解体恋愛フィロソフィア
暗い夜道を必死になって走り抜ける。友人と遅くまで話し込んでいたことをいまさら後悔するが、もう遅い。高校生が補導されないギリギリの時間帯だ。コートで隠しきれない肌に突き刺さる風の冷たさも、今は気にならない。
もう少しで家に着いたのに。赤城真理亜は恐慌状態の反面でそう思う。タチの悪い男に遭遇してしまったのが運の尽きだ。いつの間にか人気のない廃工場が集まった区画に入り込んでしまって、助けは呼べそうにない。こんな時に限って携帯電話は学校に忘れてきてしまった。
ふと足を止めて振り向いた。自分の荒い呼吸と、廃工場群を駆け抜ける風の音しか聞こえない。静寂が耳に痛い。逃げきれただろうかと安心した時、後ろから物音が聞こえた。勢いよく振り返る。そこには、自分に襲いかかってきた男が立っていた。
「っ…」
そのまま走り出せばよかったのに、足がすくんで動けない。
相手に見覚えはある。クラスメートだから当然だ。それでも話したことはなかった。親しくもない相手と話すほど人付き合いはよくない。相手が異性で、しかも悪い噂しか聞かない相手ならなおさらだ。名前さえ記憶にない。
距離を埋められ、腕を捕まれて地面に組み敷かれる。まるで一瞬の出来事のようだった。思い出したくないことを思い出す。耳鳴りがうるさい。
「やめて、放して…!」
頭の上で押さえつけられた腕はぴくりとも動かない。唯一自由がきく足でもがいてもどうにもならない。
「ははっ、やめるわけねえだろ。ずっとこうしたかったんだから」
ぞっとするくらい無邪気な笑顔で男が言う。腕を押さえつける手に力が入った。細い骨が軋んで痛い。
「痛っ…放してってば…!」
「ああ、言っとくけどここ、悲鳴上げたって誰にも聞こえねーから。思う存分愛し合おうぜ」
「やめてってば! 痛っ…痛いよ、痛い…!」
それしか言葉を知らないように、何度も「痛い」という言葉を繰り返す。男はそんな言葉に耳を貸さず、ニヤリと笑った。それが最後通牒とも知らずに。
「――痛いよ」
研ぎ澄まされたナイフのように鋭く冷たい声だった。突然のことに男は思わず体を硬直させる。それが、自分の下で怯えていた少女の声だと、すぐに気づけなかった。
直後、頭を叩き割られるような痛みが走った。男はうめき声とも悲鳴ともつかない声を上げる。胸ぐらを掴まれて、地面に叩きつけられる。後頭部を強打して、あまりの痛みにうめき声さえ出せなかった。
「あなたが悪いんだよ。やめてって言ったのに、やめてくれないから」
ついさっきまで恐怖に潤んでいた少女の瞳が、爛々と輝いている。その手には、いったいどこから出したのか、鋭いナイフが握られている。外灯の乏しい光を浴びて鈍く光る銀色の刀身は、明らかに銃刀法違反の代物だ。
「な、なにすんだよ…!?」
「なにって、愛し合うんでしょ?」
首をかしげて、当たり前のように少女は言う。いつも通りの微笑みを浮かべているのに、瞳の輝きがあまりにも強くて、ぞっとする。理屈なんて通用しそうにない雰囲気だった。
「私の愛ってこういうことだよ。だからやめてって言ってあげたのに、やめてくれないから」
「やめろ、放せよ…!」
「イヤだよ。だってあなた、やめてくれなかったもの」
くすくす、という楽しくて仕方ないといった笑い声が男の耳に障る。そこだけ見れば、ただ美しいだけの少女だった。自分が思い焦がれた、あの少女だった。
それなのに、慣れた手つきでナイフをもてあそぶ姿は、まるで別人だった。よく似た違う誰かだと思ってしまうくらい。
「悲鳴を上げたって誰にも聞こえないんだよね? それなら、思う存分愛し合えるね」
「ひっ…!」
「どこからがいい? もちろん首は最後にとっておかなきゃ。左腕? 右足? 左足? それとも右腕? …ねぇ、聞いているんだから答えてよ」
「な、なにするつもりなんだよ!? 放せよ…!」
言いながら刀身を男の腕や足の付け根に当てていく。立場はもう逆転していた。怯えるだけだった少女の姿はどこにもない。そして、その少女を好きにするはずだった男の姿も。
「そんなの簡単なことだよ」
そう言って微笑む姿は、まるで女神のように美しく慈悲深い。それなのに、ここにはもう絶望しかない。
「――あなたを愛して殺して解体したいだけ。だからあなたも私に愛されて殺されて解体されて? そうすればきっと愛し合えるから」
いつもと同じ微笑が、狂おしいほど美しい。それがあまりにも恐ろしすぎて、言葉が出てこない。
「あなたの血の色は何色かな。どんな味がするのかな。楽しみだね。楽しみだね。楽しみだね――だから、愛し合おう?」
「や、やめろ、やめてくれ…!」
「希望はないみたいだから、好きなところからやっちゃうね。あなたはいつまでもつのかなぁ、最後まで頑張ってね。できるだけ長く愛してあげたいから」
ナイフが高々と振り上げられる。
肉を切り裂く鈍い音。哀れで無様な悲鳴。無邪気な笑い声。地面を汚していく色鮮やかな血。
その異常な空間を見た者は、二人の他には誰もいなかった。
***
「――ねぇ、ニュース見た?」
「見た見た。怖いよね…」
その日、県立片倉高校では朝からその話で持ちきりだった。朝のニュースで報道された殺人事件。被害者はこの学校の生徒だった。誰もが不安げに話していたが、どこか他人事のような雰囲気があった。
緊急の朝礼が終わった後は、教師が対応に追われているせいで自習時間が相次いだ。校門前にはテレビ局などのマスコミ関係者がハイエナのように群がり、校内には被害者と直接関わりのあった人間から聴取をとろうと刑事がうろついている。だが、生徒の大半には関係のないことで、多くの者は暇を持て余し、自習とは名ばかりの自由時間を好き勝手に過ごしていた。
「なんかねぇ、早朝にジョギングしてた人が見つけたらしいよ。首と両手足が切断されたバラバラ死体だって」
おどろおどろしい口調だが、好奇心は隠せていない。内原美弥子は刑事事件を主に扱う新聞記者を父親に持ち、その手の情報には耳が早い。そして、自身もマスコミ関係への就職を望むだけあって、人一倍好奇心が強かった。
「危なかったね。真理亜の家は近いでしょ。かなり遅くなって時間も近かったし…なんか変なことなかった?」
話を聞かされているのは赤城真理亜とその幼なじみの藤堂拓海で、反応はそれぞれ違う。真理亜は不安そうに眉を寄せ、拓海は不快そうに顔をしかめている。
「なにもないよ…怖いなぁ、無差別とかじゃないよね?」
「ないんじゃないかなぁ、警察は怨恨の線で捜査してるみたいだよ。ほら、殺されたやつってヤバいやつらと関わりがあるっていうし、殺され方も残忍だし。バラバラにしたいくらい恨んでたってことじゃないかな」
「おい内原、不謹慎だぞ。少しは控えろよ」
被害者である澤田秀明は、評判の悪い生徒だった。死んでくれて清々した、という人間ばかりといってもいい。言い方に遠慮がないのは、美弥子本人の性格だけでなく、被害者の人間性のせいでもあった。
「えー? かたいこと言わないでよ、藤堂。真理亜を慰めるためって思えばさぁ」
「言い方が極端すぎんだよ」
無駄とわかっていても注意をしてから、拓海は真理亜を見やる。血の気のない顔が強ばって、痛々しい。拓海は内心でため息を吐く。
「真理亜は心配しなくても大丈夫だって。藤堂がいるんだから守ってもらえるよ。このラブラブ夫婦め」
「私も拓海も結婚なんてしてないよ?」
「あーもー真理亜ってばかわいいなぁ! いっそアタシと結婚しよっか」
「同性同士って日本じゃ結婚できないよね?」
「いや…冗談にそんな返し方されても困るんだけど」
盛大なため息を吐いた美弥子に真理亜は首をかしげる。その横で拓海が呆れたように首を横に振った。その後、少しは血色のよくなった真理亜の顔を見て安心する。
不意に拓海の視線が教室の隅に向かう。掃除用具の入ったロッカーと、十着以上のコートがかかったハンガーラックしかない。
「拓海…どうしたの?」
「いや、なんでも」
不安そうな真理亜に首を横に振った拓海は、これ以上彼女にこの話題を聞かせたくないと、タイミングを見計らって別の話題を切り出した。
***
赤城真理亜
19XX年2月18日、赤城家の第一子として産まれる。
小学校高学年の頃に弟が産まれるが、その後間もなく両親の仲が悪くなった。喧嘩の絶えない両親の間で息を殺し、彼らに育児放棄された弟の世話に追われながら育つ。
中学二年生の頃、目の前で母と弟を殺し、遺体を解体した父親に強姦されかけるが、異変を察知した幼なじみ、藤堂拓海によって救出される。
その際に父親は自殺し、現在は一人で暮らしている。
事件後、しばらくは精神にひどい障害を抱えたが、現在の精神状態は安定している。
――ように見えた。
理性的な狂人、気がふれた常人。
そんな矛盾が成り立つなら、彼女は間違いなくそれだろう。日常生活に問題なく溶け込み、誰かから不審に思われることもなく、当たり前の人生を当たり前に送る。それでも、心の奥深くに狂気を抱え、ふとした時に狂った本性を覗かせる。
正気と狂気の間でいったり来たりを繰り返しながら生きている。どうしようもないくらい、不安定な存在。それが「赤城真理亜」という人間だった。
澤田秀明殺害事件はやがて、迷宮入りとなる。
赤城真理亜の狂気を知る者は、誰一人としていない――死者を除いて。
久々の投稿が猟奇的内容とかどういうことなの(汗
自己満足120%でホント申し訳ないです。
ちなみに真理亜の名前はブラッディメアリからの連想で作りました。それ以外の名前は適当だけど。
実は誕生日もそこから来てます。
それでは、読んでくださってありがとうございました!
2012/10/28 加筆修正しました