1-9 長耳の妹メイド姫
しばらく驚きに固まっていたエルフの少女。
彼女は大量の涙を流していた。
「う、う、う……うぇえぇぇえぇぇえぇぇぇぇえぇ、おにいちゃぁぁぁあぁぁんっ……」
体中の水分を枯らし尽くしてしまうような落涙だ。
少女は椅子に座るイサギをまるで押し倒すように、腰の辺りに抱きついてきた。
これできょう一日で、三度も女の子に抱きつかれたことになる。
噂のモテ期というやつだろうか。
彼女のことはよく覚えている。
当たり前だ。
少女にとっては20年の歳月だったのかもしれないが。
イサギにとってはつい先ほどまで過ごしていた日々だ。
それでも最初に彼女がそうと気づけなかったのは、あまりにも装いが違っていたからだ。
こんなところにいるはずもない、という先入観も邪魔をしていた。
フリルのついたメイド服は、今やアルバリスス全土で使用されているものだ。
この世界には昔から何度も異界人がやってきているため、様々な文化が地球から輸入されているのだという。
とても可愛らしい本格的なメイド服も、そのひとつだ。
それはいいとして。
「まさか……リミノ姫……?」
メイドカチューシャをつけて、ボロボロに泣きじゃくっている彼女こそ。
かつてエルフの国を統治していた女王の第三王女、その人だった。
「お゛に゛い゛ぢゃ゛ぁぁぁん……うぇぇぇえぇえぇぇぇえぇぇん……」
「ちょ、まって、まった! まった!」
ついに椅子から床に押し倒されて。
その上、覆いかぶさられて思いっきり顔を擦りつけられて。
イサギは彼女の肩を掴んで押し返す。
顔は涙と鼻水でぐっちゃぐちゃになっている。
「もう一度聞くけど、その、リミノ姫、だよね?」
「はい゛ぃぃぃ……」
あれから20年だ。
それなのに、彼女の容姿はあまり変わっていない。
色鮮やかな緑色の髪を大きな三つ編みにして束ねて。
エメラルドグリーンの輝きを放つ大きな瞳は、今は涙でキラキラと輝いている。
透けるようなその肌は、どうやら少し傷んでしまっているようだ。
全体的に薄汚れているから気づきにくいかもしれない。
だがよくよく見れば、王女の称号にふさわしいその美貌が、少しも衰えてはいないのがわかる。
どちらかというと、多少くたびれているような気はするが……
エルフの一族は、大人になった後は成長スピードが極端に遅くなるのだと、聞いたことがあった。
そういうことなのかもしれない。
「ああうあうあうあうあああぁぁぁ……」
彼女は隙あらば、イサギの手をすり抜けて。
再び、顔をその胸に埋めようとしてくる。
「と、とりあえず落ち着いて、くれ」
なので、ひたすらなだめすかす。
……恐らく30分ぐらいかかった。
「あーーー! スッキリしたぁ!」
リミノは元気に伸びをする。
赤い目をこすって、見違えたように笑うリミノ。
「ホントにお兄ちゃん、生きてて良かった!」
憑き物が落ちたような笑顔で抱きついてくる。
場所を変えて、ここはイサギの部屋である。
メガネはまだ当分戻ってこないだろうと思い、リミノを連れてきたのだ。
彼女には悪いが、勇者勇者と連呼されるのを人に聞かれたら困る。
その横に並んで座って、事情を聞く。
「ど、どうして、こんなところにいるんだ?」
「えと、それがね、話せば長くなるんだけど……」
話を聞かれたリミノは、ぽつぽつと語り出す。
13年前の出来事だ。
エルフ族は人間族に戦争を仕掛けられ、抵抗を続けていた。
だが、冒険者に王都を陥落させられて、一族が皆、人間に降伏したのだという。
女王も、第一王女も、第二王女も、その下の子たちも捕らえられてしまった。
唯一無事だったのは、リミノだけだ。
彼女は逃がされた。
リミノさえ生きていれば、再び一族を再建することができるのだ、と。
数少ない護衛とともに、リミノは暗黒大陸へと渡った。
魔族国連邦に亡命し、庇護を求めたのだ。
だが当然魔族も一枚岩ではない。
エルフの王女を匿えば、人間族は攻めこんでくるだろう、と考えたものがいた。
たとえニンゲンの王国が動かなくとも、冒険者が来る。
『エルフの王女を捕らえろ』という命令が、○○級クエストの名で世界を駆け巡るのだ。
あの無法者たちはどこにでも出現し、必要な物を略奪してゆくのだから。
冒険者を恐れる魔族にとって、リミノは火のついた爆弾のようなものだった。
リミノは魔族にさえ拒絶され続けた。
頼れるもののいない、長い旅をした。
自分を助けてくれていた親衛隊も、冒険者の凶刃の前に、ひとりひとりと倒れていった。
そしてようやくたどり着いたのが、デュテュの元だった。
彼女は魔族の中でも徹底抗戦を提唱するタカ派で知られていたらしい。
とても意外なことだが。
いや、きっとなにも考えずに「ニンゲンを倒すのです!」とか言っていただけだろう。
イサギはそう思うことにした。
それはそうと。
リミノはデュテュの城に保護された。
後にデュテュが立つ日のために、エルフの王女としての役割を果たすためだ。
だが、もはや護衛もなく、力もないリミノ。
置いてもらえるだけでもありがたいのだ。
彼女は今、召使いとして働いているのだという。
そんな生活が、もう8年だ。
「最初のほうは辛くて辛くて、毎日泣いてたっけなあ」
「そっか……」
「でもリミノは、信じてたんだよ。
いつかお兄ちゃんが、迎えに来てくれるって」
「……ごめんな」
なにかを押し隠すような笑顔に、イサギは思わず頭を下げた。
やはり少し、変わったところもある。
昔の彼女はもっと毅然としていたはずだ。
なんせ、一国の姫なのだ。
礼儀作法は完璧で、言葉遣いももう少し上品だった。
人の見ていないところでは『お兄ちゃん』と呼んでくることもあったが。
それでも、あくまでも冗談の範疇だったはずだ。
「いいんだよ、こうして生きていてくれたんだもん。
リミノもけっこー頑張ったかいがあったかな、って」
その言葉には、万感の思いが込められていた。
輝くような笑顔を浮かべる彼女を前に、イサギはなにも言えなくなる。
20年経ったはずなのに、まるで精神が若返ってしまったようだ。
幼児退行……というものかもしれない。
辛いことだらけだったのだろう。
イサギが消息を絶ったのは魔王城だ。
彼女にとっては、宿敵の娘に助けられるというのも、屈辱だったのかもしれない。
ずっと、我慢してきたのだろう。
涙を浮かべながら笑う彼女の頭を撫でながら、イサギは思う。
この王女さまにも、優しくしてあげないといけないな、と。
リミノとの出会いは、イサギが旅に出て間もない頃だった。
魔帝国軍に侵攻されていたエルフ族を救うため、彼ら勇者パーティーは、エルフの国ミストランドにしばらく駐留していたのだ。
リミノとはそのときに出会い、仲良くなった。
というか、一方的に付きまとわれていた、と言ったほうが正しいか。
イサギにとっては妹のような存在だった。
勇者パーティーがミストランドを出ても、しばらくパーティーについてきていたのだ。
さすがに王女のすることではないと、親衛隊に引き剥がされていったが。
それから、機会があれば手紙を送っていた。
イサギにとっては、まだ一年も前の出来事ではなかったのに。
「王宮に魔族が侵攻してきたときに、お兄ちゃんが颯爽とリミノたちを救ってくれたんだよね。
リミノ、あのときのことは今でもまぶたの裏に焼きついているよ」
イサギの体から一時も離れたくないとばかりに。
全身で腕にすがりついてきているリミノが、甘えた声を出す。
こんなにくっついてくるような子ではなかったが。
なんせ、20年ぶりの再会だ。
生きてきた中で、彼女はイサギのことを心の支えにしてきたようなことを言っていたし。
むげにするわけにはいかない。
彼女は彼女なりに、イサギを必死に繋ぎ止めようと必死なのかもしれない。
デュテュやイラの言っていた覚悟と同等のものだろう。
これが、最初から好感度MAXってやつなのかもしれない。
離れれば離れるほど、愛しい人だと気づく、という言葉があるけれど。
リミノとイサギの離れていた時間は20年間だ。
淡き恋心が、燃え上がるほどの激情となっていたとしても、なんら不思議ではない。
だがその機会はまた今度だ。
リミノもイサギから身を離して、その目を覗きこんでくる。
「でも、お兄ちゃん。この20年間、なにをしていたの?」
当然の質問だ。
イサギが少し黙ると、彼女は慌てたように。
「あ、いえ、その、そんな、全然糾弾する気なんてなくて……その、ホントに、お兄ちゃんも大変なことがあったんだろうなって思って、それでリミノは……」
「うん、まあ」
イサギはどう言うべきか悩む。
ここでもし、真実を伝えたらどうか。
『実は魔王を倒した途端にこの20年後に召喚されてきたんだよねー、ははは。
だからリミノが苦労していた間も俺、全然知らなくってさー』
うん。
ありえない。
論外だ。
それに、その場合、召喚陣を使ったデュテュに彼女の怒りの矛先が向く可能性がある。
デュテュが自分を呼びださなければ、リミノは少なくともこんなに落ちぶれることはなかったのかもしれない、と。
リミノがデュテュを恨んでしまえば、彼女にはいよいよ居場所がなくなってしまう。
そんなことになってしまったら、リミノはこれから先、どうやって生きていくのか。
ダメだ。
彼女に真実を伝えるわけにはいかない。
もし言うとしても、それは今ではない。
少なくともイサギは、リミノを見捨てるような真似はしない。
理があって、その必要があるのなら、一国の軍勢相手にも戦うだろう。
だから。
(誰のためにもならないよな……)
リミノとデュテュの関係が悪くなる上に、得がない。
イサギは黙ってしまう。
そのとき、ふと脳裏をよぎる考えがあった。
(……あれ? もし俺が召喚されていなかったら……どうなっていたんだ?)
勇者イサギがこの時代に生きていたのなら。
もしかしたらその存在は、この世界における法の楔になっていただろうか。
ある種の不道徳的な行為に対する、抑止力として機能していただろうか。
冒険者がドワーフ族を攻めたという話も、エルフ族を攻めたという話も。
さらに魔族を弾圧していた、ということもなかったのだろうか。
20年前、魔王との戦いの後に、イサギは姿を消した。
魔族を守るためにイサギをデュテュが呼び出したことによって、
魔族が冒険者によって窮地に追い込まれることになった……?
この世界は、
タイムスリップによって歴史が歪んだ結果なのか?
少し考えて、頭を振る。
そんなわけがない。
(人ひとりの力がそんなに大きいはずがない……俺ひとりでなにができるっつーんだ。
プレハやセルデル、バリーズドのほうがよっぽどうまくやるぜ)
イサギは己の考えを振り払った。
元々イサギ自体が異世界からやってきたイレギュラーだ。
『魔王を倒す』というその役目を果たしたから、きっとアルバリススから弾かれたのだろう。
どっちみち、いずれはそうなることだったのだ。
そして再び必要があったから、この世界に召喚されたに違いない。
それがイサギの運命だったのだ。
リミノはこちらを上目遣いで見やり、恐る恐る問いかけてくる。
「……もしかして、やっぱり、その、魔王の呪いかなにかで、記憶を失っていたの?」
どうやら彼女は、イサギが歳を取っていないことには疑問を抱いていないらしい。
勇者のカテゴリーは、常人とは違う扱いのようだ。
(そもそも異界人だしな……)
よし。
そういうことにしよう。
「ああ」
イサギは重々しくうなずいた。
「実はそうなんだ。俺は記憶を失っていたんだ」
「やっぱり……」
リミノは息を呑む。
構わない。
リミノが納得してくれるなら、いくらでも汚名を被ろう。
彼女の生活を壊してはならない。
「ずっと、多分暗黒大陸をさまよっていたんだと思う。
ここ20年間はロクな暮らしじゃなかったよ。
あちこちを転々としていたところで、召喚陣に引っ張られてさ」
「召喚陣に……それで、魔王候補って……」
辻褄を合わせることも忘れない。
「そこで全て思い出したんだよ。召喚陣のおかげで魔王の呪いが解けたんだ」
「そっかぁ……」
デュテュとリミノの関係にも気を配る。
「おかげでリミノとまた会うことができた。これもデュテュのおかげだな」
「……うん。良かった。えへへ……」
目元に浮かんだ小さな涙を、指で拭うリミノ。
その健気な笑顔には、ドキッとした。
「だ、だから黙っていて欲しいんだ。俺が勇者だってことは、みんなにさ。
誰だって助けてもらおうとしている相手が、自分たちの宿敵だなんて知ったら、面白くないだろう」
「ってことは、お兄ちゃん、デュテュさまの助けをするの?」
「……それは、ちょっと、決めかねているけれど」
それは正直な気持ちだ。
できれば冒険者を殺したくはない。
もしかしたら彼らだって、誰かに騙されているのかもしれない。
イサギの思う冒険者とは、高潔で正義感に溢れた者たちだ。
だからまずは事情を聞いて、可能ならば話し合いで解決したいのだ。
甘いと言われるかもしれないが。
そのためにも。
「リミノさ」
「う、うんっ♡」
名前を呼ばれて、彼女は嬉しそうに顔を輝かせる。
親愛なる誰かにファーストネームを呼ばれる。
それ自体も彼女にとっては何年ぶりかのことだったのかもしれない。
「知っていたら、教えてくれないかな。
プレハとか、バリーズド、セルデルが今なにをしているのかを」
「あ……えっと……」
彼女は急に視線を逸らした。
嫌な予感がした。
「プレハおねえちゃんは……」
彼女はプレハをお姉ちゃんと呼んで慕っていた。
若くして戦う魔法師の少女を憧れていたようだ。
「え、どうかした?」
「……うん、あのね、おにいちゃん……」
リミノは知っている。
イサギとプレハの、ふたりの関係を。
お互いがお互いに、片思いのような淡い思いを抱いていたことを。
知っているから。
だから、彼女は目を伏せながら。
「……その、落ち着いて聞いてほしい、んだけど……」
決定的な。
その言葉を。
告げてきた。
「……プレハおねえちゃんは、もう、いないよ」
「え?」
聞き返す。
世界から音が急激に失われてゆく。
リミノ:エルフの第三王女。イサギが好き。
デュテュ:徹底抗戦を提唱するタカ派のお姫様。
イサギ:リミノのためを思って優しい嘘をつく。
プレハの現在:???