9-9 切り札の男
慶喜の頭はこれ以上ないほどに澄み切っていた。
緊張感はある。もちろんだ、こわいけれど。
でも、それ以上に――やるべきことが明確にわかっているから。
まずは挑発からだ。
やり方は知っている、漫画で習った。
「っていうかゴールドマンさん、こんなぼくみたいなのに本気を出して恥ずかしくないんですか?」
「ほう」
「言っておくけどぼく、戦いの経験なんてこれっぽっちもないんですよ?
自慢じゃないんですけど、ブラザハスで野盗が現れたから、
示威行為の一環として魔王の力を誇示してきてはいかが?って提案されても、
いやぼくそういうのちょっとこわいんで無理です、ってずっと断ってきたんですからね」
「ホントに自慢じゃないですね……」
後ろからロリシアがうめく。聞こえない。
「いいんですかぁ? 誇りとか、プライドとかぁ。
今まで積み重ねてきたものとかが、なんかもう、なくなっちゃうんじゃないですかねぇ?
だってこんなぼくに本気ってそんなのありえないっすよ。
ぼくですらぼくに本気なんて出さないっすもん。いやマジで、これマジで」
「ふむ」
先ほどからロリシアの好感度メーターが下がり続ける音が響いている気がするけれど、構わない。
真っ向から戦って勝てる相手なら、そら格好良く立ち向かうさ。
だが、ゴールドマンはそんなハンパな相手ではない。
「ていうかなんなんすか、ゴールドマンさん。
そんなに妹さんをけちょんけちょんにして……もしかして、その、特殊性癖持ち、だったりするんすかね?
実妹へのDVでしか興奮できない体質とか、なんかもう、あれっすよね……。
それ役満って感じっすよね……」
「……あの、ヨシノブさま、一体なにを言っているんでしょうか?」
ロリシアの冷めたツッコミを聞き流しつつ。
とりあえずこれぐらいでいいか、と慶喜が剣を片手に――今まで気付かれない程度の早さで間合いを詰めていたのだ――踏み込んだところで。
「そうですね。ならばまずは――」
ゴールドマンが片手に魔力を浮かべているのを見て。
「――60%からいきましょう」
「ちょ――」
待って、と言えず。
慶喜の選択肢はそのほとんどすべてが瞬時に潰された。
残る手段は、全力の反魔結界を描くことだけだった。
「僕も自分の力を試してみたいんだ。
封術師が相手なら、実験相手としては申し分ない。
しっかりと――防御してくださいね」
「うえ――」
次の瞬間叩きつけられた衝撃波は、ゴールドマンがシルベニアを吹き飛ばして、地面に巨大なクレーターを作ったあの一発であった。
慶喜は明らかに法術のほうが得意だ。これは才能というよりも、むしろ彼自身の本能と呼べるものだ。
誰かを害するよりも、自分の身を守るための術のほうが上手にコードが描ける。これは慶喜を知るものなら恐らく誰もが納得することだろう。
そんな彼が惜しげも無く魔力を注いで創り出す半球体の反魔結界は、単純な『硬さ』だけならば、かつての勇者イサギの仲間であるセルデルにも勝るとも劣らないほどの性能を持っていた。
だが――。
軋む。曲がる。揺れる。薄れる。
とっさの防御だったとはいえ、これほどに追い込まれるとは。
「ろ、60%!? これで、60%っすか!?」
慶喜は目を剥いた。
彼にしがみつくようにして歯を食いしばり、ロリシアは必死に悲鳴をこらえている。
なんという威力の魔法だ。信じられない。大地が砕け、粉塵が舞い上がる。
「まじで……」
いや違う、だめだ。呆気にとられている場合じゃない。
足を使って、ゴールドマンをかき回して、ペースを乱して、怒らせて――。
「ほう、60%の力は受け止められますか。
ならば少し数値をあげさせてもらいましょう。70%──」
「――ちょ」
慶喜は結界に更なる魔力を注ぎ、補強を急ぐ。
より強固で、より柔軟な守りを。手をつくして。
「――ッ」
再び魔力の塊がぶつかり、魔世界の歪みが肉世界を襲う。
明滅する結界。まるで持たない。鎧袖一触。そんな言葉が脳裏をよぎる。
だが、慶喜の焦りとは裏腹に、結界は耐え切ってくれた。
あるいはそれは願いによって支えられたのではないかと思うほどに、儚い勝利であり――。
(これが70%っていうことは、つまり――!?)
彼はここから、あと三段階威力をあげることができる――。
なんという残酷な事実。
もしゴールドマンの使うものが魔法ではなく『魔術』だったら、まだやりようはあった。
魔術が相手なら、慶喜は『万魔棄却』によって、そのコードを切断することができる。
だが、魔法はだめだ。魔法師には死角がない。即時発動にしてこの威力。そんなもの――。
「ずるいでしょう、そんなの!」
思わず叫ぶ。ゴールドマンは言われた意味がわからないとばかりに首を傾げて。
「封術師ほどの方がなにを言われますか。
あなた方に刻み込まれたその本当の力が解放されれば、僕などとてもとても」
「なんなんだよそれ!」
本当の力など、そんな都合の良いものにすがってはいられない。
怒鳴る慶喜はさらに法術を強化して、ゆくのが精一杯だ。
結界の中、まるで身動きが取れない。
「こんなの、こんなの」
だめだ。勝てない。
というか戦いにすらなっていない。
ゴールドマン強すぎ。
チートすぎ。
慶喜の心は途端に折れかけるけれど。
でも、諦めるわけにはいかないから。
「ヨシノブさま……!」
「――うん、うん」
だってそばに、ロリシアがいるんだから。
シルベニアがまだ生きているんだから。
「まったくもう――」
慶喜の描く結界法術の質が変わる。
もはやコードの出来栄えを競うのはやめだ。
ただただ、膨大な魔力を彼は流し込む。
禁術によって得たその魔力のすべてを。
「いいじゃないかよ、ゴールドマン……さん。
このまま何時間だって、ぼくは耐えてみせるよ。
どちらが魔力が枯渇するか、わからないよね……!」
「は」
ゴールドマンはそんな慶喜の覚悟を笑い飛ばす。
「なにをおっしゃるんですか? 魔王様」
左手に魔力の塊を握り締めながら、ゴールドマンはたやすくコードを詠出術してみせた。
それは――『万魔棄却』。
――よって、慶喜の結界は『破棄』される。
音もなくバラバラになって解けてゆく慶喜の結界。
凍りつく男の顔。
ゴールドマンは言葉から偽りの敬意さえも取り去る。
「言っただろう?
あなたは『実験相手』だと。
身の程がわかったのなら、もう一度お願いするよ。
先ほどの結界法術をな」
「え、あ……」
経験が違う。実力が違う。格が違う。
――次元が違う。
慶喜の思考はもはや『勝つ』ことではなく、いかにしてロリシアとシルベニアを逃がすことができるのか、に変わっていた。
だからこそ――。
「あああああ!」
「ほう」
一転攻勢。退路のない慶喜は、叫びながら剣を構えて突撃する。
それは意外にも――ゴールドマンの虚をつくことができた。
左右にステップを踏み、慶喜はゴールドマンに肉薄する。
彼は障壁を作りその剣撃から身を守ろうとするが――。
「――術式・万魔棄却!」
慶喜がその壁を発動前に阻止した。
ならばあとは彼の放つ魔法――衝撃波だが、あれほどの威力があるものは至近距離では使えまい。
「ふむ――」
ゴールドマンはなんらかの術を組んでいる。大丈夫だ。こちらのほうが早い。
慶喜は剣を突き出す。それは慶喜にとってまさに会心の一撃とも呼べるものだったのに――。
――剣がゴールドマンの肩を刺す直前、その勢いが鈍った。
「ふん!」
至近距離でベアリング弾を撒き散らすように、魔法を放つゴールドマン。
炸裂したその魔法は、慶喜の全身を打ちのめす。
宙で何度も身を跳ねさせながら、慶喜は大きく吹き飛んだ。
ああ、と心の中でうめく。
慶喜は悟った。
これが自分の、決意の臨界点なのだ――。
「ヨシノブさま!」
そのロリシアの叫びに突き動かされたように、ぴくりと。
シルベニアが指先を動かす。
「……ヨシノブ……?」
体が重い。顔をあげるのが精一杯。
痛みと高熱の中、シルベニアの視界には兄と戦う男の姿。
それが魔王慶喜と知り、シルベニアが抱いたのは疑念。
なぜ彼がここに、なぜ彼がゴールドマンと戦っているのか。
――逃げろと言ったのに。
「ほんっと、バカ……なの……」
誰のためか知らないけれど。
もし自分のために戦ってくれているとしたら。
そうだとしたら――。
指先に魔力を集めようとしても――生命維持が限界の、今の彼女の体力では――もはやそれすらもできず。
駆けずり回る慶喜の背中を見つめるのが精一杯で。
「ばか……」
そう無表情でつぶやくシルベニアの瞳から、涙が。
するりとこぼれ落ちて。
ふたりの少女に涙を流させた慶喜は今。
ゴールドマンを前に必死で身を固めて。
進退きわまった慶喜が信じるものは、もうひとつしかなくて。
「ぼくじゃあ助けられないけれど!
でも、今、本当のヒーローが……っ!」
慶喜は頑なに信じ続けていた。
このままずっと守り続ければ、これほどの騒ぎを起こしたのならば。
自分が時間を稼げば、彼が来るのだと――。
『わ、わかりました……
時間稼ぎは、任せてください』
自信もなにもなかったけれど。
そう告げた慶喜に、イサギは頬を緩めて。
あの、滅多に笑うことのないイサギが。
ようやく笑って。
『ああ、頼んだぜ』
と言ってくれたのだ。
「うおおおおお!」
全魔力を注ぎ込み、結界を張る。
慶喜は誰がヒーローなのかを知っている。その名を知っている。
自分を立ち上がらせてくれた彼ならば、きっと来てくれると。
そんな夢みたいなことを考えて。
けれど――。
「もしかして魔王様が待つのは、あのイサという異世界人かね?」
ゴールドマンは両手に魔法弾を浮かべながら、慶喜の心の中さえも読み取ったように。
「……え?」
「ならば滑稽と呼ぶより他ないな。
無知というのは、本当に幸せなことだよ」
「……なんだよ、おまえが、
イサ先輩の、なにを知っているんだよ……!」
声を荒げる慶喜に、ゴールドマンは冷笑。
虫を払うように魔法を放ち、慶喜を弄ぶ。
そして告げる。
彼がその目で確認した事実を。
「彼は――死んだよ。
おまえが守ろうとしていた、
そこのシルベニアが、殺したんだから」
「――え?」
血まみれの慶喜が瞠目した。
戦闘中だというのに慌ててシルベニアを見て。
「え、どういう……」
「イサさまが……え……?」
ロリシアもまた事実に打ちのめされたような顔をして。
ただひとりシルベニアが、なにも言えずにじっと堪えていた。
――だって、本当のことだから。
「残念だったな。
確かに強かったよ、あの男は。
レ・ヴァリスをあわやというところまで追い詰めたのだからね。
シルベニアに腹を撃ち抜かれて、それでも戦うことをやめないんだ。
結局――僕とシルベニアの十字砲火によって海の藻屑と化したのだけどね」
ゴールドマンは力を持て余すように空中で何度も魔法を破裂させながら。
「さて、あとの希望はなにがある?
デュテュか? レ・ヴァリスか? それとも冒険者たちか?
ひとつずつあげてもらっても構わないよ。
それが絶望に変わる瞬間の顔を、もっと僕に見せておくれよ」
ゴールドマンの言葉に、一同は誰もなにも発することができず。
まるで死を待つ罪人のような顔で、唖然として。
慶喜はついに剣を取り落とす。
「……先輩が、そんな……」
膝をつき、うなだれて。
もう、これ以上は。
戦え――。
――。
――いや。
「先輩が、死んだって――」
顔をあげる慶喜。
その目に再び、光が。
「ぼくがロリシアちゃんを、シルベニアさんを、守るから、だから。
だから――!」
なおも立ち上がる慶喜にゴールドマンは「ほう」と驚嘆する。
まだ慶喜の心は折れていない。
ここで倒れては、イサギに顔向けができないから。
慶喜は真っ赤に染まった両眼で、男を睨みつける。
「おまえなんかの思い通りに、させるわけにはいかないんだよ!!」
「よく言った」
それは。
誰の言葉だったのか。
時が止まったようだった。
振り返る慶喜。
黒衣をまとい、現れたのは仮面の男。
「お前の想い、受け取った」
イサギ――。
「……ばかな、まだ生きていただと……?」
ゴールドマンが驚愕する。
「イサ……生きて……?」
「ああ、イサさま」
シルベニアやロリシアもまた、驚きに目を見張り。
ゆっくりと歩み寄ってくるイサギは、新たな仮面をつけている。
左手の杖をつきながら、重そうな剣を下げ、引きずるように歩いてきて。
「せんぱ、せんぱい……」
次の瞬間、慶喜の張り詰めていたものが一気に決壊した。
この異世界に来て、初めて友達になって。
いつでもどこか辛そうな顔をして、苦しそうに笑っていて。
そんな彼が、こちらにやってきて。
「あ、ああ……イサ、先輩……生きて……」
「俺が死ぬはずないだろ」
イサギは、慶喜の肩をポンと叩く。
「だって、あいつが……あいつがぁぁ……」
「泣くなよ、慶喜」
「あいかわらずっ、仮面、似合ってまっすね……っ」
「だろ」
微苦笑するイサギは、ゴールドマンに目もくれず。
ロリシア、それにシルベニアが生きているのを確認したイサギは、慶喜の持つ剣を一目見て気づいた。
「ゴールドマンとはブラザハスからの付き合いだったか」
「は、はい……」
「斬れなかったんだな」
「……っ」
慶喜はびくりと震えた。
打ち出せばいいだけの魔術と違い、剣には手応えが残る。
相手を殺すために、明確な殺意がなければならない。
だから慶喜は剣が苦手だった。
剣撃が鈍ったのは、そのため。
慶喜は結局――ゴールドマンを殺すほどに憎めなかったのだ。
その覚悟が、なかったから。
「わかっている。いいさ」
「で、でも……」
「誰もお前を臆病者だと言いはしない。
慶喜。お前はボロボロになってでも、『全員』を守ろうとしたのだろう。
だったらそれでいいじゃないか。お前は良い奴だよ」
「せんぱい……」
慶喜を軽く押し、ゴールドマンに近づく。
イサギは仮面をかぶり直して。
「――だから、後は俺に任せろよ」
ゴールドマンは涼し気な目でイサギを見やる。
「まさか生きていたとは驚いたがね。
その顔色、傷、包帯、どこからどう見てもまともではないだろう。
立っているのがやっとといった有り様ではないか魔王パズズ。
無駄死だな。逃げ帰れば命だけは助かったものを」
「命よりも大事なものがあるんだよ。
譲れねえもんがな」
「なんと愚かな」
そのゴールドマンの嘲りを。
イサギは断ち切る。
「笑うなよ」
「……は?」
「慶喜の覚悟を、お前が笑ってんじゃねえ」
「なにを」
砕けた道を進む男がひとり。
拳を握り、一歩ずつ。
「魔王は死んだ。
ここにいるのはもう、誰でもない。
友の想いを叶えるための剣。
ただの切り札の男だ」
赤く輝く視線が交差し、衝突したとき。
ゴールドマンもまた、彼の本気を知る。
「ふ、いいだろう。
レ・ヴァリスを倒したおまえならば申し分はない。
僕の100%の一撃を食らわせてやろう」
「やってみろ」
「……ふん」
恐れることはない。ゴールドマンは彼の破術の仕組みも知っている。
レ・ヴァリスをそばで見ていたのだ。分析は完了していた。
あの目が光った直後にあらゆる魔法が効果を失う。それが『破術』の効果だ。
ならばゴールドマンは距離を保ち、彼を近づかさせなければいい。
どうせ破術は連発できないのだから。
まずは牽制の一撃。
こんなくたばり損ないの男は、その一撃で消し飛ばしてやる。
そう思って、右手に魔力を集めるゴールドマン――だが。
「……」
魔力が集まらない。
心臓が高鳴った。
冷や汗が、背中を流れる。
――なんだこれは。
ゴールドマンの推理は間違っていたのか?
彼はまだ破術を放っているようには見えないのに。
「――ラストリゾート・フィールド」
イサギはゆっくりと近づいてくる。
おびただしいほどの魔力を放ちながら。
「半径15メートル以内は、俺の空間だ」
メートルという表現はわからなかったが、しかし――。
「魔力が、なぜ、魔力が……!」
「……」
「完成された半魔晶生命体が、この程度の術で!?
ばかな、くっ、貴様――!」
禁術だからなんだというのだ。
自分は獣術にも、封術にも、恐らくはあのリヴァイブストーンにだって勝てる。
だのに──。
後退りするゴールドマンに、イサギがゆっくりと近づく。
闇の中、赤い目だけを浮かべて。
『戦いには相性というものがある』
自らの言葉がゴールドマンを襲い、視界が歪む。
魔術。だめだ、コードが描けない。
ならぼ法術で身を守るしか。それもできない。
魔法。魔法。魔法。打てない!
ゴールドマンは弾かれたように叫んだ。
「シルベニア! 今なら僕がお前を助けてやる!
おまえのしたことを許してやろうじゃないか!
もう一度、この僕が愛してやると言っているのだ!
だから、こいつを撃て! 撃て、シルベニア!」
「シルベニア、ロリシア、慶喜」
右拳を突きつけ、イサギは問う。
「オーダーは?」
――叫んだのは、シルベニア。
「ぶっ潰すの!」
それはもはや金切り声で。
なにもかもを振り切った少女の想い。
手のひらに握りしめ、イサギは口元を吊り上げた。
「――了解」
「待て――」
イサギはゴールドマンの顔を掴み、右拳を掲げて。
もがくゴールドマンはもはやなにもできず。
目を見開き──。
「ま――」
「黙ってろ」
――渾身の力で叩き込まれたイサギの拳がゴールドマンの顔面を粉砕した。
第九章は全16話でお届けすることになるかと思われます。
次回更新は12月予定です。