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ねじれねじれた嘘と恋心の行方

作者: 克微 ショウ

 王地山慎司おうじやま しんじに、嘘は通用しない。

 彼には、視えるのだ。


 ある時は、友人の言葉に嘘を見つけ。

 ある時は、親の言葉に嘘を見つけ。

 ある時は、道行く人の言葉に嘘を見つけ。


 彼には、視えるのだ。

 嘘をついた人間の右目が、一瞬だけ、赤く光るのが。


 そういう能力を持って、彼は生まれてきた。

 そういう能力を持って、彼は生きてきた。


 それが、彼の不運であり、幸運だった。

 なぜならば。

 彼には、知らなくていい真実が与えられるのだから。

 なぜならば。

 でも彼は、出逢えたのだから。


            ***


 “五限目の不良王子”は、決して五限目の授業に出席することはないのだ。いついかなる時も、必ず。

 だから俺は、奇術部室内に鳴り響いた五限目の終了を告げる鐘にも、全く動じない。動じずに、「ふわ、あーあ」と欠伸を一つ。

「睡眠時間、一時間半。うーん、よく寝た」

 五限目の不良王子こと俺、王地山慎司は、さっきまで寝転がっていた柔らかいソファーから悠然と身体を起こし、大きく伸びをする。チャイムを目覚まし代わりとした、爽やかな起床だった。

 何故俺がそんな通称で呼ばれているかといえば、理由は簡単。俺がいつも五限目をサボって奇術部室にいるからだ。……勿論、最初はサボるつもりなどこれっぽっちもなかった。高二のはじめ頃――俺がこの部室の鍵を任された頃、昼休みにこの部室で寝過ごし結果的に五限をサボってしまう、というような事を何度も繰り返しているうちにそんな渾名と誇張された噂が広まり、五限目に出席しづらくなってしまったのだ。

 そんなこんなで、ここ半年間の俺の五限目出席率はぴったりゼロパーセントを保ち続けている。今更出席なんてしたら学校の人達は皆、天変地異を疑うだろう。そういう意味では、俺が五限目を欠席することは世界の平和を守ることと同義と言える。

 激しい自己正当化を頭の中で完結させたところで、俺は奇術部室のドアへと向かう。目的は言わずもがな、この部屋から出て六限目に出席するため。……そう。“五限目の不良王子”は、決して五限目以外の授業に欠席することはないのだ。いついかなる時も、出来る限り。

「六限目は、確か数学だったかな……」

 呟きながら、内側からかけてあった鍵を開け、ドアノブを握る。何故だか溜息が漏れた。鬱々とした気分はどこから来るのだろう。次の授業が数学であるせいか、それとも、しとしとと降る雨のせいか。うん、両方だな。でも、積分記号やら総和記号やらが降り注がないだけ遥かにマシだ。

 原因究明を終えた俺は、そんな鬱々とした気分を吹き飛ばすように、勢い良くドアを開ける――――と、次の瞬間。ごんっ、という鈍い衝撃音と、「きゃあっ!」という女の子の短い叫び声が聞こえた。俺はすぐに理解する。やばい、ぶつけた。

「だ、大丈夫っ!?」

 慌てて廊下に出ると、そこにいたのはやはり女の子。さっきの衝撃で飛ばされたのか、床に尻餅をついていた。

「あいったたたた……」

 言いながら、彼女は右目の辺りを押さえる。これはまずい。非常にまずい。よりにもよって、女の子の顔に当ててしまうなんて。そう、サイドテールで、髪の長さは肩までかかるくらいで、明朗快活な印象を受ける結構可愛い女の子の顔に――って、そんなこと考えてる場合じゃなくて。

「ごめん、大丈夫?」

「あー、大丈夫です。ちょこっと右目のあたりをぶつけただけで……」

「傷とか出来てない? ちょっと見せて」

「あのあのホントに大丈夫ですからっ!」

 目の前の彼女はそう主張するが、右目が丁度隠れているため、それが嘘か真か判別できない。もしかしたら、我慢しているだけかもしれない。故に俺は、「ちょっとごめん」と彼女の右腕を掴む。

 突然の行動に驚いたのか、彼女は「ひゃうっ」と声をあげた。が、それを気にせず、俺は彼女の右手をどけて、この目で傷の有無を確かめる。

「君、名前は?」

「え? あ、一年三組の天津神真編あまつかみ まあみですけど」

 目立った傷は無さそうだった。俺は「高一? もしかして、入部希望の子?」と質問を続けながら、今度は触診を始める。

「あっと、別にそういう訳ではなくて」

「じゃあ、通りすがり?」

 彼女の右目周辺を人差し指で撫でると、眉のあたりが少し腫れていた。

「そういう訳でもなくて……」

 じゃあ、どういう訳なんだ。俺には“嘘を見抜く能力”があるから分かるんだけど、彼女は嘘をついていない。でも、入部希望の他に、一体どんな目的でここへ来るんだ?

「まぁいいや、一応、保健室行こう。少し腫れてた」

 俺は掴んだままだった彼女の右腕を放し、立ち上がる。……しかし、彼女が続いて立ち上がらない。もしかして、足も挫いてしまったのだろうか。

「えっと、ごめん、立てる?」

 俺は右手を差し出すが、彼女がその手を取る気配はない。じっと差し出された手を見つめて、考えるように俯いて、そして結局、自力ですっくと立ち上がり、スカートをぱんぱんと叩いた。なんだ、立てるのか。少しホッとした。

「保健室くらい、一人で行けますよ。……そもそも、保健室に行くほどの怪我でもないし、あんまし、気にしなくて大丈夫ですから」

「そ、そう? でも万が一のコトを考えると……念には念を入れて、病院とかに検査に行った方が……」

「もう、大袈裟ですよ。ほんとに、大丈夫ですって」

「だけど……」

 人生、何が起こるか分からない。そしてその何かが起こったら、非常に困るのだ。なんせ、全責任は俺にあるのだから。

「それじゃ、また出直してきますから、王地山センパイっ!」

 なんて考えているうちに、彼女は――天津神真編は、笑顔で手を振りながら去って行ってしまった。

 ああ、心配だ。本当に、何も無ければいいけど。……なんて、人の心配をしている場合ではないことに、俺はすぐに気付く。

「あっ、六限――」

 気付いた瞬間に、無情にもチャイムが鳴る。走り出したが、もはや手遅れ。

 こうして、五限目の不良王子は六限目に遅刻してしまったのだ。


            ***


 昼休み。あらかじめ購買で買っておいたカレーパンとメロンパンを携え、奇術部室を最終目標地点として歩を進めながら、俺は一つ、溜め息をついた。ああ、また溜め息だ。

 俺が天津神真編に奇術部室のドアをぶつけてしまった事件、敢えて歴史用語っぽく表現するならば“奇術部室の変”から丁度一週間が経ったわけだが、出直してくる、という宣言を残して去って行った彼女は、あれ以降一向に現れない。入部希望でも通りすがりでもない彼女は、何のためにあの場にいたのか、そして何のために出直してくるのか。そもそも彼女は大丈夫なのか。何もかもが分からずじまいのまま、一週間が経過した。

 彼女の事がどうにも心に引っかかり、靄々とした気分が晴れない。おまけに今日は、朝から雨が降り続いていて憂鬱成分がプラスされている。憂鬱で靄々。そんな心理状態じゃ、溜め息ばっかり出てくるのも仕方のないことだ。

 ……なんて考えてると、向こうから歩いて来る生徒の喧しい声が耳に入ってきた。

「俺マジでこの前見たんだってば、アイツが隣の奴のカバンから財布取ってんの! だから今回も――」

 その声の主の顔を見てみれば、ソイツの右目は赤く光っていて、俺には嘘をついた人間の右目が赤く光って見える。つまり彼は今、嘘をついたということだ。

 だから俺はすれ違いざまに、大きな溜め息をついた。くだらない。そんな嘘をついて、何になるんだ。どうして、人を貶める嘘をそんな簡単につけるんだ。怒りのせいか、奇術部室へ向かう足が早くなる。

 また見つけてしまった。この世界に無数に存在する、嫌な嘘を。こんな能力が、人の嘘を見抜く能力があるせいで、見つけてしまった。

 俺は、嘘が大嫌いだ。

 勿論、人を守るような嘘とか、楽しめるための嘘だとか、そういう嘘は嫌いじゃない。むしろ好きだ。

 でも、人を貶めるような嘘とか、人を騙すような嘘とか、そういうくだらない嘘は、大嫌いだ。

 だから今の俺は、靄々で、鬱々で、そして、苛々。つまり、気分は最悪。

 しかしそんな最悪な気分は、一発で吹き飛ぶこととなる。なぜならば。

「やっほー、元気でしたか? 王地山センパイっ」

 奇術部室のドアの前に、彼女が――天津神真編が、立っていたから。



「ねぇねぇ、センパイはどうして五限目の王子様なんですか?」

 とりあえず天津神を部室に招き入れソファーに座らせた瞬間、俺が座るのを待たずに、興味津々に彼女はそう訊いてきた。渾名が一部間違っているが、細かいことは気にしないでおこう。

「どうしてって言われても、そう呼ばれてるから、そういう渾名なんだ」

 あなたはどうしてロミオなの、という問いと同じくらい、しっくりくる答えを作りづらい質問に、俺はドアに寄りかかったまま答える。

「あー、そうじゃなくって……じゃあ、質問を変えますね。センパイはどうして、毎日五時限目だけサボるんですか?」

 なんだ、そういう質問か。

「……なんで、そんな事を?」

「そりゃあ、センパイに興味があるからですよ。……あっ、もしかして、友達がいないとか?」

 何故俺が五限目……正確には昼休みの始めから五限目の終わりまで、この奇術部室に引き篭もってるか。それに対する答えは『嘘を見つけたくないので、なるべく人と関わりたくない』『ソファーが気持ちよくてつい寝ちゃう』この二点に尽きる。

 しかしこの理由を説明するには俺の“嘘を見抜く能力”を説明しなければならない。それは面倒なので、ここではこう答える事にしよう。

「世界の平和を守るため、かな」

「……へっ?」

 ぽかーん、という擬態語がよく似合う表情が、一瞬で形成された。つまり、天津神に隙が一瞬生まれた。そこで俺は、会話を一気にこちらのペースに引きずり込む。

「それより、君は……えっと、天津神だったっけ? 天津神は、入部希望でも通りすがりでも無いんだったら、一体何の為に、どういう目的でここに?」

「うわっ、人が隙だらけな時に話題を変えましたねっ? このひとでなし!」

「先輩後輩という関係から生まれるとは思えない程の酷い言われようっ!?」

「ちっちっち、センパイ、王権神授説を考えてみてくださいよ。王権は神から与えられる物なんですよ?」

 唇の前で指を振るジェスチャーから、彼女の主張は始まった。しかし、その出だしからして既に説得力はゼロに近い。

「だーかーらー、天津“神”の方が“王”地山より偉いわけです。あーゆーおーけい?」

 和訳しつつ要約すると『私は貴方より偉いです。大丈夫ですか?』になるわけだが、大丈夫か聞きたいのはこっちの方だ。締めに大コケしてる主張ほど格好悪いものはない。……でも、俺が一番気になるのは。

「王権神授説、持ち出してくる必要あった?」

「自説をもっともらしくするためのワザですよ。つまり、所詮その説は踏み台ってことです。あーゆーおーけい?」

 あー、そうなんですか。結局、説得力ないけど。……ってほら、また『あーゆーおーけい?』とか言ってる。それ使い方間違ってるから。

「……それより、天津神。入部希望でも通りすがりでも無いんだったら、一体何の為に、どういう目的でここに?」

「うわお、無視した上に使い回しの台詞とはどんな仕打ちですか。……まあ、いいです。そうですねぇ、何と言ったらいいか……」

 腕を組んで、「う~ん」と真剣に考えこむ天津神。えっ、なにそれ。そこまで考える理由なの? もしかして、物凄く深い理由だったり?

「センパイが、ここにいるからですかね」

「……うん?」

 悪ふざけかと思ったが、彼女は極めて真剣な表情をしている。……これはまた、意味深長な。

「ごめん、もう一回言ってくれる?」

「センパイが、ここにいるからですかね」

 やっぱり、彼女の目は赤く光らない。つまりはつまり、その発言に嘘偽りは無いというわけで、それが何を意味するかといえば――えっと、どういうことだ?

「ふふふっ、困惑してますね困惑してますね?」

「ええっと、えっと、ど、どういうこと?」

「落ち着いてくださいセンパイ。どういう事かは……おいおい分かるかと思いますので、今日は秘密ってコトで」

 そう言って、天津神は意味深な微笑を浮かべる。……なんなんだ、この子は?

 俺がここにいるから彼女はここに来た? それはつまり、五限目の不良王子への興味? そうだ、確かに天津神はソファーに座るやいなや五限目の事について聞いてきた。でももし、そういう理由じゃなかったら。俺に好意を寄せてたり……いや、でもそれがフェイクで、本当の目的はまた別にあって、と見せかけて実は――なんてことがあったり……?

「ええと、ええと……?」

 考えすぎて、よくわからなくなってきた。頭を抱えて、その場にしゃがみ込む。そして、俺の思考能力は停止した。

「せんぱい、王地山せんぱーい?」

 天津神が心配そうに声を掛けてくる。……が、俺は『思考停止なう』なので黙ったまま。

「まあまあ、そんな考え込まずに、五限までの残り二十分間、なんかして有意義に過ごしましょうよ、ね?」

「……なんか、って?」

 俺はしゃがみこんだまま、抱え込んでいた顔を上げる。あれ、なんかまた、彼女のペースに流されてる?

「うーん……あっ、そうだ、センパイセンパイ、ここは奇術部室だしトランプありますよね? 心神耗弱、やりましょうよ」

「神経衰弱な」

「ボケに真顔ツッコミかっこわるいです」

「それを言うなら神経衰弱だろっ!」

「普通ツッコミも結構かっこわるいです」

「じゃあどうしろってんだ!」

「……さーて、カード並べよっかな。ほらそこ、センパイも手伝ってください」

 うわお、全力でスルーされた。なんて仕打ちだ。

「ほら、スルーされたくらいでショックを受けてないで、こっちの束、並べてください」

「……了解」

 俺は渋々とトランプの束を受け取って、無言でカードを並べ始めた。ぱた、ぱた、ぱた、とテーブルにトランプを置く音だけが聞こえる。

 なるべく人と関わることを避けていた俺が、パーソナルスペースだった奇術部室で後輩の可愛い女の子とトランプ。それは、昨日までの俺には信じられないような、極めて非日常的な出来事だ。

 でもそれは別に、嫌じゃなかった。むしろ、楽しかった。それもそのはず。だって、俺が人を避けるのは人が嫌いだからじゃない。人を嫌いたくないからなのだから。……だから、もう関わってしまった彼女を、全力で向こうから関わってきた彼女を、どう扱えばいいのか分からない。

 そんな風に困惑しながら無言でトランプを配置していると、ふと天津神が口を開いた。

「そういえばセンパイ、王地山、なんて言うんですか? 下の名前は」

「シンジ、だ」

「私は真編です」

「うん。知ってる」

 一週間前、つまりは“奇術部室の変”の時、フルネームで名乗ってたし。

「私が真実を編み、センパイが真実を司る……これは、名コンビですね。相性ばっちりですよ、うんうん」

 彼女は力強く頷く。相性って……何を言っているんだろうこの子は。さっきは『天津“神”の方が“王”地山より偉いわけです』とか言ってたくせに。それに、俺の名前は、真司じゃなくて、慎司だ。

「真実は真実でも、小さい真実だけどな」

 だから俺は訂正を入れた、が。

「細かいことは気にしないっ! これ、長生きのコツですよっ! ……っと、ささ、準備完了っ、始めましょう、心神喪失」

 一蹴された。

 あと、神経衰弱だってば。なにその責任能力の無さそうなゲーム名。

 でも、そんなツッコミを声に出す気力は、これから始まる真剣勝負の為にとっておいた。


 ……しかし、結果は俺の大敗だった。


            ***


 その翌日も、朝から雨だった。

 しかし、不思議と憂鬱な気分は無かった。どういう訳か。それは俺にも分からない。

 もしかしたらその理由は、天津神に会う事が楽しみだったからなのかもしれない。

 そう思う所以は至極単純。昼休みにいつも通りに奇術部室へ行ってみれば、彼女の姿は何処にもなく、それに気付いた瞬間、ざーざーという雨音が急に耳障りに感じられ、鬱々とした気分が瞬時に沸き上がってきたからだ。

「……昨日のは、一体なんだったんだろう」

 いつものようにソファーに寝転がりながら、俺は呟いた。

 出来るだけ人と関わりたくなくて、出来るだけ人を見損ないたくなくてこの部屋に引き篭っている俺が、昨日はこの部屋であんな可愛い後輩の女の子と過ごしていたなんて。

「夢……だったりして」

 あまりにも……という程でもないが、少し現実離れした昨日の状況を、俺は今頃になって疑い始める。昨日のは全部、白昼夢もしくは昼寝夢だったんじゃないか。

 そんな疑念を抱き始めた瞬間。それを否定するかのように、部室のドアが叩かれた。

「おーい、せんぱぁーい、開けてくださーい。もしもーし? もしもし起きてますか死んでますかー?」

 それは、天津神の声。やっぱり夢じゃなかったと脳が認識した瞬間、がばっ、と俺は起き上がり、急いで鍵を回しドアを開ける。

「……あの、センパイ、なんでそんな嬉しそうなんですか?」

「えっ?」

 俺の顔を見るやいなや、彼女はからかうような表情でそんな事を言ってきた。……あれっ、もしかして俺、顔を綻ばせてた? あー……、これは恥ずかしい。

「……と、いうわけでそんな可愛いセンパイに、今日はなんとプレゼントがあるのです」

「えっ?」

「あー、また同じ台詞を使い回しましたね? このろくでなし!」

「い、いや、そういうつもりじゃなくて。これは単に――」

 しどろもどろに俺が弁明を始めると、天津神はすぐにそれを遮り、「分かってますって。……はい、どうぞ」と後ろ手に隠していた小さな袋を手渡してくれた。

 俺は「ありがと」と軽くお礼を述べて受け取る。何が入っているんだろう。わくわくする気持ちを抑え、まずは外見の観察。淡い水色で、ピンクの水玉模様、赤いリボンがついている。重さは、普通。これは――

「もしかして、ワインコルク?」

「私、次に『食べていいですよ』って言うつもりだったのに……」

 どうやら食べ物だったようだ。そうか、うん、食べ物。……食べ物?

「……食べ物!?」

 しゅるりとリボンを解き、がさがさと袋を開けると、その中には美味しそうなクッキーが何個か入っていた。

「こ、これ、くれるのかっ!?」

「手作りです。……食べて、いいですよ」

 喉元に用意していた台詞がちゃんと吐き出せて満足らしく、天津神の声はご機嫌色だった。

 どうして手作りクッキーをくれたのか、理由は不明だけど、でもとりあえず、嬉しい。俺は彼女の許可通りクッキーを口に運び、塩と砂糖を間違えたというありがちなパターンも考慮に入れながら、彼女のお手製クッキーを噛む。がりっ、という音とともに押し寄せてくるその味は――

「あ、美味い」

「“あ”ってなんですか?」

「五十音図にてあ行あ段に位置する仮名だけど」

「そうじゃなくて、こう、用法の解説に“意外な出来事への軽い驚嘆を表す”って書いてそうな“あ”じゃないですか今のっ!」

「それは水に流してくれ、クッキーだけにな」

「どこも掛かってないですよ!?」

「ふっ、よくぞ見抜いたな。……俺のユーモアセンスを」

「ゼロってことをですけどね!」

 またもや手厳しい言葉を賜ったところで、そろそろボケ疲れてきた俺は話題を転換する。

「……さて、美味しいクッキーは後で堪能するとして、どうする? ポーカーでもする?」

「いいですね、ポーカー。ふっふっふ、またコテンパンにしてあげますよっ!」

 天津神は、自信満々だった。



 しかし、二日連続で勝てるほど、現実はそう甘くなかった。二日連続で負けるほど俺にとっては現実はそう厳しくなかった、とも言い換えられる。

「うひゃう、チップがなくなりましたよっ!? センパイ強すぎですよっ! ……はっ、まさか、イカサマ!?」

「俺が強いんじゃなくて、天津神が弱いんだ。いや、ホントに」

 本当に、俺はイカサマなどしていない。天津神のポーカーフェイスが地を這うレベルだったんだ。……いや、ここはポジティブに表現しよう。役が丸分かりになるほど清々しい天真爛漫っぷりだったんだ。

「むー……、本当ですか~? まるで私の手札が分かってるような勝負の仕方だったじゃないですか。これはあれですよ。イカサマを疑わざるを得ないですよ?」

「君の表情がカードを引くたびにころころ変わるせいだ」

「じゃあ次は目隠ししてやりましょうそうしましょう」

「カード裏返しにしてやるようなもんだよねそれ」

「じゃなくて、目隠しするのはセンパイだけです」

「ひっくり返しようの無いハンデを背負った!」

「勝った時の私の台詞は『透視が出来るようになってから出直してくるんだな』で決まりですね」

「『ポーカーフェイスが出来るようになってから出直してくるんだな』って言わせて欲しい!」

「あっ、分かりました、じゃあ折衷案として私が目出し帽被ります。これで文句無いでしょ?」

「対面に銀行強盗みたいな人がいるくらいならもうポーカーしなくていいやっ!」

 勝ったのに、最終的には負けた気分だった。これは一体、どういう事だ。天津神おそろしや。おそろしやおそろしや。

 ……と、俺が心中で天津神に恐れを抱いたところで、予鈴がなった。あと五分で五限が始まるという合図だ。

 そしてそれは、彼女の退室を、つまりは俺がいつの間にか“楽しい”と認識していた時間の終わりを意味する。

「あーっと、じゃあ、私はここら辺で」

 立ち上がった彼女に向かって、俺は「あ、天津神っ」と声を掛ける。それは、ほぼ無意識の行動。ただただ、瞬時に思い浮かんだ“アレを渡しておかなければ”という言葉に従っての行動だった。

「ん? なんか用ですか?」

「これ、渡しとくよ」

 俺はそう言って、彼女に右手を伸ばす。渡したのは、奇術部室の鍵。今は高三になる先輩に託された、たった二つの、唯二無三の鍵のうちの片方。

 それを受け取って「えっと、これは……?」と首を傾げる天津神に、俺は「この部室のスペアキー。俺より早く来たときに困るかな、って思って」と説明する。

「でも私、別に部員じゃないですから……受け取れないですよ、これはっ」

「じゃあ、今日から部員ってことで。大丈夫、どうせ部員は俺と君しかいないし。他に気にする人は居ない」

 それでもまだ「でも……」と渋る彼女に、「じゃあ、クッキーのお礼ってことで」とダメ押し。

「……分かりました。じゃあこれは、ありがたく頂戴します。後で返せって言っても、返しませんから」

 それでようやく彼女は納得し、少し嬉しそうな顔で、ポケットに鍵を仕舞った。

「それじゃまた、雨の日に来ますねっ!」

「雨の日?」

 ……そういえば、俺が天津神に会う日は、いつも雨の日だった。ドアをぶつけた日も、昨日も今日も。

「そーです。雨の日。私はいつも、絶対、雨の日に来ますから」

 断言した天津神の右目は、赤く光らない。つまり、彼女の約束は嘘ではない。……そう分かっているのに、それでも俺はどうしてだか、「絶対? ほんとに、絶対に?」と聞き返してしまう。

 そして、彼女の答えを俺は待つ。今度は、彼女の右目を凝視して。赤く光らないと知っているのに、答えを知っているのに、それなのに、俺は決して見逃さないように注視している。

「ほんとにほんとですって。もーセンパイ、そんな心配そうな顔しなくてもいいでしょ?」

 苦笑しながら答える天津神。勿論、彼女の右目は光らない。二回も確認してようやく、俺は安堵の息を吐いた。

「では、また雨の日にっ!」

「また、雨の日に」

 奇術部室を後にする天津神を、片手をひらひらと振って見送る。ドアが閉まると同時に五限開始を知らせるチャイムが鳴って、彼女の「うわやばっ!」という焦り声と廊下を全力疾駆する足音が聞こえた。それがなんだか可笑しくて、自然と口の端が緩むのが分かった。



 チャイムが鳴り止むと同時に、静寂と孤独感が訪れる。

 一人取り残された俺は、さっきまで座っていた柔らかいソファーに寝転んで、呟いた。

「なんで俺、さっきはあんな事を」

 さっきまでとはうって変わっていつも通りの状況に、冷静に働く頭が思考を紡ぎ始める。

 人と関わるのを避けていた俺が、どうして進んで天津神に鍵を渡したんだろう。

 どうして彼女の『絶対来る』という言葉を、二回も確認したんだろう。


 それは、彼女と過ごす時間が楽しかったからだ。

 そう。天真爛漫で、可愛くて、快活で、自分に懐いてくれる後輩である、天津神真編と過ごす時間が――


 ――本当に、それだけ?


 五限終了を知らせるチャイムが鳴り止んだ時、そこに残ったのは、靄々とした気持ちだった。


            ***


 その靄々とした気持ちの正体におおよその予想がついたのは、それから一週間と少しが経った頃だった。


「ねぇセンパイ、センパイって、好きな人とかいるんですか?」

「えっ?」

 昼休み、天津神に「せっかくだから奇術部員っぽいことしてみてくださいよ」とせがまれて手品を披露しようとトランプをシャッフルしていた俺に、突然彼女はそんな話題を振ってきた。思わずカードを切る手が止まる。

「恋バナですよ、恋バナ。だってだって、青春真っ盛りじゃないですか私たちはっ! だから、たまにはこういう話題もいいかなっ、なんて」

 たまにはも何も、この奇術部室で俺達が会話するのはまだ三回目だろう、とツッコミたくなったが、ここはのらりくらりとかわす戦法でいこう。

「恋花、人の恋心を貪って成長する花。おもにイチャイチャ熱の激しい場所に分布。花言葉は“爆発しろ”のあの恋花?」

「もー、バカにしないでくださいよっ! この脳なし!」

 しまった、怒られた。

「……それで、いるんですか? 好きな人」

 質問しながら、ぐいっ、と顔を近づけてくる天津神。目の前に、興味津々な表情。

 好きな人、か。そもそも対象となり得る人物がこの目の前にいる天津神だけなんだが、確かに、この子と一緒にいると楽しい。楽しいけど、恋愛感情があるかといえば……無い。

「いるわけ、ないじゃないか。俺はこの奇術部室に篭もりっきりなんだから」

 だから俺は、そう言い切った。……でも、なんだか釈然としない。一週間前からわだかまっている靄々とした気持ちが、ずん、と自己主張する。なんなんだ、一体。

「……なるほど、つまり私ですね。納得なっとく。……幸せに、してね?」

「なかなかの超展開だっ!」

「人生ってそういうものなんだと思います」

 なんてアバウトな返答なんだ。

「……じゃあ、逆に訊くけど、天津神はどうなんだ?」

「恋ヴァナですか?」

「なんでブイの発音が混ざってるのかよく分かんないんだけど、そう、恋バナ。つまり、天津神に好きな人はいるのかな、って」

 すると、天津神は急に「うーん……」と腕を組んで俯き、深く考え始める。その間に俺は手品の続きを――――あー、またこの感覚だ。また、靄々とした気持ちが押し寄せてくる。だからこれは、なんなんだ。

 自分の中のよく分からない感情に困り果てる俺。そんなとき天津神が、組んだ腕をばっと解いてはっと顔を上げ、ぱっと口を開いた。

「秘密ですっ! そうですよ、センパイに言う義理は二ミリくらいしか無いわけですし」

 沈思黙考の末の答えがそれかい。なんて酷い話だ。というか、ちょっとあるんじゃないか義理。……よーし、ちょっとからかってみるか。

「もしかして俺だったりして?」

「なっ! ……そ、それも秘密ですっ」

 ほほう、否定しないとな。これはまさか……まさかそういう可能性もあるということ? とか考えて、一人でニヤニヤしていると。

「むー、反撃質問です」

 天津神が頬を膨らませ、人差し指をびしぃ、っとこちらへ向けてくる。もちろん俺は「よーし、かかってこい」と応じた。

「……もし私がセンパイのことが好きだったら、どうします?」

「えっ?」

 いたって真剣な表情で、天津神はとんでもない質問をぶつけてきた。

 心の中が、ざわつく。靄々としたこの気持ちが、跳び回る。

「そうだな……嬉しくて小躍りする、かな?」

 そうだったら、嬉しい。でも、なぜ嬉しい? 女の子に好かれたから? 天津神に好かれたから?

 女の子に好かれたから、嬉しい? それは、違う。

 だって俺は、人を見損ないたくないから人と関わるのを避けてきたっていうのに。友情も恋心も敬慕も、たった一つの嘘で壊れることだってあるから、俺はこの部屋に引き篭っているのに。だから、誰かに好かれたって、関係がいつか壊れるのが怖くて、それに応えたいとも思えないのに。

「うーん……、出来れば裸踊りくらいはして欲しいんですけど」

「恥ずかしすぎるだろそんな奴っ!」

 つまり、俺の気持ちは――天津神に好かれたら嬉しいっていう俺の気持ちは、何を意味する? だってそれは、そういう事だろう?


 そうして俺は、気付いてしまった。

 俺のこの靄々とした気持ちは、もしかしたら、天津神真編への恋愛感情なのでは、と。


            ***


 それから何度か雨の日があって、俺はその度に昼休みを待ち遠しく思って、そして天津神と楽しい時間を過ごした。

 そこで俺が思ったのは、やっぱり俺は、天津神のことが好きだということ。

 でも、その想いを伝えることは出来そうになかった。もしヘタに行動すれば、今まで変なテンションで保ってきたバランスが崩れて、楽しい時間が過ごせなくなってしまうかもしれない。それが、一番嫌だった。

 だから、昼休み、曇りの日、奇術部室、ソファーの上、寝転がりながら、俺は一人呟く。

「天津神も、実は俺の事が好きだった――――なんて展開だったらいいのに」

 そうだったら、ハッピーエンドだ。きっと楽しい時間は変わらずに、幸せへ一直線コースだ。

 でも、冷静に今までの彼女の言動を振り返ってみれば、それはあり得ない話でもなかった。

 手作りクッキーをくれたり、意味深なことを言ったり、恋バナでとんでもない質問をしてきたり。俺に好意を寄せていると解釈できるような態度を、彼女は幾度もとっていた。

 ……けど、もしかしたらそれは俺の勘違いかもしれないし、わざと思わせぶりな態度をとっているのかもしれない。態度だけじゃ、俺には分からないのだ。彼女の想いは。……唯一絶対的に信用できる“右目”を見なきゃ、分からないんだ。

 だから、彼女がこの奇術部室に来る“目的”を考えたとき、可能性は幾つもあって、確信を持てる“答え”が定まらない。

 彼女が俺に惚れて、俺へのアプローチを目的にこの部室に来ている――という可能性。

 仲の良い先輩を作りたくて、この部室に来ている――という可能性。

 俺を篭絡して利用するために、この部室に来ている――という可能性。

 彼女が実は殺し屋で、俺を始末するためにこの部室に来ている――という可能性。

 考えれば考えるほど分からなくなる。

 だから俺は考えるのをやめ、静かに目を閉じた。

 彼女の気持ちを推測せずに、自分の想いを心の内に閉じ込めれば、“楽しい時間”は続くんだ。

 俺に出来るのは、その時間がいつまでもいつまでも続くようにと、願うこと。


 でもやっぱり、純粋に。

 俺は、彼女の想いを、知りたいと思った――――――



「……ん、ん~」

 まどろみの世界から、意識が帰ってくる。……俺、いつの間に寝てたんだろ。

 まどろみの世界から、聴覚が帰ってくる。……ざーざーという雨音が聞こえた。いつの間に降り始めたんだろ。

 まどろみの世界から、触覚が帰ってくる。……何かが変だ。俺は確か、ソファーの上で寝転がっていたはず。それなのに、寝心地がいつもと違う。……そう、頭部だ。頭部にだけ、いつもと違う感覚がある。

 まどろみの世界から、視覚が帰ってくる。……目を開く。するとそこには――


「あ、おはようさんです。センパイ」

「ん、おはよう……って、あれ?」

 現在、視界に映っているのは、俺の顔を覗き込んでくる天津神の顔なわけだが、少し変だった。なんというか、こう、いつもと見え方が違うというか……うーんと、あれ?

「なあ天津神。なんで君の後ろに天井が?」

「不思議な事を言うんですねセンパイは」

「俺にとっては今この状況が不思議なんだけど……」

「ヒントその一、枕」

 あー、なるほど。頭の位置がいつもより高くて寝心地が違うのはそういうことか。枕ね、はいはい枕。

「ヒントその二、膝枕」

 うん? 急に分かりづらくなった。膝枕? 誰が、誰に? ……いや、待てよ、もしかして。

「ヒントその三、さっきのが答え」

「――っ!?」

 がばりと起き上がる。すると目の前から天津神の姿が消える。後ろを振り返ると、ソファーに座って微笑む彼女の姿があった。これはつまり、膝枕が行われていたという状況証拠。

「……なんと、膝枕だって?」

「はい、膝枕ですよ」

 彼女の右目は赤く光らない。ゆえに彼女は嘘をついていない。これはつまり、膝枕が行われていたという自白証拠。

 試しに、起き上がらせていた上体を再び降ろしてみると……スカート越しの天津神の太ももに見事にフィット! これはつまり、膝枕が行われていたという再現証拠。

「ふむ、にわかには信じ難いイベントが俺の知らないところで起きていたみたいで俺は今とてもビックリしている」

「あーもー、センパイ、また寝ないでくださいよー」

 膝枕に再び乗せられた俺の頭を無理矢理どかして、天津神はソファーから立ち上がる。と、同時にチャイムが鳴った。

 あと五分で五限開始という予鈴。早くも別れの時間だ。しかし、せっかく天津神が来てくれたのに、ずっと寝ていたとはなんたる不覚。俺たちを引き裂くチャイムを憎く思いながら、俺は溜め息を一つ吐く。

 ……しかし、なかなか天津神が帰る素振りを見せない。どうしたんだろう。

「天津神、行かないのか?」

「行くって、センパイもでしょ?」

「いや、俺は五限目の不良王子――って、まさか……!」

 時計を確認してみると、時刻は、十四時十分。つまり今さっき鳴ったチャイムは、五限終了を告げるだったってこと? ……と、いうことはもしかして、天津神は。

「あ、気付いきました? そうです、とうとう私、五時限目サボっちゃいましたっ! てへへっ!」

 じゃじゃーん! みたいな効果音が付きそうな勢いで、満面の笑みを浮かべた彼女は両手を広げる。その様子に、俺は胸のざわめきを覚えた。

 ……まただ。また思ってしまった。『彼女はもしかして、俺のことが好きなんじゃないか?』なんて。

 膝枕をしてくれて、しかも、五限目をサボってまでそれを続けてくれて。そんな天津神が、俺を好きじゃないわけがない。俺の直感が、大声でそう告げている。

 でもやっぱり、確信を持てない。彼女の気持ちを、確かめたい。この眼で、確かめたい。

 ――彼女の気持ちを推測せずに、自分の想いを心の内に閉じ込めれば、“楽しい時間”は続くんだ。

 俺は眠りに落ちる前に、そう考えたはずだった。

 それなのに俺は今、彼女の気持ちを、俺の恋の“答え”を、確かめようとしている。

 矛盾してると分かりながらも、俺は立ち上がる。

 そして、照れくさそうに髪をいじりながら「いやぁ、センパイと一緒にいたらいつかやっちゃうと思ってたんですけど、案の定ですよもう」と言う天津神に、俺は「なあ天津神」と呼び掛け、問う。

「前にさ、言ってたよね? ここに来る目的は、俺が居るからだって」

「えっと、はい。確かに言いましたけど」

「……それは、どうして?」

「どうしてって、それは……その……秘密ですけど」

 それは想定済みの返答だった。だから俺はすかさず次の質問を繰り出す。

「ここに来るのは、俺が五限目の不良王子だから?」

「それは違いますよ、センパイはセンパイです」

「じゃあ、俺への興味?」

「興味は確かに津々な感じですが、それ自体が目的かと言われれば違いますね」

「じゃあ――」

 彼女は嘘をつかない。それはいいことなのに、どうしてこんなにも不安になるんだろう。彼女に嘘をつかれた時の悲しみが、増すから?

 それでも俺は訊く。恐れながら、怖がりながら、彼女の右目をじっと見つめて。

「――俺と一緒にいて、楽しい?」

 沈黙。天津神は、複雑な表情を見せた。俺の不安は、それを見て一気に高まる。

「……楽しくなかったら、ここに来ませんよ」

 右目は……光らず。つまり、彼女の台詞は、本心。ここは安堵するタイミングだ。でも俺は、それでもまだ不安な俺は、もう一度訊く。

「ホントに、楽しい?」

「楽しい、ですけど」

 二度目の肯定の言葉。勿論、右目は光らない。そこでようやく、俺は胸をなでおろ――そうとした瞬間。「……ねぇ、センパイ」と、天津神はなにか言いたげに眉をひそめた。

「ん? なに?」

「…………私の目に、答えでも書いてあるんですか?」

「――――っ! ど、どういうこと?」

 ぎくり、とか、びくり、とか、そういう感覚じゃない。ぞわわっ、と全身の毛が逆立つような感覚。しまった。これは、やってしまった。

「センパイが質問するときは、いつもそうですっ! 不安そうな顔で、心理学をかじった人みたいに、私の目を覗き込んで……私の言葉に嘘がないと確かめてから、ようやくそれを信じて……っ!」

 彼女の言っていることは、見事に真実を言い当てている。だから、俺は何も言い返せない。

「確かに気持ちは分かりますよ? でも、でも、私が楽しんでるか、そこまで疑われたら、流石にハラワタが煮えくり返っちゃいます! センパイのばかっ! この二十一世紀なし! ゴールド二十世紀なし!」

 天津神はそう言うと、くるりと俺に背を向けて、部室を出て行く。とうとう梨の種類を持ち出したか、とかツッコむ余裕は俺にはなくて、廊下から勢いよくドアを閉める彼女に掛ける言葉も俺にはなくて、そして、六限開始のチャイムが鳴っても、そこから動く元気も俺にはなかった。

「…………ごめん」

 ようやく喉の外に辿り着いた言葉は、届くべき人に届かなくて。

 俺は、なんてことをしてるんだ。

 疑わなければ、こんな事にはならなかったのに。何も考えずにいれば、よかったのに。

 なんでこんな、余計なことしてるんだ。

 後悔と、喪失感と、後ろめたさで、胸がいっぱいになる。

 それらの感情が収まるまで、俺はしばらく、魂が抜けたようにその場に立ち尽くしていた。


            ***


 天津神を怒らせてしまったあの日から二日。日曜日。午前十一時。

 雨の降り注ぐ中、レインコートを着た俺は、校門の前で人を待っていた。

 ――次の土曜日か日曜日、もし雨が降ったら、そしてもし宜しければ、十一時に校門前に来て下さい。ただし、レインコートで。

 あの日、おでこにセロハンテープで貼ってあったメモに書いてあった内容を、頭の中で復唱する。後悔に満ち満ちた頭で、何度も何度も読み返した文章。天津神の可愛らしい文字の細部に至るまで思い出せるほどに、何度も、何度も読んだ。そこに、彼女の気持ちを見つけ出したくて。

 相変わらず俺は彼女の事が好きだから、一昨日の事を謝りたいから、俺はここでずっと待つ。

 彼女が俺の事を好きかどうかの確信も相変わらず持てない。しかも、怒らせちゃったし、今日来てくれるかも分からない。でも、俺はここでずっと待つ。

 そう決意してから、間もなくして。正確には、そう決意して、そういえば何でレインコートなんだろう、と思考をワンプッシュ挟んでから間もなくして。……一台の車が、俺の目の前で停まった。

「……おいおい、なんだよこれは」

 正直、ギャグかと思った。いや、というか、これはギャグだろう。

 俺の目の前に停まった車は、黒い外車だった。黒くて、スモークガラスで、おまけに、やたらと長い外車。それが、何の変哲もない学校の前に停まった。最近の校長はこんなVIP待遇なのか、と思うしかないわけだけども、確かうちの学校の校長は健康的なことに自転車通勤だったはずだ。

 だから、だからじゃあ、この車はなんだよ、ってことになる。うん。この車、何なんだよ。

 そう思ってると、ふいにその車の運転席の方のドアが開き、イカした髭を生やした、背の高い、スーツの老紳士が現れた。これは一体、何事だろう。この学校で、一体何が起きようとしているのだろう。

 しかし、その答えは割とあっさりと明かされた。

「ごきげんよう、センパイ」

 老紳士が後部座席の方のドアを開けると、そこから現れたのは、なんとびっくり、天津神真編。制服を着て、薄水色のレインコートに身を包んだ、俺の可愛い後輩。

「えっと、……えっとえっと?」

 状況の読めない俺が狼狽していると、天津神が「あれ、うちのじいや」と非懇切丁寧に状況を教えてくれた。

「……なんとなく分かったけど、全然分からない」

 ハッキリと分かったのは、天津神が再び俺の目の前に現れてくれたということだけ。それは嬉しい。嬉しいけど、その他の状況がよくつかめない。

「あれっ、もしかしてセンパイ、知らなかったり……?」

「知らないって、何が?」

 鳩のように首を傾げてみる。すると天津神が、鳩が豆鉄砲を食ったような表情を見せる。え? 何? もしかして俺、常識が欠如してたりする?

「……天津神コーポレーションって、知らないですか?」

 聞いたことがあるような、無いような。

「なんか、どっかの大企業の名前だったっけ……?」

「そんな感じです。主な活動拠点は外国なんですけど、主にコンタクトレンズとか眼鏡とか、そこら辺のモノを取り扱ってる企業です」

「で、その苗字をなんで天津神が名乗って――」

 あっ、そうか。……もしかして、もしかして彼女は。

「そうです。その社長令嬢が、私なんです。……あ、じいや。もう帰っていいよ。また帰る時に呼ぶから」

「畏まりました」

 一礼してから、老紳士が車に乗り込み、あのギャグみたいに長い車を走らせ、去って行った。

「……天津神がそんな金持ちだったなんて、びっくり仰天だ」

 いや、まぁ苗字から若干金持ち臭はしてたけど、それにしても凄いな。

「思わず天を仰ぎたくなっちゃいました?」

「それは、目に雨が入る」

「自然の潤い、いいじゃないですか。……海の水、雨の水、涙の水。これほど綺麗な物は無いと思いますよ、私は。特に、雨の水は天の涙ですから、一番綺麗な気がします」

「是非地下水も追加して貰いたい。苗字に地の字が付く者代表として」

「……えー、地下水はなんか、あんまり綺麗じゃないイメージです。土とか混ざってそうで」

「そもそも土は混ざらないし、それを言うなら、雨も海も、最近は汚れてるんじゃない? 環境汚染で」

「むー、売り言葉に買い言葉ですねセンパイ。このひっきりなし!」

「じゃあ最初から売らなきゃいいんだ。市場が成立したんだからいいだろう需要側も供給側も」

 そして、後半部のひっきりなしへのツッコミはしないでおく。前回の二十一世紀梨あたりからおかしくなってきてるから、いちいち相手にしてられない。

「あー、今のはツッコミ怠慢ですよ。七つの大罪ですよ。怠惰ですよ怠惰。この職なし! そして食なし!」

「ツッコミが無いのをいいことに、“なし”シリーズまた使ったなっ!?」

「働かざるもの食うべからず、です」

「天津神。本当のこと言うと、実は俺、ツッコミは副業だったんだ」

「うわっ、ずるい逃げ方しましたね今っ! この立場なし!」

「橘逸勢?」

「誰ですかそれ」

「三筆の一人だよ」

「だから誰ですかそれ」

「昔の人だよ」

「なるほどよく分かりました」

 ……なんだか、ホントに立ち話してるだけで日が暮れてしまう気がしてきた。そこで俺は天津神に「で、どこ行くの?」と訊いてみる。

「遊びに行くんですよ」

「どこへ?」

「ぶらぶらと、着の身着のまま」

「気の向くままにじゃないかなそれ?」

「いや、センパイから着の身着のまま命からがらに逃げてくるところまでが今日の予定です」

「俺一体何する予定なのっ!?」

「歩道橋を渡る私とセンパイ、そこに謎の黒マントの男が現れて、こう言うんです。“力が欲しいか”。そしてセンパイは黒い力に呑まれて――」

 ちょっとばかし長くなりそうだったので、俺は「まぁいいや、んじゃあ、映画でも行こう」と言って、一歩進む。が、天津神はついてこないで、代わりにこう言った。

「その前に、センパイ。何か私に言う事、無いですか?」

 天津神が、びしぃ、と人差し指を突きつけてくる。……そうだ。タイミングを失ってたけど、俺は謝りたくて、ここに来たんだ。

「えっと、その、一昨日はごめん。……これからは、気をつける」

「……でも、あれは私も悪かったです。ついカッとなって……その、ごめんなさい」

 雨の中、二人で頭を下げ合う。これで、一昨日のことは水に流せただろう。

「よしっ、じゃあ、行くか」

 というわけで俺は再び、映画館を目指して一歩進む――前に、腕を掴まれた。えっ? まだ何かあるの?

「よしっ、じゃないですよ。違います違います。私が言って欲しい事はそれじゃないです」

「じゃないのか?」

「じゃないですよ。私が要求してるのは、昼は俺が奢るよ、っていう宣言です」

「……へっ?」

 今度はこっちが鳩豆な表情をする。

「誠意を見せてください。誠意を」

「いやいやいやいや待て待て天津神。君は大企業の社長令嬢だろう?」

 むしろ俺が奢ってもらってもいいくらいじゃないか。……いや、流石に後輩に奢ってもらうとか恥ずかしすぎるけど。

「“神”と“王”ならどっちがお金を持ってると思います?」

 うわお、懐かしい理論を持ってきた!

「いやいや、そういうのは関係なくて、天津神だろ間違いなく」

「……ふふっ、自慢じゃないけど私、月のお小遣い――三千円なんですっ!」

 ででーん! みたいな効果音が付きそうな勢いで、満面の笑みを浮かべた彼女は両手を広げる。なんて庶民的な令嬢様だろう。

 しかし、ここはどうするべきか。素直に奢るか、断るか。……って、そりゃあ、勿論。

「あー、……分かったよ」

 そりゃあ勿論、断れない。



 映画館近くの喫茶店にて俺達は、昼食をとりながらさっき観た映画の感想を言い合う。

「面白かったな。あのラストとか、凄く盛り上がって」

「あの自称能力者がまさか本当に超能力者だったとは……驚きですよね」

「しかも犯人だったなんてな。俺的にはあんまり納得いかないんだけどさ」

「いやあ、確かにまさかの展開でしたよね。『本格的な探偵モノ』という宣伝文句に見事に騙されちゃいましたよ」

 アイスコーヒーをストローでひと吸いしてから、「もう、完全にやられたー、って感じです」と天津神は楽しそうに続けた。

 それに対し、俺もメロンソーダを一口飲んでから「……でも、ずるいと思わない? そういうの」と言ってみる。

「いいんじゃないですか? 最近の探偵も刑事も、超能力者くらい見抜けないと仕事なんて出来ないですよ。あと、ヒヨコの雌雄も見分けられないとですね」

「うわあ、怖いな現代社会。超能力者なんてどうやって見抜くんだ。というか、実在するの?」

 ……って、そういえば、俺も一応“嘘を見抜く能力”を持つ超能力者だった。すっかり失念してた。……まあ、超ってレベルでもないけど。

「いないんじゃないですか? あ、でもそういえば、透視能力者はいるみたいですよ」

「ホント? へえ、それは初耳だ」

 勿論、彼女の右目は光っていないので彼女は嘘をついていない。……へえ、超能力なんて、ファンタジーの能力なのかと思ってたけど、そうでもなかったのか。

「お父様の……お父さんの研究で、そういうのがあったんです。目を構成する細胞の突然変異で、透視能力を持ってしまう……って感じの、目の病気だそうです」

 透視能力が実は目の病気、……か。じゃあひょっとすると、俺のこの能力も、目の病気だったりするのかもしれないな。

 確かに、こんな能力いらなかった。相手の言葉が嘘かどうかなんてそんな小さな真実、欲しくなかった。結果、普通の人と同じように日常を過ごせなくなってるんだから、なるほど確かにこれは立派な病気だ。

 ……そうだ。もしかしたら、俺の“嘘を見抜く能力”だって、その天津神の父親の研究に、載っているかもしれない。

 そうだったなら、彼女は、天津神は俺の能力を実は知っていた、なんて事になる。だとしたら、俺に近づいてきた目的は――

 俺の“疑う心”がまた、沸々と込み上げてくる。一昨日、俺と天津神の関係を危ぶませた感情が、また蘇ってくる。

「……なあ、天津神」

「ん? なんですか?」

「……透視能力の他にも、そういう超能力の病気ってあった?」

 訊いてから、冷静さを取り戻す。……しまった。またやってしまった。俺はすぐに謝ろうとしたが、それよりも先に、天津神が困り顔で口を開く。

「センパイ、また心配そうに目を覗き込んでる」

「……ごめん」

 遅れて、俺の言おうとした言葉が喉から飛び出す。

「駄目です。減点ですよ。はい、ゴールドからブルーに格下げ」

「運転免許っ!?」

「ゴールド二十世紀梨だったのがブルー二十世紀梨になります」

「未熟になった!」

「人生ってそういうものなんだと思います」

 うわお、また結構前の台詞を持ってきたな。……なんて、俺が懐かしさを感じていると、着信音が聞こえてきた。勿論、俺じゃない。……と、いうことは。

「あ、私だ。ちょっとごめんなさい」

 一言断ってから、天津神が携帯電話を取り出し「はい、もしもし」と電話に応答する。

 その間に俺は頼んでいたサンドイッチを食べ終えてしまった。……ので、じーっと天津神を見ていることにした。

「……それは、本当? ……本当に、聞き間違いじゃなくて? ……そう、分かったわ。ありがとう、じいや」

 どうやら電話の相手はじいやのようだ。そして天津神は、何故か凄く動揺していた。それは、彼女の表情から簡単に見て取れた。

 それから、「うん、じゃあね」を締めの言葉に、彼女は桃色の携帯電話を閉じる。

「じいや、何て言ってた? なんか、天津神、動揺してたよね?」

「センパイには何も言ってなかったです。……あ、ちなみに電話の内容の話なら、当然秘密ですよ」

 まぁ、そうだろうね。

「朗報?」

「どちらかと言えば凶報ですね」

「そっか……」

 こっから先は訊いても多分『秘密です』と答えられるんだろう。なら、後は励ますしかない。

「事情はよく分からないけど、あれだ。俺がついてるから」

「なっ……ななっ、せ、センパイっ? あ、えっと、あ……、ありがとう、です」

 顔を赤らめて俯く天津神。やっぱりその照れ反応はあからさまで、やっぱり彼女は、俺が好き……なんじゃないかという気がしてならない。なんて考えてたら、こっちが照れてきた。

「……って、あれっ、センパイ、いつの間に食べ終わったんですか?」

 俺の空になった皿を見て、天津神は自分の皿に残っていたチョコレートケーキを急いで頬張る。そして、もぐもぐもぐもぐ、ごっくん、と一連の動作を終えて、立ち上がった。

「よーし、センパイ、次、どこ行きます?」

「そんな急がなくても……」

「時間は待ってくれないんですよ?」

「俺はいつまでも待ってるよ」

「ひゃふっ、な、なんなんですかセンパイはっ!」

 天津神の反応で遊ぶの、結構楽しいな。昼食を奢るのだから、これぐらいは許されるだろう。うん。

「……よし、じゃあ行こう。次はどうする?」

「全力でスルーですかっ!?」

 という天津神の言葉もスルーして、約束通り会計は全て俺持ちで喫茶店から出て行った。

 雨が止む気配は、一向に無かった。



 次に俺達が訪れたのは、近くにあったゲームセンター。天津神たっての希望だ。

「センパイセンパイ、クレーンゲームですよ! ユーフォーキャッチャー!」

 筐体を指差しながら楽しそうに飛び跳ねる天津神。

「天津神、やってみれば?」

「いや、私はユーフォーにちょっとしたトラウマがあって……」

「なんかその話ファンタジーの臭いがする!」

「あと、キャトルミューティレーションにもトラウマが……」

「何があったの!? 凄惨な出来事しか予想できないっ!」

「以上、天津神真編の嘘つき劇場でした」

「……うん。なかなか新鮮だったよ」

「あ、あとちなみに、私が『E.T.』で一番泣いたシーンは宇宙人の登場シーンでした」

「ただの怖がりだっ!」

「……で、早くやってくださいよユーフォーキャッチャー。この意気地なし!」

 急に話題転換するよなあ、この子は。

「……はいはい」

 俺は言われるがままに百円硬貨を投入し、クレーンを動かす――前に、一つ。訊かなければならないことがあった。

「天津神、どれ取って欲しい? あの可愛い猫の人形?」

「えっ? あ……いや、その手前の、マグカップで」

「あの派手な色したアフロの犬? それとも猫?」

「マグカップです」

「猫?」

「いや、その……マグカップ、でお願いします」

 さっきから天津神の右目が赤く光りまくっている。なるほど、本当は猫の人形が欲しいんだな。

 うん。こういう嘘は、微笑ましくてむしろ好きだ。

 その気持ちが少し表情に出てしまったのか、ニヤニヤしながらクレーンを操作する俺がガラス窓に映っていた。

「センパイっ、そっちは、違います」

「合ってる合ってる」

「でもそっちは、猫……」

 言いながらも、少し嬉しそうな顔をする天津神。ああ、可愛いなあ――――なんて、邪念に満ちた心で操作をしてたら、ミスった。一回目終了。「ああ~」という悔しそうな声が後ろから聞こえた。

「センパイ、もう一回トライですっ!」

「でも、雨降ってるから、ゲット出来ても濡れちゃうよね」

 俺がそう言った瞬間、興奮した表情の天津神が「あっ」と、一瞬で残念そうに目を伏せた。

「……そっか、そうですね、……じゃあ、違うとこ行きましょう」

 とぼとぼと歩を進める天津神。その様子からも、さっきからの発言からも、猫のぬいぐるみが欲しかったのが丸分かりだった。可愛いやつめ。


 次に俺達が遊んだのは、ガンシューティングゲーム。拳銃を操作して、現れる敵を次々と撃ち倒していくゲームなのだが――

「それっ、ほいっ、ほいほいっ、よいしょっ、と!」

 天津神、めちゃくちゃ上手かった。びっくり仰天とかいうレベルを超えて、見惚れてこっちの手が止まるほど。……いや、もはや芸術。

 なんでそんなに上手いのか、と訊けば「社長令嬢を舐めないで欲しいです」との事だった。なるほど、社長令嬢は拳銃の扱いが上手いんだな。覚えた。


 その次に遊んだのは定番のエアホッケー。こちらの方は、天津神と俺の実力は互角だった。

 ……あれ? でも天津神、途中でリップクリーム塗りながらやってたような。……あー、なるほど手加減か。はいはいはい。これは情けない。


 レースゲームは苦手のようで、俺が圧倒的勝利を収めた。天津神は、壁に激突しまくっていた。

 終了後、彼女は「運転はちょっと、じいや任せで私自身はしたこと無いので分からないです」と言い訳していた。えっ、じゃあ拳銃は撃ったことあるの? ……社長令嬢、恐るべし。


 他にも、リズムゲームやメダルゲームで遊び、最後にはプリクラも撮った。

「楽しいですね」

「ああ、楽しい」

「奇術部室以外で遊ぶのも、いいですね」

「そうだな。ありがとう天津神。デートに誘ってくれて」

「な、ぬなっ、……で、デートですかっ? で、デート……」

 天津神が、また顔を赤らめる。いい反応をありがとう。……でも、腕時計を見ればもうすぐ十八時。そろそろ、帰らせた方がいいだろう。

「うーん、そろそろ、お開きにする?」

「えっ……? 宴もたけなわな感じですか?」

「時間もそろそろあれかな、って思って。天津神の家って、門限とかないの?」

「ありますけど、無いようなものですね」

「……? なんで?」

「門限は二〇時なんですが、これを過ぎる前に回収されちゃうんです。じいやに」

「恐ろしいな」

 門限過ぎる前に回収できるって事は、GPSか何かでも仕掛けられているのだろうか。……何にせよ、天津神家恐るべし。

「というわけで、まだ大丈夫ですよ。だからセンパイ、最後に寄りたいところがあるんですけど、いいですか?」

「いいよ、どこ?」

「ここから少し歩いた先にある、小さい公園です」

 どうしてそんな所に? ……と思ったが、何か考えがあるのだろう。俺は快く了承し、歩き始めた。



「……天津神ってもしかしてさ、許嫁とか、いたりするの?」

 道中、俺は天津神に訊いてみる。……勿論、彼女の事を疑っているからではない。彼女の事を、知りたいからだ。

「何人か、お父様――お父さんに紹介されたんですけど、全部断りました。……そういうの、私は好きじゃないんで」

「そっか。安心した」

「な、ななっ、なんでセンパイが安心するんですかっ?」

「それは……秘密って言えばいいかな」

「くぅぅ、ずるいですよセンパイ」

 これも全部、照れまくる天津神の表情を楽しむためなので、ずるくて結構。

 さて、次はどうやって天津神を……あ、そういえば、朝から気になっていた事が、一つだけあった。

「そういえば、何で傘じゃなくてレインコート持参に?」

「あー、それですか。それはですね、私の好みです」

「……好み?」

「レインコートって、不思議じゃないですか? 雨が降っていて、確かに身体に雨が当たるのに、濡れることはないんですよ? それが不思議で、楽しくて。……その感覚を、私はセンパイと共有したかったんです」

 楽しそうに、レインコートの魅力を饒舌に語る天津神。

「もしかして、雨の日はいつもレインコートだったりする?」

「おおっ、よく分かりましたね。流石はセンパイです」

「それじゃあ、俺の目の前に現れるのがいつも雨の日なのも、そういう関係?」

 ずっと初めから。彼女が『雨の日は絶対に来る』と宣言してから、ずっと不思議に思っていた謎を、俺はここにきてようやく問う。

「それは、また後で、すぐに話します。……ほらセンパイ、着きました。ここです」

 そう言って彼女は足を止め、ワンテンポ遅れて俺も足を止める。そこは、何の変哲も無い、普通の公園だった。

「……ここに何かあるの?」

「何も無いです。……ちょっと、人のいないところで話したかったので、ここを選びました」

 そう説明しながら、天津神は公園の中央へと足を進める。俺もその後ろをついて行く……と、彼女の足が急に止まる。そして彼女は振り向きざまに「ねぇセンパイ」と口を開いた。

「……天と地は、決して交わることのない世界なんです。どこまで行っても、ずっとずっと、近づく事はあっても、絶対に交わらない世界。……それが、天と地です」

 唐突に天と地と言い出した天津神だが、その意味はすぐに汲み取れた。天が天津神、地が王地山を表すのだろう。

「でも、“雨の日”は少し違う。私から――天から降る雨は重力に従って落ち、土を濡らし、そして、センパイへと――地へと届くんです」

 そして天津神は、くるりとこちらに背を向け、さっきよりも大きな声で「だから、私は雨の日にしか、センパイの前に現れないんです」と述べた。

 なるほど、と俺は理解すると同時に、納得はいかなかった。

「でも、……それでも俺に届くのは、天津神じゃなくて、天津神の……雨じゃないか」

「そうです。だから、私がセンパイの元に辿り着くには、“こうする”しか、方法は無いんです――」

 天津神は俺に背を向けたまましゃがみ込み、土に何かを書き始める。一画、二画、三画――そして彼女は立ち上がり、再び身体をくるりと回転させ、こちらを向く。

 書き上がった文字は『真編』。天津神の、名だ。

「私が天津神じゃなければ、こんなに簡単なのに」

 これはつまり、何を意味している?

 天津神真編が、天津神じゃなければ? つまりそれは、彼女が天津神という姓に縛られている、社長令嬢という立場に縛られている、そういうことなのか?

「……それってさ、天津神」

「違います。真編って、呼んでください」

 土に書かれた、地に記された『真編』の文字は、つまり、天津神をやめて、王地山になりたい、そういう意味じゃないのか?

 だとしたら。

 俺はやっぱり、とんでもなく遠回りをしてたんだ。

 最初から、彼女を疑わずに、信じてだけいればよかったんだ。

 だって、彼女の言葉も、仕草も、表情も、そして、土に書かれた『真編』も、全部、“彼女が俺を好きだという証拠”なんだから。

 だから俺は、彼女に歩み寄り、じっとその目を見つめて、そしてようやく、自分の気持ちを、自分の想いを、自分の恋心を、告白する。

「真編。俺は、君が好きだ」

 その瞬間。彼女の顔には、様々な感情が現れた。

 喜びもあった。驚きもあった。焦りもあった。動揺もあった。困惑もあった。安堵もあった。でもどういう訳だか、そこには悲しみもあった。

 とにかく、彼女のそれら全ての気持ちを共有したくて、俺は顔を近付け、彼女の唇に――――


 ――触れる前に、彼女は一歩、後ずさる。


「……えっ?」

 避けられ……た?

「ごめんなさい、センパイ。それが、正解です。正解だけど、私はその気持ちが、嬉しいけど、でも、……でも、私はセンパイと一緒になれない。天と地は、決して交われないんです」

 何故? どういうこと? 正解って、何が正解? どうして?

「どうして、天と地が決して交われない? どうして真編と俺は、一緒になれない? そんなの、誰が決めた?」

「……運命ですよ」

「運命? じゃあ運命は、誰が決めた?」

「……そんなの、“神”に決まってるじゃないですか」

 天と地が交われないのは、神が定めたこと。……ならば、真編と俺が一緒にいられないのは、天津神――天津神コーポレーションの、定めたこと?

 なんだよ、なんなんだよそれ。真編には許嫁もいないんだろ? それなのに、彼女は何故? 彼女は何故、俺と一緒になれない?

 俺は、どうすればいいんだよ。

 雨に濡れずに雨に打たれながら、俺は俯き、下唇を噛む。

「…………すいません。今日のところは、これで帰ります」

 真編は申し訳なさそうにそう呟き、俺の横を通り抜けて、公園を去って行った。

 俺は、彼女を呼び止めることも出来ずに、そこに立ち尽くしていた。


            ***


 その翌日もまた、雨の日だった。

 昼休み、いつものように奇術部室に向かいながら、俺は、はああ、と深い溜息をつく。

 昨日の帰宅後も今日の授業中も、ずっと昨日の出来事を思い返していた。校門で待ち合わせて、映画を観て、喫茶店で駄弁って、ゲーセンで遊んで、そして、公園でフラれた。

 真編が俺のことを好きだなんて、結局、全部俺の自意識過剰だったのかもしれない。……そんな結論にも、幾度となく辿り着いた。

 だけど、どうしても分からないのは彼女の『正解』という言葉の意味だ。

 告白して、キスしようとして、そして、避けられて、それなのに、避けた本人の真編曰く『正解』なのだから、意味が分からない。

 ……と、そうこう考えている内に、俺は奇術部室に到着した。到着してしまった。

 ドアの前に立つ俺の頭の中に、嫌な思考がよぎる。もしかしたら、気まずく思って彼女は来てないかもしれない。もう来ないかもしれない。そんな恐れを抱きながら、俺は勢いよく、部室のドアを開ける――


 ――と、そこにはちゃんと真編がいて。

 ちゃんと真編が、い……て……? えーっと? どうしてだろう。彼女は制服を着ていないように見える。……そう。彼女は今、下着だけ。

「……えっ?」

 素っ頓狂な声がひょいっとこぼれ落ちた瞬間。こちらへ何かが飛んでくる。……危ないっ! と、それをキャッチしてみれば、紫色の携帯電話。えーっと、……真編のケータイ、か?

 俺は何故こんな物が突然投げられたのかと首を傾げ、どこかおかしな点が無いかとその携帯電話をじろじろと観察していた。その時だった。

「くらえっ! 私の――膝枕カバー!」

 素早い身のこなしで瞬間的に俺の目の前に真編が現れ、俺が彼女の下着を視認するよりも先に、俺の視界が真っ暗になる。何だ? 何が起こった?

「えっと、えっと、なんだこれ? 目隠し?」

「ふっふっふ、それは膝枕カバーですよ」

 ひ、膝枕カバー? 枕カバーじゃなくて、膝枕の、カバー……? なんだそれは? ……って、あ。

「スカートじゃんっ!」

「スカートというより、膝枕カバーです。……とりあえず、出てってください」

 俺の顔にスカートを押し付けながら、真編が部室の外へと俺を追いやる。「……え、何? なんで?」状況がよく分からない。

「ヒントその一、次の授業は体育」

 なるほど理解した。

「ヒントその二、真編は着替え中、ってことだな?」

「そういうことです。……じゃあ、私がいいって言うまで入ってこないでくださいね?」

 俺が「了解」と答えると、真編は部室のドアを閉じ、俺は外で一人ぼっち。……左手には真編の紫色の携帯電話。そして、右手には……スカート。うわあ、ただの変態じゃないか。

 偶然にも誰かがここを通りすがらないことを祈りつつ、俺は今後真編とどう接すればいいのかを考える。

 彼女は今日も来てくれた。彼女は俺と“楽しい時間”を過ごすために、来てくれた。

 俺はどうすればいい?

 昨日のことは無かったことにして、今まで通り、平然と過ごせばいいのか?

 でも彼女は昨日、俺の告白に対し、こう言った。『私たちは一緒になれない』。……そこに、彼女の意志は介在したか? 彼女の本当の気持ちは、結局どうなんだ?

 俺がするべきなのは、彼女を“天津神”から“救う”ことなんじゃないか?

 そうだとして、でも、ああもう、どうすればいいんだ――

「はい、オッケーです」

 内側からの言葉に応じ、俺は部室へと戻る。……と、そこには体操着姿の真編がいた。

「……でもなんで、わざわざここで着替えたんだ?」

「女子更衣室で着替えるより、広いじゃないですか」

「ああ、なるほど納得。……で、まぁ、それはいいとして、昨日のこと、なんだけどさ」

 俺は話題を切り替える。さっき部室の前でスカートを右手に考えていた話題に。

「……あ、あれは、その、ホントに、嬉しかったですよ? でも私は、……私は、なるべく今のままでいたいんです。今のまま、何も変わらずに、ずっと楽しいままでいたいんです」

 ずっと楽しいままでいたい? だから恋人同士になれない?

「もしかして、父親か? 父親に何か、言われてるのか?」

 真編は俯いたまま答えない。

「それなら、気にしなくていい。絶対に、俺がなんとかするからっ!」

 俺は無計画のまま、無責任な台詞を無根拠に発する。でも彼女は、首を横に振る。

「……とにかく、ごめんなさいっ――!」

 そしてそう言い放ち、走って部室から出ていってしまう。

 彼女が俺の横を通り抜けた時――俺の右手からスカートをひったくって出て行った時――俺はまた彼女を止められずに、そのまま立ち尽くすことしか出来なかった。

 一体彼女は、何を隠しているんだ? 何を恐れているんだ?

 俺は頭を抱えて考える――――って、そういえば。

 左手を見てみる。……ああ、やっぱり、真編のケータイ、持ちっ放しだった。

 時計を見ればまだ五限開始まで二十分もある。……困るだろうから、渡しに行くかな。



 高一の教室がある階に来てみた……が、よく考えてみれば、俺は真編のクラスがどこか知らない。……いや、三組って言ってたかな。あれ、二組かも?

 仕方ない。まずはすぐ近くにある一年三組の教室で訊いてみよう。……と、その時丁度教室から出てくる男子生徒を俺は発見。直ちに接近し、話しかけてみる。

「あ、君、君というか三組って、次の授業は体育?」

「はい、そうですが、何か?」

 ビンゴ。一回目で当たりとは、俺もなかなかついてるじゃないか。

「じゃあさ、このケータイ、真編……じゃなかった、天津神って女子に渡してくれない?」

 紫色の携帯電話を目の前の男子生徒に見せ、俺はそう頼む。……が、彼の様子がおかしい。何で首を傾げる?

「…………天津神? そんな苗字の人、三組にはいませんけど」

「えっ?」

 天津神が……いない?

「えっと、ほら、サイドテールで、髪は肩までの長さで、背はだいたい俺の肩くらいまでで、それから……」

「そういう特徴で真編って名前の人ならいますよ? ……神田真編っていうんですけど」

「……は?」

 神田真編? 神田? 天津神じゃなくて、神田?

「ほら、あの人です、あの人。呼んできます?」

 教室の中を覗き込み、そう言って男子生徒が指差した人物は――――紛れもなく、俺の知っている、真編。

「いや、いい……このケータイを、渡しといて」

「わかりましたー」

 俺は男子生徒に紫色の携帯電話を渡して、もう一度奇術部室へと戻る。……紫色? 彼女が昨日、喫茶店の中で開いていたのは、桃色の携帯電話じゃなかったっけ?


 これはどういうことだ? 何が起きている?

 神田真編と、天津神真編。

 紫色の携帯電話と、桃色の携帯電話。

 どうして真編は、神田姓を名乗っている? どうして俺には天津神姓で名乗った? どうして彼女は、携帯電話を使い分けている?

 訳のわからぬまま、一日が過ぎた。


            ***


 悩みに悩み抜いた二日間が過ぎ、とうとうやってきた小雨の日。

 俺は奇術部室にて、いつも通りに真編が来るのを待つ。……ただし、心持ちは決して、いつも通りではない。

 天津神真編。キミはどうして、俺の前でだけ本名を名乗ったんだ?

 でもこの質問は、口に出してもいいのか?

 彼女は言っていた。何かを隠して、こう言っていた。『ずっと楽しいままでいたい』。

 俺も彼女も、そう思っているのに。その楽しい時間に終焉をもたらすであろう質問を、俺は口に出来るのか?

 ……でも、口にしなければ、本当に楽しい時間が過ぎるのか?

 もう俺は、彼女の嘘を知ってしまったんだ。このまま何も気にせず彼女と過ごすなんて、俺には出来ない。

 そして俺は、信じている。

 彼女の嘘に、何か“正しい”理由が、あると。俺が大嫌いな“くだらない嘘”じゃないと、信じている。

 だから俺は決意した。丁度その時、真編が部室へと現れた。

「ぐっどいぶにんぐ、センパイ!」

「……グッドイブニング、真編」

「どうしたんですか? そんなに悩んだ顔して」

 とてとてと、ソファーに座る俺の目の前に立ち、真編はそう言った。どうして悩んでるかって、そりゃあ、君の事で悩んでるに決まってるだろう。

 でも、俺はもう決めたんだ。

 俺たちの関係に終止符を打つかもしれない、でも、俺は打たないと信じている質問を、口にすることを。

「……神田真編って、誰?」

 その瞬間。彼女の表情が、驚きと、そして、悲しみに包まれる。……そしてそれを隠そうとして、彼女の顔が、歪む。

「神田? 誰ですかそれは?」

 真編の右目が赤く光る。

「とぼけるな真編。ケータイを届けに行った時に聞いたんだ。一年三組に、天津神真編はいない」

「…………やっぱり、センパイは知ってしまったんですね」

 はぁ、と溜め息をついてから、天津神は目を伏せて、悲しそうに答える。

「どうして、俺の目の前では天津神姓を名乗って、学校では神田姓を名乗ってるんだ?」

「……だって、嘘がつけないから」

「嘘がつけない?」

「センパイは、嘘をついたらすぐ分かるから、だから、貴方に近付くためには、本名を名乗るしかなかったんです」

 その口ぶりは、明らかに俺の能力を知っているようなものだった。……もしかして真編は、最初から俺の“能力”を知っていた?

「どうして、俺の能力を、“嘘を見抜く能力”を、知ってるんだ?」

「お父様に聞いて……いや、この際です。分かりやすく言いましょう。これは……全部、ぜんぶ、お父様の計画なんです」

「お父様って、天津神コーポレーションの、社長ってこと?」

 その社長が、どうして? どうして真編を、俺に近付けた? どうして俺の能力を知っていた? 尽きない疑問が、溢れ出る。

「はい。天津神コーポレーションの社長を務める私のお父様の目的は……センパイの“嘘を見抜く能力”。そういう能力があると文献で知ったお父様は、様々な手を使って、センパイを見つけ出したんです。そして私を、センパイに近付けさせた」

「俺の能力を、どうするつもりなんだ?」

「お父様は、“嘘を見抜けるコンタクトレンズ”を創ろうとしているんです」

 嘘を見抜けるコンタクトレンズ……? まるでファンタジーみたいなアイテムだ。俺は「そんな事、可能なの?」と一応訊いてみたが、実際ここに“超能力”が存在する以上、否定は出来ない。

「私も知らないです。……でも、とにかく、私はお父様に使命を受けた。センパイに近付き、“嘘を見抜く能力”をコピーするという使命を。ただそれだけです」

「じゃあ真編、父親に言っておいてよ。嘘を見抜く能力なんて、人を不幸にするだけだって」

 小さな真実ほど、残酷なものは無い。嘘を見抜く能力なんて、人間には必要ない。人間を、臆病にさせるだけだ。

 嘘に臆病になった俺に、真編は怒ってくれた。そうだ。彼女が俺の能力を目的に俺に近付いたんだとしても、彼女は――

「それは、出来ないです」

 言いながら、彼女はずっと後ろ手に持っていたらしい物を、取り出した。


 その瞬間。俺の思考が、止まる。

 なんだよこれ、なんなんだよ。何が起こってるんだよ。

 きっと俺の顔は、驚きの表情一色なんだろう。

 だって俺は、今。


 銃口を向けられているんだから。


「……ま、真編……?」

「私に与えられた使命は、二つ。……一つは、“嘘を見抜く能力”をコピーすること。もう一つは、もし計画がバレたら、センパイを殺すこと……です」

 真編は、悲しそうに語る。そこでようやく、目の前に銃があるという実感が湧いてくる。もしかして……俺、殺される?

「ちょっと待って、俺を殺したら、“嘘を見抜く能力”は手に入らないんじゃないのか?」

「問題ありません。センパイの眼球を直接使えばいい話なので」

 うっわ、恐ろしい。天津神家おそろしや。

「じゃあ、俺は何も知らなかったことにして、俺の力をコピーすればいいんじゃ? ……そうだ、そもそも能力のコピーなんて出来るの?」

「……相手を惚れさせて、お父様の開発した特殊なリップクリームを塗った状態でキスをすれば、コピー完了です」

 相手を、惚れさせて? じゃあ、もしかして――

「真編……ずっと、騙してたのか?」

「……そうです。騙してました。センパイの事を好きみたいに、わざと振る舞って」

 赤く光って欲しい彼女の右目は、光らなくて、だからどう考えてもこの言葉は真実で。ここで俺は初めて、騙された、と怒りを感じた。なんだったんだ。今までの時間は、なんだったんだ。俺は見事に騙されて、見事に彼女に惚れて、滑稽にも告白なんかして。全部彼女の――彼女の父親の思惑通りだったなんて。

「ねぇセンパイ。私……言いましたよね。私がいつも、雨の日に現れる理由。……あれは、全部後付けです」

 天と地は触れられないから、せめて雨だけでも。あの日、彼女は確か、そんな事を言っていた。それも全部、嘘だったってこと? ……いや、違う、“後付け”ということは、それもまた、真実ってこと?

「本当は、雲が天を隠してくれるから。雨の日なら、本当の自分を隠して“センパイを好きな天津神真編”を演じられると思えたから、です」

 ……本当に彼女は、俺を“ずっと”騙していたのか?

 彼女の言葉は、いつも嘘偽りなかった。彼女はあの日々を『楽しい』と言っていた。――ならば。

「……どうして、雨の日なんだ?」

「曇りの日はしょっちゅうあるので、希少度を上げるために、雨の日にしたんです」

「じゃあ、真編はどうして――」

 彼女は言っていた。『雨の水は天の涙』。つまり雨の日は、彼女が泣いている日だ。

「――どうして、泣いてるんだ?」

 そして今、目の前の真編は、涙を流している。

 銃を俺に向け、真実を明かし、涙を流している。

「だって、だって、しょうがないじゃないですかっ! 私はそう振る舞っている内に、いつしか本当にセンパイが好きになっちゃったんですから! そうですよ、偽りで、実は偽りじゃなかったあの日々が、私はとっても大好きでした。幸せでした。楽しかった!」

 好き。ようやく彼女が言ってくれた言葉は、嘘偽りない言葉だった。こんな状況なのに、俺はとても嬉しくて、銃口が向けられてるのに、俺の顔はとても晴れやかで。その表情は、彼女が「……でも」と逆接の接続助詞を口にするまで続いた。

「あの時、あのデートの日、“任務用の携帯電話”で私は知ってしまったんです」

 あのデートの日。……それは多分、あの時だろう。じいやからの電話が来た、あの時。彼女はそれを『凶報』と言っていた。

「……能力をコピーした後にも、結局センパイは殺される、って」

 本日何度目か分からない、どうしようもないほどの驚き。俺は結局、……死ぬって? 

 幸せでいっぱいだった胸に、再び恐怖が流れ込んでくる。銃口のリアリティが、蘇る。

「そしたらもう、どうしようもないじゃないですか! どっちに転んでも、センパイは死ぬ。どっちに転んでも、私はずっと、センパイの事が好き。私たちは、一緒になれない!」

 そう叫んで、真編は一度銃を下ろす。そして一度、大きく息を吸って、「だから――」と言った瞬間。

「――センパイ、逃げてください」

 彼女は、自らのこめかみに銃口を押し付けた。

「なっ、真編ッ! それなら――」

 それなら、一緒に逃げよう。俺はそう言おうとした。でも先に、真編が答えてしまう。

「駄目ですよ、一緒になんて、いられません。私はどこに行ったって、門限までには見つかってしまうんですから」

「でも、でもそれでも、君が死ぬ必要が、どこにある!?」

 そうだ。俺に残された運命は“死”。だから逃げなければならない。でも彼女は一緒にいられない。……だからと言って、彼女が死ぬ意味は、どこにもない。

「私の死で、お父様が正気を取り戻すかもしれない」

 そんな確率に、『かもしれない』可能性に、命を賭すというのか。そんなの、馬鹿げてる。それに――

「――そこまでして、俺は生きたくないっ!」

「でも、生きて欲しいんですっ!」

 真編は思い切り叫んで、引き金にかけた指に、力を入れる。

「やめろっ! やめてくれっ! 真編――!」

 俺の叫びは虚しく、彼女の決意を揺るがせない。

 涙にまみれた「センパイ、今までありがとう。大好きでした」という言葉が終わると同時に、彼女は、引き金を最後まで引いて――――



 何が起こったのか、分からない。

「ま……あみ……?」

 この部屋で今、何が起きている?

 奇術部室は、さっきまでの騒がしさとは裏腹に、静寂に支配されている。

 俺の理解が現実に及ぶよりも先に、部室のドアが、静かに開く。

 誰が入って来たのかと顔を向けると、そこには見覚えのある老紳士――そう、真編曰く『じいや』がそこには居て、おもむろに、ぱち、ぱち、と拍手を始めた。

 どういう事か、さっぱり分からない。


 雨はいつの間にか止んで、天は青空を見せていた。

 今の俺に分かる事は、それだけだった。


            ***


 昼休み、晴れの日。俺はいつも通りに、奇術部室のソファーで寝転がる。

 考えるのは、あの日の衝撃的な出来事。

 この部屋で、真編が拳銃を自らのこめかみに押し付け、そして、引き金を引いて、その後――


「ぼじょれーぬーぼー、センパイ!」

「おう、ボジョレー・ヌーボー。お酒は二十歳になってからだよ」

 いつも通り、真編がやって来た。

「えっ、期間限定の挨拶じゃないんですか?」

「大丈夫か天津神コーポレーション」

「大丈夫だと思いますよ。センパイの手にかかれば。……あ、はい、お弁当です」

「ありがと」

 いつも通り、彼女は手作り弁当を手渡してくれる。蓋を開ければ――いつも通り、豪華なメニュー。

「相変わらず、凄いな」

 俺の言葉に「天津神家の冷蔵庫を舐めないでください」と答える真編を横目に、やたら高級そうな箸を使い、いつも通りにおかずを口に運ぶ。

「うん、美味い」

「そういえば、“あ、美味い”じゃなくなりましたね」

「だって、いつも美味しいし」

「褒めても何も出ないですよ。私が嬉しい気分になるだけです。……あ、それより、今日こそは五限目の授業、出てくださいよ?」

「五限目の不良王子が五限の授業に出たら、世界中が混沌に陥るってば」

「それも社会勉強の内ということで。将来は天津神コーポレーションの社長を務めるんですよ?」

「経験値がとんでもなく溜まりそうな社会勉強だな」

 そう、俺はあの日、天津神コーポレーション社長の跡継ぎに決まったのだ。

 この部屋で、真編が“おもちゃの”拳銃を自らのこめかみに押し付け、そして、引き金を引いて、その後。やって来たじいやに、俺はそう告げられた。

 彼女の父親が“嘘を見抜く能力”を欲しがっていたのは事実らしい。でも、それは会社の跡取りとして、だったそうだ。

 でも、真編は許嫁とかそういうのが大嫌いで、俺を見つけ出した真編の父親がどうやって真編と俺をくっつけるか、三日三晩、悩んだらしい。

 その結果が、あの日彼女が大真面目に話していた“嘘を見抜けるコンタクトレンズ”の嘘計画。跡取りゲットの為におもちゃの拳銃を娘に渡し、俺のいる高校に転入させるとは、手の込んだ真似だ。

 つまり、最初から最後まで、俺達は真編の父親のシナリオ通りに動いていたというわけだった。

「ごちそうさま」

「美味しかったですか?」

「最高に美味しかった」

 そんな俺の感想に満足したようで、彼女は微笑み、そしてこう言った。

「……というわけで本日もやってまいりました食後のキスのお時間です」

「バラエティのコーナーみたいな軽さっ!」

「さりげなさみたいなのが大事かな、と思ったんです」

「全然さりげなくないからっ!」

「いいからセンパイ、早く目を瞑ってください。この甲斐性なし!」

 言われるがままに、俺は目を閉じる。……というか、甲斐性なしって結構胸に刺さる言葉なんだけど。特にこういう関係だと。

 ……なんて心の中で呟いてると、唇が触れ合う感触。身体が熱くなる。胸がざわめく。うあー、恥ずかしい。

 唇が離れても、まだ身体は熱くて、恥ずかしさも残ってて、少し寂しく思えるのもまた恥ずかしかった。

「終わりましたよ」

 知ってますよ。心内ツッコミをしながら目を開ける。

「あれ、お父様が開発した特殊なリップクリームは塗らなくてよかったの?」

「……んなっ、や、やめてくださいよそのネタ。恥ずかしいです……」

「俺達、すっかり騙されたもんな」

 と、二人して笑う。二人の間ではもう、あの日の出来事は恥ずかしい思い出という認識だ。

「……でも、よかったです。私達、許嫁として出会ってたら、こんな風にはなれなかったはずですから」

 真編は、少し照れくさそうに微笑む。今までの部室でのやり取りを、楽しい時間を、そして悩んだ時間を思い出しながら、俺も微笑んで、答える。

「俺も、そう思う」

 そして、真編の身体を、そっと抱きしめた。

 彼女が確かにそこにいると、俺達の過ごしてきた時間の答えを、そこに確かめるように。



 嘘を見抜く能力を持って生まれてきて、生きてきて、いい事なんて一つもなくて、ずっと嘘に苦しみ続けた。

 でも、俺は今凄く幸せで、毎日が楽しくて、だから思う。

 嘘を見抜く能力を持って生まれてきて、生きてきて、よかった。

 だって俺は、出逢えたんだから。

 最高に愛しいと、嘘偽りなく思える人に。

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