9-8 タガタメ
イグナイトに釘を刺されて、数週間。
シルベニアに見放されてから数日。
「なんなんすかもう……怖いっすよぉー……」
慶喜は牢屋の中で怯えていた。
誰ひとり見張りがいなくなっても、律儀に閉じ込もって。
だって仕方なかったから。
自分の考えなしの行動でロリシアが殺されてしまうのかと思うと、鉄格子から指を出すことすらできなかった。
例えばロリシアの細い首に爆弾のようなものが巻きつけられていて、感知された瞬間に彼女が吹き飛ぶのではないか、と。
そんな妄想すら脳裏をよぎって、もはや行動する意志は丸ごと削ぎ落とされてしまっていた。
今ならわかる。
ブラザハスで過ごしていた暮らしが一番平和だったと思ったけれど。
ロリシアたちと旅をしていた頃もまた、なんて幸せだったんだろう。
バハムルギュスとの戦いですら、イサギや廉造たちが力を貸していてくれて。
自分はあんなにたくさんの人たちに、守られていたのだ。
ひとりになって、なおさらそんなことが身にしみてきた。
ほんの一ヶ月前ぐらいの出来事なのに。
涙ぐんでしまいそうだ。
「……なんだかすごい遠い昔の気がするっす……」
魔王だ魔王だともてはやされても、結局は立ててくれる人のおかげだ。
デュテュやイグナイト、シルベニアにゴールドマン。
今ではもう、誰も自分の言葉を聞いてくれない。
『――誰も、誰ひとり助けることはできず、牢の中で朽ちて死ぬだけなの』
シルベニアに告げられたその言葉が、今はただひたすらに、重かった。
先ほどから破壊音が響き渡るハウリングポート。
一体なにが起きているのは知らないけれど。
自分には関り合いのないことだろう……。
と、その屋敷の地下牢の扉が開け放たれる。
誰かが来るたびに――慶喜の大好きな誰かの悲報が届けられるのではないかと、あるいは自分の処刑が命じられるのではないかと――慶喜はびくりと震えてしまった。
そんな生活を続けていたから、すっかりとやつれてしまったわけで。
けれど、この日は違った。
――慶喜を迎えに来たのは、息を切らせたロリシアだった。
「え……ロリシア、ちゃん?」
何度も夢にまで見た彼女が、そこにいる。
慶喜はよろめきながら立ち上がり。
「ロリシアちゃん……」
よろよろと、牢屋の鉄格子を握りしめた。
生きていた。彼女が生きていた。それだけがただ嬉しくて。
「ああ」
と声を漏らしてしまう。
給仕のような洋服をまとったロリシアは、その全身が煤けている。
ずっと自分のように不本意な扱いを受けていたのだろう――と慶喜は思う。
「ヨシノブさま……」
ロリシアは、今にも泣き出しそうな顔で。
慶喜にすがりついてくる。
鉄格子越しに指を絡めるふたり。
それほどまでに今までの生活が辛かったのだ、と慶喜は自分に重ねて彼女の心情を慮ったけれど。
どうやらそれは安堵の涙ではないようで――。
「……ロリシア、ちゃん?」
心配になって問いかける慶喜。
彼女は泣き顔の裏に、唇を噛み、なにかを必死に耐えているような。
――そんな気がした。
「ヨシノブ、さま……あの……」
慶喜は知らなかったけれど、ロリシアはひどく葛藤をしていた。
――シルベニアを助けてほしい。
心の底から、全身全霊で、そう思う。
あのままではきっと、シルベニアはゴールドマンに殺されてしまうだろう。
そんなことは嫌だ。絶対に嫌だ。
――だがそれは、慶喜を危険に巻き込むということだ。
慶喜は未来の魔族国連邦を、メドレザとともに支える人だ。
言えば慶喜は、絶対にロリシアの力になってくれるだろう。
恐怖を前に勇気を振り絞り、ゴールドマンに立ち向かってくれるはずだ。
慶喜は心優しい。それに、今の彼は竜王と戦って変わった。
もう前とは違う、とても立派な人になった。
未来を向いて、少しずつだけど自分の足で歩いていけるような人になってくれた。
わずかな時間とはいえ、一緒に過ごしたシルベニアのことを、見過ごしたりはしないだろう。
――だから、ロリシアは口には出せない。
その結果、慶喜が死んでしまうかもしれないから。
「……うっ……はぁっ……」
胸を抑えて、ロリシアはキツく口を結ぶ。
この自分が、そんな大それたことに慶喜を巻き込んでいいはずがない。
竜王と戦ったときとは、状況が違う。
もう慶喜は本当の意味で人の上に立つ存在になったのだ。
これ以上命を賭ける意味はない。
「ロリシア、ちゃん……?」
「……っ」
慶喜に問いかけられて、ロリシアは首を振る。
「なんでもないんです」と言いたいけれど、言葉はノドから出てきてはくれなかった
シルベニアはこんな自分にも良くしてくれた人だ。見捨てるわけができない。
自分に力があればよかったのにと、ロリシアは悔やむ。
慶喜には言えない。
だめだ。そんなのは卑怯だ。
自分が命を賭けずに、彼の優しさを利用するだなんてだめだ。
泣きついて、もし彼が死んでしまったら――。
「あ、あの、ロリシアちゃん、どうしたの?
痛いこととか、もしかして、い、いやらしいこととか、されたり……してないよね!?」
「……」
ふるふる、とロリシアは首を振る。
彼に気取られてはならない。
口元を押さえて、ロリシアはか細い声で。
「……ヨシノブさま、ここを逃げ出してください」
「え、でも、デュテュさんは?」
「……あの方はもう、戦場に行ってしまいました。
この先は、レンゾウさまやイサさまに、お任せしましょう」
「……え、でも」
慶喜は悔しそうに眉根を寄せている。
そんな顔をされてもだめだ。だってシルベニアは『逃げろ』と言ったんだから。
彼女はきっとわかっていたのだ。――自分が死んでしまうことが。
「ぼく、イサ先輩から、デュテュさんを頼まれて……」
「時間稼ぎはもう終わりました。
あとはイサさまが来ていただくのを待つだけです。
だから……帰りましょう、ブラザハスに。あの平和で懐かしい日々に」
慶喜は自力で牢を破り、のそのそと出てきた。
バツの悪そうな顔をして、ロリシアの前で立ち止まる。
「……ロリシアちゃん、ぼくここに来て、ただ捕まっていただけなんだよね」
「相手が相手です。できることとできないことがあります」
「でもなんか、ちょっと情けないかな、って……」
「そんなの、プライドなんてどうでも……
だって、生きてなきゃ、いけないじゃないですか!」
ロリシアに怒鳴られて、慶喜は面食らう。
彼女がこんなに感情をむき出しにすることなど、ほとんどなかったからだ。
涙を浮かべるロリシアは、力なく慶喜の胸を叩いて。
「生きて、なきゃ……だめですよ……これからも、生きて……」
だって、誓ったのだから。
自分と慶喜は。
喜びも悲しみも分かち合いながら、ともに生きることを。
地下牢の脇には、誰が置いたのかは知らないが、真新しい銀鉄の剣があった。
それを握り、慶喜はゆっくりと歩き出す。
「もしかしたら、ぼく、贅沢になったのかもしれない」
「……え」
「わかったんだ、ぼく……。
ひとりにされて、ようやくわかったんだよ。
今までどうしてこんなぼくが、生きてこれたのか。
みんなが力を貸してくれていたからなんだ。
そうじゃなかったらぼくは、とっくの昔に魔王城で死んでいたんだと思う」
「ヨシノブさま……?」
こわい。ロリシアが見つめる慶喜の背中がどんどんと遠ざかってしまうようで。
彼がロリシアの手の届かないところにいってしまいそうで、怖い。
「ぼくだけじゃなくて、みんなと一緒がいいんだ。
デュテュさんも、シルベニアちゃんも、イグナイトさんも、みんながいて……
それで、胸を張って、ブラザハスに帰りたいから」
「そんなこと!」
ロリシアは慶喜の手を引く。
だが、歩き出す慶喜の足取りは力強かった。
「ずっとひとりで考えていたんだ、ぼく。
楽しかった日のことを思い出して、またあそこに帰りたいなって」
「ですから……!」
「ぼくはずっとみんなから、想いをもらっていたんだ。
だから、ぼくにできることがまだあるなら」
「でも!」
精一杯の声で叫ぶ。
彼は、振り向いてきた。
「だから、ロリシアちゃん。
大丈夫だよ、なにがあったって。
約束したじゃない。ぼくはロリシアちゃんと、ずっと生きるって。
だから、ロリシアちゃんをひとりにはしないから、ね」
「ヨシノブさま……」
そこにいたのは、何ら変わらない。
いつものように優しげで、頼りない微笑み。
年下の少女に、おっかなびっくりと話しかけるような、そんな魔王。
そのすべてが、ロリシアの心を解きほぐしてゆく。
「ああ……」
ロリシアの両目から涙がこぼれ、頬を伝った。
手の甲でそれを拭いながら、ロリシアは請う。
「おねがいします、ヨシノブさま……。
……シルベニアさまを、助けて、ください」
11才の少女は、ついにその言葉を放った。
「シルベニアさまがゴールドマンさまと戦って、
そうして負けて、傷ついて、
でもシルベニアさまはわたしを助けるために、そんな無茶をして、
でもわたしには何の力もなくて、なくて……」
悔しくて、辛くて、怖くて。
ロリシアはしゃくりあげながら。
「だから、ごめんなさい。
ヨシノブさまが戦いを好きじゃないことも、
怖がりだってことも、臆病者だってことも、全部知っているんです」
「あたっているけどさあ」
「でも!」
苦笑いをする慶喜に、すがりつくロリシア。
「シルベニアをたすけられるのは、
もう、ヨシノブさましかいないんです……
だから、おねがいします、助けて……!」
慶喜は眼鏡をあげようとして、
そこにもうなにもないのを思い出し――。
その開いた手をロリシアの頭に。
触れて。
「――うん」
外に出て愕然とした。
慶喜の知っているハウリングポートはもはや跡形もなく、辺りはまるで火の海に沈んだかのようだった。
「うわあ……すごいなこりゃ……」
うめく。これがシルベニアひとりで行なったのだとしたら、まさしく魔族国連邦の最強の魔法師といったところか。
「こちらです、ヨシノブさま」
「うん」
ロリシアに案内され、慶喜も走る。
腰に帯びた銀鉄の剣はどうやら使えそうだったから、拝借してきた。
燃え盛る町並みの中、駆けてゆく。
目的の場所はすぐにわかった。まるで隕石の落下地点のように大きなクレーターがあったからだ。
瓦礫も軒並み吹き飛ばされて、台風の目のようにそこだけが静寂に包まれていた。
ロリシアを背にかばいながら駆ける。
視線の先に立つのは、金色の髪を持つ男。ゴールドマン。
彼はすぐに自分たちに気づいたようだ。
「おや、これはこれは」
赤い目を輝かせたゴールドマンが両手を広げ、まるで臣下のように彼を出迎えた。
「魔族国連邦の魔王さまではないですか。なぜこのような場所に?」
「……」
ロリシアの姿を確認し、ゴールドマンは片目を釣り上げた。
慶喜はいつでも剣を抜けるように柄に手を当てながら、視線を走らせる。
ロリシアはシルベニアが敗れたと言っていたけれど。
その銀髪の少女が見当たらない。一体どこに。
「シルベニアを探しているのですか?」
「え、あ、はい」
「心配なさらずとも、まだ殺してはおりませんよ。
あの娘の体内には多くの魔晶が眠っています。
しっかりと摘出手術は行ないませんとね」
ゴールドマンが首を倒したほうに、そのシルベニアはいた。
銀髪の髪を血に汚して横たわる少女。ボロ雑巾のように捨てられた姿で。
なるほど。
慶喜は改めてうなずいた。――なるほど。
「なんかさ、よくわからないんだけど……。
結局、君が一番全て悪いってこと、なんだよね」
「おっしゃる言葉の意味がわかりかねますね、魔王様」
「……うう」
慶喜はわずかに怖気づく。
ゴールドマンとはブラザハスでも何度か顔を合わせたことがあるが、この雰囲気はいつも苦手だった。
「まあでも、後ろにはロリシアちゃんがいるしね。逃げ出したりはできないんだけど」
ひとりごちて、慶喜は改めてゴールドマンを見やる。
覚悟を決めてここまでやってきたけれど、相手を目の前にするとやはり不安でたまらなくなってしまう。
ハッキリ言って、ゴールドマンが恐ろしくてたまらない。
なのにまだ立ちふさがる慶喜を前に、ゴールドマンはその表情を変えた。
「……ふむ、まさか僕と戦う気ですかね? 魔王様」
「えーっと……」
頬をかき、急に視線を惑わせる慶喜の後ろから。
「ちょ、ちょっとヨシノブさま!
さっきの勢いはどこいっちゃったんですか!?」
「……いやー、参ったなあ」
「か、かっこいいと思ったのに、わたしかっこいいと思ったんですよ!」
「ははは……」
ロリシアの叱咤激励も、いつも以上に効果が薄く。
だって周りに頼れる人は誰もいないんだから。
自分がやらなきゃいけないんだから。
身震いする。
そんな慶喜の動揺を見抜いたような目で、ゴールドマンは蛇のように囁いてくる。
「ふふ、ならばいいでしょう。
今戻るなら魔王様、あなたたちだけは見過ごしてあげましょうか?」
「ええ?」
「シルベニアは渡すことはできませんがね。
見なかったことにしてあげる、と言っているのです。
あなた方は魔族国連邦に戻ればいいでしょう。
むげに命を落とすこともありませんからね」
「うーむ」
そんな魅力的な提案もされてしまって――まるで信じられないけれど。
「困るよなあ」
だって自分はシルベニアを助けに来たんだから。
慶喜はため息をついてしまう。
ゴールドマンはさらに両手を広げながら言葉を重ねる。
「もしあなたまで僕に逆らうというのなら、生きながらその五体を引き裂きましょう。
いや、その前に、動けなくなったその子をあなたの前で八つ裂きにするほうがいいですかね。
目玉を抉り、耳を削ぎ、それでもまだ許しはしません。
何度も治し、何度でも砕きましょう。絶望と悲鳴の中で己の生をも悔やむほどに」
「いやっすなあ……」
慶喜は嫌悪感に眉根を寄せる。
すごく嫌だ。
そんなことになるのも嫌だし、そんなことを平然と言ってしまうゴールドマンも嫌だ。
すごく怖い。
なぜ人に優しくできないのか、慶喜にはもう理解ができない。
だから、慶喜は剣を抜く――。
「悪役かあ……なるほどなあ。
イサ先輩はいつもこんな気分だったわけっすなあ」
「……なんだって?」
心臓の鼓動の音で耳が痛い。緊張感に手も震えていた。
ゴールドマンはよくわからないとばかりに聞き返してきて。
慶喜は首を振る。嫌だ嫌だ、すごく嫌だ。
でもこのままゴールドマンに従うのは、もっと嫌だ――。
「異世界に来たんだったらやりたいことは、たくさんあったんすよ、ぼく。
ハーレムとか、メイドさんとか、なんでも言うことを聞いてくれる女の子と……その、まあ色々としちゃったり……みたいな!」
途中、ロリシアの冷たい視線を感じて口ごもる慶喜。
「でも、そういう桃色の妄想だけじゃなくったって、いっちょまえに憧れてたんですよ。
その、なんていうんすか? 困った女の子がいたら、今すぐ飛んでいくようなヒーローってやつに。
そりゃそうですよ。オトコノコなんすから」
「……なにを言い出している?」
ゴールドマンにはわからないだろう。そんな慶喜の些細な夢など。
「ずっと、ずっといいなって、思っていたんすけど。
正義のヒーローになんてなれるはずがないって半分あきらめて。
でも、見てくださいよ、この状況。
可愛い女の子に懇願されて、可愛い女の子を助けに来て。
今がまさにそのときじゃないっすか? 意外にできるものっすよね。
意地と、ほんの少しの無謀と、それにチャレンジ精神があれば」
多弁なのは緊張している証拠だ。
固唾を呑んで見守るロリシアの前、ゴールドマンの態度が硬化した。
「まさか魔王様、僕と戦うと?」
「まあ、正直勝てるヴィジョンは微塵も浮かばないんすけどね……。
ただでシルベニアさんを返してはくれないっすかね」
「あれは僕の妹だ。どうしようと僕の勝手でしょう?」
「その言葉、廉造先輩に聞かせてやりたいっすね……。
こっちにも、譲れないものもあるんで」
「なんと愚かな」
「いやホント。僕もそう思いまっすよ」
軽口を叩く慶喜。
そうは言っているけれど、慶喜にはある程度の算段があった。
心の中、叫ぶ。
(――こんなときこそ、元の世界の知識!)
そうでなければ、なんのための異世界トリップかわからない。
慶喜はここに来るまでに思い出していた。
様々な、弱者が強者に立ち向かうための手段を。
……その大半は、漫画やアニメ、ゲームなどの知識だが。
(ゴールドマンさんみたいにプライドが高いタイプは、引っ掻き回して油断を誘う。
こう、機転を利かせて、ぼくのペースに持っていけば……!)
そのために、慶喜はブラザハスにいた頃から、いくつもの小技を仕入れていた。
相手の後ろで大きな音を鳴らしたり、光で目眩ましをしたり。
落とし穴を作ったり、相手のいる地面をピンポイントで高々と空中にぶっ飛ばしたり。
そういった妨害工作を多用し、ゴールドマンの気勢を削ぐのだ。
あとはゴールドマンをおちょくりながら基本は逃げ回って、その隙に一撃を叩き込めばいい。
卑怯だ姑息だと言われても、勝つために手段などは選んでいられない。
かかっているのは自分の命だけではないのだ。
(よし……よし、よし、いける……! きっといける!)
あるいはゴールドマンが剣を使った姿なども、見たことがない。
懐に潜り込めば、慶喜の有利は揺るぎないだろう。
「ヨシノブさま……」
元魔族国連邦の魔法師と対峙するその背中を、ロリシアの声が押す。
慶喜は、もう逃げ出さずに立ち向かうことに決めたのだ。
それは紛れもなく――勇気をくれた少女のためへの、力だったから。