりだったけれど」
「……」
デュテュは腰の剣を揺らす。
これ以上なにかを言われるよりも早く。
今なら彼の命を断てる。
デュテュの今の力なら、一撃で。
彼もまた人間族だ。
――人間族はすべて、すべて敵なんだ。
そうだ、認めればいい。
もはやこれが自分たちにとっては『善いこと』だと。
間違えた道でも、その先になにかがあるのなら。
その地獄のような場所にたどり着くために。
ドス黒い感情に支配されたデュテュはわずかに足を進める。
デュテュの前にイグナイトが、そして慶喜の前に廉造が立つ。
滅ぼさなければならない。
自分たちにはそれ以外にやるべきことなど、もうないから。
すでに理屈の域は越えている。ここに立つのは400の生ける屍でしかない。
生者を沼に引きずり込む毒婦でも構わない。
それが今の自分には相応しい――。
なのに慶喜は一歩も引かずに。
なにかを達成したような顔で、口元を綻ばせて。
「時間稼ぎ、うまく、できたかな」
「チッ」
横に立つ廉造が舌打ちし、頭をかいた。
「上出来じゃねェのか、魔王サマよ」
「はは……」
なんだ、なにがだ。
彼はなにを言おうとしている。
いや、もう関係はない。
すべては過去のこと。
斬る。
斬る。
斬る――。
「デュテュさま――」
――そんなデュテュの腕を、イグナイトが掴んだ。
ハッとして我に返る。
「イグナイト、なぜあなたがわたくしを」
「――デュテュさま」
その手は力強く、振りほどけない。
けれどもデュテュが身をよじると、彼はすぐにその手を自ら離し。
そして、ひざまずく。
「お待たせいたしました、デュテュさま」
「だから、あなたはなにを」
「もう、良いのです。もう、あなたは役目を立派に果たしました」
「まだわたくしたちの戦争は、始まってすら――」
デュテュは言葉を最後まで言い切ることができなかった。
イグナイトは横に退く。
気づいたからだ。
道の先からやってきた、その人に。
ロリシアに支えられながら、こちらに向かって歩いてくる影。
ひとりの少年。
多量の血により赤く染まった外套を身につけた、中肉中背の男。
黒髪も固まった血で張り付いて、荒い呼吸はここまで聞こえてきそうだ。
杖をつき、腰に剣を差し、仮面をかぶり、それでもわかる。
彼だ。
「――」
彼が。
「――」
彼は。
拓けた平野は、たったひとりの男を迎える舞台のようだった。
震えるデュテュの視界が狭まって、彼以外は見えなくなってゆく。
生きていた。
その彼が。
本当に。
生きている。
色が、音が、香りが、息吹が。
なにもかもがデュテュの心に戻ってゆく。
夢でも幻でもない。
ああ。
なんという。
ああ、なんということか。
言葉を失ったデュテュの代わりにか、イグナイトが口を開く。
「あれだけの傷でレ・ヴァリスを倒し、よくぞ無事でここまで」
イサギは仮面を手で支えながら、小さく首を振った。
彼のひとつひとつの仕草が、デュテュの魂に小さな火を灯す。
イサギは、イグナイトの言葉に片腕を掲げ、応えた。
「なぁに、ちょろいもんさ」